2019年06月

山門
播州清水寺への入口にはゲートがあり、そこで入山料500円を納め、山坂道を登ります。
平成29年(2017)の訪問時はバス利用でしたが、運賃に入山料が上乗せされました。
道路は整備され、バイクは快調に標高約542mの山頂にある清水寺の駐車場まで走ってくれました。
仁王門は、昭和40年(1965)の台風で全壊し、
昭和55年(1980)末に旧登山道から場所を変えて新築されました。
平成4年(1992)11月に丹塗りの塗装が施されました。
登山道路が開通する以前は、麓から旧登山道を40分くらいかけて登ったそうです。
清水寺は山号を御嶽山と号する天台宗の寺院で、西国三十三所観音霊場・第25番、
神仏霊場・第78番などの札所となっています。
京都の清水寺と区別するため、播州清水寺と呼ばれています。
仁王像-左仁王像-右
仁王像は、大正10年(1921)に岡倉天心に従事した奈良の仏師・菅原大三郎氏によって
制作され、昭和53年(1978)に大三郎氏の次男・菅原安男氏によって修復されました。
茶所
山門をくぐると参道は左へとカーブして緩い登り坂になり、途中に茶屋があります。
手水舎
参道を進むと手前に手水舎、放生池の向こうに大講堂が見えてきます。
薬師堂
手水舎の手前に昭和59年(1984)11月3日に再建された薬師堂があります。
薬師堂は、平安時代末期に池之禅尼によって創建されました。
池之禅尼は、平清盛の義母で、平治の乱で捕らえられた源頼朝の助命を嘆願し、
成長した頼朝によって平家は滅ぼされましたが、

そのきっかけを作った人物かもしれません。
十二神将-2十二神将-3十二神将-4十二神将-1
十二神将-A-1
十二神将-A-2
十二神将-B
周囲の壁面には干支を割り当てした十二神将が掲げられています。
作者は、平城京遷都1300年記念事業の公式マスコット「せんとくん」の作者でもある
籔内佐斗司氏です。
放生池の南
右に放生池を見て、正面の大講堂へ向かいます。
大講堂-1
大講堂-2
大講堂は、神亀2年(725)に聖武天皇の勅願により行基が建立した、
清水寺の二つの本堂の一つです。
現在の建物は、大正2年(1913)の山火事で焼失し、大正6年(1917)に再建され、
国の有形文化財に登録されています。
本尊は大正時代作の千手観音菩薩坐像で、西国三十三所観音霊場・第25番の
札所本尊でもあります。
脇侍として毘沙門天像と地蔵菩薩像が安置されています。
大講堂には納経所もあります。
本坊-門
大講堂前を通り過ぎて石段を下った右側に、本坊への門があり、
門の前から登山道が麓まで続いているようですが、試してはいません。
本坊-1
現在の本坊は大正6年(1917)に、山上の杉材を使用して再建されました。
本坊-2
予約すれば昼食等で利用できるそうです。
客殿は国の有形文化財に登録されていますので、外から見ることができるかもしれません。
本坊-大講堂への石段
本坊前の石段を上ると大講堂の裏側に出ます。
石窟
大講堂の裏側には石窟があり、その前に石仏が祀られています。
根本中堂への石段
根本中堂への80段の石段を上ります。
地蔵堂
石段の途中に昭和57年(1982)に再建された地蔵堂があります。
かって、この地には後白河法皇が創建した常行堂がありましたが、
昭和12年(1937)にその跡地に地蔵堂が創建されました。
地蔵堂-本尊
堂内中央に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵堂-堂内左
地蔵堂-堂内右
周囲には地蔵菩薩の石像が多数祀られています。
地蔵堂裏
地蔵堂の裏側にも地蔵菩薩の石像が多数祀られています。
鐘楼
地蔵堂から少し石段を上った左側に鐘楼があります。
鐘楼も大正2年に焼失し、大正9年(1920)に再建されました。
梵鐘
梵鐘も同年に鋳造され、「開運の鐘」と称されています。
根本中堂
石段を上った所にもう一つの本堂・根本中堂があります。
清水寺は、約1800年前にインドから渡来した法道仙人によって開山されました。
法道仙人は、第12代・景行天皇の御代(71~130年)、中国から朝鮮半島を経て
御嶽山(みたけさん)に住し、国家鎮護と豊作を祈願したと伝わります。
推古天皇35年(627)に推古天皇の勅願により、
根本中堂が建立されたのが清水寺の創始とされています。
この地は、元々水に乏しかったのですが、法道仙人の祈祷により霊泉が湧き出たと伝わり、
清水寺の名の由来となりました。
大正12年(1913)に焼失し、大正6年(1916)に山上のヒノキ材を使用して再建され、
国の有形文化財に登録されています。

