2020年03月

山門
鶏冠井かしの木公園からJRの線路をくぐって北側に進んだ先に泉福寺があります。
泉福寺は山号を星水山と号する西山(せいざん)浄土宗の寺院で、
京都洛西観音霊場の第16番札所です。
都が長岡京から平安京へと遷都された延暦13年(794)、第50代・桓武天皇が
平安京へと遷幸(せんこう)の際、雷雨に遭遇して松の木陰で雨宿りをされました。
天皇が観音経を読経すると雨が上がり、天皇はその松で不空検索観世音菩薩を刻み、
一宇を建て奉安されたことが泉福寺の始まりとされています。
現在地より北西の春日井に創建されたのですが、昭和33年(1958)に
国鉄の向日町操車場建設に伴い、現在地に移転しました。
かっては真言宗の寺院でしたが、江戸時代の元禄14年(1701)に妙蔵によって復興され、
光明寺末となって浄土宗に改宗されました。
手水鉢
手水鉢には元禄13年(1700)と刻まれていますので、
この頃から復興が始まったのかもしれません。
本堂
本堂
参拝した時は掃除中でした。
本尊は不空検索観世音菩薩ですが、室町時代の作です。
額にもう一つの眼を持つことから「三つ目観音」と呼ばれています。
童地蔵
住職が不在の時は缶の中の御朱印で代用するようです。

余談ですが今日、3月31日で加悦SL広場が閉館されます。
貴重な機関車などが多数展示されていたのですが、
解体されることの無いように祈っています。

西国街道まで戻り、宝菩提院跡から桓武天皇皇后陵、寺戸大塚古墳、
物集女(もずめ)車塚古墳などを巡ります。
続く

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山門
内裏公園の東側に北真経寺があります。
北真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。
北真経寺は、鎌倉時代の徳治2年(1307)、真言宗であった真言寺の住職、
実賢(じっけん)が、日蓮の孫弟子である日像(にちぞう)に帰依し、
日蓮宗に改宗しました。
寺号の真経寺は、真言宗の「真」と日像の幼名である経一丸の「経」から
採られました。
江戸時代の承応3年(1654)、真経寺を南北に分けて、
北真経寺に鶏冠井檀林(かいでだんりん)を開いて僧侶の学問所とし、
南真経寺は村民の信仰の場となりました。
鶏冠井檀林には、講堂を囲むように、9棟の寮が建設され、
数十人~百人以上もの学僧が集い、多くの指導者も育ちました。
経典の収集や出版事業なども行われ、方丈には、三千冊を超える書物が
保管されていました。
しかし、明治8年(1875)檀林は廃止され、寮などの建物は破却されました。
南門
南門
北真経寺は長岡宮の内裏の跡地に建立されたと考えられています。
平安京の内裏には紫宸殿仁壽殿(じじゅでん)、承香殿(じょうきょうでん)が
南北に連なり、その北側の左右に弘徽殿(こきでん)と麗景殿(れいけいでん)、
その中間奥に常寧殿(じょうねいでん)などがありました。
長岡京で内裏内に建立されていた建物数は不明ですが、北真経寺の南門から
少し南側を中心に160m四方の広さがあったと推定されています。
残念なことに周囲は住宅街で、内裏内の発掘調査は当面不可能と思われます。
北門
北門は、近年復興されました。
北真経寺には、釈迦が出家する因縁となった「苦・集・滅・道」の四諦(したい)を
示す東西南北に四門が建設されていましたが、 現在は東門は失われています。
四諦(したい)とは、「仏教の根本教理を示す語で、「苦」は生・老・病・死の苦しみ、
「集」は苦の原因である迷いの心の集積、「滅」は苦集を取り去った悟りの境地、
「道」は悟りの境地に達する修行。」と解説されています。
本堂
現在の本堂は江戸時代当時の講堂で、京都府の登録文化財です。
本尊は一塔両尊四士で、題目を大書した宝塔の左側に釈迦牟尼仏、
右側に多宝如来が奉安されています。
方丈
本堂奥の方丈には、「深玄窟」の扁額が掲げられています。
妙見堂
妙見堂には妙見大菩薩が祀られています。
日蓮宗の檀越であった下総の豪族・千葉氏が妙見菩薩を守護神としていたことから、
日蓮宗の寺院では妙見菩薩が祀られるようになったとされています。
鐘楼
鐘楼
経蔵
経堂
春日神社
春日神社
かしの木公園
北真経寺から直線で北東約150mの場所に鶏冠井かしの木公園があります。
春宮坊
この公園の付近に春宮坊(とうぐうぼう)と安殿親王(あてしんのう=
後の第51代・平城天皇)の住居(東宮)があったと推定されています。
平成8~9年(1996~7)に発掘調査が行われ、宮城の東端を区画する
南北方向の溝(東一坊大路西側溝)が発見されました。
溝の中からは木簡、墨書土器、漆紙文書などの文字資料や
土器類など多量の遺物が出土しました。
文字資料から長岡京廃都時に春宮坊から捨てられたことが判明しました。
春宮坊は、皇太子の政務や日常生活を支えた役所であることから、
東宮もこの付近にあったと推定されています。
DD-51
DD-51
公園の東側は東海道本線が通り、その東側に向日町操車場があります。
287系
287系

