2020年01月

誕生の碑
羽束師坐高御産日神社からバイクで5分余り北へ進んだ、
桂川に架かる久我橋の西側付近に誕生寺があります。
誕生寺は正式には明覚山誕生寺と号する曹洞宗の寺院です。
駐車場へは桂川の堤防沿いから入ります。

かって、この地には源 師房(みなもと の もろふさ)が営んだ
別業(なりどころ/べつぎょう=古代貴族の別荘)がありました。
師房は第62代・村上天皇の皇子・具平親王(ともひら しんのう)の子で、
寛仁4年(1020)に源朝臣の姓を賜わり、その孫の太政大臣・源雅実
(みなもと の まさざね)が久我家の祖となりました。
久我家4代目の久我通親(こが みちちか)の子が道元とされていますが、
諸説あり定かではありません。
しかし、上級貴族、公卿の家の生まれであることは変わり無いようです。
曹洞宗祖の碑
誕生寺は当時の曹洞宗大本山・永平寺の第66世・日置黙仙禅師
(ひおきもくせんぜんし)により、大正5年(1916)に寺院の建立が発願されました。
現在の福井県越前市小松町にあって永平寺の末寺であった華厳山明覚寺の寺籍が
引き継がれ、「誕生山明覚寺」と号し、道元禅師自作の禅師の木造が遷されました。
大正8年(1919)に仮堂が建立され、翌年に禅師像の入仏遷座式が営まれました。
しかし、大正9年(1920)に日置黙仙禅師が入寂され、その後の計画は頓挫しました。
山門
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
昭和57年(1982)から復興が開始されました。
16年の歳月をかけて本堂、山門、庫裡などが建立されました。
山門-扁額
山門には山号「明覚山」の扁額が掲げられています。
銀杏-2
山門前の銀杏の木は「区民の誇りの木」に選定されています。
鐘楼
銀杏の木の右側に鐘楼があります。
本堂
本堂
本尊は千手観音菩薩です。
本堂-扁額
本堂には寺号の「誕生寺」の扁額が掲げられています。
道元像
本堂前の向かって右側には道元禅師の幼少像が祀られています。
道元禅師は正治2年1月2日(1200年1月19日)に誕生したのですが、3歳の時に
父・通親、8歳の時に母・藤原伊子(ふじわら の いし)を亡くし、異母兄である
堀川通具(みちとも)の養子になりました。
建保2年(1214)、14歳で天台座主・公円のもとで出家しました。
建保5年(1217)に建仁寺にて栄西の弟子・明全に師事し、
貞応2年(1223)明全とともに博多から南宋に渡って諸山を巡りました。
嘉禄元年(1225)、天童如浄(てんどう にょじょう)に師事して中国曹洞禅の
只管打坐(しかんたざ)の禅を受け継ぎ、翌嘉禄2年(1226)に帰国しました。

