2019年11月

文庫
第一本宮の左側にある門を出ると、左側に御文庫があります。
享保8年(1723)に書物を収める目的で、
大坂を中心に京・江戸の書籍商たちによって建立されました。
和書漢籍・洋装本を併せると一万点以上、数万冊が保存されています。
文庫東側の灯篭の覆屋
御文庫の東側に二基の石灯籠が覆屋の中に納められています。
文庫東側の灯篭
石灯籠には、文政9年(1826)の刻字があります。
大神宮
参道の右側に「大神宮」があり、伊勢神宮の遥拝所になっています。
なんくん社‐夫婦楠
「大神宮」の先に「楠珺社(なんくんしゃ)」の夫婦楠が祀られています。
なんくん社‐夫婦楠-2
夫婦楠は樹齢約800年、高さ19.8m、幹回り7.9mあり、大阪市の保存樹に指定されています。
校倉
夫婦楠の後方右側に校倉造りの蔵が二棟並んで建っています。
北高蔵と南高蔵で、いずれも慶長12年(1607)に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
手前が北高蔵です。
神苑の森
御文庫まで戻り、その西側を北へ入った御文庫の裏側に古札納所と、
その北側に東側に神苑の森があります。
神宮寺址の碑
神苑の森にはかって神宮寺がありました。
天平宝字2年(758)、薬師如来を本尊とする新羅(しらぎ/しんら)寺が建立され、
その跡を示す石碑が建てられています。
天正4年(1576)の石山合戦の際に、住吉社の社殿と共に新羅寺の仏堂も炎上しました。
しかし、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により住吉社と共に本格的な復興が行われ、
本堂・法華三昧堂・常行三昧堂・僧坊・鐘楼などの他、
方形二重の大塔である東塔と西塔が造営されました。
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しましたが、
元和4年(1618)に徳川第2代将軍・秀忠により再興されました。
明治の廃仏毀釈や神仏分離令の影響を受けて、
新羅寺は明治6年(1873)に破却され廃寺となりました。
その際、一部の建物は売却され、西塔は阿波国の切幡寺の大塔に、
薬医門は荘厳浄土寺の表門に、回廊の一部は生根神社の香梅殿として現存しています。
土俵
神苑の森沿いに北へ進むと左側に土俵があります。
毎年10月に近畿高等学校招待相撲大会が行われています。
住吉大社では、古くから相撲会(すもうえ)が行われていて、とても強い力士がいました。
誰一人として相手になるものがいませんでしたので、
行司は御神前の「しめ縄」をその力士の腰にまとわせ、このしめ縄の垂れに

手をかけるものがあればこれを勝ちとして相撲をとらせましたが、
やはり誰もこのしめ縄に触れることすらできませんでした。
これが横綱の起源であると伝わっています。
また、住吉大社では、3月の大阪場所の前に横綱の手数入(土俵入)、
横綱による「しめ縄」の奉納が行われています。
種貸社
正面には末社の種貸社があり、倉稲魂命 (うがのみたまのみこと)が祀られています。
かっては「多米神社」と称された古社で、稲種を授かって豊穣が祈られていました。
時代の変遷と共に商売の神、子授けの神として信仰さるようになりましたが、
毎年3月17日の祈年祭に先立ち、五穀の種をお祓いして農業関係者に分かたれる
神種頒賜祭(かんざねはんしさい)では、種貸信仰の原点を見ることができます。
種貸社-2
商売発達を願う「初辰まいり」は、毎月の初辰の日にまず種貸社に参拝し、
ご祈祷した「お種銭(おたねせん)」を授かり、これ

を商売などの元手に加えて、資本充実の祈願をします。
次に楠珺社(なんくんしゃ)→浅澤社(あさざわしゃ)→大歳社と参拝するのが
「初辰まいり」のルートとなっています。
これを4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満願成就となります。
種貸社-おわん
境内には、住吉大明神に祈って誕生した一寸法師の物語に因んで
置かれた「おわん」があります。
種貸人形
子授けの神としても信仰され、種貸人形・御守・絵馬が授与されますが、
毎月の初辰の日に参拝すると一層の御利益があるとされています。
社殿の裏側には、願いが叶った種貸人形が多数奉納されています。
海士子社-鳥居
種貸社の右側に鳥居が建っています。
海士子社
鳥居をくぐって進むと、右側に海士子社(あまごししゃ)、左側に児安社(こやすしゃ)があります。
海士子社は、鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)が祀られています。

児安社の祭神は、興台産霊神 (こごとむすびのかみ) で、かつては縁結びの神として、
現在は、子供を守る神としても信仰を集めています。
大海神社への門
種貸社の西側を南へ進むと門があります。
志賀神社
門くぐった右側に摂社の志賀神社があり、底津少童命 (そこつわたつみのみこと)、
中津少童命 (なかつわたつみのみこと)、表

津少童命 (うわつわたつみのみこと)の三神が祀られています。
伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、住吉三神と共に生まれた神とされ、
住吉三神が主として航海、港湾守護の神であるのに対し、

少童三神は海の神霊とされています。
大海神社-幣殿
門をくぐった先には摂社の大海神社(だいかいじんじゃ)があり、
豊玉彦命 (とよたまひこのみこと)と豊玉姫命 (とよたまひめのみこと) が祀られています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳にも記載があり、住吉社神主家である
津守氏との関係が深く、住吉大社の摂社では最も社格が高い位置づけにあります。
本殿は、住吉大社本宮本殿と同様の住吉造で、
本殿前に渡殿(わたりでん)、次いで幣殿が建てられています。
住吉大社本宮本殿より古く、江戸時代中期の宝永5年(1708)の造営で、
国の重要文化財に指定されています。