本尊は十一面観世音菩薩で、法道仙人が一刀三礼して自ら刻んだと伝わりますが、
年代的には矛盾があります。
加東市の文化財に指定され、三十年に一度開帳の秘仏とされています。
平成29年(2017)の11月1日~30日まで開帳されましたので、次回は28年後でしょうか?
大正2年(1913)の焼失時、本尊は自ら退避したと伝わります。
御前立は昭和58年(1983)の作で、東京芸術大学の名誉教授であった菅原安男氏によるものです。
本尊の脇侍として、毘沙門天像と吉祥天女像が安置され、
共に加東市の文化財に指定されています。
ダキニテン
吒枳尼天尊(だきにてんそん)は、空海によって、日本に持ち込まれました。
白い霊狐(れいこ)に乗った天女の姿として描かれ、
稲荷神(御饌津神=みけつかみ)と同一視されています。
十三重石塔
十三重石塔
観音像
聖観世音菩薩像
法華塔
法華塔には経文を一石に一字記したものが納められています。
おかげの井戸への道標
根本中堂から左の方に進むと、寺号由来の「おかげの井戸」があります。
おかげの井戸-1
法道仙人の祈祷により湧き出た霊泉で、滾浄水(こんじょうすい)と名付けられています。
おかげの井戸-2
駒札には「この井戸を覗き込んで、自分の顔を写したら、寿命が三年延びる」と記されています。
宝篋印塔
根本中道の裏側付近に宝篋印塔が建っています。
この塔は、昭和9年(1934)に神戸巡礼会の発願で、般若心経の写経を3333巻納め、
護摩堂の跡地に建立されました。
多宝塔跡-1
宝篋印塔の先の高台に多宝塔(大塔)の跡地があります。
多宝塔跡-2
多宝塔は、保元2年(1157)に祇園女御(ぎおんのにょうご)によって建立され、
本尊の五智如来が安置されていました。
祇園女御は、妹の子である平清盛を猶子にしたとされ、清盛が兵衛府(ひょうえふ)に
任官されたのも、祇園女御の後押しがあったからと伝わります。
多宝塔は、明治40年(1907)に焼失し、大正12年(1923)に再建されたのですが、
昭和40年(1965)の台風で大破しました。
現在、再建が計画されているそうですが、二年前と現状に変化が見られません。
月見亭
多宝塔跡から東へと下って行くと駐車場の方へ戻れますが、
木立の中を南へと下ると月見亭があります。
夏の終わりに営まれる「二十六夜待」の大法要で、
旧暦七月二十六日の遅い月の出を待つ最適の場所とされています。
和久井
月見亭から下った所にも井戸があり「和久井」と称されています。
切腹石-1
切腹石-2
和久井の先に赤松氏範(うじのり)の切腹石があります。
赤松氏範は無双大力の勇士で、南朝に味方しましたが、
元中3年/至徳3年(1386)に幕命を受けた細川頼元や山名氏らの追討を受け、

子息ら一族郎党100余名と共に清水寺で自害しました。
清水寺に氏範らの墓があります。
るり渓-石碑
帰途、スマホのナビは交通量や信号が少ない快適なルートを選定し、
それに従って走っていると「るり渓」の標識が目に入り、
Uターンしてそちらに向かいました。
るり渓は南丹市園部町の南西部、標高500mの高原にあり、京都府の自然公園で、
京都の自然200選に選定されています。
園部川が高原の斜面を侵食してできた長さ4kmの渓谷で、主要部は名勝に指定されています。
るり渓-藤
藤の花が咲いていました。
るり渓-名瀑
上流には名瀑があります。
更に上流には通天湖もあるそうですが、休憩がてらに立ち寄っただけなので、
次の機会に譲ることにしました。