天福元年(1233)に京都深草に興聖寺を開き、『正法眼蔵』の最初の巻である
「現成公案」を、執筆しました。

文暦元年(1234)、日本達磨宗を修行していた孤雲懐奘(こうん えじょう)が
道元禅師を師事するようになると、達磨宗からの入門が相次ぎました。
比叡山から弾圧を受けるようになり、寛元元年(1243)7月に越前国の
地頭・波多野義重の招きで越前志比荘に逃れました。
波多野義重が土地を寄進して寛元2年(1244)に大佛寺が開かれ、
寛元4年(1246)に大佛寺は永平寺と改められました。
建長5年(1253)に病により永平寺の住職を孤雲懐奘に譲り、京都高辻西洞院の
俗弟子覚念の屋敷で入寂されました。
享年54歳
仏足跡
本堂前の左側にはブッダガヤの仏足跡が祀られています。
仏教の八大聖地の1つ・ブッダガヤは、釈迦が菩提樹の下で悟りを開いた所とされています。
両親の供養塔
本堂の左側に道元禅師の両親の供養塔が建立されています。
平成12年(2000)に道元禅師・生誕八百年を迎えるに当たり、
平成9年(1997)に建立されました。
向かって右側の宝篋印塔は母・伊子のための供養塔で「鶴の塔」と呼ばれていました。
久我の地にあった「鶴の塔」は、現在は市内上京区の北村家庭園で保存され、
国の重要文化財に指定されています。
その「鶴の塔」を忠実に再現し、欠けた部分は補われて復元されました。
井戸の碑
「鶴の塔」の裏側に「道元禅師産湯の井戸」の石碑が建っています。
井戸
石碑の裏側にその井戸があります。
願力の碑
供養塔の西側には「願力」と刻字された石碑が建立されています。
豊川稲荷
境内の西側に豊川稲荷が勧請され、荼枳尼天(だきにてん)が祀られています。
昭和16年(1941)に愛知県の曹洞宗の寺院・円福山妙巌寺から豊川稲荷が勧請されました。
寺の復興が祈願され、「明覚山誕生寺」と改称されました。
観音像
向かい側には慈母観音像が祀られています。
西門
西門

城南宮へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

一の鳥居
羽束師坐高御産日神社は京都市伏見区羽束師志水町にあり、府道123号線から北へ
進んだ所から参道となって、一の鳥居が建立されています。
北向天満宮-石碑
一の鳥居の手前の四つ角に「北向見返天満宮」の碑が建っています。
北向天満宮-鳥居
東へ進んだ所に摂社の北向見返天満宮があります。
平成27年(2015)に境内の整備が行われました。
暖冬のせいか早くも梅が満開に近く開花しています。
北向天満宮-1
昌泰4年(901)、大宰府への左遷が下された菅原道真は羽束師橋付近の草津湊から
出発したとされ、道真は都への別れを惜しんで羽束師神社へ参拝したとされています。
その際に禁裏がある北方を振り向いたとされ、
「北向見返天満宮」と呼ばれる所以となりました。
「捨てられて 思ふおもひの しげるをや 身をはづかしの 社といふらん」と
詠まれていますが、その後先は不明ですがかって、
菅原道真の領地だった所にも立ち寄ったとされています。
その地には長岡天満宮が創建され、羽束師坐高御産日神社から
西へ、徒歩で約1時間の距離にあります。
北向天満宮-2
社殿は覆屋の中に納められています。
二の鳥居
北向見返天満宮から戻り、参道を北へ進むと角柱の二の鳥居が建っています。
御神木
二の鳥居をくぐった左側に「区民の誇りの木」に指定されている
クスの大樹が聳え、御神木とされています。
かって、鎮守の森は「羽束師の森」と呼ばれ、「恥づかし」を掛けて和歌にも詠まれました。
元は大きな森であったと推察されていますが、都市化により規模が縮小され、
現在残る境内は貴重として京都市の史跡に指定されています。
羽束師大神
左側に羽束師大神を祀った祠があります。
羽束師大神-2
石像は阿弥陀如来だそうで、周囲の宅地開発に伴い、
掘り出されて祀られるようになりました。
社務所
鳥居をくぐった右側には社務所があります。
神輿庫
社務所の北側に神輿庫があります。
毎年5月の第2日曜日に羽束師祭が行われ、3基の神輿(内2基は子供神輿)が巡幸します。
3基の神輿の内2基は江戸時代に造られました。
拝殿
現在の拝殿は嘉永3年(1850)に、本殿と共に再建されました。
拝殿-扁額
拝殿に掲げられている扁額には「羽束石社」と記されています。
羽束師社の表記には変遷があるようで、康保4年(967)の『延喜式』に臨時祭が催され、
祈雨神祭八十五座の中に「羽束石社」が記されています。
拝殿-俵
拝殿には俵が奉納されています。
本殿-通路
割拝殿をくぐると正面に本殿があり、屋根付きの廊下で結ばれています。
羽束師坐高御産日神社の創建は古墳時代の雄略天皇21年(477)とされています。
この地は古くから農耕や桂川などの水上交通によって栄えた場所であり、
賀茂氏や秦氏のほかに品部(しなべ/ともべ=古代日本の人的集団)の
泊橿部(はつかしべ)が居住していたとされています。

