15:00の少し前に出石神社の駐車場に到着しました。
駐車場前に木製の両部鳥居が建ち、右側の狛犬の斜め後ろには
「国幣中社 出石神社」と刻まれた石標が建っています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列せられ、
中世・近世には但馬国の一宮にも位置づけられました。
明治4年(1871)5月に制定された近代社格制度では国幣中社に列し、
現在は神社本庁の別表神社となっています。
鳥居をくぐった先に神門があります。
八脚門で、鮮やかな丹塗が施されています。
門の脇に旧鳥居の残欠が置かれています。
平安時代の遺物で、昭和8年(1933)の出石川改修に伴い、鳥居橋・橋脚工事中に地中から、
この鳥居の両側の元口とその下から多数の古銭が発見されました。
神社から西方約700m離れた鳥居橋周辺には「鳥居」の地名が残されています。
また、伝承ではこの鳥居が二の鳥居で、更に鳥居橋から約3km離れた
狭間坂(豊岡市出石町方間)に一の鳥居があったとされ、
広大な社領地を有していたと考えられています。
神門をくぐった左側に社務所があります。
正面に拝殿があります。
拝殿には木製の狛犬が祀られています。
出石神社は兵庫県豊岡市出石町宮内にあり、かってはこの地が周辺一帯の中心地でした。
鎌倉時代の弘安8年(1285)に編纂された『但馬国大田文』では、
「出石大社の社領田は141町余」との記載があり、
但馬国一宮の位置付けにあったとされています。
しかし、永正元年(1504)に山名氏内紛による兵火で神宮寺の総持寺と共に社殿を焼失し、
大永4年(1524)になって社殿再興の勧進状が起草され、再建されたと推定されています。
天正2年(1574)に山名氏が居城を此隅山城(このすみやまじょう)から
有子山城(ありこやまじょう)へ、後に出石城に移してからは、
神社から約2km南へ離れた現在の市街地が発展するようになりました。
天正8年(1580)には羽柴秀吉が但馬地方を平定し、それまで神社を崇敬した
山名氏は但馬を去り、社領も没収されて社勢は衰微しました。
江戸時代になると出石藩主・小出氏の崇敬を受け、延宝4年(1676)に門の造営が行われ、
天和2年(1682)には小出氏の屋敷地・田地が寄進されました。
明和7年(1770)に本殿、安永3年(1774)に社殿が造営されましたが、
明治43年(1910)に発生した火災で焼失し、現在の社殿は大正3年(1914)に再建されました。
本殿
出石神社の創建は不詳ですが、『日本書紀』や『古事記』に記述が残され、
その歴史は第11代・垂仁天皇(在位:BC29~70)まで遡るとされています。
『日本書紀』によると出石神社の祭神・天日槍(あめのひぼこ)は、
垂仁天皇3年(BC27)3月に播磨国に渡来しました。
天日槍は新羅の王子で、日本への帰属を願って海を渡り、天皇に八種の宝物を献上しました。
天皇は天日槍に播磨国宍粟邑(しそうむら)と淡路島出浅邑の2邑に居住を許しましたが、
天日槍は諸国を遍歴し適地を探すことを願ったので、これを許しました。
そこで天日槍は、菟道河(宇治川)を遡って近江国吾名邑(あなむら)にしばらく滞在し、
近江国鏡村の谷の陶人(すえびと)が天日槍の従者となりました。
近江から若狭国を経て但馬国に至って居住した天日槍は、
但馬国出島(出石に同じ)の太耳の娘の麻多烏(またお)を娶り、
麻多烏との間に子孫を儲けました。
また、『古事記』では「天之日矛」と表記され、逃げた妻を追って日本に渡来し、
難波を目指しました。
しかし、浪速の渡の神(なみはやのわたりのかみ)に遮られ入港が叶わず、
新羅に帰ろうとして但馬国に停泊し、そのまま但馬国に留まり
多遅摩之俣尾(たじまのまたお)の娘の前津見(さきつみ)を娶り
子孫を儲けたと記されています。
社伝では天日槍は、当時の但馬が泥水で充満していたのを見、
円山川河口の岩石を切り開いて泥水を日本海へと流し、
肥沃な平野としたと伝えています。
出石神社は天日槍から3代目の子孫・多遅麻比那良岐命(たじまひならきのみこと)が
祖神の天日槍を祀ったことが始まりとされています。
余談ですが、多遅麻比那良岐命の子・多遅摩比多訶(たじまひたか)が姪にあたる
由良度美(ゆらどみ)を娶って産んだ子が高額比売命
(たかぬかひめのみこと)で、神功皇后の母親となります。
出石神社では、天日槍命と天日槍命が但馬国に納めたとされる
八種の神宝が「伊豆志八前大神(いづしやまえのおおかみ)」として祀られています。
境内社として右側に夢見稲荷社、左側に比賣社があります。
そして左・市杵島比賣神社と右・天神社があり、
画像はありませんが、境内東北隅の一角に、
広さ1,000㎡に及ぶ禁足地があります。
出石神社から南へ10分足らず走った所に辰鼓楼(しんころう)があります。
明治の廃城令で出石城は取り壊されることになりましたが、三の丸・大手門の
石垣を利用して、明治4年(1871)に辰鼓楼が建設されました。
高さ13mの4階建てで、当初は文字通り太鼓を叩いて時刻を知らせていましたが、
明治14年(1881)に地元の医師から時計が寄付され、以後時計台となりました。
同年に札幌時計台も開設され、共に日本最古の時計台となっています。
辰鼓楼から東へ進んだ所に出石城跡があります。
但馬国守護となった山名時義が、出石神社の北側の此隅山に、
此隅山城(このすみやまじょう)を築いたのですが、永禄12年(1569)年に織田軍の
羽柴秀吉による但馬平定で落城しました。
山名祐豊(やまな すけとよ)は、今井宗久の仲介によって織田信長と和睦して領地に復帰し、
天正2年(1574)に標高321mの有子山山頂を天守とする有子山城(ありこやまじょう)を築き、
本拠としました。
しかし、毛利氏方についたため、天正8年(1580)に羽柴秀吉による
第二次但馬征伐で有子山城も落城、但馬国山名氏は滅亡しました。
その後、天正13年(1585)から前野長康、文禄4年(1595)からは小出吉政が城主となりました。
慶長9年(1604)には小出吉英により、有子山城の山上の丸および天守部分が廃され、
有子山城山麓の郭および館のみを出石城と命名し幕府に居城として届けました。
それにともない平地に、堀で囲まれた三の丸が築かれ、下郭、二の丸、本丸、
稲荷丸が階段状に築かれました。
城主の居館も成り、このとき城下町も整備され、出石の町並みが形成されました。
江戸時代は一国一城令により、出石城が但馬国唯一の城郭となり、
出石藩の藩庁が置かれました。
宝永3年(1706)に仙石政明が入城し、廃藩置県まで仙石氏の居城となりましたが、
明治の廃城令で取り壊しとなりました。
現在は隅櫓、登城門・登城橋などが復元され、
堀の周囲一帯は登城橋河川公園として整備されています。
次回は奈良市の般若寺から京都府木津川市の笠置寺及び海住山寺を巡ります。
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