聚光院
本坊前の東西の参道と、芳春院への北の参道が交わる角の西側に
聚光院(じゅこういん)がありますが、非公開です。
永禄9年(1566)に三好長慶(みよし ながよし)の養子となった義継が、養父・長慶の
菩提を弔うため、笑嶺宗訢(しょうれい そうきん)を開山として創建されました。
三好長慶の法名「聚光院殿」が院号となりました。
三好之長(みよし ゆきなが)、三好元長、三好長慶ら三好家三代とその妻、
及び三好実休(みよし じっきゅう)、安宅冬康(あたぎ ふゆやす)、
三好義継の位牌が祀られています。

三好義継は、三好長逸(みよし ながやす)、三好宗渭(みよし そうい)、
岩成友通(いわなり ともみち)の三好三人衆の後見を得て、
名実共に三好家の当主となりました。
永禄8年(1565)に義継は、三人衆らを伴って上洛し、二条御所を襲撃して
室町幕府第13代将軍・足利義輝を殺害しました。
三人衆らが義輝の従弟に当たる足利義栄(あしかが よしひで)を次期将軍候補として
迎えると、義継は三人衆のもとから逃れて松永久秀と結託し、
三人衆と争うようになりました。

永禄11年(1568)、織田信長が足利義輝の弟・義昭を擁立して上洛してくる際、
義継と松永久秀は信長に協力しました。
三人衆は阿波国へ逃亡し、第14代将軍に就いた足利義栄も上洛出来ないまま、
以前から患っていた腫物が悪化して同年に病死しました。

元亀4年(1573)、信長は第15代将軍・足利義昭を京都から追放し、
室町幕府は滅びました。
義継は追放された義昭を近江で庇護したことから天正に改元された同年、
信長の怒りを買い、攻撃されて自害して果てました。
これにより、戦国大名としての三好家の嫡流は断絶しました。

その後、笑嶺宗訢に参禅した千利休が檀越となったことから、
表千家・裏千家・武者小路千家の茶道三千家の菩提寺となりました。

現在の方丈は、棟札から天正11年(1583)に再建、或いは修復されたと
推定され、国の重要文化財に指定されています。
障壁画は狩野松栄永徳父子により描かれ、国宝に指定されていますが
京都国立博物館に寄託され、現在は複製されたものに代替えされています。

方丈の前庭は、千利休作と伝わり、国の名勝に指定されています。
苔庭に直線上に庭石を置き、石組みの多いことから
「百積(ひゃくせき)の庭」と呼ばれています。

茶室・閑隠席(かんいんせき)は、利休150回忌に当たる寛保元年(1741)に
表千家7世・如心斎(じょしんさい)の寄進により建立されました。
元は、千利休が笑嶺宗訢のために書院の北西隅に建て、
笑嶺宗訢により「閑隠席」と名付けられました。
豊臣秀吉の逆鱗(げきりん)に触れた千利休は、天正19年(1591)堺に蟄居を命じられ、
その後京都に呼び戻されて、
一説では閑隠席で自刃(じじん)して果てたと伝わります。
利休の墓は聚光院にあり、三千家の歴代墓地が並ぶ中央の位置に、生前に利休が
愛した船岡山にあった高さ約2mの供養塔を、自らが希望して墓標としました。

閑隠席と同じ建物内の水屋を隔てた東側にある茶室は、枡形(正方形)の踏込床が
あるため「桝床席」と呼ばれています。
閑隠席、枡床の席、水屋、六畳2室からなる茶室は、
国の重要文化財に指定されています。
総見院-表門
聚光院の西側に隣接して総見院があり、通常は非公開です。
令和2年(2020)10月10日~12月5日までの土・日・祝日に特別公開されていますが、
完全予約制です。
総見院-鐘楼
門前右側の鐘楼は、天正11年(1583)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は天正11年に武将・堀秀政が供養のために鋳造し、
古渓宗陳(こけいそうちん)による銘があります。
総見院-信長公廟所の碑
門前に「信長公廟所」の碑が建っています。
総見院は豊臣秀吉が、天正10年(1582)の本能寺の変で自刃して果てた織田信長の
追善供養のため、一周忌に間に合わせて創建されました。
大徳寺117世・古渓宗陳を開山とし、信長の法名・総見院殿から
「総見院」と称されました。
大徳寺には信長が父・信秀の菩提を弔うために創建した塔頭の黄梅院がありました。
秀吉は当初、黄梅院を改築して信長の塔所とすることを検討しましたが、
境内が狭すぎるとして総見院の創建に至りました。
総見院は広大な境内を有し、豪華絢爛な堂宇が建ち並んでいたと伝わります。
しかし、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で堂塔伽藍や多くの宝物が失われ、
創建当初のものは表門や土塀、鐘楼を残すのみとなりました。
明治時代には大徳寺の修禅専門道場及び管長の住居となり、大正年間(1912~1926)に
再興され、昭和36年(1961)には本山に安置されていた信長像が輿に乗せられ総見院へ
遷されて信長の380年忌が営まれました。
その輿は、現在でも回廊に吊り下げられています。
境内北の墓地には、織田一族、七基の五輪塔があります。