次回は書写山圓教寺から伽耶院を巡ります。

弥勒大仏
花山院から下って播州清水寺へ向かおうとしたのですが、
北側の山上に光り輝く布袋像を見つけ、立ち寄りました。
弥勒寺-鳥居
玉皇山・弥勒寺と称されていますが、正面に鳥居が建ち、「弥勒寺」の扁額が掲げられています。
弥勒寺は中国の明・清の時代に由来する「天道」と呼ばれる宗派の総本山です。
五路財神殿
右側にある五路財神殿の屋根の上にも布袋像が祀られています。
布袋は中国・後梁時代(554~587年)の浙江省(せっこうしょう)の僧・契此(かいし)がモデルで、
七福神の中で唯一実在の人物とされています。
常に大きな布の袋を背負い、国中を旅していたことから、
いつしか「布袋」と呼ばれるようになりました。
各地を行脚して托鉢を行い、それを袋に入れて背負い、貧しい人々に施しました。
後に中国の弥勒菩薩信仰と交わって「弥勒菩薩の化身」といわれるようになりました。
弥勒菩薩は釈迦入滅の56億7千万年後に降臨し、地上のあらゆる衆生を救済する
とされていますが、まだまだ気が遠くなるような先になります。
五路財神
堂内には五路財神が祀られています。
五路とは東西南北に中を加えたもののようですが、詳細は不明です。
天通殿
正面の石段を上った所には広い駐車場があります。
画像はありませんが、駐車場の西側に講堂、隣接して北側に天通殿があります。
四天王
駐車場の北東隅には泉珠五輪塔が建ち、その左右に泉珠四天王像が祀られています。
四天王-右
日本の四天王と像容が異なりますが、槍を持っているのが多聞天、
蛇を持っているのが広目天です。
四天王-左
剣を持っているのが増長天、楽器を持っているのが持国天となります。
聖北斗院-説明
聖北斗院
駐車場の北側にある石段を上った左右に、各3棟の聖北斗院があります。
本堂
本堂-説明
更に石段を上った右側に三仏院本堂があります。
本尊
堂内には弥勒大仏像が安置されています。
弥勒大仏-接近
左奥に八百社白陽廟があり、その屋根の上に安置されている金色の弥勒大仏像が、
麓からでも光り輝いて見えました。
八百社
八百社白陽廟では、先祖の永代供養が行われています。
頂上への参道
更に東の参道は山の頂上へと続いているようですが、西側の参道へ下ります。
慈母済土観音
中央の慈母済土観音の左右には、多数の観音像が奉納されています。
泉珠靖国神社
泉珠靖国神社
義民廟
参道は二股に分かれ、右側を少し下ると義民廟があり、
屋根上にはやはり布袋像が祀られています。
龍華水
手前には「龍華水」を汲み上げる井戸があります。
大雁塔
奥には大雁塔があり、毎月第一日曜日に護摩供が行われます。
社群への参道
社群-鳥居
下った参道を戻ると多数の不動明王像が奉納されている参道があり、
それを下ると鳥居が建っています。
社群
参道の両側には、小さな祠が建ち並んでいます。
稲荷の鳥居
更に下ると鳥居が建ち並んでいます。
水子地蔵の塔
鳥居をくぐった先に、水を司る神々の根源の聖域とされる龍水源があり、
水子地蔵を祀る塔があります。
宇迦之御魂社
崖下には、稲荷神を祀る宇迦之御魂社(うかのみたまのしゃ)と
金正宮、白友宮が合祀された星乃宮があります。
龍神社
また、右側には大国主命、青木大明神や天・海・地の龍神を祀る社があります。
観音像
高台には観音像が祀られています。

寄り道してしまいましたが播州清水寺へ向かいます。
続く

十二妃の墓-入口
県道49号線を北上して行くと、「花山院・十二妃の墓」と記された標識が立っています。
標識に従って左折した先に花山院・十二妃の墓があります。
十二妃の墓-門
花山法皇を慕い、都から弘徽殿(こきでんの)女御の位牌を奉じて法皇を訪ねた11人女官たちは、
花山院菩提寺が女人禁制のため、山の麓に庵を結んで住み着いたとされ、
その地を村の人々は、いつしか「尼寺」(にんじ)と呼ぶようになりました。
十二妃の墓-五輪塔
十二妃の墓にある五輪塔は、法皇が寵愛した女御・藤原忯子(ふじわらの しし)の墓で、
その周囲は11人の女官のものとされています。
藤原忯子は、永観2年(984)に入内(じゅだい)し、弘徽殿(こきでんの)女御と呼ばれました。
懐妊しましたが、寛和(かんな)元年(985)に17歳の若さで亡くなりました。
それを悲しみ花山天皇は、寛和2年(986)6月22日に19歳で宮中を出て、
