山門
廬山寺から寺町通を南下し、荒神橋通を少し東に入った所に護浄院があります。
正式には「常施無畏寺(じょうせむいじ)」と称する天台宗の寺院で、
通称で「清荒神」と呼ばれています。
清荒神と言えば兵庫県宝塚市にある清荒神清澄寺が有名ですが、清荒神清澄寺は
寛平8年(896)に第59代・宇多天皇の創意による勅願寺として創建された
真言三宝宗の大本山で、常施無畏寺との直接の関係は無いようです。
常施無畏寺の創建は箕面にある勝尾寺と深い関係があります。
伝承によると神亀4年(727)、藤原致房(むねふさ)の双子の兄・善仲(ぜんちゅう)と
弟・善算(ぜんさん)は、勝尾山中に草庵を結び、仏道修行を続けていました。
それから約40年後の天平神護元年(765)、光仁天皇の皇子である開成親王
2人に師事して仏門に入りました。
宝亀3年(772)、開成親王が修行していたとき、体長3mの鬼神の姿をした
三宝荒神が、多数の眷属とともに夢の中に現れました。
皇子は驚き、自ら尊影を模刻し守護神として祀りました。
その後、宝亀8年(777)に弥勒寺を創建して、三宝荒神を祀ったのが
勝尾寺の始まりとされています。
勝尾寺のある山中には皇子の墓が残されています。

勝尾山は京都から参詣するには遠すぎるとして、
室町時代の明徳元年(1390)に第100代及び北朝第6代・後小松天皇の勅命により、
僧・乗巌(じょうげん)により現在の高辻堀川の東に勧請され、
「清荒神」と称されました。
現在も高辻堀川の付近には荒神町の町名が残されています。

第107代・後陽成天皇は王城守護のため荒神町からの移転の勅命を下しました。
豊臣秀吉は勅命を受け、現在地で堂宇を着工しましたが、
秀吉没後の慶長5年(1600)に完成し、後陽成天皇自作の如来荒神尊7体が安置されました。
後陽成天皇からは「常施無畏寺(じょうせむいじ)」の号も賜ります。

元禄2年(1689)、第113代・東山天皇は長日護摩供、三千座供養を命じ、
元禄7年(1694)にその功績に称えられて朝廷から住持に僧官が与えられました。
元禄10年(1697)には東山天皇から、御所の浄域を護るという
「護浄院」の院号が与えられました。
御所から見て東南の方角を守る立地にあることから
巽(東南)の守護神ともされています。
地蔵堂
山門を入った右側に延命地蔵尊が祀られた地蔵堂があります。
道祖神
参道を進んだ先に、夫婦円満・縁結びの「道祖神」の石像が祀られています。
採燈護摩壇旧跡
その先に平安時代中期の天台宗の高僧・浄蔵が、護摩を焚いたという
「 採燈護摩壇旧跡」が残され、松の木が植えられています。
尊天堂
境内の東側には横に長く尊天堂があり、弁財天・恵美須神・福禄寿・吉祥天・
准胝観音・不動明王・大聖歓喜天・薬師如来などが祀られています。
恵美須神・福禄寿・吉祥天は、禁裏に祀られていたものが明治維新後に
遷されたもので、恵美須神は京都七福神、福禄寿は京の七福神
札所本尊となっています。
准胝観音(じゅんていかんのん)は江戸時代初期の作と推定され、
洛陽三十三所観音霊場・第3番の札所本尊となっています。
不動明王は第3代天台座主・慈覚大師円仁の作と伝わり、
江戸時代の天和元年(1681)に、荒神の本地仏として安置されました。
胞衣塚
尊天堂の前にある五輪塔は、第119代・光格天皇の「胞衣(えな)塚」です。
胞衣とは胎盤のことのようで、
光格天皇の「へその緒」が納められているそうです。
無垢の井
尊天堂から右側に進んだ所にある手水舎は「無垢の井」と称されています。
京の三名水の一つに挙げられている梨木神社の「染井の水」と同じ水脈とされています。
本堂
参道の正面に本堂があり、本堂前には石造りの鳥居が建ち、
「神仏習合」時代の名残となっています。
本尊は開成親王の作とされる「清三宝荒神」で、三宝荒神は、
凄まじい力を持ち、仏・法・僧を守護し、不浄を許さない厳しさを持つことから、
火で清浄が保たれる竈(かまど)に祀られ、かまどの神、火の神とされています。
現在は秘仏とされ、松久宗琳(1926-1992)作の御前立が安置されています。

京阪電車の神宮丸太町駅から帰宅し、次回からは予定を変更して
京都市伏見区を巡ります。
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