この織田信長坐像は天正11年(1583)に七条仏所の康清の作で、
国の重要文化財に指定されています。
信長の等身大とされる像高115㎝で、衣冠帯刀の姿をし、香木で2躯造られました。
本能寺の変で焼失した信長の遺骸は特定が不能となり、
代わりに1躯の木像が荼毘に付され、その香りが市中に漂ったと伝わります。
総見院-通用門
通用門から覗くと、枯山水の作庭が見られます。

現在の方丈は昭和3年(1928)に再建されました。
天正13年(1585)に秀吉は、信長追悼の「大徳寺大茶会」を総見院で行いました。
秀吉はこの年関白宣下を受け、秀吉自ら方丈で茶を点て、
自らが信長の後継者であることを知らしめる目的があったのかもしれません。
また、堺の今井宗久らの商人を招いたとされています。
明との貿易や商談で日本各地を渡り歩く商人からの情報や武器の調達などの交渉に
この時代では、秘密裏に茶室が利用されていたようです。

現在の総見院には三席の茶室「龐庵(ほうあん)」・「寿安席(じゅあんせき)」・
「香雲軒(こううんけん)」と茶筅塚があります。
茶室はいずれも大正期に総見院が再建されてから建てられた新しいもので、
茶筅塚では4月28日に茶筅供養が行われています。

境内の井戸は創建当時に掘られたもので、深さは10m以上あり
今もその水はお供えなどに使われています。
石造りの井筒は、文禄・慶長の役の際に、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったもので、
一つの石をくり抜いて使用されています。
朝鮮からの帰船で、戦死した兵士分の重量に替えて、船の均衡を保つため、
石や灯籠などを持ち帰ったとされています。

境内の胡蝶侘助(こちょうわびすけ=侘助椿)は、創建時に植えられ
「秀吉遺愛のわびすけ」とされています。
樹齢は約400年で日本最古とされ、京都市の天然記念物に指定されています。
近衛家墓地の門
総見院の西側に近衛家墓地がありますが扉は閉じられています。
近衛家は藤原北家・藤原忠通の四男・近衛基実を家祖とし、
邸宅「近衛殿」が家名の由来となりました。
第17代当主・近衞前久(このえ さきひさ:1536~1612)は、永禄8年(1565)の
永禄の変で、第13代将軍・足利義輝を殺害した三好三人衆を保護しました。
義輝の正室で前久の姉の命を奪わなかったことを評価し、三人衆が擁立した
足利義栄(あしかが よしひで)の将軍就任を決定しました。
しかし、永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を奉じ上洛を果たすと、
前久は朝廷から追放されました。
関白を解任され、摂津国の石山本願寺に移り住んでいましたが、天正元年(1573)に
義昭が信長から都を追放されると、天正3年(1575)に信長の奏上により、
帰洛を許されました。
天正8年(1580)には、信長が10年近くかかっても攻略できなかった石山本願寺との
調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去しました。
その功績で信長から「天下平定の暁には近衞家に一国を献上する」との約束を
得ましたが、信長が本能寺の変で命を落とすと、
失意のあまり前久は出家して「龍山」と号しました。
竹林
その先の四つ角の南西角には竹林があり、左折して南へ進むと
塔頭の高桐院(こうとういん)、玉林院、龍光院、大光院などがありますが、
本坊前まで戻り、参道を南下します。
三玄院-表門
参道の西側に三玄院がありますが、非公開です。
三玄院は天正17年(1589)に浅野幸長石田三成、森蘭丸の弟・忠政が、
春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として創建しました。
三玄院-石田三成墓の碑
門前には「石田三成公御墓地」の碑が建っています。
境内には石田三成の他、春屋宗園、森忠政、茶人の古田織部などの墓があります。
文禄3年(1594)に石田三成の母・瑞岳院が死去し、慶長4年(1599)に三成の居城・
佐和山城の城内に母の菩提を弔うため瑞嶽寺を創建しました。
三成は大徳寺111世の春屋宗園(1529~1611)に住職の派遣を依頼し、宗園は
薫甫宗忠(とうほ そうちゅう)を住職に任命し、弟子の沢庵宗彭が同行しました。
一方でこの時代、慶長3年(1598)に豊臣秀吉が没し、三成らを中心とする文治派と、
加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され、対立を深めていました。
慶長4年(1599)には武断派により、三成の大坂屋敷が襲撃され、この時は徳川家康の
仲裁で和解し、三成は五奉行の座を退いて佐和山城に退去しました。
慶長5年(1600)、徳川家康は上杉景勝を討つために会津へ向けて出兵すると、
入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた
毛利輝元が大坂に入り、三奉行から家康の罪状13か条を書き連ねた
弾劾状が諸大名に送られました。
西軍が結成され、三成もこれに加わり関ケ原で戦いましたが敗北し、
三成は捕えられて六条河原で斬首されました。
首は三条河原に晒された後、春屋宗園や沢庵宗彭に引き取られ、
三玄院に葬られました。
佐和山城は陥落し、石田一族の多くは討死しましたが、薫甫宗忠と沢庵宗彭は
いち早く脱出して難を逃れました。

