2019年08月

仁王門
京都は連日35度を超える猛暑が続いていますが、早朝のこともあり、
国道162号線は山の中を縫うように走るため、空気は冷ややかで、バイクで走ると爽快です。
かっては、曲がりくねった峠を超えていた所も、今はトンネルで快調に走れます。
以前は名田庄まで国道162号線を走っていたのですが、スマホのナビから
弓削(ゆげ)から府道78号線へ入るように指示され、その後、19号線から368号線、
12号線を経て国道162号線に合流しました。
道の駅・名田庄の先から県道16号線(坂本高浜線)に入り国道27号線に合流しましたが、
国道では渋滞が発生していました。
しばらく渋滞とお付き合いし、「関屋」の信号を右折して山手へ入って行くと、
松尾寺の横へと続いていました。
自宅を5時に出発し、ほぼ予定通りの8時過ぎに松尾寺に到着しました。
更に車道を下って右折すると仁王門の前に出ます。
仁王門は江戸時代に再建されたもので、京都府の文化財に指定されています。
松尾寺は、天正8年(1580)の織田信長の丹後攻めの命を受けた
細川藤孝の兵火によって堂宇をことごとく焼失しました。
藤孝の嫡男・忠興(ただおき)は信長の薦めにより、天正6年(1578)に明智光秀の
娘・玉(ガラシャ)と婚姻しています。
しかし、丹後攻めでは丹後国守護の一色氏に反撃されて敗退し、
後に光秀の加勢を得て丹後南部を平定しました。
信長から丹後南半国(加佐郡・与謝郡)の領有を認められ、宮津城を居城としました。
北半国の中郡・竹野郡・熊野郡は旧丹後守護家である
一色氏が領有し、分け合う形となりました。
天正10年(1582)の本能寺の変では、藤孝は親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、
剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗って田辺城に隠居し、
忠興に家督を譲りました。
松尾寺は、細川藤孝や京極家によって復興された後、江戸時代の
享保15年(1730)に牧野英成によって現在の姿に整備されました。
牧野英成は、丹後田辺藩第3代藩主で寺社奉行を経て京都所司代に就任しています。
仁王門-扁額
松尾寺は「若狭富士」と呼ばれている青葉山(693m)の
中腹にあり、山号を青葉山と称します。
仁王門には山号の扁額が掲げられています。
仁王像写真
仁王像は鎌倉時代の作で、京都市の文化財に指定され、
現在は宝物殿に安置されています。
その代役として写真が門番をしています。
霊宝殿
仁王門をくぐった右側に宝物殿があります。
宝物殿は、開創1300年記念事業として、平成20年(2008)建設され、
東京・京都・奈良各博物館に寄託していた国宝や重要文化財を収蔵しています。
中でも仏画「絹本着色普賢延命菩薩像」は、舞鶴市唯一の国宝で、第74代・鳥羽天皇が
行幸の際、寄進されたと伝えられていますが、
美福門院による寄進の方が正しいように思われます。
絹本着色普賢延命菩薩像は、美福門院の念持仏であったと伝わります。
藤原 得子(ふじわら の とくし/なりこ)は長承3年(1134)に鳥羽上皇の寵愛を
受けるようになり、保延5年(1139)5月18日には
躰仁親王(なりひとしんのう=後の近衛天皇)を出産しました。
久安5年(1149)8月3日には美福門院の院号を宣下されています。
弁才天
宝物殿の向かい側には放生池があり、池の中には弁財天を祀ると思われる祠があります。
本坊への門
池の北側には風格のある門があり、門の先は本坊へと続きますが、門は閉じられています。
本堂への石段
仁王門への石段に続き、本堂への石段を上ります。
本堂
石段を上った正面に美しい二重屋根の本堂があります。
松尾寺は、和銅元年(708)に唐の僧・威光上人によって開基されたと伝わります。
青葉山は二つの峰を持ち、それが中国の馬耳山という霊験のある山と
