2019年10月

三鈷寺への参道
画像は平成31年(2019)3月27日、平成29年(2017)‎‎11‎月‎2‎日、
平成28年(2016‎)10‎月‎9‎日参拝時のものを使用しています。
善峯道を登って行くと善峯寺のバス停から
下った所に三鈷寺(さんこじ)への登り口があります。
阿智坂明神-1
三鈷寺への参道付近に阿智坂明神が祀られています。
源算上人が霊地を求めてこの地に入りましたが、山が険しく休憩していると
一人の翁神が現れました。
「我はこの地の地主にて名を阿智坂という。この霊地に伽藍を草創し給え。
この地を与えて永く仏法を守らん。」と上人に告げるといなくなりました。
阿智坂明神-2
阿智坂明神はその鎮守として祀られています。
橋
善峯川に架かる橋を渡って参道へと入ります。
車道の滝
橋の反対側には小さな滝があり、注連縄が張られています。
滝の前には石像が祀られ、滝には何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
坐禅石
橋を渡り、しばらく登った所に「坐禅石」があります。
源算上人が開山を思惟するため、苔むした岩石の上に40日近く坐り魔障を退除し、
良峯を開いたとされる石です。
 一見すると上部が平らなように見えますが、長い年月を経て谷の方に傾いています。
比叡山横川の恵心僧都に師事していた源算上人は、平安中期の長元2年(1029)、
47歳の時にこの地で千手観音を自作し、本尊として

小堂に安置し、法華院と号したのが善峯寺の始まりです。
開山に当たって、この地は岩が多いことから、地ならしが困難であることを思い悩みました。
ある日、一人の僧があらわれ、力を貸し与えることを告げます。
次の夜、野猪の大群が現れて、一夜にして牙で大岩をうがち、
平地になったとの伝承が残されています。
東門
「坐禅石」からしばらく坂道を登るとようやく東門が見えてきます。
仁王門
東門をくぐると、圧倒的な威容を誇る仁王門が正面に立ち塞がります。
善峯寺は山号を西山(せいざん)と号する、天台宗系単立の善峰観音宗の寺院で、
西国三十三所観音霊場・第20番、神仏霊場・第85番、京都洛西観音霊場・第1番の
札所となっています。
善峯寺は応仁の乱(1467~1477)で焼失し、その後荒廃しました。
現存する多数の堂塔は、江戸時代になって、桂昌院の寄進より再建されたものです。
仁王門も正徳6年(1716)に再建された三間一戸の楼門形式の山門です。
仁王像-左
仁王像-右
仁王像は鎌倉時代の運慶作と伝わります。
源頼朝が鎌倉・鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を当山の観性法橋が
勤めた報恩として寄進されました。
仁王門の楼上に安置されていた本尊の文殊菩薩と脇侍の二天像は、
修復され現在は文殊寺宝館に安置されています。
手水舎-1
仁王門で入山料500円を納め、正面の石段を登った左側に手水舎があります。
手水舎-2
手水舎は簡素で、取水口には竹が使われています。
本堂前からの仁王門
本堂前からの仁王門です。
本堂
石段を登った正面にある観音堂が本堂となっています。
長元7年(1034)に第68代・後一条天皇が鎮護国家の勅願所と定め、
「良峯寺」の寺号を下賜されました。
長久3年(1042)、第69代・後朱雀天皇が夢告を受け、勅命により
洛東・鷲尾寺(わしのおでら)の千手観音を遷座して本尊とされ、
千手堂が創建されて本尊が安置されました。
天喜元年(1053)、尊仁親王(たかひとしんのう=後の第71代・後三条天皇)の
后・藤原茂子(ふじわら の もし)は、難産のため

当山の本尊に祈願し、無事に貞仁親王(後の第72代・白河天皇)が誕生しました。
後三条天皇は、本堂他堂宇を寄進、建立しました。
寺は全盛となり、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守社と
52の僧坊を有する大寺院となりました。
治暦4年(1068)に大旱魃が発生した際、源算上人の祈りで、龍王が西山の峰より
雨を降らした奇瑞によって、第70代・後冷泉天皇より「良峯」の勅額を賜りました。
建久3年(1192)、第82代・後鳥羽天皇は「良峯寺」を「善峯寺」に改め、
勅額宸筆を下賜されました。
南北朝時代の正平8年/文和2年(1353)に山名時氏は室町幕府に対して挙兵し、
京都へと進行しましたが丹波守護・高 師詮(こう の もろあきら)はこれを阻止すべく
合戦となり、戦火を被り善峯寺は焼失しました。
この合戦で敗れた師詮は切腹して果てました。
その後、第102代・花園天皇により伽藍が再興されましたが、
応仁の乱(1467~1477)で焼失し、寺は荒廃しました。
52あった僧坊は7にまで減じ、荘園も失われました。
江戸時代になって桂昌院の寄進により寺は復興され、現在の観音堂(本堂)は
元禄5年(1692)に再建されました。
明治時代には神仏分離令の流れを受けて一坊に総合されます。
現在は境内地3万坪に20近くの堂塔伽藍を有し、所有地36万坪が受け継がれています。

本尊は鷲尾寺から遷された像高178.8cmで、平安時代後期から鎌倉時代初期の作と
される十一面千手観世音菩薩で、西国三十三所観音霊場・第20番の札所本尊でもあります。
この観音像には以下のような伝承が残されています。
「賀茂社境内の畑に植えてあった苗が一夜にして欅になり、光明を放ったと伝わります。
革堂(こうどう=行願寺)の行円は、この霊木で本尊を刻み、
安居院(あぐい=比叡山東塔の竹林院の里坊)の仏師・仁弘はその余材で
十一面千手観世音菩薩を造り鷲尾寺に安置した」とされています。
現在、この観音像は秘仏で、毎月第2日曜および毎年正月三箇日に開帳されていますが、
2022年以降の開帳は開山から1,000年となる2028年まで行わない予定となっています。

