2020年04月

一の鳥居
松尾大社から桂大橋を渡り、四条通りを東へ進み、「梅宮大社前」の信号を
左折した先に梅宮大社があります。

四条通りから左折して北へ進んだ参道には一の鳥居が建っています。
梅宮大社の旧社格は官幣中社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。
二の鳥居
更に参道を進むと二の鳥居が建ち、右側の手前に駐車場があります。
楼門
楼門(随身門)は文政13年(1830)の再建とされ、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮日本第一の碑
楼門前には「梅宮日本第一酒造之祖神 安産守護神」と刻まれた石標が建っています。
梅宮大社の祭神は酒解神(さかとけのかみ)、大若子神(おおわくこのかみ)、
小若子神(こわくこのかみ)、酒解子神(さかとけこのかみ)で、
酒解神の御子・酒解子神が、大若子神との一夜の契りで小若子神が生まれたことから
歓喜し、狭名田(せなだ)の稲をとって天甜酒(あめのうまざけ)を造って飲んだという
神話から、古くから安産と酒造の神として信仰されてきました。
随身像-左
随身像-右
随身門には随身像が安置されています。
竜吐水
門の内側には「竜吐水(りゅうどすい)」と呼ばれる消火道具が置かれています。
竜が水を吐く様に見えたことから名付けられ、江戸時代から明治時代にかけて
用いられましたが、実際の消火活動ではあまり役に立たなかったようです。
猿田彦命
門をくぐった右側に天宇受賣命(あめのうづめのみこと)と猿田彦命が祀られていますが、
社殿は無く石で祀られ、「磐座」と称されています。
かっては門外で祀られていましたが、昭和59年(1984)に
道路整備のため現在地に遷されました。
ゴヨウマツ
磐座の斜め前の「ゴヨウマツ」は区民の誇りの木に指定されています。
神庫
磐座の左側に神庫があります。
拝殿
拝殿
境内の主要社殿は、元禄11年(1698)の火災で焼失したため、江戸幕府5代将軍・綱吉の
命により亀岡城主が奉行となり、元禄13年(1700)に再建されました。
その後、台風で大破したため、拝殿は文政11年(1828)に再建され、
京都府登録文化財に登録されています。
本殿と拝所
本殿(背後の屋根)と拝所
現在の本殿は文政5年(1822)に再建され、京都府登録文化財に登録されています。
梅宮大社は、社伝によると奈良時代に、県犬養三千代(あがたの いぬかい の みちよ=
橘美千代:665?~733)により、山城国相楽郡井手庄(現・京都府綴喜郡井手町付近)に
創建されたと伝わります。
天平宝字年間(757~765)に三千代の子・光明皇后と牟漏女王(むろ の おおきみ)
により奈良に遷されました。

光明皇后は第45代・聖武天皇の皇后で、仏教に篤く帰依し、
東大寺、国分寺の設立を天皇に進言したとされています。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である
「施薬院」を設置して慈善を行いました。
天皇の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、
その宝物を収めるために正倉院が創設されました。

牟漏女王は光明皇后の異父姉で、藤原不比等の次男・房前(ふささき)に嫁ぎましたが、
天平9年(737)に房前が亡くなり、その後は兄の橘諸兄(たちばな の もろえ)が
朝廷の頂点にあったことから宮廷に出仕したと推定されています。
興福寺のかつての本尊であった不空羂索観音像は、天平17年(745)に
房前の追善のために子の真楯(またて)らと造立したものです。

梅宮大社はその後、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに
檀林皇后(橘嘉智子=たちばな の かちこ:786~850)によって
現在地に遷されたとされています。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳では山城国葛野郡に「梅宮坐神四社
並名神大 月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭・新嘗祭で
幣帛に預かった旨が記載されています。
また、二十二社の一社に列せられ、治承4年(1180)には正一位の神階が授けられました。
平安時代には4月と11月の酉日に年2回の梅宮祭が勅祭として行われ、
平安時代末期には橘氏の衰退に伴い社勢も衰えましたが、
中世も藤原氏により祭祀は続けられました。
しかし、文明6年(1474)には戦乱に巻き込まれて社殿を焼失しました。
その後の変遷は不明ですが、元禄13年(1700)に現在の本殿が再建されました。

