御影堂門
渉成園から西へ進んだ正面に、国の重要文化財に指定されている
東本願寺の御影堂門があります。
現在はその手前で京都市による「市民緑地」の工事が、
令和4年(2022)末の完成予定で進められています。
明治44年(1911)に再建された間口21m、奥行き13m、高さ27mの入母屋造・本瓦葺きの
三門形式の二重門で、木造建築の山門としては世界最大級であり、
木造建築の二重門としては、日本一の高さを誇ります。
楼上には、浄土真宗の根本聖典『仏説無量寿経』の会座を表す
釈迦如来坐像と弥勒菩薩立像、阿難尊者立像の三尊が安置されていますが非公開です。
楼上に掲げられた扁額「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)」が正式名称で、
「東本願寺」は通称です。

本願寺の歴史は大谷祖廟から始まり、第11世・顕如(けんにょ:1543~1592)が
教団の最盛期を築きました。
経済的・軍事的な要衝である大坂本願寺(石山本願寺)を拠点として、
主に畿内を中心に本願寺派の寺を配置し、
大名に匹敵する権力を有するようになりました。
しかし、織田信長(1534~1582)から圧力を受けるようになり、
元亀元年(1570)に本願寺は織田軍と交戦状態に入り、足利義昭(1537~1597)が構築した
信長包囲網の一角を担いました。
元亀4年(1573)4月の武田信玄(1521~1573)の死を境に包囲網が破綻し、
朝倉・浅井・足利などの同盟勢力は次々と織田氏によって滅ぼされ、
抵抗を続けていた本願寺も天正8年(1580)に信長と和睦して
大坂本願寺から退去しました。

本能寺の変の後、実権を握った羽柴秀吉(1537~1598)は本願寺の勢力を削ぎ、
天満に与えた寺地から天正19年(1591)に七条堀川への移転を命じました。
翌、天正20年(1592)11月24日に顕如が遷化(せんげ)され、
第12世には長男の教如(1558~1614)では無く、
三男の准如(じゅんにょ:1577~1631)が立てられました。
教如は大坂本願寺の退去時にも、抗戦継続を主張して本願寺に立て篭もり、
秀吉に警戒されて、文禄2年(1593)に秀吉の命により准如が本願寺を継承しました。
秀吉の没後、関ケ原の戦いで西軍に勝利した徳川家康(1543~1616)は、
教如に寺地を寄進し、慶長7年(1602)に東本願寺が造営されました。
本願寺は東西に分立し、七条堀川の本願寺は、「西本願寺」と呼ばれるようになり、
東本願寺は山号の無い真宗大谷派の本山となりました。
御影堂
現在の御影堂(ごえいどう)は、明治28年(1895)に再建された間口76m、奥行き58m、
高さ38mの重層入母屋造・瓦葺きの建物で、建築面積は東大寺の大仏殿を上回る
世界最大級の木造建築物であり、国の重要文化財に指定されています。
堂内は内陣・外陣・参拝席に、内陣は横に7つの室に分かれ、
中央の間は「内陣本間」と呼ばれています。
内陣本間の中央に須弥壇があり、その上の厨子内に
宗祖・親鸞聖人の御真影(ごしんねい)が安置され、
左右の壇上には歴代門首の絵像が奉掛されれています。

内陣本間の左側から「十字の間」・「九字の間」・「飛檐の間」と続き、
「十字の間」の床(とこ)上の中央に「帰命尽十方無碍光如来」の
十字名号が奉掛されています。
「九字の間」の床上には、「南無不可思議光如来」の九字名号が奉掛されています。
内陣本間の右側からは「六軸の間」・「新六軸の間」・「御簾の間」と呼ばれています。
内陣の障壁画と襖絵は幸野楳嶺(こうの ばいれい:1844~1895)と
望月玉泉(1834~1913)によって描かれました。
手水舎-1
御影堂の手前にある手水舎は明治28年(1895)頃に再建された入母屋造り、
本瓦葺の建物で、国の重要文化財に指定されています。
手水舎-2
とぐろを巻いた大きな龍の口から水が注がれています。
阿弥陀堂門
御影堂門の南側に国の重要文化財に指定されている阿弥陀堂門があります。
明治44年(1911)に再建された切妻造・檜皮葺きの四脚門で、正背面に唐破風が付けられ、
江戸時代には「唐門」と呼ばれていました。
早朝なので閉じられていますが、普段は開門されています。
鐘楼
門を入った左側(南側)にある鐘楼は、明治27年(1894)に再建され、
国の重要文化財に指定されています。
梵鐘は平成22年(2010)に新しく鋳造されました。
旧梵鐘
右側(北側)にあるお買い物広場の前に、旧梵鐘が展示されています。
教如上人が慶長7年(1602)に徳川家康から現在地の寄進を受け、
同9年(1604)の御影堂の造営に併せて鋳造されました。
旧梵鐘-図
総高256cm、口径156cmで、慶長末年以前の鐘としては5番目の大きさを誇ります。
阿弥陀堂
阿弥陀堂は明治28年(1895)に再建された間口52m、奥行き47m、高さ29mの
単層入母屋造・瓦葺きの建物で、国の重要文化財に指定されています。
御影堂と同様に堂内は内陣・外陣・参拝席に分かれ、
内陣本間の中央の須弥壇に本尊の阿弥陀如来立像が安置されています。
本間右側の壇上には「聖徳太子御影」の絵像、
左側の壇上には「法然上人(1133~1212)御影」の絵像が奉掛されています。
また、本間の左右の余間には中国・浄土教の高僧の絵像が奉掛されています。
毛綱
阿弥陀堂と御影堂を結ぶ渡廊下は、国の重要文化財に指定されています。
渡廊下には明治の再建時に使用された
毛綱(けづな)と大橇(おおぞり)が展示されています。

毛綱は、巨大な木材の運搬のため、より強い引き綱となるように
麻と女性髪の毛を撚り合わせて編まれた綱です。
現在展示されているのは長さ約69cm、太さ約30cm、重さ約375kgで、
最も大きなものは、長さ110m、太さ40cm、重さ1tに及びました。
大橇
大橇(おおぞり)は雪道で、或いはそりの下に丸太を並べるなどして
巨木を運ぶために使用されました。
小橇
小さなそりも展示されています。
菊の門
御影堂門の北側に「菊の門」と呼ばれる勅使門があり、
国の登録有形文化財に指定されています。
慶長9年(1604)に徳川家康から寄進されたのですがその後の火災で焼失し、
明治44年(1911)の親鸞聖人六百五十回忌で再建されました。
菊の紋は明治維新後に皇室の御紋章と定められましたが、
江戸時代から使用されていたことから、使用が許可されました。
玄関門
更に北側に明治44年(1911)に再建された薬医門の玄関門があり、
国の登録有形文化財に指定されています。
鬼門
築地塀の北東角は鬼門封じのために切り取られています。
築地塀は国の登録有形文化財に指定されています。
白壁の建物
西へ進むと白壁の建物が連なります。
内事門
その先に長屋門の内事門があります。
内事門-内側
内事門からの光景ですが、立入は禁止されています。

西本願寺へ向かいます。
続く
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