祭神の豊玉彦命は大綿津見神(おおわたつみのかみ)とも表記され、
伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれ、海の主宰神とされています。
豊玉姫命は豊玉彦命の娘で、海幸彦と道具を交換して釣針を亡くした山幸彦は、
豊玉彦命の元を訪れ、豊玉姫命と結ばれ、二神の間に
鵜茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を儲けました。
画像はありませんが、社前に井戸があり、「玉の井」と呼ばれ、
山幸彦が豊玉彦命より授かった潮満珠(しおみつたま)を沈めたところとされています。
大海神社-門
幣殿前の門は江戸時代前期に造営されたもので、国の重要文化財に指定されています。
門の外側は崖状の地形で、かつては海が広がっていたとされ、「玉出嶋」と呼ばれていました。
神域の杜は「磐手の森」と呼ばれ、萩と藤の名所でした。
星の宮
種貸社まで戻り、その先へ進むと「星の宮」があり
、国常立命 (くにのとこたちのみこと)と竈神 (かまどのかみ) が祀られています。
天地開闢(てんちかいびゃく)の際、世界の最初に、高天原に相次いで三柱の神が生まれ、
続いて二柱の神が生まれました。
その次に生まれたのが国常立命と豊雲野神(とよくもののかみ)の
二柱の神とされていますが、『日本書紀』本文では、国常立尊は最初に現れた神とされています。
竈神は、火の神であると同様に農業や家畜、家族を守る守護神ともされています。
后土社
「星の宮」から東へ進んだ境内の北東角の奥まった所に「后土社(ごどしゃ)」があり、
土御祖神(つちのみおやのかみ)が祀られています。
后土は土地の神を指し、鬼門を守護しています。
五社殿
「后土社」から参道に戻った右側に「五社殿」があり、住吉の神職七家祖神が祀られています。
招魂社
「五社殿」の右側に「招魂社」があり、諸霊神(もろもろのみたまのかみ)が祀られています。
住吉大社に縁の深い人などを祖霊神として祀っています。
「招魂社」の建物は、江戸時代中期までは住吉大社神宮寺の護摩堂でした。
薄墨社からの並び
「招魂社」の右側には左から「薄墨社」、「斯主社(このぬししゃ)」、「今主社」、「八所社」、
「新宮社」が並んでいます。
薄墨社
「薄墨社」には国基霊神 (くにもとのみたまのかみ)が祀られています。
津守家39代の神主は、和歌の達人でした。
「薄すみに書く玉章(たまずさ)と見ゆるかな霞める空に帰る雁かね」の
和歌より薄墨神主と称えられました。
朝廷に仕え「藤井戸神主」とも号し、芸術に秀で才能高く中興の神主と讃えられ、
建長5年(1253)に奉斎されました。
斯主社
「斯主社(このぬししゃ)」には、国盛霊神が祀られています。
津守家43代神主は、源頼朝と祖父が同じであり、源氏興隆の基を開いたとして、
建仁2年(1202)に奉斎されました。
今主社
「今主社」には、国助霊神が祀られています。
文永・弘安の役(1274・1281=元寇)の際、外敵を撃退させる祈祷を行った
津守家48代神主が、日本をモンゴルから守ったとされ、
正安2年(1300)に奉斎されました。
八所社
「八所社」には素盞鳴尊が祀られています。
新宮社
「新宮社」には伊邪那美命、事解男命(ことさかのおのみこと)、
速玉男命(はやたまのおのみこと)が祀られています。
火傷を負い黄泉国(よみのくに)へと旅立った伊邪那美命を追って伊邪那岐命は
逢いに行きましたが、伊邪那美命は腐敗して蛆にたかられていました。
伊邪那岐命はその姿を見て驚き、離縁すると約束して唾を吐きました。
その時生まれたのが速玉男命であると『日本書紀』には記されていますが、
熊野速玉大社では伊邪那岐命と同一神とされています。
また、伊邪那岐命が黄泉国との関係を断つために祓いを行い、
その際生まれたのが事解男命とされています。

