2020年06月

社号標
大酒神社から三条通りまで戻って東へ進み、三条通りが南東方向へと
カーブする手前で直進方向へ進んだ先に木嶋坐天照御魂神社があります。
創建に関する詳細は不明ですが、一説では推古天皇12年(604)の
広隆寺創建に伴い、秦氏によって勧請されたと伝わり、
「木嶋神社(このしまじんじゃ)」とも呼ばれていました。
社号標の左側に「蚕神社」の石標が建ち、
「蚕の社(かいこのやしろ)」とも呼ばれました。
鳥居
木製の鳥居をくぐり参道を進みます。
境内は京都市の史跡に指定されています。
社務所
参道を進むと右側(東側)に社務所があります。
祭具庫-東側
社務所の先に祭具庫があります。
祭具庫-西側
参道の左側にも祭具庫があります。
椿丘大明神の石標
左側の祭具庫の先に「椿丘大明神」の石標が建っています。
狛狐
椿丘大明神への参道には狛犬では無く、
稲荷神の使いである狐の像が代役を務めています。
不明な境内社-1
不明な境内社-2
不明な境内社-3
先に進むと末社三社がありますが、詳細は不明です。
椿丘神社を特定することはできませんが、付近で祀られていたものが遷されました。
白清社-1
奥に白清社があり、石室の中に宇迦之御魂神が祀られています。
かって、天塚古墳に祀られていましたが、明治19年(1886)頃に
古墳の発掘調査が行われ、当社境内に遷座されました。
白清社-2
天塚古墳の石室内に祀られていたことから、当地でもそれが再現されています。
拝殿
参道の正面には拝殿があります。
鎌倉時代、承久3年(1221)の承久の乱の際、後鳥羽上皇の討幕軍に加わった
三浦胤義(みうら たねよし)父子は奮戦しましたが木嶋神社へと逃れ、
末路を悟って自害しました。
郎従が社に火を放ったとされ、その後の文献への記載が見られず、変遷は不明です。
明治時代に現在の社殿が再建されています。
本殿-1
本殿の拝所
社名の「木嶋坐天照御魂神社」から、かっては辺りは「木嶋」と呼ばれ、
当初は天照御魂神(あまてるみたまのかみ)を祀っていたと推察されます。
天照御魂神は『日本書紀』では「天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほ
あかりのみこと)」、『古事記』では天火明命
(あめのほあかりのみこと)と記されています。
「天照国照」は太陽を表し、「火明」には稲穂が熟して赤らむ意味があり、
太陽神、農業神とされています。
籠神社(このじんじゃ) では、彦火明命は冠島に降臨され、籠神社の社家、
海部氏(あまのべし)の始祖となったとされています。
また、子孫が尾張国に移り、尾張氏の始祖となったとも伝わり、
かってこの地に海部氏か尾張氏に関わる人々が住み、
天照御魂神が奉斎されていたと推察されます。

国史での初見は『続日本紀』大宝元年(701)条で、月読神樺井(かばい)神
波都賀志神(羽束志神)と共に神稲を同年以後は
中臣氏に給付せよと記されています。

貞観17年(875)及び元慶元年(877)には雨乞のための奉幣が遣わされた
旨が記され、祈雨の神として信仰されていたようです。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
朝廷の月次祭・相嘗祭・新嘗祭では幣帛に預かった旨が記載されています。
平安時代末期の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』では、木嶋社が伏見稲荷大社
石清水八幡宮と並んで参拝者が絶えず、賑わい門前には市が立っていたようです。
本殿-2
現在の祭神は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・大国魂神
(おおくにたまのかみ)・穂々出見命(ほほでみのみこと)・鵜茅葺不合命
(うがやふきあえずのみこと)・瓊々杵尊(ににぎのみこと)の五柱で、
明治16年(1883)の『葛野郡神社明細帳』に記載され、継承されています。
蚕養神社
本殿の右側に蚕養神社(こがいじんじゃ)があり、通称で「蚕の社」と呼ばれています。
蚕養の神・保食神(うけもちのかみ)・木花咲耶姫命(このはなのさくやびめ)が
祀られています。
蚕養の神は、養蚕、機織り、染色などの技術を有していた秦氏の祖神とされています。

保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、
山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなしました。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、
保食神を斬り殺しました。
それを聞いた天照大神は怒り、月夜見尊と会わなくなったことから、
太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったとされています。
また、保食神の屍体から蚕の他、牛馬や粟、稲、麦、
大豆などが生まれたとされています。

