2020年05月

祇王寺入口
滝口寺から下ってきた所に祇王寺への拝観入口があります。
祇王寺は山号を高松山、院号を往生院と号する真言宗大覚寺派の寺院です。
平安時代の末期、平清盛が盤石な地盤を築き上げた頃、都で白拍子の名手として
「祇王」と「祇女」と称する姉妹が評判を博していました。
姉の祇王は清盛に寵愛されていましたが、加賀国から16歳の「仏」と称する白拍子が
清盛のもとを訪れ、舞を披露しました。
その舞の見事さに清盛は心変わりし、祇王は追い出されてしまいました。
祇王と祇女の姉妹と母親の刀自(とじ)は出家し、「往生院」と号する寺院の一角に
庵を結び暮らしました。
後に剃髪した仏が庵を訪れ、共に暮らすようになったと伝わります。
往生院は、平安時代末期に融通念仏宗の
六世・良鎮(りょうちん)によって創建されました。
子院の三宝寺は融通念仏の道場として栄え、山上山下の広大な寺域に
数多くの坊が建ち並んでいたと伝わります。
しかし、その後荒廃し、三宝寺と祇王寺を残すのみとなりました。
江戸時代には祇王寺として復興されますが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で廃寺となりました。
跡地は大覚寺が管理していましたが、明治28年(1895)に元京都府知事・北垣国道氏から
別荘(茶室)の寄進を受け、大覚寺の塔頭寺院として再興されました。
昭和11年(1936)には高岡智照(たかおかちしょう)が無住となって寂れていた
祇王寺の庵主となり、復興させました。
高岡智照は明治29年(1896)に奈良県で生まれ、2歳の時に母を亡くしました。
父親は大酒飲みで、12歳の時に大阪の花街に売られました。
15歳の時、金持ちの小間物商と恋仲になりましたが、仲違いし、
小指の先をカミソリで切り落としました。
大阪に居づらくなったため上京し、新橋で芸者となりました。
美貌の持ち主で、指をつめた芸者として話題となり、またたく間に売れっ子となりました。
大正8年(1919)、北浜の相場師で映画会社も経営していた小田末造と結婚しますが、
夫婦仲がうまくいかなくなり、2度の自殺未遂を起こし、大正14年(1925)に離婚しました。
昭和10年(1935)、39歳の時に久米寺で出家・得度し、「智照」と名乗りました。
祇王寺の庵主となると、傷ついた女性たちの心の拠り所となるよう尽力され、
平成6年(1994)に98歳で入寂されました。
『祗王寺日記』や『照葉懺悔』などの著書を残され、
瀬戸内寂聴は智照をモデルにした小説『女徳』を著しています。
順路
受付から入ると苔庭を周遊するように順路が設定されています。
山門
境内の東南方向に山門がありますが、拝観の出入り口としては使われていません。
灯籠
庭園には複数の苔が植栽され、閑静な寺ですが、
砂利を踏む音さえ苔に吸収されるように思えます。
草庵
草庵の仏間には本尊の大日如来と祇王、祇女、刀自、仏御前、
平清盛像が安置されています。
祇王及び祇女像は鎌倉時代の作で、眼には水晶の玉眼が施されています。
控えの間には円い「吉野窓」があり、影が虹色に見えることから
「虹の窓」とも称されています。
水路の下
庭園の北側には細い水路がありますが、水は流れていませんでした。
順路の外側は竹林が広がります。
水路の上
水路の上側
祇王寺のHPではつくばいが描かれ、水が流されていたようです。
祇王の墓
草庵の南側に平清盛の供養塚である五輪塔と祇王、祇女、刀自の墓とされる
三重石塔が建っています。
いずれも鎌倉時代の作で、五輪塔の水輪には金剛界四仏の梵字、
石塔の塔身には四方仏が刻まれています。

