2020年02月

大門橋
恵解山古墳から通称「恵解山(いげのやま)通り」は右に曲がり、
橋を渡っ先の府道211号線殿との四つ角に、
「勝龍寺城大門橋」の石碑とシンボルとしての結界門が建っています。
南北朝時代、勝龍寺城を築城の際、細川師氏(もろうじ)は、
宇波多川(うばたがわ=現在の小畑川)の流れを西南の方に移動して、
勝龍寺城の外堀としました。
元亀2年(1571)、細川藤孝が勝龍寺城を改修した際、ここに大手門を構築しました。
以来、この大手門に架かる橋は「大門橋」と呼ばれるようになりました。
本堂
府道211号線を左折して北西方向に進み、その先で戻るように左折、
更にその先で右折した所に勝龍寺があります。
勝龍寺は山号を恵解山と号する真言宗の寺院で、京都洛西観音霊場・第14番、
西日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場・第3番、
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場・第3番札所となっています。
勝龍寺は、平安時代の大同元年(806)、空海によって開基されたと伝わります。
創建当初は「青龍寺」と称し、空海が学んだ唐の青龍寺に由来しているとされています。
観音堂を始め九十九坊が建てられていた大寺院であったことから、
付近の地名となりました。

応和2年(962)、大干ばつ・大飢饉が発生し、第62代・村上天皇の命により、
当時の住職であった千観(せんかん)上人の祈祷で雨が降り、
龍神に勝ったという意味から「勝龍寺」と改名されました。
室町時代になると、境内が勝龍寺城に隣接していたため、たびたび焼失し、
その後の山崎の合戦でも焼失しました。
現在の勝龍寺は、専勝坊の法灯を継いでいます。

本尊は鎌倉時代作の十一面観音で、国の重要文化財に指定されています。
京都国立博物館に寄託されており、8月18日とガラシャ祭り(11月第2日曜)には
勝龍寺で開帳されます。
他に鎌倉時代の十一面観音像や聖観音立像、二天王立像(持国天像・多聞天像)が
安置されていて、いずれも長岡京指定文化財になっています。

本堂前に渡されたしめ縄は、西の空に向かう龍を表しています。
毎年1月第2日曜日の毘沙門天(多聞天)の縁日に檀家によって奉納されています。
賓頭盧尊者
本堂正面の右側に賓頭盧尊者像が安置されています。
「諸病悉除衆苦代受(しょびょう・しつじょ・しゅうく・だいじゅ)
なでぼとけの別名を持つこの仏様は、心身の病んでいるところと、
同じところを撫でて、一心にお参りすると病が治るというご利益があります。」
と記されています。
修行大師像
修行大師像
ボケ封じ観音
平成18年(2006)12月には、「ぼけ封じ観音」が安置され、
ぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第三札所となりました。
西日本ぼけ封じ三十三ヶ所霊場・第三番札所であった宇治市大久保の
成田山・慈尊院が移転か廃寺となったため、勝龍寺が第三番札所となりました。
鐘楼
鐘楼
梵鐘
梵鐘には、「三代目です」と記されています。
初代の梵鐘は、大阪の陣で持ち去られ、現在、大阪府能勢町の真如寺に存在が
確認され、大阪府重要美術品になっています。
二代目は、昭和3年(1928)に鋳造されたのですが、第二次世界大戦時に
戦時供出されました。
三代目になる現在の梵鐘は、昭和52年(1977)に鋳造されたものです。
弥勒菩薩像
弥勒菩薩坐像
元は地蔵菩薩坐像が祀られていましたが、昭和39年(1964)に盗難に遭い、
地域の陶芸家により寄進されました。
背後の石仏群には南北朝時代のものもあります。
布袋像
布袋尊
春日神社-鳥居
同じ敷地に春日神社がありますが、現在は長岡天満宮が管理されているようです。
石鳥居には元禄13年(1700)の銘があります。
春日神社-門
春日神社は、平安時代末期の承安4年(1174)、九条兼実による建立と伝わります。
春日大社から勧請され、春日四柱を祭神としています。
天正10年(1582)に焼失しましたが、慶長9年(1604)に再建されました。
弘化2年(1845)に破損したため、再び再建された伝わります。
江戸時代には勝竜寺村の氏神となりました。