また、開山・源算上人が刻んだとされる、像高174.5cmの十一面千手観世音菩薩は
脇本尊とされ、京都洛西観音霊場・第1番の札所本尊にもなっています。
秘仏本尊の左側には、聖観音菩薩像が安置されています。
文殊寺宝館
本堂の左側、駐車場の上に文殊寺宝館がありますが、春(4~6月)と
秋(10・11月)の土・日・祝日に無料開放されますが、館内の撮影は禁止されています。
井戸
本堂の右側にお香水の井戸があります。
閼伽水として仏前に供され、この水を服すると長寿の御利益があると伝わります。
修行大師像
井戸の右側に修行大師像が祀られています。
善峯寺は天台宗ですが、なぜか弘法大師が祀られています。
地蔵堂-1
修行大師像の右横に地蔵堂があります。
大師堂
大師堂-堂内
地蔵堂の右横に大師堂があり、弘法大師像が安置されています。
納札所
大師堂の右側に石段があり、石段を挟んで納札所があり、無料休憩所にもなっています。
賓頭盧尊者
納札所には賓頭盧尊者像が安置されています。
観音霊場本尊
また、西国観音霊場の各本尊が祀られています。
鐘楼
納札所と大師堂の間にある石段を登り、右に曲がった先に、
貞享3年(1686)に再建された鐘楼堂があります。
鐘楼-梵鐘
梵鐘には貞享4年(1687)の銘があり、徳川5代将軍・綱吉が42歳の厄年を迎えるにあたり、
桂昌院が厄除けのために寄進したことから「厄除けの鐘」と呼ばれています。
護摩堂
鐘楼堂の北側に元禄5年(1692)に建立された護摩堂があります。
護摩堂-堂内
堂内には本尊の不動明王像を中心に右隣に降三世(ごうざんぜ )明王、
その右隣に金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王。
不動明王像の左側に軍荼利(ぐんだり)明王、その左隣に
大威徳(だいいとく)明王の五大明王が安置されています。
松-北
護摩堂前の石段上には「遊龍の松」が北に向けて、枝を伸ばしています。
松-中央
「遊龍の松」は、五葉松で樹齢600年以上、幹周り約1.5m、高さ約2m、
北方向に約24m、西方向に約37m水平に枝を伸ばし、
国の天然記念物に指定されています。
桂昌院によって植えられたと伝わりますが、桂昌院が亡くなってからは
300年余りですので、当時で樹齢300年の松を植えられたのかもしれません。
松-西
遊龍の松-西方向
主幹が地を這うように伸びる巨大な松は、臥龍の遊ぶ様に見えることから、
安政4年(1857)、花山院前右大臣家厚公により「遊龍」と名付けられました。
平成6年(1994)に松くい虫の被害により、全長50mほどの松が
15m余り切断され、現在は全長37mとなっています。
松-碑
標石は明治26年(1893)、鳥尾中将の書です。
多宝塔
多宝塔は元和7年(1621)に第28代・賢弘法師により再建された善峯寺に現存する
最古の建物で、国の重要文化財に指定されています。
本尊は愛染明王で、ガラス越しに拝むことができます。
経堂
多宝塔の西側には六角六柱・二重屋根の経堂があります。
経堂-傅大士
宝永2年(1705)に桂昌院の寄進により建立され、傅大士(ふだいし)を奉安し、
鉄眼版一切経が納められ、 現在は祈願成就の絵馬奉納所でもあります。
経堂-彫刻
堂内には六角の壁面上部に、それぞれ二頭の獅子の像が施されています。
桜
経堂の西側に桂昌院が手植えされたと伝わる樹齢300年以上のしだれ桜が植栽されています。
この桜はカエデとの合体木で、二本の古木が絡み合った結び木となっています。
JR東海のCM「そうだ 京都に行こう」で有名になりました。
開山堂
後戻りして遊龍の松に沿って北へと進むと開山堂があります。
開山堂は、貞享2年(1685)に源算上人の廟所として建立されました。
開山堂前の景色
開山堂は比叡山を望むように建てられています。
幸福地蔵堂
開山堂から西へ進んだ所に「幸福地蔵」が急な斜面に
柱を組んで造られた祠に祀られています。
幸福地蔵
330年前に造られた地蔵像で「自分以外の幸せを願いましょう」と記されています。
幸福地蔵-下から
地蔵の先、左に下れば白山・桜あじさい苑へ、右側は鎮守社へと参道が分かれ、
桜あじさい苑の方へ下ります。
幸福地蔵を下から見上げました。
白山名水-湧水
更に下ると白山名水が湧き出ています。
源算上人が写経を行おうと自らの手で用紙を作りました。
寛徳2年(1042)2月1日の夜、白山明神がこの地に現れ、手本となる法華経経巻と
浄水を授け、翌日には五色の雪が降ったと伝えられています。
この由緒によってこの地は「白山」と呼ばれ、源算上人は毎年この日に法楽をされたと伝わります。
白山名水-井戸
その付近に井戸が残されています。
また、この地にはかって、塔頭の実光坊があったとされています。