明治4年(1871)に「梅宮神社」として近代社格制度において官幣中社に列し、
戦後の昭和26年(1951)に「梅宮大社」と改称されました。

本殿には、酒解神(さかとけのかみ)・大若子神(おおわくこのかみ)・
小若子神(こわくこのかみ)・酒解子神(さかとけこのかみ)の
四柱が祭神として祀られています。
天王山に自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたるさかとけじんじゃ)がありますが、
梅宮大社や橘氏との関係は明らかではありません。
梅宮大社は、酒解神を大山祇神(おおやまつみのかみ)、
酒解子神を木花咲耶姫(このはなのさくやびめ)、
大若子神を瓊々杵尊(ににぎのみこと)、
小若子神を彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)に比定しています。

葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定し、孫の瓊々杵尊を葦原中国の
主にしようと考えた天照大御神は、瓊々杵尊を地上に降ろしました。(天孫降臨
日向国の高千穗峯に天降った瓊々杵尊は、大山祇神の娘・木花咲耶姫と
出逢い一夜を共にしました。
木花咲耶姫は懐妊し、火照命(ほでりのみこと)、火須勢理命(ほすせりのみこと)、
彦火々出見尊を出産したとされています。

また、相殿には第52代・嵯峨天皇、檀林皇后、檀林皇后の父・
橘清友(たちばな の きよとも)公、嵯峨天皇の皇子で第54代・仁明天皇が祀られています。
護王社
本殿の左側に護王社があります。
社殿は元禄13年(1700)の建立で、京都府登録文化財です。
護王社には橘氏公(たちばな の うじきみ)公と
橘逸勢(たちばな の はやなり)公が祀られています。
橘氏公(783~848)は檀林皇后の弟で、その威光により要職を歴任しました。
橘逸勢(782?~842)は最澄と空海らと共に唐に渡りましたが、
中国語が苦手なため語学の負担の少ない琴と書を学びました。
大同元年(806)に帰国するとそれらの第一人者となり、特に書に秀で
空海・嵯峨天皇と共に三筆と称されました。
しかし、承和9年(842)に嵯峨上皇が崩御され、その2日後に
皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)の東国への移送を画策し、謀反を企てている
との疑いで捕縛されました。(承和の変
逸勢は伊豆国への流罪が下され、護送の途中に病死しました。
死語、赦免されますが、無実の罪で死亡したことにより怨霊になったとして
御霊会で祀られるようになりました。
影向石
護王社の左側の「三石(みついし)」は、紀州・熊野から飛んできた三羽の烏が
石になったと伝わり、「影向石(ようごうせき)」とも呼ばれ、
熊野三山が祀られています。
末社社殿
更に西側には境外末社8社を合祀した末社社殿が、平成19年(2007)に建立されました。
手前から天満宮・春日社・厳島社・住吉社・薬師社・愛宕社・天皇社・幸神社
またげ石
本殿の右側(東側)には「またげ石」と称される2個の丸石が祀られています。
檀林皇后がこの石をまたいだところ、懐妊したと伝わり、
以来血脈相続の石として信仰されています。
夫婦で子授けの祈祷を受けると案内されるそうです。
若宮社
更に東側には元禄13年(1700)に建立された若宮社があり、社殿は京都府登録文化財です。
若宮社には橘諸兄(たちばな の もろえ)公が祀られています。
橘諸兄(684~757)は、第30代・敏達天皇の後裔で葛城王と称していましたが、
臣籍降下して橘宿禰のち橘朝臣姓となりました。
和銅3年(710)に無位から従五位下に直叙され、神亀元年(724)に
第45代・聖武天皇が即位すると従四位下に昇進しました。
天平3年(731)に参議に任ぜられ公卿に列し、天平8年(736)に母・橘三千代の
氏姓である橘宿禰姓を継ぐことを願い許可され、以後は橘諸兄と名乗りました。
天平9年(737)に天然痘が流行して藤原四兄弟などが次々と死去し、
橘諸兄は次期大臣の資格を有する大納言に任命されました。
翌天平10年(738)には正三位・右大臣に任ぜられ、太政官の中心的存在となりました。
天平12年(740)の藤原広嗣の乱の後、橘諸兄の本拠地に近い恭仁宮に遷都され、
天平感宝元年(749)には日本史上でも6人しか叙されてたことの無い正一位に昇り詰めました。
諸兄は天平勝宝9年(757)に74歳で亡くなり、同年、
子息の奈良麻呂も橘奈良麻呂の乱を起こし獄死しました。
神饌所
境内の東側に明治38年(1905)に建立された神饌所があります。
稲荷社-1
稲荷社-2
神饌所の北側の稲荷社は昭和58年(1983)に境外から遷されました。
見切石
神饌所前にあるお百度参りの見切石
神苑への門
神饌所の南側に神苑への門があります。
神苑
神苑の拝観は有料(600円)で、東神苑・西神苑・北神苑から成り、
東神苑の咲耶池(さくやいけ)の島の中には茶室「池中亭」があります。
この茶室は「芦のまろ屋」とも呼ばれ、平安時代の梅津の里の風景を歌った
『ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく 
大納言・源 経信』に由来しています。
神苑の作庭時期は不明ですが、江戸時代には現在の姿であったとされ、
池中亭は嘉永4年(1851)に建立されています。
東神苑の咲耶池の周りには、かきつばた、花菖蒲、霧島つつじが相ついで咲き、
西神苑は梅林で、ラッパ水仙が道路に沿って咲きます。
梅は約35種類で、神苑内には約550本が植えられています。
江戸時代の中頃に本居宣長(もとおりのりなが)が梅宮に献木の梅に添えて
『よそ目にも その神垣とみゆるまで うえばや梅を千本八千本』と詠みました。 
北神苑の勾玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが咲き、日陰にはあじさいが咲きます。
また、神苑全体に亘って約50種類の椿が植えられています。
但し、拝観料がちょっと高額に感じられたので拝観は行っていません。
西梅津神明社-門
随身門を出ると、西側に西梅津神明社の門があります。
西梅津神明社-2
西梅津神明社は、旧西梅津村の神明社を平成24年(2012)に現在地に遷されました。
西梅津神明社-3
西梅津神明社には天照大御神(内宮)と豊受大神(外宮)が祀られています。

