鳥居をくぐり、南へ進んで行くと左側に伊勢神宮遥拝所があります。
平成30年(2018)6月18日午前7時58分に発生した大阪北部地震で燈籠が大破しましたが、
最近ようやく修復されました。
伊勢神宮遥拝所の参道を挟んだ向かいに、
今は水が枯れて使われていない手水舎があります。
かっては、石清水が湧き出して、手水鉢を満たしていました。
手水舎の左側に敷かれた石は「細橋(ささやきばし)」と呼ばれ、
手水鉢から流れ出た清水に架けられていました。
かっては細木で造られ、四隅に榊を立て、注連縄が張られ、渡ることのできない橋でした。
細橋から東総門への石段がありますが、通行は禁止されているように見えます。
その石段を上った東総門の手前に水分社(みくまりしゃ)があり、
国水分神(くにのみくまりのかみ)が祀られています。
水源地に祀られ、山の神とも結びつき、男山に湧き出る清水を司る神とされています。
後に、「みくまり」が「みこもり(御子守)」と解され、子供の守護神、
子授け・安産の神としても信仰されるようになりました。
伊勢神宮遥拝所から南へ進んだ所に宝塔院(琴塔)跡があり、
参道の東側には礎石が残されています。
平安時代以降明治時代までこの参道上に天台密教系の仏塔・宝塔院がありました。
万寿年間(1024~28)に修造の記録が残され、
この時代には既に建っていたと推定されています。
江戸時代の設計図によれば側柱の一辺が10.92m、高さが11.9mで、
軒の四隅に風が吹けば鳴るように琴が吊るされていたことから、「琴塔」と呼ばれていました。
慶長5年(1600)に豊臣秀頼により再興されましたが、
明治3年(1870)に撤去され、参道が通されました。
参道はこの先、石段を登れば社務所の横へと続きますが、後戻りして裏参道を下ります。
下り口には「急階段が続くので足元に注意するように」と警告されていますが、
石段は整備されていますので、危険とは感じません。
但し、雨などで濡れていると滑ることがあります。
石段を下った左側に護国寺跡があります。
石清水八幡宮の創建以前の男山には、薬師如来を本尊とする石清水寺があったと伝わり、
石清水八幡宮が創建されると石清水寺はその神宮寺となりました。
貞観4年(862)には護国寺と改称され、神仏習合色が増していきました。
行教の甥、安宗(あんじゅ)が初代別当、行教の弟、益信(やくしん)が
初代検校(けんぎょう)となりこの宮寺を維持・運営しました。
護国寺はその後、火災などで被災し、何度か再建が繰り返されました。
八幡市教育委員会は平成22年(2010)に護国寺跡を発掘調査し、円形の「輪宝(りんぽう)」
(直径約19cm)と、棒状の「独鈷杵(とっこしょ)」(長さ18cm)と呼ばれる
二つの銅製法具を組み合わせた地鎮具6点が見つかったと発表しました。
独鈷杵は輪宝の中央に突き立てられ、護国寺の本堂跡に
五角形に沿った形で配置されていました。
文化13年(1816)に本堂を再建した際、八方に法具を埋める天台宗特有の
「安鎮家国法(あんちんかこくほう)」に基づき地鎮祭を行ったと推定されています。
明治の神仏分離令により護国寺は廃され、本尊の薬師如来と十二神将は、
淡路島の東山寺(とうざんじ)に現存しているそうです。
護国寺跡には仮堂だった「護国寺薬師堂跡」の石柱が建っています。
護国寺跡から参道は石清水社・松華堂跡の方へ下る「石清水下り坂」、
「裏参道」の二手に分かれます。
裏参道は江戸時代まで「太子坂」と呼ばれ、古くは鎌倉時代に上皇が参詣の帰りに
この坂を通ったとの記録が残されています。
「太子坂」の由来は、登り口付近に行願院・太子堂があったことによるもので、
聖徳太子3歳像が安置されていました。
明治の神仏分離令後、聖徳太子3歳像は滋賀県大津市の国分聖徳太子会で保管されています。
行願院には室町時代に丈六の阿弥陀如来像が安置されていたそうです。
また、坂の途中には地蔵堂がありました。
裏参道の脇には石灯籠が建ち、明和9年(1772)に宿坊・太西坊の寄進により
建立されたことが刻字されています。
石灯籠から石段を下った右側に萩坊跡があります。
萩坊の客殿には狩野山楽が描いた金張付極彩色の図で飾られていました。
狩野山楽は永禄2年(1559)に浅井長政の家臣・木村永光の子として生まれ、
浅井氏が織田信長によって滅ぼされてからは豊臣秀吉に仕えるようになりました。
秀吉の命により狩野永徳の養子となり、安土城障壁画や正親町院御所障壁画
(現南禅寺本坊大方丈障壁画)の作製に加わりました。
豊臣家の関係の諸作事に関わっていましたが、大坂城が落城すると豊臣方の残党として
嫌疑をかけられ、松花堂昭乗を頼って萩坊に身を隠しました。
その後、松花堂昭乗や九条家の尽力で恩赦を受けて助命され、狩野山雪を養子に迎え
後継者としました。
狩野山雪は神応寺に襖絵を描いています。
萩坊跡の先に栗本坊があったと思われ、整地されています。