泉福寺へ向かいます。
続く

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大極殿信号
南真経寺から東へ進むと「大極殿」の信号があります。
大極殿公園
信号を左折し、その先で左折した先に大極殿公園があり、
「史跡・長岡京跡」の碑が建っています。
大極殿公園-図面
公園の図面です。
大極殿跡-宝幢
公園の右側に宝幢(ほうどう)を立てた柱が復元されています。
宝幢とは「宝珠で飾った幢(はた)」の意味で、元旦に朝賀の儀式が行われた際に
大極殿に7本の宝幢が立てられました。
宝幢とは、古代中国伝来の儀式用旗飾りで、長さ9mの大柱の上に、
青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の絵と、鳥、月、日の飾り物が掲げられました。
大極殿跡-宝幢の図
宝幢は、大極殿の前約百尺(29.6m)の位置に、東西方向に3mごとに並んでいて、
平成9年(1997)の発掘調査では東側3本の柱の掘跡が見つかり、
その内の2基が再現されています。
大極殿跡
北側へ進むと大極殿跡があり、その中心部分を道路が横断しています。
平城宮跡に復元されている大極殿と比べると、
規模がかなり縮小されているように感じます。
東西42.8m、南北21.6mであったと推定される基壇がコンクリートで復元されています。
大極殿跡-模型
向日市文化資料館に展示されている模型の大極殿部分です。
大極殿跡-石碑
大極殿跡の手前右側には石碑が建立されています。
神亀3年(726)、第45代・聖武天皇は難波京の造営に着手されましたが、
天平12年(740)に恭仁京へ遷都しました。
しかし、都として完成しないまま造営は中止され、
天平15年(743)に天皇は紫香楽宮に移りました。
翌天平16年(744)には難波京へ遷都し、
更に天平17年(745)に都は平城京に戻されました。
大極殿跡-石碑-2
第50代・桓武天皇は南都寺院の影響力を排除するため、
延暦3年(784)に長岡京へ遷都しました。
長岡京の造宮使には藤原種継(ふじわら の たねつぐ)が任命され、
当時山背を開拓していた種継の母の実家・秦氏の協力を得て長岡京が造営されました。
大極殿や朝堂院は難波宮が解体され、移築されました。
しかし、翌延暦4年(785)に種継が暗殺され、暗殺に関わったとして皇太弟だった
早良親王(さわらしんのう)が淡路国への流罪に処せられました。
親王は無実を訴えて断食し、配流先へ向かう途中で憤死しました。
その後、皇太子には安殿親王(あてしんのう=後の第51代・平城天皇)が
立てられましたが疫病が発生して発病し、天皇の妃が相次いで病死しました。
早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われましたが
その後も洪水が発生し、延暦13年(794)10月22日に
都は平安京に遷されることになりました。
大極殿跡-石碑-3
平成天皇・皇后の行幸記念碑。
後殿跡の石碑
後殿跡
ここに後殿(こうでん)がありました。
復元された基壇は東西27.9m、南北12.8mの大きさがあり、
大極殿より一段低い場所にあります。
平安京では「小安殿(しょうあんでん)」と呼ばれ、長岡京では内裏が独立して
離れていたため、天皇が大極殿に昇殿される際、控えの間として使用されていたようです。
奥に見える民家の辺りに内裏からの回廊があったと思われます。
十三重石塔
大極殿跡-礎石
西側には十三重石塔が建ち、発掘された礎石だったと推定される一部が保存されています。
大極殿跡-回廊跡
大極殿を囲む回廊跡の一部です。
大極殿跡-東屋
回廊を模したと思われる東屋。
朝堂院公園
「大極殿」の信号を南へ進んだ阪急「西向日」駅の手前に朝堂院公園があり、
朝堂院西第四堂の跡地となっています。
朝堂院会昌門跡碑
公園の向かい、民家の生垣の間に「長岡宮朝堂院会昌(かいしょう)門跡」の
石碑が建っています。
中山修一氏は昭和29年(1954)に長岡京の発掘調査に初めて着手し、
翌年に朝堂院南門(ちょうどういん・なんもん)跡を発見しました。
長岡京跡の発掘調査はここから始まりました。
「会昌門」は平安京での名称で、長岡宮では「朝堂院南門」と称されています。
翔鸞楼跡
公園内には翔鸞楼(しょうらんろう)跡と朝堂院西第四堂跡
及び南門の西橋の礎石部が残されています。
南門及び翔鸞楼などの図面
翔鸞楼は南門の前に建ち、東の栖鳳楼(せいほうろう)と対を成していましたが、
栖鳳楼は阪急の線路からその横の車道上になります。
南門及び翔鸞楼などの模型
公園内の案内書には南大門から翔鸞楼及び栖鳳楼への模型が展示されています。
翔鸞楼への回廊跡
公園内には手前の南門跡から翔鸞楼への回廊跡が残されています。
朝堂院西第四堂跡
朝堂院西第四堂跡
朝堂院配置模型
朝堂院は政務や国儀を司り、閤門(こうもん)から左右に、南北方向に四棟が並び、
他の三堂に対し、四堂のみが東西に長い建物になっています。
大極殿及び朝堂院の模型
向日市文化資料館には朝堂院と大極殿の模型が展示されていますが、
現在はその跡地の多くに住宅が建ち並び、公園として飛び飛びに跡地が残されています。
但し、模型には翔鸞楼と栖鳳楼が省かれています。
朝堂院東第四堂跡
「大極殿」の信号まで戻り、阪急の踏切を渡って線路沿いに南へ進んだ所に
西向日公園があり、朝堂院東第四堂跡とされていますが、
中央を線路が横切っていますので、西第四堂跡のように整備はされていません。
向日社芝斎場
西向日公園から「大極殿」の信号がある番田通を横断して
北上した所に向日社芝斎場があります。
斎場とは、葬儀が行われる所と思っていましたが、辞書で調べてみると
「神仏を祭るために、特別に設けられた清浄な場所。」の意味もありました。