「新宮社」には津守王子(つもりおうじ)社が合祀されています。
津守王子は、熊野古道・九十九王子の6番目の王子で、
かってこの地より南東方向にある現在の墨江小学校に鎮座していました。
津守という名称は、住吉大社の古代よりの奉斎氏族であり
宮司家でもあった津守氏にちなんだものです。
なんくん社
「新宮社」の南側に「楠珺社(なんくんしゃ)」があり、
宇迦魂命 (うがのみたまのみこと=稲荷大明神)が祀られています。
「初辰まいり」では種貸社に次ぐ2番参りで、「願いの発達」を祈り、
毎月「招福猫(しょうふくねこ)」を授かります。
奇数月は左手を、偶数月には右手を挙げた小猫を毎月集め、48体揃えて
満願成就の証として納め、一回り大きな招福猫と交換してもらい、今後の繁栄を祈願します。
左手挙げが「人招き」、右手挙げが「お金招き」のご利益があるとされています。
48ヶ月間(4年間)続けるということは、「始終発達」(しじゅうはったつ=四十八辰)の
福が授かるとの意味が込められています。
招福猫
社前には多数の招福猫が奉納されています。
なんくん社-大楠
社殿の背後に樹齢千年を超えるとされる楠(くすのき)があり、
江戸時代に人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げ、根元に祠を設け
祀るようになったのが楠珺社の始まりとされています。
貴船社
楠珺社の楠の向かいには「貴船社」があり、高龗神(たかおかみのかみ)が祀られ、
「祈雨の神なり」と説明されています。
立聞社
「貴船社」の右側(西側)に「立聞社」があり、
天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祀られています。
天児屋根命は、春日権現(かすがごんげん)、春日大明神とも呼ばれ、
国土安泰・産業(農・商・工)繁栄の神ですが、「禁断の神。酒だち、煙草だち等
 神徳を顕わし給ふ。」と説明されています。
なんくん社への門
「立聞社」の先に門があります。
海龍社-1
門をくぐった左側に「海龍社」があります。
海龍社-2
詳細は不明ですが、岩の御神体が祀られています。
五所御前-拝所
本宮の玉垣側には「五所御前」の拝所があります。
五所御前-1
「五所御前」の石の玉垣の中には杉の木が立ち、住吉大神を最初に祀った聖地とされています。
神宮皇后が住吉大神を祀る地を求めていた時に、白さぎが3羽飛んできて、
この杉の木に止まったのを見て、この地に祀ると決められたと伝わっています。
毎年5月の卯之葉神事では、卯の葉の玉串が捧げられます。
五所御前-2
玉垣内には玉砂利が敷かれ、その中に「五」「大」「力」と書かれた小石があり、
その3個を集めてお守りにすると心願成就のご利益があるとされています。
初穂料300円を授与所に納めると、小石を入れる専用の「五大力守袋」が授与されます。
願い事が叶うまで守袋を持ち、願いが叶えば自宅近くで3個の小石を拾い、
それに自身で「五」「大」「力」と書いて守袋の3個の小石と共に元の場所に返すとされています。
若宮八幡宮
「五所御前」の左側(南側)に摂社の「若宮八幡宮」があり、
誉田別尊(ほんだわけのみこと=第15代・応神天皇)が祀られています。
第四本宮の祭神・神功皇后の御子神となります。
また、武内宿禰 (たけしうちのすくね)が共に祀られ、国家鎮護・厄除開運・安産育児の
神とされています。
本宮への門-南側
「若宮八幡宮」の西前方には本宮への門があります。
陶製灯篭‐覆屋
陶製灯篭
門の脇には覆屋の中に二基の陶製の灯篭が納められています。
石舞台先の門
「若宮八幡宮」の前、南側にも門があります。
石舞台
門を出ると池があり、池に架かる石橋には石舞台があります。
慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼から奉納され、日本三舞台(住吉大社・厳島神社
四天王寺)の一つでもあります。
毎年5月の卯之葉神事では、石舞台で舞楽が演じられます。
神館
池の西側には神館があります。
大正天皇の即位大礼を祈念して建立された建物で、館内中央には玉座があります。
普段は非公開ですが、宴会場として、貸切で使用できるようです。
東楽所
東楽所
石橋の先には南門があり、その両側の建物が楽所です。
西楽所
西楽所
南門
南門は慶長12年(1607)に豊臣秀頼により建立された四脚門で、この門と石舞台、
楽所がセットになって残された舞楽施設として、重要文化財に指定されました。
卯の花苑
南門を出るとバイクを停めた無料駐車場があり、右側に武道館があります。
武道館の向かいには、「卯の花苑」があります。
卯の花は、ユキノシタ科のウツギという落葉低木で、かっては住吉神社の境内にも
群生していたのですが、現在ではそのほとんが失われています。
住吉神社名勝保存会では、築山の土壌を改良して卯の花を育成しています。
住吉大社がこの地に鎮座されたのは神功皇后摂政11年卯の歳、卯の月、卯の日
であったことから、 五月最初の卯の日に、住吉大神に卯の葉の玉串が捧げ、
神威の更新を祈る重要な「卯の葉神事」が営まれます。

「卯の花苑」には後鳥羽院・皇子の光台院親王の歌碑が建立されています。
「すみよしの ゆふしでなびく 松風に うらなみしろく かくるうのはな」
「ゆふしで」とは、木綿四手と書き、四手とは、玉串や注連縄(しめなわ)などに
下げる紙のことで古くは木綿(ゆう)を用い、

「ゆふしでの」は、「神」にかかる枕詞として使われています。
卯の花は白く、5月~7月に多くの花を咲かせ、
旧暦の四月を「卯月」と呼ぶのはこの花に由来します。
白波で、白い卯の花が隠されてしまった様に、後鳥羽院のことを
思い起こされて詠まれたのでしょうか?
この歌を詠まれた頃の住吉大社は、太鼓橋あたりまで海でした。
車返しの桜
「卯の花苑」の先に鳥居が建ち、その脇に桜の木が植栽されています。
かって、この付近に明治初年に廃寺となった津守家の菩提寺・慈恩寺がありました。
寺の庭に咲く桜は見事なもので、後醍醐天皇が住吉大社に参拝した際、
この桜の前を通り過ぎてから、再び車を返して桜を愛でた

ことから「車返しの桜」と呼ばれるようになりました。
江戸時代の地図や名所案内にも記され、住吉の名勝となっていましたが失われ、
平成21年(2009)に大阪市の「未来樹」として京都嵯峨野の紅八重枝垂桜が移植されました。
武道館-鳥居
鳥居をくぐり車道に出ます。
背後の建物が武道館です。
大きな石灯籠
車道を左側(東側)に進むと大きな石灯籠が目に入ります。
浅澤神社-3
浅澤神社-1
石灯籠の手前を右折した所に、住吉神社の境外末社・浅澤神社があります。
かって、この地には清水が湧く広い池があり、「浅沢」と呼ばれ、
奈良の猿沢の池、京都の大沢の池と並ぶ近畿の名勝でした。
浅沢池には、杜若(かきつばた)が美しく咲き乱れ、
万葉集をはじめ多くの歌集にその名が留められています。
奈良時代に編纂された『摂津国風土記』には、「昔、息長帯比売
(おきながたらしひめ=神功皇后)の世に住吉の大神が現れ、
住むべき国を探し求めて天下を巡り、この住吉の地に至った時、
これぞまことに住むべき国なり『真住み吉し、住吉の国』と言い、
神の地と定めた」と記載され、住吉と呼ばれた由縁が残されています。
しかし、昭和になると浅沢の清水も枯れ果て、地元の尽力により、
平成9年(1997)になって、浅沢に新しい水脈が加えられ、杜若が復活されています。
浅澤神社-2
浅澤神社は「初辰まいり」の第3番で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
芸能上達や女性の守護神とされ、「初辰まいり」では「芸事や美容の願い」に福を授かるとされています。
大歳神社-本殿
浅澤神社から南側の細江川に架かる橋を渡った所に、住吉神社の境外末社・大歳神社があります。
「初辰まいり」で最後に参り、「願いの成就」を祈願します。
祭神は大歳神 (おおとしのかみ)で、稲荷神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と
兄弟神であり、五穀収穫の神とされています。
何時の頃からか集金のご利益にも霊験あらたかな神として信仰されるようになり、
小石に「大」と書かれた「大歳守(おおとしまもり)」を集金の
ご利益があるとして授かるようになりました。
おもかる石
大歳神社の右側に「おいとしぼし社」があり、社殿前の「おもかる石」は
願いを占う石として知られています。
先ず社殿で参拝し、次に石を持ち上げ重さを確認して、石に手を添え願掛けを行い、
もう一度持ち上げた際に軽く感じれば願いが叶うといわれています。
石は3個ありますが、1個に絞っても、3個全てを試してみても良いそうです。
おいとぼし社
おいとしぼし社

