勅使門
五大堂から下ると大沢池エリアへの入口があります。
ここから再び土足となりますので、式台玄関の方から入った場合は靴を取りに戻るか、
門を出て駐車場前の車道を東へ進み、もう一つの
大沢池エリアへの入口から入り直す必要があります。

車道を進むと木々の間に勅使門を見ることができます。
津崎村岡局碑
大沢池エリアへ入ると右側に女性勤皇派・津崎村岡局碑が建っています。
津崎矩子(つざき のりこ:1786~1873)の父は大覚寺門跡の家臣・津崎左京で、
寛政10年(1798)から尊王攘夷派の公家・近衛忠熈(このえただひろ)に仕え、
「村岡局」と名乗りました。
僧・月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、
志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、
近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍しました。
安政5年(1858)の安政の大獄で捕えられ、江戸へ護送されましたが、
文久3年(1863)にも幕府に捕えられました。
維新後は直指庵を再興して余生を送りました。
望雲亭
碑の北側に茶室・望雲亭があります。
明治期(1868~1912)に裏千家により建てられましたが焼失し、昭和50年(1975)の
「寺号勅許1100年」記念事業として裏千家の設計により再建されました。
「望雲亭」の名は、嵯峨天皇と空海が秋に大沢池で舟を浮かべ、茶を汲み
時間を忘れて語らわれ、夕方になって別れを惜しんで
天皇が空海に贈った漢詩に由来しています。
「道俗(どうぞく=仏道に入っている人と俗世間の人)相分(あいわかれ)数年を経たり
今秋 晤語(ごご= 向きあってうちとけて話すこと)するも亦(また)良縁なり
香茶(こうちゃ)酌(く)み 罷(やす)みて日云(ここ)に暮れる
稽首(けいしゅ=頭を地に着くまで下げてする礼)して離(わか)れを傷(いた)み
雲烟(うんえん=煙のように薄くたなびく雲)を望む」
大沢池
大沢池は周囲約1kmの日本最古の人工の林泉(林や泉水などのある庭園)で、
国の名勝に指定されています。
弘仁5年(814)頃、嵯峨天皇は離宮「嵯峨院」の造営にあたり、唐(中国)の
洞庭湖(どうていこ)を模して人工的に造られ、「庭湖(ていこ)」とも呼ばれています。
猿沢池石山寺と共に「三大名月鑑賞地」に数えられ、
現在でも中秋の名月には「観月の夕べ」が催されています。
池舞台
池舞台
五社明神-拝殿
北へ進むと鳥居が建ち、その奥に五社明神の拝殿があります。
当日は鳥居付近で工事をされていたので、鳥居の撮影は行いませんでした。
五社明神
五社明神は離宮・嵯峨院の鎮守で、空海が勧請したと伝わり、
伊勢両宮の他八幡宮、春日宮、住吉宮が祀られています。
愛宕・清滝大権現
五社明神の手前、左側には愛宕大権現・清滝大権現が祀られています。
稲荷社
右側には正一位・稲荷大明神が祀られています。
気比・多賀大明神
稲荷社の北側には気比大明神・多賀大明神が祀られています。
閼伽堂
北側に進むと閼伽堂があります。
大同5年(810)、離宮・嵯峨院の時代に第52代・嵯峨天皇の命により、
空海は持仏堂「五覚院」を建立し、五大明王を刻んで安置しました。
その閼伽井として空海が自ら掘られた井戸とされています。
大日堂
大日堂は明治4年(1871)に廃寺となった洛東の岩倉山・真性寺から移築されました。
真性寺は大覚寺門跡が明治初頭まで兼帯していた、安井門跡蓮華光院により
管理されていた寺院で、大日堂の内陣は六角堂となり、
江戸時代の石造り大日如来座像が安置されています。
聖天堂
大日堂の右側にある聖天堂には、歓喜天像と十一面観世音菩薩像が
安置されています。
かっては茶室・望雲亭の西側にありましたが、
昭和37年(1962)頃に現在地に移築されました。
蓮華殿
聖天堂の右側にある蓮華殿にはトイレがあります。
心経宝塔
心経宝塔(しんぎょうほうとう)は、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して
昭和42年(1967)に建立されました。
基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔が安置され、
宝塔内部には秘鍵大師(弘法大師)の尊像を祀られています。
秘鍵(ひけん)とは「秘密の奥義」を意味し、秘鍵大師は
