2020年03月

大鳥居
向日神社は角宮神社から東へバイクで約5分走った所にあります。
向日神社の祭神・御歳神(みとしのかみ)は、大歳神社の祭神・大歳神の御子神で、
『金蔵寺略縁起』によると、金蔵寺の「産の滝」付近で生まれたとされています。
御歳神は峰に登って「向日山」と名付け、田作りを推奨して永く鎮座し、
やがて、向神(むかひのかみ)神と呼ばれるようになりました。
この伝承により向神社が創建されたと伝わります。

後になって、初代・神武天皇が大和国橿原より山背国に行幸された際、
神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神
(ほのいかづちのおおかみ)を祀られ、火雷神社が創建されました。
この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社、
火雷神社は下ノ社と呼ばれていました。
上ノ社は、五穀豊穣の神として、下ノ社は、祈雨・鎮火の神として信仰を集めました。
奈良時代の養老2年(718)、六人部氏(むとべし)が当地を賜り、
上ノ社の社殿が改築され、新殿遷座の際、玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、
神武天皇が合祀されました。
鎌倉時代の建治元年(1275)、下ノ社が荒廃したことにより火雷大神は、
上ノ社に合祀され、以降四神が祀られていましたが、
明治16年(1883)に火雷大神の御神体が下ノ社へ遷されました。
大鳥居-神額
鳥居には「正一位 向日大明神」の神額が掲げられています。
正一位は神階の最高位で、平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式』
「神名帳」では向神社は小社、火雷神社は名神大社に列せられています。
社家
鳥居をくぐると社家・六人部氏の邸宅があります。
当主の六人部是継は95代目に当たるそうです。
六人部家は代々下社の宮司を務めていましたが、鎌倉時代の承久3年(1221)の
承久の乱では朝廷側に味方したことから下社は焼かれ、
六人部氏は丹波へ逃れました。
その後、復帰し上社の宮司に就きました。
さだれ石-1
邸宅前のさだれ石は、岐阜県揖斐川町春日の山中から掘り出されたもので、
春日のさざれ石には、「君が代」の由来となったものがあります。
さだれ石-2
さざれ石とは、もともと小さな石の意味でしが、石灰岩が雨水で溶解して生じた、
粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、
石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできたものです。
参道
参道には、御影石が敷きつめられ、緩やかな上り坂が約200m続いています。
向日神社は、南北に延びる丘陵の南端にあります。
この丘陵は、古来より「長岡」と呼ばれ、
長岡京は、この丘陵に由来して名付けられたと推察されます。
参道の両側は、春は桜、秋は紅葉を楽しむことができますが、
参道を登った所に駐車場があるため、自動車も通ります。
勝山稲荷神社-鳥居
参道の右側に勝山稲荷社があります。
勝山は豊臣秀吉が鳥居の前で休憩した時、鎮守の森の名を聞かれ、
村人の団兵衛が名も無い森を「勝山」と答えたことに由来するとされています。
秀吉は朝鮮出兵を前に「勝山」は縁起が良いと団兵衛に褒美を与えたと伝わります。
勝山稲荷神社-拝殿
勝山稲荷神社-拝殿
勝山稲荷神社-本殿-1
勝山稲荷神社-本殿
勝山稲荷神社-本殿
勝山稲荷社は、江戸時代の正徳元年(1711)に創建され、
拝殿と本殿は国の登録文化財となっています。
元稲荷神社
勝山稲荷神社の奥には元稲荷神社があります。
「向日社年表」の天保3年(1832)の項に「稲荷社新造立」とあり、
背後の元稲荷古墳の場所に建立されたと推定され、
明治20年(1887)に現在地に遷されました。
元稲荷神社-狐像
元稲荷神社には、多数の小さな狐像が奉納されています。
元稲荷神社-鳥居
元稲荷神社-鳥居
手水舎-2
手水舎は国の登録有形文化財で、江戸時代中期に建立されました。
天神社
天満宮社は国の登録有形文化財で、江戸時代の天保4年(1833)に建立されました。
菅原道真・大歳神・屋船神(やふねかみ)が祀られています。
屋船神は家屋を守る神とされています。
舞楽殿
舞楽殿は、江戸時代の寛永2年(1625)に建立されましたが、2002年に焼失し、
翌年再建されました。
4月の桜まつり、7月の星空コンサート、9月の観月の夕べなどの催し物が行われています。
本殿
本殿
本殿は、室町時代の応永29年(1422)に村の鎮守社として向日市域内外の
七ヶ村の共同事業として四年の歳月を費やし建立されました。
本殿は覆屋の中に納められ、幣殿・拝殿と連結して
権現造りのような一連の建物を呈しています。
明治神宮本殿のモデルとなり、向日神社の本殿を基に
1.5倍して設計されたと伝わります。