飛鳥時代の欽明天皇28年(567)に桂川が増水して周囲の集落が浸水しましたが、
人命に被害が及ばなかったとして、第29代・欽明天皇から
封戸(ふこ)を賜ったとされています。
封戸とは「食封(じきふ)」とも称され、貴族や社寺などに支給した戸で、
その戸の租税が収入となりました。
天智天皇4年(665)には勅を受けて中臣鎌足が再建したとされ、
『続日本紀』大宝元年(701)4月3日条に「山背国葛野郡の月読神・樺井神・
木嶋神・波都賀志神(羽束志神)などの神稲については、
「今後は、中臣氏に給付せよ」と記され、これが文献上での初見とされています。
中臣氏はこの神稲でもって新嘗祭を行っていたようです。

延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳では山城国第一の社として
大社に列せられましたが、明治維新後の近代社格制度では郷社となりました。
本殿
本殿
祭神は高皇産霊神(たかみむすひのかみ)と神皇産霊神(かみむすひのかみ)で、
天地開闢の際に最初に高天原に出現したのが天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、
その次に神皇産霊神と高皇産霊神が現れたとされています。
この三神は「造化の三神」とされ、性別が無く、人間界から姿を隠している
「独神(ひとりがみ)」とされています。
宮中の八神殿で祀られ、高皇産霊神と神皇産霊神は霊魂に関わる神々とされ、
他の六神と共に天皇の健康に関わる重要な神々とされました。

『続日本紀』の記載にあるように当初の祭神は、波都賀志神(羽束志神)だったと推察されます。
当地に居住していた泊橿部(はつかしべ)の祖神だったのかもしれません。
その後、当地に御所に食物を献上する「羽束師園(その)」が置かれたのが、
現在の祭神となった関わりがあるように思えます。
また、現在では「縁結びの神」として信仰されています。
境内社-左
本殿の左右には境内社が並んでいます。
左側
手前から貴船神社西宮神社稲荷大社厳島神社愛宕神社若王子神社
境内社-右
右側
左から伊勢神宮(天照皇大神)、石清水八幡宮春日大社大神神社、籠勝手明神
大同3年(808)に斎部広成(いんべ の ひろなり)は、第51代・平城天皇の奏聞を得て
天照皇大神を始め十一神を新たに勧請したとされています。
斎部氏は代々中臣氏と並んで朝廷において祭祀を掌る官職に任ぜられてきました。
稲荷社-1
稲荷社-2
右側の奥には稲荷社があります。
地域の社
境内の西側にある社殿には神社近郊で祀られていたものが合祀され、祀られています。
羽束師川
神社の西側に西羽束師川が流れています。
この地では古くから農耕が行われていましたが、低湿地帯で水はけが悪く、
江戸時代には3年に1度は米の収穫ができなくなりました。
当時の羽束師神社の神官らが中心となって文化8年(1811)に治水工事が開始されました。
17年の歳月を費やし、文政18年(1825)に完成したのがこの水路で、
総延長は12km余りに及びます。
羽束師川の碑
この道標は偉業を讃えるため、久我畷四ッ辻に建立されていましたが、
昭和55年(1980)に現在地に移されました。

誕生寺へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

鳥居
岩屋寺の左側に山科神社への参道があり、
万治3年(1660)の刻銘がある鳥居が建っています。
社務所
参道脇に社務所がありますが、御朱印の用意は無いそうです。
参道
鳥居をくぐると緩やかな坂道の先に石段へと参道が続いています。
拝殿
拝殿
狛犬-左
狛犬-吽形
狛犬-右
狛犬-阿形
本殿
本殿
山科神社は寛平9年(897)に第59代・宇多天皇の勅命により創建されたと伝わります。
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)とその子・稚武王(わかたけのみこと)で、
稚武王が近江建部君(たけべうじ)、宮道君の祖とされています。