剃髪して仏門に入り退位しました。
琴弾坂の碑
十二妃の墓から北上して県道49号線と交差した所に「花山院」のバス停があり、
平成29年(2017)に訪れた時はそのバス停から約20分急な坂道で汗を流したのですが、
バイクだと山門下の駐車場まで楽に行くことができます。
坂道の途中に「琴弾坂(ことびきざか)」の石碑が建っています。
女人禁制であった花山院菩提寺ですが、四丁の丁石が立つここまでは立ち入ることが許され、
法皇を追って来た11人女官達がここで琴を弾き、法皇を慰めたと伝わります。
十二妃の墓から山門が建つ八丁まで、いつしかこの坂は「琴弾坂」と呼ばれるようになりました。
山門
山門には山号「東光山」の扁額が掲げられています。
仁王像-右
仁王像-左
左右には仁王像が安置されています。
手水所
山門をくぐった左側に地蔵像が祀られ、手前には手水鉢が置かれています。
花山法皇殿
手水所から正面の石段を上った左側に花山院菩提寺の本堂の一つ、花山法皇殿があります。
十一面観音像
花山法皇像
弘法大師像
堂内には中央に十一面観音菩薩立像(上)、右に花山法皇像(中)、
左に弘法大師像(下)が安置されています。
花山法皇廟-1
花山法皇殿の向かいに花山法皇御廟所があります。
花山法皇廟-2
御廟所内には宝篋印塔が建っています。
花山天皇は寛和2年(986)に元慶寺で出家し、比叡山で修行した後、那智山に入って
那智の滝壺で千日の滝籠りを行ったと伝わります。
その後、中山寺で徳道上人が「石の櫃(いしのからと)」に納めた三十三ヶ所の観音霊場の
宝印を探し出し、270年間途絶えていた観音霊場の巡礼を復興させました。
この巡礼の後、晩年に帰京するまでの十四年間、巡礼途中に気に入った場所であるこの地で
隠棲生活を送っていたとされています。
その後、京都に戻った法皇は、京都御苑の敷地内にあった花山院で、寛弘5年(1008)2月に
崩御され、「花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」に葬られました。
地蔵像
境内の北東側に幸福(しあわせ)の七地蔵が祀られています。
七体の地蔵には、家庭、そして自分が幸福になるように様々な知恵を授けてくれます。
各地蔵は、役割を象徴する“もの”を持って、救いの手を差し伸べています。
薬師堂
七地蔵の横に「瑠璃光殿」の扁額が掛る、もう一つの本堂である薬師堂があります。
花山院は、飛鳥時代の白雉2年(651)に法道(ほうどう)仙人によって、薬師瑠璃光如来を
本尊とする密教修行の聖地として創建されました。
法道仙人は、清水寺をはじめ播州地域にいくつかの寺院を開基したと伝わっています。
正暦3年(992)頃、三十三の観音霊場を巡礼した花山法皇が、播磨清水寺に登った際に
東方の山上が光り輝くのを見、巡礼後にこの地を訪れ、隠棲の地としました。
これに因み、山の名が東光山と呼ばれるようになり、花山法皇亡き後、
花山法皇殿が建立され、寺の名称も東光山・菩提寺と改められました。
花山院は通称です。
薬師堂-堂内
薬師堂の本尊・薬師瑠璃光如来坐像は西国薬師四十九霊場の第21番札所本尊でもあります。
脇侍として日光・月光の両菩薩像が安置され、その両側は十二神将によって守護されています。
池
薬師堂と花山法皇殿の間には小さな池があり、多分?弁財天が祀られた祠があります。
修行大師像
花山法皇殿から西へ進むと修行大師像が祀られています。
荒神堂
修行大師像の西側に荒神堂があり、三宝荒神が祀られています。
三宝荒神は、仏・法・僧の三宝を守護する仏神とされています。
三つの顔と六本の腕を備え、怒りの形相を示し、不浄を忌み、火を好むことから、
かまどの神として祀られることもあります。
本坊への門
荒神堂の西側にある門をくぐります。
画像はありませんが、門をくぐった右側に写経道場、その奥に納経所があります。
花山院は西国薬師四十九霊場・第21番及び西国三十三所観音霊場・番外札所となっています。
本坊
納経所の向かいに本坊があります。
鐘楼
門の左側に鐘楼があります。
不動堂
正面に不動堂があります。
有馬富士
不動堂前を南へ進むと展望台があり、正面に有馬富士が望めます。
花山法皇は、「有馬富士 麓の霧は海に似て 波かと聞けば 小野の松風」と詠みましたが、
このような光景は冬の早朝に、運が良ければ見ることができるそうです。