木花咲耶姫命は、邇邇芸命と結婚し、一夜で身篭りました。
邇邇芸命は我が子かと疑い、木花咲耶姫命は疑いを晴らすため、
産屋に入り火を放ちました。
炎の中で生まれたのが天火明命で、無事に出産できたことにより、
天津神の子であることが証明されました。
八社殿
本殿の左側に八社殿がありますが、詳細は不明です。
糺の池への鳥居
本殿前を左に進むと鳥居が建っています。
三柱鳥居-1
鳥居をくぐった先の立ち入りは禁止されていますが、先には「元糺の池
(もとただすのいけ)」の中に珍しい三柱鳥居(みはしらとりい)が建っています。
三柱鳥居-2
三柱鳥居の方位は、冬至には稲荷山から朝日が昇りって松尾山へ沈み、
夏至には比叡山四明岳から朝日が昇り愛宕山に沈むのに関係するとされています。
木嶋神社から比叡山四明岳への線上に下鴨神社の糺の森があります。
第52代・嵯峨天皇の御代(809~823)に潔斎(けっさい)の場が、
この地から下鴨神社の糺の森へ遷されたことに因み「元糺」の言葉が残され、
元糺の池周辺の森は「元糺の森」と呼ばれています。

また、三柱鳥居の三面の延長線上に秦氏ゆかりの伏見稲荷大社、
松尾大社双ヶ岡があり、揺拝方位を表しているとされています。
正確には比叡山、愛宕山、当社境内を結ぶと逆三角形になるとされています。
三柱鳥居の中央に石が積まれ、幣帛が立てられています。
池を磐座とし、祭祀の場として池の三方から拝されたのかもしれません。
水路-1
元糺の池は現在は枯れてしまっていますが、かっては豊富な湧水があり、
夏の土用の丑の日にこの泉に手足を浸すと諸病に良いとの信仰がありました。
水路-2
元糺の池から境内に水路が導かれています。
東屋
水路の脇に東屋があります。
手水
付近に「かいこのやしろ」と刻まれた手水があり、その脇にある
円い石には方位が刻まれています。
天塚古墳-入口
木嶋坐天照御魂神社から東へ進み、国道162号線へ右折して南へ進み、
京福電車の踏切を超えた所で右折して西へ進みます。
その先の信号を超えた所で左折して西へ進んだ住宅街の奥に
天塚古墳があり、入口には鳥居が建っています。

天塚古墳は6世紀前半に造られたと推定される全長70m余りの前方後円墳で、
太秦古墳群の中で蛇塚古墳に次ぐ規模があります。
秦氏一族の墓と推定され、明治20年(1887)に行われた発掘調査で、
銅鏡や勾玉など約400点の副葬品が出土しました。
天塚古墳-社標
石段を登ると「白清稲荷大明神」の標石が建っています。
天塚古墳-社務所前の鳥居
社務所らしき建物があります。
天塚古墳-社務所
右端には社殿もありますが、詳細は不明です。
天塚古墳-参道
鳥居から左側へ参道が続いています。
天塚古墳-祠への鳥居
後円部と思われる方には鳥居が建っています。
天塚古墳-祠-1
天塚古墳-祠-2
鳥居をくぐって登って行くと、幾つかの小さな祠があります。
天塚古墳-三尊仏
下って後円部の周囲を進むと三尊の石仏が祀られています。
天塚古墳-石室
更に進むと石室があります。
天塚古墳-白清稲荷
石室の奥に白清稲荷大明神が祀られています。
明治20年(1887)の発掘調査の際に木嶋神社へ遷座されましたが、
明治31年(1898)に信者の希望により元に戻されました。
石室は建物の裏側にあり、建物横の細い通路で入口の鳥居へと戻れます。

国道162号線まで戻り、国道を北上して高雄の先、高山寺へ向かいます。
続く

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鳥居
広隆寺の東側の通りを北へ進むと右側にカーブし、
次の信号の手前に大酒神社があります。
かって、広隆寺の桂宮院(けいぐういん)内にあって鎮守社として祀られ、
「大辟神社(おおさけじんじゃ)」と称されていました。
「辟」には君主の意味があります。
大辟神社は、仲哀天皇8年(199)に秦始皇帝(しんのしこうてい)十四世の孫・
功満王(こうまんおう)が戦乱を避け、日本に渡来し、
始皇帝の新霊を勧請したのが始まりとされています。

応神天皇14年(372)には功満王の子・弓月王(ゆんずのきみ)が、
百済から百二十七県(あがた)の民衆(ともがら)18,670余名を統率して渡来し、
金銀玉帛(ぎょくはく)等の宝物を献上しました。

弓月王の孫・酒公(さけきみ)は蚕を養い、上質な絹織物を織り、
朝廷に多数献上しました。
宮中に絹織物が山のように積まれ、天皇は酒公に埋益(うずまさ)という意味から
「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓を贈りました。

大辟神社境内に呉服漢織の神霊が祀られるようになりましたが、
社が明暦年間(1655~1658)に破壊して合祀されるようになり、
酒公に因んで「大酒神社」と改められました。

