2020年07月

山門
蓮花寺は山号を五智山と号する真言宗御室派の別格本山で、
近畿三十六不動尊霊場の第15番札所です。
大同4年(809)、唐から帰国して入京を許された空海は、広沢池の北西
(現在の第91代・後宇多天皇の蓮華峰寺陵地内)の岩屋の中で不動明王を感得し、
石に刻んできゅうり封じの秘法を残されました。
天喜5年(1057)、藤原康基は第70代・後冷泉天皇の勅願を受け、
この不動明王を奉祀するとともに、阿弥陀如来・観音菩薩等の諸像を安置し、
寺領を寄進して蓮花寺を創建しました。

徳治年間(1306~1308)に後宇多法皇(1267~1324)により、蓮花寺は中興され、
「蓮華峰寺(れんげぶじ)」と改称されました。
徳治2年(1307)に妃の遊義門院(ゆうぎもんいん)が崩御され、
後宇多上皇は仁和寺で得度を受けて法皇となり、
大覚寺を御所として大覚寺門跡となりました。
翌徳治3年(1308)に第94代・後二条天皇が崩御されると、天皇の父(治天の君)
としての実権と地位を失い、政務から離れ、真言密教に関心を深めました。
蓮花寺を中興するにあたり、東寺や高野山に匹敵する
構想を持っていたとされています。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)の兵火を受けて蓮華峰寺は消失しました。
寺地は鳴滝音戸山(おんどやま=現在の宇多野病院の裏にある山)の山上に
移されましたが、百数十年にわたって荒廃が続きました。

寛永18年(1641)に常信により再興されました。
江戸の豪商・樋口平太夫は、寛永12年(1635)に五智不動尊の霊夢に導かれて出家し、
常信と称して秩父三十四カ所・西国三十三カ所・坂東三十三カ所を巡り、
修行を行っていました。
寛永18年(1641)に鳴滝音戸山へ訪れた常信は、伽藍を復興しますが、
この時期仁和寺も応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した伽藍を、
第21世門跡・覚深入道親王が再建しています。
第107代・後陽成天皇の第1皇子・良仁親王(かたひと しんのう)は、
文禄3年(1594)に次期天皇即位を前提に親王宣下を受けました。
一説では、豊臣秀吉が朝鮮出兵が成功して明を征服した暁に、後陽成天皇を北京に遷して、
良仁親王を日本の天皇にする計画を持っていたと伝わります。
しかし、慶長3年(1598)に秀吉が没し、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで
豊臣軍が敗北すると、豊臣政権色の強い良仁親王は徳川家康により廃されました。
翌慶長6年(1601)に親王は仁和寺で出家し、寛永11年(1634)に
第3代将軍・徳川家光に仁和寺の伽藍再興を願い出て認可されました。
蓮華峰寺は常信により再興されましたが、寛永21年(1644)に再興された
福王子神社のように、徳川家光や覚深法親王の援助があったのかもしれません。
蓮華峰寺は覚深法親王から賜った「五智山 蓮華寺」に改められました。
昭和3年(1928)には第18世・慈海大僧正により現在地で中興されました。
五智如来
境内には手前から釈迦如来・阿弥陀如来・大日如来・宝生如来(ほうしょうにょらい)・
薬師如来の五智如来像が祀られています。
常信は再興に当たり、木喰僧・坦称上人に五智不動尊像の修理と
五智如来の彫刻を依頼しました。
昭和33年(1958)、鳴滝音戸山の山上にあった五智如来像が現在地に遷されました。
五智如来は密教の教理に基づく5つの知恵を5体の如来にあてはめたもので、
江戸時代になると広大無辺の仏智にすがり、さまざまの苦難から逃れようとする願望が、
深い民間信仰となって世に広まりました。
北方世界の釈迦如来は「智慧聡明の功徳」、西方世界の阿弥陀如来は
「極楽往生の功徳」、中央の大日如来は「太陽を示し、万物を慈しみ五穀豊穣の功徳」、
南方世界の宝生如来は「福徳財宝の功徳」、東方世界の薬師如来は
「医薬の功徳」というように現生利益を願う信仰が強くなりました。
地蔵像他
背後には地蔵菩薩や観音菩薩、聖僧像などが祀られています。
不動堂
不動堂には「五智不動明王」と称される不動明王の石像が安置されています。
不動堂では毎月28日に護摩供が、年1回の土用丑の日に
きゅうり封じの秘法が修せられます。
きゅうり封じとは弘法大師が一切衆生病苦・悪業の根を断ち切って病苦を和らげ、
業病・難病から逃れ、長寿と極楽往生の願を込めて
五智不動尊を創祀せられた際に残された秘法です。
本堂
現在の本堂は平成27年(2015)に落慶し、本尊の阿弥陀如来坐像が安置されています。
鐘楼
鐘楼
納経所
納経所