住吉行宮跡へ向かいます。
続く

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社標
自宅を7:00に出て家原寺へ向かう予定でしたが、交通がスムーズで家原寺の
開門時間9:00よりも早く着きそうなので、予定を変更して住吉大社へ向かいました。
住吉大社は神功皇后の摂政11年(201)の創建と伝わり、
旧官幣大社で現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
全国にある住吉神社の総本社で、神仏霊場の第42番札所となっています。
遣唐使
参道に入った左側に「遣唐使進発之地」の石碑が建立されています。
住吉大社は古くから海上交通の守護神として信仰されてきました。
遣隋使・遣唐使は住吉大社で航海の無事を祈願し、仁徳天皇が開いたとされる
住吉津(すみのえつ)より旅立ったとされ、
円仁は遣唐使船の中に住吉大神を祀ったと伝わります。
航海守護神としての信仰は継続し、江戸時代には廻船問屋から
600基以上の石燈籠が奉納され、更に大きさが競われました。
第一鳥居
鳥居をくぐった正面に放生池があり、池には反橋が架かっていますが
渡らずに右に曲がり、西へ進んだ所にある橋を渡ります。
禁裏御祈祷場所
橋の袂には「禁裏御祈祷場所」の石碑が建っています。
この石碑が何時頃建立されたかは不明ですが、南北朝時代に住吉には
第97代/南朝第2代・後村上天皇と跡を継いだ長慶天皇の行宮(あんぐう)がありました。
住吉社神主家である津守氏は、中世期には大覚寺統と強く結びつき、
津守国夏の住吉殿を行宮としました。
約十年間南朝方の御座所となり、南朝の主要拠点の一つとなりましたが、
長慶天皇は正平23年/応安元年(1368)3月に践祚(せんそ)して間もなく
同年12月には吉野へ後退しました。
反橋-横
その橋から反橋を見ました。
神馬像
橋を渡ると神馬像が奉納されています。
龍社
神馬像の北側に末社「龍社(たつしゃ)」があり、
水波野女神 (みづはのめのかみ) が祀られています。
水波野女神は、代表的な水の神で、龍社はもとは御井殿社 (みいどのしゃ) と呼ばれていました。
船玉神社
「龍社」の東側に摂社の「船玉神社」があり、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)と
猿田彦命が祀られています。
天鳥船命は、鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ)とも呼ばれ、
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那岐命(いざなみのみこと)との間に
産まれた神で、鳥の様に空を飛べるとされています。
猿田彦命は、天孫降臨の際に、天照大神に遣わされた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を
道案内した国津神で、「船玉神社」は主に海外への渡航の無事を祈る神として信仰されています。
昭和45年(1970)までは第四本宮の社殿前に鎮座し、古くは延喜式にも名前がみえ、
元々の祭神を住吉神の荒魂とする説もあります。
幸福門
「船玉神社」前から参道が斜めに伸び、その先に本宮への「幸福門」があります。
神館への門
「幸福門」方向とは逆、「船玉神社」の東側に神館への門がありますが、
門は閉じられています。
市戎大黒社-1
市戎大黒社
門の南側に「市戎大黒社(いちえびすだいこくしゃ)」があり、
事代主命 (ことしろぬしのみこと=えびす)と
大国主命 (おおくにぬしのみこと=だいこく)が祀られています。
大阪では最古の戎社になります。
稲
「市戎大黒社」の南側に建物には神田で刈り取られた稲が干されています。
神田
南側には「御田」が拡がります。
毎年6月14日に執り行われる「御田植神事」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
社伝によれば、神宮皇后が五穀豊穣を祈るために、長門国から植女を召して
御田を定められたことに始まると伝えられています。
今は、稲刈りも終わり、園児が立てた案山子だけが残されています。
鴨
落穂でも残っているのでしょうか?...神田には鴨がいました。
祈祷所
放生池の東側を南から北へと進みます。
鳥居が建つ「幸禄門」前を通り過ぎると「幸壽門(幸寿門)」があり、
門に続いて祈祷殿があります。
誕生石-1
更に北へ進むと「誕生石」があります。
誕生石-2
源頼朝の寵愛を受けた丹後局 (たんごのつぼね) が出産した場所と伝わり、
その子が成長して薩摩藩「島津氏」の始祖・島津忠久となりました。
丹後局は源頼朝の寵愛を受けて懐妊したのですが、北条政子に捕えられ
殺害されるところを家臣の本田次郎親経(ほんだじろうちかつね)が逃亡を助けました。
住吉にあたりで日が暮れ、雷雨にも遭って視界が遮られましたが、
不思議なことに数多の狐火が灯り、局らを住吉の松原に導きました。
誕生石-3
社頭に辿り着いた時、局が産気づき、本田次郎が住吉明神に祈るなか
局は傍らの大石を抱いて男児を出産しました。
これを知った源頼朝は本田次郎を賞し、男児が若君に成長した後、
薩摩・大隅二か国をあてられました。
この故事により、住吉社頭の力石は島津氏発祥の地とされ「誕生石」の聖地に
垣をめぐらせ、此の小石を安産の御守とする信仰が生まれました。
参集所
「誕生石」から先へ進むと右側に参集所(社務所)があります。
吉祥殿
参集所から西への参道の北側に吉祥殿があり、結婚式場となっています。
時計塔
車道に出る手前には時計塔があります。
住吉ライオンズクラブがチャーターナイト25周年記念として奉納し、
昭和61年(1986)12月25日に建立されました。
南向き鳥居
時計塔から少し戻ると南向きに鳥居が建っています。
神馬舎
鳥居をくぐって進むと右側に神馬舎があります。
神馬は1月7日の白馬神事(あおうましんじ)まで出張されているそうです。
住吉大社の神馬は代々白馬で、平安時代以降、白河天皇や源頼朝など
によって奉納されてきました。
江戸時代より大阪炭屋仲間の「神馬講」が普段黒い炭を扱う為、
反対の白馬を奉納してきました。
この伝統は今も続いているそうです。
反橋-正面
神馬舎の前にも橋が架かっていますが、その先にある反橋を渡ります。
反橋は高さ4.4mあり、住吉大社を象徴する橋で、鎌倉時代の文献にも記されています。
石造の脚・梁部分は慶長年間(1596~1615)に豊臣秀頼、または
淀殿により寄進されたものと伝わり、木製部分は昭和56年(1981)に造営されました。
かってはこの橋付近までが海でした。
放生池もかっては潟湖(せきこ)だったのかもしれません。
現在の住吉公園は海に面し、白砂青松の風光明媚の代表地とされ、
『源氏物語』では明石の君に関連した重要な舞台として描かれています。
また、『一寸法師』では、子宝に恵まれなかった初老の夫婦が住吉大社に参拝して、
一寸法師を授かったとされています。
手水舎-1
手水舎-2
反橋を渡った左側に手水舎があり、兎の像から水が流れ出ています。
神功皇后が住吉の地に住吉大神を祀ったのが
辛卯(かのと う)の年(211)卯月の卯日とされ、兎は住吉大神の神使いとされています。
住吉鳥居
反橋を渡った先に建つ鳥居は、古い様式の四角柱の鳥居であるため、
「角鳥居 (かくとりい)」 とも「住吉鳥居」とも呼ばれています。
有栖川宮幟仁親王(ありすがわのみや たかひとしんのう)の筆による
陶製の扁額が掲げられています。

