京都大宮御所の正門は西側にあります。
大宮御所とは皇太后及び太皇太后(崩御した天皇の皇后)の御所のことですが、
上皇が存命中は「仙洞御所」と称されます。
古くから「大宮」が皇太后や太皇太后の敬称として
用いられてきたことに由来しています。
拝観受付は北西側の門で行われ、開門前の画像です。
門の右側で受付が行われています。
拝観は無料で、事前予約か当日の午前11時から先着順の拝観受付も行われています。
詳しくは宮内庁のHPをご覧ください。
但し、11月は後半から紅葉の季節となり、予約は既に多くが埋まっており、
当日予約で11時に行ったのでは殆ど望み薄のようです。
当日予約で11時に行ったのでは殆ど望み薄のようです。
朝の8時頃から並ぶ人もいるそうです。
拝観は午後1時30分、午後2時30分、午後3時30分からで、所要時間は約1時間、
それぞれの定員は35名ですが、現在は新型コロナの影響で、定員は20名に削減され、
午後2時30分の拝観は休止されています。
また、月曜日(祝日の場合はその翌日)と年末年始(12/28~1/4)は
拝観が休止されています。
当日は午前11時に受付へ向かいましたが、既に3組6名の方が並ばれている
だけだったので午後1時30分のコースが予約できました。
だけだったので午後1時30分のコースが予約できました。
それまでの時間は京都迎賓館を拝観しました。
11:50からのガイドツアーで、それが終了すると
仙洞御所・大宮御所拝観の集合時間となります。
拝観は京都大宮御所から京都仙洞御所を巡るコースで設定され、
冠木門(かぶきもん)を入ります。
仙洞御所とは天皇が退位して上皇となられた時の御所で、大宮御所はその后の御所です。
現在地で造営されたのは、寛永6年(1629)に天皇を退位された後水尾上皇と
その后・東福門院のためのもので、寛永7年(1630)に竣工しました。
しかし、嘉永7年(1854)に仙洞御所が焼失してからは、上皇が不在であったこともあり、
再建されることも無く、慶応3年(1867)には仙洞御所の敷地と庭園が
大宮御所に組み入れられ、東京奠都後の京都での皇室の邸宅として整備されました。
門を入ると右側に先ほど外から見た正門があります。
大宮御所は、寛永7年(1630)に竣工し、過去には対面所や小御所、学問所、姫宮、若宮、
局など多くの殿舎が建ち並んでいました。
東京奠都後の明治5年(1872)以降は空院となり、
明治16年(1883)に大部分の殿舎が撤去されました。
また、創建当初は大宮御所と仙洞御所は独立し、
二つの建物は長廊下で結ばれていました。
正門の東側正面に御常御殿の御車寄があります。
大正4年(1915)に大正天皇の即位の礼が行われた際に新造されました。
皇族の行幸啓時には正門が開かれ、車が御車寄に横付けされます。
前の広場は京都博覧会などの会場になりました。
京都府と民間によって京都博覧会社が創設され、明治5年(1872)に
西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会が開催されました。
京都博覧会社(後に京都博覧協会と改称)主催の京都博覧会は昭和3年(1928)まで
ほぼ毎年開催され、第二回~第九回まで御車寄前の広場などが会場となりました。
また、明治10年(1877)にはこの広場で島津製作所の創業者・島津源蔵(1839~1894)が
水素ガスによる日本初となる有人の気球を35mの高さまで上昇させました。
御常御殿です。
第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)が慶応3年(1867)に
后の九条夙子(くじょう あさこ:1835~1897)のために建立しました。
九条夙子は幕府に反対されたために皇后になれず、
孝明天皇が慶応2年12月25日(1867年1月30日)に崩御されたため、
慶応4年(1868)に皇后を経ずして皇太后となりました。
慶応4年(1868)に皇后を経ずして皇太后となりました。
但し、明治天皇の実母ではありません。
九条夙子は御常御殿で5年間過ごし、東京奠都後の明治5年(1872)に東京へ遷御され、
明治30年(1897)に64歳で崩御された後、「英照皇太后」と追号されました。
ほぼ正方形の建物で外国からの賓客を迎えるため、
大正時代(1912~1926)に洋風へと改修され、調度品も洋風で統一されています。
内部は非公開で外からはガラス戸と内部にレースのカーテンが見えます。
ダイアナ妃が宿泊された際には長身でベッドのサイズが合わず、
急遽イギリスから輸入されたそうです。
御常御殿の前に見えるのは紅白の梅です。
潜り戸を抜けると大宮御所の池泉回遊式庭園があり、時計回りで巡ります。
造営された当初は木立の高さも低く、背後の東山連峰を借景としていたそうです。
池の正面には鷺島(さぎしま)が見え、池の南は紅葉山で区切られた独立した池でした。
現在は紅葉山の中央が開削され、仙洞御所の池と結ばれたことから「北池」と呼ばれ、
掘割には紅葉橋が架けられました。