再び桂大橋を渡って府道29号線まで戻り、府道を北上して、蔵泉庵へ向かいます。
続く

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桜-1
月讀神社から北へ約400m進むと松尾大社の無料駐車場があります。
桜-2
3月26日に参拝した時には駐車場のフェンス沿いの桜が満開でした。
駐車場奥の鳥居
駐車場の奥に鳥居が建ち、奥には土俵が見えます。
毎年9月の第一日曜日に、松尾大社では八朔祭が行われ、
当日には「八朔相撲」と称される相撲神事が催されています。
大山咋神(おおやまぐいのかみ)が御子神の賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)
に相撲を見せるために始まったとされています。
松尾大社の社伝では鎌倉時代から続けられているとされ、
現在では国民体育大会の京都府予選を兼ねています。
神饌田
鳥居をくぐった左側に平成18年(2006)に再興された神饌田があり、
毎年6月に「御田植式」が行われています。
7月の「御田祭」では、神饌田で「虫除け行事」が行われ、
10月の「抜穂祭」で稲の刈り取りが行われます。
車のお祓い所
駐車場には車の交通安全を祈願する御祓所があります。
山吹
改めて4月15日に駐車場から境内に入った際には山吹が満開となっていました。
お酒の資料館
参道の右側には「お酒の資料館」があり、無料で見学することができます。
松尾大社は秦氏によって創建され、酒造は秦一族の特技とされてきました。
松尾大社は室町時代末期以降、「日本第一酒造神」として信仰されています。
大樽
お酒の資料館前の大樽。
一の鳥居
府道29号線に面し、一の鳥居が建っています。
29号線の向かい側には阪急嵐山線の「松尾大社」駅があります。
松尾大社の旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、京都市最古の神社の一社であり、神仏霊場の第87番札所です。
二の鳥居
二の鳥居には「脇勧請」と呼ばれる榊の小枝を束ねたものが吊り下げられています。
鳥居の原始形式で、上古は参道の両側に二本の木を植えて神を迎え、
柱と柱の間に縄を張り、その年の月数だけの細縄を垂れて、
月々の農作物の出来具合を占ったとされています。
大坂の商人から信仰を集めた神峯山寺(かぶさんじ)では、
社会情勢や物価の高低なども占われたそうです。
駕輿丁船
駕輿丁船(かよちょうふね)は、毎年4月20日以後の第一日曜日に行われる
神幸祭(おいで)の船渡御に使用されます。
松尾祭は平安時代の貞観年間(859~877)から行われ、
古くは「松尾の国祭」と呼ばれていました。
3月中卯(なかのう)に神幸祭、4月上酉(かみのとり)に
還幸祭(おかえり)が行われていました。
昭和36年(1961)から現在の様に、4月20日以後の第一日曜日に出御、
それから21日目の日曜日に還御となり、昭和58年(1983)からは
船渡御が20年振りに復旧されました。
客殿
参道の北側に客殿があります。
蓬莱の庭-右側
客殿の東側に松風苑三庭の一つ「蓬莱の庭」があります。
松風苑三庭は、重森三玲(しげもり みれい:1896年8月20日~1975年3月12日)氏
によって作庭され、1億円の工費と1年の工期を費やし、昭和50年(1975)に完成しました。
蓬莱の庭-滝
池全体は羽を広げた鶴が形どられ、池の中央には滝組があります。
蓬莱の庭-左側
蓬莱の庭はかって、造られた池庭を利用して鎌倉時代の回遊式庭園を取り入れて
作庭され、三玲氏の没後に長男・完途(かんと)氏が完成させました。
楼門
楼門は江戸時代の初期に建立されました。
随身像-右
随身像-左
かっては随神の周囲に張り巡らせた金網には、願い事が記された、
多くのの杓子が差されていました。
杓子
ご飯をすくう杓子に神に救われたいという気持ちが込められたものですが、
現在は門の横に「杓子置き所」が設けられています。
新型コロナの影響で参拝する人も少なく、「杓子置き所」の空きがむなしく感じられます。
一ノ井川
門をくぐると秦氏によって開削された「一ノ井川」の水路があります。
水車
上流には水車がありますが、回転はしていません。
手水舎-1
手水舎
手水舎-亀
亀と鯉は松尾大神の神使いとされています。
撫で亀
撫で亀
健康長寿の御利益あるとか...
授与所
参道の左側には授与所があります。
樽うらない
授与所前の「樽うらない」
拝殿
拝殿
向拝-1
向拝
松尾大社は大宝元年(701)に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が、勅命により
大杉谷の磐座の神霊を勧請し、秦氏の氏神として当地に
社殿を建立したのが始まりと伝わります。
平成26年(2014)3月に本殿背後の樹木を伐採した際に巨大な岩肌が露出し、
大杉谷の磐座で行われた祭祀を遷すに相応しい場所として
当地が定められたとする説があります。
都理の娘・知麻留女(ちまるめ)が斎女として奉仕し、養老2年(718)に
知麻留女の子・都駕布(つがふ)が初めて祝(神職)を務め、
以後はその子孫により代々奉斎されてきました。
秦氏は秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283)に百済から民を率いて日本に帰化した
弓月君(ゆづきのきみ=融通王)が祖とされています。
渡来した一族は数千人から1万人とされ、大和国の葛城に定住し、
5世紀後半から末頃に山背国へ本拠を移したと考えられています。
第38代・天智天皇(在位:668~672)は山背国への遷都を考え、
秦氏による山背国の開拓を薦めていたとされています。