鳥居をくぐった神門には「幸禄門」の扁額が掲げられ、
江戸初期(1615~1661)に建立されたもので、国の登録有形文化財に指定されています。

本宮への門は正面の、神の恵みによる幸運をもたらすとされる「幸禄門」、
右側の幸福を授かるとされる「幸福門」、左側の長寿を授かるとされる「幸壽門」があります。
撫でうさぎ
右側の「幸福門」から入ると翡翠で造られた「撫でうさぎ」の像が祀られています。
「五体を撫でて無病息災を祈る」と記されています。
神井
「撫でうさぎ」の左側に神井があります。
毎年1月1日午前5時に宮司自らが神井の水を汲み上げ、
神前に供える「若水の儀」が執り行われます。
神井の水は「若水の儀」と6月14日の「御田植神事」のみに汲み上げられます。
授与所
左の「幸壽門(幸寿門」から入ると、授与所があります。
矛社
授与所の北側に「矛社(ほこしゃ)」があり、経津主命 (ふつぬしのみこと)が祀られています。
神名の「フツ」は刀剣で物が断ち切られる様を表し、
刀剣の威力を神格化した神とする説があります。
盾社
対面する南側には「盾社」があり、武甕槌命 (たけみかづちのみこと) が祀られています。
神名の「ミカヅチ」は雷(イカヅチ)に接頭語「ミ」をつけた「ミ・イカヅチ」の
縮まったものであり、雷神は剣の神でもあります。
「矛社(ほこしゃ)とともに本宮を守護しています。
第三本宮
「幸禄門」から入ると正面に第三本宮があり、表筒男命(うわつつのおのみこと)が祀られています。
火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んで大火傷を負った
伊邪那美命は黄泉国(よみのくに=死の世界)へと旅立ちました。
伊邪那岐命は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとしましたが、
果たせず黄泉国の穢れを落とすために禊を行いました。
禊を行った瀬の深いところで底筒男命、瀬の流れの中間で中筒男命、
水面に近い所で表筒男命が生まれたとされています。

本宮には第一から第四の本宮があり、全て文化7年(1810)に造営されたもので、
国宝に指定されています。
「住吉造」と称され、神社本殿としては神明造・大社造・大鳥造と並んで
飛鳥時代まで遡る最古様式の一つに数えられています。

住吉大社は南朝側に組していたため、室町幕府から制圧を受け、
社領も大幅に削減されて現在の境内地と馬場(現:住吉公園)の規模に縮小されました。

明応2年(1493)に起きた明応の政変では、神主・津守国則が遊佐氏と
姻戚関係にあったため、上原元秀に撃たれ、社殿が放火されました。

天正4年(1576)には織田信長と大坂本願寺との戦い(石山合戦)に
巻き込まれて社殿の大半を焼失しました。

その後、慶長11年(1606)に豊臣秀頼により本格的な復興が行われましたが、
慶長20年(1615)の大坂夏の陣の兵火によって再び灰燼に帰しました。
元和4年(1618)に第二代将軍将軍・徳川秀忠の命により再興されました。
第四本宮
第三本宮の右側に第四本宮があり、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと
=神功皇后)が祀られています。

神功皇后は第14代・仲哀天皇の皇后で、天皇が熊襲討伐のため筑紫に赴く際に、
皇后に神懸りがあり、住吉三神より託宣を受けました。
「熊襲の痩せた国を攻めるよりも、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある
新羅を戦わずして得るだろう」という内容でしたが、仲哀天皇はこれには従わず、
熊襲を攻撃しました。
天皇はこの戦いに敗れ、翌年崩御されました。
その後、再び皇后に託宣があり、皇后自らが兵を率いて新羅へ出航し、
戦わずして新羅、高句麗、百済の三韓を従わせたとされています。
皇后は大和への帰還中に麛坂皇子(かごさかのおうじ)と
忍熊皇子(おしくまのおうじ)の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも、
船が進まなくなりました。
務古水門(むこのみなと=兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占うと、
住吉三神が三神の和魂を「大津の渟中倉の長峡(おおつのぬなくらのながお)」で
祀るように託宣を下しました。
皇后は、神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになりました。
大津の渟中倉の長峡が、現在の住吉大社の地であり、住吉大社の歴史年表によると、
鎮祭されたのは、神功皇后摂政11年(211)とされています。
第二本宮
第三本宮の東側に第二本宮があり、中筒男命(なかつつのおのみこと) が祀られています。
第三本宮から第一本宮まで東西に一直線上に配されています。
本殿前には全て幣殿が建てられ、屋根上に千木(ちぎ)と鰹木(かつおぎ)が乗り、
千木は第四本宮のみ内削ぎとなっています。

