地蔵院-山門
平等院前の府道3号線(大津南郷宇治線)を宇治川の上流へと向かい、
最初の点滅信号を白川沿いに南西方向に進んだ所に地蔵院があります。
車道に面して駐車場がありますが、駐車場からコの字形に
坂を登って進んだ所に地蔵院があります。
地蔵院は山号を朝日山と号する浄土宗の寺院で、
戦国時代の弘治年間(1555~1558)の創建とされています。
地蔵院-本堂
山門をくぐると正面に本堂があります。
本尊は阿弥陀如来で、他に明治初年に廃絶した白川金色院から遷され、
いずれも需要文化財に指定されている仏像が安置されていました。
その内平安時代後期作で像高82cmの木造阿弥陀如来立像、
その脇侍と推定されている像高79cmの木造観世音菩薩坐像及び銅造阿弥陀如来と
左脇侍像(向かって左側の右脇侍像は失われました)は現在、
奈良国立博物館に寄託されています。
また、奈良時代作で像高38cmの銅造阿閦(あしゅく)如来立像、
平安時代前期作で像高28cmの銅造釈迦如来坐像及び平安時代後期作で
像高17cmの銅造大威徳明王像の三躯は平成3年(1991)5月10日に盗難に遭いました。
無事に戻ってくるように願っています。
地蔵院-大般若経
大般若経563巻は、平安時代末期写経352巻、鎌倉時代版本149巻、
室町~江戸時代の補写本93巻からなり、金色院の鎮守・白山大権現に奉納されていました。
地蔵院-宝庫
山門の左側には宝庫があります。
宝庫前の右側の石灯籠には「弘法大師」と刻まれています。
地蔵院-鐘楼
宝庫の奥に鐘楼があります。
地蔵院-鐘楼-梵鐘
鐘楼には「金色院 建武二年(1336)」の銘があり、南北朝時代に鋳造されました。
龍頭の一部が欠損していますが、高さ144cm、口径79.4cmあり、
京都府の文化財に指定されています。
美術館
地蔵院を出て坂を下ると水原房次郎 蔵美術館があります。
宇治を拠点に活動した画家・水原房次郎氏の作品が、民家の蔵を改装して
私設美術館として展示されています。
但し、開館は春4月25日~5月8日、秋10月25日~11月9日の
午前11時~午後5時までの短期間です。
金色院-惣門-工事中
金色院-惣門-工事前
車道に戻り先へ進むと左側に、室町時代後期の建立された金色院の惣門がありますが、
工事中だったので平成27年(2015)の画像を併せて使用します。
かって惣門の左側(北側)には蔵之坊がありました。
石灯籠
石燈籠の正面に「白川宮」、横には「福泉坊」と刻まれています。
園池跡
石碑
惣門をくぐって進んだ先の丁字路の角に「金色院跡」の石柱が建っています。
石柱の北側は「福泉坊」跡で、石柱の南東側の窪地は園池跡と推定されています。
金色院-風景
白川金色院は平等院から南南東約1.5km、山一つ隔てた所に位置し、
藤原頼通(ふじわら の よりみち)の山荘が営まれていたとも伝わり、
「白川別所」と呼ばれていました。
江戸時代の地誌には「山水幽すいの地にて、誠に小桃源と謂うべし」と評されています。