慶長11年(1606)に初代筑前福岡藩主の黒田長政が父・孝高(よしたか=通称:官兵衛)
の菩提を弔うため春屋宗園を開山とし、大徳寺内に塔頭の龍光院を創建しました。
黒田長政は、豊臣秀吉の没後は五大老の徳川家康に接近し、
家康の養女の栄姫を正室としました。
三成の大坂屋敷の襲撃に加わり、慶長5年(1600)には徳川家康の会津征伐に従い、
関ケ原の戦いでの武功により、筑前国名島に52万3,000余石を与えられました。
茶の湯を通じて春屋宗園と交流があり、宗園は龍光院に隠棲しましたが、
慶長16年(1611)に入寂されました。
興臨院への橋
参道を南へ進むと西側に橋があり、橋を渡った先に塔頭の興臨院、瑞峯院、大慈院
がありますが、駐車場の方へ戻り、駐車場前の車道を南へ、北大路通りを横断した所に
ある塔頭の雲林院へ向かいます。
雲林院-表門
雲林院表門
かって、この地一帯は広大な皇族の狩猟場であり、一般の狩猟が禁止された
「禁野(きんや)」で、庶民の居住さえ禁じられていました。
当時は染料の紫を採る紫草が群生していたようで、『類聚国史』の延暦14年(795)の
条に、「桓武天皇が紫野において狩りをされた」と記され、
これが地名「紫野」の初見です。
紫式部はこの付近で生まれ、大徳寺の塔頭・真珠庵には
「紫式部産湯の井戸」が残されており、地名がその名の由来となったとされています。
『源氏物語』十帖「賢木(さかき)」には、光源氏の伯父・律師が出家して雲林院に
住していると記されています。

天長年間(824~834)に第53代・淳和天皇は離宮を造営し、
「紫野院」と称しましたが、その後「雲林亭」と改められました。
雲林亭は、第54代・仁明天皇の第七皇子・常康親王(つねやすしんのう)に
引き継がれ、承和11年(844)には「雲林院」と称されていました。
嘉祥3年(850)に仁明天皇が崩御され、翌嘉祥4年(851)に親王は出家して雲林院を
寺に改めました。
また、仁明天皇に仕えていた遍昭(へんじょう)は、天皇の崩御後に出家して
山科に元慶寺を創建しました。
貞観11年(869)に親王は遍昭に雲林院を譲渡し、遍昭は雲林院の別当を兼ね、
雲林院を天台宗の修行場としました。
雲林院旧地
元慶8年(884)には遍昭の奏請により雲林院は官寺となって広大な境内地を誇り、
鎌倉時代まで栄えて菩提講・桜花・紅葉で有名となりました。
雲林院の菩提講は、『今昔物語集』、『大鏡』にも登場し、桜と紅葉の名所としては
『古今和歌集』以下の歌集の歌枕となりました。
在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』の題材にもなりました。

雲林院は鎌倉時代になると次第に衰微しました。
正中2年(1325)、宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)に帰依した花園上皇は、
雲林院と隣接する地に大徳寺を創建し、祈願所とする院宣を発しました。
元弘元年/元徳3年(1331)には梶井門跡が雲林院の地に移転しました。
梶井門跡を継いだ第93代・後伏見天皇の第4皇子・尊胤法親王
(そんいんほうしんのう)は、梶井門跡の本坊を大原の政所に移し、
三千院となりました。
大徳寺2世・徹翁義享(てっとう ぎきょう)は、梶井門跡の跡地を賜り、
徳禅寺を創建しました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火で徳禅寺は焼失し、
文明年間(1469~1487)に徹翁義享を尊敬していた一休宗純により、
大徳寺境内の塔頭寺院として再建されました。

平成12年(2000)に雲林院跡東域で、マンション建設に伴う発掘調査が行われ、
平安時代の園池や建物跡、井戸跡などが発見されました。
雲林院-観音堂
観音堂
宝永4年(1707)に雲林院の消滅を憂いた大徳寺291世・江西宗寛(こうざい そうかん)
により再興され、現在の観音堂が建立されました。
堂内には十一面千手観音菩薩像及び、大徳寺開山の大燈国師(宗峰妙超)や
中興の江西宗寛の木像が安置されています。
雲林院-賓頭盧尊者
観音堂の前には賓頭盧尊者像が祀られています。
雲林院-地蔵堂
観音堂の左側には地蔵堂があります。
雲林院-弁財天
観音堂の右側には弁財天を祀る祠があります。
雲林院-庫裡
現在の庫裡は昭和55年(1980)から昭和58年(1983)にかけて建立されました。

千本通りまで戻り、千本通りを南下して釘抜地蔵を祀る
石像寺(しゃくぞうじ)へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村