2019年12月

天王殿
東へ曲がった回廊の先で二方向に分かれ、南へ進むと
萬福寺の玄関として天王殿があります。
寛文8年(1668)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
天王殿の起源はチベット仏教寺院で、中国に伝わり中国寺院では一般的に
玄関として見られますが、その後日本に伝わってからは黄檗宗の寺院しか見られないお堂です。
匂欄( 高欄=欄干)は、日本では珍しいX形に組まれた欅匂欄(たすきこうらん)で、
チベット・中国で使用されているデザインです。

参道には正方形の平石が菱形に敷かれ、両側は石條(せきじょう)で挟まれています。
これは龍の背の鱗をモチーフ化したもので、中国では龍文は天子・皇帝の位を表し、
黄檗山では大力量の禅僧を龍像にたとえるので、菱形の石の上立てるのは住持のみです。
天王殿-扁額
扁額「天王殿」は隠元禅師の筆によるもので、国の重要文化財に指定されています。
布袋
堂内中央には、弥勒菩薩の化身とされる布袋尊が祀られ、萬福寺では弥勒菩薩像と
されていますが、美しい弥勒菩薩と同一とするにはやや抵抗があります。
像高110.3cmで、明から来日した仏師・范道生(はんどうせい)の作によるものです。
韋駄天
布袋尊の背面には韋駄天像が安置されています。
韋駄天は、増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める
天部の仏神で、特に伽藍を守る護法神とされ、中国の禅寺では四天王、
布袋尊ととも山門や本堂前によく祀られます。
以前は范道生作の像が安置されていましたが、
現在の像は像高112.9cmで中国・清で造立されたものです。
広目天
堂内の四方には四天王像が安置されています。
西方を守護する広目天
多聞天
北方を守護する多聞天
持国天
東方を守護する持国天
増長天
南方を守護する増長天
黄檗樹
回廊を南へ進むと、西側にまだ若い黄檗樹が植栽されています。
黄檗樹はキハダとも呼ばれ、ミカン科キハダ属の落葉高木で、
樹皮を乾燥させたものは、漢方薬の黄檗となります。
聯燈堂
回廊の突き当りに寛政元年(1789)に建立された聯燈堂(れいとうどう)があります。
鐘楼堂
聯燈堂の手前で回廊を東に曲がった所に鐘楼堂があります。
寛文8年(1668)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
巡照板
鐘楼堂の左に巡照板が掛けてあり、朝夕これを打ち、
一山の僧の戒めの句を声高らかに唱えるそうです。
伽藍堂-
伽藍堂-2
鐘楼の先に寛文9年(1669)に建立され、国の重要文化財に指定されている伽藍堂があります。
本尊は関聖大帝菩薩で、中国・後漢末期に劉備に仕えた関羽が神格化されたものと思われます。

伽藍堂の東側に斎堂(さいどう)がありますが、画像は撮り忘れました。
寛文8年(1668)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
堂内には寛文2年(1662)に范道生により造立された像高107.5cmの
緊那羅王菩薩(きんならおうぼさつ)立像が安置されています。
緊那羅王菩薩は、インド神話に登場する音楽の神(または精霊)ですが、
仏教では帝釈天の眷属とされ、八部衆の一人に数えられています。
中国の少林寺では寺の護法伽藍菩薩とされています。
炊事場の雑務を務めていた行者が、紅巾軍が攻めてきた時、身の丈が大きく伸びて
「緊那羅王」と名乗ると、これを見た紅巾軍は慌てて逃げ去りました。
少林寺の僧はこの行者が緊那羅王の化身であったことを悟り、
緊那羅殿を建てて緊那羅王の像を安置し、寺の護法伽藍菩薩としたとされています。
萬福寺では衆僧の食事を見守る火徳神とされています。
生飯台
斎堂は食堂のことで、斎堂から回廊を挟んだ前に生飯台(さばだい)があります。
正式には出生台(チユセンタイ、「しゅっせいだい」、または「すいさんだい」とも読む)と
呼ばれ、餓鬼や鬼神に食料を供養するための石製の台です。
食事をとる僧たちは自分の口に入れる前に先ず一箸、この台に運び、
餓鬼衆等に供養してから自分たちの食事に臨むことになっています。
雲板
回廊には青銅製の雲板(うんばん)が吊るされ、朝と昼の食事と朝課の時に打たれます。
かいばん
東西と南北の回廊が交わる角に、開梆(かいぱん)が吊るされています。
木魚の原型とされ、鯉に似た姿で玉をくわえていますが、これは玉ではなくあぶく(煩悩)です。
眼を閉じることのない魚は、不眠不休を象徴し、
あぶくを吐くことで煩悩から解放されるとのことです。
開梆は黄檗宗のみで使われる呼び名です。

