表門
午前5時に自宅を出発し、バイクで慈尊院へ向かいました。
スマホの地図アプリの更新や細々としたトラブルの連続で、予定より約1時間遅れの
8時30分頃に慈尊院に到着しました。
慈尊院は山号を万年山と号する高野山真言宗の寺院で、
仏塔古寺十八尊霊場の第6番札所となっています。
表門(北門)は切妻造り、本瓦葺の四脚門で、親柱は円柱、控え柱は面取り角柱からなり、
県の文化財に指定されています。
土塀
築地塀(土塀)は、境内の周囲3方約119mにわたり、棟高2.9mで和歌山県一の古さと
壁の厚さがあり、県の文化財に指定されています。
下乗石
表門前の左側に下乗石があり、九度山町の文化財に指定されています。
保延2年(1136)に建立されたもので、かって、高野山へは皇族や貴族であっても
徒歩で登るのが原則とされ、ここで馬や御輿から降りました。
県下最古の下乗石ですが、天文9年(1540)に紀の川の大洪水によって破損し、
「下」の字から上部のみが現在地に移されました。
慈尊院は、弘仁7年(816)に弘法大師が、高野山開創の時に、高野山参詣の要所に当たる
この地に、表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置き、
高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされました。
当時の慈尊院は、「慈氏寺(慈氏とは弥勒菩薩のこと)」と称され、今の場所より北側にあり、
方6丁の広さがあったと伝わります。
天文9年(1540)の紀ノ川の氾濫により諸堂の大半が流失し、弥勒堂だけは
文明6年(1474)に現在地に移してあったので、流失を免れました。
残った堂塔を弥勒檀に縮小移転し、天文10年3月に落慶供養が営まれましたが、
政所の事務や宝蔵の什宝は山上に移されました。
天文13年(1544)7月にも再度、紀ノ川に大水が出て、残っていた旧慈氏寺は、全て失われました。
五輪塔
表門を入った右側に二基の五輪塔がありますが、塔の建て方の順番が異なっています。
承安元年(1171)12月、慶幸俊厳の放火によりたくさんの経巻、道具類が焼失し、
その悲しみのうちに建てられ、町の文化財に指定されている五輪塔二基がありますが、
この塔がそれなのかは定かではありません。
大師堂
大師堂(四国堂)には弘法大師像と脇仏として四国八十八霊場の各本尊が祀られています。
賓頭盧尊者像
大師堂の縁側には賓頭盧尊者像が安置されています。
多宝塔
大師堂の先に多宝塔があり、県の文化財に指定されています。
弘法大師によって創建された後、現在の塔は寛永元年(1624)に再建されました。
本尊は胎蔵界大日如来で、胎蔵界四仏が脇仏として安置されています。
鬼子母神堂
大師堂と多宝塔の間に許梨帝母(かりていぼ=鬼子母神)を祀る社殿があります。
鬼子母神は多くの子を持ち、これらの子を育てるだけの栄養をつけるために
人間の子を捕えて食べていました。
しかし、釈迦に諭され、仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
ナギの木
社殿の背後に聳える「ナギの木」は樹齢350年以上で、胸高の幹回り2.03m、樹高15mあり、
町の天然記念物に指定されています。
観音像
社殿の左側に観音像が祀られています。
弥勒堂
表門を入った右側に本堂(弥勒堂)があります。
弘法大師が開いた高野山を一目見たいと母の玉依御前は讃岐国多度郡
(現:香川県善通寺市)から訪れました。
しかし、当時の高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、
麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰しました。
弘法大師は月に9度、高野山から下って母に会いに来たことから
「九度山」の地名の由来となりました。
玉依御前は訪れた翌年の承和2年(835)2月5日に亡くなり、大師はここに廟堂を建立し、
自作の弥勒菩薩像と母の霊を祀り、母の法号「慈尊院」をとって当寺の院号としました。
廟堂は文明6年(1474)に現在地に移され、国の重要文化財に指定され、
世界遺産に登録されています。
本尊の弥勒菩薩坐像は平安時代作で国宝に指定され、21年に1度開帳されます。
高野山詣では、まず高野山の玄関である慈尊院の弥勒菩薩と縁を結び罪業を流してから
山上へ登って行くのが、高野山への本参りとされています。
慈尊院は高野山の結縁寺と呼ばれています。
乳房形絵馬
弥勒堂前には多数の乳房形絵馬が奉納されています。
慈尊院は女人高野として、子授け、安産、育児、授乳、良縁などを願って
乳房形の絵馬を奉納する女性が多く訪れるそうです。
地蔵像
弥勒堂前の左側には約100体の地蔵像が祀られています。
大日如来像
弥勒堂前の右側には胎蔵界大日如来像が祀られています。
拝所-1
弥勒堂の向かい側に排堂があり、北側は納経所となっています。
慈尊院は仏塔古寺十八尊霊場の第6番札所となっています。
納経所の絵馬-1
納経所の絵馬-2
納経所の上部には絵馬が掲げられています。
拝所-南側
拝所の南側
噴水
拝所の東側は広場で中央に噴水があります。
修行大師像
山際には修行大師像とその横に案内犬ゴンの像が祀られています。
ゴンは白色の紀州犬と柴犬の雑種の雄で、住所不定の野良犬でしたが、
昭和60年代(1985~1989)に慈尊院近くに住着き、慈尊院から聞こえる
鐘の音を好んだことから「ゴン」と呼ばれるようになりました。
最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を案内するだけでしたが、いつしか慈尊院を
ねぐらとして、高野山町石道の約20kmの道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の
大門まで道案内し、夜には慈尊院に戻るという毎日を送るようになりました。
約1200年前の弘法大師の時代にも高野山の案内犬がいたという伝説があり、ゴンは
その再来・生まれ変わりとして参詣者から愛されましたが、
平成14年(2002)6月5日に息を引き取りました。
鐘楼
修行大師像の左前の奥に鐘楼があります。
かって、この地に弁財天と稲荷明神を厚く信仰した後藤角女と称する老婆が、人々を救済し、
功徳報恩報謝のために鐘楼堂を建立したと伝わります。
弁財天と稲荷社-1
鐘楼の左側に弁財天と稲荷明神が祀られた社殿があります。
弁財天と稲荷社-2
右に弁財天、左に稲荷明神が祀られています。
丹生官省符神社への石段
多宝塔前から丹生官省符神社への石段があります。
町石
その石段を上った鳥居の手前の右側に第一番目の町石が建立されています。
弘法大師は山上の根本大塔から慈尊院までの一町(約109m)毎に木製の
卒塔婆(そとうば)を180本を建て、信仰の道としました。
老朽化のため鎌倉時代の文永2年(1265)頃に石造の町卒塔婆建立が発願され、
20年の歳月をかけて弘安8年(1285)に完成し、現在でもその8割以上にあたる
150本の石柱が建立当時のまま残されています。
また、慈尊院から数えて36町(1里)ごとには、町石の近くに「里石(りいし)」が
合計4基置かれています。
高野山町石道は「高野参詣道」として国の史跡に指定され、平成16年(2004)7月には、
世界遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成資産の一部として登録されました。

丹生官省符神社へ向かいます。
続く

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