宇多天皇陵へ向かいます。
続く

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勅使門-1
仁和寺の二王門をくぐった左側に「御殿」と呼ばれる一画があり、
かってこの辺りに宇多法皇の御所があったと伝わります。
法皇が住した僧坊は「御室」と呼ばれ、仙洞御所(せんとうごしょ)の役割を果たし、
御室に入った上皇の尊称ともなりました。
また、付近の地名の由来にもなっています。
御殿には勅使門があり、国の登録有形文化財となっています。
御殿は明治20年(1887)に焼失したため、京都府技師であった亀岡末吉による
設計で再建され、主要な建物は国の登録有形文化財となっています。
勅使門は大正2年(1913)に再建されました。
檜皮葺屋根の四脚唐門で前後を唐破風、左右の屋根を入母屋造としています。
勅使門-2
勅使門-3
門には鳳凰や牡丹唐草、幾何学模様などの彫刻が施されています。
本坊-門
勅使門の南側に本坊表門があり、御殿への拝観入口となります。
拝観受付
門をくぐり、斜めの参道の先が御殿への入口で、拝観料500円を納めます。
霊宝館の拝観料500円を合わせると700円に割引されるのですが、
新型コロナの影響で霊宝館は閉館されていました。
白書院-南側の間
白書院は明治23年(1890)に再建され、現在の宸殿が再建されるまでは
仮宸殿として使われていました。
昭和12年(1936)に福永晴帆(ふくながせいはん)により、
松を主題にした襖絵が描かれました。
壺は信楽焼です。
白書院-中の間
中の間
白書院は東面して建ち、表と裏に三室ずつあり、表側の前が順路となっています。
室境には竹の節欄間が用いられています。
白書院-北側の間-1
白書院-北側の間-2
北側の間には床や違い棚が設けられています。
白書院-南庭
白書院の正面広縁は吹放しで、前面は「南庭」と呼ばれ、
勅使門との間には白砂が敷かれて東西に砂紋が引かれています。
宸殿
南庭の北側に宸殿があり、向かって右側(東側)に「左近の桜」、
左側(西側)に「右近の橘」が植えられています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、
左近は御所の紫宸殿の東方に、右近は西方に陣を敷き、
その陣頭の辺に植えられていたのでこの名があります。
宸殿は大正3年(1914)に再建された門跡寺院に相応しい優雅な意匠で、
亀岡末吉の代表作の一つとされています。
桁行19.7m、梁間11.8m、入母屋造檜皮葺で寝殿造の外観、
書院造の内部構成を組み合せています。
中庭
各建物は「御殿回廊」によって結ばれ、宸殿と黒書院の間には中庭があります。
奥に見えるのは霊明殿です。
黒書院
白書院の北西方向、宸殿の西側に黒書院があります。
京都・花園にあった旧安井門跡の宸殿を移して改造したもので、
明治42年(1909)に竣工しました。
桁行15.5m、梁間11.7m、入母屋造桟瓦葺。
黒書院-松の間
昭和6年(1931)の宇多天皇一千年・弘法大師一千百年御忌の記念事業として、
堂本印象画伯により襖絵が描かれました。
こちらは松の間で、堂本印象画伯が名付けた画材の名が、
全6室それぞれの名称となっています。
黒書院-上段の間
秋草の間及び上段の間。
霊明殿
黒書院の北側に霊明殿があります。
仁和寺の院家であった喜多(北)院の本尊・薬師如来坐像を安置する為に
明治44年(1911)に建立されました。