白川金色院は藤原頼通の娘で第70代・後冷泉天皇の皇后であった
藤原寛子(かんし=別名:四条宮)が平等院の奥の院として
康和4年(1102)に建立した幻の御堂です。
最近の発掘調査によって付近から平安後期とみられる建物跡や
金箔片などが出土しその存在が明らかになっています。
調査によれば、寺域は南北400m、東西200mの広大なものであったと推定されています。
文珠菩薩を安置した本堂は金箔が散りばめられ、約二十年後に建てられた
平泉の金色堂はこの金色院を模したとも言われています。
鎌倉時代には「金色院十六坊」と呼ばれるほど多くの塔頭を有しましたが、
室町時代の寛正元年(1460)に盗火により焼失しました。
寛正4年(1463)に再興の勧進が始まり、地蔵院に「金色院御堂再興勧進状」が残されています。
応仁元年(1467)に本堂の文殊堂が再興されましたが江戸時代には衰微し、
塔頭も減少して幕末には蔵ノ坊、中ノ坊、福泉坊を残すのみとなりました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で本堂と塔頭も廃絶され、耕作地と宅地に化しました。
集会所
公園
丁字路を右に折れて進んだ先に白山神社がありますが、
その手前の左側に白川区集会所と公園があります。
集会所は昭和55年(1980)に建設されましたが、着工前の発掘調査で
白川金色院の創建時と推定される庭園跡が発見されました。
池が彫られ、池の北東側に鐘楼跡、庭園の北側に本堂の文殊堂があったと推定されています。
創建時の文殊堂は、鶴林寺の国宝・太子堂とほぼ同時期に建立され、
ほぼ同規模と推定されています。
白山神社-鳥居
久安2年(1146)、藤原寛子は金色院の鎮守社として白山大神を勧請して
白山神社を創建したと伝わります。
また、延暦9年(790)に疱瘡(ほうそう=天然痘)が流行した際に、
その治癒を願って創建され、その後金色院の鎮守社になったとの説もあります。
白山神社-道祖神
白川に架かる白川橋を渡った左側には道祖神が祀られています。
白山神社-石段
石段脇の狛犬には大正5年(1916)3月に造られ、奉納されたことが刻まれています。
白山神社-拝殿-1
石段を登った正面に拝殿があります。
記録では久安2年(1146)の創建で、建治3年(1277)に補修とありますが、
再建されたと推定されています。
桁行三間、梁間三間、一重、寄棟造、茅葺の建物で
国の重要文化財に指定されています。
しかし、屋根に育つ木の高さが葺き替えが行われていない長さを示しています。
白山神社-拝殿-2
拝殿内部は非公開ですが、床は拭板敷(ぬぐいいたじき)、
柱間は吹寄桟の腰高障子、天井は折上小組格天井となっています。
拝殿内には木造の伊邪那美尊(いざなみのみこと)坐像と木造十一面観音立像が安置され、
いずれも国の重要文化財に指定されています。
白山神社-本殿-1
白山神社-本殿-2
本殿は一間社流れ造りの檜皮葺で伊邪那美尊を主祭神としています。
白山信仰は、白山の遥拝所に菊理媛尊(くくりひめのみこと=白山比咩大神)、
伊邪那岐尊、伊邪那美尊の三柱を祀ったのが始まりとされています。
その後、修験者・泰澄(たいちょう)が白山の主峰、御前峰(ごぜんがみね)に
登って瞑想していた時に、緑碧池(翠ヶ池)から十一面観音の垂迹である
九頭龍王が出現して、自らを伊弉冊尊の化身で白山明神・妙理大菩薩(みょうりだいぼさつ)と
名乗って顕現(けんげん)したのが白山修験場開創の由来と伝わります。
白山神社-砲弾
本殿前には砲弾が奉納されています。
白山神社-末社
本殿の左側に手前から阿多古神社、春日大社石清水八幡宮
北野天満宮の社殿が並んでいます。
阿多古神社は愛宕神社(あたごじんじゃ)の旧称です。
白山神社-九重石塔-参道
境内社の裏側に下って行く山道があります。
白山神社-九重石塔-倒木
台風で巨木が倒れています。
白山神社-九重石塔-モミの木
宇治市名木百選に選定されている樹齢約250年のモミの木は、無事に聳えています。
樹高約37m、幹回り約2.5mあります。
白山神社-九重石塔-橋
更に下って橋を渡ると登り坂になります。
九重石塔
短い坂道を登った所に中央に九重石塔、その背後には鎌倉時代から室町時代のものと
推定される多くの五輪塔が祀られています。
左側に紅葉と右側にはサザンカが白い花を咲かせています。
明治時代に廃絶してしまった金色院と塔頭に残されていたものがこの場所に遷されました。
九重石塔-2
九重石塔は寛子の供養塔と伝えられ、鎌倉時代か南北朝の作と考えられています。
藤原寛子は、平等院を開基した関白・藤原頼通(ふじわら の よりみち)の長女で、
永承5年12月22日(1050年2月5日)に第70代・後冷泉天皇に入内し、
その後皇后となりましたが子に恵まれず中宮となったその翌々日、
治暦4年4月19日(1068年5月22日)に天皇が崩御されました。
同年12月に出家し、宇治に移って法定院に住したとされていますが、
法定院の詳細は不明です。
翌延久元年7月3日(1069年7月23日)に皇太后、延久6年6月20日
(1074年7月16日)太皇太后(たいこうたいごう)となりました。
大治2年(1127)にで92歳で亡くなりましたが、皇后としては昭和天皇の
香淳皇后(こうじゅんこうごう)の97歳に次ぐ長寿でした。

ここから下ると「金色院跡」の石柱が建つ丁字路へと続きます。
天ケ瀬ダムへ向かいます。
続く

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