2019年08月

寺号標
本堂
龍図
浪切龍の図

記事の詳細はこちらをご覧ください。

山門
龍泉院から北西方向に進んだ所に南院があります。
南院は金剛峰寺の南側、現在の霊宝館駐車場の辺りに創建されました。
何時頃、何故、この地に移されたのか?...詳細を調べましたが不明です。
宿坊
山門がありますが、門をくぐると宿坊となっています。
寺号標
宿坊の西側に「浪切不動尊」を祀る本堂があり、
近畿三十六不動尊霊場の第36番札所、結願寺となっています。
本堂
この「浪切不動尊」は、師匠の恵果(えか/けいか)より与えられた
栴檀(せんだん)の霊木を用いて自ら刻み、守り本尊としていました。
唐からの帰途、暴風雨に遭遇しましたが、不動明王を船首に祀り、
船は波を切るように進んだことから「浪切不動尊」と呼ばれるようになりました。
空海は五島列島福江島玉之浦の大宝港に寄港、そこで真言密教を開いたため、
後に大宝寺は西の高野山と呼ばれるようになりました。
空海は、20年の留学期間を2年で切り上げ帰国したため、
朝廷は入京の許可を与えませんでした。
空海は大宰府で滞在し、大同4年(809)に第52代・嵯峨天皇が即位して
ようやく入京が許可されました。
浪切不動尊は宮中の真言院で祀られるようになりましたが、その後、神護寺・醍醐寺等と
変遷し、承平・天慶の乱が起こると朝敵・平将門に対して、
戦勝を祈願するために熱田神宮に遷されました。
その後、壇上伽藍にある御社(みやしろ)の拝殿・山王院に安置され、
丹生明神と一体の尊神と崇められました。
当時、山王院を管理していたのが東大寺南院より入山した真興で、南院を開基しました。
平安時代、南院を中興した維範大徳は、浪切不動を南院に遷して本尊としました。
鎌倉時代の弘安4年(1281)、文永11年(1274)に続き蒙古が襲来すると、
浪切不動尊は南院院主の賢隆に率いられて最前線の博多に出兵しました。
志賀島にて、高野山僧による五壇護摩の祈禱、異国降伏祈禱が行われると神風が吹き、
蒙古の軍船の多くが沈没、損壊を受けるなどして、残った蒙古軍は撤退しました。
この時の霊験によって、帰山した南院・賢隆の名声はたかまり、
ほどなく高野検校に就任しました。
その後も、「世界大戦」など国家存亡の危機に際して、
浪切不動による降魔調伏の儀礼が行われました。
現在、浪切不動尊は国の重要文化財に指定され、秘仏で毎年6月8日のみに開帳されます。
龍図
本堂の天井には「浪切龍」が描かれています。
「八大龍王は本尊の使者で、除災・招福の守護とされ、中央で祈念して手を打てば、
響きを発して応える」と記されています。
仏舎利塔
本堂の左側に昭和63年(1988)に建立された仏舎利塔があります。
スリランカ出身のシロガマ・ヴィマーラ大僧正が南院で修行をした縁により、
スリランカのジャワルダナヤ大統領から贈られた仏舎利を奉納するために建立されました。
初層には弘法大師像が安置され、二層に弥勒菩薩を中心に諸菩薩、
不動、飛天が描かれ、弥勒曼陀羅が立体化されています。

徳川家霊台へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

光台院との山門
普賢院から北へ進み、その先の信号を左折して西へ進んだ先に
龍泉院と光台院の山門があります。
地蔵と五輪塔
山門をくぐった左側に多くの地蔵像や五輪塔が祀られています。
山門
参道を進むと左右に分かれ、右側が龍泉院、左側が光台院への参道となります。
大師堂
龍泉院の山門をくぐった左側に大師堂があります。
しゃもじの建物
その先の中央に大きなしゃもじが掲げられている建物の詳細は不明です。
六地蔵
参道を進んだ正面に六地蔵が祀られています。
万歳の姿や聞き耳を立てていたり、Vサインをするなどユニークな表情をしています。
本堂
六地蔵の左奥に本堂があります。
龍泉院は承平元年(931)頃に真慶律師によって開創されたと伝わります。
かって、日照りが続いた際、弘法大師が善女龍王を勧請し祈雨の修法を行われた霊池が
傍らにあることから、院号が付けられました。
また、真雅僧正が阿字観を修せられたとされています。
真雅僧正は弘法大師と同じ、讃岐国多度郡屏風浦の佐伯氏の出身で、
弘法大師十大弟子の一人です。
大同4年(809)、9歳のとき故郷を離れ上京し、16歳の弘仁7年(816)で空海の弟子となりました。
嘉祥3年(850)3月に右大臣・藤原良房の娘・明子が惟仁親王(後の清和天皇)を
出産すると、護持僧となり、天皇と藤原良房から厚い信任を得ました。
斉衡3年(856)10月に大僧都、貞観6年(864)2月には僧正に任ぜられました。
元慶3年(879)1月3日に79歳で入滅され、文政11年(1828)6月26日、
950回忌に際して法光大師の諡号が追贈されました。

