一の鳥居
法雲寺から御園橋通りまで南下し、御園橋通りを東進して御園橋を渡った先に
上賀茂神社の鳥居が建っています。
現在は御園橋の架け替え工事中で、それに関連してか、かってバス停があった所も
工事が行われ、バス停が移動されています。
その前に大正7年(1918)に建立された、高さ7mの一の鳥居が建っています。

上賀茂神社は、正式には「賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)」と称し、
下鴨神社と総称して「賀茂社」と呼ばれています。
山城国一宮で旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社で、
神仏霊場の第102番札所です。
また、世界遺産「古都京都の文化財」の1つとして登録され、
境内は国の史跡に指定されています。

一の鳥居からの参道は幅6m、長さ160mで、葵祭では斎王代は
ここで腰輿(たごし)から降り、徒歩で参進します。
馬場
参道の左側では、毎年5月5日に催され、京都市登録無形民俗文化財に登録されている
競馬会神事(くらべうまえしんじ)の馬場となります。
「賀茂競馬(かもくらべうま)」とも称され、五穀成就、天下泰平を願うために
宮中武徳殿で執り行われた節会(せちえ)の競馬会式を、
寛治7年(1093)から上賀茂神社に移し、始められました。
斎王桜
参道右側の桜は「斎王桜」と称され、当社に奉仕された斎王が愛でられた
桜とされています。
斎王は伊勢神宮や賀茂社に巫女として奉仕した未婚の内親王で、伊勢神宮の斎王は
特に斎宮(さいぐう)、賀茂社の斎王は斎院(さいいん)と呼ばれました。
斎院は第52代・嵯峨天皇の御代に始まり承久3年(1221)に起こった承久の乱後の
混乱期に断絶しました。
毎年5月15日に行われる賀茂祭(葵祭)の主役「斎王代」の制度は、
昭和31年(1956)に創設され、京都ゆかりの一般女性から選ばれます。
御所桜
北側の「御所桜」は、当社社家の蔣池清山(こもいけせいざん)が、
第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)から下賜されたもので、
明治6年(1873)に奉納されました。
外幣殿
更に参道を北へ進むと右側に外幣殿(御所屋=ごしょのや)があります。
寛永5年(1628)に造り替えらたもので、国の重要文化財に指定されています。

法皇や上皇等の行幸、摂関賀茂詣の際の
著到殿(ちゃくとうでん)として使用されていました。
平安時代の大同2年(807)に賀茂祭は勅祭となり、賀茂祭の前日に
摂関家が賀茂上下両社に参詣し、金奉幣や神宝など奉納し、走馬などを行いました。

平安中期の貴族の間では、単に「祭り」と言えば賀茂祭のことで、
社頭での祭儀は一般の拝観が殆ど許されませんでした。
また、外幣殿は賀茂祭やそれに先立って行われる
競馬会神事にも使用されることから馬場殿とも称されます。