回廊の東側に売店があり、奥には納経所があります。
萬福寺は、「都七福神めぐり」布袋尊の札所になっています。
雙鶴亭
売店前から左側に進むと雙鶴亭(そうかくてい)があります。
かって、西方丈の中にあったそうで、お茶会などで使われているそうです。
大雄寶殿
回廊を南に進むと本堂に当たる大雄寶殿(だうおうほうでん)があります。
寛文8年(1668)に建立され、正面・側面とも22mあり、境内最大の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
大雄寶殿-扁額
上層の扁額「大雄寶殿」は隠元禅師の筆、その下画像では切れてしまいましたが
「萬徳尊」は二代・木庵性瑫(もくあん しょうとう)よるもので、
ともに国の重要文化財に指定されています。
また、堂外及び堂内の聯も国の重要文化財に指定されています。
大雄寶殿-桃
小扉に桃の図柄が彫られているのは、魔除けの意味があります。
大雄寶殿-木魚
堂内には大きな木魚がありますが、木魚を本格的に使用したのが黄檗宗です。
大雄寶殿-本尊
堂内中央には釈迦如来坐像、向かって右側に迦葉(かよう)尊者、
左側に阿難尊者像が安置されています。
釈迦如来坐像は像高250cmで、京仏師・兵部により寛文9年(1669)に造立されました。
隠元禅師像
中央の背後には隠元禅師像が安置されています。
十八羅漢
両側には十八羅漢像が安置されています。
賓頭盧尊者
観音霊場でよく見かける賓頭盧尊者像は、博識であり慈悲深く十善を尊重し、
阿羅漢果を得て神通力を得ました。
説法が鋭く、他の異論反論を許さずライオンのようであったため
獅子吼第一といわれるようになりました。
羅怙羅尊者
羅怙羅(らごら)尊者は、釈迦の実子であり、また十大弟子の一人に数えられています。
不言実行を以って密行を全うし、密行第一と称せられ、また釈迦仏より、
多くの比丘衆でも学を好むことで、学習第一とも称せられました。
両手で開いた胸の中に仏の顔が見えるのは、誰の心の中にも仏が宿ることを表しています。
大雄寶殿-真空
天井に掛る扁額「真空」は明治天皇の筆によるものです。
怨親平等塔
回廊を北へ進むと東西と南北の回廊が交わり、右に折れて東に進んだ左側に
宝篋印塔が建立されています。
この塔は「怨親平等塔(おんしんびょうどうとう)」で、「怨親」とは自分を害する者と、
自分に味方してくれる者の意味があります。
昭和12年(1937)、日中戦争で犠牲になった両国の精霊を慰めるため、
当時の山田玉田和尚により宝篋印塔内に妙法蓮華経69.643文字を
一字一石に謹書して納められました。
納骨堂
宝篋印塔の先に延宝3年(1675)に建立され、
国の重要文化財に指定されている納骨堂があります。
「慈光堂」と称されています。

回廊の突き当りに西方丈がありますが、平成29年(2017)9月17日の参拝時には
工事をされていましたので、撮影及び立ち入りは遠慮しました。
寛文元年(1661)、創建時に総門とともに建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
この奥に徳川歴代将軍を祀る威徳殿があります。
法堂
回廊を右に曲がると法堂(はっとう)があります。
寛文2年(1662)に「円通殿」として建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
寛文4年(1664)に法堂となり、仏像は安置されず説法を行う場所になっています。
匂欄は卍くずしの文様で組まれています。
法堂-扁額
扁額「獅子吼」は、隠元禅師の師・費隠通容(ひいんつうよう)禅師の筆によるものです。
獅子吼とは、獅子がほえて百獣を恐れさせるように、
悪魔・外道 (げどう) を恐れ従わせるような説法を意味します。
蛇腹天井
法堂前の回廊の天井は蛇腹天井(黄檗天井)と呼ばれています。
方丈
回廊を南に突き当たった左側に東方丈があります。
寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
東方丈の奥に住職が居住する甘露堂があります。
方丈内は立ち入ることはできません。
方丈庭園-1
方丈庭園-2
方丈庭園-3
方丈前には庭園が築かれています。
禅堂
北側の回廊を下り、斎堂と対面する所に禅堂があります。
寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
斎堂と禅堂及び浴場は境内の三黙道場と云われ、内部は非公開となっています。
禅堂-扁額
扁額「選仏場」は隠元禅師の筆によるものです。
祖師堂
禅堂の西側に寛文9年(1669)に建立され、
国の重要文化財に指定されている祖師堂があります。
祖師堂-堂内
堂内中央には禅宗の初祖となる達磨大師像が安置され、
左右に歴代住職の位牌が祀られています。
達磨大師は、南インドの国王の第三王子として生まれ、
釈迦から数えて28代目の菩提達磨(ボーディダルマ)になったと伝わります。
南北朝の宋の時代(遅くとも479年の斉の成立以前)に中国に渡り、
洛陽郊外の嵩山少林寺(すうざん しょうりんじ)にて面壁を行い、中国禅の開祖とされています。
中国禅の典籍には、眼光鋭く髭を生やし耳輪を付けた姿で描かれているものが多く、
見慣れた姿ですが、ここでは風貌が異なり、
達磨大師と知らずに見れば、分からないかもしれません。
鼓楼
祖師堂の西側、鐘楼と対面する所に鼓楼があります。
延宝7年(1679)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
朝の4時半と夜の9時鐘楼の鐘と鼓楼の太鼓が交互に鳴らされます。
鎮守社-1
鎮守社-2
天王殿前の北側に延宝3年(1675)に建立され、
国の重要文化財に指定されている鎮守社があります。