弥勒寺へ向かいます。
続く

山門-1
中山寺の付近には二輪の駐輪場が無いため、阪急・中山観音駅の東側にある
有料駐輪場にバイクを置き、中山寺へ向かいました。
参拝時間を短縮したために、一部の画像は平成29年(2017)参拝時のものを使用しています。
山門-2
中山寺は山号を紫雲山と号する真言宗中山寺派の大本山で、西国三十三所観音霊場・第24番、
神仏霊場・第80番、近畿三十六不動尊霊場・第21番、
聖徳太子霊跡・第26番などの札所となっています。
現在の山門は、江戸時代の正保3年(1646)に第3代将軍・徳川家光によって再建され、
兵庫県の重要文化財に指定されています。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は、平成21年(2009)頃に修復された際、胎内から木札が見つかり、
山門と同時期に製作されたことが判明しました。
仁王像を囲む柵には、願い事を記した数多くの小さなわらじが奉納されています。
狛犬-右
狛犬-左
狛犬-説明
門の内側には、獅子と狛犬が安置されています。
この獅子と狛犬は木製で、仁王像と同じように修復が行われました。
参道の石段
両側に塔頭が並ぶ参道を進むと石段がありますが、右に行くとエスカレーターや
エレベーターが設置されていて、足が不自由な方でも参拝できるように配慮されています。
手水舎
石段を上った所に手水舎があります。
蓮の花の蕾ような形をしています。
鐘楼
手水舎の背後に鐘楼があります。
五百羅漢堂
参道の正面にはエスカレーターが併設された石段があり、その右側に五百羅漢堂があります。
開創1400年記念事業として、平成19年(2007)に新築されました。
五百羅漢堂-釈迦如来
堂内には、中央に本尊である釈迦如来像、その周囲には五百羅漢像が安置されています。
五百羅漢堂-堂内左
五百羅漢堂-堂内右
五百羅漢は、仏陀に常に付き添った500人の弟子、
または仏滅後の結集(けつじゅう)に集まった弟子を称しています。
実際には700余体の像が安置され、「親兄弟の顔が見たくば、
中山寺の五百羅漢の堂にござる」と詠まれるほど様々な表情をしています。
天井には金剛界五仏と釈迦如来の種字曼荼羅が描かれ、床には蓮華の陶板が敷かれています。
塔婆納所-1
塔婆納所-2
参道の左側には塔婆おさめ所があります。
閻魔堂
塔婆おさめ所の左側に閻魔堂があります。
閻魔大王
本尊は閻魔大王で、罪状を読み上げ、判決文を記録する司命(しみょう)と
司録(しろく)の2人の書記官が脇侍として安置されています。
閻魔堂-堂内
堂内には、その他の十王の像が安置されています。
寿老人堂
閻魔堂の左側奥に寿老神堂があります。
寿老人堂-寿老人像
本尊は寿老神で、長寿の神であり、南極老人星(カノープス)の化身とされ、七福神の一柱です。
寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである
牡鹿を従え、長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っています。
寿老人堂-勢至菩薩
左側には、午年生まれの守り本尊である勢至菩薩像が安置されています。
勢至菩薩は、智慧の光を持って一切を照らし衆生が地獄・餓鬼界へ
落ちないように救う菩薩とされています。
大国堂
寿老神堂の左奥に大黒堂があります。
大国堂-堂内
本尊は大黒天で、日本では、大黒天は大国主と神仏習合し、福袋と打出の小槌を持ち、
米俵に乗った姿が一般的です。
両側には、子年生まれの守り本尊である千手観音坐像が安置されています。
千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、
観音の慈悲と力の広大さを表しています。
古墳-1
大黒堂の横に「石の櫃(いしのからと)」と称する中山寺古墳(白鳥塚古墳)の
横穴式石室があり、兵庫県の史跡に指定されています。
古墳-2
玄室の長さ6m、幅2.5m、高さ3m、羨道部(えんどうぶ)の長さ9.2m、幅2m、高さ2.4mで
ほぼ南向きに開口しています。
床には敷石を敷き、5枚以上の天井石を載せてあり、玄室の中央奥寄りに、
長さ190cm、幅115cm、高さ50cmの家形石棺が安置されています。

