柳田國男生家-1
石造りの五重塔から西へ進んだ先に柳田國男(1875~1962)の生家があります。
柳田國男は明治8年(1875)7月31日に儒者で医者の松岡操(みさお:1832~1896)、
母・たけの男ばかりの8人兄弟の六男として誕生しました。
生家は狭く「私の家は日本一小さい家だ」と言ったと伝わりますが、
明治17年(1884)に 一家で兵庫県加西郡北条町(現・加西市北条町)に
転居しています。
柳田國男生家-2
翌明治18年(1885)、高等小学校を卒業した11歳の國男は、地元辻川の旧家・三木家
預けられ、その膨大な蔵書を読破したと伝わります。
翌明治19年(1886)、医者を開業していた長男の(かなえ:1860~1934)に
引き取られ茨城県と千葉県の境である下総の利根川べりの布川(現・利根町)に
移り住みました。
16歳のときに東京に住んでいた松岡家三男の井上通泰(1867~1941)
(東京帝国大学医科大学に在学中)と同居しています。
井上通泰は12歳の時、神東郡吉田村の医者・井上碩平の養子となっています。
柳田國男生家-3
井上通泰の紹介で森鴎外(1862~1922)と親交を持ち、また通泰の世話で桂園派の
歌人・松浦辰男(1884~1909)に入門し、田山花袋(たやまかたい:1872~1930)・
国木田独歩(1871~1908)・島崎藤村(1872~1943)などの文学者と交流しました。
しかし、「なぜに農民は貧なりや」ということばに示されるように
当時の社会構造に対する鋭い疑問を持ち、農政学を志すことになります。
明治30年(1897)に東京帝国大学法科大学政治科(現・東京大学法学部政治学科)
に入学して農政学を学び、卒業と同時に農商務省に入りました。
明治34年(1901)5月に柳田家の家督を継ぐため、柳田家に入りました。
農商務省に勤め、一方で各地を旅して、地方に残る習俗や伝承を研究し、
特に東北地方の農村の実態を調査・研究するようになります。
明治41年(1908)頃から岩手県遠野で、当時新進作家だった
佐々木喜善(ささききぜん:1886~1933)と知り合います。
遠野物語』は佐々木喜から聞いた、遠野地方に伝わる伝承を柳田國男が筆記、
編纂する形で出版されました。
またこの頃から「郷土研究会」を始め、大正2年(1913)3月に雑誌『郷土研究』を
刊行し、民俗学が独自の領域と主張を持つための基礎となりました。
柳田國男生家-石臼
生家の隅には石臼が置かれていました。
天狗小屋
生家から少し下った所に辻川山公園があります。
『遠野物語』では鶏頭山(けいとうざん)に天狗が住んでいると記され、
天狗小屋が設けられていますが、小屋に隠れてしまいました。
池
池には河童の河太郎(がたろう)と河次郎(がじろう)が15分毎に出没します。
河童に関する記述は『遠野物語』にも見られますが、昭和33年(1958)1月8日
から9月14日にかけて神戸新聞に掲載された柳田国男の
回想記『故郷七十年』で、この河童が登場します。
JR「福崎」駅前
河太郎の出番まで待てない方は、JR「福崎」駅前へ行くと
いつも将棋を指しています。
妖怪像
また園内には様々な妖怪像が造立されています。
有井堂
公園から西へ進んだ細い路地に有井堂があります。
神積寺を開基した慶芳上人がこの地を訪れ、有井堂で一宿された時、
「東の谷に一堂を建立せよ」との夢告を受け神積寺が創建されたと
伝えられています。
また、柳田国男が『故郷七十年』で、有井堂の床下に犬が子を産み、
数匹の子犬がいるのを子供の頃に兄弟と見つけ、床下に潜り込んで捕まえたと
記しています。
有井堂-堂内
堂内には阿弥陀如来像が安置されています。

次回はバイクで兵庫県佐用町の瑠璃寺や
姫路市の破磐神社(はばんじんじゃ)などを巡ります。
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月見橋
金剛城寺から南東方向の神積寺へ向かうと、市川に架かる月見橋を渡ります。
市川
市川は兵庫県のほぼ中央を北から南へ流れ、今は川の流れは穏やかで、
水鳥が浮かんでいます。
柳田國男(1875~1962)は回想記『故郷七十年』に、
この川のどこかの淵に河童が住んでいたと記しています。
弁天堂
橋を渡って少し南下した所で左折し、道なりに東へ向かった突き当りに
放生池があり、島には弁天堂があります。
弁天堂内にあった棟札から天保7年(1836)に再建されたことが判明しました。
堂内には像高48cmの弁財天坐像と、それを取り巻く十五童子像が祀られています。
石段
左へ曲がり、北へと進むと正面に石段があります。