醍醐寺へ向かいます。
続く

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隠元橋
国道24号線を南下し、京滋バイパスとの高架の手前にある信号を左折して進むと
宇治川に架かる隠元(いんげん)橋があります。
隠元橋-石碑
橋の東詰北側角に「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」の碑が建っています。
隠元禅師は、中国福建省で生まれ、生地の黄檗山萬福寺で得度しました。
江戸時代初期の承応3年(1654)、先に渡日していた
興福寺住持の逸然性融(いつねん しょうゆう)に請われ渡日しました。
万治2年(1659)、4代将軍・徳川家綱より寺領を賜ることになって、その候補地を探しに
宇治川を遡り、東方の妙高峰に中国福建省の黄檗山と風景が
よく似ていることから候補地と定めました。
宇治川
また、この辺りには、かって「岡屋の津」という港があり、古くから交通の要衝として栄え、
鎌倉時代には近衛兼経(かねつね)が別荘を営み、
やがてこの地域は近衛家の所領となりました。
宝善院-山門
橋から東進し、京阪・宇治線とJRの踏切を越えて行くと萬福寺・塔頭の宝善院があり、
予約が必要ですが中国風の精進料理・普茶料理がいただけます。
元禄3年(1690)に創建され、明治8年(1875)に陸軍省の火薬貯蔵庫建設用地として
政府に収接され、現在地に移転しました。
宝善院-虚空蔵菩薩
境内には「廣化庭」が築かれ自由に拝観できるようです。
また、境内には干支の守本尊八佛が祀られています。
その内の一体、虚空菩薩像は丑・寅年生まれの守護仏になります。
宝蔵院
宝善院の先に同じく塔頭の宝蔵院があります。
寛文9年(1669)、鉄眼(てつげん)禅師が一切経の開版を志し、
隠元禅師から黄檗山内に寺地を授かり、藏板・印刷所として建立されました。
天和元年(1681)に完成した、全6,956巻の一切経には6万枚の版木が使われました。
その版木が日本の原稿用紙形式の起源とされています。
文字には明朝体が使われ、書体としての明朝体はこれから発したものです。
鉄眼一切経は、国の重要文化財に指定されています。
一切経経蔵庫は、300円で拝観することもできます。
萬松院-山門
宝蔵院の先に塔頭の萬松院(ばんしょういん)があります。
寛文10年(1670)、東巌により師・龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)の
塔所として創建されました。
萬松院-不動堂
表門を入った右側の金成不動尊は「宇治十三社寺まいり」財運の十二番願所となっています。
萬松院-不動三尊像
不動堂の左奥には不動明王及び矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子
(せいたかどうじ)を両脇に従えた三尊像の石像が祀られています。
萬松院-天光堂-1
不動堂の奥、山の斜面に天光塔があり、京都府の文化財に指定されています。
萬松院-天光堂-2
龍渓性潜は京都で生まれ、8歳で東寺に入り、
16歳で摂津国の臨済宗・普門寺で出家しました。
その後、普門寺の住持となりましたが、竜安寺の伯蒲慧稜(はくほ えりょう)に参禅し、
伯蒲慧稜が没後は竜安寺の塔頭である皐東庵を自坊とし、
以後、京都妙心寺の首座となりました。
慶安4年(1651)9月には、50歳で妙心寺の住持に就任したのですが、
その後退隠して再び普門寺に戻りました。
承応3年(1654)に中国から隠元禅師が来日するとその弟子となり、
黄檗山萬福寺の建立に助力して日本での黄檗宗の開宗に尽力しました。
寛文8年(1668)4月、後水尾法皇に招かれ、内院にて菩薩戒を授けました。
寛文9年(1669)4月には、正式に隠元禅師の法を嗣ぎ、法皇からは、
大宗正統禅師の師号を賜りました。
寛文10年(1670)8月に大坂の九島院で催行された斎会に赴いた際、
台風に襲われましたが、避難の勧告に応じず自ら洪水中に身を置き、
水が引いた後も禅堂に坐したまま69歳でこの世を去りました。
萬松院-本堂
本堂
龍目井-右
龍目井-左
萬松院の先に萬福寺の総門がありますが、総門の前に「龍目井(りゅうもくせい)」と
呼ばれる左右二対の井戸があります。
井戸の前に立つ駒札には以下のように説明されています。
『この井戸は寛文元年(1661)冬、隠元禅師が掘らしめられたもので、
萬福寺を龍に譬(たと)え、これを龍目となし、天下は龍衆、善知識が挙(こぞ)って
比庵に集らんことを念願されたもの。
禅師曰く、「山に宗あり、水に源あり、龍に目あり、古に耀(かがや)き今に騰(あが)る」』
明恵上人歌碑
井戸と井戸の間には明恵(みょうえ)上人の歌碑があります。
『栂山の尾の上の茶の木分け植えて 跡ぞ生うべし駒の足影』
明恵上人は師匠の栄西禅師が中国から持ち帰った茶の種子を、
栂尾深瀬の地に播きました。
上人はその後、茶の普及のため山城宇治の地を選び、
茶の木を移植し、それが宇治茶の始まりです。
上人が馬にのり、その馬の足影(足跡)に茶の種を植えることを
宇治の里人に教えた様子が詠まれています。
総門
萬福寺の総門は、元禄6年(1693)に建立されたもので、左右の屋根が低い
牌楼(ぱいろう)式」と呼ばれる中国風の門です。
屋根上左右に乗る魚のようなものは鯱ではなく、
摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えています。
総門-扁額
扁額『第一義』は五代・高泉の筆によるもので、総門とともに
国の重要文化財に指定されています。
萬福寺は創建当時の伽藍が残されていて、16棟が国の重要文化財に指定されています。
放生池
総門を入った右側に放生池があり、蓮で覆われています。
萬寿院-寺号標
左側に塔頭の萬寿院があります。
隠元禅師から招かれ、明暦元年(1655)に明より渡日した
木庵性瑫(もくあん しょうとう)の塔所として創建されました。
木庵性瑫は、寛文4年(1664)に隠元の法席を継ぎ、翌寛文5年(1665)に
江戸に下り徳川家綱に謁見し、優遇されました。
萬寿院-表門
表門は京都府の文化財に指定されています。
句碑
参道の先、右側に田上菊舎(1753年11月8日~1826年9月24日)の句碑が建っています。
菊舎は長門国豊浦郡田耕(たすき)村(現在の下関市豊北町田耕)で生まれ、
16歳で近くの農家・村田家に嫁ぎましたが、夫と24歳の時に死別し、
子供にも恵まれなかったことから実家に戻り、復籍しました。
そして、俳諧としての道を志し、尼僧となりました。
天明元年(1781)の29歳の時、芭蕉と親鸞の旧跡を訪ねる旅を決意し、
芭蕉の奥の細道を逆コースで巡りました。
寛政2年(1790)3月、38歳の時に萬福寺に訪れ、
「山門を 出れば日本ぞ 茶摘みうた」と詠みました。
山門
参道を進むと延宝6年(1678)に建立され、
国の重要文化財に指定されている三門があります。
三門・天王門・通玄門・舎利殿・寿蔵には清浄域への入口を示す円柱が用いられています。
山門-黄檗山の扁額
三門の上部には山号『黄檗山』の扁額が掲げられ、
大屋根の中央には火焔付の宝珠が置かれています。
山門-萬福寺の扁額
その下『萬福寺』の扁額は『黄檗山』とともに隠元禅師の筆によるもので、
国の重要文化財に指定されています。
隠元禅師は能書家としても知られ、木庵性瑫(もくあん しょうとう)、
即非如一(そくひ にょいつ)とともに「黄檗の三筆」と称されました。
窟門-右
窟門-左
三門の左右には窟門があります。
三門をくぐり拝観料500円を納め境内に入ります。
通玄門
参道を進み左に折れると通玄門があります。
寛文5年(1665)に建立された四脚門で、国の重要文化財に指定されています。
通玄門には「奥深く玄妙なる真理=仏祖の位に通達する門」との意味が込められています。
通玄門-扁額
扁額は隠元禅師の筆によるもので、国の重要文化財に指定されています。
松隠堂
門をくぐった左側に寛文3年(1663)に建立され、
国の重要文化財に指定されている松隠堂があります。
寛文13年(1673)、82歳になった隠元禅師は、住持を弟子の
木庵性瑫(もくあん しょうとう)に移譲し、隠居所として松隠堂に居住しました。
禅師没後は開山塔院となりました。
開山堂
正面に開山堂があり、開山・隠元禅師が祀られています。
寛文3年(1663)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
開山堂-瞎驢眼
上層に掛る扁額「瞎驢眼(かつろげん)」は隠元禅師の師・
費隠通容(ひいんつうよう)禅師の筆によるものです。
「瞎驢」とは「目の開かない驢馬(ろば)」のことで、「瞎驢眼」は
「未だ目の開かない驢馬の眼」ということになります。
開山堂-扁額
その下の「開山堂」は隠元禅師の筆によるものです。
「瞎驢眼」の扁額とともに国の重要文化財に指定されています。
開山堂-堂内
堂内には72歳時の等身大とされる像高160cmの隠元禅師像が
安置されていますが、よく見えません。
隠元禅師は、明朝の禅である「明禅」を日本に伝えただけでなく、
明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝えました。
日本における煎茶道の開祖ともされ、インゲン豆にその名を残し、西瓜や蓮根、
孟宗竹(タケノコ)などを伝え食文化にも大きな影響を与えました。
後水尾上皇から「大光普照国師」の号を賜りました。
回廊
開山堂から回廊を進みますが、萬福寺の伽藍は全て屋根つきの回廊で結ばれています。
回廊は国の重要文化財に指定されています。
寿塔-1
寿塔
その先、左側に寛文3年(1663)に建立され、
国の重要文化財に指定されている寿塔があります。
隠元禅師が、生前に自らの墳墓として築造しました。
扁額「真空塔」は第112代・霊元天皇の筆によるものです。