推古天皇11年(603)に酒公の六代目の孫・秦河勝(はた の かわかつ)が
広隆寺を創建するとその鎮守社となりました。

現在広隆寺で十月十二日の夜に行われる京都三大奇祭の一つである「牛祭り」は、
大酒神社が広隆寺の伽藍神であった時の祭礼です。

明治の神仏分離令により、大酒神社は現在地に遷座し、
昭和45年(1970)の道路開通により社地は半減されました。

石碑には「蠶(蚕)養機織管絃舞楽之祖神」、側面には「太秦明神、
漢織女(あやかとりめ)、呉織女(くれはとりめ)」と刻字されています。

太秦明神とは秦河勝のことで、聖徳太子が秦河勝に「六十六番の物まね」を作らせ、
紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりとされ、秦河勝は、
歌舞芸能の祖神とされています。
また、漢織女と呉織女は渡来した4人の織女の2人とされています。
手水舎
手水舎
本殿
本殿
大辟神社は延長5年(927)にまとめられた『延喜式』神名帳に列せられ、
近代社格制度では村社でした。
近代の研究で、「大辟」を「大避」と解釈し、「災難を避ける」との意味で道祖神が
祀られていたとも、「大裂」と解釈され土木技術によって大地・川を裂き開拓を
行なった秦氏をたたえる神格とする説など祭神の神格には諸説ありました。

明治16年(1883)の神社明細帳に主祭神を秦始皇帝・弓月王・秦酒公、
相殿神に兄媛命(えひめのみこと=呉織女)・弟媛命(おとひめのみこと=漢織女)を
祀ると記され、それが現在でも継承されています。

祭礼の「牛祭り」は、長和年間(1012~1017)に恵心僧都・源信が広隆寺金堂(講堂)の
阿弥陀如来を拝して念仏会を修し、念仏守護神として
麻多羅神を勧請したのが始まりと伝わります。
摩多羅神(またらじん)は、慈覚大師・円仁が勧請したインド伝来の神で、
円仁は常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたとされています。
当日は特異な面をつけた摩多羅神が牛に乗って四天王(白装束の赤鬼、青鬼)・
行列を従え四周を練り歩き、薬師堂前で祭文を読み上げて祭を閉じます。
鞍馬の火祭今宮神社のやすらい祭と共に、京都三大奇祭の一つに数えられ、
京都市登録無形民俗文化財に登録されています。

木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)へ向かいます。
続く

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仁王門
車折神社から三条通りを東へ進むと通りに面して広隆寺の駐車場があり、
駐車券に参拝受付で印を押してもらうと、駐車料金は無料となります。
広大な駐車場にかっては大型バスが並んで止まり、大勢の団体客が境内へと
入って行くのを見て、長らく参拝を断念していましたが、新型コロナの影響で
他の都府県への移動が制限されているため、
駐車場は我がバイクが隅っこで独り占めしています。
駐車場から境内に入り、三条通りまで戻ります。
仁王門は交通量の少ない早朝に撮影したので門は閉まっています。
仁王門は元禄15年(1702)に再建されました。

広隆寺は山号を蜂岡山(はちおかやま)と号する真言宗系の単立寺院で
聖徳太子霊跡の第24番札所です。
秦氏の氏寺として創建され、平安京遷都以前から存在する山城最古の寺院です。
平野神社付近(北野廃寺跡に比定)に創建され、平安京遷都前後に
現在地に移転したとする説が有力視されています。
かっては、蜂岡寺や秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺とも呼ばれました。
「広隆寺」と呼ばれるようになったは、開基・秦河勝(はた の かわかつ)の
実名「広隆」に因むとされています。

