石造りの五重塔から西へ進んだ先に柳田國男(1875~1962)の生家があります。
生家は狭く「私の家は日本一小さい家だ」と言ったと伝わりますが、
明治17年(1884)に 一家で兵庫県加西郡北条町(現・加西市北条町)に
転居しています。
翌明治18年(1885)、高等小学校を卒業した11歳の國男は、地元辻川の旧家・三木家に
預けられ、その膨大な蔵書を読破したと伝わります。
翌明治19年(1886)、医者を開業していた長男の鼎(かなえ:1860~1934)に
引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に
移り住みました。
16歳のときに東京に住んでいた松岡家三男の井上通泰(1867~1941)
(東京帝国大学医科大学に在学中)と同居しています。
井上通泰は12歳の時、神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となっています。
井上通泰の紹介で森鴎外(1862~1922)と親交を持ち、また通泰の世話で桂園派の
しかし、「なぜに農民は貧なりや」ということばに示されるように
当時の社会構造に対する鋭い疑問を持ち、農政学を志すことになります。
明治30年(1897)に東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)
に入学して農政学を学び、卒業と同時に農商務省に入りました。
明治34年(1901)5月に柳田家の家督を継ぐため、柳田家に入りました。
農商務省に勤め、一方で各地を旅して、地方に残る習俗や伝承を研究し、
特に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになります。
明治41年(1908)頃から岩手県遠野で、当時新進作家だった
佐々木喜善(ささききぜん:1886~1933)と知り合います。
『遠野物語』は佐々木喜から聞いた、遠野地方に伝わる伝承を柳田國男が筆記、
編纂する形で出版されました。
またこの頃から「郷土研究会」を始め、大正2年(1913)3月に雑誌『郷土研究』を
刊行し、民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎となりました。
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