この付近に舎利殿があるはずなのですが、見つけることができませんでした。
寛文7年(1667)、隠元禅師に帰依した後水尾法皇が、
黄金の仏舎利多宝塔を奉安するため自ら寄進して建立されました。
宝永6年(1709)に法皇の木造が安置されました。
石碑亭
回廊の突き当りに宝永6年(1709)に建立され、
国の重要文化財に指定されている石碑亭があります。
亀趺(きふ)に載せられた石碑には、寛文13年(1673)に後水尾法皇から贈られた
「特賜大光普照国師塔銘」の刻文があります。
回廊-梵鐘
回廊は南へと曲がり、曲がった所に「合山鐘(がっさんしょう)」と
呼ばれる梵鐘が吊るされています。
開山堂、寿塔、舎利殿で行われる儀式の出頭時にのみ撞かれます。
中和園
南へ向かう回廊の西側には「中和園」と名付けられた庭園が築かれています。
中和園-石碑
かって、この地に後水尾天皇の母・中和院の大和田御殿がありました。
中和門院に仕えた文英尼が隠元禅師に帰依し、
同尼を通じて禅師は天皇はじめ公家の信望を得るようになりました。
中和園に建立されている石碑は、多分「大和田御殿」跡を示すものと思われます。
中和井
中和園にある井戸は、中和井(ちゅうわせい)と呼ばれ、
御殿で使われていたものを、昭和47年(1972)に整備されました。
池
庭園の東南隅には池があります。
回廊-曲がり角
回廊は池の横を東へと曲がっています。
禅堂書院への参道
進行方向の左側、回廊の北横には禅堂書院・潜修禅への通路があり、
中間に丸い石が配置されています。
禅堂書院
禅堂書院・潜修禅は非公開になっています。
続く

