特急の停車駅でもある京阪中書島駅から西へ進むと壕川(ごうかわ)に架かる橋があり、
橋を渡って左折し、進んだ先に伏見港公園があります。
公園から南へ進むと、建設省「三栖閘門事務所(みすこうもんじむしょ)」があります。
因みに「中書島」の地名は、かって巨椋池(おぐらいけ)に浮かぶ島の名でした。
更に南へ進むと宇治川に面して三栖閘門の後扉室があります。
閘門が完成した当初はこの水門の前まで船が通れるくらいの水位があったのでしょうが、
現在は宇治川の流路が変わったのか、それとも水位が減ったのか、
水門より少し離れた所を宇治川は流れています。
後扉室から前扉室を望むと、間の閘室に壕川の遊覧船の下船場があります。
乗船場は月桂冠大倉記念館裏にあって、料金は1,200円。
ここでは一時下船して三栖閘門を見学するようです。
かっては、船が閘室に入ると前扉が閉じられて水が抜かれ、宇治川の水位と
同じになった所で後扉が開けられ、船が宇治川を航行する役割を果たしていました。
その仕組みは入館無料の三栖閘門資料館で、模型を使って詳しく解説されています。
そもそも壕川とは、文禄元年(1592)に豊臣秀吉が築いた伏見城の外堀で、
城下に物資を運ぶ運河の役割も果たしていました。
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方向に流れて巨椋池(おぐらいけ)に
合流していましたが、北方に流れる流路にまとめられ、伏見城下へと導かれました。
宇治川には「太閤堤」が築かれ、それによって水域面積約8平方kmに及ぶ巨椋池への
新たな水の供給が断たれました。
巨椋池は沼のようになり、明治時代にはマラリヤ蚊の発生場所となったことから
干拓されることとなりました。
一方で流路をまとめられて伏見へと延ばされた宇治川は、水位を上げたことにより
城下に港が築かれ、水運の要所となりました。
慶長19年(1614)には角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)と
素庵(そあん:1571~1632)父子により高瀬川が開削され、
壕川と合流されたことにより市内中心部への物資の運搬が可能となりました。
大正6年(1917)に起こった大洪水により淀川堤防が決壊したことから翌年以降、
改修工事が行われるようになりました。
宇治川と壕川に水位差が生じるようになったことから三栖閘門が建設され、
昭和4年(1929)に完成しました。
しかし、陸上運送が主役となるにつれ、水運の役割を終えて三栖閘門での
船の運航は昭和37年(1962)に廃止され、
昭和51年(1976)には京都府立伏見港公園として整備されました。
また、三十石船の模型が展示されています。
淀川三十石船は、桃山時代(1583~1603)の初期から淀川を上下した客船及び荷物船で、
伏見の京橋から大阪の八軒家まで運航した長さ17m、幅2.5mの木造船です。
一俵五斗入りの米を六十俵積載したので「三十石船」と名付けられ、
客船の場合は35名ほどが乗船しました。
下りは半日で航行できましたが、上りは人が船を綱で引く曳船となるため、
1日1夜を要しました。
橋を渡った対岸にはテニスコートや屋内温水プールを併設した体育館などがあります。
元は港の船溜まりでしたが埋め立てられ、昭和42年(1967)にテニスコートと子供プール、
昭和57年(1982)に体育館がオープンしました。
テニスコートの南側に織田信長の塚石があります。
船溜まりの南側であったこの地一帯はかっては墓地であり、文禄2年(1593)に本拠を
伏見城へ移した豊臣秀吉が、主君追慕のために建てた墓石と伝わります。
昭和30年(1955)に発掘され祀られるようになりました。
壕川の東側を上流に向かって北へ進むと、京阪電車のガードを超えた次の橋(肥後橋)で
車道に登る石段があります。
それを登った南側に三栖神社の御旅所でもある金井戸神社があります。
天武天皇元年(672)に起こった壬申の乱で、
大海人皇子(おおあまのおうじ=後の第40代・天武天皇)が
大津行幸の際にこの地を通り、村人が炬火(かがりび)を灯して夜道を照らしたのが
三栖神社の始まりとされています。
三栖神社で毎年10月16日に近い日曜日に行われている炬火祭(たいまつまつり)は、
その故事に由来しています。
しかし、吉野へ去った大海人皇子は、天智天皇の崩御後に挙兵を決意し、
自らの領地である美濃の湯沐邑(とうもくゆう/ゆのむら)へ向かい、
そこから挙兵して大友皇子を攻めたとするのが一般的なので疑問も残ります。
左側には美女御前社と天満宮社の相殿があります。
美女御前とは...?源満仲(みなもとのみつなか)の子でありながら、
菅原道真の怨霊が宿ったとされる牛鬼・丑御前(うしごぜん)と関係があるのか?
詳細は不明です。
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