本尊の薬師如来は平安時代(藤原時代末期)の作で、国の重要文化財に指定されています。
また、西国四十九薬師霊場の第10番札所本尊でもあります。
弘法大師作とされる、龍猛菩薩(りゅうみょうぼさつ)像が寺宝として安置されています。
この像は龍泉院に深く帰依した毛利元就(もうり もとなり)から寄進されました。
龍猛菩薩は真言八祖の第一祖で、南インドのカースト制度の頂点である
バラモンの家に生まれました。
またの名を、龍樹(りゅうじゅ)とも呼ばれ、天性の才能に恵まれ、
幼くしてヴェーダをそらんじてその意味を理解したと伝わります。
ヴェーダとは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけて、
インドで編纂された一連の宗教文書の総称を指します。
若くして愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、山上にある塔を訪ねました。
塔の中で、大日如来の直弟子である金剛薩埵(こんごうさった)から、
あらゆる密教の教えを授けられました。
塔の中に響き渡った教えの声が、現在の「声明」の起源と伝わり、
秘密にして最上なる曼荼羅の教えを現世に伝えた高僧とされています。

南院へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

山門
普賢院の参拝は予定していなかったのですが、前を通った時、
鐘楼門と漆喰の白壁の美しさに、思わず中へと引き込まれました。
鐘楼門が建立された年代は不明ですが、山内で鐘楼門があるのは普賢院のみです。
門の彫刻-1
門の彫刻-2
門には彫刻が施されています。
本堂
門を入った正面に本堂があります。
現在の本堂は、明治21年(1888)の五の室谷大火後に、
高野山東照宮(現在の徳川家霊台)の拝殿を移築して再建されました。
堂内には本尊の普賢菩薩像が安置され、その左側の位牌堂には阿弥陀如来像、
右側の護摩堂には不動明王像が安置されています。
普賢菩薩像は弘法大師十大弟子の一人で、海印三昧寺(現在の海印寺寂照院)を
創建した道雄(どうゆう)僧都によって製作され、弘法大師が点眼されたと伝わります。

普賢院は大治年間(1126~1131)に高野山を訪れた覚王親王から授与された
念持仏の普賢菩薩を、力乗上人が祀り、「普賢王院」と称したことが始まりとされています。
康治2年(1143)12月13日には本堂が創建されましたが、
久安5年(1149)の山内の火災で焼失し、その後再建されました。
江戸時代の元禄3年(1670)に火災では普賢院の古文書や仏具などが失われ、
寛永以前の資料が不明となりました。
明治21年(1888)に五の室谷から出火した大火で普賢院の本堂が焼失しました。
この火災は3日間燃え続け、山の3分の2、子院77ヶ寺、民家70余戸が灰燼に帰し、
廃仏毀釈の流れとともに消失を免れた359ヶ寺の子院は130ヶ寺まで統廃合されました。
仏舎利殿
仏舎利殿は平成11年(1999)に建立され、地上部分は摩尼殿とし、平成8年(1996)に
ネパールより請来され仏舎利は、地階の光明心殿に祀られています。
金剛さった
摩尼殿には金剛薩埵菩薩像(こんごうさったぼさつぞう)が安置されています。
金剛薩埵は普賢菩薩を前身として生まれ、真言行者の最も理想的な姿とされています。
大黒天
仏舎利殿の右側に大黒天が祀られ、「寶聚大黒天」と称されています。
仏舎利殿建設の際に、明治期に普賢院に合併された寶聚院所縁の大黒天が見つかりました。
この大黒天は新たに造立されたもので、発見された大黒天は
毎年5月の夏季法会にてご開帳されます。

龍泉院へ向かいます。
続く

正門
金剛峯寺の全身は、豊臣秀吉が母・大政所の菩提を弔うために文禄2年(1593)に
建立した青巌寺(せいがんじ)ですが、その後再三消失し、明治2年(1869),
青巌寺近くにあった興山寺と統合し、現在の「総本山金剛峯寺」となりました。
正門は唯一秀吉時代から残る文禄2年(1593)の建造物で、
以前はこの門から出入りできるのは皇族や高野山の重職だけでした。