空海が般若心経の功徳について、嵯峨天皇に教えを説いたことに由来しています。
頌徳
心経宝塔の前には「頌徳(しょうとく)」と「五蘊(ごうん)と刻まれた
石碑が建っています。
頌徳とは徳を讃えることです。
五蘊
五蘊とは、人間の肉体と精神を色・受・想・行・識の
5つの集まり(=蘊)に分けて示したものです。
色蘊とは、いろ、形あるもので、認識の対象となる物質的存在の総称です。
一定の空間を占めて他の存在と相容れず、絶えず変化し、やがて消滅します。
受蘊(じゅうん)とは感受作用で、楽・苦・不苦不楽などの基本的な感覚を指します。
想蘊とは表象作用で、事物の形象を心の中に思い浮かべることです。
行蘊とは意識を生じる意志作用で、心がある方向に働くことを意味します。
識蘊とは認識作用で、受蘊によって識別された対象を
言語をともなって区別し、認識することです。
石仏群
池の方へ向かうと20基を超える石仏群が祀られています。
石仏群-地蔵菩薩他
地蔵菩薩立像は、鎌倉時代中期の作とされています。
石仏群-薬師如来他
薬師如来(右)と釈迦如来(左)
石仏群-大日如来他
右から大日如来、阿弥陀如来2躯、観音菩薩などで、
古いものは平安時代後期の作とされています。
護摩堂
護摩堂ですが「仏母心院跡」の扁額が掲げられています。
徳治2年(1307)に第91代・後宇多天皇がに出家し法皇となり、
法名を「金剛性」と号し大覚寺に住して第23代門跡となりました。
法皇は、大沢池の北側に中心伽藍と御所を造営し、その周辺に仏母心院、
不壊化身院、教王常住院、五覚院、蓮華峰寺、西来院、済治院、遍照寺、
観空寺などの子院を建てたと伝わり、
池の西側を中心とする現在の伽藍とは大きく異なっています。
しかし、これらの伽藍は建武3年/延元元年(1336)の兵火により殆どが焼失しました。
放生池
護摩堂から大沢池は通路で仕切られ、右側は「放生池」と呼ばれています。
天神島への橋
石仏群の先に天神島へと渡る橋が架かっています。
天神島-嵯峨碑
橋を渡ると左側に嵯峨碑と茶筅塚が建っています。
天神社
天神社は、菅原道真(845~903)が大覚寺開創のための奏上を
草案したことにより祀られたとされています。
天神島-御神木
天神島の御神木であるツブラジイは「区民誇りの木」でもあります。
生け花発祥の地
島の奥には「いけばな発祥の地」の碑が建っています。
嵯峨天皇の詠歌碑
その横には嵯峨天皇の詠歌碑があります。
久しぶりに空海と歓談した天皇が、高野山へ帰って行く空海をいつまでも
見送っている情景が詠まれています。
庭湖石
池にはいくつかの亀島(?)があり、その奥の三角錐に見える岩は
「庭湖石」と呼ばれています。
大沢池は中国の洞庭湖(どうていこ)を模して造られ、「庭湖」とも呼ばれました。
庭湖石は蓬莱島へと渡るための舟の姿を表した夜泊石で、
夜泊石は12個あったと伝わります。
梅林
天神島の対岸、北側に梅林があります。
竹林
梅林の奥には竹林があります。
名古曽の滝跡
池の北側に名勝「名古曽の滝跡」があります。
市内に現存する最古の遺構とされ、平安時代初期には
滝から遣水が大きく蛇行して池へと注いでいました。
しかし、藤原公任(ふじわら の きんとう:966~1041)が歌に詠んだ頃には
滝は涸れ、遣水の半ばは埋もれてしまっていました。
公任は「滝の音は たえて久しくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」と詠み、
それが「名古曽の滝」の名の由来となりました。
中世の名古曽の滝
鎌倉時代に後宇多上皇が大覚寺を復興された際は、
池の北側に中心伽藍と御所が造営されました。
「名古曽の滝」は築地塀で囲われた中御所内に復興されました。
名古曽の滝跡-遣水
現在の「名古曽の滝跡」は発掘調査の結果から、上流は中世の遣水の姿、
下流は平安時代の遣水の姿が復元されています。
菊ヶ島
遣水が大沢池へと注ぐ付近に菊ヶ島があります。
この島に咲く菊を嵯峨天皇が手折りして花瓶に挿されたことが、
嵯峨御流の始まりであり、いけばな発祥の地とされています。
二島一石の景色
また、菊ヶ島と天神島、その間の庭湖石を加えた二島一石の景色は
「景色いけ」と称され、華道・嵯峨御流の基本形にも通じるとされています。
大沢池の東北岸
東北岸からの大沢池
五大堂を望む
五大堂を望む

広沢池へ向かいます。
続く

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