延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では名神大社に列せられた旨の
記載がありますが、諸説あり確定はしていません。

宮道弥益(みやじ の いやます)の娘(一説では妹)と藤原高藤との間に
生まれた藤原胤子(ふじわら の いんし)は、元慶8年(884)頃に光孝天皇の
第七皇子・源定省(みなもと の さだみ)と結婚しました。
源定省は仁和3年(887)に宇多天皇として即位し、藤原胤子と源定省との間に
生まれた敦仁親王は寛平9年(897)に醍醐天皇として即位しました。
寛平8年(896)に藤原胤子が亡くなると、醍醐天皇は弥益の邸宅を寺に改めて
勧修寺(かじゅうじ)と名付け、胤子の菩提を弔いました。

本朝月令』では寛平10年(898)に山科祭が官祭として始められたことが記されています。
当初、山科祭は春と秋に行われ、勅使が遣わされて10頭による競馬が行われていました。
しかし、鎌倉時代には官祭ではなくなり、山科の郷民たちの祭となったようです。
その後、春の祭は廃され、秋の祭が旧暦の9月9日に行われました。
明治以降は新暦の10月16日となり昭和30年代まで続けられ、
現在では10月の第三日曜日に変更されています。

かっての山科神社は荘厳な社殿で、丹波や山城に社領を有し、
「山科一の宮」とも称されました。
しかし、兵火などが度重なって社殿の焼失・再建が繰り返され、社領も失われました。
明治維新後に「山科神社」に改められ、村社に列せられました。
本殿-2
現在の本殿は、室町時代後期に造営された社殿に、江戸時代前期に
修復が加えられたと推定され、京都市の文化財に指定されています。
本殿前に建つ石灯籠に寛永20年(1643)の刻銘があります。
護国社と権殿
本殿前の右側に護国社、その手前に権殿があります。
境内社
本殿の右側に摂、末社が覆屋の中に祀られています。
手前側から夷社・山王社・稲荷社の三社殿、竈神社、春日社、天満宮社、
弁財天社、愛宕神社が祀られています。

次回は京都市伏見区南部の羽束師坐高御産日神社
(はづかしにますたかみむすびじんじゃ)から城南宮、北向不動院及び安楽寿院を巡ります。

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

拝殿
大石神社は昭和10年(1935)に当時の第23代京都府知事・鈴木信太郎氏を会長とする
大石神社建設会や山科義士会などの提唱により創建されました。
枝垂桜
鳥居をくぐった右側の枝垂桜は「大石桜」と呼ばれ、かって大石良雄隠棲の地に
生育していたものを現在地に移植し、御神木とされました。
「区民誇りの木」に指定され、毎年四月の第一日曜日には「さくら祭」が催されています。
回廊
拝殿からの左右に回廊は本殿へと結ばれています。
本殿
本殿
祭神は大石良雄(おおいし よしお/よしたか)で
通称を内蔵助(くらのすけ)と称されています。
大石家は藤原秀郷の末裔・小山氏(おやまし)の一族で、代々近江国守護・佐々木氏の
もとで栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)の下司職をつとめていました。
大石姓の由来となったのですが、その後の応仁の乱などで没落しました。
大石良雄の曽祖父である大石良勝は江戸で浪人した後、浅野家に仕えるようになりました。
良勝は大坂夏の陣で戦功をあげ、浅野長政の三男・長重の永代家老に取り立てられました。
長重の長男・長直は赤穂に転封されたので、大石家も赤穂に移り、良勝の長男・大石良欽
(おおいし よしたか)も赤穂藩浅野家の筆頭家老となりました。
大石良欽の長男・良昭の長男として万治2年(1659)に赤穂城内で誕生したのが大石良雄です。
延宝元年(1673)9月6日に父・良昭が亡くなり、祖父・良欽の養子となりましたが、
延宝5年(1677)1月26日に良欽も亡くなりました。
大石良雄は19歳で良欽の遺領1,500石と内蔵助(くらのすけ)の通称を受け継ぎました。
延宝7年(1679)、21歳のときに正式な筆頭家老となり、貞享4年(1686)には
但馬豊岡藩筆頭家老・石束毎公(いしづか つねよし)の18歳の娘・りくと結婚しました。
元禄元年(1688)には長男の良金(通称:主税/ちから)が誕生しました。