亀岡末吉により設計された方三間、宝形造、一間向拝付、檜皮葺の建物で、
正面に須弥壇があります。
薬師如来坐像は像高10.7cm、康和5年(1103)に仏師・円勢
長円を率いて製作し、国宝指定されていますが、秘仏です。
また、仁和寺歴代門跡の位牌が祀られています。
遼廓亭
霊明殿の西側に茶室・遼廓亭(りょうかくてい)がありますが、
屋根の一部しか見えません。
江戸時代中期(1661~1750)に建立され、天保年間(1830~1844)に
門前(堅町)から移築されたと伝わり、国の重要文化財に指定されています。
また、尾形光琳の弟・尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)が
仁和寺の南に営んだ草庵であったとも伝わります。
尾形乾山が、元禄2年(1689)に茶室・如庵(じょあん)を模した習静堂を構え、
参禅や学問に励むとともに、付近に住む野々村仁清から陶芸を学びました。
光琳も習静堂を好み、乾山が器を作り、光琳がそこに絵を描いた
兄弟合作の作品も多く残されています。
霊明殿-北庭
宸殿の北側には北庭が築かれ、霊明殿からは見下ろすことができます。
北庭は、寛永年間(1624~1643)に作庭されたと推定され、元禄3年(1690)に
加来道意(かく どうい)、白井童松(しらい どうしょう)らにより改修されました。
しかし、明治20年(1887)の火災で荒廃し、大正時代(1912~1926)に
七代目・小川治兵衛によって整備されました。
北庭-2
北庭は池泉回遊式庭園で、西側と東側の池との間には橋が架けられています。
宸殿-霊明殿
西側の池越しに霊明殿を望みます。
池には睡蓮だと思われる白い花が咲いています。
北庭-滝組
滝組には江戸時代の作庭が残されています。
北庭-飛濤亭
池背後の築山には茶室・飛濤亭(ひとうてい)が建てられ、その奥に中門の屋根、
更に奥に五重塔が望めます。
茶室・飛濤亭は第119代・光格天皇遺愛の席と伝わり、
江戸時代末期(1830~1867)に建立されました。
鴨居の高い貴人口が設けられているなど、貴族好みの実例で、
わびの手法が遊びの意匠に利用されているとして、
国の重要文化財に指定されています。
北庭-東池
建物の直線的な縁と庭園の描く曲線が対比されています。
宸殿-上段の間
宸殿は、明治20年(1887)の焼失以前は御所から下賜された常御殿が
移築・改築して使用されていました。
現在の建物は、大正3年(1914)に建立され、内部は三室からなり、
襖絵や壁などの絵は全て原在泉(はらざいせん:1849~1916)の筆によります。
西側の上段の間の床には「遠山流水」、襖には「桜花」が描かれ、
床框(かまち)などには螺鈿細工が施されています。
宸殿-中段の間-葵祭之図
中段の間、西側の襖には「葵祭之図」が描かれています。
宸殿-中段の間-大堰川三船之図
東側には秋の「大堰川三船之図」が描かれています。
宸殿-下段の間
東側の下段の間には「鷹野(大阪・交野)行幸図」が描かれています。
宸殿-下段の間-将棋
また、平成31年(2019)に将棋の第32期竜王戦(龍王=広瀬章人:ひろせ あきひと/
挑戦者=豊島将之)の第2局対戦場となりました。
この対戦で豊島将之名人が第1局に次いで勝利し、
通算4勝1敗で竜王位を奪取しました。
因みに当時の藤井聡太七段は4組で優勝し、決勝トーナメントに進出しましたが、
1組4位だった豊島将之名人に準々決勝で敗れました。
宸殿-板戸絵
宸殿の板戸絵