住吉大社では式年遷宮が行われてきました。
『興福寺年代記』に見える天平勝宝元年(749)が初見で、以後、
室町時代の永享6年(1434)の第35回までは20年ごとに行われていましたが、
戦国時代に中断されました。
その後、永正14年(1517)に復活されますが、不定期の遷宮となり、
平成23年(2011)には御鎮座1800年記念大祭に合わせ第49回式年遷宮が斎行されました。
第一本宮
第二本宮の東側に第一本宮があり、底筒男命 (そこつつのおのみこと) が祀られています。
住吉大社の祭神は伊邪那岐命が禊を行った際に生まれた神で、
禊祓(みそぎはらい)の神として信仰され、7月30日~8月1日に催される
例祭の住吉祭では祓の意味を込めた神事が斎行されています。
また、平安時代頃からは和歌の神として信仰されるようになりました。
かって、住吉大社の馬場(現在の住吉公園)は、白砂青松の風光明媚の
代表地とされ、「住吉の松」と歌枕で歌われるようになりました。
やがて、住吉明神、玉津嶋明神・柿本人麻呂の3柱は和歌の守護神として
「和歌三神(わかさんじん)」と総称されるようになりました。
神楽殿
本宮境内の北側、「矛社」の東側に神楽殿があり、伝統ある神楽として、
神楽女の行なう神降 (かみおろし) ・倭舞(やまとまい)四段・熊野舞四段・白拍子・
田舞 (やおとめまい) などが伝承されています。
祓所
神楽殿の東側に祓所があります。
子供神輿
祓所の前には七五三の撮影用でしょうか?...子供用の神輿が展示されています。
菊花
祓所の先には菊花が展示されています。
神饌所
祓所向かいの南側には神饌所があります。
侍者社-1
侍者社-2
建物内には末社の侍者社(おもとしゃ)があり、初代神主・田裳見宿禰 (たもみのすくね)と
その妻神・市姫命 (いちひめのみこと)が祀られています。
神に供える前の検視を行い、神と人の仲を執り持つ役目を担ったことから縁結びの神・
夫婦円満の神とされています。
社殿前には、縁結びは侍者人形、夫婦円満には裸雛が祈願され、奉納されています。

第一本宮の左側にある門を出て御文庫へ向かいます。
続く

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東近江の旅
国道8号線に面して「道の駅 竜王かがみの里」があり、その駐車場に入りました。
東おうみの旅スタンプラリーで集めたスタンプをこの道の駅で投函する予定でしたが、
定休日で後日郵送することにしました。
横断歩道橋
駐車場から横断歩道橋で国道を渡ります。
鏡池
国道沿いに西側へ進んだ先に鏡池があり、源義経元服の地とされています。
義経の父・源義朝(みなもと の よしとも)は、
平治元年(1159)の平治の乱で謀反人となり敗死しました。
母・常盤御前は牛若丸と兄の今若と乙若と共に大和国へと逃亡しました。
その後、今若と乙若は出家して僧となり、牛若丸は11歳の時に鞍馬寺へ預けられ、
稚児名を遮那王(しゃなおう)と称しました。
承安4年(1174)3月3日桃の節句、僧になることを嫌った遮那王は鞍馬寺を抜け出しました。
鏡の宿に泊まった遮那王は、迫りくる追手から逃れるため、自ら元服して姿を変えたとされています。
遮那王は、現在は水が枯れてしまったこの鏡池の水を用いて前髪を落し、
元結(もとゆい)の侍姿を池の水に映し元服をしたと伝わります。
烏帽子掛けの松
鏡池から戻り、横断歩道橋を越した先に鏡神社があります。
『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に新羅王子の天日槍(あめのひほこ)が渡来したと記され、
天日槍が持参した日鏡を山上に納めて鏡山と称しました。
天日槍の従人は鏡山の山裾で陶芸、金工を業としてこの地に住み、
後に天日槍を祀ったのが鏡神社の始まりとされています。

鏡神社は元服した義経が源氏再興を祈願したと伝わり、元服の際に使った
タライも保管されていましたが、今は一片の板切れとなりました。
左側に残されている松の木の幹は、義経が参拝の際に枝に烏帽子を掛けたと伝わり、
「烏帽子掛けの松」と呼ばれています。
残念ながら松の木は明治6年(1873)10月3日の台風で折損したため、
幹の部分のみが残され、保存されています。
鳥居
石段を登って行くと鳥居が建ち、「鏡大明神」の扁額が掲げられています。

鏡山一帯の竜王町、野洲市、湖南市にまたがる広域に須恵器の古窯址が発見され、
「鏡山古窯址群」と称されています。
鏡神社境内にもその址が残されているそうですが、場所は特定できませんでした。
古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)から飛鳥時代(592~710年)、
奈良時代(710~794)に至るまで、100基以上の窯址があったと推定され、
須恵器の一大生産地であったと考えられています。
拝殿
拝殿は新しく再建されたように見えます。
本殿-1
本殿-2
本殿は寛平年間(889~898)に焼失との記録が残され、
現在の本殿は室町時代に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

大正6年(1917)11月に行われた特別大演習の際に、天皇が境内の宮山に行幸され、
統監されたことから、当時の知事からこの宮山を「御幸山(みゆきやま)」と命名されました。