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太閤堤-石碑
三室戸寺から下り、京阪電車の三室戸駅横を通り過ぎ、宇治川堤防の手前で左折した
突き当りに史跡「宇治川太閤堤跡」があります。
太閤堤-1
平成19年(2007)の夏に発見され、現在は仮称「宇治川太閤堤跡歴史公園」の
工事中でフェンスで囲われ、平成30年(2018)に訪れた時はフェンスに
説明板が取り付けられていましたが、
今回は取り払われていました。
工事は令和3年(2021)の完成を目指し継続中です。
太閤堤-2
平成30年(2018)に訪れた際、許可を得て

入口近くの堤防跡らしきものを撮影しました。
太閤堤-3
豊臣秀吉は、文禄3年(1594)に完成した伏見城築城を契機として、
宇治川・淀川等の付け替えなど大規模な治水工事を行いました。
宇治川はそれまで宇治橋下流から分流して北西方向に流れて巨椋(おぐら)池に
合流していましたが、北方に流れる流路にまとめられ、伏見城下へと導かれました。
しかし、その後の氾濫のため埋没し、明治時代に新たに現在の堤防が築かれ、
太閤堤とは流路も外れました。
そのため遺構は極めて良好な状況に保存されていて、
公園整備後は太閤堤の詳しい状態が見られると思います。
菟道雅郎子の墓-宮内庁
史跡「宇治川太閤堤跡」の斜め向かいに菟道雅郎子(うじのわきいらつこ)の墓があり、
考古学名は「丸山古墳」と名付けられています。
菟道雅郎子の墓-石碑
菟道雅郎子は、第15代・応神天皇の皇太子で、異母兄の大鷦鷯尊
(おおさざきのみこと=仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したとされています。
『日本書紀』によれば、菟道雅郎子は聡明で、百済から来朝した阿直岐(あちき)と
王仁(わに)を師に典籍を学び、父・応神天皇から寵愛されました。
王仁は『論語』『千字文』すなわち儒教と漢字を日本に伝えた人物とされています。
また、滋賀県豊郷町安食西には、阿直岐を神とした阿自岐神社(あじきじんじゃ)があります。

菟道稚郎子は儒教を学んだことから、天皇には異母兄の大鷦鷯尊
(おおさざきのみこと=後の仁徳天皇)が、天皇に相応しいとして即位しませんでした。
菟道稚郎子命は菟道に移り住みましたが、河内の国からこの地に向かう際
道に迷い困っていたところ、一羽の兎が現れて道案内をしました。
兎は先導して振り返りながら、莵道雅郎子を正しい道へと導いたことにより
「見返りの兎」の伝承となって「莵道」という地名が生まれ、
平安時代に「宇治」に定着したとされています。
菟道雅郎子の墓
現在の宇治神社または宇治上神社の地に「菟道宮(うじのみや)」を建てて住まい、
大鷦鷯尊と3年に亘って皇位を譲り合いました。
そして、永らくの空位が天下の煩いになると思い悩み自ら果てました。
313年、大鷦鷯尊が第16代・仁徳天皇として即位すると、天皇は菟道宮跡に祠を建て
菟道稚郎子命の神霊を鎮祭しました。
それが宇治神社の始まりとされています。
浮舟の碑
墓に隣接して「浮舟宮跡」の石碑が建立されています。
かって、この付近一帯は「浮舟の森」と呼ばれ、榎木の大木が茂り、
その中に浮舟宮(浮舟社)がありました。
『源氏物語・宇治十帖』の浮舟が祀られていましたが、江戸時代中期に社は廃絶しました。
浮舟の碑-フェンス
今は工事中のフェンスで囲まれていますが、やがて「宇治川太閤堤跡歴史公園」の
一角として、もう少し注目されるような気がします。