ここは、5月の第二日曜日に行われる、向日神社の例大祭で神輿巡幸の際に、
鶏冠井(かいで)地区の宮座の方が奉献をする所だそうです。
呑龍トンネル石碑

左側に「いろは呑龍(どんりゅう)トンネル記念碑」の石碑が建っています。
長岡京が造営された昔から、桂川右岸地域は、小畑川、小泉川、桂川の
氾濫に苦しめられてきました。
京都府は、京都市、向日市、長岡京市にまたがる1,838haの区域の浸水対策として、
雨水が流入して増水した川から水を取り込んで貯留するための延長8.8km、
容量約250,000立方メートルの地下トンネル(いろは呑龍トンネル)を作る計画を
策定しました。
計画の若干の変更はありましたが、平成13年(2001)6月1日供用開始が行われ、
この記念碑が建てられたと思われます。
内裏公園
向日社芝斎場の北側に内裏公園があり、内裏内郭築地回廊跡があります。
築地回廊(ついじかいろう)とは、中央に土塀を設けて両側に廊下を通したもので、
昭和41年(1966)に宅地開発の際に発掘されました。
かがり火を焚いた跡や、詰め所のような施設も発見され、重要な施設を厳重に
警護するために造られた廊下と考えられました。
地図的にはこの先でこの先で左折すれば、大極殿裏側の後殿へと直結するように思えます。
そして、昭和44年(1969)には、天皇の住居であった内裏正殿の遺構が確認されました。
この地は、大極殿から東へ200m離れた所にあり、これまでの発掘調査から、
長岡京の内裏は、北真経寺の少し南側を中心に160m四方の広さから
なっていたことが推察されています。