松尾大社は天平2年(720)に「大社」の称号が許され、延暦3年(784)に
第50代・桓武天皇により長岡京へ遷都された際には従五位下の神階が叙せられ、
延暦5年(786)には従四位下に昇叙されました。
平安京へ遷都後の貞観8年(866)に正一位の神階に達し、延長5年(927)成立の
『延喜式』神名帳では名神大社に列せられ、月次祭・相嘗祭・新嘗祭で
幣帛に預かった旨が記載されています。

明治維新後は、明治4年(1871)5月14日に近代社格制度において「松尾神社」として
官幣大社に列し、戦後は神社本庁の別表神社に列せられ、
昭和25年(1950)8月30日に「松尾大社」に改称されました。
向拝-2
本殿は弘安8年(1285)の焼失後に室町時代初期の応永4年(1397)に再建され、
天文11年(1542)に大改修が成されました。
桁行三間・梁間四間、一重、檜皮葺で、屋根は側面から見ると前後同じ長さに
流れており、この形式は「両流造」とも「松尾造」とも称される独特のものであり、
国の重要文化財に指定されています。
現在は新型コロナの影響で、鈴緒を触れないように横に振られています。

主祭神として大山咋神(おおやまぐいのかみ)と
市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
『古事記』では大山咋神は松尾山と日枝山(ひえのやま=比叡山)に鎮座すると記され、
松尾大社と日吉大社の東本宮で祀られています。
日吉大社・東本宮の八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、
古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、
共通点が多いことが指摘されています。

大山咋神と鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)は夫婦神とされ、
鴨玉依姫神が川上から流れてきた丹塗矢で懐妊し、上賀茂神社
祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を生んだとの伝承で、
丹塗矢は角宮神社(すみのみやじんじゃ)の火雷神(ほのいかづちのかみ)ではなく、
松尾明神としています。

賀茂氏は秦氏が山背へ進出する前から土着していたとされ、秦氏が賀茂氏と
融合するために松尾明神と賀茂別雷命を親子関係として「葵祭」と称した
松尾祭と賀茂祭の似たような祭祀が行われたとの説があります。