画像はありませんが、宸殿の東側には車寄せがあります。
宸殿-勅使門-2
宸殿からの勅使門と二王門
東門
御殿を出て、東へ進むと東門があります。
東門を出て、向かいの蓮花寺へ向かいます。
続く

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西門
御室八十八ヶ所霊場から下ってきた所に仁和寺の西門があります。
境内の立ち入りは無料ですが、桜の季節は有料となります。
御影堂-門
門を入った北側に御影堂の門があります。
御影堂
御影堂は鎌倉時代の建暦元年(1211)に創建されましたが、応仁・文明の乱
(1467~1477)で焼失し、寛永年間(1624~1644)に慶長年間(1596~1615)に
造営された御所の清涼殿の一部が下賜され、移築・再建されました。

堂内には像高75cmの弘法大師像、像高75cmの宇多法皇像、
像高80cmの性信親王像が安置されています。
これらの像は全て、寛永年間(1624~1644)の再建時に造立されました。
仁和寺は仁和2年(886)に第58代・光孝天皇の勅願で建立に着手されましたが、
天皇は翌年に崩御されました。
遺志を継いだ第59代・宇多天皇により、仁和4年(888)に落成し、
「西山御願寺」と称されましたが、その後、年号から「仁和寺」と改称されました。
空海の弟子・真然を導師として盛大な落慶法要が営まれたことから、
仁和寺は真言宗の寺院となりました。
寛平9年(897)、宇多天皇は醍醐天皇に譲位し、昌泰2年(899)に東寺長者
(東寺の管理者・長官)の益信(やくしん:827~906)を戒師として出家し、
「寛平法皇」と名乗りました。
更には延喜元年(901)に東寺で伝法灌頂を受け、真言宗の阿闍梨となると、
法皇の弟子となった僧侶に灌頂が授けられるようになりました。
法皇は弟子の僧侶を朝廷の法会に推挙し、真言宗と朝廷との関係強化や
地位の向上を計りました。
延喜4年(904)に法皇は「御室」と呼ばれる僧坊を造営して移り住みました。
承平元年(931)に法皇が65歳で崩御され、性信親王が仁和寺第二世となりました。

