山門
華厳寺から東へ進み、突き当りを左折した先に西光寺があります。
西光寺は山号を帰峰山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
京都洛西観音霊場の番外札所です。

本尊は阿弥陀如来で、札所本尊は如意輪観音ですがここには安置されていません。
華厳寺から来る途中で横に見た谷ヶ堂最福寺延朗堂に安置され、
西光寺によって管理されています。
御朱印はこちらで受けられますが、「延朗上人」と記されます。
釈迦誕生仏
西光寺の境内には釈迦誕生仏と涅槃像が祀られています。
涅槃像
涅槃像を囲む立石は十六羅漢が表されているようです。
延朗堂
谷ヶ堂最福寺延朗堂まで戻ります。
奈良時代末期、この地には松尾山寺がありましたが、平治元年(1159)に起こった
平治の乱により焼失したと伝わります。

安元2年(1176)、河内源氏の流れをくむ源義信(みなもと の よしのぶ)の
長男・延朗は松尾山寺の跡地に最福寺を創建しました。
延朗上人は延暦寺や園城寺で天台宗を学び、顕教・密教両面の
内典・外典に通じた博学であったと伝わります。
最福寺は西芳寺川の谷口に創建されたことから「谷ヶ堂」とも呼ばれ、
七堂伽藍が建立されました。
子院は49を数え、華厳寺(鈴虫寺)も最福寺の跡地に建てられものです。
更に文治年間(1185~1190)には源義経が、平重衡の所領だった丹波国篠村庄
(現在の亀岡市篠町)を賜り、更なる寺の交流を願い延朗上人に寄進しました。
承元2年(1208)、延朗上人が79歳で入寂されましたが、伽藍の整備は続けられました。

承久年間(1219~1222)、延朗上人の弟子・証月房慶政は最福寺から
南西方向に法華山寺を開きました。
関白・九条道家が寺領を寄進して大伽藍が建立され「峰ヶ堂」とも呼ばれました。
戦乱の石碑
「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」の石碑が建っています。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は密かに鎌倉幕府討伐を画策していましたが、
計画が幕府側に漏れ、三種の神器を携えて御所を脱出し、
笠置山で挙兵しました。(元弘の乱)
元弘3年/正慶2年(1333)、峰ヶ堂一帯に布陣した後醍醐天皇の
近臣・千種忠顕(ちくさ ただあき)を攻撃した六波羅探題軍の兵火により、
法華山寺と共に最福寺も焼失しました。
最福寺と法華山寺は再建されましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)では
東軍が最福寺に布陣し、文明元年(1469)に西軍の攻撃を受け、
最福寺、西芳寺、地蔵院、法華山寺など一帯は悉く灰燼に帰しました。
更に法華山寺は、大永7年(1527)に起こった桂川原の戦いで焼失し、
寺跡には峰ヶ城が築かれて寺は再建されませんでした。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで、天台宗だった
最福寺も焼き討ちされ、最福寺のその後の再建は成りませんでした。
宝篋印塔
この宝篋印塔は最福寺跡から出土したものですが、造られた年代は不詳です。
側面に「此の下に経典を石に書いて埋めた」と刻まれていましたが、経典は発見されず、
「最福寺旧蹟地」の碑前の「笠地蔵」と呼ばれる石仏が発掘されました。
延朗堂-堂内
延朗堂には札所本尊の如意輪観音像、延朗上人像などが安置されています。
かっては最福寺に安置されていました。
延朗堂-尊鏡像
また松尾山寺の尊鏡大法師の像も安置されています。
座禅石
座禅石は松尾明神が坐したと伝わります。
さしのべ観音
「さしのべ観音」と宝篋印塔は平成17年(2005)9月に
延朗上人800年大遠忌を祈念して造立されました。
仏足石
仏足石
六体地蔵
六体地蔵-説明
六体地蔵
地蔵堂
地蔵堂
庭園
庭園

松尾大社の境外摂社・月読神社へ向かいます。
続く

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