山容が似ていたことから登山され、松の大樹の下に馬頭観音を感得し、
草庵をを結ばれたのが始まりとされています。
また青葉山北麓の若狭神野浦(こうのうら)の漁師・春日為光が海難に遭遇し、
一浮木で助かり、その木が馬頭観音であったとも伝わります。
元永2年(1119)には、鳥羽天皇の行幸があり、寺領四千石を賜り、
寺坊は65を数えて栄えました。
その後、美福門院(1117~1160)の崇敬を受け、伽藍と15宇の坊舎が再建され、
平安時代の末期には観音霊場の一として庶民の信仰を集めるようになりました。
寺蔵の「松尾寺参詣曼荼羅」には、中世末から近世初期にかけて本堂を中心とした
七堂伽藍や背後の青葉山奥院、境内の参詣人などが詳細に描かれ、松尾寺の隆盛が偲ばれます。
本堂は天正8年(1580)に焼失後、細川藤孝により再建され、
慶長7年(1602)には初代宮津藩主・京極高知により修復されました。
しかし、寛永7年(1630)、正徳6年(1716)の火災で本堂などを焼失し、
享保15年(1730)に牧野英成により大修復されたと伝わります。
本尊
書写山圓教寺に祀られている松尾寺の本尊。
本尊は馬頭観音坐像で、西国三十三所観音霊場の第29番札所本尊でもあります。
西国三十三所観音霊場で唯一の観音像ですが秘仏とされ、
最近では草創1300年を記念して平成20年(2008)から1年間開帳されました。
因みにその前の開帳は77年前の昭和6年(1931)です。
御前立
現在の本堂では厨子の扉は閉じられ、御前立が安置されています。
馬の像
本堂の左前には馬の像が奉納されています。
馬頭観世音が農耕の守り仏として、或いは牛馬畜産、車馬交通 、
更には競馬に因む信仰を集めていることから奉納されたものと思われます。
修行大師像
本堂前の参道の東側に修行大師像が祀られ、その右側には高野槇が植栽されています。
松尾寺は真言宗醍醐派の寺院で、高野槙は高野山では霊木とされています。
子抱き地蔵尊
大師像の南側に子供を抱いた地蔵像が奉納され、その背後には上部の無い灯篭が
石の玉垣で囲われていますが、詳細は不明です。
観音像
境内の南西側には、観音像が祀られています。
経蔵
観音像の右側に江戸時代に建立され、京都府の文化財に指定されている経蔵があります。
六地蔵
経蔵の右側を西へ進んだ先に地蔵堂と思われる建物があります。
縁側には六地蔵が祀られています。
祠
本堂の裏側の左方向に丹塗りの祠があります。
祠内の石碑
閼伽井では?と思われたのですが、中を覗いて見ると石碑が祀られていました。
但し、その石碑の詳細は不明です。
心霊閣
心霊閣の扁額
本堂の右側にある建物には「心霊閣」の扁額が掲げられています。
役行者像
堂内の左端には役行者像が安置されています。
屋根
また、小さなお堂の屋根が置かれていました。
渡り廊下
心霊閣から本堂へは渡り廊下で結ばれています。
登山口
廊下をくぐった先に「京都の自然200選」に選定されている青葉山への登山道があります。
青葉明神
登山道から横に入った所に「青葉大権現」が祀られた祠があります。
石仏
祠の背後には多くの石仏が山積みされています。
両部鳥居
心霊閣の左側を東へ進んだ先に六所神社と思われる社殿があります。
両部鳥居が神仏習合の名残を示しています。
狛犬
苔むした狛犬と石灯籠が歴史を感じさせます。
六所明神
由緒等を示す駒札などがありませんので祭神等、詳細は不明です。
銀杏の木
神社前の参道を西へ進んだ左側にイチョウの大樹が聳えています。
樹齢約870年と推定され、根回りは6mあり、舞鶴市の文化財に指定されています。
元永2年(1119)に鳥羽天皇が行幸の際に手植えされたと伝わります。
鐘楼
イチョウの木に隣接して鐘楼があります。
納経所
本堂前の石段を下って納経所へ向かいましたが、
現在工事中で車道を挟んだ向かい側に臨時の納経所がありました。
方丈
工事中の納経所の奥には方丈と思われる建物があります。