性信入道親王(しょうしんにゅうどうしんのう:1005~1085)は第67代・三条天皇の
第4皇子で、寛仁2年(1018)に出家し、治安3年(1023)に
仁和寺で伝法灌頂を受戒しました。
親王宣下を受けてから出家されたので「入道親王」と称せられます。
性信親王は、第70代・後冷泉天皇が病の際、その平癒を祈願して
霊験があったことなどから永保3年(1083)に二品に叙せられました。
出家した皇族に品位が与えられた最初の例とされています。
別当よりも上位にあたる検校(けんぎょう)に任じられ、仁和寺第二世となりました。
水掛不動尊-1
御影堂の東側に門があり、出た所に水掛不動尊が祀られています。
近畿三十六不動尊霊場・第14番の札所本尊でもあります。
水掛不動尊は「菅公腰掛石」の上に安置されています。
宇多法皇は譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、
大納言・藤原時平の次席とし、道真と時平に政務を委ねました。
昌泰2年(899)に時平は左大臣に任ぜられて太政官の首班となり、
同時に菅原道真も右大臣に任ぜられました。
しかし、宇多上皇や道真の政治手法に密かに不満を抱いていた
醍醐天皇と藤原時平・藤原菅根(ふじわら の すがね)らが政治の主導権を奪還せんと、
道真に太宰府への左遷を下しました。(昌泰の変=しょうたいのへん)
道真は上皇に無実を訴えるため仁和寺に訪れたのですが、
上皇が御影堂で勤行中であったため、道真がこの石の上に腰を掛け
勤行が終わるのを待っていたとされています。
法皇は急遽内裏に向かいましたが、宮門は固く閉ざされ、
藤原菅根は醍醐天皇への取次も行わなかったと伝わります。
水掛不動尊-2
不動明王の石像はかって、一条戻り橋が洪水で流された際、その復旧工事中に
下流から出現したもので、当初は現地で祀られていました。
しかし、不動明王が仁和寺に帰りたいと告げたので、
地元の人々により現在地に安置されました。
その後、腰掛石の下から水が湧き出したと伝わります。
鐘楼
南へ進むと、正保元年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されている鐘楼があります。
大黒堂
御影堂の向かい側に、江戸時代初期に建立された大黒堂があります。
毎月28日に護摩供が修せられています。
令和阿弥陀堂
大黒堂の南側に令和阿弥陀堂があり、その前には石庭が築かれています。
御室桜
更にその南側には桜の林があります。
「御室桜」と呼ばれ、遅咲きの桜として有名で、国の名勝に指定されています。
背丈が伸びず、遅咲きなのは、粘土質の土壌で土中に
酸素や栄養分が少ないのが要因の一つと考えられています。
観音堂
東側に曲がると、寛永18年(1641)から正保元年(1644)にかけて建立され、
国の重要文化財に指定されている観音堂があります。
本尊は寛永期作の千手観音菩薩で、脇侍として不動明王・降三世明王、
更にその周囲に二十八部衆が安置されています。
須弥壇の背後や壁面、柱などには、白衣観音をはじめ仏・高僧などが
極彩色で描かれていますが、堂内は通常非公開です。
五重塔-1
観音堂前の参道を東へ進むと、寛永21年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されている総高36.18mの五重塔があります。
五重塔-梵字
塔正面には大日如来を表す梵字の扁額が掲げられ、
塔内須弥壇の中央に大日如来像が、それを囲み、東に宝幢 (ほうどう) 、
南に開敷華 (かいふけ) 、西に無量寿、北に天鼓雷音 (てんくらいおん) の
胎蔵界の四仏が安置されています。
塔の中央に心柱、それを囲むように四本の天柱が塔を支え、
柱や壁面には真言八祖像などが描かれています。
金堂への参道
五重塔から東の木立へと進むと、烏から奇襲攻撃を受けました。
二羽の烏が交互に、頭をめがけて襲ってきます。
寸前のところで身をかがめて何の逃れ、退散して五重塔と観音堂の間にある
南北の参道まで退却しました。