中世、向日神社周辺は西岡(にしのおか)と呼ばれていました。
西岡の村々には、地域の指導者である武士「国衆」がおり、西岡の国衆は
「西岡衆(にしのおかしゅう)」と呼ばれていました。
室町時代に入ると、債務の破棄などを要求する一揆が起こるようになり、
向日神社は西岡衆の集結場となりました。
文明17年(1485)、「山城国一揆」が起こると、それに呼応するように
西岡衆も文明19年(1487)、「乙訓一揆」を起こしました。
しかし、天正3年(1575)、西岡衆は、織田信長軍に敗れ、
西岡衆が治めていた一帯は、信長の家臣、細川藤孝の支配地となりました。
安土桃山時代の天正19年(1591)、豊臣秀吉は、朝鮮出兵に向けて
西国街道を拡幅し、大軍勢が通った西国街道は江戸時代を通じて
「唐街道」と呼ばれ、参勤交代の大名行列をはじめ、
旅や商いをする人々で賑わいました。
江戸時代の文政13年(1830)に発生した京都大地震で本殿も損傷を受けました。
天保13年(1842)、本殿は現在地に遷されて西国街道に向けて建ち、
本殿覆屋と幣殿・拝殿が建立され、現在の姿となりました。
本殿は、重要文化財に指定され、本殿覆屋と幣拝殿は、
国の有形文化財に登録されています。
祖霊社
祖霊社は、江戸時代の元禄元年(1688)に、元は祈祷所として建立されました。
祖霊社-渡廊
渡廊は、幣拝殿が建立されてから架けられたと思われますが、
祖霊社本殿と共に国の有形文化財に登録されています。
五社神社
五社神社は、祖霊社の東側に南に面して建っています。
覆屋の中に右から春日社・加茂社・三嶋鴨社・石神社・岡松社が祀られています。
国の登録有形文化財で、江戸時代末期に建立されました。
春日社-1
祖霊社の渡廊をくぐった先に春日神社があります。
春日社-2
近村にあった社が明治18年(1878)に当地に遷されました。
国の登録有形文化財で、覆屋内に納められています。
沓石
本殿の裏側に大鳥居の沓石が保存されています。
平成30年(2018)の「向日神社御鎮座1300年祭」の奉祝事業で、
約200年前に建立された大鳥居の解体修理が行われ、地下2mから出土しました。
鶏冠木の苑
かっての本殿は、現在の本殿の裏側に、現在の本殿の東向きに対し、
南向きに建てられていました。
本殿跡は「鶏冠木の苑(かえるでのその)」と名付けられ、
平成17年(2005)に石舞台が設置されて神苑に戻されました。
「鶏冠木」とは楓の古名で、楓の葉がカエルの手やニワトリの
鶏冠(とさか)に似ていることから付けられたそうです。
戦前まで土俵がありましたが、以後は樹木が鬱蒼と茂り、樹木が切り払われて
石舞台が設置されると狂言が演じられていたそうですが、
現在も続けられているかは不明です。
勝山神変大菩薩
役行者
鶏冠木の苑の北側、小高い丘の岩で囲われた窟の中に
役行者(えんのぎょうじゃ)尊像が祀られています。
この石像は安永6年(1777)に物集女(もづめ)村で造られ、
鎮座されていたものを昭和25年(1950)にこの地に遷され、
「勝山神変大菩薩」と改称され祀られるようになりました。
神変大菩薩とは、寛政11年(1799)に、朝廷から役行者に対して
贈られた諡号(しごう)です。
不動明王
窟に積まれた石組みの上に、勝山身代不動明王が祀られています。
影向石
背後には御神木が聳え、不動明王の横のには注連縄が巻かれた岩が鎮座しています。
向日神社の原点ともいえる、向日神が影向(ようごう)されたと伝わる神域の中心地です。
護摩壇跡
護摩壇跡
かっては護摩が焚かれていました。
背後の白い建物は、現在はボーイスカウトの施設として使用されていますが、
かっては行者の控室でした。
白雲龍神
白雲龍神・白玉弁財天女が祀られています。
増井神社への鳥居
石舞台から奥に進むと鳥居が建っています。
鳥居には、「奉寄進 増井神社・天保4年(1833) 浪速北浜 加嶋屋藤十郎 
大西茂興」と刻まれているそうですが、現在では判読が難しくなっています。
増井神社-1
鳥居をくぐり石段を下ると増井神社があります。
増井神社-3
増井神社の御神体は、社殿の奥にある井戸で、
火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)の荒魂が祀られています。
火雷大神は、下ノ社と呼ばれた火雷神社の祭神でした。
下ノ社が荒廃したことにより、上ノ社である現在の向日神社に
合祀されていたのですが、文明16年(1484)に角宮神社(すみのみやじんじゃ)が
再建されました。
角宮神社が下ノ社だったのか?諸説がありますが、明治16年(1883)に
火雷大神の御神体は、向日神社から角宮神社へと遷されました。
増井神社の社殿は、平成の御大典の際に再興され、向日八大龍王が合祀されました。
井戸の覆屋も併せて建立されました。
増井神社-2
井戸から湧き出る水は神水とされ、この井戸には、
150年前に浪速の国で起こった火事にまつわる伝承があります。
火は強風にあおられ、どんどん拡がりました。
古老が夢まくらに神のお告げを聞きました。
「西の岡、向日神社に霊験あらたかな井戸がある。
その水をかけると火事はたちまちにして消える」
井戸へ向かい、急いで水を持ち帰り、燃えさかる火に振りかけたところ、
たちまち、火は衰え、ついに消えたそうです。