多禰寺(たねじ)へ向かいます。
続く

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表門
高室院から国道460号線を少し東へ進んだ先で右折して、南へ進んだ
小田原谷の最南部の山腹に金剛三昧院があります。
寺院が建ち並ぶ国道からは少し離れているため、山内で度々起こった大火でも類焼を免れ、
創建当時の多宝塔や経蔵等、山内でも数少ない鎌倉時代の遺構が現存しています。
表門には「毘張尊(びちょうそん)」と記された大きな扁額が掲げられています。
門内にある梵鐘には、承元元年~4年(1207~1210)の銘から、
現存する16番目に古いもので、国の重要文化財に指定されています。
ドラ
また、門の両側にはドラが吊るされています。
六本杉
六本杉は樹齢約400年とされ、根元の方は3本に見えますが、
上の方では6本に分かれていることから「六本杉」と呼ばれています。
また、「毘張杉」とも呼ばれています。
織田信長による高野攻めでは、信長が本能寺の変で倒れたため、難を逃れましたが、
豊臣秀吉による紀州攻めでは根来寺や粉河寺が炎上しました。
高野山では秀吉軍の攻撃に供え、僧兵が守備を固めていましたが、
この杉の上に天狗が降り立ち、「高野山の僧侶は、戦うのではなく、
仏教を広めることが大切だ」と諭しました。
武士出身の僧・木食応其(もくじきおうご)が仲介者となって秀吉に服従を誓うと、
秀吉は高野山の存続を保証しました。
信長の高野攻め以前の寺領は17万石に達していましたが、太閤検地終了後の
天正19年(1591)に1万石の所領を安堵されました。
後に秀吉は木食応其に帰依するようになり、
応其に千石と寺領1万石を寄進し、青巌寺を建立しました。
これにより、高野山の寺領は2万1千石となり、江戸時代まで存続しました。
金剛三昧院では高野山を戦禍から防いだ天狗を「毘張尊」と称え、
毎年10月10日前後に祈念法会を行っています。

六本杉の奥にある校倉造りの経蔵は、貞応2年(1223)頃に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
経蔵内には「高野版」と呼ばれる経典が書かれた版木が、500枚以上収められています。
その内、486枚は国の重要文化財に指定されています。
多宝塔
多宝塔は、貞応2年(1223)に建立されたもので、石山寺に次ぐ2番目に古い塔であり、
国宝に指定されています。
高さ約15mで、塔内の須弥壇には五智如来像が安置されています。
この像は仏師・運慶作と伝わり、重要文化財に指定されていますが、秘仏とされています。
金剛三昧院は仏塔古寺十八尊霊場の第11番札所となっています。
本堂
本堂。
金剛三昧院は建暦元年(1211)に源頼朝の正室・北条政子の発願により
禅定院として創建されました。
落慶法会には、臨済宗の開祖・栄西禅師も招かれ、開山第一世となりました。
第3代将軍・源 実朝(みなもと の さねとも)が没後の承久元年(1219)にその遺骨を納め、
禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺となりました。
幕府の重臣・安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、
大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、
数多くの子院を建立しました。
安達景盛は出家して「高野入道」と称され、出家後も高野山に居ながら幕政に参与しました。
天福2年(1234)、初代の長老に、栄西禅師の高弟で鎌倉将軍家の優れた僧であった、
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が任ぜられ、密教・禅・律の三宗兼学の道場となりました。
そして後には浄土教も兼学し、一山において特殊とも言える教学を宣揚しました。
以後十二代住職である實融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めてきました。
葛山景倫(かずらやま かげとも)は、幕府の命を受け宋に渡ろうとしていていたのですが、
源 実朝が鶴岡八幡宮で源 頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺された報せを受け、
高野山の登りました。
安達景盛と共に金剛三昧院の増建奉行を務め、退耕行勇に従い出家して
願性(がんしょう)と称し、後に金剛三昧院の別当となりました。
安貞元年(1227)、和歌山県由良町に臨済宗妙心寺派の西方寺(後の興国寺)を創建し、
金剛三昧院から禅宗の機能を移しました。
以降、金剛三昧院は高野山真言宗の寺院として続いています。
嘉禎4年(1238)、足利義氏が北条政子の十三回忌にあたり、金剛三昧院に
大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して政子の遺骨を納めました。
弘安4年(1281)、北条時宗が安達泰盛を奉行に任じて勧学院と勧修院の
二院を造営、僧侶の学道研鑽の道場となり、高野版の摺本を用いた
南山教学の中心地として栄えました。
安達泰盛は景盛の孫で、木版による仏教書である高野本の刊行を行い、
町石道には泰盛が建立した町石が現在も残されています。
また、後嵯峨上皇との親交が厚く、上皇が文永5年(1268)10月に出家して法皇となった後、
文永9年(1272)に崩御された翌年に高野山奥之院に法皇を追悼する石碑を建立しました。
勧学院は文保2年(1318)に後宇多法皇の院宣によって壇上伽藍に移建されました。
庫裡
客殿及び庫裏は江戸時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