戦国時代、武力を蓄えていた高野山は、織田信長と対立するようになりました。
天正9年(1581)、信長に謀反した荒木村重の家臣のうち数名が高野山に逃げ込み、
信長は使者を送ってこれらの引き渡しを求めたのですが、
高野山側は信長の使者を殺し要求には応じませんでした。
数万の信長軍による高野山攻めが行われましたが、信長が本能寺の変で倒れ、
高野山は難を逃れました。
豊臣秀吉は当初、高野山に寺領の返還を迫りましたが、
武士出身の僧・木食応其(もくじきおうご)が仲介者となって秀吉に服従を誓い、
石高は大幅に減らされましたが、高野山は存続することができました。
後に秀吉は木食応其に帰依するようになり、寺領を寄進し、青巌寺を建立しました。
秀吉の甥・豊臣秀次は天正19年(1591)12月28日に豊臣氏の氏長者となり、
豊臣家を継承する存在でしたが、文禄2年(1593)8月3日に淀殿が秀頼を産むと、
文禄4年(1595)6月末に突然、謀反の疑いが持ち上がりました。
秀次は強制的に出家させられて青巌寺に蟄居となり、後に切腹しました。
主殿
門をくぐった正面に東西約60m、南北約70mの金剛峯寺本坊の主殿があります。
金剛峯寺は、全国の高野山真言宗3600余ヵ寺の総本山で、
神仏霊場の第13番札所となっています。
金剛峯寺という名称は、空海が『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(ゆがゆぎきょう)』から
名付けたと伝わります。
「瑜伽」とはヨーガのことで、その修行により仏教の教えを究めたい
との願いも込められていたとされています。
開創以来、「金剛峯寺」は高野山全体を指す名称でしたが、
現在では多くは本坊の名称として使用されています。
金剛峯寺の屋根は檜皮葺のため、屋根を火災から守るために天水桶が設置されています。
大玄関
主殿中央の大玄関が使用できるのは、皇族や高野山の重職だけです。
小玄関
大玄関の向かって右側の小玄関は、僧侶でも上位職の方々に限られ、
一般者の出入り口はその右側にあります。

堂内は拝観ができますが、今回は時間の都合で断念しました。
平成27年(2015)に訪れた際の記事を加筆・再掲載します。
大玄関の付近にある大広間では、高野山の重要な儀式が行われる場所で、
襖には「群鶴(ぐんかく)の図」「松の図」が描かれています。
狩野法眼元信(かのうほうげんもとのぶ)の筆と伝わりますが、建物内の撮影は禁止されています。
正面奥の持仏間には、弘法大師座像が安置されていますが、秘仏とされています。

大広間に続く梅の間には、狩野探幽筆と伝わる「梅月流水」の襖絵が描かれています。

続く柳の間は文禄4年(1595)に豊臣秀次(二代目関白)が自害したことから
「秀次自刃(じじん)の間」ともいわれています。
襖絵の「四季の柳の図」は山本深斉(たんさい)によるものです。
金剛界曼荼羅
金剛界曼荼羅
胎蔵界曼荼羅
胎蔵界曼荼羅
順路は長い渡り廊下を経て新別殿へと続き、広い部屋には両界曼荼羅の衝立があります。
弘法大師
部屋の正面には弘法大師の掛け軸が掛けられています。
蟠龍庭-1
新別殿を出ると、廊下から蟠龍庭(ばんりゅうてい)が望めます。
新別殿と同じく昭和59年、弘法大師入定1150年御遠忌大法会の際に、造園されました。
蟠龍庭-2
日本最大の石庭で、2,340平方メートルの広さを誇っています。
雲海の中で向かって左に雄、向かって右に雌の一対の龍が向かい合い、
奥殿を守っているように表現されています。
奥殿
奥殿は非公開です。
中庭
順路を右折すると、書院上段の間の前に四季の中庭があります。
江戸期に造園されたそうです。
真然堂
下から真然堂を拝することができます。
真然大徳は弘法大師の甥にあたり、高野山第二世として、
衰退していた高野山を復興させました。
金剛峯寺が建てられた場所は、もともと真然大徳の廟所(びょうしょ)でもありました。
真然大徳廟の上には多宝塔が建てられていたのですが、
いつしかお堂形式の建物に変わり、真然堂と呼ばれるようになりました。
台所
順路は台所へと続きます。
江戸期以降、実際に大勢の僧侶の食事を賄ってきた場所です。
一つの釜で約七斗(98キログラム)のご飯を炊くことができる大釜が三基並んでいます。
三つで一度に二石(約2,000人分)のご飯を炊け、現在でも使われているそうです。

その他に一般には非公開ですが、阿字観道場、新書院、茶室 真松庵があります。
鐘楼
正門の東側に鐘楼があり、和歌山県の文化財に指定されています。
青巌寺の鐘楼として建立されましたが、万延元年(1860)の大火で類焼後、
主殿などの建物と共に元治元年(1864)に再建されたと考えられています。
かご塀
現在の金剛峯寺の境内は「かご塀」と呼ばれる築地塀で囲われています。
旧青巌寺の寺域を区切るために設けられたもので、南西部分の壁は
文久2年(1862)の建立と推定されていますが、西面する部分は柱の風飾状態から
一時代古いものと考えられています。
檜皮葺で、総延長202mあり和歌山県指定文化財になっています。
経蔵
境内の西側に経蔵があります。
旧青巌寺の経蔵があった所に、延宝7年(1679)に大阪の伊川屋から
釈迦三尊と併せて寄進されました。
経蔵は重要なものを収蔵するところなので、火災が発生しても安全なように
主殿とは離れて建てられています。
東門
東側の門から出て普賢院へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