また、金蔵寺の「御香泉」とつながりがあり、
「御香泉」が濁るとこの井戸の水も濁ると伝わります。
禊場-1
増井神社向かいに六角形の建物があります。
禊場-2
建物の中には井戸跡があり、かって行者が禊を行っていました。
増井神社-石段
下ってきた石段を戻ります。
向日大明神
本殿の南側に向日大明神(右)と秀九大明神が祀られています。
御霊社-1
御霊社
御霊社-2
もとは物集女村(現在の向日市物集女町)で祀られていましたが、
明治10年(1977)に現在地に遷されました。
社殿は江戸時代中期に建立されたとみられていますが、
移築に際して部材の取替えがあったようですが、
社殿は国の登録有形文化財にです。
客殿
客殿は国の登録有形文化財で、昭和40年(1969)前後に大阪府島本町にあった、
昭和の戦前に建てられたと考えられている青年研修施設を移築したものです。
国の有形文化財に登録されています。
乙訓剣道場
乙訓剣道場
100年の歴史ある地元・向陽小学校の校舎の材料を利用して建築されました。
乙訓剣道の碑
「乙訓剣道 発祥の地」と刻まれた石碑が建っています。
向日市天文台
向日市天文館は平成5年(1993)7月に開館されました。
毎週月・火曜日と祝日及び年末年始が休館日で、
以外は午前9時30分~午後5時30分まで開館されています。
特別な催し以外は展示室は無料で、プラネタリウム観覧料は200円です。
北山遺跡
天文館の裏側に北山遺跡の案内板が建っています。
平成3年(1991)、天文館建設に伴う発掘調査で弥生時代中期の集落跡がみつかりました。
住居の柱穴や土器・石器、方形周溝墓、古墳時代の耳環などが発掘され、
標高54mの丘陵に集落が存在していたことが確認されました。
崖
境内の南端は急峻な崖になっています。
市内から長岡京市まで展望が開けていることから神社の標高が分ります。
社務所
社務所の奥から境内の北側へ向かいます。
北の鳥居
境内の北側にも参道があり、鳥居が建っています。
桜ミュージアム
鳥居をくぐった先の緩やかな約800mの坂道は「桜ミュージアム」と名付けられ、
様々な種類の桜が植えられています。
昭和9年(1934)から昭和36年(1961)までの26年間、
この地に日本一といわれる桜の園がありました。
水上勉の小説『桜守』のモデルとなった笹部新太郎(1888~1979)は、
私財を使い日本古来の桜の保存とソメイヨシノに代わる
桜の品種改良に生涯をかけました。
この丘陵、約3,000坪を開いて山桜の苗木数千本を植栽し、「桜の園」を
築いたのですが、昭和36年(1961)に名神高速道路建設用の
土砂採取地に買い上げられ、消滅しました。
桜の園復興の機運が高まり、平成25年(2013)に山桜80本と荘川桜など
笹部氏ゆかりの桜20種80本が植栽されました。
勝山緑地
参道に戻り、参道の西側は勝山緑地です。
高速道路の土砂採取が行われた頃、鎮守の森も荒廃したそうです。
竹や笹が侵入し、雑木が茂った暗い森へと化し、それを嘆いた地元の人々の
尽力と当時の向日町の協力があり、鎮守の森が復興されました。
勝山公園
参道の東側は勝山公園です。
昭和42年(1967)頃、宅地の開発計画がもちあがり、
当時の向日町が買い上げて勝山公園を開園しました。
古墳-1
公園内には、元稲荷古墳があり、古墳と鎮守の森が維持されるようになりました。
元稲荷古墳は、3世紀後半に築造された前方後方墳で、乙訓地域で最古、
国内でも最古級の古墳です。
「向日社年表」の天保3年(1832)の項に「稲荷社新造立」とあり、
現在の元稲荷古墳の場所に建立されたと推定されています。
明治20年(1887)に稲荷社は参道北側の現在地に移転されたことから、
稲荷社があった元の場所は、「元稲荷」と呼ばれるようになり、
古墳は「元稲荷古墳」と名付けられました。