市杵島姫命は、松尾大社の伝承では天智天皇7年(668)に松尾山の磐座に降臨された
としていますが、降臨したのは松ヶ崎との説もあります。
また、市杵島姫命が航海守護の性格を持つことから、大陸出身の秦氏にとって
必要な神であり、巫女が松尾大社の祭祀主体であったことに由来するとの説もあります。
幸運の双鯉
向拝の右側には「幸運の双鯉」が祀られています。
幸運の撫で亀
左側には「幸運の撫で亀」が祀られています。
松尾明神は大堰川を遡って丹波地方を開拓する際に、急流では鯉に、
緩流では亀に乗ったとの伝承から、鯉と亀は神使いとされています。
重軽の石
重軽の石は、「まず石を持ち上げ、次に願いを込めてもう一度持ち上げ、
最初より軽く感じれば願いが叶い、重く感じれば叶い難し」と記されています。
相生の松-1
相生の松
相生の松-2
雌雄根を同じくする樹齢350年の大樹でしたが、昭和31~32年(1956~7)に相次いで
枯死し、昭和47年(1972)4月に切り株が残され、覆屋が設けられて祀られるようになりました。
相生の松-写真
枯死する前の写真
椋の霊樹
「椋の霊樹」は平成5年(1993)7月に枯死した、かっては蓬莱の庭入口に聳えていた
樹齢800年の椋の木でした。
神輿庫
境内の南側に神輿庫があります。
松尾祭では前の菰樽(こもだる)は回廊前に移され、6基の神輿が組み立てられます。
松尾祭では松尾七社の神輿が巡幸されますが、月読社の神輿は
桂川の氾濫で神輿が流出したため、唐櫃(からびつ)が用いられます。
本殿南側の境内社
本殿の南側には、手前から祖霊社、金刀比羅社、一挙社、衣手社の社殿が並んでいます。
境外末社の衣手神社は右京区西京極東衣手町にあり、
松尾七社の一社に数えられ、松尾祭では神輿が二番目に巡幸されます。
衣手社の祭神は羽山戸神(はやまとのかみ)で、「羽山」は山の麓の意味で、
山の麓の神とされています。
穀物の神である大年神と、生命力に満ちた太陽の女神とされる
天知迦流美豆比売( あまちかるみづひめ)との間に生まれた神とされ、
松尾大社の祭神・大山咋神と兄弟神となります。
各種御神体
各種御神体
伊勢神宮揺拝所
伊勢神宮揺拝所
本殿背後の岩
本殿背後の巨大な岩肌
本殿背後の社叢(しゃそう)は、京都市内周辺の極相林と考えられる照葉樹林で、
社叢内の沢筋を中心として、カギカズラが野生しています。
この種が分布するのは、亜熱帯から暖温帯にかけてであり、代表的な南方系植物です。
葉のわきに「かぎ」があり、その「かぎ」を他の木に引っ掛けて
上方に伸身する特徴を持っています。
日本では九州、四国、中国南部、近畿南部のほか千葉県下にも分布が見られますが、
気象条件から、この植生が分布の北限と考えられ、植物地理学上、価値が高いため
「松尾大社のカギカズラ野生地」として京都市の天然記念物に指定されています。
カギカズラは鎮痙剤(ちんけいざい)や鎮痛剤など、薬用としても利用されています。
北清門
回廊の北側には「北清門」があります。
社務所
境内の北側には社務所があります。
神使の庭
社務所前には「神使の庭 亀と鯉」が築かれています。
祓戸社
祓戸社
回廊をくぐる
回廊をくぐって進みます。
本殿の屋根
回廊をくぐった参道からは、特色のある本殿の屋根が見えます。
三宮社・四大神社
左・三宮社(さんのみやしゃ)、右・四大神社(しのおおかみのやしろ)
共に松尾七社で四大神社の神輿は一番目に、三宮社は三番目に巡幸されます。
四大神社の祭神は春若年神(はるわかとしのかみ)、夏高津日神(なつたかつひのかみ)、
秋比売神(あきひめのかみ)、冬年神(ふゆとしのかみ)で、四季折々、
年中平安を護る神とされています。
秦氏の遠祖を祀ったものと考えられ、境外の社はありません。