かっては本殿前に拝殿がありましたが、倒壊の恐れがあったため
平成29年(2017)に解体・撤去されました。
拝殿跡の石畳の色が変わっています。
春日神社-石灯籠
石灯篭には正徳4年(1714)の銘があります。
春日神社-狛犬
狛犬には慶応元年(1865)の銘があり、
江戸時代に境内整備が行われた記録が残されています。
本殿は一間社流造で、覆屋の中に納められています。

勝龍寺城公園へ向かいます。
続く

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記念館-表
国道171号線から府道204号線を西へ進んで「落合橋」を渡った先の南側に
中山修一記念館があります。
中山修一記念館は、氏の生家で、書斎として使われていた部屋を、
展示場として無料開放されています。
案内される方が常駐し、中山修一氏の功績について説明を受けることができます。
中山修一氏は、文献上だけの「幻の都」といわれていた長岡京を、
平安京と同様に碁盤の目のように区画されていたことを明らかにし、
長岡京の全体の復元図を作成しました。
母屋
母屋です。
昭和28年(1953)、中山修一氏が37歳の時、『乙訓郡誌』の執筆依頼がきっかけで、
長岡京の研究に没頭するようになりました。
昭和29年(1954)に長岡京の発掘調査に初めて着手し、
翌年に朝堂院南門(ちょうどういん・なんもん)跡を発見。
以後、小安殿(しょうあんでん)、大極殿(だいこくでん)跡など
重要な遺構を次々と発掘し、長岡京中枢部の全容を明らかにしました。
昭和51年(1976)、氏が60歳の時、 長岡宮跡発掘調査団
(後に長岡京跡発掘調査研究所と改称)が再結成されましたが、
それまでの発掘調査費の殆どは、私財で賄われていました。
中山修一像
中山修一氏の像。
中山修一氏は大正4年(1915)7月19日に現在の長岡京市の生まれ。
京都大学卒業後に西京高教諭、京都文教短大教授などを勤めながら
長岡京の研究に取り組み、千回を超える発掘調査を行うと共に
その保存活動に尽力されました。
平成9年(1997)4月30日に81歳で亡くなりました。

背後の松は樹齢約400年だそうです。
発酵タンク
記念館から府道204号線を更に西に進むとサントリーのビール工場があることから、
この通りは「サントリー通り」とも呼ばれています。

サントリー天然水のビール工場は昭和44年(1969)にサントリービール
第2の生産拠点として開設されました。
予約が必要ですが、ビールが試飲できる工場見学を行うことができます。
工場見学の記事は平成28年(2016)のものですが、工場開設50周年を記念して
平成31年(2019)4月から施設が刷新されて工場見学が再開されています。

工場に入るとビールを発酵する高さ18mの巨大なタンクが建ち並んでいます。
サントリーは良質な天然水が採れる利根川、武蔵野、京都、熊本の
全国4カ所のみでしかビールの製造を行っていません。
ホップ
敷地ではホップが植栽されています。
マスタードリーム講座
有料(1,000円)のマスタードリーム講座を申し込みました。
ダイヤモンド麦芽
テーブルには、ダイヤモンド麦芽が置かれていて、数粒試食しました。
ダイヤモンド麦芽とは、チェコで伝統的に使われる、上質で深いコクのある
希少な麦芽とのことですが、ほんのりとした甘みを感じました。
製造方法-1
製造方法-2
最初約30分間、醸造家のマスタードリームに対する“こだわり”の講座を
受講しました。
仕込釜
工場に行き、“こだわり”の製法を見学しました。
仕込釜では麦芽を砕いて湯と混合し、温度を調節して「もろみ」が作られます。
仕込がその後のビール品質を決定づけるとされ、醸造家の腕のみせどころでもあります。
仕込槽
サントリーでは1980年代から泡に着目し、長きにわたり研究してきました。
「もろみ」をろ過した麦汁を煮沸し、ホップが加えられて
香りや苦みなどの特性が引き出されます。
この時、仕込槽から仕込釜に一部を移して「煮出す」ことで“濃厚な麦汁”を作り出す
「デコクション製法」が用いられています。
銅炊き仕込み
“銅炊き仕込み”の模型です。
パイプ全体が蒸気で熱せられ、その中の銅管を麦汁が流れる仕組みだそうです。