邪馬台国の女王卑弥呼の墓ともされる奈良県桜井市の箸墓古墳や、
奈良県天理市にある大和政権の大王墓とされる西殿塚古墳
相似形で築造されています。
このことから、被葬者は力を持った人物で、大和の大王家と密接な関係があったと
推定されています。
前方部の長さは約42mで、前方部の形が、西殿塚古墳とそっくりだったことが
確認され、箸墓と西殿塚の双方をモデルとして造られたのだろうと
推定されています。

古墳の大きさは、全長94m、後方部は一辺52m・高さ7m、
前方部は幅46m・高さ3mで、二段築成になっています。
墳丘の斜面に貼られた葺石は、偏平なタイル状のもので、
弥生時代の終わりごろの墓の「貼り石」によく似たものでした。
後方部の中央には、竪穴式石室があり、大半が中世に盗掘されていましたが、
鉄製武器(銅鏃=どうぞく・刀・剣・鏃・鎗・矛・石突)や鉄製工具(斧・錐)、
土師器の壷が出土しました。
また、前方部の墳丘中央には、南北約2m、東西約4mの範囲で埴輪が
樹立していた部分があり、この埴輪は、円筒埴輪と壷型埴輪のセットで、
弥生時代の墓に供えた土器を模して作られた古い形の埴輪であることが
分かりました。
古墳-2
古墳の最上部に向日市の水道設備が建設されています。
昭和34年(1959)、急増した住民の水道需要に対応するため、当時の向日町は、
元稲荷古墳の後方部に配水池を建設することを決定しました。
翌年、建設工事にさきがけ発掘調査が行われ、土地を買い上げた昭和45年(1970)にも
発掘調査が行われて貴重な遺跡であったことが判明しました。
古墳蓋石
古墳蓋石-解説
向日市文化資料館の前には元稲荷古墳の発掘調査で出土した
石室の天井石が展示されています。

石塔寺へ向かいます。
続く

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鳥居
角宮神社は乙訓坐火雷神社(おとくにいますほのいかづちのかみやしろ)、
略して「乙訓社」とも呼ばれています。
角宮神社は向日明神が金蔵寺の「産の滝」から三本の矢を放ち、
そのうちの一本が落ちた現在地より西約500mの宮内に創建されたと伝わります。
角宮神社の初見は『続日本紀』の大宝2年(702)の条で、
「祈雨神として山背国乙訓郡に在る
火雷神(ほのいかづちのかみ)」との記載があります。
平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式』「神名帳」の
名神大社・乙訓坐大雷神社の論社となっています。
かっては、向日神社は上ノ社(上社)、角宮神社は下ノ社(下社)と称されていました。
但し、下社は角宮神社か向日神社の下社(増井神社)を指すのかは
未だに議論が分かれています。

