天王山断層露頭
山崎蒸溜所前の通りを南へ進み、丁字路を右折して柳谷島本線を北上して
名神高速道路の上りと下りの車線の間を登って行くと
天王山断層露頭」の案内板が立っています。
「断層露頭」とは、断層が地表に表れた所のことで、昭和30年代(1955~1964)に
建設された名神高速道路の工事で表れたと解説されています。
現地には、当時の写真は残されていますが、下を走る高速道路の安全上、
断層面を可視化できる保存はされていないようです。
水無瀬の滝-道標
案内板から少し下った所に水無瀬の滝への登り口があります。
標識が立ち、滝まで70mの距離と記されています。
高速道路の下をくぐると滝への登り口となります。
滝近くの祠
石段を登ると小さな祠が祀られていますが、詳細は不明です。
水無瀬の滝
水無瀬の滝は、天王山断層によって落ち込んでできた高さ約20mの滝で、
古くから枯れることが無いと伝わります。
歌にも詠まれ、水無瀬川とともに歌枕となり、藤原家隆は下記のように詠んでいます。
「水無瀬山 せきいれし滝の 秋の月 おもひ出ずるも 涙なりけり」

藤原家隆は鎌倉時代初期の歌人で、同時代の藤原定家と並び称されました。
『新古今和歌集』の撰者の一人で、後鳥羽上皇の和歌の師であったとされています。
晩年は出家して四天王寺に入り、その西側の地に
「夕陽庵(せきようあん)」を営みました。
現在、その地に残る地名「夕陽丘」は夕陽庵に因むものです。

また、藤原定家の日記『明月記』によれば、後鳥羽上皇は
建仁2年(1202)7月18日に水無瀬の滝へ行幸されたことが記されています。
瀧脇のご神体
滝の左側には八大龍王、白姫龍王、玉龍大神などが祀られています。
龍神は雨を司る神とされ、降雨の祈願が行われましたが、
下流の村人からは氾濫を恐れて祀られたのかもしれません。
春日神社-1
標識から約100mほど坂を登った所に春日神社があります。
元々この地は、東大寺の寺領で、今も東大寺の地名が残されています。
旧東大寺村の五穀を守護する産土神として創祀されたと伝わりますが、
勧請された後、神官が不在となり、社殿が荒廃して移転を繰り返してきました。
春日神社-2
昭和38年(1963)に水無瀬の滝の近くに遷座されましたが、平成4年(1992)に
名神高速道路の拡張工事に抵触し再度の移転となって、
高速道横の現在地に遷されました。
瀧谷庵
瀧谷庵
新しく春日造りの社殿を造営、寄進による春日灯篭、鳥居、手水舎、
「瀧谷庵」と名付けられた休憩所が新設されました。
水無瀬荘跡碑
柳谷島本線を北上した先で水無瀬川に架かる橋を渡り、南へ戻った所に東大寺公園が

あり、公園の向かいの車道側に「東大寺水無瀬荘跡」の石碑が建っています。
天平勝宝8年(756)、「東大寺」の地名が残るこの地は聖武天皇の勅命により、
東大寺領の荘園となりました。
東大寺は天平17年(745)に起工され、伽藍が一通り完成するまでには40年近い歳月を

要していますので、東大寺創建途上にこの地は東大寺領となり、
室町時代の末期頃まで続きました。
水無瀬宮跡碑
「東大寺水無瀬荘跡碑」から東にJRの線路まで進み、線路沿い南へ進んで
踏切がある交差点を右折した先のガレージ内に
「後鳥羽上皇水無瀬宮跡」の石碑が建っています。
水無瀬殿は現在の水無瀬神宮辺りに造営されましたが、建保4年(1216)の
洪水で流失したため、その翌年に現在地で新たに造営されました。
神宮-鳥居
石碑から東へJRの踏切を渡り、突き当りの府道67号線を右折した先に水無瀬神宮の

社号標が建っていますので、左折した先に水無瀬神宮があります。
水無瀬駒の碑
鳥居をくぐった左側に「島本町指定文化財1号 水無瀬駒発祥の地」の碑が
建っています。
安土・桃山時代の水無瀬家13代目の神官・兼成は能筆で知られ、
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の命を受け、将棋駒に文字を書きました。
製作された駒は、第107代・後陽成天皇の他、室町幕府第15代将軍・足利義昭や
豊臣秀次、徳川家康などの大名及び公家に譲渡されました。
現在の駒の形として作者と製作年が特定できる最古の将棋駒であり、
高級な駒の形は現在もこれに倣っています。
神門
参道を進むと神門があります。
神門は、桃山時代に作られた薬医門造で、大阪府の文化財に指定されています。
また、神門と築地塀は国の登録文化財です。