鎮守社の方へ戻ります。
続く

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最初の石段
観音正寺から桑實寺へは山中を徒歩でも行けますが、観音正寺から下り、
桑實寺へ登るという楽なコースしかバイクで来ている以上、選択の余地はありません。
林道を走っていると、小鹿が車道に飛び出してきました。
先行車が急ブレーキをかけたのですが、小鹿はUターンして山の中に消えました。
繖山(きぬがさやま)を大きく迂回して、桑實寺の参道に到着しましたが、
民家のすぐ先から石段となり、駐車する空き地はありません。
地図
仕方なく戻ると避難場所案内図があり、それに桑實寺の駐車場が記載されていました。
駐車場と言っても民家の前の空きスペースを利用するだけなので、
乗用車なら台数は限られます。
山門
駐車場から鉄板で造られた簡易な橋を渡り、後付けされたと思われる参道を進むと
石段の続きに合流します。
下りで滑って転倒したので、特に下りには注意が必要です。
駐車場と石段の始まりの標高はそれほど大差はありません。
合流した石段の先に山門があります。
参道の地蔵
門をくぐった先の左側に地蔵菩薩の石像があります。
石橋
石橋を渡り、その先の石段を登って右に曲がります。
石橋からの石段
ようやく建物が見えてきました。
地蔵堂
しかし、地蔵堂がぽつんと建っているだけでした。
地蔵堂は明和6年(1769)に建立され、縁結び、子安地蔵尊として信仰されているそうです。
地蔵堂からの石段-1
地蔵堂の先からも石段は続きます。
三丁
三丁の石柱が建っていました。
本堂の屋根
ようやく本堂が見えてきました。
本堂までもう一息
本堂までもう一息です。
塔頭
手前には塔頭の正寺院がありますが、門は閉じられています。
本堂
本堂
パンフレットには石段400段、所要時間15分と記されていますが、
実際には山門を通過してから本堂まで40分を要しました。

桑實寺の山号も観音正寺と同じ繖山ですが、観音正寺が(きぬがささん)に対し
桑實寺では(きぬがさやま)と読むようです。
天台宗の寺院で、西国薬師四十九霊場・第46番と
びわ湖百八霊場・第71番の札所となっています。
寺伝では桑實寺が創建されたのは飛鳥時代の白鳳6年(667)11月8日に
定恵和尚によって開山されたのですが、和尚の没年が
天智天皇4年12月23日(666年2月2日)と微妙です。
湖国に疫病が流行した際、第38代・天智天皇の四女・阿閉(あべ)皇女
(後の元明天皇)も病に罹患しました。
皇女は病床で琵琶湖に瑠璃の光が輝く夢を見ました。
その話を聞いた天皇が定恵和尚(643~666年)に法会を営ませると、
湖中から生身の薬師如来が現れ、大光明が放たれました。
この光明により皇女の病も回復し、天皇の勅願により桑實寺が創建されたと伝わります。
定恵和尚は、中臣鎌足の長男で白雉4年(653)5月に遣唐使とともに唐へ渡り、
玄奘三蔵の弟子・神泰法師に師事しました。
天智天皇4年(665)9月に帰国し、同年12月に大原(現在の奈良県高市郡明日香村小原)で
亡くなったとされ、寺伝との相違があります。

桑實寺の寺号は、定恵和尚が中国より持ち帰った桑の木をこの地に植え、
日本で最初に養蚕を始めたことに由来するとされています。
寺は栄え、二院十六坊の僧坊を持つようになりました。
天文元年(1532)には室町幕府12代将軍・足利義晴が京の戦渦を逃れ、
佐々木六角氏の保護のもとに3年間ここに仮の幕府を置きました。
足利義晴は絵巻を作ることを発願し、享禄5年(1532)1月から6月にかけ制作され、
7月29日に天文と改元あった後の8月17日に、本尊薬師如来の帳中に奉納されました。
この絵巻は「桑実寺縁起絵巻」として、国の重要文化財に指定されています。

その後、寺は一時的に荒廃しましたが、天正4年(1576)に安土城を築城した
織田信長の保護を受け復興されました。
寺は戦国時代の動乱期にも戦火を被ることはありませんでしたが、天正10年(1582)に、
安土城の女中たちが信長が竹生島へ参詣した留守中に禁足を破り、
桑實寺へ参拝したことを咎め、女中たちと擁護した桑實寺の高僧たちが
信長により殺害されました。
本尊
現在の本堂は南北朝時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。
桁行五間、梁間六間、一重、入母屋造、檜皮葺の建物で、内陣と外陣に分かれ、
内陣も参拝できます。
本尊は奈良時代作の薬師如来で、30年に一度開帳される秘仏とされ御前立が安置されています。
本尊の左右には日光・月光の両菩薩像、十二神将像が安置されています。
須弥壇には桑実寺縁起絵巻から抜粋した絵が展示されています。
天台大師
須弥壇の左横側に天台大師と伝教大師の像が安置されています。
天台大師・智顗(ちぎ)は、中国・南北朝時代から隋にかけての僧で、
天台教学を大成し「智者大師」とも尊称されています。
天台宗の開祖とも、慧文(えもん)、慧思(えし)に次いで第三祖ともされています。
伝教大師・最澄は、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(げんがくしょう、短期留学生)に
選ばれ、唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を創建し天台宗の開祖となりました。
大日如来
須弥壇背後の左側に安置されている大日如来像は、文明15年(1483)に建立された
三重塔内に同年に造られ安置されていました。
その右側には阿弥陀如来坐像が安置されています。
不動明王
須弥壇背後の右側には弁財天、不動明王、阿弥陀如来が安置されています。
弁才天
弁才天は一面八臂の弁財天坐像で、宝珠・宝棒・宝箭(や=矢)・
宝刀・宝弓などを持っています。
地蔵
本堂への出入り口のある左側には地蔵像が祀られています。
鐘楼
本堂の左側に寛永21年(1644)2月に再建された鐘楼があります。
梵鐘も同時に鋳造されましたが、戦時供出され現在の梵鐘は
昭和26年(1951)に再鋳されたものです。
蔵
鐘楼の左側には蔵があります。
鎮守社
本堂の右側に石段があり、それを登ると天和元年(1681)に建立された鎮守三社があります。
中央に大黒天、左側に須佐之男命、右側に須佐之男命の后が祀られています。
高天原を追放された須佐之男命は出雲の鳥髪山(現在の船通山)に降り立ち、
その地を荒らしていた八俣遠呂智(やまたのおろち)への生贄にされそうになっていた
櫛名田比売命(くしなだひめのみこと)を助け、妻としたとされています。
大師堂
更に石段を登ると大師堂があります。
大師堂は天正4年(1576)に織田信長により建立され、伝教大師が祀られていました。
しかし、明治末期の風水害で大破し、大正2年(1913)に経堂として再建されました。
現在は定恵和尚尊像、釈迦如来像、聖徳太子像が安置され、
大蔵経418巻が輪蔵に収納されています。