延暦3年(784)11月11日の長岡京遷都にともない、乙訓社は賀茂上下社、
松尾社とともに従五位下に叙せられました。
しかし、鎌倉時代の承久3年(1221)の承久の乱では朝廷側に味方したことから、
幕府軍によって焼き討ちにされ、長らく復興が許されませんでした。
そのため、角宮神社の神宝や古文書などは上社に預けられました。
室町時代の文明16年(1484)になって、ようやく現在地に再興され、
井ノ内の産土神とされました。
明治16年(1883)になって御神体が向日神社より遷されました。
拝殿
拝殿
拝殿前の石灯籠には「乙訓大明神社」と刻まれています。
覆屋
本殿は覆屋内に納められています。
本殿
左側には火雷神(ほのいかづちのかみ)を主祭神とし、
玉依姫命(たまよりひめのみこと)・建角身命(たけつぬみのみこと)・
活目入彦五十狹茅尊(いくめいりびこいさちのすめらみこと=
第11代・垂仁天皇)が祀られています。
「乙訓坐火雷神」は、『山城国風土記』の賀茂神社縁起で、
賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の子・玉依姫命(たまよりひめのみこと)が、
火雷神(ほのいかづちのかみ)が化身した丹塗矢によって懐妊し、
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)が生まれたと記されています。
賀茂建角身命と玉依姫命は、下鴨神社の主祭神で、
賀茂別雷命は上賀茂神社の主祭神です。

第11代・垂仁天皇(すいにんてんのう在位:BC29~70)が祀られている
詳細は不明ですが、大歳神社に合祀されている石作神と関係があるのかもしれません。
垂仁天皇の皇后・日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が亡くなった際に
石棺を献上したことにより石作大連公(いしづくりおおむらじのきみ)の姓を賜り、
その祖神が石作神です。

右側には春日神(三神)が祀られていますが、春日大社の祭神は
武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・
天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の
四神ですので詳細は不明です。
境内社
本殿の右側には八幡宮とその右側に大神宮・稲荷社・向日神社が祀られています。
神饌所
神饌所(しんせんしょ)は、平成12年(2000)に再建されました。
御神木
右側のクスノキは長岡京市の保存樹木に指定されています。
モニュメント
倒壊した旧鳥居がモニュメントとして保存されています。
笠木を船、桂石を島、栗石を水に見立てて組み立てられています。
この鳥居は江戸時代の宝永5年(1708)に建立されたのですが、
不慮の事故で倒壊しました。
現在の鳥居は平成12年(2000)に再建されました。

向日神社へ向かいます。
続く

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天神池
乙訓寺から北上して光明寺通りを右折し、
その先で天神池に沿うように右折した先に赤根天神社があります。
鳥居
鳥居と石灯籠は江戸時代の宝永6~7年(1709~1710)に、
旧石田家によって寄進されました。
かって、この地には石田家の屋敷があり、赤根天神社は石田家の氏神でした。
椎の木
鳥居の左側の椎の木は幹回り約3.4m、高さ約20mあり、
長岡京市の保存樹木に指定されています。
本殿-覆屋
赤根天神社は石田家の氏神で屋敷内に祀られていましたが、
応仁乱(1467~1477)で焼失しました。
現在の本殿は、江戸時代の正徳3年(1713)の造営と伝わり、
今里地区の鎮守社となりました。
本殿-2
本殿は覆屋内に納められ、
本殿、拝所及び覆屋は長岡京市の文化財に指定されています。
本殿-1
祭神として伊弉諾尊と伊弉冉尊が祀られています。
社務所
社務所
手水舎
手水舎
大神宮
大神宮と天神社
禊場
天神池の向かい側の赤根天神社の領地内に大峰山参拝・禊ぎ場があります。
昭和40年(1965)頃まで今里地区の若衆は、大峰山で修行を行い、
大人への仲間入りをするという風習があったそうです。
この禊ぎ場では、かって清らかな水が湧き出て、
修行成就と道中安全を願って身を清めました。