次回は万福寺から醍醐寺、明治天皇陵を経て御香宮神社を巡ります。
続く
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寺標
白虹橋からバイクで10分足らず走った所に三室戸寺があります。
(画像は平成29年(2017)9月15日と翌年の11月15日参拝時のものを使用しています。)
三室戸寺は山号を明星山と号する本山修験宗の別格本山です。
地名の「三室戸」には、背後の明星山(標高200m)が神が宿る神籬(ひもろぎ)の山、
森の御室(みむろ=貴人の住まい)とされ、
その神聖な山の入口(戸)を意味していると考えられています。
また、第49代・光仁天皇、第65代・花山天皇、第72代・白河天皇と三帝の離宮
となったことから御室が三室になったと伝わります。
http://橋
参道入口に架かる橋は「蛇体橋」と呼ばれ、伝承が残されています。
『昔、山城の綺田(かばた)村に、三室戸の観音様を信仰している娘が住んでいました。
ある日、村人がカニを殺そうとしているのを見て、
「魚の干物をあげるから、逃がしてやっておくれ」と頼んで、カニを助けました。
またある日、その娘の父親が畑に行くと、蛇が蛙(かえる)を飲み込もうとしていました。
そこで父親は、「蛙を放してやりなさい。放したら、わしの娘をやるから。」
と蛇に言うと、蛇はすぐに蛙を放し、やぶの中に消えて行きました。
その夜、蛇はりりしい若者に姿を変え、父親のところへやって来て
「約束通り、娘をもらいにきたぞ。」と言いました。
父親は驚き「三日後に、来てくれ」と、言い逃れをして蛇を帰しました。
三日後、若者に姿を変えた蛇が家に来ましたが、娘は戸をしっかり閉めて部屋に閉じこもり、
三室戸の観音様を念じながら、一心に観音経を唱えました。
若者は、ついにしびれを切らし、蛇の姿に戻り、尾で戸を打ち破りましたが、
たくさんの蟹が現れ、蛇を退治しました。
翌日、娘は三室戸寺へお礼参りに、出かけたのですが途中で雨が降りだし、
三室戸寺に着いた頃には、本降りになっていました。
娘が参道の橋を渡り、なにやら気配を感じて振りかえると、
橋の上に蛇が横たわっていました。
蛇は悲しげな目で娘をじっと見つめると、橋の裏側にまわると、ふっと姿を消し、
以後、雨が降る日には蛇の影が現れるようになりました。
いつしか人々は、この橋を「蛇体橋」と呼ぶようになりました。
後日、娘は蛇を供養するため、蛇の姿をした『宇賀神』を奉納したと伝えられています。
新羅神社-1
橋を渡った所に受付があり、拝観料500円を納めます。
受付を入った左側に新羅大明神が祀られた祠があります。
新羅大明神は、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)が唐からの帰朝の際、
船中に老翁として現れ、「自分は新羅国の明神であるが、
仏法を護持し日本に垂迹すると」教示したと伝わります。
平安時代の貞観年間(859~877)に園城寺(三井寺)を天台別院とした
智証大師円珍が勧請し、本堂の東側に祀られていましたが、
昭和30年(1955)に現在地に遷されました。
庭園
少し進んだ右側に広大な三室戸寺庭園がありますが、
現在は季節外なので閉園になっています。
ツツジ20,000本(見頃5月)、シャクナゲ1,000本(見頃4~5月)、
アジサイ10,000株(見頃6月)が植栽されています。
山門
緩い坂道を少し登って行くと昭和47年(1972)に建立された山門があります。
薬師如来
山門をくぐった先、参道の脇に薬師如来の石仏が祀られています。
本堂への石段
参道の先は石段になっています。
手水舎
石段を登った左側に手水舎があり、霊泉・不動水が汲み上げられています。
宇賀神
参道の中央に宇賀神の石像が祀られています。
神名の「宇賀」は、一般的には日本神話に登場し、伏見稲荷大社の主祭神である
宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと考えられています。
「耳を触れば福が来る、髭を撫でると健康長寿、しっぽをさすれば
金運がつく」と記載されています。
摩尼車
宇賀神像の右側に石造りの摩尼(まに)車が奉納されていて、
一回転させると一巻の経を唱えるのと同じ功徳があるとされています。
花山荘
摩尼車の先に花山荘があり、無料休憩所になっていますが、
土足は禁止されています。
本堂-1
本堂は江戸時代の文化11年(1814)に再建されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
三室戸寺は奈良時代の宝亀元年(770年)に光仁天皇の勅願により
南都大安寺の僧・行表によって創建されたと伝わります。
創建と本尊に関して、伝承が残されています。
『天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する
金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、
その光の元を尋ねさせた。
犬養がその光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、
滝壺に身の丈・二丈(6m)ばかりの千手観音像を見た。
犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、
それが一尺二寸(36.4cm)の二臂(ひ)の観音像に変じたという。』
光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、
当初は御室戸寺と称されました。
平安時代、第50代・桓武天皇は自ら千手観音像を造り、
胎内に二臂の観音像を納めて本尊としました。
この観音像は二臂でありながら「千手観音」と称され、秘仏とされています。
お前立の観音像には飛鳥時代の様式が見られます。
脇侍には釈迦如来像と毘沙門天像が安置され、
ともに国の重要文化財に指定されています。

西国三十三観音霊場は、大和・長谷寺の徳道上人が養老2年(718)に開創し、
西国三十三所巡礼に関する最古の史料によると、
三室戸寺は最終の三十三番目の巡礼地でした。
約270年後、途絶えていた観音霊場は花山法皇によって再興され、
三室戸寺は十番札所と定められました。