賀茂祭は室町時代中期頃から次第に衰微し、応仁の乱以降は全く廃絶致しました。
江戸時代になり元禄7年(1694)に祭りは再興され、
葵の葉で飾られるようになって「葵祭」と呼ばれるようになりました。
そのフタバアオイは、静原で採取され、
現在では静原神社の裏山で植栽されています。
藤原家高の歌碑
外幣殿の左奥に百人一首にも掲載されている藤原家高の歌碑があります。
『風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける』 
ならの小川の夕暮れは、すっかり秋の気配となっているが、
六月祓(みなづきばらえ)のみそぎの行事だけが、夏であることの証なのだった。
六月祓とは、旧暦6月末に行われる祓えの行事で、
夏越(なごし)の祓えとも云われています。
旧暦では7月1日から秋となり、現在では8月の初めだそうです。
神馬舎
外幣殿からの参道の先、左側に神馬舎があります。
神馬舎-神山号
神馬の「神山号」は御留守で、特別の日しか出勤されないようです。
社殿跡
神馬舎の南側で、芝生の中に杭で囲まれ、石で四角に形どられた所があります。
かって社殿があったそうですが、詳細は不明です。
二の鳥居
二の鳥居は昭和26年(1951)に建立され、高さは6.7mです。
一の鳥居が南面しているのに対し、二の鳥居は南西方向に
15度程傾いて建てられています。
上賀茂神社では令和2年(2020)3月まで第42回式年遷宮が行われました。
上賀茂神社では、平安中期の第68代・後一条天皇(在位:1016~1036)が
長元9年(1036)に、21年ごとの式年遷宮を定められたと伝えられています。
しかし、不定期な修理遷宮が長らく繰り返されてきました。
幕末の文久3年(1863)には、第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)から
21年目ごとの遷宮を申請されましたが、
明治時代には一度も行われませんでした。
建物の多くが国宝や重要文化財に指定されているため、
現在では造替えは行われず、主に屋根の葺き替え等の修復が行われています。
すぐき漬
鳥居をくぐった左側に「すぐき漬け」が展示されています。
「すぐき」は、冬に収穫されるかぶらの一種で、「すぐき漬け」は「すぐき」と
「塩」だけで漬け込まれ、乳酸発酵によって出来る酸味が特徴の漬物です。
桃山時代に上賀茂神社の社家が屋敷の中で栽培したのが始まりとされています。
荒漬けした翌日に通称「反樽」と呼ばれる樽にぎっしりと渦巻き状にすぐきを並べ、
塩をふって蓋がしめられます。
そして、独特のテコの原理を利用した「天秤押し」と呼ばれる方法で
重石がかけられています。
その後、「追い漬け」が続けられ、塩漬が完了した後に発酵の過程を経て
独特の酸味を持つようになります。
現在は加熱室が利用されますが、昔は自然に熟成するのを待つため、
5月頃まで要したそうです。
楽屋
二の鳥居をくぐった右側に寛永5年(1628)に造替えられた
楽屋(がくのや)があり、国の重要文化財に指定されています。
一切経楽屋とも呼ばれ、神仏習合時代に神宮寺の供僧方が用いていました。
明治の神仏分離令により神宮寺が廃絶され、
明治13年(1880)に改修が行われています。
土屋
楽屋の北側に寛永5年(1628)に造替えられた土屋(つちのや)があり、
国の重要文化財に指定されています。
往古より神主以下社司の著到殿として使用されてきました。
現在は祭事で神職の祓所(はらえど)として使われています。
舞殿-2
土屋の左側に文久3年(1863)に造替えられた舞殿(橋殿)があり、
国の重要文化財に指定されています。
御手洗川を跨いで建てられ、葵祭の時に勅使の拝殿になり、
紅紙御祭文(くれないしのごさいもん)が奏上されます。
御祭文の用紙は、すでに平安中期(10世紀)にまとめられた『延喜式』に
記されており、伊勢神宮が縹(はなだ)色、賀茂両社が紅(くれない)色、
その他の石清水八幡宮などが黄色と定められています。
また、東遊(あずまあそび)も奉納されます。
ならの小川の上流は御手洗川と呼ばれ、舞殿の上流で
御物忌川(おものいがわ/おものいみがわ)が合流しています。
舞殿-1
舞殿の両側に橋が架けられています。
右側の橋は「祝橋(ほうりばし)」、左側は「禰宜橋(ねぎばし)」と
名付けられています。
禰宜橋は神事の際、神職が渡ります。
細殿
舞殿の左側に寛永5年(1628)に造替えられた細殿(ほそどの)があり、
国の重要文化財に指定されています。
細殿は拝殿とも呼ばれ、天皇、上皇、斎王のみが昇殿を許されていました。
葵祭では斎王代の著到殿(ちゃくとうでん)として使用されます。

社殿前の立砂は、盛砂とも呼ばれ、右側には二葉、
左側には三つ葉の松葉が先端にさしてあります。
平安遷都以前、まだ拝殿が建設される以前は、ここに2本の柱が建てられ、
その根元を盛砂で支えていました。
それが正月飾りの門松の起源ともされています。
御神体の神山を象徴するもので、神を迎えるための依り代となる
神籬(ひもろぎ)となります。

左側の立砂の背後、苔が植えられている場所は「坪の内」と呼ばれ、
4月3日に行われる「土解祭(とげさい)」では稲の脱穀が行われます。
土解祭は、土地が作付けに適している土解けの時期に、土の災いを祓い、
豊穣を祈願する祭礼です。
橋本神社
細殿の左側から参道を北へ進むと御手洗川に橋が架かり、
その手前に橋本神社があります。
現在では衣通姫神(そとおりひめのかみ)が祀られていますが、
『徒然草』では藤原実方が祀られていると記されています。
『徒然草』第67段には
「賀茂の岩本・橋本は、業平・実方なり。人の常に言ひまがへ侍れば、
一年(ひととせ)参りたりしに、老いたる宮司(みやづかさ)の過ぎしを
呼びとどめて、尋ね侍りしに、「実方は、御手洗(みたらし)に
影のうつりける所と侍れば、橋本や、なほ水の近ければと覚え侍る。」
と記されています。
訳すと
「上賀茂神社の摂社である岩本社と橋本社は、在原業平と藤原実方を祀る。
(どちらの社がどちらの人物を祭っているか)人がいつも言い間違うので、
一年前参詣した時に、年老いた神社の職員が通り過ぎるのを呼び止めて尋ねた所、
「実方を祀った所は、御手洗川に影が映った所と申しますから、
橋本は、やはり水の流れが近いので、橋本には実方を祀ったものと思われます。」
となります。