角宮神社(すみのみやじんじゃ)へ向かいます。
続く

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一文橋
卒台寺から小畑川沿いの道を北上し、今里大通りへ左折して「一文橋」を渡ります。
一文橋は室町時代頃に西国街道に架けられたと伝わります。
下を流れる一級河川の小畑川は暴れ川で何度も洪水により橋が流されたため、
通行人から一文ずつ徴収して橋の架け替えの費用に充てたとされ、
橋の名の由来となりました。
表門
今里大通りを西へ進み、左にコンビニがある点滅信号を北へ進んだ先に乙訓寺があり、
表門の右側に無料駐車場があります。
表門は元禄8年(1695)に建立された四脚門で「赤門」とも称され、
長岡京市の文化財に指定されています。
乙訓寺は山号を大慈山と号する真言宗豊山派の寺院で、
京都洛西観音霊場の第6番札所です。
豊山派総本山の長谷寺から2,000株の牡丹が移植され、「牡丹寺」の別称があります。

寺伝では、推古天皇の勅願によって、聖徳太子が創建したと伝わり、
乙訓地域で現存する最も古い寺院です。
推古天皇11年(603)に創建された太秦の広隆寺と同じ頃に
創建されたと考えられています。
また、寺名の「乙訓」とは約1500年前に葛野郡(かどのぐん)から分離し、
葛野を「兄国」としたことに対し「弟国」とし、それが「乙訓」に転訛したとされています。
河内で即位された第26代・継体天皇は継体天皇12年(518)に都を弟国に遷されたとされ、
その宮跡に乙訓寺が創建されたとする説が有力視されています。

門の脇に建つ「弘法大師ゆかりの寺」の石碑は、弘仁2年(811)に空海が
第52代・嵯峨天皇から当寺の別当に任じられたことによるものです。
稚児大師
門をくぐって参道を進むと、両側に牡丹が植栽されています。
参道の左側に稚児大師が祀られています。
日限地蔵堂
日限地蔵(ひぎりじぞう)堂
日限地蔵堂-堂内
「日を限って祈願すると願いが叶えられる」とされる地蔵菩薩が祀られています。
地蔵の塔
向かいには小さな地蔵像が並ぶ石塔が建立されています。
十三重石塔
正面には十三重石塔が建っています。
早良親王供養塚
十三重石塔の右奥に早良親王(さわらしんのう)の供養塚があります。
早良親王は桓武天皇の実弟で、皇太子でした。
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺されました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁されたのですが、
流罪処分となり淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で亡くなりました。
その後、飢饉や疫病の大流行、桓武天皇の皇后や近親者が相次いで亡くなりました。
延暦11年(792)、陰陽師(おんみょうじ)の占いで早良親王の怨霊によるものとの
結果が下され、親王の御霊を鎮める儀式が行われました。
その直後と2ヵ月後の2度の大雨による川の氾濫で大きな被害を受け、
天皇は延暦13年(794)に平安京に遷都しました。
同年、天皇は現在の上御霊神社の地に早良親王の御霊を祀り、
延暦19年(800)には「崇道天皇」の諡号が贈られました。
延暦24年(805)、親王の遺骸は淡路島から奈良市八島町の崇道天皇陵へ移葬されました。
修行大師像
日限地蔵堂から左側へ進むと修行大師像が祀られています。
鎮守八幡社-1
鎮守八幡社は元禄8年(1695)に建立され、市の文化財に指定されています。
鎮守八幡社-2
享保8年(1723)に修理され、檜皮葺から杮葺(こけらぶき)に変更されました。
明治以降に棧瓦葺(さんかわらぶき)に替えられ、平成の修理で
軒の一部を杮葺にし、その上に銅板で葺かれました。
聖観音菩薩像
聖観音菩薩像
左側の小さな祠の祭神は二社とも不明です。
裏門付近にも二社の祠がありますが、いずれも不明です。
本堂
本堂
現在の本堂は元禄8年(1695)に建立され、市の文化財に指定されています。
かって、大師堂と呼ばれ、本堂内の宮殿(くうでん)に「合体大師像」が安置されています。
合体大師像は乙訓寺の本尊で、体は空海で首から上は八幡大菩薩とされ、
空海が自ら刻んだと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
延暦3年(784)、桓武天皇が長岡京に遷都された際、
京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築されました。
昭和41年(1966)、隣接する長岡第三小学校建設に伴う発掘調査で、
講堂や単独僧坊跡が発掘調査されました。
講堂の規模は東西27m、南北12m、両端には回廊が付くという立派な建物
だったことが裏付けられました。
これらの結果から、1200年前当時の乙訓寺は東西約327m、南北218m、
現在の敷地の6倍もあったことが分かりました。
今、これらの遺跡跡は小学校校庭地下に埋没保存され、説明板が校庭南端にあります。