神門前には「洗心流華元」の石碑が建っています。
菊花を好み御霊に捧げられた供花の流れから華道・洗心流が興され、
毎年献花展が催されています。
五右衛門の手形
神門には石川五右衛門の手形が残されています。
五右衛門が祀られた名刀を盗みに入ろうとして様子を窺っていましが、
神威により門内へも入れず、やむなく立ち去った時に残した手形とされています。
金網で囲われ、手形と判別するのは困難なように思われます。
拝殿
拝殿
かって、この地には西殿があり、仏式の行事が行われていました。
現在の建物は江戸時代前期の1615~1661年頃に建立され、御影堂への廊下があり、
左側は渡廊下で客殿に通じていました。
明治8年(1875)に拝殿に改造され、昭和4年(1929)に国費で改築されました。
桁行四間の入母屋造で、正面に三間の向拝、北側に庇(ひさし)状の張出と神饌所、

背面に二間の幣殿が設けられています。
平成28年(2016)に国の登録有形文化財に指定されています。

拝殿から本殿の撮影は禁止されています。
本殿は京都御所の旧内侍所の旧材を用いて
江戸時代の寛永年間(1624~1645)に移築されました。

水無瀬神宮は、第82代・後鳥羽天皇がこの地に造営した離宮である
「水無瀬殿」が始まりです。
鎌倉時代、この地には公卿・源通親(みなもと の みちちか:1149~1202)の
別業(=別荘)がありましたが、後鳥羽上皇に譲渡されました。
後鳥羽天皇は、建久9年(1198)に土御門天皇に譲位して、上皇として院政を敷き、
翌建久10年(1199)頃、別業を改めて水無瀬殿を造営したとされています。
上皇は、承久3年(1221)に承久の乱を起こしましたが敗北し、
隠岐に流されそこで崩御されました。

仁治元年(1240)、上皇の遺勅に基づき、藤原信成(のぶなり)・親成(ちかなり)
親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、上皇を祀りました。
親子はその後も上皇の菩提を弔い、信成は水無瀬家の家祖となって
水無瀬家は明治維新まで続きました。

明応3年(1494)、第103代・後土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊を迎えて
「水無瀨宮」の神号を奉じ、離宮内に御影堂が建立されました。
文禄5年(1596)に発生した慶長伏見地震で御影堂は倒壊し、
慶長5年(1600)に再建されましたが、寛永8年(1631)に焼失しました。
明治時代になって、それまで仏式で祀られたいたものを神式に改め、
「水無瀬御影堂」から「水無瀨宮」と改称し、土御門天皇・順徳天皇の神霊を
配流地から迎えて合祀されました。
社僧は還俗(げんぞく)し、僧坊は廃されました。

明治6年(1873)に官幣中社に、昭和14年(1939)に官幣大社に列格し、
「水無瀬神宮」と改称されました。
水無瀬神宮は神仏霊場の第62番札所です。
客殿
拝殿前の左に客殿があります。
客殿は桃山末期に豊臣秀吉が家臣の福島正則に命じて造営して
寄進したと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
茶室
拝殿北側の庇と客殿の間に見えるのが茶室・燈心亭でしょうか?
拝観には5名以上の予約が必要です。
第108代・後水尾天皇より下賜されたと伝えられる江戸初期の数奇屋風書院で、
国の重要文化財に指定されています。
都忘れの菊
客殿前の小さな花壇には菊が植栽されています。
承久の変で佐渡に配流された第84代・順徳天皇は、菊花を好まれた父・後鳥羽上皇を

偲び、佐渡の行在所に咲く野菊を「都忘れの菊」命名され、
下記のように詠まれました。
「いかにして 契おきけん 白菊を 都忘れと 名づくるもうし」
この菊は佐渡から移植されました。
神宮-手水舎
手水舎は、大正期(1912~1926)のもので国の登録文化財です。
「離宮の水」は、大阪で唯一環境庁に「名水百選」に選定されています。
手水舎の奥には蛇口があり、現在は井戸から汲み上げられて
献茶式で用いられています。
毎日、多くの方々が汲みに来られています。
神庫
神庫は大正期(1912~1926)に建てられた土蔵造り、
二階建で国の登録有形文化財です。
神庫は境内の南西隅に、北面して建っています。
神宮-稲荷神社
神庫から東側に境内社が並んでいます。
稲荷神社
神宮-星阪神社
星阪神社
神宮-柿本神社
柿本神社
神宮-春日神社
春日神社

桜井駅跡へ向かいます。
続く

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