寺号標
相国寺から東へ進んだ寺町通に面して本満寺があります。
山号を「広宣流布山(こうせんるふざん)」と号する日蓮宗の本山で、
京都十六本山の札所です。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼き討ちされる以前から存在した法華宗の
本山・洛中法華二十一ヶ寺の一つで、その後帰洛が許され、
単立または合併によって再建された十五ヶ寺に一ヶ寺が追加され、
一部は入れ替えされて現在の京都十六本山となりました。
妙見宮-1
寺町通から参道を進むと総門があり、国の重要文化財に指定されていますが、
その手前の北側に妙見宮があります。
洛陽十二支妙見・丑の札所となっています。
妙見宮-2
本満寺・第13世に就任した日乾(にっけん:1560~1635)は、自ら妙見菩薩像を
二躯刻み、一躯をこの妙見宮に、もう一躯を能勢妙見宮に安置しました。
能勢妙見宮は本満寺の旧末寺・真如寺の境外仏堂で、
真如寺は身延山久遠寺・第21世に就いた日乾に帰依した
能勢頼次(1562~1626)により、創建されました。
七面堂
総門をくぐった先に七面堂があります。
第14世・日遠(にちおん:1572~1642)が七面山で千日修行を行った際に
感得したとされる七面天女が祀られています。
洗い浄行菩薩像-1
七面堂から参道を右側に曲がり、その先を左に曲がった先に
「洗い浄行菩薩像」が祀られています。
洗い浄行菩薩像-2
浄行菩薩は法華経に出現する菩薩で、穢れを清める水徳を持つ菩薩とされています。
また、自身の悪いところ、病気、怪我などで痛む所と同じこの菩薩像の箇所に
水をかけ、磨くことによって治癒するとの信仰があります。
鐘楼
その前に鐘楼があります。
本堂
現在の本堂は明治44年(1911)2月8日に焼失した後、
昭和2年(1927)に再建されました。
本満寺は応永17年(1410)に関白・近衛道嗣の子である日秀(1264~1334)が、
本圀寺(ほんこくじ)から分立し、道嗣の別荘であった現在の
上京区元本満寺(新町通今出川上る西入付近)に創建しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
帰洛したとする説と、天文8年(1539)に関白・近衛尚道(1472~1544)の外護により
現在地で再建されたとする説があり、その後は後奈良天皇の勅願寺となりました。
寛文元年(1661)と宝永5年(1708)及び天明8年(1788)にも
大火で焼失しましたが、その都度再建されました。
万治4年(1751)には8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となりました。
蓮乗院霊屋
本堂の左側に蓮乗院霊屋があります。
蓮乗院(れんじょういん:?~1621)は徳川家康の次男・松平秀康の正室で、
蓮乗院霊屋は元和7年(1621)に没後間もなく建立されたと考えられています。
鶴姫(蓮乗院)は常陸国(茨城県)の水戸城主・江戸重通の娘として生まれました。
天正18年(1590)、水戸城は佐竹義重の攻撃を受け落城し、
重通は妻の兄である結城晴朝の許へと逃れました。
晴朝は鶴姫を養女とし、豊臣秀吉との結びつきを求めて養子の紹介を願い出たところ、
当時、秀吉の養子となって「羽柴秀康」と名乗っていた松平秀康が婿養子として
鶴姫と婚姻し、結城家の家督を継ぐことになりました。
秀吉没後の慶長5年(1600)、秀康は徳川家康による会津征伐に参戦しましたが、
その間隙をぬって石田三成らが挙兵し、関ケ原の戦いが起こりました。
関ヶ原の戦いの後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から
越前北庄68万石に加増移封されました。
慶長9年(1604)には松平氏に復されましたが、慶長12年(1607)に34歳で病死しました。
その後、鶴姫は公卿・烏丸光広(からすまる みつひろ)と再婚しました。
寛永15年(1638)、烏丸光広が60歳で亡くなると、鶴姫は福井に移り
結城家を継いだ子の直基と暮らし、福井で亡くなりました。
直基は秀康の五男で実母は鶴姫の侍女でした。
鶴姫が没後は烏丸家に縁がある本満寺に葬られました。
蓮乗院霊屋は越前産・笏谷(しゃくだに)石を用いた石造建築で、
内部に元和7年(1621)の陰刻をもつ宝篋印塔が据えられています。
五輪塔
その左側の五輪塔は本満寺12世の日重上人(1549~1623)のものと思われます。
若狭小浜で生まれ、千葉の本国寺で出家し、日珖(にちこう:1532~1598)に
師事して日蓮教学を学びました。
本国寺学道求法講院に招かれ開祖となり、門下の養成に努めた後、
久遠寺二十世に就任しました。
慰霊塔
五輪塔の左側に慰霊塔があります。
六地蔵
本堂の右側にある参道を北へ進むと六地蔵が祀られています。
観音像
墓地の入口には観音像が祀られ、墓地には安土・桃山時代の
武将・山中幸盛(1545~1578)の墓があります。
山中幸盛は戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、
尼子氏の家臣でした。
通称で鹿介(しかのすけ)と呼ばれ、優れた武勇の持ち主で
「山陰の麒麟児」の異名もありました。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝わります。
永禄9年(1566)、尼子氏は最後の砦としていた月山富田城(がっさんとだじょう)に
毛利軍の総攻撃を受け、滅ぼされました。
その後、山中幸盛が尼子家の再興に尽力したのですが、
天正6年(1578)の上月城(こうづきじょう)の戦いで敗れ、
尼子家は滅亡し、山中幸盛は捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、
備中国成羽で殺害されました。

京阪出町柳駅まで戻り、次回からは京阪丸太町駅から革堂・行願寺から
京都御苑などを巡ります。
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