弘仁2年(811)に空海が別当に任ぜられると乙訓寺は修造され、真言宗に改宗されました。
翌年、興福寺の唯摩会に出席した最澄は帰途、空海を訪ねて乙訓寺で一泊しました。
その後、二人は対立して断絶しました。

寛平9年(897)、第59代・宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、乙訓寺を行宮としました。
堂塔が整備され、寺号は「法皇寺」に改められました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)などで衰微し、更に内紛が発生すると
足利義満は僧兵を追放しました。
寺は南禅寺に与えられ、禅宗に改宗して「法皇禅寺」に改められました。
永禄年間(1558~1569)には織田信長による兵火で焼失し、衰微しました。
江戸時代になって、元禄年間(1688~1704)に桂昌院により再興され、
徳川家の祈願寺となり、中興第一世・隆光は真言宗に改宗し「乙訓寺」に復しました。
三輪明神
本堂の左側には三輪明神が祀られています。
鐘楼
鐘楼は建築年度は不明ですが、市の文化財に指定されています。
梵鐘は戦時供出され、昭和43年(1968)に鋳造されましたが、前の鐘銘を再刻しています。
毘沙門堂
毘沙門堂には平安時代後期作で像高100cmの毘沙門天像が安置されています。
「幽愁の毘沙門天」と呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
特別無料拝観期間は毎年12月31日~1月3日と8月13日~8月16日
及び4月下旬~5月初旬の牡丹祭り期間中で、上記以外は、
予約すれば有料(100円)で参拝できます。
(Tel.075-951-5759)
モチノキ
モチノキは、樹齢400~500年と推定され、根元周囲3.55m、
幹周り2.93m、樹高9mあり、長岡京指定文化財です。
昭和9年(1934)の室戸台風で幹が折れるなどの被害を受けましたが、
関係者の努力で以前の樹勢を取り戻しました。
ミカンの木
ミカンの木
弘法大師は、境内で実ったミカンを、詩を添えて嵯峨天皇に献上されたとする
文献が残されています。
客殿
客殿の屋根はシートで覆われています。
銅板で葺き替えられる予定で、寄進が募られています。
裏門-1
裏門-2-1
裏門は元禄8年(1695)に建立された高麗門で、市の文化財に指定されています。

赤根天神社へ向かいます。
続く

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寺号標
正覚寺から北東方向にバイクで約10分走った所に卒台寺があります。
卒台寺は山号を延命山と号する西山浄土宗の寺院で、
京都洛西観音霊場の第12番札所です。
地蔵尊
寺号標から奥へ進んだ右側に駐車場があり、向かい側に地蔵尊が祀られています。
十三重石塔
十三重石塔と枝垂桜
本堂
本堂
卒台寺は弘仁年間(810~824)に空海が、第52代・嵯峨天皇の勅命により創建されました。
江戸時代の万治3年(1660)に典空によって再興され、浄土宗に改宗されました。
本尊
卒台寺は堂内の撮影が許されています。
中央須弥壇には本尊で、平安時代後期作の延命地蔵尊半跏像が安置されています。
左足を立て、一刻も早く衆生の苦を救おうとされている姿が表されています。
不動明王
左脇には不動明王像が安置されています。
江戸時代の天保年間(1830~1844)に京都の商家が当山で授戒を受け、
その後満願成就を記念して報恩のため、親族から寄進されました。
毘沙門天
右脇には室町時代作の毘沙門天像が安置されています。
千手観音
左奥には京都洛西観音霊場の札所本尊である十一面千手観音像が安置されています。
「癌封じ施薬観音」と称され、前に組まれた手に薬壺を持っています。
また、頭上に組まれた手の上には仏像が安置されています。
阿弥陀如来
右奥には阿弥陀如来像が安置されています。
明星水
卒台寺からバイクで5分ほど走った開田一丁目201-1に
明星水跡(みょうじょうすいあと)があります。
第33代・推古天皇(在位:593~628年)が病の際、この水を飲んで回復したと伝わります。
弘仁2年(811)、空海は嵯峨天皇の病気平癒を祈願した際、
ここの水に明星が映ったので「明星水」と名付けたと伝わり、
卒台寺の創建と何か関わりがあるのかもしれません。

乙訓寺へ向かいます。
続く

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