次回は舞鶴の松尾寺から宮津の成相寺、そして加悦SL広場を巡ります。

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山門
女人堂から来た道を国道460号線まで戻り、
国道を少し東へ進んだ北側に高室院があります。
高室院は、第62代・村上天皇の血統を引く僧・房海が、鎌倉時代に開いた
智恵門院が始まりとされ、後に「高室院」に改称されました。
天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原城攻めで、城が包囲され、北条氏は降伏しました。
北条氏政・氏照兄弟は切腹し、第5代当主だった北条氏直は
徳川家康の婿であったこともあり助命され、高野山にて蟄居を命じられました。
氏直は高室院で謹慎生活を送っていましたが、約半年後の2月に赦免され、
8月には1万石が与えられましたが、11月に病死しました。
高室院は以後、北条家の菩提所として「小田原坊」と呼ばれるようになり、
現在でも関東の寺院や信者と深い関係を維持しています。
宿坊
山門をくぐった正面は宿坊となっています。
本堂
右奥に本堂があります。
明治になって、大乗院・発光院・蓮上院を合併しましたが、明治21年(1888)の大火で類焼し、
現在の本堂は昭和59年(1984)、弘法大師御入定千百五十年御遠忌の年に再建されました。
本尊は行基菩薩作と伝わる薬師如来で、重要文化財に指定され、
現在は高野山霊宝館に安置されています。
現在、本堂に安置されている薬師如来は京仏師・江里氏の作です。
高室院は西国四十九薬師霊場の第11番札所となっています。

金剛三昧院へ向かいます。
続く

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結界
金輪公園から緩やかな坂道を登って行った先に女人堂があります。
車道の両側には大きな石標が建ち、かっての結界を示しています。
女人堂
明治5年(1872)に女人禁制が解かれるまで、
高野山は女性の立ち入りが厳しく禁じられていました。
高野山へは「高野七口」と呼ばれる7つの参詣道があり、
かっては各登り口に女人堂がありました。
女人堂は女性のための参籠所で、女人堂に籠り奥之院の弘法大師御廟を遥拝しました。
現在の女人堂は、参詣道の中でも最も賑わった
京大坂道の不動坂口に建てられたもので、現存する唯一の女人堂です。

女人禁制の時代、女性信徒は山内を囲む七口の女人堂を巡り歩いたとされています。
この道は「女人道」と呼ばれ、現在でも整備され、延長約17km、約5時間半の行程となります。

堂内には大日如来を中心に、左に役行者、右に弁財天が祀られています。
小杉明神社
女人堂の左側に小杉明神社があります。
不動坂口の女人堂は文永年間(1264~1274年)に「小杉」という娘によって創建されました。
小杉は越後の国の本陣宿「紀の伊国屋」で働いていましたが、
数奇な人生を送られ、弘法大師に救われました。
そこで尼僧となり、高野山へ登って不動坂口に最初の女人堂を開きました。
お竹地蔵
女人堂の向かい側に「お竹地蔵」が祀られています。
「横山たけ」さんが亡き夫の供養のため高野山へ登り、女人堂で参籠していた時、
地蔵尊が夢の中に現れたと伝わります。
地蔵像の造立を思い立ち、延享2年(1745)5月15日に造立しました。
高野山上の鋳銅製仏像としては最大級のものとなります。
弁天岳
お竹地蔵の右側に標高984mの弁天岳への登山道があり、で山頂まで約1km、
所要時間は1時間余りだそうです。
山頂には弘法大師が大和の天河弁天社より勧請したと伝わる
嶽弁才天(だけのべんざいてん)が祀られています。
かっては「妙音坊」という天狗が一本杉に住んでいて、嶽弁才天を守護していたとの
伝承もあり、江戸時代は山内の僧によって維持されてきました。
現在では地域の一般の方々によって弁天講が結成されて引き継がれ、
毎年10月18日に大祭が行われているそうです。

