神光院から西へ進むと大将軍神社の社号標が建っています。
その方向へ左折し、突き当りを右へ曲がった所に大将軍神社の鳥居が建っています。
大将軍とは、古代中国の思想を取り入れた陰陽道で、方位の吉凶を司る
八将神(はっしょうじん)の一神とされ、素戔嗚命の息子とされています。
延暦13年(794)、第50代・桓武天皇は平安京遷都にあたり、王城鎮護のため
陰陽道を重視して都の四方に大将軍堂を建立し、
西賀茂の大将軍神社は、内裏の北方に当たります。
その当時、陰陽頭にも昇ったとも伝わるのは賀茂忠行(かも の ただゆき)であり、
賀茂氏は代々賀茂神社に奉斎していたことから、付近にある上賀茂神社との
関わりが推測されます。
因みに賀茂忠行の弟子が安倍晴明で、後に陰陽道は賀茂・安倍二氏により
統括されることになりました。
鳥居をくぐった左側に旧鳥居の柱根石が保管されています。
朱の塗料が残っています。
その奥には若木が玉垣で囲われています。
中を覗くと、朽ちた巨木の根が見え、そこからこの木が育ち
「世代受け継ぎの木」と称されています。
倒れてしまった大木の根に木の種が落ち、自然に成長した状態(実生の木)で、
親の養分を得て子が成長する様子が表されています。
右側に手水舎があり、その奥に社務所があります。
正面に拝殿があります。
拝殿は、かっては割拝殿だったようですが、現在は正面ではなく、
左側に出入り口が設けられています。
拝殿の左側には御神石が祀られていますが、詳細は不明です。
駒札も無く、複数の石が何を表しているのか?
この場所が何を示しているの?
気になります。
その先の東西の参道脇にも「世代受け継ぎの木」があります。
境内全域は「大将軍神社文化財環境保全地区」となっています。
本殿前には盛り砂が施されています。
盛り砂は「立て砂」とも呼ばれ、鬼門などに砂を巻いて清めたのが始まりとする
説があり、「鬼門」とは陰陽道によるものです。
一方で立て砂は、上賀茂神社では祭神の賀茂別雷神が降臨した伝わる
「神山(こうやま)」を模したもので、
上賀茂神社が盛り砂の発祥の地とする説もあります。
本殿は覆い屋の中に納められています。
社伝によると、大将軍神社の創建は推古天皇17年(609)とされています。
創建当時、この地には瓦窯があり、
その職人たちにより創祀されたのかもしれません。
付近に瓦焼き職人の宿坊である「瓦屋寺」で建立されると
その鎮守社となったと伝わります。
延暦13年(794)、第50代・桓武天皇は平安京遷都にあたり、王城鎮護のため
陰陽道を重視して都の四方に大将軍堂を建立しました。
内裏の北方にある鎮守社を大将軍神社としたとされています。
古くは「角社(すみやしろ)」とも呼ばれ、陰陽道の方違え(かたたがえ/
かたちがえ)、疫除けの神として信仰を集めていたとされています。
但し、「角社」は大将軍神社とは別の神社であったという説もあります。
現在の本殿は天正19年(1591)に造営された上賀茂神社の摂社・片岡社の
旧本殿を、寛永5年~13年(1628~1636)の間に移築して再建されました。
上賀茂神社最古の建物として、片岡社の刻銘がある鉄燈籠と共に
京都市の有形文化財に指定されています。
現在の祭神は磐長姫命(いわながひめのみこと)とその家族神四柱で、
西賀茂地域の産土神として祀られています。
磐長姫命は貴船神社・中宮の祭神でもあります。
東側の境内社には、北側に盛り砂され、片岡神社・貴船神社・稲荷神社と
並び、独立して「角社」があります。
角社には現在は素戔嗚命が祀られています。
西側には盛り砂は無く、愛宕神社・松尾神社・八幡神社・春日神社・山王神社と
並んでいます。
大将軍神社から西へ進むと広い南北の通りに突き当たります。
右折して北へ進むと「小谷墓地」と「西方寺」の石標が建っています。
左折して西へ進むと北側に西方寺があります。
西方寺は山号を「来迎山」と号する浄土宗の寺院で、
阿弥陀如来を本尊としています。
門を入った右側に庫裡があります。
正面に本堂があります。
西方寺は承和年間(834~848)に慈覚大師・円仁により創建されたと伝わり、
当初は天台宗の寺院でした。
その後、正和年間(1312~1316)に道空により中興され、浄土宗に改宗されました。