大師堂の先から観音正寺への登山道があります。 
パンフレットには観音正寺から徒歩25分と記されていますが、実際には約40分を要するようです。

境内には文明15年(1483)に佐々木氏により建立された三重塔がありました。
江戸末期の度重なる風水害で大破し、明治13年(1880)に解体され、
現在は再建が計画されているようです。
夕陽
帰途、西ノ湖の山際に夕陽が沈みました。
花
名前は判りませんが、湖岸には白い花が咲いていました。

次回は今年3月に善峰寺~本山寺を巡礼した記事を投稿する予定です。

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駐車場
14:10に観音正寺の裏参道山上駐車場に到着しましたが、
林道通行料として300円が必要です。
駐車場から本堂までそれほど急では無い坂道を10分ほど歩きます。
奥之院
奥之院があります。
手前にあっても奥之院ですが、1200段の石段を登る表参道からは奥之院となります。
1400年、聖徳太子が近江国を遍歴されている時、巨岩の岩で舞う天人を見て、
その岩を「天楽石」と名付けたと伝わります。
現在は倒木や地滑りの危険があるため立入が禁止されていますが、
平成29年(2017)5月26日に訪れた時は、禁止されていなかったので、
その時の画像を使用します。
奥之院-正面の岩
石段は上部に行くほど傾斜が急となり、石段も崩れています。
鳥居をくぐると正面に大きな岩が立ち塞がり、左へと折れます。
奥之院-石窟前
その先に岩と岩が重なり窟となっている所がありますが、
神聖な場所として立入が禁止されています。
奥之院-石窟
少し下って岩の中を覗いて見ましたが、石仏は見られませんでした。
寺伝ではこの磐座の中に、聖徳太子が彫られたと伝わる妙見菩薩を中心に
五仏の石像が安置されているそうです。
ねずみ岩
更に参道を進むと「ねずみ岩」があります。
何かの伝承で「ねずみ岩」と名付けられたのだろうと思い調べてみましたが、
見つかりませんでした。
ネズミに似ていると言う説もありますが、最上部の石はそのようにも見え、
その理由だけで祠が祀られるのか?...謎だけが残りました。
鐘楼
境内は北西方向にある本堂に向かって参道があり、主な建物は右側(山側)に配され、
左側は谷側となります。
境内の南東端には鐘楼があります。
不明な建物
鐘楼の向かいに不明な建物がありますが、かってはその奥に山道があり、
それが参道となっていたようです。
観音正寺は天台宗系の単立寺院で、その参道の登り口には日吉神社があります。
仁王像-左
仁王像-右
観音正寺には仁王門は無く、仁王像のみが門固めをしています。
達磨像
仁王像の前に達磨像が祀られています。
仁王像背後の社殿
仁王像の背後に社殿がありますが、詳細は不明です。