檀林寺へ向かいます。
続く

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祇王寺への参道
二尊院から北へ進み、その先で左折して西へ進んだ突き当たりに
祇王寺への参道があります。
祇王寺模型
祇王寺本堂の模型でしょうか?
滝口寺入口
参道を登ると右側に祇王寺の入口あり、その左側を進んだ先に
滝口寺の拝観受付があります。
滝口寺は山号を小倉山と号する浄土宗の寺院です。
かって、この地には平安時代末期に融通念仏宗の六世・良鎮(りょうちん)によって
創建された往生院があり、その子院・三宝寺は融通念仏の道場として栄え、
山上山下の広大な寺域に数多くの坊が建ち並んでいたと伝わります。
しかし、その後荒廃し、三宝寺と祇王寺を残すのみとなりました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、三宝寺も廃寺となりました。
昭和の初期に寺が再興され、治承3年(1179)に斎藤時頼が「滝口入道」と号して
寺に入ったことから「滝口寺」と名付けられました。
新田義貞の首塚
受付を入った正面に新田義貞の首塚があります。
新田義貞(源義貞:1301頃~1338)は、河内源氏義国流新田氏本宗家の
8代目棟梁で、鎌倉幕府に仕えていましたが、幕府からは冷遇されていました。
第96代・後醍醐天皇が倒幕を掲げるとそれに呼応し、関東方面の主将
(名目的には幼い足利義詮)となり、鎌倉幕府の滅亡へと追い込みました。
義貞は後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となり、後醍醐天皇から
公家女性・勾当内侍(こうとうのないし)を紹介され、妻としたと伝わります。
足利尊氏が建武政権から離反すると(建武の乱)、後醍醐天皇から事実上の
官軍総大将に任命されますが、各地で尊氏軍に敗れ、越前国へ退き戦死しました。
勾当内侍は義貞の死を知り、出家しました。
三条河原で晒し首になっていた義貞の首を密かに持ち帰り、
この地に葬り、庵を結んだと伝わります。
勾当内侍供養塔
首塚の前方、左側に勾当内侍の供養塔が建っています。
参道の石段
参道の石段を登ると、「三宝寺歌石」の碑が建っています。
三宝寺歌石
皇居・清涼殿の警護にあたっていた滝口武者(たきぐちのむしゃ)・斎藤時頼は
平清盛の子・重盛に仕えていました。
清盛が西八条殿で催した花見の宴に時頼も加わり、重盛の妹・建礼門院に
仕えていた横笛を見初めました。
しかし、身分違いの恋に父親が反対し、治承3年(1179)に横笛には伝えず
時頼は往生院で出家し、「滝口入道」と名乗りました。
横笛はそれを知り、時頼を捜して方々の寺を尋ね歩き、嵯峨野を訪れた時に
時頼の念誦の声を耳にしました。
しかし、横笛が時頼と会うことは叶わず、自らの指を切り、
この石に血で歌を書き残したと伝わります。
「山深み 思い入りぬる 紫の 戸のまことの道に 我を導け」
その後、滝口入道は女人禁制の高野山静浄院へ居を移し、それを知った横笛は、
悲しみのあまり大堰川に身を沈めたとも、奈良・法華寺へ出家したとも伝わります。

一方で、時頼を慕い、かつらぎ町の天野の里に庵を結んだとも伝わります。
たまたま天野を通った僧から、横笛の話を聞いた滝口入道は、
心の証の和歌を横笛に送りました。
「そるまでは うらみしかども あずさ弓 まことの道に 入るぞうれしき」
横笛の返歌
「そるとても なにかうらみん あずさ弓 引きとどむべき 心ならねば」
その後、横笛は病の床に伏し、そこに滝口入道から和歌が送られてきました。
「高野山 名をだに知らで 過ぎぬべし うきよよそなる わが身なりせば」
横笛の返歌
「やおや君 死すればのぼる 高野山 恋もぼだいの たねとこそなれ」
と詠み、19歳の若さで病死しました。
ある日、大円院の梅の木に一羽のウグイスが止まり、美しくさえずりましたが、
やがて庭の井戸に落ち、水に沈みました。
滝口入道はウグイスを井戸からすくい上げ、変わりはてた横笛の姿に無念の涙を流し、
阿弥陀如来を刻んでウグイスの亡骸を胎内に納めました。
大円院は阿弥陀如来を本尊とし、ウグイスの梅・井戸が残され、横笛の墓があります。
以後、滝口入道は仏道修行に励み、高野山真言宗別格本山の
大円院の8代住職となりました。
また、平氏一門が都落ちし、平重盛の子・維盛(これもり)が那智の沖で入水した時、
滝口入道が立ち会ったとされています。
本堂
更に石段を登ると本堂があり、自由に上がることができます。
滝口入道と横笛の悲恋は明治26年(1894)に、高山樗牛
(たかやまちょぎゅう:1871~1902)がこれを題材とした小説
『滝口入道』を発表しました。
大正13年(1924)には『滝口入道 夢の恋塚』として映画化されています。
昭和の初期に長唄三味線の名跡・杵屋佐吉(4代目)が、悲恋を偲んで
三宝寺の旧地に一宇を建立し、「滝口寺」と称したとされています。
時頼・横笛の像
堂内には鎌倉時代の作とされる滝口入道と横笛の坐像が安置されています。
横笛画
また、往生院を訪れた横笛の絵が掲げられています。
十三重石塔
境内の十三重石塔は斎藤時頼と平家一門の供養塔と伝わります。
小松堂
本堂の左側に小松堂があり、斎藤時頼の主君・平重盛が祀られています。
平重盛は六波羅小松第に居を構えていたことから「小松殿」とも
「小松内大臣」とも呼ばれました。
石塔
境内に残された小さな石塔は三宝寺の遺物でしょうか?

祇王寺へ向かいます。
続く

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総門
小倉百人一首文芸苑の右隣りに二尊院があります。
二尊院は正式には山号を小倉山、院号を二尊教院、
寺号を華台寺と号する天台宗の寺院です。
承和年間(834~847)に第52代・嵯峨天皇の勅願により、
慈覚大師・円仁が開山したと伝わります。
但し、円仁は承和2年(836)から遣唐使として渡航を試み、承和2年(836)と
翌承和3年(837)は失敗しましたが、承和5年(838)に成功して博多津から出港しています。
帰国したのは承和14年(847)ですので、円仁が開山したとすると承和5年以前となります。
二尊院はその後荒廃し、鎌倉時代に法然上人が住し、
関白・九条兼実らの帰依を受けて寺は栄えました。
法然上人の高弟・湛空(1176~1253)は、二尊院の第3世に就き、
第83代・土御門天皇と第88代・後嵯峨天皇に戒を授けました。
更に天台宗の僧で法然の師である叡空(?~1179/1181とも)が二尊院の第4世の時には、
第89代・後深草天皇、第90代・亀山天皇、第91代・後宇多天皇、第92代・伏見天皇の
戒師となったとされていますが、後深草天皇の在位は1246~1259年ですので、
叡空が生存していた年代と一致しません。