その後、弘仁9年(818)の大火で広隆寺は全焼しました。
承和3年(836)に空海の弟子・道昌が広隆寺別当に就任して復興し、
道昌は中興の祖とされています。
道昌は法輪寺も中興し、渡月橋を架橋するなど行基の再来と称されました。
仁王像
仁王像は室町時代の作と伝わります。
薬師堂
仁王門をくぐった左側に薬師堂があり、平安時代前期作で像高101.3cmの
薬師如来立像が安置されています。
通常の薬師如来像と異なり、神仏習合の型をとった天部形の薬師如来で、
吉祥天像のような像容に造られています。
昔、乙訓社(向日明神)の前に時々光を放つ神木があり、
向日明神が化身して薬師如来像を刻みました。
延暦16年(797)5月5日、乙訓社に安置されていた薬師如来像が
瑠璃光明を放ち、勅により願徳寺へ遷されました。
貞観6年(864)に第56代・清和天皇が病を患われた際、道昌僧都が勅許を得て
薬師如来像を広隆寺へ遷し、七日間の修法を行うと天皇の病は治癒しました。
長和3年(1014)5月5日にも延暦16年と同じ日時に光明を放ったため、
この日を拝謁日と定められました。
能舞台
薬師堂の北側に能楽堂がありますが、現在でも能が演じられているかは不明です。
聖徳太子は秦河勝(はた の かわかつ)に「六十六番の物まね」を作らせ、
紫宸殿で舞わせたものが「申楽」の始まりとされ、広隆寺を創建した秦河勝は、
歌舞芸能の神として信仰されています。
地蔵堂
能楽堂の北側に地蔵堂があり、「腹帯地蔵尊」と呼ばれる
地蔵菩薩像が安置されています。
空海が、諸人安産、子孫繁栄請願に基づき自ら刻んだと伝わります。
現在は不明ですが、かっては腹帯が授与されていたようで、
その腹帯を締めることにより地蔵尊が出産の苦しみを引き受け、
安産が授けられたとの伝承が「腹帯地蔵尊」の由来となっています。
講堂-1
参道の東側に永万元年(1165)に再建された講堂がありますが、
付近への立ち入りが禁止されています。
正面5間、側面4間、寄棟造、本瓦葺きの建物で、かっては「金堂」と呼ばれ、
国の重要文化財に指定されています。
講堂-2
講堂-西側
市内に残る数少ない平安時代の建物ですが、永禄年間(1558~1570)に改造され、
近世にも修理を受けて、建物の外観や軒回りには古い部分はほとんど残っていません。
堂内の須弥壇に、国宝に指定されている、平安時代作で像高264cmの
阿弥陀如来像が安置されています。
脇侍として右側に像高182.4cmの地蔵菩薩坐像、左側に像高233.3cmの
虚空蔵菩薩坐像が安置されています。
共に平安時代(9世紀)の作で、国の重要文化財に指定されています。
手水舎
講堂の北側に手水舎があります。
太秦殿
手水舎の左奥に天保12年(1841)に再建された太秦殿があり、太秦明神(秦河勝)、
漢織女(あやかとりめ)、呉織女(くれはとりめ)が祀られています。
第29代・欽明天皇(在位:539~571)は、夢の中に童子が現れ
「吾は秦の始皇帝の再誕なり、縁有りてこの国に生まれたり」と告げられました。
その後、初瀬川が氾濫し、三輪大神の社前に童子が流れ着きました。
欽明天皇は、「夢にみた童子は此の子ならん」として殿上に召し、始皇帝の夢に因んで
童子に「秦」の姓(かばね)を下し、また初瀬川氾濫より助かったことから
「河勝」と称したと伝わります。
聖徳太子の側近として仕え、聖徳太子が諸国を巡った際に山城国「蜂丘」の
南に宮を建て、その宮を賜り、一族を率いました。
推古天皇11年(603)には太子から弥勒菩薩像を賜り、河勝は宮を寺に改め、
「蜂岡寺」と称したと伝わります。
一方で広隆寺は推古天皇30年(622)に薨去された聖徳太子の供養のために
創建されたとの説もあり、弘仁9年(818)の火災で古記録を失ったことで、
初期の歴史は必ずしも明確ではありません。

漢織女と呉織女は渡来した4人の織女の2人とされています。
秦氏は日本に養蚕や機織の技術を伝え、「秦」には機織りに由来するとも、
絹布の意味があるとの説があります。
上宮王院太子殿
講堂の北側に享保15年(1730)に再建された上宮王院太子殿があります。
入母屋造、檜皮葺の建物で、広隆寺の本堂です。
上宮王院太子殿-2
上宮王院太子殿-西側
堂内には平安時代作で像高148cmの聖徳太子立像が安置されています。
像内に元永3年(1120)、仏師・頼範作の造立銘が残されています。
聖徳太子が秦河勝に仏像を贈った年齢である、太子33歳時の像とされています。
太子像は、天皇が即位などの重要儀式の際に着用する
黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)と同様のものが着せられています。
第105代・後奈良天皇(在位:1526~1557)以降の装束や冠が現存し、
現在の太子像は平成天皇が平成2年(1990)の即位の礼に際し、
調進された御袍と同じ染織技法を用い、天皇着用のものの
約8割の寸法で製作された黄櫨染御袍を着用しています。
客殿への門
上宮王院太子殿の西側に新霊宝殿への参拝受付所があり、
その手前に客殿への門がありますが、非公開です。
受付で800円を納め先へ進みます。
桂宮院への道標
「左 桂宮院(けいぐういん)」の石標が建っていますが、通常非公開で駐車場の
北側辺りの塀で囲まれた一画にあることから、建物を見ることもできません。
法隆寺夢殿と同じ八角円堂で、聖徳太子像が祀られていますが、
現在は太子像は新霊宝殿に遷されています。
建長3年(1251)の中観上人澄禅(ちょうぜん)による当堂建立のための勧進帳が
あることから、おおむねその頃の建立と推定され、国宝に指定されています。
弁天社
東側には池があり、池の中に弁財天社があります。
旧霊宝殿
その先、正面には旧霊宝殿がありますが、非公開です。
大正11年(1922)の聖徳太子1300年忌を祈念して建立されました。
新霊宝殿
旧霊宝殿の東側に新霊宝殿があります。
新霊宝殿内の撮影は禁止されています。

新霊宝殿に入った西側中央に薬師如来像が安置されています。
平安京遷都後の延暦16年(797)、広隆寺は勅願により、本尊を薬師如来とされました。

薬師如来の右側に像高175cmの日光菩薩、左側に像高174cmの
月光菩薩像が安置されています。
康平7年(1064)に定朝の弟子・長勢の作で、国の重要文化財に指定されています。