紅葉山の西側の半島には船着場が設けられています。
紅葉山の西側の半島には船着場が設けられています。
後水尾上皇が船遊びを好まれた事によるもだそうです。
橋の西側の小さな入江は「阿古瀬淵(あこせがふち)」と呼ばれています。
庭園が造園される以前から存在していたと伝わり、春になると周囲に山吹の花が
咲くことから「古池山吹」と呼ばれていたそうです。
かって、紀貫之の屋敷があったとされ、紀貫之の幼名・「阿古久曽(あこくそ)」が
淵の名の由来となったと伝わります。
また、一説では紀氏の旧邸は仙洞御所の南にある富小路広場辺りとされ、
大宮御所の北辺りにある藤原道長の邸宅・「土御門邸」の一部であったとも伝わります。
令和2年(2020)、京都仙洞御所内で発掘調査が行われ、石垣と堀跡の遺構や金箔が付いた
瓦が見付かり、当地は聚楽第を破却した後に豊臣秀吉が築いた邸宅・「京都新城」の
瓦が見付かり、当地は聚楽第を破却した後に豊臣秀吉が築いた邸宅・「京都新城」の
跡地であることが判明し、阿古瀬淵も豊臣家邸宅庭園の遺構とされました。
慶長2年(1597)に創建され、「太閤御屋敷」「太閤御所」とも呼ばれていましたが、
秀吉は完成した屋敷を数度訪れただけで翌年没しました。
秀吉没後は秀頼も大坂城へ移り、京都新城へは慶長4年(1599)に秀吉の正室・高台院が
移り住み、「高台院屋敷」と呼ばれるようになりました。
寛永元年(1623)に高台院が没すると木下利房が住むようになりますが、寛永4年(1626)に
第108代・後水尾天皇が譲位の意向を示したため、
仙洞御所の敷地に選ばれ、高台院屋敷は解体されました。
紅葉橋から右手奥に滝が見えますが「雄滝(おだき)」と呼ばれています。
滝の右側の池中にある平石は「草子洗(そうしあらい)の石」と呼ばれ、
「草子洗小町」に由来するとされていますが、定かではありません。
雄滝の奥の谷川には、長さ3m、幅50cmの一枚石の石橋が架けられ、
「鵲橋(かささぎはし/じゃっきょう)」と呼ばれています。
中国の伝説で旧暦の7月7日の七夕の日に天の川上にできる橋の名前に由来しています。
この橋は織姫と彦星が出会うためにできることから、
鵲橋とは男女が良縁で結ばれる事を意味していますが、ここから橋は見えません。
八ツ橋の上は樹齢130年の藤棚で覆われ、5月中旬の頃には藤が満開になるそうです。
八ツ橋は全長約20mで、かっては木橋であり、中島寄りには橋殿が建てられていました。
明治28年(1895)に現在の橋に架け替えられ、
8枚の御影石を稲妻形に繋げられたことから「八ツ橋」と呼ばれるようになりました。
また、日本の箏(そう=琴)の基礎を築いたとされる八橋検校に由来するとの説もあり、
橋が琴に似ているとも云われていますが、少々無理があるようにも思えます。
橋が琴に似ているとも云われていますが、少々無理があるようにも思えます。
中島にはかっては釣殿などの建物がありましたが、嘉永7年/安政元年(1854)の大火で
仙洞御所の建物と共に焼失し、以後再建はなされませんでした。
現在、中島に残されている三本足の雪見灯籠は
水戸光圀(1628~1701)が献上したものと伝わります。
中島から北の方角には雄滝がある出島の東側に石橋が見えます。
土佐橋右手の切石護岸に当初、この庭園を造営した小堀遠州の遺構が残されています。
小堀遠州は幕府から作事奉行を命じられ、寛永11年(1634)から同13年にかけて造営した
のですが、現在よりも規模は小さく後水尾上皇は作風に満足していなかったために
その後、上皇により大幅に改修されました。
醒花亭の前から南池西岸の州浜沿いの苑路には、両側にはヤマザクラ等が植えられ、
「桜の馬場」と呼ばれています。
州浜の石は「一升石」と呼ばれ、小田原藩主が海岸近くの民に集めさせ、
1個につき米一升と交換して寄進されました。
その数は11万個にも及びます。
柿本神社から西へ京都仙洞御所の正門へと至る苑路の両側にはかって、
仙洞御所の建物が建ち並んでいました。
「仙洞」とは本来、仙人が住した処を指し、中国では仙人とは神に近い存在であり、
俗世を離れて深山に隠遁していたことから、
退位した天皇の住まいの美称として用いられるようになりました。
寛永4年(1627)に後水尾上皇のために造営され、正式名称を「桜町殿」と称されました。
その後、霊元上皇・中御門上皇・桜町上皇・後桜町上皇・光格上皇が仙洞御所へ入り、
嘉永7年(1854)の焼失後は再建されませんでした。
大正4年(1915)には当地に大嘗宮が建立され、第123代・大正天皇の即位礼の後の
大嘗祭(だいじょうさい)が行われました。
現在ではその大嘗宮も撤去されています。
柿本神社から州浜沿いの苑路を北へ進むと、茶室・又新亭(ゆうしんてい)があります。
明治17年(1884)に近衛邸から移築されたもので、江戸時代末期に裏千家十一世の
玄々斎精中(げんげんさい せいちゅう)により創建されました。
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