藤原実方(ふじわら の さねかた:?~999)は平安時代中期の貴族・歌人で、
第65代・花山天皇と第66代・一条天皇に仕え、順調に昇進しました。
清少納言と交際関係があったとも伝わり、他にも20人以上の女性との交際が
あったとされています。
しかし、長徳元年(995)に公卿の座を目前にして突然、陸奥守に左遷されました。
一条天皇の面前で藤原行成と和歌について口論になり、怒った実方が
行成の冠を奪って投げ捨てるという事件で、天皇の怒りを買ったのが
その理由とされています。
長徳4年12月(999年1月)に、任国で乗っていた馬が突然倒れ、
下敷きになって亡くなり、その後賀茂川の橋の下に実方の亡霊が出没するとの
噂が流れたとされています。

また、衣通姫は、その美しさが衣服を通り抜けて光っている程だという意味があり、
『古事記』では第19代・允恭天皇(いんぎょうてんのう:在位412~453)の
軽大郎女(かるのおおいらつめ)の別名とし、『日本書紀』では允恭天皇の皇后・
忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ:生没年不詳)の妹・弟姫(おとひめ)と
されています。
和歌山県の玉津嶋神社では、仁和2年(886)のある夜、第58代・光孝天皇の夢枕に、
衣通姫(そとおりひめ)が現れ、
「立ちかへり またも此の世に 跡とめむ 名もおもしろき 和歌の浦波」と
詠んで姿を消したと伝わり、玉津嶋神社に合祀されて
和歌三神の一柱とされています。
楼門
橋本神社から御手洗川を渡り、北へ進むと寛永5年(1628)に造替えられ、
国の重要文化財に指定されている楼門があります。
本宮は御手洗川と御物忌川の三角州にあり、北西方向に傾いています。
楼門前の御物忌川(おものいがわ/おものいみがわ)に架かる玉橋は、
寛永5年(1628)に造替えられ、国の重要文化財に指定されています。
神事の際、神職のみが渡るのを許されています。
幣殿
楼門をくぐった右側にある幣殿は、寛永5年(1628)に造替えられ、
国の重要文化財に指定されています。
また、本宮内の本殿と権殿を除く全ての建物が寛永5年(1628)に造替えられ、
国の重要文化財に指定されています。
祈祷殿としても使われ、奥に忌子殿(いこでん)があり、二つの建物は
「取合(とりあい)」と呼ばれる廊下で繋がれています。
本宮
正面に中門があり、その右手前に末社の棚尾神社があります。
棚尾神社
祭神は、櫛石窓神(くしいわまどのかみ)と豊石窓神(とよいわまどのかみ)で、
家屋に悪霊が入らないように守護する神、門を護る神とされています。
本殿図
中門の右側は御籍屋(みふだのや)で、「東局」とも呼ばれ、
現在は神前結婚式場として使用されています。
東局の端には神宝庫があります。
左側は直会殿(なおらいでん)で、「西局」とも呼ばれ、
祭典終了後に神職及び参拝者が直会(御神酒)を戴く所となっています。
直会殿の西側に楽所、西御供所があります。

中門内の正面に前廊があり、祝詞舎へと繋がります。
更に透廊(すいろう)が繋がり、その奥の右側(東側)に本殿、左側(西側)に権殿が
並立して建てられています。
本殿及び権殿は文久3年(1863)に造替えられ、共に国宝に指定されています。
本殿及び権殿の背後2kmに御神体の神山(こうやま)がありますが、
現在は京都ゴルフ倶楽部上賀茂コースの中に入り、神館跡が残されているようです。
標高301.5の山頂にある最も大きな岩が、祭神の
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が降臨したとされる「降臨石」です。
この地を支配していた賀茂氏により、山そのものを御神体として
信仰されたのが始まりとされています。

文献では天武天皇7年(678)に山を遥拝するこの地に社殿が建てられました。
奈良時代に本殿と、その修理に際して神様を臨時に祀る権殿(ごんでん)とを、
左右に並べた現在のような社殿の形が出来上がったと考えられています。

本殿の右側に若宮社があり、若宮神が祀られています。

御籍屋の背後に土師尾社(はじおのやしろ)があり、
建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)が祀られています。
建玉依比古命は、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
御子神で、神饌用祭器具を製作した神とされています。