その先不鮮明ながら通路らしきものがあり、進んだ先に瀧本坊(たきのもとぼう)跡があります。
瀧本坊は松花堂昭乗が住職を務めた坊で、親友であった小堀遠州と共に造った
茶室・閑雲軒(かんうんけん)、その北には書院がありました。
閑雲軒と書院は床面の多くが、5~6mの高い柱で支えられて崖の斜面に迫り出す
「懸(か)け造り」の建物であったことが平成22年(2010)の発掘調査で判明しました。
礎石の列は30m以上に渡って見つかり、特に閑雲軒には7mの柱で支えられ、
床面の殆どが空中に迫り出した「空中茶室」というべき構造であったことが判明しました。
瀧本坊の西側に石清水社があります。
石清水社は岩間から湧き出る清泉を神として祀ったのが始まりとされ、
その後、この付近に石清水寺が創建されたと伝わります。
現在は石清水八幡宮の摂社・石清水社で、天之御中主命
(あめのみなかぬしのみこと)が祀られています。
天之御中主命は天地開闢(かいびゃく)において神々の中で最初に現れた神であり、
造化三神の一柱とされています。
天の中央の神とされることから北極星を神格化したされる妙見菩薩と習合されるようになり、
神仏分離令後は妙見社の多くが天之御中主命を祭神としました。
平安時代の『延喜式神名帳』には天之御中主命を祀る神社の名は記載されておらず、
石清水社が何時頃天之御中主命を祀る神社となったかは不明です。
神社前の鳥居は、寛永13年(1636)に当時の京都所司代・板倉重宗の寄進により
建てられたもので、完全な形で境内に残る最古の鳥居となります。
石清水井は澄んだ水を湛えています。
厳冬にも凍らず、大旱にも涸れない霊泉として、男山五水の中でも特に尊ばれれています。
往古より皇室および将軍家の祈祷にあたっては、この霊水を山上の本宮に
「御香水」として献供されていました。
現在でも祭典の際には、当日早朝に汲み上げられた「石清水」が御神前に献供されています。
石清水社から参道を少し下った右側、短い石橋を渡り、
石段を上った所に泉坊跡があります。
泉坊には松花堂昭乗が晩年に建てた庵「松花堂」がありました。
松花堂昭乗は天正10年(1582)に和泉国堺に生まれ、文禄2年(1593)頃に
近衛信尹(このえ のぶただ)に仕えました。
近衛信尹は本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)・松花堂昭乗とともに
「寛永の三筆」と呼ばれました。
昭乗は慶長3年(1598)石清水八幡宮寺で出家し、瀧本坊実乗に師事して密教を学び
その後、僧として最高位である阿闍梨となりました。
寛永4年(1627)3月23日に実乗が亡くなったため、瀧本坊の住職となり、
翌寛永5年に小堀遠州と共に茶室・閑雲軒を造りました。
寛永14年(1637)11月、瀧本坊の焼失を期に瀧本坊を弟子に譲り、
同年12月に泉坊の一隅に方丈を建て、「松花堂」と名付けました。
しかし、その2年後、寛永16年(1639)に57年の生涯を閉じました。
神仏分離令後、草庵・松花堂と書院は、京都府八幡市八幡女郎花43番地の1
にある松花堂庭園に移築されました。
昭和32年(1957)にこの地と松花堂庭園が国の史跡に指定され、昭和57年(1982)から
翌年にかけて整備のため、この地で発掘調査が行われました。
奥にある茶室・松花堂跡へは玉石が敷かれた参道があります。
茶室跡には当時の間取りがコンクリートで再現されています。
松花堂跡の手前に庭(露地)の遺構があります。
現在残されているのは、昭乗亡き後、江戸時代後期に造り直されたものだそうです。
泉坊跡には図に描かれている井戸は見つからず、
「石清水下り坂」に近い所に石柱が建っていました。
下山して泰勝寺(たいしょうじ)へ向かいます。
下山して泰勝寺(たいしょうじ)へ向かいます。
表参道から相槌神社の方へ下り、神社前を少し東へ進んだ右側に泰勝寺があります。
普段は非公開で拝観には予約が必要です。(電話番号:075-981-0056)
予約していなかったので、外からの画像しかありません。
泰勝寺は松花堂昭乗の菩提寺で、門前には「松花堂旧跡」の石碑が建っています。
「泰勝寺」の寺号は、熊本の細川家菩提寺「泰勝寺」から譲り受けたもので、
明治の廃仏毀釈によって、荒廃した昭乗の墓を保存するため、
大正7年(1918)に寺が建立されました。
茶席「閑雲軒」が復元され、日本百席の一つに選ばれています。
熊本の泰勝寺は、神仏分離令後に廃寺となり、別邸に改められました。
昭和30年(1955)から、熊本市が細川家より庭園部分を借り受け、立田自然公園として
一般開放され、細川家立田別邸は国の史跡に指定されています。
次回は竹生島の宝厳寺から近江八幡を巡ります。
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