寺伝では、第14代・仲哀天皇の先后である大中姫の墓とされ、大中姫の子、
忍熊(おしくま)皇子もこの地に葬られました。
第15代・応神天皇の御代に疫病が蔓延したのは忍熊皇子の祟りだとして恐れられていました。
異母弟である応神天皇が慰霊の使者を送ったところ、古墳の羨道から白鳥が飛び出し、
山中の大岩(中山寺奥之院の白鳥石)の中に消えました。
その大岩からは清らかな水が湧き出し、疫病は鎮まりました。
忍熊皇子の霊は「恨みを捨て、厄除神になる」と答えたと伝わり、大岩の窟(いわや)に
忍熊皇子の霊が祀られ、湧き水は諸疫を祓う清水として信仰を集めました。
聖徳太子は中山寺を開創した際、大岩を取り込むように拝殿を建立し、
日本で初めて厄神を祀るようになりました。
聖徳太子は、大中姫と忍熊皇子の霊を鎮めるために中山寺を創建したという伝承により、
この古墳は大中姫の墓とされていました。
しかし、調査の結果、この地区に勢力を持っていた豪族の墳墓とみられ、家形石棺の形態から、
6世紀後半の造営と考えられています。

また、西国三十三所観音霊場を開創した徳道上人は、機が熟すのを待って宝印を中山寺の
石の櫃に納め、上人が亡くなってから約270年後に花山法皇がそれを探し出し、
霊場を再興したと伝わります。
阿弥陀堂-正面
阿弥陀堂-横
大黒堂の先に阿弥陀堂があり、その奥の信徒会館と隣接しています。
阿弥陀堂は、本堂とともに慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて
再建されましが、現在の阿弥陀堂は、新築されたように見えます。
中山寺の阿弥陀堂は、先祖供養や納骨回向のための御堂で、
永代経供養の位牌が数多く祀られています。
宝形造りの建物
阿弥陀堂の近くに宝形造りの建物がありますが、詳細は不明です。
亥の子地蔵
宝形造りの建物の先に、亥の子地蔵(北向き地蔵)が祀られた地蔵堂があります。
亥の子(いのこ)は、旧暦10月(亥の月)の亥の日のことで、この日に詣でて
ほうきにて地蔵尊を掃き清めた後に、自身を加持すれば、
頭痛・肩こり・腰痛・中風・リュウマチ等に功徳があるとされています。
六地蔵は知られていますが、ここでは十体の地蔵像が祀られています。
信徒会館
地蔵堂の先は広場になっています。
大きく立派な信徒会館があります。
絵馬堂
広場の左側にはガラス張りの絵馬堂があります。
展望台
広場の前は展望台になっていて、宝塚市内が望めます。
宝蔵
阿弥陀堂前を北へ進んだ所に宝蔵があり、その前に安産御手洗鉢があります。
安産御手洗鉢
安産手水鉢は忍熊(おしくま)皇子の石棺とされています。
第14代・仲哀天皇の前の后・大仲津姫は、この地方の豪族大江氏の娘で、香坂(かごさか)、
忍熊(おしくま)の二人皇子を残して亡くなり、大江氏が住む難波江近くの大柴谷へ葬られました。
後の后・神功皇后には、胎内に皇子(後の応神天皇)を宿し、仲哀天皇が亡くなると
2人の皇子を支持する派と、神功皇后派が対立し、天下を二分するほどの騒ぎとなりました。
後継をめぐっての戦いがはじまろうとした直前、兄の香坂皇子は狩場でイノシシの牙にかかって
不慮の死をとげました。
一説にはイノシシの皮をかぶった、皇后派の刺客に刺されたとも伝わります。
戦いが始まると忍熊皇子の軍は利あらず、ついに近江の琵琶湖に追いつめられて、
やがて皇子は入水して果てました。
中世以降、この石棺は手水鉢として使われ、どんな難産の人でも本尊の十一面観音に
祈願をこめて、この手水鉢で身を洗い清めれば安産になるとの伝承が残されています。
大願塔
宝蔵横の石段を上った所に大願塔があります。
大願塔は、開創1400年記念事業として平成19年(2007)に新築されたもので、
かつて中山寺に存在していたとされる大塔(5間ある多宝塔)を再建したものです。
堂内には位牌室や祈祷室などがあります。
鎮守社-1
鎮守社-2
大願塔から右方向へ進んだ所に鎮守社があります。
本堂-横
鎮守社から北へ進むと本堂横に描かれた極彩色の絵や彫刻を眺めることができます。
本堂内外の鮮やかな彩色や彫刻は江戸時代中後期に施されたと伝わり、
平成17年から平成20年にかけての修復事業で復元されました。
子授け地蔵堂
本堂横を北へ進むと地蔵堂があります。
子授け地蔵堂-堂内
堂内には子授け地蔵尊が祀られています。
子授け地蔵堂-石仏
地蔵前の広場の西側には石仏が並び、背後には宝篋印塔が建っています。
曼荼羅の扁額
地蔵堂から東へ進むと、本堂の裏側に胎蔵界曼荼羅が彫刻された扁額が
掲げられているのを見ることができます。
厄丸大明神社
参道の石段を上った正面に厄丸大明神社があります。
石窟
厄丸大明神社の背後、石室と思われる前に地蔵が祀られています。
萬霊塔
今回は行くのを断念しましたが、厄丸大明神社から西方向へ進むと萬霊塔があります。
梅林
萬霊塔から北方向へ進むと梅林があり、梅林の奥から徒歩約50分登ると奥之院があり、
更にその先を下れば清荒神清澄寺への合計約2時間のハイキングコースとなっています。
大師堂
厄丸大明神社の右側に大師堂があり、弘法大師が祀られています。
大師堂-前の庭園
大師堂の前には令和元年を祝い、小さな庭園が築かれています。
修行大師像
大師堂の右前方には修行大師像が祀られています。
五重塔
五重塔は平成29年(2017)に再建され、東西南北を司る四神から東の青龍をイメージして
「青龍塔(しょうりゅうとう)」と称されています。
高さ28mで、海住山寺(かいじゅうせんじ)と法隆寺にしか見られない、
初層に裳階(もこし)の付いた五重塔です。
各層の四隅、鬼瓦の背後にバッタ、トンボ、龍などの練り瓦が配されています。
塔内には心柱を大日如来と捉え、東に阿閃(あしゅく)如来、西に無量寿(むりょうじゅ)如来、
南に宝生(ほうしょう)如来、北に不空成就(ふくうじょうじゅ)如来の金剛界五仏が祀られています。
不動堂
五重塔から石段を下って来た東側に護摩堂があります。
護摩堂は、桃山時代の建築様式を遺した貴重な木造建築として、
兵庫県の文化財に指定されています。
本尊は、平安時代後期作の不動明王で、矜羯羅童子(こんがらどうじ)と
制吒(多)迦童子(せいたかどうじ)を両脇に従えています。
また、須弥壇(しゅみだん)の上には中尊の不動明王、降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、
軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、大威徳明王、金剛夜叉明王の五大明王が祀られています。
太子堂
護摩堂の右側に開山堂があり、聖徳太子が祀られています。

開山堂の右奥にエレベーターの乗り場があり、
車いすでも本堂まで参拝できるように配慮されています。
本堂
参道の左側に本堂があります。
中山寺は、第31代・用明天皇の2年(586)、大仲津姫母子の供養をするようにとの
命を受けた聖徳太子が、この地を訪れて堂塔を建立し
「紫雲山 中山寺」と名づけたのが始まりとされています。
奈良時代には大小多数の堂塔伽藍を有し、『続日本紀』に平安時代、
中山寺は比叡山や高野山に匹敵する大寺院であったとの記述も見られます。
皇室や源氏、庶民からの信仰も篤く、幾度の兵火や天災などの災害からも再建されてきました。
しかし、天正年間(1573~1593)に荒木村重による兵火を受け、一山が灰燼に帰しました。
現在の本堂は慶長8年(1603)、豊臣秀頼が片桐且元(かたぎり かつもと)に命じて再建されました。
内陣中央柱間にかかる虹梁形飛貫(こうりょうがたひぬき)には、
飛天と迦陵頻伽(かりょうびんが=極楽に住むとされ童女面に鳳凰の下半身を持つ)の
彫刻が施されています。
また、135の各間を持つ格天井には、それぞれ雲龍図や花鳥図、法具など、
全て異なる図絵が描かれています。