寺は隆盛を極め、二尊院は南北朝時代(1336~1392)の頃から明治維新まで、
「黒戸四ヶ院」の一寺となりました。
黒戸四ヶ院とは、皇室の仏事を行う二尊院他廬山寺
般舟三昧院(はんじゅうざんまいいん)・遣迎院(けんごういん)を指し、
宮中の仏壇が黒の棧をはめた戸を扉に使っていたことが「黒戸」の所以です。
暦応2年(1339)には足利尊氏が天龍寺を創建するのに伴い、
亀山殿内仏院・浄金剛院が境内に移されました。

その後、応仁・文明の乱(1467~1477)では延焼を受け、堂塔伽藍が灰燼に帰しました。
二尊院は荒廃し、約30年後になってようやく本堂と唐門(勅使門)が再建され、
現在の総門は慶長18年(1613)に角倉了以(すみのくら りょうい)が
伏見城の薬医門を譲り受け、二尊院へ寄進・移築したもので、
市の文化財に指定されています。
西行法師庵跡
総門をくぐった左側に「西行法師 庵の跡」の碑が建っています。
西行法師は、三上山の百足退治をしたと伝わる藤原秀郷(別名:俵藤太)の8世孫で、
保延3年(1137)には、鳥羽上皇の北面武士として仕えていました。
しかし、保延6年(1140)、23歳の時に妻子を捨て、勝持寺で出家し、
その後この地で草庵を結んだとされています。
鞍馬山など京都北麓に隠棲し、天養元年(1144)頃に奥羽地方へ旅立ち、
その後も高野山から四国、伊勢へと心の赴くまま諸所に草庵を営みました。
文治2年(1186)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うため、2度目の奥州下りを行い、
その途次に鎌倉で源頼朝に面会しています。
その後、伊勢国に数年移り住んだ後、
河内国の弘川寺へ移って建久元年(1190に入寂されました。
和歌に秀で、『新古今和歌集』には94首が選ばれています。
紅葉の馬場
総門から真っすぐに約100m伸びる参道は「紅葉の馬場」と呼ばれ、
モミジとサクラが交互に植えられていますが、今は新緑で覆われています。
丸山海道句碑
参道の右側には昭和から平成の俳人・丸山海道と佳子夫妻の句碑が建っています。
「春深し 佛の指の 置きところ」海道
「萩咲かす 二尊に触れて 来し風に」佳子
高浜虚子句碑
その先には高浜虚子(1874~1959)の句碑が建っています。
「散りもみじ こゝも掃き居る 二尊院」
高浜虚子は大正11年(1922)12月7日に二尊院に訪れましたが、
今は桜の花びらが句碑の周りに散っています。
勅使門
唐門は室町時代の永正18年(1521)に三条西実隆(さんじょうにし さねたか)によって
再建された勅使門でしたが、現在では開門され、
一般の参拝者も門をくぐることができます。
勅使門-扁額
山号「小倉山」の扁額は、第104代・後柏原天皇(在位:1500~1526)の勅額です。
本堂
現在の本堂は、永正18年(1521)に三条西実隆、公条(きんえだ)父子が諸国に浄財を募り、
御所の紫宸殿を模して再建されました。
平成28年(2016)に約350年ぶりとなる「平成の大改修」が完了しました。
本堂は京都市指定有形文化財です。
本堂-扁額
第105代・後奈良天皇から深く帰依され、「二尊院」の扁額は後奈良天皇の勅額です。
本尊
本尊(パンフレットより)
本尊は釈迦如来と阿弥陀如来で、本尊として二尊が安置されていることが
「二尊院」の由来となっています。
二尊が安置されたのは、唐の時代に中国浄土教の僧・善導大師が広めた
「二河白道喩(にがびゃくどうゆ)」によるものとされています。
二河白道とは無人の原野に忽然として出くわした、北に水と南に火の河で、
その中間に一筋の白道がありますが、幅は狭く常に水と火が押し寄せている光景です。
人がその場所にさしかかると、後方や南北より群賊悪獣が殺そうと迫ってきます。
河は深くて渡れず、思い切って白道を進もうとした時、東の岸より
「この道をたづねて行け」と勧める声(発遣=はっけん)が、
また西の岸より「直ちに来れ、我よく汝を護らん」と呼ぶ声(招喚)がしました。
東岸の群賊たちは危険だから戻れと誘います。
しかし、一心に疑いなく進むと西岸に到達します。
白道は浄土往生を願う清浄の信心を意味し、東岸の声は娑婆世界における
釈尊の発遣(=浄土に往生せよと勧めること)の教法、西岸の声は浄土の
阿弥陀仏の本願の招喚(=浄土へ来たれと招き喚(よ)ぶこと)に喩えられています。
また、火の河は衆生の瞋憎(しんぞう=怒りと憎しみ)、
水の河は貪愛(とんない=むさぼり愛着する心)、
無人の原野は真の善知識に遇わないことの喩えです。
群賊は別解・別行(べつげべつぎょう=別の見解と別の行法をする者)、
異学・異見の人、悪獣は衆生の六識・六根五蘊(ごうん)・