三宮社の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)で、境外の三宮神社は
右京区西京極川勝寺北裏町14に鎮座しています。
地名の「川勝寺(せんしょうじ)」は、秦氏の族長的な人物であり、
聖徳太子に強く影響を与えた秦 河勝(はた の かわかつ)に由来しています。
滝御前社
三宮社から左上方へ進んだ所に滝御前社があり、
罔象女神(みつはのめのかみ)が祀られています。
天狗岩-写真
背後の岩肌に天狗岩があります。
天狗岩
撮影する角度により、滝御前社前ではこのように写ります。
滝は「霊亀(れいき)の滝」と称されています。
霊亀元年(715)、この谷から首に3つ、甲羅に7つの星があり、黄金色をした
亀が見つかり、朝廷に献上されました。
吉兆の徴として年号が「霊亀」に改められたと伝わります。
亀の井-1
神泉「亀の井」の水を酒に混ぜると腐敗しないと伝えられ、
醸造家がこれを持ち帰って混ぜるという風習が現在も残っています。
亀の井-2
松尾大社が酒の神として信仰されるのはこの亀の井に由来するもので、
その信仰により全国に創立された松尾神の分社は1,280社にも及びます。
また、古来から「延命長寿の水」とも「「よみがえりの水」とも呼ばれ、
諸病の治癒に霊験ありと伝わり、現在も水を汲みに来られます。
葵殿
「亀の井」の右側に結婚式場の葵殿があります。

画像を撮り忘れましたが、葵殿の北側に神像館があります。
神像館と松風苑三庭の拝観はセットになって500円で、
神像館の館内撮影は禁止されています。
神像館には平安時代から鎌倉時代作の御神像21躯が展示されています。
平安時代初期作で一木造りの等身大坐像3躯は、主祭神の
大山咋神(おおやまぐいのかみ)と市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と
その御子神とされ、我が国の神像彫刻中、最古最優品として
重要文化財に指定されています。
また、摂・末社に安置されていた御神像18躯が収蔵され、その中には
康治2年(1143)の銘があるものや、僧形の像、能面・翁のルーツといわれる
笑相の像などがあります。
但し、御神像の保存状態は良いとは言えず、亀裂が目立つものもあり、
補修が可能か不安になります。
即興の庭
神像館と葵殿の間に即興の庭が作庭されています。
当初の計画に無く、即興的に造られたことから名付けられました。
手前は白川砂、奥の方には赤い錆砂利が使われています。
曲水の庭-1
神像館と葵殿の前方に曲水の庭が作庭されています。
背後の建物は神像館
曲水の庭-2
背後の建物は葵殿
平安時代の曲水式庭園を範とし、石が張られた州浜の清流と、
サツキの刈込に配された立石で構成されています。
上古の庭
神像館の右側には上古の庭が作庭されています。
山中にある神蹟の磐座に呼応して山下に新たに造られました。
上部の巨石は大山咋神と市杵島姫命が表され、それを取り巻く多数の岩は
随従する神々が表されています。
また、ミヤコザサが植えられ、人が入れない高山の趣が表されています。
上古の庭-上部
上部の巨石
登拝道-入口
神像館の裏側に、山中にある神蹟の磐座への登拝道がありますが、
平成30年(2018)9月の台風21号により倒木や山崩れが発生し、
登拝道の修復は困難として磐座への登拝は廃止となりました。
登拝道
標高233mの松尾山には七つの谷があり、その一つである大杉谷の
頂上付近に巨大な岩石があり、上古から祭祀が行われていました。
松尾大社はこの磐座で祀られていた神霊を勧請して創建されたと伝わり、
磐座は「ご神蹟」と称されていました。
台風で被災する以前は一般にも登拝が許可されていました。

梅宮大社へ向かいます。
続く

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鳥居
月読神社は松尾大社の境外摂社で、松尾七社の一社に数えられています。
月読神社は『日本書紀』巻十五の第23代・顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(487)
の条に記述が見られます。
任那(みまな/にんな=古代に存在した朝鮮半島南部の地域)へ派遣された
阿閉臣事代(あへのおみことしろ)は、壱岐で月神から宣託を受けました。
都へ還った阿閉臣事代は天皇に奏上し、山背国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に
社殿を建て、月神の裔と称する壱岐の押見宿祢(おしみのすくね)に祀らせたのが
月読神社の始まりとされています。
壱岐氏は早くから中国の卜占(ぼくせん)を我が国に伝え、
神祇官の官人に任ぜられ、卜部氏(うらべうじ)を名乗った一種族です。