本尊は十一面観世音菩薩であり、インドの勝鬘夫人(しょうまんぶにん)の姿を写した
三国伝来の尊像と伝わります。
左右の脇侍も十一面観世音菩薩で、後白河法皇の寄進によるものです。
本尊と脇侍をあわせて三十三面となり、西国観音を総摂すると共に法華経に説く
観音の三十三権変化身を表象し、真の三十三所巡拝と同じ功徳がえられると云われています。
普段は秘仏となっていますが、正月三ヶ日と毎月18日に開扉されます。
また、毎年八月九日に『星下り大会式』が厳修されます。
この日には三十三観音が本堂に来迎され、この日に参ると、
四万六千日参拝したのと同じ功徳が得られるとされています。

花山院へ向かいます。
続く

山門
自宅を午前6時に出発し、ほぼ予定通り午前7時半過ぎに清荒神清澄寺に到着しました。
駐車場からの参道を進むと山門があります。
現在の山門は明治40年(1907)頃に再建されたと伝わります。
清荒神清澄寺は山号を蓬莱山と号する真言三宝宗の大本山で、神仏霊場・第79番、
言宗十八本山・第3番、役行者霊蹟札所などの札所となっています。
三門には山号「蓬莱山」の扁額が掲げられています。
蓬莱山は滋賀県にある山ではなく、古代中国に伝わる想像上の神山で、不老長寿の仙人が住み、
現在の渤海湾の沖遠くに浮ぶとされていました。
山容が仙境に相応しいとして、開創時よりこの名があります。
宇多天皇の石碑
山門の右手前には第59代・宇多天皇(うだてんのう・在位:887年~897年)から賜った
称号「日本第一清三寳大荒神王」の石標が立っています。
清荒神清澄寺は、平安時代初期の寛平8年(896)に宇多天皇の創意による勅願寺として創建されました。
当時、猪名の平野や武庫の裏が一望に見下ろせる山の尾根に清澄寺を、
そして西の谷に荒神社が創建されました。
大日如来を本尊とし、延暦寺の高僧・増命(ぞうみょう=死後、静観僧正の号を下賜される)を
開山の祖とし、真言宗東寺の長者、益信僧都(やくしんそうず)を導師として開創されました。
益信僧都は、この聖地に荒神尊を祀り、仏法守護、三宝の加護を祈ったところ社前にあった
榊の木に、荒神尊の御影がありありと現出されました。
これが「荒神影向の榊」と伝わります。
宇多天皇は、この霊験の報告を受けると大変感銘され「日本第一清荒神」の称号を下賜されました。
大界外相の石碑
左手前には、ここからは聖域であると意味する「大界外相(たいかいげそう)」と刻まれた
石碑が立っています。

山門の内側には「薝蔔林中不嗅餘香(せんぷくりんちゅう よこうをかがず)」の扁額が掲げられています。
この語は維摩経より採られており、薝蔔(くちなし)の花の強い香りが他の香りを打ち消すところから、
一旦山門をくぐれば俗界の煩悩も打ち消され、
清浄な気持ちになり身も心も洗われる思いであるという意味です。
講堂
山門をくぐった右側に講堂があり、その前に二本の大銀杏が聳えています。
樹齢約500年と推定され、宝塚市の天然記念物に指定されています。