更にその両側に像高113~123cmの十二神将立像が安置されています。
康平7年(1064)に定朝の弟子・長勢の作と伝わりますが、
作風はいくつかのグループに分かれ、12躯は長勢と弟子などの協力者により
造立されたと推定され、国宝に指定されています。

霊宝殿の四隅には四天王像が安置されています。
共に平安時代の作で、国の重要文化財に指定されています。

北側の壁面、中央に国宝第一号に指定されている宝冠弥勒菩薩半跏思惟像が
安置されています。
像高123.3cmで、推古天皇11年(603)に秦河勝が、
聖徳太子から賜った像とされています。
像は朝鮮半島のアカマツ材の一木造で、内刳りの背板にはクスノキに似た
広葉樹が使用されています。
このことから、朝鮮半島からの渡来像であるとする説を覆し、朝鮮半島から輸入された
アカマツ材を用い、国内で制作されたとする説が有力になりつつありますが、
韓国の国立中央博物館にある金銅弥勒菩薩半跏像との様式の類似が指摘されています。
また、明応8年(1499)成立の、『広隆寺来由記』には推古天皇24年(616)、
坐高二尺の金銅救世観音像が新羅からもたらされ、
当寺に納められたという記録が残されています。
一説では推古天皇31年(623)に新羅から請来された仏像とする説もあり、
現在ではその真偽を確認するのは不可能と思われます。

宝冠弥勒菩薩半跏像の右側に「宝髻(ほうけい)弥勒」と称される、
もう一躯の半跏思惟像が安置されています。
像高90cm、クスノキ材の一木造で白鳳時代(645~710)の作とされ、
瞳が潤んだように見えることから「泣き弥勒」とも呼ばれ、国宝に指定されています。

宝冠弥勒菩薩半跏思惟像に向かい合うように、中央に千手観音菩薩立像、
東側に不空羂索観音菩薩立像、西側に十一面観音菩薩立像が安置されています。
千手観音菩薩立像は藤原時代(平安時代中・後期)の作で像高260cm、
国宝に指定されています。
新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の西北隅に安置されていました。

不空羂索観音菩薩立像は奈良時代末期~平安時代初期の作で像高313.6cm、
国宝に指定されています。
新霊宝殿が開館するまでは講堂外陣の東北隅に安置されていました。

