妙心寺は日本最大の禅寺で、東西約500m、南北約620mの広大な境内地を有し、
山内に40余りの塔頭が建ち並んでいます。
殆どの塔頭は非公開ですが、退蔵院・大心院・桂春院のみが通年公開されています。
南総門をくぐった右側に塔頭の龍泉庵があります。
妙心寺は応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、文明9年(1477)に
雪江宗深(せっこうそうしん)禅師が、後土御門院から
妙心寺再興の論旨を得、細川勝元・政元親子の援助を受けて再興しました。
雪江宗深は住持の期間を3年と定め、師亡き後は景川宗隆(けいせんそうりゅう)・
悟渓宗頓(ごけいそうとん)・特芳禅傑(とくほうぜんけつ)・東陽英朝
(とうようえいちょう)の4人の法嗣(はっす=師から仏法の奥義を受け継いだ者)が
交代で妙心寺の住持を務めて再興に尽力しました。
その四人は妙心寺四派の龍泉派(宗隆)、東海派(宗頓)、霊雲派(禅傑)及び
聖澤派(英朝)の祖となりました。
龍泉庵は文明13年(1481)に、妙心寺10世住持・景川宗隆(1425~1500)により
創建された龍泉派の本庵です。
平成11年(1999)の開祖500年遠忌の際に、
障壁画が由里本出(ゆりもと いずる)画伯により完成しました。
寛永年間(1624~1644)に嶺南崇六(れいなん すうろく1583~1643)により中興され、
現在の本堂・庫裏・書院・鐘楼・表門は京都市の有形文化財に指定されています。
嘉永元年(1848)に山内塔頭寺院で最大規模の方丈が建立されました。
明治元年(1868)には塔頭の盛岳院・春浦院・成徳院・普明院が合併されましたが、
明治14年(1881)に春浦院は復しています。
龍泉庵から仏殿前を西側へ進んだ所に退蔵院があります。
応永11年(1404)に、妙心寺三祖・無因宗因(むいんそういん)が、波多野重通
(はたのしげみち)の援助を受け、同家の屋敷があった千本通松原に創建しました。
その後、日峰宗舜が退蔵院を山内に移しましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失しました。
慶長2年(1597)、第105代・後奈良天皇の帰依を受けた亀年禅愉
(きねんぜんゆ)により、現在地で復興されました。
表門は江戸時代中期に建立された薬医門です。
参道では招き猫が迎えてくれます。
参道の正面に庫裏があり、その手前に拝観受付があります。
庫裏には網代笠が掛けられています。
御朱印の授与も行われていますので、拝観料600円と合わせて納め、
順路を進みます。
拝観入口の方へ曲がると観音菩薩像が祀られています。
順路は突き当たり、北側に曲がると塀越しに大玄関の屋根が見えます。
画像はありませんが、唐破風造りの破風の曲線が直線になった「袴腰造」と
呼ばれる珍しいもので、国の重要文化財に指定されています。
江戸初期の富豪・比喜多宗味居士(ひきたそうみこじ)より寄進されたもので、
法要儀式その他高貴な方々の出入り以外は使用されませんでした。
方丈(本堂)は慶長2年(1597)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
禅と剣の道には精神的な共通点があり、江戸期には宮本武蔵も
ここに居して修行に励んだと伝わります。
方丈内は通常非公開ですが、狩野了慶により襖絵が描かれています。
狩野了慶は狩野光信の門人で、元和(1615~1624)・寛永期(1624~1645)の
狩野派の有力者とされています。
高台寺の障壁画制作に携わった他、西本願寺対面所・白書院障壁画などが
代表作として残されています。
方丈前に紙本墨画淡彩瓢鮎図(ひょうねんず)の複写が掲げられています。
原本は国宝に指定され、現在は京都国立博物館に寄託されています。
如拙筆の確証がある数少ない作品の一つで、
日本の初期水墨画の代表作の一つでもあります。
室町幕府第4代将軍・足利義持の命で制作され、当初は座屏(ついたて)の
表裏にそれぞれ絵と賛を貼ったものでした。
「小さな瓢箪で大きなナマズ(「鮎」は「ナマズ」の古字)をいかに捕まえるか」という
禅の問答で、京都五山の高僧31人の賛(回答)が記されています。
東側の板戸絵
西側の板戸絵
方丈の縁には座布団が置かれ、前に並べられている
蓮の花を鑑賞するように配慮されています。
しかし、蓮の花の季節は終りに近く、数輪の花が残されるのみとなっていました。
方丈の西側の庭園は、狩野元信の作で「元信の庭」と呼ばれ、
国の名勝・史跡に指定されています。
狩野派の画家が作庭した珍しい枯山水庭園で、庭の背景には主に
常緑樹が植えられ、一年中変わらぬ「不変の美」を求めたものと考えられています。
多数の庭石が豪快に組まれ、滝から落ちた水流が大海へと
流れ込む様子が白砂で表されています。
南庭の方から枯山水庭園の全体を鑑賞したかったのですが、
立ち入りは禁止されています。
方丈の南庭から往路の塀を挟んだ反対側を戻ると、
正面に水子地蔵菩薩像が祀られています。
水子地蔵菩薩は賽の河原での救護者とされ、子供の救済者として信仰されています。
水子地蔵菩薩像の手前を南へ進むと門があります。
門をくぐった正面には枝垂桜の大樹が葉を茂られています。
春には見事な花を咲かせるだろうと、容易に想像できます。
門をくぐった左右の枯山水庭園は「陰陽の庭」と名付けられています。
右側の庭は「陰の庭」で、灰色がかった砂が敷かれています。
砂紋は「陽の庭」より深く引かれているように思えます。
左側の庭は「陽の庭」で、白砂が敷かれ、面積は「陰の庭」よりも広いですが、
配されている石の数は「陰の庭」の8個に対して7個と1個少なく、
白砂の面積が広くてより明るく見えます。
「陽の庭」の背後には五重石塔が配されています。
枝垂桜の背後にある石は「羅漢石」と称されています。
参道を進むと東屋がありますが、立ち入りは禁止されています。
東屋の手前からの庭園・余香苑が見渡せます。
池は「ひょうたん池」と称されています。
東屋の先、右側につくばいがあり、つくばいで流した水が水琴窟で反響します。
それを聞くために竹の棒が用意されています。
その先は屋根付きの廊下で、右側に売店がありますが、
平日なので営業されていません。
廊下を進んだ奥に茶席・大休庵があります。
ひょうたん池の右側に藤棚があり、その奥にまちあいがあります。
まちあいの手前からのひょうたん池。
山奥の滝から流れ落ちた水が、渓流を下り大海へと注ぐ
元信の枯山水の庭が具現化されているように思えます。
ひょうたん池の左側には睡蓮が咲き、奥には滝組があります。
開山堂へ向かいます。
続く
にほんブログ村
コメント