そして、待望の試飲タイムです。
おつまみ付きで3杯飲むことができます。
お土産には試飲で使ったのと同じグラスが付いていました。
古墳
工場東側の「恵解山口」の信号から北へ進むと、右側に
恵解山古墳(いげのやまこふん)があります。
恵解山古墳は、古墳時代中期(4世紀末~5世紀末)に
築造された乙訓地方最大の前方後円墳です。
全長は約128mで、その周囲には幅約30mの浅い周濠(しゅうごう)が
掘られていました。
図
古墳は3段に築かれ、斜面には河原石が積まれて、各段と頂上平坦部には
埴輪が並べられていました。
後円部には、死者を埋葬した竪穴式石室があったとみられていますが、
今は墓地になっています。
前方部の中央からは、刀剣などの鉄製武器が約700点発掘されました。
恵解山古墳は、その規模や構造から5世紀前半頃の桂川右岸の乙訓地方全域を
治めた支配者の墓と考えられています。
墳形は大王(天皇)墓に倣っていることから、被葬者は王権と強いつながりを持ち、
大王墓の設計図を使用できたと推察されています。
造り出し-西
後円部の少し前方にある、東西約8.5m・南北約12mの造り出しの取り付き部分は、
島に見立てて入り江状に表されていました。
造り出しは、東西で形や大きさが異なるようですが、西側のみが再現されています。
造り出し-西-埴輪
造り出し上面は、埴輪で囲われ、東辺の埴輪列は、北寄りで食い違いがあり、
そこから中へ入る仕組みになっていました。
石段
斜面は、河原石による葺石(ふきいし)で築かれ、平坦面には約650点の
埴輪が並べられていました。
埴輪は、円筒埴輪と呼ばれる土管状のもので、約40cm間隔で並べられていた
ことから、恵解山古墳全体では約1800本以上の埴輪が使われたと推察されます。
鉄製武器類
前方部の中央付近からは、多量の鉄製武器類が、長さ6.5m以上、幅約80cmの
木製の箱状の入れ物に納められていました。
箱の底には刀が、その上に剣と槍、さらにその上に短刀と大量の矢が束ねられて
整然と置かれていました。
多量の鉄製武器が出土した例は全国的にも珍しく、京都府内初となり、
出土品は平成11年(1999)に府指定文化財に指定されました。
墓地
昭和55年(1980)、墓地拡張工事の際に、前方部の中央付近からで鉄器が出土した事から、
調査が開始されました。
ただし、古墳の保存状態は悪く、後円部にあった竪穴式石室が失われるなど
改変され、容姿はひどく損なわれていました。

明智光秀が、山崎の合戦の際、ここに本陣を置いた痕跡との見方が出ています。
後円部には、平坦地を造成して曲輪(くるわ)が設けられ、前方部は堀で切られ、
周濠の外にも堀の跡が見つかりました。
明智光秀が本陣をおいたとされる「御坊塚」は境野1号墳ではなく、
恵解山古墳とする説が最新の学説となっています。

江戸時代になると、墳丘は墓地となりました。
恵解山古墳は、調査翌年の昭和56年(1981)に国の史跡に指定され、
埴輪列や葺石などの復元整備工事が完了した平成26年(2014)秋、
恵解山古墳公園として開園しました。
造り出し-東
東側の造り出し部分です。
僅かの竹薮が残され、以前は竹薮に覆われていたことを想像させます。