仁王像の先に受付があり、入山料500円を納めますが、一人乗りのバイクだと
林道通行料と合わせて800円の出費となります。
バイクの通行料を見直してほしいと思いました。
弁才天-1
弁才天
受付を済ませると、右側に池があり、池の中には弁才天が祀られています。
手水
池の前には石臼のような手水があります。
本坊
池の北側に書院があります。
建物の南側は聖徳太子 千四百年御遠忌事務局となっていました。
聖徳太子は推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に崩御され、
叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に葬られました。
節目に当たる2022年に向けて、観音堂と閼伽井堂、及び秘仏本尊の再建が計画されています。
衝立
玄関には「韓信の股くぐり」の図が描かれた衝立が立てられています。
「韓信が若い頃、町のごろつきに喧嘩を売られたが、韓信は大志を抱く身であったから
ごろつきと争うことを避けた。
言われるまま彼の股の下をくぐらされるという屈辱をあえて受けたが、
その後韓信は大成し、天下統一のために活躍した。」
この故事から、「将来に大望のある者は、目の前の小さな侮りを忍ぶべきという
戒め」とされています。
韓信は中国・秦末から前漢初期にかけての武将で、劉邦の元で数々の戦いに勝利し、
劉邦の覇権を決定付けました。
聖徳太子像
建物の向かい側には聖徳太子像が建立されています。
寺伝では、観音正寺は聖徳太子によって開創されたと伝わります。
1400年、聖徳太子が近江国を遍歴されている時、
湖水から浮かび出てきた人魚と出会いました。
人魚は「前世が漁師で、殺生を業としていたためこのような姿になった。
繖山(きぬがさやま)に寺を建て、成仏させるように」と懇願しました。
太子はその願いを聞き入れ、自ら千手観音像を刻み、堂塔を建立したのが
観音正寺の始まりとされています。
寺には人魚と伝わるミイラが保管され来ましたが、平成5年(1993)の火災で焼失しました。
一願地蔵-2
聖徳太子像の先に、悩みを除き勇気を与えてくれるとされる一願地蔵尊が祀られています。
一願地蔵
しかし、そのお堂は大きな樽に、多分杉の皮で葺かれた屋根を載せた簡素なものです。
大日如来
一願地蔵尊の先には大日如来を中心に、その左右に子授け・子育ての地蔵尊が祀られています。
阿弥陀像
大日如来の先に釈迦如来坐像とその前に観音菩薩立像が祀られています。
釈迦如来坐像は、屋外に安置されているため「濡仏」と称され、江戸時代から
祀られるようになりましたが戦時供出され、現在の像は昭和58年(1983)に再鋳されました。
胎内には信徒の書写した写経が納められています。
御神木守護の祠
釈迦如来坐像の先は御神木の杉に大樹が聳え、その前には白蛇大明神を祀る祠があります。
御神木
御神木の反対側には地蔵菩薩が祀られています。
先祖・水子供養
向かい側には先祖と水子を供養するお堂があります。
護摩堂
北側に護摩堂があり、繖峯修験根本道場となっています。
3月の山開き、11月山閉めと年に2回、修験者がこの道場に参集し、
二百数十ヶ所に及ぶ祈願所を巡る回峯行が行われています。
護摩堂-不動三尊
堂内中央には不動三尊像が安置されています。
護摩堂-役行者
左側に役行者像が安置されています。
護摩堂-千手観音
右側に千手観世音菩薩坐像が安置されています。
太子堂
護摩堂の先に太子堂があります。
太子堂-堂内
堂内には中央に千手観世音菩薩立像と左右に聖徳太子像が安置されています。
お砂踏み所
護摩堂の前に観音霊場お砂踏み所があります。
本堂
参道の正面に本堂があります。
観音正寺は山号を繖山(きぬがささん)と号する天台宗系の単立寺院で、
西国三十三所観音霊場・第32番、神仏霊場・第139番他の札所となっています。
現在の本堂は平成5年(1993)の失火による火災で焼失し、その後再建されたものです。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、当地には佐々木六角により
居城である観音寺城が築かれました。
佐々木氏は第59代・宇多天皇の第八皇子・敦実親王(あつみしんのう)を祖とし、
その四男、源扶義(みなもと の すけのり)の子孫が佐々木氏を名乗るようになりました。
佐々木泰綱(ささき やすつな)は、父・信綱の跡を継ぎ、近江守護となりましたが、
六角東洞院にある京都屋敷を譲られたことにより、六角氏を名乗り、祖となりました。
その子孫である六角氏頼が、南北朝時代の建武2年(1335)に、南朝側の
北畠顕家(きたばたけ あきいえ)軍に備えて観音寺城に篭ったとの記述があり、
その頃には城が築かれていたと考えられています。
観音寺城地図
観音正寺は六角氏の庇護を得て大いに栄え、寺伝では最盛期には
72坊3院の子院を数えたとされています。
しかし、六角定頼が当主の時や永禄年間(1558年~1570)に
六角義賢(ろっかく よしかた=承禎)が観音寺城の拡張工事を行った際に、
山上の寺域は次第に観音寺城に取り込まれることとなりました。
観音正寺は麓の観音谷に移されました。
この移転以前の境内としては、本谷道を参道とし、伝後藤邸跡地にある石段を
真っすぐに上がり、現在境内となっている所をも超えて伝三井邸(西側の方の)跡地に至り、
山の頂上に近いそこにかつての本堂である観音堂があったと推定されています。

永禄11年(1568)9月12日、観音寺城の戦いで織田信長に敗北した
六角義賢・義治父子が観音寺城を捨てて甲賀郡に退却した時、
混乱で観音正寺は焼失しました。
しかし、慶長2年(1597)に再び山上に伽藍を建てることとなり、かつての参道を埋めて
境内地を確保し、山の中腹に観音正寺が再興されました。
明治13年(1880)に観音堂を建て替えの際に、観音堂を念称寺の本堂として移築されました。
明治15年(1882)彦根城の欅御殿(けやきごてん)貰い受けて移築され、本堂としました。
しかし、平成5年(1993)に本堂を焼失し、現在の本堂は平成16年(2004)に再建されました。
本尊
パンフレットに掲載されている本尊
本尊は像高像高3.56m、光背を含めた総高6.3mの千手千眼観世音菩薩坐像で、
仏師・松本明慶(まつもと みょうけい)氏によって造立されました。
素材となったのは香木・白檀の原木23tで、輸出禁制品であったインドから住職が、
20数回インドを訪れ、たび重なる交渉の後にインド政府から特例措置として
日本への輸出が認められました。
本堂+紫雲殿
紫雲殿
本堂の背後には納骨堂の「紫雲殿」があります。
石積み
本堂の右側には多数の自然石が積み上げられ、その上には観音菩薩像が祀られています。
源平池
積み上げられ石の前には「源平池」と称される池があります。
画像は平成29年(2017)5月26日の参拝時のものです。
縁結び地蔵
池には橋が架けられ、先には縁結び地蔵が祀られています。
魚濫観音-1
本堂の右側を奥へ進むと魚濫観音(ぎょらんかんのん)が祀られています。
三十三観音の一つで、中国で生れた馬郎婦観音(めろうふかんのん)と同体とされています。
中国・唐の時代、魚を扱う美女がおり、観音経・金剛経・法華経を暗誦する者を探し、
めでたくこの3つの経典を暗誦する者と結婚したがまもなく亡くなりました。
この女性は、法華経を広めるために現れた観音とされ、
以後、馬郎婦観音(魚籃観音)として信仰されるようになったとされています。
魚濫観音-2
観音像は自然石を切断し、中を刳り抜いて像が彫られています。
おちゃこ稲荷-1
本堂の左側に鳥居が建っています。
おちゃこ稲荷-2
おちゃこ稲荷-3
鳥居をくぐって進むと「おちゃこ稲荷」が祀られています。
何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。