四大(しだい)に喩えられています。
本堂横の庭
本堂の左側は白砂が敷かれ、庭園が築かれています。
御園亭
庭園の左奥には茶室・御園亭があります。
第108代・後水尾天皇の第6皇女・賀子内親王(よしこないしんのう)の
御化粧之間が二条家に与えられ、元禄10年(1697)に二尊院へ移築されました。
春と秋のみ一般公開されているようです。
六地蔵
本堂裏の斜面には六地蔵が祀られています。
御霊屋
本堂の右側には位牌堂の「御霊屋」があります。
龍神遊行の庭-桜
本堂前の右側に橘、左側に桜が植えられ、周囲を円で囲われ、白砂が敷かれています。
この桜ではないと思われますが、境内には「二尊院普賢象桜」と
呼ばれている桜が植栽されています。
4月半ば過ぎから咲き始め、五月の連休まで咲いている
日本で一番遅咲きの桜とされてます。
八重咲きの桜で、花の中央から二つの変わり葉が出て、これが普賢薩摩の乗っている
白象の牙を思わせることから「普賢象桜」と呼ばれています。
龍神遊行の庭-橘
垣で丸く囲われたこの庭は、「龍神遊行の庭」と呼ばれ、かってこの地に龍女が住み、
正信上人によって解脱昇天したと伝わります。
庭を囲う垣は「二尊院垣」と呼ばれ、蛇腹をかたどったものとされています。
弁天堂
本堂の右側に弁天堂があり、弁財天の化身である九頭竜弁財天・宇賀神が祀られています。
また堂内には、不動明王像、愛染明王像、大日如来像、
毘沙門天像などが安置されています。
二尊院の南側に隣接する小倉百人一首文芸苑にある池は、
「龍女池」と呼ばれ、龍女が住んでいたと伝わります。
龍は夜な夜な池を出て、門に掲げられた額を舐め、字形や彩色が消えるほどになりました。
第3世・湛空上人はこれを防ぐため、龍女に自らの戒法を授けるため
血脈を書いて池に沈めました。
すると龍女成仏の証拠として千葉の蓮華一本が咲いたと伝わります。
弁天堂-鳳凰
弁天堂の屋根には鳳凰が祀られています。
扇塚
弁天堂の右前には扇塚があります。
源平桃-1
弁天堂の斜め前に「源平桃」と称される桃の木が植栽されています。
源平桃-2
一本の木に白花と紅花、及び紅白の絞りの三色の花を咲かせます。
源氏(赤)と平氏(白)が競うように咲くことから「源平の桃」と称されています。
角倉了以像
源平桃の西側に角倉了以の像が建っています。
角倉了以(すみのくら りょうい:1554~1614)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての
嵯峨野出身の豪商で、慶長9年(1604)の朱印船貿易の開始とともに
安南国(フランス統治時代のベトナム北部から中部)との貿易で富を得ました。
慶長11年(1606)には、幕府から保津川の河川改修工事の許可と
通航料徴収などの権利を得て工事に着手しました。
総工費は現在では75億円相当ともされ、5か月で完成させました。
また、慶長15年(1610)の豊臣秀頼による方広寺大仏殿再建の際は、
父・素庵(そあん)と共に、鴨川を開削し、資材運搬を行いました。
父子は慶長19年(1614)に、伏見迄「高瀬川」と呼ばれる運河を開削し、
高瀬舟を運行しました。
水深の浅い高瀬川では、底が平らで喫水が低い高瀬舟が必要不可欠として新造されました。
鐘楼
鐘楼は慶長年間(1596~1615)に建立されました。
右横には「藤原定家卿七百年祭記念」の碑が建っています。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は平成6年(1994)の開基・嵯峨天皇千二百年御遠忌法要を記念して再鋳されました。
「しあわせの鐘」と名付けられ、「自分が生かされているしあわせを祈願」
「自分のまわりの生きとし生けるものに感謝」「世界人類のしあわせのために」を
祈願して三回撞くことができます。
鐘楼-旧梵鐘
旧梵鐘は慶長9年(1604)に鋳造されました。
伊藤仁斎の墓
弁天堂と鐘楼との間にある石段を登った途中で右側に進むと伊藤仁斎の墓があります。
伊藤仁斎(1627~1705)は、江戸時代前期に活躍した京都生まれの儒学者・思想家で、
『論語』を「最上至極宇宙第一の書」と尊重しました。
当時は、同じく京都生まれで朱子学に熱中した林羅山(1583~1657)が、
慶長10年(1605)に徳川家康に登用され、幕藩体制の基礎理念として
幕府公認の学問となっていました。
仁斎は初めは朱子学者でしたが、後に反朱子学となり、孔子・孟子の原義に立ち返る
「古義」を標榜し、寛文2年(1662)には堀川に古義堂(堀川学校)を開きました。
宝永2年3月12(1705年4月5日)に亡くなりました。
伊藤東涯の墓
その横には、仁斎の長男・東涯(1670~1736)の墓もあります。