北真経寺へ向かいます。
続く

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山門
石塔寺から五辻まで戻り、五辻から東へ進んだ北側に南真経寺があります。
南真経寺は山号を鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院です。
関西最初の碑
山門前には「日蓮宗関西最初弘教之地」の石碑が建立されています。
徳治2年(1307)頃、日像は乙訓郡山崎付近にとどまり、布教活動をを行っていました。
当時、鶏冠井(かいで)には「真言寺」と称する真言宗の寺院がありました。
住僧・実賢(しっけん)は日像の教化により日蓮宗に改宗し、
寺名を「真経寺」に改めました。
「真」は真言宗から、「経」は日像の幼名「経一丸」によります。
江戸時代の承応3年(1654)、真経寺は二つに分かれ、北真経寺は檀林(仏教の学問所)、
南真経寺は鶏冠井村の村民の信仰の場となりました。
京都府無形民俗文化財に指定されている「鶏冠井題目踊」は真経寺で始まり、
北と南に分かれてからは交互に奉納されるようになりました。
その後、廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
開山堂
山門をくぐった正面にあるのは本堂ではなく開山堂です。
開山堂は京都府指定有形文化財で、寛永11年(1634)に建立されました。
開山堂-扁額
開山堂に掲げられた扁額「真経寺」は本阿弥光悦の筆によるものです。
本堂
本堂は京都府指定有形文化財で、正徳4年(1714)に再建されました。
本尊は十界曼荼羅です。
南真経寺は寛永年間(1624~1644)に、明治8年(1875)に廃寺となった
興隆寺の一角に移転したとされ、南真経寺には本堂がありませんでした。
現在の本堂はかっては「境智堂」と呼ばれていました。
日蓮像
日蓮聖人像
日蓮聖人は文応元年(1260)に『立正安国論』を執筆し、
鎌倉幕府第五代執権・北条時頼に提出しました。
浄土宗など他の宗派は邪宗とし、このまま放置すれば国内で内乱が起こり(自界叛逆難)、
外国からは侵略を受けて滅びる(他国侵逼難)と唱え、正法である法華経を中心
(「立正」)とすれば国家も国民も安泰となる(「安国」)と説きました。
禅宗の信者だった時頼は、日蓮聖人を伊豆国への流罪と処しました。
鐘楼
鐘楼は元禄12年(1699)に再建されました。
庫裏の門
庫裏への門
庫裏
庫裏
西門
西門
西門前の題目石塔には「寛永6年(1629)」と刻まれています。