恵解山古墳の大きさ
後円部径=約78.6m
後円部高=推定10.4m
前方部幅=約78.6m
前方部先端高=推定7.6m

勝龍寺へ向かいます。
続く

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陵-1
グーグルマップでは揚谷寺から東側へ下り、その先で右折した先に
土御門天皇の金原陵があると記されていますが、右折する道が分らず、
ナビに頼ってよくやくたどり着きました。
陵-2
土御門天皇は、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または
1196年1月3日)に第82代・後鳥羽天皇の第一皇子として誕生しました。
建久9年(1198)に後鳥羽天皇から譲位され僅か4歳で即位し、
後鳥羽天皇は上皇として院政をしきました。
土御門天皇は穏和な性格で、幕府に対して強硬であった上皇の意に添わず、
上皇から退位を迫られました。

承元4年(1210)に弟の順徳天皇に譲位し、上皇となりましたが、名目的なものでした。
承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げ、
承久(じょうきゅう)の乱を起こしました。
後鳥羽上皇は敗北し、後鳥羽上皇は隠岐島、父の計画に協力した
順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。
土御門上皇は、何も関与していなかったので処罰の対象にはならなかったのですが、
自ら申し出て土佐国に移り、後に鎌倉幕府の配慮により都に近い阿波国に移されました。
陵-3
寛喜3年(1231)に37歳で崩御され、阿波で火葬に付された後、この御陵に埋葬されました。
徳島県鳴門市大麻町池谷には土御門天皇を祭神とする阿波神社があり、
境内に火葬塚があります。

天福元年(1233)、母親の承明門院によって、塚の上に金原御堂(法華堂)が
建立され、後に御堂を管理するため金原寺が造営されました。
しかし、その後は御堂も金原寺も荒廃し、江戸時代には
石棺が露出して「石塚」と呼ばれていました。
文久年間(1861~1864)に修陵され、土御門天皇陵と定められました。
地蔵院
土御門天皇陵から府道204線まで戻り、湯川酒店を目印に右折し、
自治会館を通り過ぎた先の変則十字路を左折すると地蔵院があります。
地蔵院の本尊は、平安時代作の阿弥陀如来像で、
台座に「本山金原寺当仏」との墨書があります。
地蔵院は、金原寺の別院で地域に密着した小さな寺院です。
残念ながら、地蔵院の住職は亡くなられ、現在は無住となっていて、
本尊を拝見することはできませんでした。
石倉神社
府道を南へ進むと
小倉神社の末社・石倉神社へと戻ってきます。
長岡京市から大山崎町、大阪府島本町を巡って長岡京市へと戻ってきましたが、
この行程はバイクでも一日では無理で、3回に分け、一部は過去の記事を掲載しています。

次回はサントリーのビール工場から長岡京市及び京都市西京区大原野を巡ります。

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車道-石灯籠
柳谷観音前の「柳谷道」には石灯籠が並んでいます。
山門
柳谷道から山門まで石畳の参道が伸び、
毎月17日は揚谷寺の縁日なので、参道には露店が出ています。
山門-扁額
柳谷観音は、正式には山号を立願山(りゅうがんざん)、寺号を揚谷寺(ようこくじ)と
号する西山(せいざん)浄土宗の寺院です。
揚谷寺(ようこくじ)で揚は訓読みすると
「やなぎ」で一般的な柳が使われて通称で「柳谷観音」と呼ばれています。

揚谷寺は、平安時代の大同元年(806)に清水寺を開山された
第一世・延鎮僧都により開創されました。
創建に際して伝承が残されています。
「延鎮僧都は、夢の中に観音菩薩が現れ『西山にて生身の観音様に出会うこと
ができる』と告げられました。
清水寺からこの西山に入り、柳生い茂る渓谷の岩上に
生身の観音様を見つけられました。
その観音様が本尊の十一面千手千眼観世音菩薩であった」と伝わっています。
延鎮僧都の命日が17日であることから、17日が縁日とされ、
本尊の特別開帳などが行われます。
滝口
山門への石段を上ります。
17段上った所に少し開けた中段があり、右側には昔、
水行が行われていた滝口があります。
門前-不動像
左側には不動明王像が祀られています。
門前-役行者像-西
石垣の中にも石像が祀られ、その下には役の行者像が祀られています。
門前-役行者像-東
向かい側にも役行者像が祀られています。
風神像
風神像
雷神像
雷神像
中段から山門までは21段上るのですが、
第二世・弘法大師の命日である21日によるものです。
弘法大師もこの地で修行をされた言われ、第二世とされています。
山門前の左側には風神像が、右側に雷神像が祀られています。
山門-扁額
山門に掛かる「立願山」の扁額。
山門は江戸時代の元禄年間(1688~1704)に再建された四脚門で、
かっては勅使門でした。
京都府の登録文化財に登録されています。
磁石