東涯は、仁斎が開いた古義堂(堀川学校)を継ぎ、古義学の興隆の基礎を築きました。
三条西家の墓
更に石段を登った右側に、右から三条西実隆(さんじょうにし さねたか)、
実隆の次男・公条(きんえだ)、公条の長男・実枝(さねき)の墓があります。
三条西実隆の妻は勧修寺教秀(のりひで)の三女で、第105代・後奈良天皇の
生母・勧修寺藤子の姉または妹であり、皇室とは縁戚関係にありました。
和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、
連歌師の宗祇(そうぎ)から古今伝授を受けました。
古今伝授とは古今和歌集の解釈に関する奥義の伝承で、一子相伝の秘事とされていました。
永正18年(1521)には公条と共に二尊院の勅使門や本堂を再建しました。
公条は当代一流の文化人として重用され、天文11年(1542)には右大臣にまで
昇進しましたが、天文13年(1544)に二尊院で出家しました。
実枝は天正7年(1577)に織田信長の推挙により大納言に任じられました。
一方で、三条西家に伝わる『源氏物語』の学を集大成した『山下水』を著し、
古今伝授を、子の公国が幼かったため弟子の細川藤孝(幽斎)に伝えました。
その後、古今伝授は細川藤孝から八条宮智仁親王へと伝えられています。
湛空上人廟
石段を登った上に法然上人廟がありますが、二尊院のHPでは湛空上人廟とされています。
光明寺では、法然上人の遺骸は二尊院へ移された後、光明寺へ運ばれ、
荼毘に付され遺骨の一部が光明寺の本廟と一部が知恩院の御廟に
安置されたとあり、一時石棺が安置された場所かもしれません。
湛空上人廟-内部
堂内の石碑は湛空上人のものとされ、慶長5年(1253)に中国の石工によって
彫られたと伝わり、碑堂は室町時代末期の建築として京都市指定文化財になっています。
時雨亭への参道
湛空上人廟から深く落ち込んだ小倉山の山肌を迂回するようにして
約100m進んだ所に時雨亭跡があります。
時雨亭跡
「藤原定家卿 百人一首撰定の遺蹟」と記されていますが、
後世に好事家(こうずか)が造営した跡と推定されています。
時雨亭からの展望-市内
常寂光寺の時雨亭跡と同様に眺望が開けた場所にありますが、
立木が少し邪魔をしています。
市内方面
時雨亭からの展望-比叡山
比叡山方面
角倉了以の墓
時雨亭跡から戻り、湛空上人廟から北へ進むと角倉了以の墓があります。
角倉了以は慶長19年7月12日(1614年8月17日)に亡くなりました。
了以には琵琶湖疎水を開削する腹案がありましたが、明治18年(1885)に
田辺朔郎(たなべ さくろう:1861~1944)が設計・監督して着工され、
明治23年(1890)に完成しました。
角倉了以と田辺朔郎は、共に京都の「水運の父」として讃えられています。
吉田光由の墓
吉田光由のものとされる墓もあります。
吉田家は宇多源氏の佐々木氏族を先祖とします。
佐々木家5代目の佐々木秀義の子・厳秀(かねひで)が近江国吉田荘を領したことにより
「吉田」を名乗ったが始まりで、角倉家は現在の嵯峨天龍寺角倉町に
住したことから家号としたとされています。
光由が吉田家の何代目かは不明ですが、慶長3年(1598)に嵯峨で生まれ、
角倉了以は外祖父に当たります。
吉田光由は初の和算家・毛利重能(もうり しげよし)に師事した後、
角倉了以の子・素庵のもとで中国の数学書『算法統宗(さんぽうとうそう)』の研究を
行い、それをもとに寛永5年(1628)に『塵劫記(じんこうき)』を著し、出版しました。
『塵劫記』は算盤を使った計算法を記載した算術の教科書として、
庶民に爆発的に受け入れられました。
また、兄の光長と共に北嵯峨に農業用のトンネル水路「菖蒲谷隧道」の工事を行いました。
寛文12年11月21日(1673年1月8日)に75歳で亡くなりました。
鷹司家の墓の門
更に北へ進むと門がありますが閉じられています。
三帝陵
門から北へ進むと石段があり、石段を登ると三天皇が分骨されたと伝わる
三帝陵があります。
右側の十重石塔は、本来は十三重石塔で、笠石と相輪が失われていますが、
第83代・土御門天皇のものとされています。
中央奥の五重石塔は第88代・後嵯峨天皇のものとされています。
左側の宝篋印塔は第90代・亀山天皇のものとされています。
鷹司家の墓-1
三帝陵の左側、門の正面に当たると思われるところには、鷹司家の墓があります。
鷹司家は、藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家九条家
二条家一条家・鷹司家)の一家で、明治維新後も京都に留まっていましたが、
しばらくして東京に移りました。