桑實寺(くわのみでら)へ向かいます。
続く

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一の鳥居
永源寺から太郎坊宮へはバイクで約30分で移動できますが、途中でコンビニに寄り、
昼食をとったため約1時間を費やし、予定より1時間遅れの12:30過ぎとなりました。
現在の三重県四日市市から鈴鹿山脈の八風峠を越えてきた
八風街道沿いに一の鳥居が建立されています。
この鳥居は明治27年(1894)に建立されました。
鳥居をくぐった所に無料駐車場があり、正式に参拝するならここに駐車すべきと
思いつつも、時短のためバイクで先へ進みます。
二の鳥居
一の鳥居から北上した所に二の鳥居が建ち、その手前右側に無料駐車場があり、
その西側に御神田があります。
毎年5月の第三日曜日には地域の五穀豊穣と諸業繁栄を祈念する
お田植大祭が行われています。
背後の赤神山(標高357.2m)は太古から神奈備として信仰されてきました。
山頂には奥ッ磐座(いわしろ)、山麓には辺ッ磐座が祭祀場として残されています。
また、赤神山には正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)が降臨されたと伝わります。
正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神は天照大御神の第一皇子神で、天照大御神がいつも
小脇に抱えて「此の脇の子」といってかわいがっていたことから、
この地は「小脇町」と呼ばれています。
麓からの石段
鳥居をくぐり参道を進むと石段が見えます。
その脇にある駐車場には、「本堂までの石段数742段、山上駐車場まで491段、
山上の駐車場もご利用ください」と記されていますので、
491段の石段を短縮することにしました。
参集殿
山上駐車場の上には巨大な参集殿があります。
祈祷殿
駐車場の西側には祈祷所があります。
車のお祓いや本殿まで参拝できない方の祈祷が行われます。
天狗
祈祷所の背後には願掛け天狗が奉納されています。
先ず社殿に参拝し、天狗に願いを込めて祈ります。
次に天狗の持つ「神威玉」を両手でさわり、心と病のある方は悪いところを撫で、
祈願すれば...と記されています。
絵馬殿
参道の石段が込み合っていましたので、向かいの絵馬殿の方へ渡りました。
絵馬殿は大正14年(1925)に建立されました。
絵馬-1
絵馬-2
絵馬殿には建立された当時に奉納された絵馬が掲げられています。
絵馬殿から先は裏参道で、こちらの方は空いているので、先へ進むことにしました。
不動明王-1
細く流れ落ちる滝があります。
不動明王-2
滝には不動明王が祀られています。
祠前に建つ総花崗岩造りの拝所は昭和5年(1930)に建立されました。
不動明王-手水舎
手水はカラス天狗の口から出ています。
福助
しばらく進むと福助の像が祀られています。
福助は実在した人物がモデルとなり、自分の容姿に模した像を造って
売り出しのが始まりとされています。
一説では、享和2年8月(1802年9月)に長寿で死去した摂津国西成郡安部里
(現在の大阪市)の佐太郎がモデルとされています。
佐太郎は障害を持って生まれ、短身で大頭だったとされ、
近所で笑い者となったことを憂いて東海道を下りました。
江戸で「福助」として見世物に出演すると評判となり、旗本に召し抱えられると
その家が栄えたと伝わります。
その後、人形を造って売り出すようになると、「福の神の人形」、
「願いを叶える人形」叶福助として流行したと伝わります。
福禄寿
先には七福神が祀られ、最初に福禄寿が祀られています。
大黒天
鳥居の脇に大黒天が祀られています。
恵比須
その先には恵比須神が祀られています。
一願成就社-鳥居
その先にも鳥居が建っています。
一願成就社
一願成就社があります。
画像はありませんが、社殿の裏側にお百度道があり、
この社殿で祈願してお百度参りを行うそうです。
一願成就社-天井
社殿の格子天井には草花の絵が描かれています。
鎮魂窟
一願成就社の右上方に鎮魂窟があり、 神道行法の鎮魂法が修されています。
「自分の霊魂を丹田に鎮め、霊魂を安定・充足・強化させる」修法のようです。
詳しいことは知りませんが、結構深そうで暗い洞窟に入るにも勇気がいりそうです。
弁才天
鎮魂窟の上には弁財天の石像が祀られています。
毘沙門天
鎮魂窟から登った所に毘沙門天が祀られています。
寿老人
更に登ると寿老人が祀られています。
地主神社先の鳥居
寿老人の先に鳥居が建っています。
地主神社-入口
鳥居の手前から下った所に地主神社があります。
地主神社
生成発展の神・縁結の神と記されています。
地主神社-穴
社殿の右側に深く穴が掘られています。
井戸のために掘られたとする説もあるようですが、詳細は不明です。
布袋尊
参道に戻り、鳥居をくぐった先には布袋尊が祀られています。
参拝所
石段を上った先に参拝所があり、参拝所に取り囲まれた中に本殿があります。
聖徳太子は赤神山(太郎坊山)の北東にある箕作山(みつくりやま)に
四天王寺の瓦を焼くために、瓦屋寺を創建しました。
ほぼ同時期に正哉吾勝勝速日天忍穂耳大神
(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を祀る社殿を創建し、
赤神山から「阿賀神社」と称したと伝わります。
延暦18年(799)、最澄は阿賀神社の麓に神宮寺として成願寺を創建しました。
その際、赤神山に棲んでいた天狗の太郎坊が現れ、建設の手伝いをしたと伝わります。
太郎坊は役行者の兄弟子で、江戸時代の書物には夫婦岩が太郎坊の住まいと記され、
人間は立ち入るべきでないとされていました。
尚、弟の次郎坊は愛宕山に棲んでいたとされることから、年代の相違はあるものの
長命寺の太郎坊権現社との関係性が伺えます。

