山門
龍泉院から北西方向に進んだ所に南院があります。
南院は金剛峰寺の南側、現在の霊宝館駐車場の辺りに創建されました。
何時頃、何故、この地に移されたのか?...詳細を調べましたが不明です。
宿坊
山門がありますが、門をくぐると宿坊となっています。
寺号標
宿坊の西側に「浪切不動尊」を祀る本堂があり、
近畿三十六不動尊霊場の第36番札所、結願寺となっています。
本堂
この「浪切不動尊」は、師匠の恵果(えか/けいか)より与えられた
栴檀(せんだん)の霊木を用いて自ら刻み、守り本尊としていました。
唐からの帰途、暴風雨に遭遇しましたが、不動明王を船首に祀り、
船は波を切るように進んだことから「浪切不動尊」と呼ばれるようになりました。
空海は五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、
後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになりました。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、
朝廷は入京の許可を与えませんでした。
空海は大宰府で滞在し、大同4年(809)に第52代・嵯峨天皇が即位して
ようやく入京が許可されました。
浪切不動尊は宮中の真言院で祀られるようになりましたが、その後、神護寺・醍醐寺等と
変遷し、承平・天慶の乱が起こると朝敵・平将門に対して、
戦勝を祈願するために熱田神宮に遷されました。
その後、壇上伽藍にある御社(みやしろ)の拝殿・山王院に安置され、
丹生明神と一体の尊神と崇められました。
当時、山王院を管理していたのが東大寺南院より入山した真興で、南院を開基しました。
平安時代、南院を中興した維範大徳は、浪切不動を南院に遷して本尊としました。
鎌倉時代の弘安4年(1281)、文永11年(1274)に続き蒙古が襲来すると、
浪切不動尊は南院院主の賢隆に率いられて最前線の博多に出兵しました。
志賀島にて、高野山僧による五壇護摩の祈禱、異国降伏祈禱が行われると神風が吹き、
蒙古の軍船の多くが沈没、損壊を受けるなどして、残った蒙古軍は撤退しました。
この時の霊験によって、帰山した南院・賢隆の名声はたかまり、
ほどなく高野検校に就任しました。
その後も、「世界大戦」など国家存亡の危機に際して、
浪切不動による降魔調伏の儀礼が行われました。
現在、浪切不動尊は国の重要文化財に指定され、秘仏で毎年6月8日のみに開帳されます。
龍図
本堂の天井には「浪切龍」が描かれています。
「八大龍王は本尊の使者で、除災・招福の守護とされ、中央で祈念して手を打てば、
響きを発して応える」と記されています。
仏舎利塔
本堂の左側に昭和63年(1988)に建立された仏舎利塔があります。
スリランカ出身のシロガマ・ヴィマーラ大僧正が南院で修行をした縁により、
スリランカのジャワルダナヤ大統領から贈られた仏舎利を奉納するために建立されました。
初層には弘法大師像が安置され、二層に弥勒菩薩を中心に諸菩薩、
不動、飛天が描かれ、弥勒曼陀羅が立体化されています。

徳川家霊台へ向かいます。
続く

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