大極殿公園へ向かいます。
続く

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説法石
向日神社前に説法石があります。
日蓮宗の開祖・日蓮聖人の孫弟子にあたる日像は、
布教のため永仁2年(1294)に京都へ訪れました。
他の宗派からの迫害を受け、度々京都から追放されました。
西へと向かう道中で、向日神社に立ち寄り、この説法石に腰を下ろして
村人に日蓮聖人の教えを説いたと伝わります。
題目石塔
また、日像はこの地に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔を建てました。
五辻
向日神社から南へ進むと五辻の交差点があります。
平成24年(2012)、五辻に常夜灯が復活されました。
五辻の常夜灯は慶応元年(1865)に楊谷寺(柳谷観音)へ参拝する講の一つである
京都の千眼講によって建てられた石灯籠です。
江戸時代の終わり頃からは、眼病によく効く水があることで
楊谷寺へ参詣する人が増えていきました。
京都から向かう「柳谷道」の起点となるこの地に
一対の大きな石灯籠が建てられました。
当時、この地は、向日神社の境内地でしたので、
その過程が神社の古文書に残されていました。
昭和初期の新道建設時に、南側に有った1基は移設され現在は長岡京市梅が丘に、
北側の1基も昭和44年(1969)頃の歩道工事の時に楊谷寺の表参道にある
大阪府島本町と長岡京市の境付近に移設されました。
山門
五辻から細くはなりますが、直進するのが西国街道で、
南へ進んだ東側に石塔寺があります。
石塔寺は山号を法性山と号する本化日蓮宗本山の単立寺院です。
鎌倉時代末の延慶3年(1310)に、日像は京都の七口に題目石塔の建立を目指し、
向日神社前に題目石塔を建立しました。
室町時代の文明年中(1469~87)に、日成は向日神社にあった題目石塔を現在地に移し、
石塔の傍らに本堂を建立したのが石塔寺の始まりとされています。
現在は山門前に題目石塔が残されています。
江戸時代の寛文年間(1661~72)には独立本山に成長し、
末寺は近畿一円に総数33ヶ寺に達しました。
明治9年(1876)、興隆寺を吸収合併し、翌年に本堂など伽藍の整備が行われました。
付近には石塔寺にちなんだ地名が残されていることから、
伽藍の壮大さをうかがうことができます。
また、この付近は、長岡京の時代に藤原種継が暗殺された場所や、
平安時代に紀貫之が京に入る前に休息した「島坂」など
歴史が偲ばれる場所でもあります。
日像菩薩御石像
寺号標石の裏側に「日像菩薩御石像」と刻まれた石碑が建っています。
日像は文永6年(1269)に下総(現在の千葉県)で生まれ、7歳の時に出家し、
日蓮聖人の六大弟子であった兄・日朗の弟子となりました。
25歳の時、日蓮聖人から「帝都弘通(京都の布教)、宗義天奏(天皇への布教)」の
遺命を託され、京都での布教活動を行いました。
しかし、他の宗派からの迫害を受け、三度の追放と赦免という
「三黜三赦(さんちつさんしや)の法難」を受けました。
三度目の京都追放から赦免された後、弘通の勅許を得、妙顕寺を開きました。
建武元年(1334)、妙顕寺は後醍醐天皇の勅願寺となり、足利将軍家の祈祷所にもなりました。
興国3年/康永元年(1342)に入滅され、深草の宝塔寺で荼毘に付され葬られました。
没後、日蓮聖人、日朗上人、日像上人は天皇から菩薩号を賜わりました。

石塔寺では、毎年5月3日に「鶏冠井題目踊」が奉納されます。
日蓮宗に改宗した鶏冠木(かいで)の村人の家に日像が立ち寄った時、炊事場の湯気に
「南無妙法蓮華経」の題目が浮かび、それを見た村人が歓喜のあまり踊りだしたのが
「鶏冠井題目踊」の始まりとされています。
当初は、北真経寺と南真経寺で交互に奉納されていたのですが、
廃絶の危機に陥り、「鶏冠井題目踊り保存会」が結成され、
石塔寺で奉納されるようになりました。
鶏冠井題目踊は京都府無形民俗文化財に指定されています。
松の切り株
本堂前の松の木は伐採されていました。
伐採前の松
伐採前の松。
枯れてしまったのかもしれません。
本堂
本堂は鉄筋コンクリート造りです。
本尊は三宝尊で、仏の第一を釈迦如来、法の第一を法華宗、僧の第一を日蓮聖人とし、
仏・法・僧の三宝の各第一を一つの本尊にまとめたものが三宝尊とされています。
妙見堂
妙見菩薩が祀られた妙見堂だと思われます。
日蓮宗の檀越であった下総の豪族・千葉氏が妙見菩薩を守護神としていたことから、
日蓮宗の寺院妙見菩薩が祀られるようになったとされています。
七面堂と迹殿
手前の七面堂には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が祀られていると思われます。
七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ
日蓮宗系において法華経を守護する女神とされています。
その本地は、山梨県の七面山山頂にある敬慎院に祀られている神で、
吉祥天とも弁財天ともいわれています。

身延に隠棲していた日蓮聖人は、説法をしていた時に美しい女性に気付きました。
実はその正体は紅龍で、「私は七面山に住む七面大明神です。
身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。
末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き
心の安らぎと満足を与えます」と述べ、七面山山頂の方へと飛び去りました。
日蓮聖人は、「いつか七面山に登って七面大明神をお祀りしよう」と考えていたのですが、
生きている間に叶わず、弟子の日朗と南部實長(なんぶさねなが)が登山して、
七面大明神を勧請し、身延山久遠寺の守護神としたと伝わります。

奥の迹殿(じゃくでん)の詳細は不明ですが、
石塔寺に合併された興隆寺と関係があるようです。
鐘楼
鐘楼
庫裏
庫裏

南真経寺へ向かいます。
続く

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