次回は大阪の家原寺(えばらじ)から京善寺を巡礼します。

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苗村神社看板
苗村神社は滋賀県蒲生郡竜王町の県道541号線を挟んで、
東本宮と西本宮に分かれています。
県道に面した駐車場に入り、道路を横断して東本宮から参拝しました。
長寸神社石碑
社標は「式内 長寸(なむら)神社」と記されています。
第11代・垂仁天皇の御代(BC29~70)、当地方を開拓された先祖を祀ったのが
苗村神社の始まりとされています。
当時、当地は「吾那邑(あなのむら)」と呼ばれていましたが、
その後「那牟羅(なむら)」に改まり、同音となる「長寸」の字を当て、「長寸神社」と称しました。
「寸」は村の古字で、「長」は最高位を意味しています。

『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に新羅王子の
天日槍(あめのひほこ)が渡来したと記されています。
天日槍は初め淡路島に居住した後、菟道河(宇治川)を遡って吾名邑にしばらく滞在し、
近江国鏡村(滋賀県蒲生郡竜王町鏡に鏡神社が鎮座)の谷の陶人(すえびと)が
天日槍の従者となって、若狭国を経て但馬国に至り、
そこで持参した八種の神宝を納め居住したとされています。
吾名邑の人々は天日槍から当時の最新の技術を学び、豊かになったのかもしれません。
また、兵庫県豊岡市出石町にある出石神社にはその神宝が納められ、天日槍が祀られています。
東本殿-鳥居
「長寸神社」の扁額が掲げられた鳥居をくぐると高く聳える木立の中に参道が続きます。
井戸
鳥居の脇に井戸があり、その横には手水鉢が置かれていますが、現在は使われていません。
大神宮への参道
大神宮
参道を進んで右に入ると大神宮がありますが、いずれの境内社にも
祭神の記載が無く、祭神は不明です。
苗村神社東の鎮守の森は「東苗村古墳群」と称され、
現在は古墳時代後期(6世紀初めから7世紀の半ば頃)と推定される
円墳・八基が確認されています。
東本殿
鳥居をくぐって1分少々参道を進むと東本殿があります。
現在の建物は室町時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
東本殿前の石灯籠には永享4年(1432)の銘があり、
その頃に東本殿が建立されたと推定されています。
また、正徳4年(1714)には大半の部材を取替えて大修理が行われた資料が残され、
昭和33年(1958)の解体修理で復元・整備されました。

本殿を囲う瑞垣も無く、質素に見えますが、『延喜式神名帳』に見える
「長寸神社」は、日野町内の長寸神社と共に論社となっています。
東本殿には大国主命と素盞嗚尊が祀られています。
天神社
東本殿の左側に天神社があります。
佐々貴社
東本殿の右側に佐々貴社があります。
西本殿へ向かいます。
西本殿-鳥居
西本殿の社標は「苗村神社」となっています。
太鼓橋
参道を進むと太鼓橋が架かっていますが、渡ることはできません。
楼門
太鼓橋の正面に楼門があり、国の重要文化財に指定されています。
三間社一戸楼門入母屋造り茅葺で、応永年間(1394~1428)頃の造営と推定されています。
この地方で最大規模の和洋を基調とした遺構とされています。
掛け声の碑
楼門の右側に「雲生井戸掛大穂生 惣禮詣與下露(うんじょういどかけおおぼしょう 
それもよかろう)」と刻字された石碑が建立されています。
かっての苗村郷では溜井戸を造り、その水を汲み上げて稲作が行われ、
雲より生ずる恵みの雨を頼りとしていました。
惣(村中)が神に詣でて雨を願う「雨乞い」の文言で、水に感謝することを意味し、
往古から苗村郷の唱え言葉として伝承されてきました。
苗村郷三十三ヶ村の総社とする苗村神社では、祭礼の掛け声として
この言葉が唱えられ、五穀豊穣と家内安全が祈られています。
放生池
門をくぐると左側に龍神池があり、背後に見えるのは参集殿です。
龍神社
池の中島には龍神社があります。
子守りの像
門をくぐった右側には「子守りの像」が祀られています。
西本殿の祭神・國狹槌尊(くにのさつち の みこと)は子守り大明神と称され、
崇められてきました。
神輿庫
神輿庫は社伝によると、天文5年(1536)3月2日に第105代・後奈良天皇から
「正一位」の神位を授かった際、勅使の装束召替仮殿として建立されたものが
後に神輿庫として用いられました。
装束召替仮殿としての用途は限られた期間であり、当初から神輿庫あるいは
御供所などに再利用すること意図して建立されたと考えられ、
全国的に類例の少ない遺構として国の重要文化財に指定されています。

毎年4月20日に行われる苗村祭では9つの宮座から神馬渡御があり、
奉納神事のあと神馬10頭と神輿3基が行列して御旅所へと渡御します。
拝殿
拝殿
安和2年(969)3月28日、大和国吉野の金峯山から国狭槌尊の御神霊が、
神域の西方に遷座され、社殿が造営されました。
国狭槌尊は『日本書紀』では天地開闢で、国常立尊(くにのとこたち の みこと)の
次に生まれた神で、樹木や野菜を育てる土の神とされています。
この神を祀る社殿は、東本殿に対し西本殿と呼ばれました。
寛仁元年(1017)正月、朝廷に門松用の松苗を献上して以来、年々の吉例となり、
第68代・後一条天皇から苗村の称号を賜りました。
「長寸神社」は「苗村神社」と改められました。
本殿
西本殿は鎌倉時代の徳治3年(1308)に再建されたもので、国宝に指定されています。
三間社流造り、桧皮葺で、殿内の厨子も同時代の作と見られ、国宝に指定されています。
東本殿-2
祭神として那牟羅彦神(なむらひこのかみ)、那牟羅姫神(なむらひめのかみ)、
國狹槌尊(くにのさつち の みこと)が祀られています。
那牟羅彦神と那牟羅姫神の両神は、当地方に初めて工芸技術・産業を伝え広められた
産土の神で、夫婦和合・諸願成就の神として、古来より篤く尊崇された祖神とされています。
八幡社
八幡社
西本殿の玉垣内には左に八幡社、右に十禅師社があり、
共に室町時代に建立されたと考えられ、国の重要文化財に指定されています。
十禅師社
十禅師社は日吉 (ひえ) 山王七社権現の一社で、国常立尊から数えて
第10の神にあたる瓊瓊杵尊 (ににぎのみこと) を祀ると思われます。
綾之社
綾之社
恵比須社
恵比須社
また、八幡社の前に綾之社、十禅師社の前に恵比須社が祀られています。