天井の梁には方位磁石が奉納されています。
地蔵像
山門をくぐると右側に地蔵菩薩像が祀られています。
鐘楼
左側に手水舎があり、その斜め後ろに鐘楼があります。
朝7時の開門時、正午、閉門時の5時に鐘が撞かれます。
時間に関係なく参拝者も有料(50円)で撞く事ができます。
書院
書院の玄関、但しここから入ることはできません。
書院及び庫裏は京都府の登録有形文化財です。
庫裏
受付と庫裏。
揚谷寺は新西国霊場・第17番及び洛西三十三所観音霊場・第10番の札所です。
独鈷水-入口
庫裏の玄関前に独鈷水(おこうずい)への入口があります。
弘法大師像
通路を奥へ進んだ左側に、弘法大師像が祀られ、
像の前には弘法大師の足形があります。
底には四国八十八ヵ所霊場の砂が敷いてあり、 足形の上に履物を脱いで上がり、
「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」と21回唱えれば
健脚になるご利益があるそうです。
更に、その後に独鈷水(おこうずい)を飲むと、ご利益が倍増するそうです。
大師堂
弘法大師像から右側に進むと、弘法大師が祀られた祠があります。
独鈷水
祠の奥に独鈷水のお堂があり、堂内の岩間からは、
今も綺麗な水が湧き出していて、多くの方々が汲みに来られています。
弘仁2年(811)、弘法大師が乙訓寺の別当職であった時に、
度々当山に参拝されていました。
ある時、堂の傍らにある巌窟の溜まり水で眼のつぶれた小猿を抱き、
眼を洗っている親猿の姿を見かけられ、
空海は小猿のために17日間のご祈祷を行いました。
すると満願の日に小猿の目が開き、喜んで山へと帰っていったそうです。

空海は、この不思議な湧き水を、更に17日間の祈祷を施し、
独鈷で持って深く掘り広げ、眼病平癒の霊水に成就されたと伝えられています。
また、江戸時代に第112代・霊元天皇が眼病を治癒されたことから、
東京遷都まで天皇家に独鈷水を献上していたと伝えられています。
独鈷水は、本堂の左側に安置されている「びんづるさん」の横に設置された
棚にお供えしてから持ち帰るのが慣わしになっています。
本堂

本堂は江戸時代に再建にされ、京都府登録有形文化財となっています。
本堂へは土足のまま入ることができます。
堂内内では読経と迫力のある太鼓の音が響いています。
その後、般若心経の経文が配られ、全員で唱え、百万遍大数珠繰りが行われました。
数珠繰りの後にまじかで平安時代に作られた本尊を拝むことができます。
本尊は、淀君寄進の厨子に納められていて、毎月の縁日に開帳されています。
本尊である十一面千手千眼観世音菩薩は、平成10年(1998)に解体修理が行われ、
像内から鎌倉時代の承元4年 (1210)に納められた勧進願文や奉加状などが発見され、
京都府の有形文化財に指定されています。