直会殿の背後にある杉尾社は、林業の神である杉尾神が祀られています。
川尾神社
楼門前から北へ進むと末社の川尾神社があります。
祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)で、日本の代表的な水の神です。
脇を流れる御物忌川(おものいがわ/おものいみがわ)を守護しています。
伊勢神宮遥拝所
川尾神社の北側に伊勢神宮遥拝所があります。
新宮門
遥拝所から左側へと曲がった所に新宮門があり、
国の重要文化財に指定されています。
門の中に摂社の新宮神社と末社の山尾神社がありますが、門は閉ざされています。
毎月第2と第4の日曜日に開門されます。
新宮神社-門内
門の隙間から正面の新宮神社は望めますが、
山尾神社は左奥にあるので門からは見にくいです。
新宮神社の祭神は貴船神社から分祀された高龗神(たかおかみのかみ)で、
日本の代表的な水の神とされています。
本殿及び拝殿は寛永5年(1628)に造替えられ、国の重要文化財に指定されています。

山尾神社の祭神は大山津美神(おおやつみのかみ)で、
おおやまつみとは「大いなる山の神」という意味があり、山の守護神となります。
片山御子神社
川尾神社まで戻り、その先の片岡橋を渡ります。
片岡橋は昭和初年(1926)に架け替えられ、国の重要文化財に指定されています。

橋を渡った北側に第一摂社・片山御子神社があり、
(建玉依姫命、たけたまよりひめのみこと)が祀られています。
「片岡社先祭」と呼ばれ、本宮の全ての祭祀には、先ず片岡社で祭が行われます。
拝殿及び本殿は寛永5年(1628)に造替えられ、国の重要文化財に指定されています。
片山御子神社-本殿
片山御子神社の本殿
下鴨神社の祭神である賀茂建角身命には、二柱の御子神がいました。
一柱は土師尾社の祭神・建玉依比古命で、一柱は上賀茂神社の祭神・
賀茂別雷命の母神となる建玉依姫命(たけたまよりひめのみこと)です。
建玉依姫命が鴨川で禊をしていた時、上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて
床に置いていました。
丹塗矢は、角宮神社(すみのみやじんじゃ)の祭神である
火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身であり、後に賀茂別雷命を
出産したとされています。
須波神社
片山御子神社の手前、右側(東側)の石段上に摂社・須波神社があります。
平安時代の宮中、神祇官西院で祀られていた座摩神(いかすりのかみ/ざまのかみ)
が祀られています。
座摩神とは、生井神(いくゐのかみ/いくいのかみ)・
福井神(さくゐのかみ/さくいのかみ)・
綱長井神(つながゐのかみ/つながいのかみ)・波比祇神(はひきのかみ)・
阿須波神(あすはのかみ)の五柱の総称で、宮所守護の神々とされています。
上賀茂神社では神域守護の神と考えられますが、
社殿前の立札では癒しの神ともされています。
社殿は国の重要文化財に指定されています。
岩上-1
須波神社の南側は、「岩上(がんじょう)」と称され、立入りが禁止されています。
大きな露岩があり、神山から麓のこの地で祭祀が行われるようになった際、
この磐座が神籬(ひもろぎ)となったと思われます。
岩上-2
葵祭の際に宮司はこの岩の上に蹲踞(そんきょ)し、
勅使と対面して御祭文に対して「返祝詞(かえしののりと)」を申す、
神聖な場所とされています。
紫式部歌碑
山裾を東へ進むと紫式部の歌碑があります。
「ほととぎす 声まつほどは 片岡の もりのしづくに 立ちやぬれまし」
片山御子神社は片岡山の西麓にあり、
縁結びや子授けの御利益があるとされています。
紫式部は片山御子神社へ参拝し、ほととぎすを将来の結婚相手とみなし、
朝露の雫に濡れて待つ自らの姿を詠みました。
岩本神社
その先の岩上に末社の岩本神社があり、住吉三神が祀られていますが、
『徒然草』では在原業平を祀ると記されています。

在原業平(ありわら の なりひら:825~880)は、平安時代初期から
前期にかけての貴族・歌人で、官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。
在原業平の父は第51代・平城天皇の第一皇子・阿保親王、母は第50代・桓武天皇の
皇女・伊都内親王(いとないしんのう)で、非常に高貴な身分でしたが、
薬子の変により皇統が第52代・嵯峨天皇の子孫へ移ったことにより、
臣籍降下して在原朝臣姓を名乗りました。

業平は美男子で和歌の才能に優れ、『古今和歌集』の30首、
勅撰和歌集に87首が入選され、『伊勢物語』の主人公とされています。

岩本神社から東へ向かいます。
続く

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