その他、二尊院には二条家・三条家四条家嵯峨家などの墓があります。
八社ノ宮
墓地から下り、境内の北側へ進むと室町時代に建立された八社ノ宮があり、
社殿は市の文化財に指定されています。
松尾神社・愛宕神社・石清水八幡宮・伊勢皇大神宮・熱田神宮・日吉神社・
八坂神社・北野神社の八社が祀られています。
菖蒲谷隧道-木樋
境内には吉田光長・光由兄弟により、江戸時代中期に築造された菖蒲谷隧道の
「木樋(もくひ)-泥樋管」が展示されています。
菖蒲谷隧道-図
菖蒲谷隧道は現在でも使用され、平成24年(2012)の修復工事で
新しいものと交換され、展示されるに至りました。
小倉餡発祥の地
小倉餡発祥の地」の碑も建立されています。

祇王寺へ向かいます。
続く

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小倉餡由来の駒札
常寂光寺から戻って東に進み、元来た四つ角を左折して北に進むと、
「小倉餡発祥の由来」の駒札が立っています。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは、弘仁11年(820)とされています。
当時、小倉の里に和三郎という菓子職人がいて「亀の子せんべい」を作っていました。
大同4年(809)、空海が唐から持ち帰った小豆の種子が栽培されました。
和三郎は、小豆に朝廷から下賜された砂糖を加えて煮詰め、
初めて餡を作り朝廷に献上したと伝わります。
その後、和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培されるようになりましたが、
承和7年(840)に和三郎が亡くなりました。
小豆栽培の地
和三郎の子孫及び諸国同業の人々により、小倉中字愛宕ダイショウの里に
「和泉明神社」が創建されました。
和三郎の功績を讃え、屋号「亀屋和泉」から社号がとられましたが、
その後、兵火を受けて和泉明神社は焼失しました。
和三郎の子孫も絶え、和泉明神社の所在地は古老の伝承として伝えられてきました。
この地は京都市により買収され、小豆が栽培されているようです。
有智子内親王の墓-立札
駒札の向かいには、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王
(うちこないしんのう:807~847)の墓があります。
初代の賀茂斎院で、弘仁元年(810)の薬子の変で嵯峨天皇側が勝利したのは、
王城鎮守の神とされた賀茂大神の加護によるものと、
斎王を定めたのが賀茂斎院の始まりとされています。
有智子内親王は豊かな文才に恵まれ、日本史上数少ない女性漢詩人の一人で、
経国集』などに合計10首が遺されています。
弘仁14年(823)に嵯峨天皇が斎院への行幸の際には、優れた漢詩を披露し、
感嘆した天皇は内親王を三品に叙したと伝わります。
有智子内親王の墓
内親王は天長8年(832)に病のため斎院から退かれ、
承和14年(847)に41歳で薨去されました。
門
内親王の墓の右隣りに落柿舎があります。
落柿舎は松尾芭蕉の弟子・ 向井去来が営んだ草庵で、庭にあった40本の柿の木の実が
一夜の内に、殆ど落ちつくしたことが、「落柿舎」の由来となりました。
向井去来(むかい きょらい)は慶安4年(1651)に、儒医・向井元升(げんしょう)の
二男として肥前国(今の長崎市興善町)に生まれました。
万治元年(1658)に父・元升が家族と共に京都に上り医師を開業したことから、
武芸に専心していた去来は堂上家に仕えました。
堂上家は御所の清涼殿への昇殿する資格を有する上級貴族でしたが、
去来はその職を捨て、武士の身分を離れて貞享(じょうきょう)元年(1684)に
俳諧に入ったとされています。
貞享4年(1687)以前には既に落柿舎を営んでいたとされ、
元禄2年(1689)には松尾芭蕉が初めて落柿舎を訪れています。
芭蕉は元禄4年(1691)の4月18日から5月4日まで滞留して『嵯峨日記』を執筆した他、
併せて三度訪れました。
また、蕉門の最高峰の句集とされる『猿蓑(さるみの)』の編集を向井去来と野沢凡兆
依頼し、元禄4年に訪れた際に、その監修も行いました。
向井去来は蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられ、
芭蕉が最も信頼した高弟でした。
但し、去来が営んだ落柿舎は現在地では無く、諸説あり、場所は定かではありません。
本庵
門をくぐると本庵があり、壁に蓑と笠が掛けられています。
庵主が在庵していることが示され、蓑と笠が無ければ外出中だったようで、
現在は本庵の手前に受付所があり、そこで300円を納めないと
中への立ち入りができません。
HPでは250円と記されていますが、値上げされたようです。
本庵図面
本庵への入室はできませんが、土間へは入ることができます。
本庵-囲炉裏
土間には囲炉裏があったようです。
本庵-流し台
右側に入ると井戸と炊事場があります。
本庵-かまど
奥にはかまどがあり、質素な生活ぶりがうかがえます。
本庵-丸窓
土間から見た室内奥の丸窓は趣があります。
本庵-縁側
本庵の縁側で一句捻ろうと思いましたが、文才なく何も浮かびません。
制札
制札は元禄7年(1694)5月に行われた落柿舎での俳席で、
即興に芭蕉が作ったとされています。
元案は去来が十年前に作ったとされ、「俳諧奉行」は芭蕉の戯言です。