脇侍には、右隣に勝敵毘沙門天王、左隣に将軍地蔵大菩薩が安置されています。
その左側には、弘法大師像が安置され、
裏側に廻ると本尊を背後からも拝むことができます。
庭園-1
本堂の左側から回廊を渡って書院へ向かいます。
書院前には、京都府の名勝庭園に指定された「浄土苑」が築かれています。
十三仏安置図
江戸時代中期に作庭されたもので、山の斜面に十三仏に見立てられた
立石が配されていますが、実際には17の石が立っているそうです。
庭園-2
手前には池があって、綺麗な錦鯉が優雅に泳いでいます。
書院に座って、本堂から漏れてくる読経を聞きながら庭を眺めていると、
心が洗われそうです。
奥書院
浄土苑の奥に上書院(かみしょいん)があります。
書院-寺宝
書院には、月替わりで寺宝が展示されています。
今月は「兎」の掛け軸で、幕末から明治時代に京都を中心に活躍した絵師、
日本画家である森寛斎によって描かれました。
(記事は平成28年(2016)9月17日のものです)
奥書院への階段
書院から回廊の階段を登り上書院(かみしょいん)へ向かいます。
上書院は、普段は非公開ですが、縁日の午前中のみ有料(500円)で
公開されています。
ボランティアガイドの説明を受けることができます。
奥書院-一階
上書院は、明治時代後期の建物で、かっては高貴な客が通される部屋でした。
上書院の一階の部屋は、平成21年(2009)に公開された
映画「日本のいちばん長い日」で、陸軍官舎として使用されました。
奥書院-二階
二階は役所広司氏が控えの間として使用され、景色の美しさに感激されたそうです。
「寿」の掛け軸は、
高野山真言宗大僧正・喜多川諦道(きたがわたいどう)師の書によるものです。
奥書院からの庭園
二階からは「浄土苑」を愛でることができ、
楓が赤く染まればより趣のある景色になると思われます。
水琴窟
上書院の前で回廊は左に折れ、上書院の裏手へと廻ると
「心琴窟(しんきんくつ)」が設置されています。
水琴窟のことで、音が聞きやすいようにと竹筒が置かれていますが、
竹筒を使わなくても聞こえます。
奥之院への階段
水琴窟を過ぎると、回廊の階段が急になり、
右に直角に曲がって更に上ると奥之院に着きます。
奥之院への参道は27種・4500株のアジサイが植えられ「あじさいの道」と呼ばれています。
揚谷寺は「紫陽花の寺」として知られ、見頃の6月下旬から
7月中旬にはこの回廊からも花が楽しめます。
奥之院-堂内
奥之院の本尊も十一面千手千眼観世音菩薩で、江戸時代に第114代・中御門天皇
勅刻されたもので、洛西観音霊場・第10番の札所本尊でもあります。
東山天皇の皇妃・新崇賢門院(しんすうけんもんいん=四条の局)は、
度々皇子を出産されましたが、それぞれ幼くしてお亡くなりになりました。
そこで、本尊に祈願したところ、無事皇子(後の中御門天皇)を出産されました。
「無事出産できた暁には観音様をお祀りする」と誓いを立てられていたのですが、
果たすことなく崩御されました。
中御門天皇は、亡き母に代わり本尊の観音像を模して造仏し、
奥之院の本尊として安置されました。
奥之院-堂内-左
向かって左側に安置されているのは二十八武衆で、千手観音の眷族です。
千手観音に従って、仏教とその信者を守護する護法善神です。
向かって右には歴代天皇の位牌が安置されています。
奥之院-池
奥之院を出た正面左側に(お堂に向かって右側)に
モリアオガエルが産卵するという小池があります。
眼力稲荷
お堂の裏側に廻ると、奥之院の守護神である眼力稲荷が祀られています。
眼力稲荷は伏見稲荷大社の末社・眼力社から勧請されました。
愛染堂
眼力稲荷社の横には愛染堂があり、愛染明王が祀られています。
愛染堂の標石を裏側から見ると...
奥之院
奥之院の正面へ戻ります。
奥之院は、大正元年(1912)に建立、大正4年(1915)に焼失し、
昭和5年(1930)に再建されました。
観音請記念碑
石段を下った南西側に観音請記念碑が建っています。
十三重石塔
北東側に進むと十三重石塔が建っていますが、
寺の案内図には「多宝塔」と記されています。
納骨堂-1
多宝塔から少し下った所に納骨堂があります。
納骨堂
納骨堂の背後には阿弥陀如来坐像が祀られていますが、
堂内ではなく外にあるので、光によって降臨されたようにも見えます。
納骨堂下-観音像
納骨堂の下方には観音菩薩像が祀られています。
本堂-横
石仏の前からは、本堂の横側を俯瞰することができます。
寺宝庫
右に緩やかにカーブして下って来ると、寺宝庫が見えてきますが、非公開です。
無料休憩所
寺宝庫の先には、無料休憩所があります。
お火除けさま-1
休憩所内には、四国八十八ヶ所霊場の本尊の模刻仏とされている
「お火除けさま」が祀られています。
お火除けさま-2
奥之院での火災の際、堂宇は全焼しましたが、難を逃れたと伝わります。
以来、火災などの災害除けとして信仰を集めています。