石段は35段あり、石灯篭を寄進した北山田村(現在の姫路市)助左衛門の
寄進によって築かれました。
文久2年(1862)に助左衛門の子孫である助五郎が参道を付けました。
その後、現在の石段が復元されています。
地蔵堂
石段下の左側には地蔵堂があります。
「長寿地蔵」と呼ばれ、参拝者の長寿を祈願して造立されました。
妙徳山古墳
石段の手前の右側に妙徳山古墳があります。
古墳時代後期頃の6世紀末に築造されたと推定される円墳で、
直径35m、高さ6m以上あり、古墳域は兵庫県の史跡に指定されています。
妙徳山古墳-石室
横穴式石室は神崎郡域では最大級の規模で、全長12.4m、高さ6mの玄室がありますが、
現在は土が中に入り込み、高さが低くなっているようです。
開山堂
古墳から山手へと進んだ所に神積寺の奥の院(開山堂)があり、
開山の慶芳上人が祀られています。
神積寺は山号を「妙徳山」と号する天台宗の寺院で、
西国薬師四十九霊場の第24番札所です。
寺伝によると、平安時代の正暦2年(991)、大納言・藤原範郷の子で
慈恵大師・良源(=元三大師:912~985)の高弟であった慶芳内供が
第66代・一条天皇(在位:986~1011)の勅願寺として創建されたと伝わります。
第67代・三条天皇(在位:1011~1016)の勅願所となり皇子である
覚照が帰依したことで、七堂伽藍と五十二院を数える大寺院として隆盛し、
更に第76代・近衛天皇(在位:1142~1155)の宣示により
播磨天台六山の1つに数えられました。
観音霊場
奥の院から山上に西国三十三所観音霊場の各本尊の石仏が祀られ、
こちらは出口のようです。
鐘楼堂
奥の院から本堂の方へ戻ると、江戸時代の寛文3年(1663)に建立された
鐘楼堂があります。
本堂
神積寺は鎌倉時代の延慶2年(1309)に全山焼失し、天正15年(1588)に再建されました。
明治3年(1870)までは、明治の神仏分離令以前の鎮守社であった岩尾神社の
文殊会式には毎年、勅使下向がなされていました。
本堂には、室町時代作で像高88.5cmの薬師如来坐像が安置され、
国の重要文化財に指定されていますが、60年に一度開帳の秘仏とされています。
脇侍には文殊菩薩と毘沙門天像、日光・月光の両菩薩像と
十二神将像などが安置されています。
賓頭盧尊者像
本堂前には賓頭盧尊者像が安置されています。
観音霊場-入口
本堂の左側に西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られた入口があります。
山中を奥の院の方へと祀られています。
行者堂
入口付近には行者堂があり、法道仙人が祀られています。
宝篋印塔
境内の宝篋印塔と平和観音像
石灯籠
石段上部の両側に建つ石灯籠は天和3年(1683)に両親の菩提を弔うため、
北山田村(現在の姫路市)助左衛門によって寄進されましたもので、
福崎町の文化財に指定されています。
悟真院
石段を下り、弁天堂の前を通り過ぎた西側に塔頭の悟真院があり、
唐門は福崎町の文化財に指定されています。
神積寺は、西国薬師四十九霊場・第24番札所で、納経は悟真院で行います。
仁王門
悟真院から更に南へと進んだ所に仁王門がありますが、
平成30年(2018)6月の参拝時は立ち入り禁止になっていました。
仁王門手前の大門地区の町名の由来となっています。
五重塔
弁天堂の前まで戻り、元来た道を戻って播但道路をくぐって左に曲がり、
その先で右へ曲がって池沿いに進んだ所に石造りの五重塔があります。
鎌倉時代中期の作と推定され、神積寺の開祖・慶芳上人の墓と伝えられ、
兵庫県の文化財に指定されています。

柳田國男の生家へ向かいます。
続く
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全景
弥勒寺の北東方向、バイクで30分弱の距離に金剛城寺があります。
山号を「七種山(なぐささん)」と号する高野山真言宗の寺院で、
新西国霊場の第30番札所です。
寺伝では推古天皇5年(597)に聖徳太子(574~622)の命を受けた
高麗僧・恵灌(えかん:生没年不詳)により、標高683mの七種山の中腹、
現在地から5km先の七種の滝の近くに「滋岡寺(しげおかじ)」という寺号で
創建されたと伝えられています。
恵灌は飛鳥時代に高句麗から渡来して三論宗を伝え、
日本の三論宗の祖とされています。
七種山には修行僧の滋岡川人(しげおかせんにん)が住んでおり、
干魃の時に七つの種を人々に与え飢餓から救い、この種は尽きることがなかった
から「七種山」と名付けられたと伝わります。
恵灌が寺を建立しようと現地を訪れると、川人より十一面観音を刻んで