道空は干菜寺(ほしなでら)系の六斎念仏を創案したとされ、現在でも
8月16日の五山送り火が終了した午後9時頃から六斎念仏が奉納されています。
六斎念仏は、平安時代に空也上人が、民衆に信仰を広めるために
踊躍(ゆうやく)念仏を始めたのが起こりとされています。
民衆に仏教を広めるため六斎日(毎月8・14・15・23・29・30の六日)に
街中で鉦や太鼓を打ちながら念仏を唱え踊ったことから
六斎念仏と称されるようになりました。
因みに六斎日とは、仏教で特に身を慎み持戒清浄であるべき日と定められた
六日のことです。
その後、六斎念仏は能や歌舞伎などを取り入れ芸能化した芸能系六斎と、
念仏踊を主とする念仏六斎系に分かれました。
干菜寺系は六斎の芸能化を認めず、鉦や太鼓を使って念仏を唱える
極めて古風なもので、六斎念仏の古態を今に伝えています。
また、西方寺は五山送り火の「舟形万灯籠」が灯される標高315mの舟形山を
保存会と共に維持管理しています。
画像は市バス・西賀茂車庫のバス停からのものです。
舟形は、開祖・円仁が承和4年(838)に暴風雨に遭遇しながらも、
無事に唐へ渡ったことに因むとされています。
一方で精霊船(しょうろうぶね)とも見られ、その名の通り、
精霊を乗せて送る船を表しているとされています。
左側にリチャード・ポンソンビー・フェインの顕彰碑
「本尊美君碑」が建っています。
リチャード・ポンソンビー・フェイン(1878~1937)は、イギリス生まれの
日本研究家で、日本の神道や皇室、風習や教育などの英文による著作があります。
大正8年(1912)に東京に移り住み、研究のかたわら成蹊学園で英語教師を務めました。
大正10年(1921)には、皇太子裕仁親王が訪欧の途上香港を訪問した際に、
香港に滞在していたリチャードが通訳を務めました。
大正14年(1925)に京都へ移り、京都府立第一中学校(現在の洛北高校)の
英語教師を務め、昭和4年(1929)に上賀茂へ移り住みました。
昭和12年(1937)に60歳で自宅で亡くなり、翌年、友人らがこの碑を建てました。
服装や食事など全てを和風で通し、自ら「本尊美利茶道」と名乗りました。
門下生を我が子同然に思い、独身のまま生涯を閉じました。
横に大田垣蓮月尼の記念碑が建っていますが、
蓮月尼の墓が西方寺が管理する小谷墓地にあるからかもしれません。
境内の西側には多くの石仏が祀られています。
覆屋の中には三界萬霊塔が建ち、その上に千手観音菩薩の石像が祀られています。
「三界」とは、「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、
「無色界(むしきかい)」のことです。
「欲界」は性欲・食欲・睡眠欲の三つの欲を有する生きものの住む世界で、
「色界」はこの三欲を離れた生きものの住む清らかな世界とされています。
「無色界」は最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界を指し、
ここの最高処は「有頂天(うちょうてん)」と称されます。
三界萬霊塔は、三界全ての霊を供養するためのものです。
三尊仏
多数の石仏
西方寺から西側へ登ると、広大な小谷墓地があります。
墓地の入口付近に井戸があります。
参道を井戸から進んだ左側に石段があり、
その脇に「蓮月尼の墓入口」の碑が建っています。
途中にも碑が建ち、その方向へ進んだ所に大田垣蓮月の墓があります。
大田垣蓮月は晩年の75歳から神光院で隠棲し、10年後の明治8年(1875)12月10に
亡くなりました。
別れを惜しんだ西賀茂村の住人が、総出で弔ったと伝わります。
小谷墓地には、芸術家で料理家・美食家の
北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん:1883~1959)の墓があります。
他にも上賀茂神社の祠官 賀茂季鷹(かも の すえたか)、
賀茂県主累代の墓など多数の賀茂氏一族の墓があります。
正伝寺へ向かいます。
続く
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