やがて、阿賀神社と成願寺は神仏習合し、50余りの坊舎や社殿が建立され発展しました。
成願寺の本尊・薬師如来の縁日である八日には市が立ち、町も発展していき、
隆盛を極めるようになりました。
成願寺は阿賀神社境内の最高所に奥之院を作り、そこに太郎坊大権現像を
祀るようになると、阿賀神社は成願寺の管理下に置かれて名称も両者を合わせて
「太郎坊宮」と呼ばれるようになり、修験道の霊場となりました。
永禄11年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を開始しましたが、
六角義賢(ろっかく よしかた=六角承禎/じょうてい)は、
信長の援軍要請を拒否して交戦しました。
この戦に巻き込まれ、太郎坊宮は炎上し、荒廃しました。
阿賀神社は村人や氏子などによって再建され、成願寺は江戸時代になって
寛永17年(1640)に復興されました。
延宝年間(1673~1681)に村人と成願寺との間に対立が起こり、
阿賀神社は成願寺の管理下から離れることになりました。
宝暦3年(1753)、成願寺は奥之院にあった太郎坊大権現像の他、
いくつかの仏教関係の宝物を成願寺本堂に移して「太郎坊大権現」と称し、
阿賀神社は成願寺の奥之院を新たに阿賀神社の本殿に改め、
「太郎坊宮」と称するようになりました。
明治の神仏分離令により、阿賀神社と成願寺は完全に分離し、
明治5年(1872)には修験道が廃止されました。
明治9年(1876)、「太郎坊宮」という名称は規制を受け、正式名称を阿賀神社とし、
後に通称で「太郎坊宮」と呼ばれるようになりました。
明治42年(1909)に近隣10社の神を相殿に祀るようになりました。
大正13年(1924)に本殿の前に参拝所が設けられました。
夫婦岩-1
本殿の先にある岩は「夫婦岩」と呼ばれています。
高さ数十mあり、大神の神力により二つに裂かれ、その間には幅80cm、
長さ12mに及ぶ通路があります。
山側の岩を「男岩」谷側の岩は「女岩」と呼ばれ、「この岩の間を通って参拝する者は、
即座に病苦を取り除き諸願が成就するが、悪心ある者は岩に挟まれる」との
言い伝えがあります。
東近江市の天然記念物に指定され、それによると赤神山は中生代白亜紀
(凡そ7千万年前)の火山活動でできたと考えられ、「湖東カルデラ」と呼ばれています。
山は「湖東流紋岩」で構成され、火成岩は冷えて固まるときに収縮し、
「節理」と呼ばれる規則的な割れが生じ、夫婦岩は節理に沿って割れ目が
発達したものと解説されています。
夫婦岩-2
夫婦岩に挟まれること無く、無事に通り過ぎた所に銅の鳥居が建っています。
板金加工が施された珍しい鳥居で、昭和32年(1957)に設置されました。
火防の稲荷
山側に火防の稲荷・二見神社と十二社神社があります。
腰掛石
腰掛岩
源義経は鞍馬山から下り、奥羽に向かう途中、阿賀神社に参詣し、
源氏の再興を祈願したと伝わります。
その時、腰を掛けた岩が「腰掛岩」として伝えられています。
稲荷神社
赤神山稲荷社
愛宕神社-1
愛宕神社-2
赤神山愛宕社
根上がりの御神木
根上がりの御神木
拝殿
拝殿は夫婦岩の下に建ち、背後に神楽殿が付帯します。
拝殿は江戸時代末期、神楽殿は明治時代中期に建築されました。
永安殿
拝殿の崖下に明治40年(1907)に建立された永安殿があります。
神楽演奏所兼社務所として建築されましたが、社務所は現在、参集殿の中に移されました。
手水舎
永安殿の向かい側の岩棚に手水舎があります。
「竜神舎」と称され、龍の口からは御霊水が流れ出ています。

手水舎から頂上へのハイキングコースがありますが、しばらく登ると
下山して来る人と出会い、山頂までまだ時間がかかりそうなのを聞いて、
途中で断念して引き返しました。
祭器庫
手水舎から下った所に昭和13年(1938)に建立された祭器庫があります。
長楽殿
祭器庫から下ると昭和5年(1930)に建立された長楽殿があります。
集会施設で永安殿へ渡る空中階段が付属します。
参集殿-下山路
参集殿で阿賀神社または、太郎坊宮の朱印を受けることができます。