十一面観音菩薩立像は像高260cmで平安時代の作です。

その他、東面にも国の重要文化財に指定されている多数の仏像が安置されています。

大酒神社へ向かいます。
続く

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社号標-1
鹿王院から三条通りまで戻り、三条通りを東へ進んだ北側に車折神社があります。
車折神社の旧社格は村社で、現在は神社本庁に属さない単立神社です。
また、神仏霊場の第91番札所となっています
社号標は富岡鉄斎の筆によるもので、鉄斎は明治21年(1888)に宮司に就き、
復興に尽力しました。
社号標-2
参道を進むと、更に円柱の社号標が建ち、「桔梗紋」と「丸に一つ引き」が
合わさった社紋が付けられています。
水神社
社号標の先、左側に水神社があり、罔象女神(みつはのめのかみ)が
祀られています。
昔は大堰川(おおいがわ=桂川)が神社近くまで流れていたため、
氾濫を鎮めるために龍神に祈願していたことに由来しています。
愛宕神社
水神社の右側に愛宕神社があります。
表参道
表参道を進みます。
清少納言神社
左側に清少納言社があり、祭神と同族とされる清少納言が祀られています。
清少納言の父は三十六歌仙の一人・清原元輔(きよはら の もとすけ)で、
車折神社では祭神の清原頼業(きよはら の よりなり)と同族とされていますが、
ウィキペディアでは別氏族と解説されています。
祖霊社
清少納言社の裏側(西側)に祖霊社があります。
葵忠社
祖霊社の葵忠社(きちゅうしゃ)があり、福田理兵衛(ふくだ りへい:1814~1872)
が祀られています。
福田家は嵯峨で材木商を営み、天龍寺の御用達だった関係で
長州藩から依頼され、天龍寺が長州藩の宿舎となりました。
元治元年(1864)の禁門の変の際、理兵衛親子は長州藩と共に戦い、
敗れて長州へと逃れました。
幕府軍であった薩摩藩兵により福田家は没収され、屋敷には火が放たれました。
この時失った財産は、概算で一万五千両とされています。
明治維新後に一家揃って京都への転居が許可されましたが、
理兵衛は叶わず明治5年(1872)に亡くなりました。
明治31年(1898)に親族が福田家の旧宅地を譲り受け、敷地内に祠殿を造営して
理兵衛を祀り、命日の4月13日には祭が行われました。
昭和10年(1935)に旧宅地に隣接する車折神社の境内に祠殿が遷され、
理兵衛を偲ぶため『嵯峨の遺光』が発行されました。
題字「一片葵忠」が清浦奎吾(きようら けいご)伯爵から贈られたことから
「葵忠社」と称されるようになりました。
芸能神社
清少納言社の向かい側(東側)に芸能神社があり、
天宇受売命(あめのうずめのみこと)が祀られています。
昭和32年(1957)に末社・地主社から分祀、創建されました。
昭和61年(1986)まで付近に大映京都撮影所、現在でも松竹撮影所や
東映太秦映画村があり、多くの芸能人が訪れることから創建されたと思われます。
玉垣
芸能や芸術、技芸の上達を祈願し、朱塗りの玉垣が多数奉納されています。
その中には著名人の名も見られます。
嵯峨面
拝殿には嵯峨面が祀られています。
江戸時代の末期に厄除けや魔除けのお守りとして嵯峨の社寺で
授与されていましたが、いつしか姿をを消し、近年復活されています。
芸能道具家社
芸能神社の右前に芸能道具家社があり、茶筅や毛筆などが奉納され、
芸能上達などの祈願が行われています。
本殿前の鳥居
参道の正面に鳥居が建っていますが、直進はできません。
三船祭
右に曲がると三船祭で使われる「龍頭(りゅうとう)」と
「鷁首(げきす)」が展示されています。
三船祭は昭和3年(1928)の昭和御大典を祈念して始められ、
毎年5月の第三日曜日に大堰川で催されています。
当日は、平安時代に貴族が管弦の遊びなどをするのに用いた
龍頭鷁首の船が再現されます。
「鷁」とは鵜に似た想像上の鳥の名です。
手水舎
参道は北へ曲がって進み、参道を進むと右側に手水舎があります。
車前石-1
手水舎の手前に「車前石(くるまざきいし)」が祀られています。
車前石-2
鎌倉時代に第88代・後嵯峨天皇阿が嵐山への行幸の際、牛車の轅
(ながえ=牛車なのどの前方に長く突き出ている2本の棒)が折れ、動かなくなりました。
天皇は神威を畏れ、門前右側の石を「車折石」と呼んで、
「正一位車折大明神」の神号を贈られたと伝わります。
火焚串
拝殿前に火焚串(護摩木)が置かれています。
参拝者が願い事を記して奉納された火焚串は、8月18日~11月23日まで
受付が行われ、11月23日の午後1時から営まれる火焚祭で、
願い事の成就を祈念して「かまど祓」の神事が執り行われます。
背後にある建物は春光舎で、建物では各種儀式が執り行われます。
この建物は、昭和天皇の即位を祝う御大典で使用されたものが、
御所から移築されました。
拝殿
拝殿は昭和63年(1988)に建立されました。
石
拝殿前には願いが叶い、海や川などで拾い、お礼の言葉が記された
多数のが奉納されています。
拝殿-天井画
拝殿には、京都出身の日本画家・山口玲煕
(やまぐち れいき:1894~1979)による天井画が描かれています。
本殿
本殿は宝暦2年(1752)に造営され、平成26年(2014)に全面改修工事が行われました。
かって、この地は明経道を家学とした清原家の領地でした。
清原家を中興した清原頼業(きよはら よりなり)が文治5年(1189)に亡くなり、
この地に葬られ、廟が建てられました。
その後、頼業の法名「宝寿院殿」に因み寺号を「宝寿院」と号する寺が建立されました。