画像を撮り忘れましたが、本殿玉垣の外、右側には護国社があります。
提灯
拝殿から南へ進むと参集殿があり、大きな提灯が吊るされています。
不動堂
境内の南側に不動堂があり、不動明王像が安置されています。
不動明王像
明治の神仏分離令以前まで苗村神社境内には「苗村宮庵室(なむらのみやあんしつ)」と
呼ばれる僧坊があり、そこに天文3年(1534)に護摩堂が建立され、
本尊として不動明王立像が安置されました。
不動明王像は像高96.9cm、鎌倉時代初期の作と考えられ、国の重要文化財に指定されています。

鏡神社へ向かいます。
続く

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山門
龍王寺は滋賀県蒲生郡竜王町の雪野山の南山腹にあり、
山号を「雪野山」と号する天台宗の寺院です。
和銅3年(710)に第43代・元明天皇の勅命で行基菩薩により雪野寺として創建され、
通称で「野寺」と呼ばれていました。
奈良時代から平安時代初期にかけて寺は隆盛を究め、千坊千人の衆徒があったと伝わります。
文安3年(1446)に佐々木時綱による兵火を受け、伽藍と共に全ての僧坊も灰燼に帰しました。
その後、仮堂が建てられましたが本格的な再建には至らず、
江戸時代の承応3年(1654)になって堂宇が再建され寺観が整えられました。
しかし、明治時代に再三の水害により寺田を失ったことから時には無住となり、衰退しました。
寺領は縮小され、現存する堂宇のみで法灯が護り継がれました。
昭和3年(1928)からは天台宗の秘法・喘息病封じ「へちま加持祈祷」が
修せられるようになって信仰を集め、「ぜんそく寺」「へちま寺」と呼ばれるようになりました。
本堂
本堂
本尊は平安時代後期作で像高135cmの薬師如来坐像で、厨子内に納められ、
以前は秘仏でしたが現在は常時開扉されています。
十二神将像は、本堂須弥壇を取り囲むように安置されています。
像高は79.2~94.77cmで、いずれも鎌倉時代末期の作とされ、
本尊と共に竜王町の文化財に指定されています。

薬師如来が納められた厨子の両側には、像高153cmの聖観音菩薩立像と
像高144cmの地蔵菩薩立像が安置されています。
いずれも平安時代後期の作で町の文化財に指定されています。

また、堂内には第119代・光格天皇の御代、天明7年(1787)に宣楽院公尊法親王の
筆により「醫王殿(いおうでん)」と記された大きな額が掲げられています。
宝篋印塔
本堂右側の宝篋印塔は雪野寺当時のもので、龍王寺の境内(雪野寺の旧境内地)は
県の史跡に指定されています。
鐘楼
鐘楼‐扁額
鐘楼には寛弘4年(1007)に第66代・一条天皇から賜った
「龍寿鐘殿(りゅうじゅしょうでん)」の勅額が掲げられています。
勅額を賜って以降、「雪野寺」から「龍王寺」へと改称されました。
梵鐘
梵鐘は宝亀8年(777)に小野時兼から寄進されたと伝わり、
国の重要文化財に指定されています。
小野時兼が河森村(今の竜王町川守)に住していた時、美和姫と出会って結ばれ
幸せに暮らしていましたが、3年後、妻は「私ははまことは人間ではありません」と
言って、玉手箱を形見として差し出しました。
そして、「私を思って下さるならば、百日目に平木の沢に来て下さい。」と
言葉を残し去って行きました。
時兼が九十九日目に平木の沢に訪れると、妻は長さ十丈(約30m)ばかりの
大蛇となって現れました。
妻が静かに沢の中に姿を消すと、水が白く濁ったと伝わります。
時兼は驚き、家に帰り玉手箱を開けると、紫雲と共に龍が刻まれた梵鐘が出てきて、
それを雪野寺に寄進しました。

この梵鐘は本堂が火災の時は、鐘楼から水が噴き出たり、不心得な人が
鐘を撞いても鳴らなかったり、旱魃の際に梵鐘に雨乞いすると慈雨に恵まれるなど、
その奇譚は都にまで届きました。
一条天皇からは勅額を賜り、多くの歌人からは「野寺の鐘」として歌に詠まれました。

画像に収めることができませんでしたが、梵鐘の龍頭は、常にに白い布で覆われています。
この布を外すと不思議と大雨が降ることから、雨乞い時以外は布で覆われるようになりました。
放生池
境内の池は平木の沢と繋がっているとされ、池の水は白く濁っています。
弁才天
池には弁財天を祀ると思われる祠があります。
額田王-像
龍王寺から北に進み日野川に架かる雪野山大橋の袂には
額田王(ぬかたのおおきみ)の像が建っています。
額田王は、近江国野洲郡鏡里の豪族で鏡王の娘とされています。
第40代・天武天皇の妃でしたが、後に天武天皇の兄・中大兄皇子
(後の第38代・天智天皇)の妃になったとされています。
額田王-歌
欄干の柱には中大兄皇子が蒲生野で狩りをした時に、詠んだ歌が記されています。
「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
標野(しめの)とは、一般人の立ち入りが禁じられた御料地のことで、
野守は御料地の警備担当者を意味しています。
大海人皇子
橋を渡ると大海人皇子の像が建っています。
天智天皇が大津京で即位すると、大海人皇子は要職に就いて天皇を補佐しましたが、
天皇に大友皇子が誕生すると大友皇子を皇太子としました。
天智天皇が病で倒れると、大海人皇子に後事を託そうとしましたが、
大海人皇子は固辞して剃髪し、吉野へと下りました。
天智天皇が崩御されると大海人皇子は挙兵して大友皇子を自殺に追い込み、
飛鳥浄御原宮で天武天皇として即位しました。

苗村神社へ向かいます。
続く

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