元禄14年(1701)2月4日、主君・浅野長矩(あさの ながのり)が、江戸へ下向する
東山天皇の勅使の接待役を幕府より命じられました。
その指南役に就いたのが吉良義央(きらよしひさ)で、詳細は不明ですが
江戸城松之大廊下において長矩が吉良義央に対して刃傷事件を起こしました。
江戸城では勅答の儀が執り行われる直前だったため、将軍・徳川綱吉は激怒して、
長矩に即日切腹と赤穂浅野家をお家断絶の処分を下しました。
しかし、吉良義央には何の咎めもありませんでした。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、幕府の処分に対し不満を持っていた
大石良雄以下47名の浪士が吉良邸に討ち入りし、吉良義央を討ち取りました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により赤穂浪士は
切腹して果て、泉岳寺に葬られました。

明治元年(1868)、明治天皇が泉岳寺に勅使を遣わし、これを弔って以降、
赤穂と京都に赤穂浪士を祀る神社が創建されました。(赤穂の大石神社
大石像
本殿に向かって大石良雄の像が祀られています。
天神うし
臥牛に似た「天神うし」と称される石が祀られています。
牛は天神の神使いとされ、臥牛の像を撫でると学業向上や
病気の治癒に霊験ありとの信仰があります。
義人社
本殿の左方向に義人社があり、天野屋利兵衛が祀られています。
天野屋利兵衛は大坂の商人で、赤穂浪士が討ち入る前に密かに武器を調達し、
これを怪しんだ町奉行は利兵衛を投獄しました。
利兵衛は赤穂浪士の討ち入りが成功するまで口を割らず、
町奉行は利兵衛を大坂からの追放という寛大な処分を行いました。
家財や屋敷は妻子に下げ渡され、利兵衛は京都に移り住み、
利兵衛が通行中に妻子に会うことは問題なしとされました。
天野屋利兵衛は「商売の神様」と讃えられ、商売繁栄を願って信仰されています。
宝物殿
本殿の向かいに無料の忠臣蔵宝物殿があります。
俳優の写真
大石内蔵助の役を演じた歴代の俳優の写真
香炉
大石良雄自作の香炉
社務所
宝物殿の右側に社務所があります。
ポニー
境内には可愛い神馬が奉納されています。
平成11年(1999)4月30日に誕生したファラベラ・ミニホースで、「花子」と称されています。
池
境内の北側には池があります。
一の鳥居
池から東へ進むと一の鳥居が建っています。
一の鳥居をくぐった先に参拝者用の駐車場もあります。

山科神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

地蔵堂
元慶寺から渋谷街道を西へ進み「北花山」の信号を左折し
、国道1号線を横断して道なりに南進します。
新十条通で右折して次の細い通りで左折し、南進した先で右折、
山科神社の鳥居手前を右折した所に岩屋寺の駐車場があります。
駐車場前には地蔵尊が祀られています。
稲荷社
本堂への石段脇には大石稲荷大神が祀られた社殿があります。
石段
山門
石段を登った所に山門があります。
本堂
山門をくぐった正面に本堂があります。
平安時代の寛平9年(897)に宇多天皇の勅願により山科神社が創建され、
隣接する北側に神宮寺として岩屋寺が創建されました。
当初は天台宗の寺院で、比叡山三千坊の一つでしたが、
現在は曹洞宗永源寺派・天寧寺の末寺で、山号は神遊山(しんゆうざん)と号します。