現在の落柿舎は明和7年(1770)に井上重厚が、天龍寺塔頭の弘源寺跡地である
現在地で再建したものです。
井上重厚(いのうえ じゅうこう:1738~1804)は嵯峨の生れで向井家の支族と伝わり、
落柿舎の再建後は庵主となりました。
その後、20年ほどして弘源寺から土地の返還を求められ、
重厚は全国行脚することになりました。
重厚は寛政4年(1792)に芭蕉が度々訪れた義仲寺の住職となりました。
井上重厚が師事した蝶夢(ちょうむ:1732~1796)は、京都の岡崎に五升庵を結び、
芭蕉顕彰事業に注力し、義仲寺の復興と護持に尽力しました。
寛政5年(1793)、井上重厚によって営まれた芭蕉百回忌法要は、
蝶夢の達成事業とも言えます。
本庵-左側
本庵の左側
弘源寺に戻された落柿舎は、弘源寺の老僧の隠居所となり、
「捨庵(すてあん)」と称されるようになりました。
明治期(1868~1912)に捨庵が売りに出され、嵯峨の旧家が譲り受けました。
捨庵は落柿舎として再興されましたが、昭和の初期に衰微しました。
昭和12年(1937)に落柿舎の保存会が設立され、保存会が落柿舎を買い取りました。
昭和46年(1971)には教育出版社「新学社」会長の
保田與重郎(やすだ よじゅうろう:1910~1981)が13世庵主となり、
「落柿舎守当番」と称しました。
以後、公益財団法人として運営され、財政面では新学社に支えられています。
次庵
本庵の左側にある次庵は近年建立されたもので、句会席や茶会などに
有料(落柿舎拝観料込み700円)で利用できます。
句碑配置図
句碑説明-1
句碑説明-2
境内には句碑や歌碑が建っており、その配置や詠まれた句は画像の通りです。
俳人塔
五輪塔は「俳人塔」と称され、左側は平澤興(ひらさわ こう:1900~1989)の句碑です。
平澤興は京都大学の第16代総長を務めた人で、
俳人塔の竣工祭の折に詠まれた句が刻まれています。
鹿威し
俳人塔の右側に鹿威しが設置されています。
藤棚
奥に藤棚がありますが、開花にはまだ早かったようです。
去来の墓
落柿舎を出て、有智子内親王(うちこないしんのう)の墓の角を右に曲がった先の
墓地の中に向井去来の墓があります。
向井去来は、宝永元年9月10日(1704年10月8日)に落柿舎で亡くなりました。
享年54歳。
墓地やその周囲には、昭和37年(1962)に弘源寺が全国から募集した
歌や句の碑が数多く建てられています。
西行井戸
墓地沿いに東へ進むと西行井戸があります。
西行は勝持寺で出家し、その後この地で草庵を結んだ際に使われた井戸と伝わります。
展示施設への坂道
文芸苑への坂道
墓地から通りを挟んだ西側に小倉百人一首文芸苑・新古今集の
屋外展示施設があります。
枝垂桜
坂道を登った所に、枝垂桜が満開に花を咲かせていました。
新古今集-配置図
『新古今和歌集』は後鳥羽上皇の命により編纂された勅撰和歌集で、
元久2年(1205)にいったん完成し奏覧されましたが、
その後も上皇により、手が加えられました。
文芸苑では14首の歌が紹介されていますが、その一部です。
新古今集-持統天皇
新古今集-持統天皇-説
新古今集-山部赤人
新古今集-山部赤人-説
新古今集-寂連法師
新古今集-寂連法師-説
新古今集-藤原清輔
新古今集-藤原清輔-説
詞歌集-大中臣能宣
新古今集-中納言家持-説
詞歌集-配置図
池の横を通った奥に詞歌集の展示施設があり、4首が紹介されています。
『詞花和歌集』(しかわかしゅう)は、八代集の第六にあたる勅撰和歌集で、
天養元年(1144)に崇徳上皇の命により、藤原顕輔
(ふじわら の あきすけ:1090~1155)が撰者となって編集されました。
仁平元年(1151)に完成、奏覧されましたが、総歌数415首は八代集で最少です。
詞歌集-法性寺
詞歌集-法性寺-説
詞歌集-崇徳院
詞歌集-崇徳院-説
詞歌集-伊勢大輔
詞歌集-伊勢大輔-説
詞歌集-大中臣能宣
詞歌集-大中臣能宣-説
詞歌集-源重之
詞歌集-源重之-説
二尊院へ向かいます。
続く

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山門
「無動庵」から100m足らず西へ進んだ突き当りに常寂光寺があります。
南約100mに小倉池があるので随分遠回りして来た感があります。
山門は江戸時代後期に改修されました。
江戸時代中期の「都名所図会」には袖に土塀をめぐらした薬医門が
描かれていますが、現在は土塀は取り払われ、「塀の無い寺」となっています。
常寂光寺は山号を小倉山と号する日蓮宗の寺院で、洛陽十二支妙見の札所です。
慶長元年(1596)に本圀寺(ほんこくじ)十六世・日禎(にっしん)が
この地に隠棲して開創されました。
常寂光の「常」には法心(ほっしん)、「寂」には般若、
「光」には解脱の意味があります。
法心とは仏が悟った真理、般若とは真理を悟る智慧、解脱とは生死の苦悩から
根源的に開放された状態のことであり、この地は涅槃にいたっている
仏が住む地の観があるとして「常寂光寺」と名付けられました。

かって、山門脇に歓喜天堂がありましたが、元治元年(1864)の「禁門の変」の際、
天龍寺から逃れてきた長州兵を追って来た幕府軍の薩摩藩兵により焼かれました。
尚も薩摩藩兵は本堂にも火を放とうとしたのですが、
第32世・日仁がこれをくい止め、焼失は免れました。
仁王門
仁王門は境内で最も古い建物で、貞和年間(1345~1350)に本圀寺客殿の
南門として建立されたものを、元和2年(1616)に移築されました。
仁王像-右
仁王像-左
仁王像は鎌倉時代の仏師・運慶の作と伝わり、北の政所の甥で小浜城主の
木下長嘯子(きのした ちょうしょうし:1569~1649)により、長源寺から遷されました。
山荘跡石碑
仁王門の右側に藤原定家山荘跡の石碑が建っています。
定家の山荘の場所については諸説あります。
碑には定家の歌が刻まれています。
「小倉山 峯のもみじ葉 こころあらば いまひとたびの 御幸(みゆき)またなん」
本堂への石段
仁王門をくぐった石段上に本堂があります。
本堂
本堂は安土・桃山時代の慶長年間(1596~1614)に、第2世・通明院日韶(にっしょう)