左側には売店と無料休憩所があります。
修行大師像
無料休憩所の先、通路を挟んだ向かい側に修行大師像が祀られています。
護牛神堂-1
修行大師像の左側に護牛神堂があり、本尊の牛頭天王(ごずてんのう)に、
弘法大師、不動明王が合祀されています。
牛頭天王はインドにあった祇園精舎の守護神で、平安時代では
御霊(ごりょう)を鎮めるために祀られていました。
因みに祇園精舎は、釈迦が説法を行ったとされる寺院で、
「身寄りのない者に施しをする」という意味を持っています。
天堂への参道
無料休憩所と護牛神堂の間の参道を西へ進むと鳥居が建っています。
布袋像
鳥居の手前の両側には布袋像が祀られていますが、袋は背負わず宝珠を持っています。
天堂
鳥居をくぐった正面に天堂(拝殿)があります。
天堂には、三宝荒神王、大聖歓喜天(聖天)、十一面観世音菩薩他、
福徳を授ける諸神諸仏が祀られています。
棟続きの浴油堂では、三宝荒神・歓喜天尊の合行如法浴油供(ごうぎょうにょほうよくゆく)の
秘法が毎日行われています。
眷属堂
天堂の左側に眷属堂(けんぞくどう)があり、三宝荒神王の眷属(従者)である
「布袋尊」が祀られています。
毎年12月23日から翌年2月5日まで布袋尊の伏見人形が授与されます。
小さいものから大きいものまで7体あり、一番小さい人形から7年かけて順番に神棚に祀り、
もし途中で不幸事があれば、それまでの布袋さまをすべてお返しして、
翌年また1年目から再スタートするという習わしがあります。
また、御祈祷の受付、三宝荒神王御尊影、御守、厄除開運火箸などの授与が行われています。
鐘楼
眷属堂の向かって左側に鐘楼があります。
護法堂
眷属堂の前を奥へ進むと護法堂(本社)があり、正面に大勝金剛転輪王(如来荒神)、
右に歓喜童子、左に弁才天が祀られています。
影向の榊
護法堂の背後に荒神影向(こうじんようごう)の榊があります。
いつの頃からかそこに供えられた賽銭を持ち帰り、次回参詣した時、
倍にして返すという風習が伝えられています。
その賽銭を紙に包んで財布に入れておくと小遣銭に不自由しない、
またそれを「御守り」として持っていると吉事があるなど伝わります。
眼神祠
護法堂の北側に眼神祠(がんじんし)があります。
かっては、護法堂のちょうど裏にあり、当時は清水が湧き出していて、
その水で眼を洗うと眼病に御利益があったとの伝承が残されています。
龍王堂
眼神祠の右側に龍王堂があり、本尊として「善女龍王(ぜんにょりゅうおう)」が祀られています。
天長元年(824)、長引く干ばつに対して淳和天皇は空海に祈雨の修法を命じました。
空海は神泉苑で請雨経(しょうきょう)の法を執り行い、祈祷が7日間に及んだ時、
祭壇の上に五尺ほどの蛇が出現しました。
その蛇は頭に五寸ほどの金色の蛇を載せており、すぐに池に入ると、まもなく空が曇って雨となり
、国中が潤ったと伝えられています。
空海は善如龍王が請雨経の法の霊力を顕すために現れたと説き、霊験あらたかとされています。
納札所
天堂の北側に納札所があります。
火箸納所
納札所の右側に火箸納所があります。
火箸-1
火箸-2
多数の火箸が奉納され、左側には中位の、背後には大きくて重そうな火箸もあります。
厄年の人が火箸で厄をつまみ出すとされ、男性41~43歳、女性32~34歳の大厄には、
各々前厄から3年間、小厄のときは1年間、厄が明けるまで自宅で祀り、
厄が明けた年の節分以降に火箸納所に納めます。
行者洞
火箸納所の右側に行者洞があり、神変大菩薩が祀られています。
神変大菩薩像
役 小角(えん の おづの)は修験道の開祖とされ、寛政11年(1799)には
役行者御遠忌(没後)1100年を迎え、第119代・光格天皇から
神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡(おくりな)が贈られました。
宝蔵
行者洞から参道を挟んだ右側に宝蔵があります。
宝稲荷社-1
宝稲荷社-2
行者洞と宝蔵の間には山腹を削るようにして造られた参道があり、参道を進むと
左側に宝稲荷社があります。
明治時代に祀られるようになりました。
本堂
参道を進んだ先に本堂があります。
安政年間(1855~1860年)に山の尾根から現在地に移築され、開創千百年記念事業として
平成元年(1989)から5年間をかけて平成の大改修が行われました。
本堂-堂内
本尊は像高118.7cmの大日如来坐像で、室町時代初期の作と推定されています。
両脇には阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来が安置されています。
また、向かって左に不動明王、右に弘法大師が祀られています。
一願地蔵尊
本堂前の石段を下った東側に明治24年(1891)に信者の方々の寄進により造立された
一願地蔵尊が祀られています。
頭上にまで水を掛けて一つの願いを念ずれば、ご利益があると言われています。
庭園-1
庭園-2
西側には池泉回遊式の庭園が築かれています。
史料館
庭園の南側に史料館があります。
鉄斎美術館が資料整理で休館中のため、史料館で展示されているそうですが、
史料館の開館は10時からですの入館は断念しました。
宗務所-1
宗務所-2
史料館から参道を挟んだ向かい側に本坊があります。
龍王滝への参道
本坊前を北へ進むと鉄斎美術館や龍王滝への参道があり、門扉が閉じられていました。
他の参拝者から開閉できると聞き、龍王滝へ向かいました。
本堂-裏側
本堂の裏側には霊牌堂と練行堂があります。
仏足石
参道の正面には仏足石が祀られています。
辰馬悦叟の碑
仏足石の右側には辰馬悦叟(たつうまえっそう)君頌徳碑が建立されています。
清荒神清澄寺の信者で西宮の酒造家・辰馬悦叟(1835~1920)は、
富岡鉄斎(1836~1924)と親交が深く、鉄斎作品を蒐集していました。
第37世法主・坂本光浄(1875~1969)は、辰馬悦叟の没後、境内に頌徳碑を建碑することになり、
石碑の篆額(てんがく=一番上に刻まれた題字)を依頼するために、初めて京都の鉄斎を訪ねました。
このときの縁が、鉄斎と光浄の交流に繋がり、現在1,200余点の鉄斎作品を収蔵する緒となりました。
鯉のぼり
前の広場には無料休憩所があり、鯉のぼりが風を受けて勢いよく泳いでいました。
鉄斎美術館
休館中の鉄斎美術館。
龍王滝
鉄斎美術館の東側を北へ進んだ先に龍王滝があります。
滝の左側の岸壁が刳り抜かれ、不動明王が祀られていますが、見ることはできませんでした。
十三重石塔
滝の左側には十三重石塔が建立されています。

本堂の横にある納経所まで戻り、納経を済ませて中山寺へ向かいます。
続く

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