無料休憩所は、ハイカーなどにも解放されていて、
グループの方々が昼食を取られていましたので、
露店で赤飯を380円で購入して昼食としました。
阿弥陀堂
無料休憩所の向かいの阿弥陀堂は、江戸時代の建立で、
以前は念仏堂とも呼ばれていました。
阿弥陀堂-扁額
阿弥陀堂には、講社の額が掛かっています。
江戸時代の元禄年間(1688~1703)には多くの講社が結成され、
大正時代末期でも322社が存在していました。
檀家を持たない揚谷寺は、講社の人々の信仰によって支えられてきました。
阿弥陀堂-堂内
阿弥陀堂の本尊は、阿弥陀如来坐像で、向かって右に中国の高僧・善導大師像、
左には法然上人像が安置されています。
地蔵堂
阿弥陀堂の前を左に突き当たった所に地蔵堂があります。
地蔵堂-堂内
地蔵堂には親子地蔵が祀られています。
護摩堂
地蔵堂の隣に護摩堂、その背後に経蔵があります。
毎年2月17日には、江戸時代より続く採燈大護摩供が行われ、
大峰山より山伏が招かれて祈祷が行なれます。
中庸門
護摩堂の左、本堂の脇に中庸門があります。
弁天堂
門をくぐった先に弁天堂があります。
淀殿
弁財天のお前立ちには淀君の人形が祀られています。
淀君は、本堂の本尊を信仰され、厨子などを寄進されたことから、
信者の方から淀君の人形が奉安され祀られるようになったそうです。
神徳水
弁天堂の脇に、「神徳水(みのりみず)」が湧き出し、
諸病平癒・不老長寿の水と言われています。
淀君が、この水で洗顔されたと伝わり、
この水で洗顔して授けられた手拭で拭うと美人になるそうです。
眼力稲荷社-1
本堂の裏側に当たる所に伏見稲荷大社・眼力社より勧請された、
正一位眼力稲荷大明神が祀られています。
眼力稲荷社-2
眼力稲荷社は、当山の鎮守社であり、
眼病や視力回復のご利益があるとされています。
また、心眼・先見の明を授かることから、
商売繁盛や証券取引及び学問向上などにもご利益があるとのことです。
メグスリの木
本堂へ戻ると、本堂前にはメグスリの木が植えられています。
申し込みすれば、書院で千眼茶の試飲ができるそうです。
千眼茶とは、揚谷寺で祈祷されたメグスリの木の樹皮を煎じたもので、
かすみ目・疲れ目・二日酔いなどに効果があるそうです。

第83代・土御門天皇の金原陵へ向かいます。
続く

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尺代
若山神社から戻ると車道は山中へと登り、それが下り坂となった先で
尺代の集落が一望できます。
集落の前に水無瀬川が流れ、河岸から山側の斜面を削るようにして、
民家が建ち並んでいます。
乙女の滝
集落から水無瀬川の上流は「山吹渓谷」と呼ばれ、川沿いのハイキングコースには
名所の「乙女の滝」があります。
「乙女の滝」はか細い線のような流れから名付けられました。