観音正寺へ向かいます。
続く

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上流
愛知橋の上流
川の水は昨日までの雨で濁っています。
下流
下流
永源寺をスマホのナビで検索すると、愛知川(えちがわ)上流の愛知橋を渡り、
そこから山側へ登るように指示されます。
しかし、永源寺会館の駐車場があり、そこから山側の先は土砂崩れで通行止めとなり、
寺側は関係者以外の乗り入れが禁止されていました。
永源寺会館の駐車場も関係者以外駐車禁止になっていますので、
脇の空き地にバイクを置き、寺まで歩くことにしました。
茶筅塚
5分余り歩くと受付がありますが無人で、本堂脇の志納所で
入山料500円を納めるようにと注意書きがされています。
その先に茶筅塚があります。
永源寺では、永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師の
生誕日5月15日に近い日曜日に「寂室禅師奉賛茶会」が行われています。
風穴-1
茶筅塚から下ると風穴がありますが、この窪んだ所がそうなのかと思い、
石垣に手を当ててみましたが風は感じませんでした。
専用道場
風穴から左に曲がると専用道場がありますが、一般には開放されていません。
含空院
右側にある含空院は10月30日~11月28日まで庭園が公開されています。
(拝観料:お菓子、お抹茶付きで500円)
含空院は永和3年(1377)に考槃庵(こうはんあん)として創建され、
足利義持が入山の際に含空院と改められました。
その後、永禄6年(1563)の兵火で焼失した後、
現在の建物は正保4年(1647)に再建されました。
蔵
含空院の右側に蔵があります。
標月亭
蔵の右側に標月亭がありますが、非公開です。
経堂
含空院から少し下った南側に経堂があります。
応永11年(1404)に創建され、現在の経堂は延宝4年(1676)に再建されました。
傅大士
堂内前面には傅大士(ふだいし)とその長男・普建、
及び次男の普成(ふしょう)の像が安置されています。
傅大士は中国・南北朝時代の在俗仏教者で、大蔵経を閲覧する便をはかって、
転輪蔵を創始しました。
転輪蔵
堂内中央には転輪蔵があり、明版大蔵経が納められています。
開山堂
経堂の向かい側に開山堂があります。
享保10年(1725)に彦根藩第8代藩主・井伊直惟(なおのぶ)より
能舞台の寄進を受け再建されました。
永源寺を開山した寂室元光(じゃくしつげんこう)禅師が祀られています。
寂室元光は、正応3年5月15日(1290年6月23日)に美作国(みまさかのくに)高田
(現在の岡山県)で生誕し、13歳で山城国三聖寺(東福寺塔頭)で出家しました。
元応2年(1320)に元(中国)へ渡り、天目山の中峰明本(ちゅうほう みんぽん)に参禅し、
中峰から寂室の道号を与えられました。
嘉暦元年(1326)に帰国してから25年間は中国地方、中部地方など各地を行脚し、
正平16年/康安元年(1361)に近江守護・六角氏頼(ろっかく うじより)の帰依を得て、
永源寺を開山しました。
師・中峰の隠遁的な禅を受け継ぎ、世俗から離れ、生涯黒衣の平僧として過ごしました。
法堂
開山堂から下った所に「大雄宝殿」と称される法堂(はっとう)があります。
創建当初は大雄宝殿と称し、現在の建物は享保13年(1728)に再建されました。
法堂は、僧侶が仏教を講義する建物で、堂内に安置されている釈迦牟尼佛・
迦葉尊者・阿難尊者の三尊像は第108代・後水尾天皇から寄進されました。
鏡文字
法堂の東側にある池には「永源寺」の文字が
水面に反射すれば読めるように掲げられています。
観音像-1
観音像-2
池のから奥へと進むと観音像が祀られています。
禅堂
法堂の向かいには禅堂があります。
方丈
法堂から下ると方丈(本堂)があります。
古例の法要が行われる道場で、正平16年/康安元年(1361)に
近江守護・六角氏頼(佐々木氏頼)により「安心室」と号して創建されました。
寂室元光を慕い2千人余りの僧が入寺し、56坊もの末庵を有するまでに栄えました。
応仁の乱(1467~1478)では京都五山の名だたる高僧も当地に避難して修行をされました。
明応元年(1492)、次いで永禄6年(1563)と二度も大きな戦火を受けて全山焼失し、
衰亡の危機にありましたが、寛永20年(1643)に一糸文守(いっし ぶんしゅ)が招かれ、
再興されました。
一糸文守は岩倉家の祖である岩倉具堯(いわくら ともたか)の三男で、
近衞信尋(このえ のぶひろ)などの公家と交流があり、第108代・後水尾天皇とも近侍しました。
一糸文守は永源寺に入った3年後、正保3年(1646)3月19日、39歳で逝去され、
没後30年目の延宝3年(1675)に後水尾院より「定慧明光仏頂国師」の号を贈られました。
永源寺は後水尾天皇や東福門院、彦根藩などの帰依を受けて再興されました。
現在の建物は明和2年(1765)に井伊家の援助により再建されました。

創建当初、山号は「飯高山」と号していましたが、開創後「瑞石山」と改号されました。
正面広縁の開山・寂室禅師の真蹟「瑞石山」には、「石」の字の口の上に丶が付けられています。
「石」が角のない丸石に対し、「丶」付きの石」は角のある割れ石を意味していると伝わります。
明治6年(1873)に明治政府の政策により、臨済宗東福寺派に属したましが、
明治13年(1880)に永源寺派として独立しました。

本尊は「世継観世音菩薩」で、寂室元光禅師が元からの帰途、嵐に見舞われ船が
難破しかけましたが、禅師が祈りを捧げると海上に白衣の観世音菩薩が顕れ、嵐が治まりました。
禅師が永源寺を開山すると、寺の東の峰から光明が放たれ、禅師がそこを訪れると
大きな石の上に丈一寸八分(約5cm)の小さな観世音菩薩の像がありました。
禅師は、元からの帰途、嵐の海上に顕れた観世音菩薩であると確信して中国から仏師を招き、
かって修行した中国の土で観世音菩薩を造らせました。
その像の額の宝冠の中に、小さな観世音菩薩の像を埋め込み本尊としました。
佐々木氏頼の子・満高は跡取りに恵まれませんでしたが、本尊に熱心に祈願したところ、
9代目の当主となる満綱が誕生し、いつしかこの本尊は「世継観世音菩薩」と
呼ばれるようになりました。
現在は秘仏とされています。
鐘楼
本堂の向かい側には安永元年(1772)に再建された鐘楼があります。
梵鐘は戦時供出され、昭和23年(1948)に再鋳されました。
宗務所
方丈の西側に志納所や庫裡及び宗務所があります。
鉄筋コンクリート造りで、昭和54年(1979)に建立されました。
志納所では朱印を受けることができ、永源寺は神仏霊場・第140番札所となっています。
不動堂
宗務所の向かい側には不動堂があり、休憩所になっているようですが
当日は施錠されていました。

山門は寛政7年(1795)に井伊家の援助等により着工され、5年の歳月を経て
享和2年(1802)に竣工し、滋賀県の文化財に指定されています。
五間三戸二階二重門ですが、画像を撮り忘れました。
上層には釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩及び十六羅漢像が安置されています。

バイクを置いた所まで戻り、太郎坊宮(阿賀神社)へ向かいます。
続く

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