により、小早川秀秋の助力を得て伏見城の客殿が移築・修造されたものです。
かっては本瓦葺の二層屋根でしたが、昭和7年(1932)の大修理の際に
平瓦葺屋根に改修されました。
本尊は「法華題目」で、釈迦如来像が安置されています。
鐘楼
鐘楼は寛永18年(1642)に建立されました。
鐘楼-梵鐘
梵鐘は戦時供出され、昭和48年(1973)に京都工芸繊維大学教授・青木一郎氏の
音響設計により鋳造されたものです。
庫裏
本堂の右側に庫裏があります。
妙見堂
本堂から左側に進むと妙見堂があります。
慶長年間(1596~1610)の保津川洪水の際、上流から流れ着いた妙見菩薩像を
角倉(すみのくら:現在の嵯峨天龍寺角倉町)の船頭が拾い上げ、地元で祀られていました。
享和年間(1801~1803)の第22世・日報上人の時に常寂光寺へ遷され、
第26世・日選上人の代に妙見堂が建立されました。
妙見堂-拝殿
拝殿は昭和3年(1928)に建立されました。
妙見菩薩は、インド発祥の菩薩ではなく、中国で道教の北極星・北斗七星信仰と
習合し、仏教の天部の一尊として日本に伝来したものです。
北極星または北斗七星を神格化したもので、「尊星王(そんしょうおう)」、
「妙見尊星王(みょうけんそんしょうおう)」、「北辰菩薩(ほくしんぼさつ)」などとも

呼ばれています。
古代中国では北極星を中心に星々が回転することが既に知られ、北極星が
宇宙の中心と考えられて「北辰」と呼ばれていました。
また、北斗七星は「斗=柄杓」の形をしていることから、
大地を潤す農耕の神として信仰されてきました。
「北斗は北辰を中心に一晩で一回転し、一年で斗柄は十二方位を指し、
夏・冬を分け、農耕の作業時期を示し、国家安寧を保証する」と重要視されました。
中国に仏教思想が流入すると、善悪や真理を見通すという意味が込められた
「妙見菩薩」と称されるようになり、飛鳥時代に日本へ伝わりました。
妙見堂-本殿
本殿
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
江戸時代中期に、京都の中心である御所・紫宸殿を中心に十二支の方角に
祀られた妙見宮を巡る「洛陽十二支妙見めぐり」が始まりました。
江戸時代末期から昭和初期にかけては、市内だけでなく関西一円から
大勢の参拝者で賑わうようになりました。
開運や厄除けが祈願された他、「妙見」の語義が「麗妙なる容姿」と解されて
役者や花街の女性などからも信仰を集めました。
妙見堂-狛犬
石造りの鳥居や石灯籠、本殿前の狛犬などが寄進・奉納されています。
五輪塔
妙見堂から西側へと進む参道の脇には五輪塔があり、石仏が祀られています。
本堂-裏の庭園
本堂の裏側に戻ると庭園が築かれています。
多宝塔
石段を登ると元和6年(1620)に建立され、重要文化財に指定されている
多宝塔があります。
方三間、重層、宝形造、檜皮葺で総高は12m余りです。
歌仙祠
多宝塔の上方に歌仙祠(かせんし)があり、富岡鉄斎筆の扁額が掲げられ、
藤原定家、藤原家隆像が祀られています。
定家の山荘は常寂光寺の仁王門北側から二尊院の南側にあったと伝わり、
室町時代頃から定家像を祀る祠が建てられました。
常寂光寺の創建に伴い、祠は現在地に遷され、明治23年(1890)に以前の祠より
大きな現在の歌仙祠に建て替えられました。
藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての
公家・歌人で、2つの勅撰集、『新古今和歌集』と『新勅撰和歌集』を撰進しました。
宇都宮頼綱に依頼され『小倉百人一首』を撰じ、18歳から74歳までの
56年にわたる克明な日記『明月記』を残しました。

藤原家隆(1158~1237)は、藤原定家と並び称される歌人で、『新古今和歌集』の
撰者の一人でした。
嘉禎2年12月(1237年1月)に病を得て79歳で出家し、四天王寺に入りました。
四天王寺は日本浄土思想発祥の地とされ、西方の浄土を思って日が没する様子を
見詰める「日想観」が修せられていました。
家隆は四天王寺の西側に夕陽庵(せきようあん)を営み、「日想観」を修したとされ、
後にこの地は夕陽庵に因んで「夕陽丘」と呼ばれるようになりました。
大阪市天王寺区夕陽丘町5には、藤原家隆の墓と伝わる家隆塚があります。
時雨亭跡
歌仙祠の南隣に時雨亭跡(しぐれていあと) があります。
江戸時代の享保13年(1728)の境内図には、既に描かれており、
戦前まで建っていたとされていますが、台風で倒壊したと伝わります。
展望台-市内
歌仙祠の右上方に展望台があり、京都市内が一望できます。
展望台-比叡山
東側は比叡山から東山連峰が一望でき、画像の右端に大文字山が望めます。
開山堂
多宝塔の北側の開山堂は、平成16年(2004)に建立され、
開山・日禎(にっしん)上人坐像が安置されています。
日禎は第105代・後奈良天皇から第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に
仕えた公家・広橋国光の三男で、幼い頃に本圀寺に入り、
18歳で本圀寺第16世となりました。
文禄5年(1596)、豪商・角倉了以(すみのくら りょうい)から小倉山の土地を
寄進され、常寂光寺を開山して隠棲しました。

落柿舎へ向かいます。
続く

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