創建されてから後、岩屋寺は荒廃し、元亀2年(1571)には
織田信長の焼き討ちにより焼失しました。
江戸時代初期の明暦2年(1656)に再興されましたが再び衰微し、
元禄14年(1701)に大石良雄が境内地に邸宅を新築して移り住みました。
大石良雄は秘かに仇討の策をめぐらし、翌年には同志が集まって
9月頃に江戸へ出発しました。
元禄16年(1703)、討ち入りを成し遂げた大石良雄は
邸宅や田畑などを岩屋寺へ寄進しました。

しかし、岩屋寺の荒廃は止まらず嘉永年間(1848~1864)になって、
堅譲尼(けんじょうに)が京都町奉行で、赤穂藩浅野家の支族である
浅野長祚(ながよし)らの寄進を受けて再興しました。
現在の本堂は文久年間(1861~1864)に再建され、大石良雄の念持仏であった
大聖(だいしょう)不動明王を本尊としています。
大聖不動明王は三井寺を中興した智証大師作と伝わり、
近畿三十六不動尊の第24番札所本尊でもあります。
毘沙門堂
山門をくぐった左側に明治34年(1901)に建立された毘沙門堂があり、
四十七士の木像が安置されています。
毘沙門堂奥の宝物殿には赤穂浪士の遺品などが展示されています。
弁財天
山門をくぐった左側に大石弁財天が祀られています。
石灯籠
庫裡前の石灯籠は桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん)により寄進されました。
桃中軒雲右衛門は明治から大正時代にかけての代表的浪曲師で、
赤穂義士伝を得意としました。
茶室
弁財天の奥には茶室・可笑庵があります。
大石邸の古材を使用して建てられ、茶室前の梅の木は大石良雄が手植えしたものです。
参道
石段を下って落ち葉に敷き詰められた参道を北へと進みます。
忠誠堂
参道の左側に忠誠堂(納骨堂)があります。
遺髪塚
参道の正面に安永4年(1775)に建立された大石良雄の遺髪塚があります。
江戸城本丸の通称「松の廊下」で高家(こうけ=儀式や典礼を司る役職)・
吉良義央(きらよしひさ)に対し、刃傷事件を起こした赤穂藩の第3代藩主・
浅野長矩(あさの ながのり)は、即日切腹を命じられ、
浅野家5万石の取り潰しが下されました。
筆頭家老であった大石良雄は赤穂城を幕府に明け渡し、大石家の親族・
進藤源四郎が保証人となって岩屋寺の境内地に移り住みました。
それ以外の藩士達は赤穂に近い大阪、伏見、京都などに散らばっていましたが、
元禄15年(1702)2月15日から数日間、山科会議が行われました。
その後も場所を変えて会議が行われ、7月28日の円山会議で討ち入りが決定され、
大石良雄は10月7日に京を発ち、11月5日に江戸に到着しました。

元禄15年12月14日(1703年1月30日)、討ち入りが決行され、吉良義央の首は
泉岳寺へと持ち帰られ、浅野長矩の墓前に捧げられました。
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、幕府の命により赤穂浪士達は切腹し、
寺坂吉右衛門が大石良雄の遺髪や浪士の遺品を進藤源四郎に届けたとされています。
寺坂吉右衛門は討ち入り隊に加わっていましたが、討ち入り後に赤穂浪士一行が
泉岳寺へ引き上げる際に、大石良雄から密命を受けたとの説があります。
大石邸跡
忠誠堂の前方に大石良雄の邸宅跡があり、第3代京都府知事・北垣国道筆の
「隠棲旧址」の碑と十三重石塔が建立されています。
池跡
邸宅跡前には池の跡も残され、庭が築かれていたように思われます。

忠誠堂の奥から大石神社への通路がありますので大石神社へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