かって、渓谷では水車を利用して製油業や線香作りが営まれていました。
江戸時代から始まったとされ、昭和に入ってからは、使用済バッテリーの
エボナイトを粉末にして再生するようになったとされていますが、
現在は廃業されて水車も朽ちています。

また、アマゴ・ニジマスの管理釣り場もあります。
諏訪神社
集落の左側の最も高い所に諏訪神社があり、
神社から下って右に進んだ所に西光寺があります。
釈恩寺跡
右側の神社と同じ高さの位置に釈恩寺跡があります。
釈恩寺跡は、天平年間(729~48)に行基が、尺代の観音に開基したと伝わります。
その頃は、かなりの大寺であったことが推定されているのですが、
いつの頃からか当地に遷されました。
本尊であった十一面観音菩薩立像は島本町最古の仏像だそうです。
本堂
集落から府道734号線に入って北上し、その先のUターン状のカーブを曲がらずに
北上した先に乗願寺があります。
乗願寺は山号を浄土山と号する西山(せいざん)浄土宗の大本山・光明寺の末寺です。
大仏碑
入口の脇には愛宕山の石灯籠と「大ほとけ」と刻まれた石碑が建っています。
本堂-扁額
寺伝によれば乗願寺は天延年間(973~76)に、恵心僧都がこの地で修行中に
阿弥陀仏の来降を拝み、その姿を写して仏像を刻み、
草庵を結んだのが始まりとされています。
浄土谷一帯は平安時代以前に開かれたとみられ、
「観音檀」からは九世紀の千手観音立像が出土しました。

平安時代の末期には浄土信仰が盛んとなり、乗願寺の伽藍も整えられたと伝わりますが、
その後は荒廃して変遷の詳細は不明となりました。
現在の本堂は江戸時代の寛政3年(1791)に建立されました。
本堂には「猫が入るため戸を閉めてください」と記されています。
阿弥陀仏
本尊の阿弥陀如来坐像は、西山の大仏(おおぼとけ)とも呼ばれ、
像高2.8mもあり圧倒されます。
平安時代後期の作とされ、定朝様式の顔立ちが整った美しい仏様で、
しばらく見とれていました。
阿弥陀如来坐像は、京都府の指定文化財ですが、触れることも許されています。
男性は大仏さまの左膝に、女性は右膝に触れて拝し、
現在の幸運が続くように願う場合は右回りに、不運の好転を願う場合は
左回りに大仏の周囲を回ります。
左右は大仏さま側からです。
十一面観音
阿弥陀如来坐像の右側に、洛西三十三所観音霊場・番外札所の本尊である
十一面観音立像が安置されています。
写真がブレてしまったのが残念です。
法然上人像
左側には、法然上人の木像が安置されています。
御谷神社-鳥居
乗願寺の右奥に御谷神社があります。
御谷神社の創建やその後の変遷の詳細は不明ですが、延長5年(927)にまとめられた
延喜式神名帳に見える「御谷神社」に比定されています。
室町時代の天文23年(1554)に湯河次郎左衛門春信が
本殿を修造した旨を記した棟札が残されています。
安土・桃山時代~江戸時代に、「五社明神」と称し、浄土谷の産土神とされました。
石清水八幡宮・春日大社・稲荷大社・上賀茂神社・下賀茂神社の祭神が
祀られていましたが、明治になって式内社の御谷神社と改められました。
御谷神社
本殿は覆屋に納められています。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・応神天皇・別雷神(わけいかづちのかみ)・
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)が祀られています。
弥勒谷石仏
車道に戻って先に進むと、柳谷通に合流します。
その合流点に弥勒谷十三石仏が祀られ、死者の冥福と極楽往生が祈願されました。
十三仏とは、江戸時代になってから日本で考えられた、追善菩提のために、
初七日から三十三回忌までの十三仏事に当てられた仏のことです。
案内地蔵
向かい側には「案内地蔵」が祀られています。
案内地蔵は柳谷道に沿って数体が祀られています。

柳谷観音へ向かいます。
ここから上り坂が更にきつくなります。
続く

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