三室戸寺は寛正年間(1460~1466)の火災で伽藍を失い、再興されたものの、
天正元年(1573)には織田信長と争った足利義昭に加勢したため焼き討ちされました。
現在の伽藍が再建されたのは江戸時代の後期になってからです。
賓頭盧尊者
本堂の左脇には賓頭盧尊者像が安置され、その脇には小さな観音像が祀られています。
阿弥陀堂
本堂の右横に建つ阿弥陀堂は、延享4年(1747)に建立されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
元々ここには親鸞の父・日野有範の墓がありましたが、親鸞の娘・覚信尼が
祖父・有範の墓を整備してその上に阿弥陀三尊を安置する阿弥陀堂を
建てて祖父の菩提を弔いました。
阿弥陀三尊像は霊宝殿に遷されていますが、平安時代の定朝作とされ、
国の重要文化財に指定されています。
阿弥陀堂-扁額
阿弥陀堂の扁額「四十八願寺」は日野有範が隠棲していた寺号と伝わります。
その下には蝉の抜け殻が...
鐘楼
阿弥陀堂の右側に建つ鐘楼は、元禄2年(1689)に建立されたもので、
京都府の文化財に指定されています。
鐘楼にはかって、「朝鮮の鐘」と呼ばれた梵鐘が吊るされていました。
天正元年(1573)、織田信長と争った足利義昭に加勢したため、伽藍は破壊され梵鐘は
豊臣秀吉の五奉行の一人・増田長盛に持ち去られました。
長盛は梵鐘を破壊し、龍頭だけが切り取られ、床の間の置物としました。
しかし、長盛は病になり、梵鐘破壊の祟りと恐れ、病気平癒の祈願を依頼しました。
そのおかげで病気は完治し、寺に龍頭が戻されました。
鐘も寺に還ったことから、この鐘の龍頭をなでると金(鐘)がかえると
古来より伝えられています。
浮舟の碑
鐘楼の奥に「浮舟古跡碑」があります。
もとは浮舟社という社でしたが、江戸時代石碑に改められました。
『源氏物語』で「横川の僧都」のモデルとなったのは、恵心院に住した恵心僧都と
考えられていますが、三室戸寺の僧もモデルとされています。
霊宝殿には、浮舟の念持仏であったとされる、浮舟観音が安置されています。
恵心僧都が三室戸寺に滞在したかは不明ですが、三室戸寺から下った
宇治川沿いには「浮舟」の古跡があります。
お願い地蔵
古跡碑の横に「お願い地蔵」と呼ばれる地蔵尊が祀られています。
一瞬、地蔵?と思える石ですが、よく見ると下の方に6体の地蔵が彫られています。
この地蔵は、一つだけ願いを叶える「お願い地蔵」で、
木札に願い事を一つだけ記して奉納します。
木札は500円です。
三重塔
鐘楼から東側に進むと元禄17年(1704)に建立された全高16mの三重塔があります。
もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、
明治43年(1910)に当寺が買い取り、参道西方の丘上に移築しましたが、
その後現在地に移されました。
堂内には大日如来像が安置されています。
三重塔前の庭
三重塔の前には小さな庭が築かれています。
牛
三重塔から本堂へ戻ります。
本堂前、向かって右側に牛の石像が祀られていて伝承が残されています。
『昔、宇治の里に富右衛門という百姓が住んでいました。
やっとのことで手に入れた子牛が弱々しいので、毎月の三室戸寺の観音詣でに
子牛を連れて行っては境内の草を食べさせていました。
すると子牛は、口から丸い物を吐き出し、その後元気になって大きく育ちました。
富右衛門はその玉を「牛玉(ごおう)」として大切に保管しました。
大きく育った牛は闘牛に参加し、見事勝利して富右衛門は賞金100貫を手にし、
それを元手に牛の仲買を始め里一番の金持ちになりました。
富右衛門は年老いてから仏門に入り、京の仏師に牛の像を彫らせ、
胎内に「牛玉」を納め、三室戸寺に奉納しました。』
牛-玉
牛の石像の口中には石の玉があり、これを撫でると勝運がつくといわれ、
「宝勝牛」と名付けられています。
牛の腹には小さな覗き窓があり、そこから胎内におさめられた牛の木像が見えます。
手形
宝勝牛の脇に若乃花と貴乃花の手形が奉納されています。
兎
本堂前の左側には「福徳兎」の石像がありますが、三室戸寺のある地域は、
古来より、菟道(うじ)と称され、うさぎと由縁があり、
かっては宇治の中心地でもありました。
三室戸寺では狛犬の代わりにうさぎと牛が本堂を守護しています。
兎-卵
うさぎが抱いている玉の中に卵型の石があり、それが立てば願いが通じると云われています。
宝物殿
本堂の左側に霊宝殿があります。
霊宝殿は、毎月17日しか開館されません。
別途、入館料300円が必要で、入館も時間制で、拝観時間は20分間と定められています。
十八神社への石段
霊宝殿から奥へと進むと石段があり、それを登った所に十八神社があります。
十八神社-社殿
十八神社は寺の創建以前から祀られていたとされ、
現在は三室戸寺の鎮守社となっています。
現在の社殿は長享元年(1487)に建立されました。
以前は主祭神の大物主命他十八神が祀られていたことから十八神社と呼ばれましたが、
明治元年(1868)に十五社が廃され、主祭神の他熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)、
天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)が祀られています。

主祭神の大物主は、海を照らし現れた神で、蛇神であり、水神または雷神としての性格を持ち、
稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神とする一方で、祟りなす強力な神ともされています。

熊野久須毘命は天照大神の子で、熊野那智大社の主祭神です。

天手力雄命は、その名に「天の手の力の強い男神」という意味を持ち、
岩戸隠れの際は岩戸の脇に控え、天照大神が岩戸から顔をのぞかせた時、
天照大神を引きずり出して、それにより世界に明るさが戻ったとされています。
放り投げた岩戸の扉は信濃国戸隠山に落ちたという伝説が残され、戸隠神社・奥社の
祭神として祀られています。
戸隠神社は平安時代末頃、修験道の道場として都にまで知られた霊場であり、
天手力雄命は、山岳信仰と深く結びついた神と考えられています。
十八神社-境内
左側の境内社の詳細は不明です。
十八神社-鳥居
境内の西側に鳥居が建っていて、ここが本来の神社の入口です。
与楽苑の石碑
本堂まで戻り、石段を下った先、左側に曲がると「与楽苑」と呼ばれる枯山水と
池泉回遊式の庭園が築かれています。
与楽苑の東屋
石碑から入って行くと東屋があります。
与楽苑-枯山水-9月
山手の方に枯山水の庭園が築かれています。
平成29年(2017)9月15日の画像
与楽苑-枯山水-1
与楽苑-枯山水-2
与楽苑-枯山水-4
平成30年(2018)11月15日の画像
与楽苑-池泉回遊式-9月
下方には池泉回遊式庭園があり、池の周囲を巡ることができます。
平成29年(2017)9月15日の画像
与楽苑-池泉回遊式-0
与楽苑-池泉回遊式-2
与楽苑-池泉回遊式-3
平成30年(2018)11月15日の画像