当初の鎮座地「荒樔田」は、現在でも「月読」の地名が残る桂川左岸とも、
右岸の桂上野(月読塚)付近とも伝わりますが定かでは無く、
度重なる桂川の氾濫により斉衡3年(856)に現在地に遷座されました。
以後、この地は「松室」と呼ばれ、祠官の家名も「松室」となり、
秦氏の支配を受けて松尾大社に代々奉仕しました。
名神大社に列せられていましたが、松尾大社の勢力下にあり、中世以降は
松尾大社の摂社とされてきましたが、明治10年(1877)に公式に定められました。
神門
神門
現在の社殿は明治26年(1893)の再建と伝わります。
拝殿
拝殿
昭和46年(1971)に銅板に葺き替えられています。
本殿
本殿
平成11年(1999)に改修が行われています。
祭神は月読尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊を両親とし、天照大御神の弟神で、
素戔鳴尊の兄神とされています。
また、『古事記』では黄泉の国から帰ってきた伊弉諾尊が、黄泉の汚れを落としたときに
最後に生まれ落ちた三柱の神々と記されています。
この三神は「三柱の貴子(みはらしのうずのみこ)」と称され、
伊弉諾尊が生んだ諸神の中で最も貴い神とされています。
月読尊が天照大御神の勅を受け、保食神(うけもちのかみ)のもとへ訪れた際、
湯津香木(ゆつかつら=桂)に寄って立ったという伝説があり、
そこから「桂里」という地名が起こったと伝えています。
しかし、月読尊は保食神を殺すことになり、天照大御神の怒りにふれ、
一日一夜隔て離れて住むようになり、月読尊は夜を司る神になったとされています。
解穢の水
手水は「解穢(かいわい)の水」と称され、手水鉢には「解穢」と刻まれています。
御船社
御船社には天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が祀られています。
昭和期(1926~1989)に建立され、航海や交通安全の神として信仰を集めています。
毎年4月下旬から5月中旬にかけて行われる松尾大社の神幸祭では、
その前日に祭儀が行われ、神輿渡御の安全祈願が行われています。
願掛け陰陽石
願掛け陰陽石は、左右の石を撫でて祈願を行います。
聖徳太子社
聖徳太子社は、太子が月読尊を崇敬していたことにより祀られています。
月延石
月延石は子授けや安産祈願の信仰を集めています。
月延石は「鎮懐石」とも呼ばれ、子供(後の応神天皇)を妊娠したまま海を渡って
朝鮮半島に出兵した神功皇后が、月延石を当ててさらしを巻き、
冷やすことによって出産を遅らせたとされています。
月延石は3つあったとされ、内一つがこの石で、他に長崎県壱岐市の月讀神社
福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されました。
安産祈願石
戌の日に安産祈願を行うと、安産祈願石が授与され、氏名や願い事が記された
祈願石が多数奉納されています。
むすびの木
むすびの木

松尾大社へ向かいます。
続く

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山門
華厳寺から東へ進み、突き当りを左折した先に西光寺があります。
西光寺は山号を帰峰山と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
京都洛西観音霊場の番外札所です。

本尊は阿弥陀如来で、札所本尊は如意輪観音ですがここには安置されていません。
華厳寺から来る途中で横に見た谷ヶ堂最福寺延朗堂に安置され、
西光寺によって管理されています。
御朱印はこちらで受けられますが、「延朗上人」と記されます。
釈迦誕生仏
西光寺の境内には釈迦誕生仏と涅槃像が祀られています。
涅槃像
涅槃像を囲む立石は十六羅漢が表されているようです。
延朗堂
谷ヶ堂最福寺延朗堂まで戻ります。
奈良時代末期、この地には松尾山寺がありましたが、平治元年(1159)に起こった
平治の乱により焼失したと伝わります。

安元2年(1176)、河内源氏の流れをくむ源義信(みなもと の よしのぶ)の
長男・延朗は松尾山寺の跡地に最福寺を創建しました。
延朗上人は延暦寺や園城寺で天台宗を学び、顕教・密教両面の
内典・外典に通じた博学であったと伝わります。
最福寺は西芳寺川の谷口に創建されたことから「谷ヶ堂」とも呼ばれ、
七堂伽藍が建立されました。
子院は49を数え、華厳寺(鈴虫寺)も最福寺の跡地に建てられものです。
更に文治年間(1185~1190)には源義経が、平重衡の所領だった丹波国篠村庄
(現在の亀岡市篠町)を賜り、更なる寺の交流を願い延朗上人に寄進しました。
承元2年(1208)、延朗上人が79歳で入寂されましたが、伽藍の整備は続けられました。