高室院へ向かいます。
続く

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霊屋への門
南院のすぐ西側に徳川家霊台への受付があります。
拝観料200円を納め、進んだ先に石段があり、その上に門があります。
かって、この地には大徳院があり、大徳院が東照宮を勧請しました。
大徳院は高野三方(学侶方・行人(ぎょうにん)方・聖方)のの一つ、聖方の代表寺院で、
代々徳川家との関係が深く、家康によりそれまで「蓮華院」と
称されていたのを、「大徳院」に改めました。
聖方は、当初は高野山の念仏修行者を指していましたが、平安中期以降、
諸国に勧進を行い、高野山に対する信仰を広め、「高野聖」と呼ばれました。
大徳院は明治になって他の寺院に併合され、徳川家霊台だけが残されました。

構造材に寛永10年(1633)の墨銘書(ぼくめいしょ)があることから、
この頃から造営が着工されたと推定されています。
寛永16年(1639)には、第3代将軍・家光が大壇主となり、寛永20年(1643)に竣工し、
4月17日には落慶法要が行われました。
家光は諸大名へ東照宮の造営を進言し、全国で500社を超える東照宮が造営されましたが、
明治維新以後の廃仏毀釈などで現存するのは約130社とされています。
家康の霊屋-全体
石段を上って門をくぐると、向かって右側に家康の霊屋(たまや)があり、
前には鳥居が建ち、周囲は透塀(すきべい)で囲われています。
家康の霊屋
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に亡くなり、
翌元和3年2月21日(1617年3月28日)には、朝廷から「東照大権現」の神号を宣下されました。
正保2年(1645)に宮号の宣下があり、東照大権現は「東照宮」と称するようになりました。

黒漆塗りに飾り金具や彫刻が施され、周囲には縁と勾欄をめぐらせています。
内部は非公開ですが、絢爛豪華(けんらんごうか)な須弥壇(しゅみだん)と
厨子(づし)を設け、蒔絵などが施されているそうです。
寅の彫刻
向拝の蟇股には寅の彫刻が施されています。
秀忠の霊屋-横
家康の霊屋前から隣の第2代将軍・秀忠の霊屋を望みます。
秀忠の霊屋-全体
向かって左側には秀忠の霊屋があります。
秀忠の霊屋-正面
家康・秀忠の両霊屋はともに方三間宝形造(一辺6.7m)で一間の向拝を有し、
屋根は瓦棒銅板葺で、国の重要文化財に指定されています。
兎の彫刻
向拝には唐破風が付き、秀忠の方は蟇股に兎の彫刻が施され、
生まれ年の干支と思われます。
大徳院絵図
大徳院の古地図には境内の東端に尊牌堂(そんぱいどう)が描かれています。
三代将軍以下および御三家の位牌が祀られていましたが、
明治21年(1888)に焼失し、再建されずにいます。
金輪塔
徳川家霊台を出た車道の向かいに金輪公園があり、
公園内に「金輪塔」と呼ばれる多宝塔が建っています。
金輪塔は検校を務めた明算大徳(1021~1106年)によって創建され、
現在の塔は天保5年(1834)に再建されたもので高さは18mあります。
金輪仏頂尊を本尊としています。
かって、公園内に不動堂がありました。
明治32年(1899)に旧・国宝に指定され、明治41年(1908)に解体修理が行われた際に、
壇上伽藍の現在地に移されました。

女人堂ヘ向かいます。
続く

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