参道の北側の正面に金堂があります。
金堂-1
慶長年間(1596~1615)に造営された御所の紫宸殿が下賜され、
寛永年間(1624~1643)に移築されました。
宮廷建築の数少ない遺構として国宝に指定されています。
本尊は創建時の阿弥陀三尊像で、国宝に指定されていますが、
現在は霊宝館で安置されています。
阿弥陀如来坐像は像高89.5cmで、宇多天皇が崩御された父・光孝天皇の追善のため
造立したと伝わり、光孝天皇の等身大とされています。
腹前で定印を結ぶ現存最古の阿弥陀像で、平安時代の彫刻が次第に和様式へと
たどる出発点の造形とされています。
左脇侍は像高123.3㎝の観音菩薩立像、右脇侍は像高123.4cmの勢至菩薩立像です。
金堂-2
現在の金堂には、江戸時代の再建時に造立された
阿弥陀三尊像が安置されています。
また、梵天、帝釈天、四天王像などが安置され、
壁面には浄土図や観音図などが極彩色で描かれます。
黄石公
金堂向拝の屋根の左右には、黄石公(こうせきこう)を乗せた
亀の飾り瓦が施されています。
黄石公は中国秦代末の隠者で、前漢創始の功臣・張良に
太公望の兵書を授けたとされています。
呂尚(りょ しょう)は、古代中国・周の軍師で、「太公望」と呼ばれ、殷(いん)を破った
軍功により、斉(せい)の地を与えられてとされています。
兵法書『六韜(りくとう)』を著し、釣を好んだことから、
日本では釣り師の代名詞となっています。
亀は3000~4000年に一度、水面に顔出すとされ、黄石公はその亀を
3~4回見たそうで、永遠の象徴として安置されています。
中門
金堂から南へ進んだ正面に江戸時代に再建された中門があります。
三間一戸の八脚門で、国の重要文化財に指定されています。
増長天像
増長天像
多聞天像
多聞天像
門には増長天像と多聞天像が安置されています。
済信塚
門をくぐり南へ進んだ東側に済信塚があります。
済信(さいじん/せいじん:954~1030)大僧正の聖徳をしのび
追恩謝徳の浄域として定められました。
済信大僧正は、仁和寺二世・性信入道親王の師であり、
万寿4年(1028)の藤原道長の葬儀の際は導師を務めました。
仏教界の聖僧として寛仁4年(1020)には、
朝廷より僧侶として初めて牛車の使用を許されました。
霊宝館
済信塚の南側を東へ曲がった北側に大正15年(1926)に
建立された霊宝館があります。
霊宝館は春(3/20~5/31)と秋(9/19~12/6)に開館されていますが、令和2年(2020)は
第58代・光孝天皇の1133回忌を記念して夏(7/21~8/31)にも開館されます。
霊宝館では国宝12件、重要文化財47件、古文書類をあわせると
数万件にも及ぶ寺宝が収蔵されています。
金剛華菩薩像
霊宝館の前に、仏師・長田晴山により、昭和56年(1981)の宇多法皇1050年
御忌法要の記念事業として造立された金剛華菩薩像が祀られています。
「花の仏さま」と呼ばれ、花を愛した宇多法皇を流祖とする華道・御室流の
技芸上達を祈願して造立されました。
御室会館
霊宝館から東へ進んだ南側に御室会館があります。
青少年錬成道場として、日本船舶振興会(現日本財団)から助成を受け、
昭和53年(1978)に完成しました。
修学旅行や海外学生団体の宿泊などの他、各種研修会、勉強合宿、
地域の福祉活動の場として利用されています。
冠木門
御室会館の前を北へ進むと冠木門があります。
九所明神社-鳥居
門をくぐって先に進むと鳥居が建っています。
烏の襲撃にビビリながら先へ進んだのですが、烏は出かけられたようで、
姿は見かけませんでした。
九所明神社-拝殿
先へ進むと鎮守社・九所明神社の拝殿があります。
九所明神社-織部灯籠
拝殿の先に九所明神社があり、その前には織部灯籠が建っています。
古田織部により創案されましたが、竿の円部に、アルファベットを
組み合わせた記号を陰刻し、その下部に立像が浮彫されました。
これを地蔵信仰に似せた隠切支丹の尊像と見て、「マリア灯籠」とか
「切支丹灯籠」とも呼ばれました。
九所明神社
九所明神は仁和寺の初代別当・幽仙が勧請した伽藍鎮守で、中殿・左殿・右殿から成り、
現在の社殿は寛永年間(1624~1643)の伽藍再建時に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
九所明神社-中殿
中殿は「八幡三所」と称され、石清水八幡宮の祭神・誉田別命(ほんだわけのみこと) 、
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)、比咩大神(ひめおおかみ)の
三柱が祀られています。

東側の左殿には、伏見稲荷大社の稲荷大明神、八坂神社の牛頭天王、
日吉大社西本宮の日吉大明神、及び下鴨神社の賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)・玉依姫命(たまよりひめのみこと)と上賀茂神社
賀茂別雷大神(かもわけいかづちのおおかみ)が祀られています。

西側の右殿には松尾大社の松尾大神、平野神社の平野大明神、
日吉大社東本宮の小日吉大明神、木嶋坐天照御魂神社
(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)の木野嶋天神が祀られています。
経蔵
九所明神社の左奥に経蔵があります。
寛永(1624~1643)~正保年間(1645~1648)に建立された宝形造、
禅宗様の建物で、国の重要文化財に指定されています。
堂内中央には八角輪蔵が設けられ、天海版の『一切経』などが収められています。
天海は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の大僧正で、
諡号(しごう)を「慈眼大師(じげんだいし)」と称します。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与し、
延暦寺の再興にも関わりました。
慶安元年(1648)には、幕府の支援により一切経(大蔵経)の印刷と出版を行いました。
堂内には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩など六躯の仏像が安置され、
壁面には八大菩薩や十六羅漢が描かれています。
烏に襲われることもなく無事に金堂前まで戻り、
参道を南へ進んで二王門へ向かいます。
二王門
二王門は寛永14年(1637)~正保元年(1645)に再建された重層、入母屋造、
本瓦葺で高さ18.7mの建物で、国の重要文化財に指定されています。
同時期に建立された知恩院三門と南禅寺三門を合わせ「京都三大門」と
呼ばれますが、仁和寺の二王門が和様に対し、他は禅宗様です。