承久年間(1219~1222)、延朗上人の弟子・証月房慶政は最福寺から
南西方向に法華山寺を開きました。
関白・九条道家が寺領を寄進して大伽藍が建立され「峰ヶ堂」とも呼ばれました。
戦乱の石碑
「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」の石碑が建っています。
元弘元年(1331)、後醍醐天皇は密かに鎌倉幕府討伐を画策していましたが、
計画が幕府側に漏れ、三種の神器を携えて御所を脱出し、
笠置山で挙兵しました。(元弘の乱)
元弘3年/正慶2年(1333)、峰ヶ堂一帯に布陣した後醍醐天皇の
近臣・千種忠顕(ちくさ ただあき)を攻撃した六波羅探題軍の兵火により、
法華山寺と共に最福寺も焼失しました。
最福寺と法華山寺は再建されましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)では
東軍が最福寺に布陣し、文明元年(1469)に西軍の攻撃を受け、
最福寺、西芳寺、地蔵院、法華山寺など一帯は悉く灰燼に帰しました。
更に法華山寺は、大永7年(1527)に起こった桂川原の戦いで焼失し、
寺跡には峰ヶ城が築かれて寺は再建されませんでした。
元亀2年(1571)の織田信長による比叡山焼き討ちで、天台宗だった
最福寺も焼き討ちされ、最福寺のその後の再建は成りませんでした。
宝篋印塔
この宝篋印塔は最福寺跡から出土したものですが、造られた年代は不詳です。
側面に「此の下に経典を石に書いて埋めた」と刻まれていましたが、経典は発見されず、
「最福寺旧蹟地」の碑前の「笠地蔵」と呼ばれる石仏が発掘されました。
延朗堂-堂内
延朗堂には札所本尊の如意輪観音像、延朗上人像などが安置されています。
かっては最福寺に安置されていました。
延朗堂-尊鏡像
また松尾山寺の尊鏡大法師の像も安置されています。
座禅石
座禅石は松尾明神が坐したと伝わります。
さしのべ観音
「さしのべ観音」と宝篋印塔は平成17年(2005)9月に
延朗上人800年大遠忌を祈念して造立されました。
仏足石
仏足石
六体地蔵
六体地蔵-説明
六体地蔵
地蔵堂
地蔵堂
庭園
庭園

松尾大社の境外摂社・月読神社へ向かいます。
続く

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寺号標
西芳寺から北東方向に歩いても数分の所に華厳寺があります。
華厳寺は山号を妙徳山(みょうとくさん)と号する臨済宗系の単立寺院で、
四季を通じて鈴虫が飼育されていることから通称で「鈴虫寺」と呼ばれています。
山門
華厳寺は開門され、本堂の参拝はできますが、新型コロナの影響で
法話会は中止され、庭園の拝観はできませんでした。
幸福地蔵
山門前には幸福地蔵尊が祀られています。
日本で唯一草鞋を履き、一つだけ願い事を叶える地蔵として信仰されています。
願い事を一つだけ心に念じ、お守りを挟んで合掌し、住所・氏名を告げると、
地蔵が家を訪ねて願い事を叶えると伝わります。
各家を訪れるために草鞋を履いているとされています。
鎮守社
鎮守社には白龍大明神が祀られています。
本堂
本堂には「華厳寺」の扁額が掲げられています。
華厳寺は江戸時代中期の享保8年(1723)に華厳宗の再興を志す
鳳潭上人(ほうたんしょうにん)によって創建されました。
鳳潭上人は16歳の時に黄檗宗の僧・鉄眼道光のもとで出家しました。
その後、比叡山に入って天台における教相と観相を学び、中国・インドへ
渡ろうとしたましたが、国禁のため果たすことができず、南都で華厳を極めました。
華厳寺を創建すると。浄土宗・浄土真宗・日蓮宗と議論を行い、
当時の仏教界に大きな刺激を与えました。
元文3年2月26日(1738年4月14日)に入寂され、華厳寺に埋葬されました。
その後、慶応4年(1868)に寺に入った慶厳により臨済宗に改宗されました。

本尊は平安時代作の大日如来坐像で、他に鎌倉時代作の宝冠釈迦如来像、
鳳潭上人坐像が安置されています。

鈴虫は戦後、先代住職が鈴虫の音色に禅の悟りの境地を感じて開始したとされています。
現在では温度管理の試行錯誤により、四季を通じて4千~1万匹の飼育が可能となりました。

庭園は「七仏の庭」と呼ばれ、釈迦仏までに登場した七人の仏陀を7石で表しています。

西光寺へ向かいます。
続く

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