第88代・後嵯峨天皇(在位:1242~1246)が大堰川への行幸の際、
社前で牛車の轅(ながえ)が折れたことにより、天皇から「車折大明神」の神号を賜り、
「車折神社」と称されるようになりました。
また、廟の周囲には多くの桜が植えられたことから「桜の宮」とも呼ばれました。
祭神は清原頼業(1122~1189)で、朝廷組織の最高機関である外記(げき)の職に
就きましたが、早くから藤原頼長や九条兼実などにその実務と学識を認められ、
平安時代末期の動乱期の朝廷に政策を上奏しました。
家学である明経道の復興に尽力し、清原家中興の祖とされています。
学業の神として信仰されるとともに、頼業が約束を違えなかったことに因み、
債権の回収が滞りなく進み、経営の安定化に御加護があるとされています。
更に恋愛や結婚など、様々な約束事が履行される御利益があるとされています。
八百万神社
本殿の裏側に八百万神社(やおよろずじんじゃ)があり、八百万の神々が祀られ、
人脈拡大の御利益があるとされています。
清めの社
参道に戻り、北へ進むと清めの社があります。
社務所
社務所
車折神社では、手水舎で身を清めた後、まず、清めの社に参拝して
悪い運気や因縁を浄化して心身を清めます。
次に社務所受付で「祈念神石」を授かり、本殿で「祈念神石」を両手で挟んで
願い事を心の中で念じるとされています。
天満天神社
清めの社の向かい側奥に天満天神社(そらみつあまつかみのやしろ)があり、
天満大神が祀られています。
「天満」は菅原道真の死後、道真の怨霊が雷神となり、天に満ちたことに由来し、
仏教の大自在天と習合して、道真の神号は
「天満(そらみつ)大自在天神」と称されました。
神明神社
天満天神社の手前に神明神社があり、伊勢両宮が祀られています。
滄海神社-1
参道へ戻り北に進むと滄海神社(そうかいじんじゃ=弁天神社)があり、
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)が祀られています。
滄海神社-供え水-バケツ
参拝するには参道の本殿横辺りにある、緑色の手桶で水を汲み、
弁天社にお供えするようです。
滄海神社-供え水入れ
「滄海」とは大海原の意味があり、水の神・海の神と象徴されています。
天龍寺の末寺の守護神として室町時代の文明5年(1473)に創建されましたが、
末寺は廃寺となり、守護神が現在地に遷座されました。
明治の神仏分離令により祭神が現在の市杵嶋姫命に改められました。
地主神社-1
滄海神社の先で参道は斜めに左へと曲がっていますが、その角に地主神社があり、
第52代・嵯峨天皇が祀られています。
地主神社-2
かって、この付近に天皇が行幸された際に休まれた寺がありました。
その縁により、寺は天皇を祀るようになりましたが、廃寺となり、
当社境内に遷されました。
その後、昭和36年(1961)に地主神社として復興されました。
嵐電-車折神社駅
更に北へ進むと鳥居の先に京福電鉄・嵐山本線の「車折神社」駅があります。
明治43年(1910)に開業した嵐山電車軌道に社地を無償提供して駅が誘致され、
当初は「車折神社裏」駅と称されていました。
嵐電
嵐山電車軌道は大正7年(1918)に京都電燈に吸収合併され、大正11年(1922)に
「車折神社裏」駅から「車折」駅に改称されました。
昭和17年(1942)に現在の京福電気鉄道に譲渡され、平成19年(2007)に
「車折」駅から「車折神社」駅に改称されました。
裏参道-鳥居
「車折神社」駅からの参道は「裏参道」と呼ばれています。
駐車場へ戻ります。
駐車場からの鳥居
芸能神社の南側に駐車場からの鳥居が建ち、その脇に「舞」の石碑が建っています。
舞の碑
「関西舞踊界の発展に関わる各流の活躍を祝う」と記されています。
富岡鉄斎筆塚
駐車場と表参道との間にも参道があり、参道の東側に富岡鉄斎の筆塚があり、
鉄斎が使用した筆20本が納められています。
富岡鉄斎は天保7年(1836)に、三条新町東で法衣商・十一屋伝兵衛を営む
富岡維叙(これのぶ)の次男として誕生しました。
耳が少し不自由でしたが、幼少の頃から勉学に励み、富岡家の家学である
石門心学や、国学、勤王思想などを学びました。
更に、漢学、陽明学、詩文などを学ぶと、安政2年(1855)には女流歌人・
大田垣蓮月尼に預けられ、人格形成に大きな影響を受けました。
翌年に南画や大和絵を学び、文久2年(1862)には画業で生計を立て始めました。
明治維新後の30歳から10年余り、石上神宮(いそのかみじんぐう)や
大鳥大社などの神官を務めました。
明治8年(1875)には山梨県甲府市から長野県飯田市へと旅し、
富士山へも登頂しました。
明治14年(1881)に兄・伝兵衛が亡くなり、京都へ転居して
明治21年(1888)に車折神社の神官を務めました。
明治26年(1893)から明治37年(1904)まで京都市美術学校の教員となりましたが、
明治42年(1909)に病を患い、大正13年(1924)に亡くなりました。
享年89。
小唄・堀派の祖霊舎-1
筆塚の南側に小唄・堀派の祖霊社があります。
堀派は大正2年(1913)に堀小多満(ほり こたま:1876~1941)により、
東京都で創立された、日本初の小唄流派です。
小唄・堀派の祖霊舎-2
大正12年(1923)の関東大震災後は大阪に移り、道頓堀に稽古場を設けました。
その後、中国地方、九州地方、北陸、四国その他各地にも進出しましたが、
昭和16年(1941)に死去されました。
その後は家元を置かず、堀派会として組織を改め継承されています。
大国主神社
参道の西側に大国主神社があり、大国主命が祀られています。
昭和32年(1957)に勧請されました。
辰巳稲荷神社
大国主神社の北側に辰巳稲荷神社があり、宇迦之御魂神
( うかのみたまのかみ )が祀られています。
社名は本社から辰巳(南東)の方角に位置することに由来しています。