仁和寺は山号を大内山と号する真言宗御室派の総本山で、
真言宗十八本山・第6番、京都十三仏霊場・第9番、
近畿三十六不動尊霊場・第14番及び神仏霊場の第92番札所です。
また、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として、
ユネスコの世界遺産に登録されました。
仁王像-左
吽形像
仁王像-右
阿形像
二王門には仁王像が安置されています。
中門-遠景
門をくぐり、中門を見ると背後に山号となった大内山が望めます。

仁王門をくぐった左側の一画は「御殿」と呼ばれています。
御殿を巡ります。
続く

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日時計
福王子神社から東へ進んだ先に仁和寺があります。
仁王門前の日時計は午前7時を指し、開門まではまだ時間がありそうなので、
御室八十八ヶ所霊場を巡ることにしました。
一番
仁和寺から西へ進み、ガソリンスタンドの角を北へ進んだ先に
霊場1番の霊山寺があります。
御室八十八ヶ所霊場は文政10年(1824)の頃、仁和寺第29世・済仁(さいにん)法親王
(1947~1848)が四国八十八箇所の巡拝ができない人々のために発願し、
四国八十八箇所各札所の砂を持ち帰らせてお堂に埋めたことが起源とされています。
仁和寺境内にある標高236mの成就山に、八十八の堂が建立され、
各札所の寺院と同じ本尊と弘法大師が祀られ、その山道の延長は3kmに及び、
約2時間を要します。
1番から23番の薬王寺までは「阿波の国 発心の道場」と記されています。
やすらぎの道
弘法大師像が祀られ、「やすらぎの道」と記されていますが、
普段の心掛けによるものと思われます。
1番の標高、約95mから山頂にある第48番・西林寺まで標高差約140mを登るので、
それほど甘くはありません。
石仏
しばらく進むと、石仏が祀られています。
江戸時代から、この巡礼道を通る多くの人を、見守ってくださっているのかもしれません。
登り坂-常楽寺
第14番・常楽寺の手前頃から登り坂の斜面が急となります。
「何が常楽寺だ!」とぼやきたくなります。
展望-双ヶ岡
しかし、その先で双ヶ岡などの展望が開け、疲れが癒されます。
下り坂
せっかく登ったにも関わらず、下り坂となり、また登り坂になります。
この巡礼道は、この先もアップダウンが繰り返されます。
二十三番
23番の薬王寺です。
阿波の国から土佐の国へと向かうのですが、「修行の道場」と記されています。
木の根の石仏
木の根の下に石仏が祀られていますが、その木は切り倒されています。
三十一番
稜線付近の第31番・竹林寺は台風被害なのか、屋根が吹き飛ばされています。
三十二番
第32番・禅師峰寺も柱が石柱で支えられています。
弘法大師像
その先には弘法大師像が祀られています。
風雨に耐えて立つ「修行の道場」が象徴されているように思えます。
三十六番
第36番・青龍寺です。
三十六番-堂内
本尊は不動明王で、堂内には護摩壇がありますが、
長い間使用されてないように思われます。
四十番
第40番の観自在寺です。
早くも土佐の国を巡り終え、伊予の国へと向かいます。
「菩提の道場」と記されています。
四十一番
第41番の龍光寺は六角堂です。
宇和島市の龍光寺は明治時代に再建されていますが、六角堂ではありません。
また、神仏習合時代の旧本堂は、現在は稲荷神社となっていますが、
その本殿も六角堂ではありません。
四十三番
第43番の明石寺です。
愛宕山
その先では愛宕山方面の展望が開けています。
標高924mと890mの二峰から成る双耳峰ですが、この地からは一峰のように見えます。
少し、いやかなりズルをして愛宕神社に参拝しましたが、
ここからは神社は890mのピークに邪魔されているように思えます。
宇多天皇陵参道-山上
巡礼道に戻り、先へ進むと第59代・宇多天皇陵参道の標石が建っています。
現在は仁和寺の東側から原谷への車道が整備され、
その車道からも参道が続いているので、下山してから車道をバイクで登り、
宇多天皇陵へ参拝したいと考えています。
原谷
こちらが原谷です。
正面が五山送り火、左大文字の大北山で、
その背後には京都北山の山並みが望まれます。
成就山頂上
成就山頂上にある第48番・西林寺です。