宇治川太閤堤跡へ向かいます。
続く

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ダムカード
天ケ瀬ダムは昭和30年(1955)に着工され、昭和39年(1964)に完成した
国土交通省近畿地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムです。
9年の歳月と66億円の工費を要しました。
ダム-右
高さ73m、堤長254mのドーム型アーチ式コンクリートダムで、淀川の治水と
宇治市・城陽市・八幡市・久御山町への上水道供給、総出力59万8,000kwにも及ぶ
水力発電を目的とした特定多目的ダムです。
現在はダムの放流能力を増強させるために令和3年(2021)完成予定で
放流用トンネルの掘削工事が行われています。
工事により治水、上水道供給、発電能力の増強が計られます。
ダム-左
上水道の供給能力には疑問もあります。
府営水道は人口減などで水需要の低下が見込まれるとして値上げを検討しています。
府営水道は宇治系(宇治、城陽、八幡各市と久御山町)、
木津系(京田辺、木津川両市と精華町)、乙訓系(向日、長岡京両市と

大山崎町)の3水系があり、経営状況は厳しいとしています。
料金は、使用水量に応じて払う「使用料金」と固定費にあたる「建設負担料金」で構成され、
使用料金は20円/㎥で、建設負担料金は宇治系44円、木津・乙訓系は66円です。
答申では、3水系の使用料金を20円から28円に引き上げ、
建設負担料金は55円に統一するとしています。
建設負担料金が宇治系と木津・乙訓系で格差があったのは浄水場の整備時期が
異なるなどの理由によるものとされていますが、
宇治系の建設負担料金の値上げに天ケ瀬ダムの工事費は無関係なのでしょうか?
喜撰山ダム
喜撰山ダムのダム湖
発電能力の増強は喜撰山(きせんやま)発電所の能力の増強になります。
喜撰山発電所は天ケ瀬ダムから北東約3kmの距離にあり、喜撰山ダムには
天ケ瀬ダムのダム湖からポンプで水が汲み上げられています。
天ケ瀬ダムのダム湖は夏場、洪水対策のため貯水量が下げられていました。
発電用の水位が下げられ、喜撰山発電所での夏場の発電に必要な水が
十分に確保できるようになるとされています。
モニュメント
天ケ瀬ダムの拝観は無料ですが、住所・氏名の記載が必要で、ダムカードが貰えます。
工事中なので乗用車が駐車できるかは不明ですが、
バイクは向かいの府道沿いのロータリーに駐車できます。

モニュメントの下には「天ヶ瀬ダム事業概要」が記されています。
ダム管理支所
淀川ダム総合管理事務所天ケ瀬ダム管理支所の建物は、
一般には開放されていませんがダムを紹介するビデオが放映されています。
ダムからの志津川発電所
下流右岸に志津川発電所が見えます。
志津川発電所は宇治川電氣株式会社により大正13年(1924)に竣工した水力発電所ですが、
昭和39年(1964)に天ケ瀬ダムが完成すると発電所は廃止されました。
かって、現在の天ケ瀬ダム上流約3.6km付近に大峰堰堤(えんてい)があり、
志津川発電所へ送水していましたが、天ケ瀬ダムが完成すると堰堤は水没しました。
また、現在の天ケ瀬ダム付近から堰堤まで、
建設資材を運ぶための鉄道が敷設(ふせつ)されました。
昭和25年(1950)からは「おとぎ電車」として観光用に運行されていました。
運輸事業目的の鉄道としての事業申請は手続きが煩雑で高コストとなるため、
遊園地内を走る遊具としての認可を受け、京阪電気鉄道により運行されました。
「おとぎ電車」は人気を集めましたが、昭和28年(1953)の台風13号により、
線路の冠水や車両の流失などの大きな被害を受け、運行停止状態となりました。
翌昭和29年(1954)に車両が新調されて運行が再開されましたが、
この台風被害により天ケ瀬ダムの建設計画が持ち上がりました。
ダムが完成すれば線路がほぼ水没することから、
昭和35年(1960)に「おとぎ電車」は廃止されました。
天ケ瀬発電所
下流左岸には関西電力の天ヶ瀬発電所があります。
昭和39年(1964)に運用を開始し、認可最大出力は92,000kWです。
鳳凰湖-1
鳳凰湖-2
天ケ瀬ダムのダム湖は「鳳凰湖」と名付けられています。
昭和62年(1987)に、平等院鳳凰堂に近いことやダムの形が羽を広げた
鳳凰に見えることなどから名付けられました。
吊り橋-1
吊り橋-2
府道を宇治市内方面へ下り、途中の白川が合流する付近でUターンして
宇治川沿いの車道に入り、上流方向へ進みます。
中途半端と思える場所に吊り橋が架かっています。
滝
右岸の興聖寺からも離れていますし、強いて言えば府道方面の下から滝が流れ落ち、
不明の建物と公衆トイレがあることくらいです。
宇治川右岸から白川金色院跡へ徒歩で向かう場合はこの吊り橋を渡るのが
最短距離になると思われますが、京阪宇治駅から白川金色院跡まで約40分を要します。
白虹橋
吊り橋から上流方向へ進むと「白虹橋」が架かっています。
橋は平成26年(2014)7月17日に着工され、平成28年(2016)7月3日に完成しました。
白虹橋からの天ケ瀬ダム
白虹橋からの天ケ瀬ダム
白虹橋からの志津川発電所
白虹橋からの志津川発電所
白虹橋からの吊り橋
白虹橋からの吊り橋

三室戸寺へ向かいます。
続く

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