広隆寺へ向かいます。
続く

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総門
桂川の北岸を嵐山方面から三条通りに入り、その先で左折して北へ進んだ先に
鹿王院があります。
総門前に無料駐車場があります。
鹿王院は正式には「覚雄山・大福田宝幢禅寺・鹿王院」と号する
臨済宗系の単立寺院です。
室町幕府第3代将軍・足利義満はある夜、夢の中で「今年必ず大病するが、
一伽藍を建立すれば寿命が延びる」と告げられました。
そこで、義満は春屋妙葩(しゅんおく みょうは:1312~1388)を開山として
康暦元年(1379)に興聖禅寺(こうせいぜんじ)を創建しました。
嘉慶元年(1387)に開山堂が建立されると周りに野鹿が集まったことから、
開山堂は「鹿王院」と称されました。
開山堂は春屋妙葩の寿塔(生前に造る墓)を守る塔頭として創建されましたが、
妙葩はその翌年に入寂されました。
その後、寺号は「大福田宝幢禅寺(だいふくでんほうどうぜんじ)」と改称され、
至徳3年(1386)には京都十刹(五山に次ぎ、
諸山の上に位置する臨済宗の寺格)に列せられました。
一休宗純は、12歳の時にこの寺で維摩経の講義を受けたと伝わります。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で灰燼に帰し、
宝幢禅寺は廃絶し鹿王院のみが残されました。
鹿王院も文禄5年(1596)の慶長伏見地震で倒壊しました。
寛文年間(1661~1673)に徳川四天王と称された酒井忠次の子・
忠知により再興され、忠知の子である虎岑玄竹(こしん げんちく)が中興開山となり、
鹿王院が寺名とされました。
総門は切妻造の本瓦葺きで、創建時に近い南北朝時代の建立と推定されています。
総門-扁額
山号「覚雄山」の扁額は、足利義満の22歳頃の真筆とされています。
築地塀
築地塀は「信長塀」のように見えますが、詳細は不明です。
参道
参道には多数の楓が植えられ、秋は紅葉の名所となっています。
鎮守社
参道の途中左側に鎮守社があります。
稲荷社
こちらは稲荷社でしょうか?
中門
更に参道を進むと中門があります。
庫裏
中門をくぐり、斜めに進んだ先に庫裏があります。
庫裏で参拝料400円を納めると、諸堂を参拝することができます。
玄関
庫裏の入口の左側にある客殿の玄関
韋駄天像
庫裏には韋駄天像が安置されています。
増長天の八将の一神で、四天王下の三十二将中の首位を占める天部の仏神で、
日本の禅宗では厨房や僧坊を守る護法神とされ、
中国の禅寺では山門や本堂前によく祀られています。
客殿
客殿は明治時代(1868~1912)の初期に建立されました。
客殿-扁額
客殿の扁額「鹿王院」は足利義満の真筆で、「天山」という義満の法号の院があり、
出家した38歳以降の揮毫とみられています。
舎利殿前庭-1
舎利殿前の庭園は宝暦13年(1763)に、嵐山を借景として作庭されたもので、
市の名勝に指定されています。
舎利殿前庭-2
苔で覆われ、石組と植え込みを配した平庭式枯山水庭園です。
舎利殿前庭-三尊石
石組みは三尊石でしょうか?
茶室・芥室
茶室・芥室(かいしつ)は、昭和11年(1936)に俳優の大河内傳次郎から
寄進されたものですが、非公開です。
「芥室」は普明国師の号で、「取るに足りない小さな者」の意味があります。
渡り廊下
諸堂は渡り廊下で結ばれています。
小鳥
小鳥も遊びに来ています。
本堂
本堂(開山堂)は延宝年間(1673~1681)に虎岑玄竹により再建されました。
堂内中央に運慶作と伝わる本尊の釈迦如来坐像と
十大弟子像が安置され、仏殿を兼ねています。
後檀右に開山・普明国師(春屋妙葩)像が安置され、
その真下に延宝4年(1676)に建立された宝篋印塔があります。
左に延宝3年(1675)以前に造立されたとみられる衣冠束帯姿の
足利義満像が祀られています。
他に虎岑和尚像などが安置されています。
舎利殿
舎利殿は「駄都殿(だとでん)」とも称され、宝形造で裳階付き建物で、
江戸時代に建立され、宝暦13年(1763)に現在地に移築再建されました。
舎利殿-厨子
殿内の中央に銅製鍍金の多宝塔を納め、四方に四天王像を配した
宮殿風の大きな厨子があります。
多宝塔内には、鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が宋(中国)から将来したと
伝わる仏牙舎利が水晶玉内に奉安されています。
仏牙とは釈迦の歯のことで、歯は言葉を発する重要な源であり、釈迦の教え
そのものと象徴されることから、仏舎利の中でも最も貴ばれています。
仏牙舎利は当初、鎌倉の円覚寺に安置されましたが、その一部を
北朝第4代・後光巌天皇が京都に献じさせ、応安7年(1374)に普明国師が
天皇から賜り、鹿王院に安置されるようになりました。
この仏牙舎利は、釈迦涅槃後の荼毘の時に帝釈天に与えると約束されていましたが、
捷疾羅刹(しょうしつらせつ)という鬼が盗んで逃げ去りました。
これを毘沙門天が取り戻し、南山道宣律師
付嘱(ふしょく=たのみまかせること)しました。
道宣律師は自らが開いた宋の都・臨安の能仁寺に奉安しました。
源実朝は、夢の中で道宣律師の再来と伝えられたことにより、
能仁寺の仏牙舎利の請来を再三行い、ようやく目的を遂げました。
仏牙舎利が博多に着いたのが10月15日とされることから、
この日を「舎利会」と定め、厨子を開帳して供養が行われています。
天蓋
天蓋には龍図が描かれ、堂内には釈迦涅槃図や十六羅漢図が掲げられています。

車折神社へ向かいます。
続く

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