ベンチもあって休憩もできます。
成就山頂上-展望
京都西山の展望が開け、南の端は天王山です。
市内展望-西山
第48番・西林寺から下った先には市内方面の展望が開けています。
西山方面
市内展望-中心
市内中心部
市内展望-東山
東山方面
五十三番
下って行くと第53番・円明寺で迷いました。
最大の難所(?)で、迷いながらも岩を登ると第53番の円明寺で正解でした。
五十三番-順路
次の第54番・延命寺へはお堂と岩の間を通って進みます。
上の池
池があります。
第53番・円明寺で迷ったこともあり、仁和寺の開門時間が迫ってきました。
ショートカットしたため、いつの間にか讃岐国に入っていました。
六十八番
下った所にも池があり、第68番の神恵院(じんねいん)は池の中にあります。
鴨
池には鴨も住んでいます。
七十一番
第71番・弥谷寺(いやだにじ)も倒壊の危機にあります。
「作業中」と記されていますので、復旧される日も、そう遠くはないと思われます。
八十七番
ようやく下ってきました。
第87番の長尾寺です。
橋
長尾寺から橋を渡ります。
大窪寺-鐘楼
橋を渡った右側には鐘楼があります。
大窪寺-正面
結願の第88番・大窪寺は立派なお堂です。
大窪寺-右側
お堂の背後には宝篋印塔が建っています。
六地蔵
その右側には六地蔵が祀られています。
池
大窪寺の前方には池があり、カキツバタと思われる黄色の花が咲いています。
宇多天皇陵参道-麓
更に下ると宇多天皇陵参道の入口があります。

仁和寺へ向かいます。
続く

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社号標
三寶寺から国道162号線まで戻り、国道を市内方面へと走った五差路の角に
福王子神社があります。
かって、この地には延喜式に名前が見える深川神社がありました。
仁和2年(886)に第58代・光孝天皇の勅願により、福王子神社の東方に
仁和寺の建立が着手されました。
しかし、光孝天皇は翌年に崩御され、第59代・宇多天皇が遺志を継ぎ、
仁和4年(888)に仁和寺は落成しました。
昌泰3年(900)に光孝天皇の妃で、宇多天皇の母である班子女王
(はんし/なかこじょおう)が崩御され、神社付近に陵墓が造営されて葬られました。
鳥居
応仁・文明の乱(1467~1477)で深川神社は焼失し、寛永21年(1644)、跡地に
第3代将軍・徳川家光と仁和寺第21世・覚深法親王により社殿が造営され、
仁和寺の鎮守社となりました。
班子女王が祀られ、班子女王が多くの皇子・皇女を生んだ事から
「福王子神社」と称されたと伝わります。
鳥居・拝殿・本殿は寛永21年(1644)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
拝殿
拝殿
入母屋造、銅板葺
本殿
本殿
春日造、銅板葺
夫荒神社-1
本殿の左側に夫荒神社(ふこうじんしゃ)があり、
深川神社が転訛したとの説があります。
夫荒神社
江戸時代には「松尾大明神」とも称され、平安時代に氷室から宮中へ氷を献上する
習わしがあり、その運搬の際に命を落とすこともあった役夫たちの霊を祀り、
安全を祈願したとも伝わります。

仁和寺へ向かいます。
続く

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