安置するように告げられたことから、川人の名を取って「滋岡寺」になった
とも伝わります。
恵灌により堂塔伽藍が完成すると、播磨ゆかりの法道仙人(ほうどうせんにん)が
開山式に招かれたの伝承も残されています。
天平7年(732)に焼失しましたが、第45代・聖武天皇(在位:724~749)の勅命により
再建され、その後、空海(774~835)が訪れて護摩秘法を伝えたことから
真言宗の寺院となり、「金剛城寺」へ改められました。
石段
参道を進むと正面に石段があり、その上に鳥居が建っています。
弁天堂
石段の手前、左側に池があり、池の中には弁天堂があります。
四国八十八ヶ所霊場
少し登った左側に四国八十八ヶ所霊場があり、各本尊の石仏が祀られています。
阿弥陀堂-1
右側から境内に入った正面の石段上に阿弥陀堂があります。
メガネをかけた地蔵像
石段の脇にメガネをかけた地蔵像が祀られています。
宝篋印塔
石段の途中には歴史を感じさせる宝篋印塔が建っています。
阿弥陀堂-2
阿弥陀堂は旧境内地のものが移築されたと伝わります。
正平5年/観応元年(1350)に寺が焼失した際、足利尊氏(1305~1358)により
再建されました。
しかし、文明6年(1474)に焼失してからは衰退し、慶長6年(1601)になって再興され、
「作門寺(さくもんじ)」と改められました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で寺地が国に没収され、
境内地が現在地へ移されました。
その後、旧境内地下げ渡しの訴訟で勝訴し、現在では唯一の遺構として
山門が残されているそうです。
昭和3年(1928)に現在の寺号に戻されています。
渡り廊下
各お堂は渡り廊下で結ばれています。
不明な石像
この像の台石には「智徳院・・・」と記されていますが詳細は不明です。
本堂-1
右側に進むと本堂があります。
現在の本堂は明治45年(1912)に建立されました。
九間四面の広壮な本堂で、恵灌が刻んだとされる十一面観世音菩薩像が
本尊として安置されています。
本堂-2
本堂の彫刻
尊氏に再建されたことから、丸に2本の線の寺紋が使用されているように思われます。
賓頭盧尊者像
本堂には賓頭盧尊者像が安置されています。
鎮守社
本堂横の石段上には、鎮守社やその先に歴代住職のものと思われる墓地があります。
祠
石段の手前を右に行くと墓石?が祀られた祠があります。
護摩堂
突き当りには護摩堂があります。
護摩堂からの景色
護摩堂からの景色。
地蔵菩薩
護摩堂から下り、本堂前を阿弥陀堂の方へと進んだ所に、高さ121cm、幅96cm、
厚さ15cmの三角形状の石英粗面岩に地蔵菩薩が彫られています。
室町時代の応永6年(1399)の刻銘があり、町内で最も古い在銘石仏となり、
福崎町の文化財に指定されています。
護り本尊の石仏-1
本堂前へ戻ります。
本堂前には、生まれた干支の各護り本尊の石仏が祀られています。
護り本尊の石仏-2
その2
ポンプ車
昔の消防用のポンプ車
客殿
客殿でしょうか?
鐘楼
仁王門の手前に鐘楼があります。
鐘楼-石碑
鐘楼脇に石碑が建ち、「鐘を撞いてから納経所へ向かうように」と記されています。
仁王門
納経を済ませ、仁王門へ向かいます。
仁王門は昭和7年(1932)に建立されました。
仁王門-彫刻
仁王門にも彫刻が施されています。
仁王像
仁王像は旧山門から遷されました。
元禄14年(1701)に建立された旧山門は、
旧境内地に唯一の遺構として残されています。
田賀神社-拝殿
仁王門を出て、金剛城寺の横にある田賀神社へ向かいます。
先ほどの鳥居をくぐり、石段を登った所に拝殿があります。
元々、田口区内にあった春日神社・大歳神社・高山神社の三社が
合祀されてできた神社です。
田賀神社-幣殿
拝殿の背後にある幣殿
田賀神社-幣殿と本殿
幣殿とその背後の本殿
主祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、山の地主神であり、
また、農耕(治水)を司る神とされています。
田賀神社-本殿-彫刻
本殿に施された彫刻
田賀神社-砂防堤
本殿の背後は急傾斜で、砂防堤が築かれています。
山の鎮魂と豪雨による災害の防止を祈願して、
この場所にこの神社が創建されたように思われます。
田賀神社-磐座
磐座でしょうか?
静寂に包まれています。
火の見やぐら
神社から下ってきた所には火の見やぐらが建っています。

神積寺へ向かいます。
続く
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