2020年08月

南門
六請神社の北に、隣接して眞如寺への参道がありますが、通常非公開のため、
門は閉じられています。
眞如寺は山号を萬年山と号する臨済宗相国寺派の寺院で、鹿苑寺(金閣寺)・
慈照寺(銀閣寺)とともに相国寺の3つの山外塔頭を構成する寺院の1つです。
眞如寺は、無着如大尼(むちゃくにょだいに)が師の無学祖元の遺爪髪を祀るため、
衣笠山山麓に墓所を造り「正脈庵(しょうみゃくあん)」と号したのが
始まりとされています。
鎌倉幕府の有力御家人・安達泰盛の娘・千代野は、北条顕時(ほうじょう あきとき)の

正室となり、娘を出産してその娘(釈迦堂殿)は足利貞氏の正室となりました。
弘安8年(1285)、鎌倉幕府9代執権・北条貞時の時代に霜月騒動が起こり、
父・泰盛と安達一族は滅ぼされ、夫・顕時は騒動に連座して失脚し、
下野国に蟄居の身となりました。
千代野は出家して無学祖元の弟子となり、法名「無着」と号しました。
永仁6年(1298)頃に無着如大尼が入寂されると、正脈庵は荒廃しました。

興国3年/暦応5年(1342)に、足利貞氏の子で足利尊氏の弟・直義(ただよし)と
足利家のの執事・高師直(こうのもろなお)により正脈庵が再興されました。
佛光国師(無学祖元)の法孫である夢窓疎石を開山として招き、
正脈庵の跡地を中心に境内が拡張され、七堂伽藍が建立されました。
夢窓疎石は、佛光国師初住の中国浙江省の眞如寺から寺号を「眞如寺」とし、
佛光国師を勧請開山に、如大尼和尚を勧請開基に請じ、
自らは第二世として寺に入りました。
室町幕府によって定められた五山・十刹(ござん・じっせつ)の制では
十刹に格付けされ、幕府の保護を受けて眞如寺は栄えました。
正平13年/延文3年(1358)に足利尊氏が死去すると、葬儀は眞如寺で行われました。
一説ではその後、境内地が東西に分断されて西は等持院になり、
足利家の菩提寺となったとされています。
但し、等持院の公式HPに眞如寺から分断されたとの記載は無く、
眞如寺が再興された同時期に、眞如寺の境内、または隣接地に
等持寺の別院・北等持寺が建立され、足利尊氏の没後に尊氏の墓所となり、
尊氏の戒名から「等持院」と改称されたとするのが通説のようです。

寛正2年(1461)に眞如寺は焼失しました。
その後の応仁・文明の乱(1467~1477)でも焼失し、寺は一時期廃寺状態となりました。
明應8年(1499)から復興が始まり、方丈や仏殿が順次再建されました。
眞如寺は江戸時代を通じて五山派下において、臨済宗僧侶の法階のうち
「西堂(せいとう)職」の本庵としての役割を持ち、
法堂において授帖式を挙行する道場でもありました。
明暦2年(1656)に第108代・後水尾天皇により中興されました。
後水尾天皇の第5皇女・理昌女王(りしょうじょおう)は、正保3年(1646)に
得度して宝鏡寺門跡となりましたが、明暦2年(1656)に26歳で入寂され、
宝鏡寺歴代の菩提所である眞如寺に埋葬されました。
その際、荒廃していた眞如寺を天皇は嘆き、中興したとされています。
客殿
六請神社の西側を北へ進むと眞如寺の駐車場があり、
駐車場から東の正面に客殿(方丈)があります。
客殿に拝観受付がありますが、春と秋にのみ特別拝観が行われ、
拝観には予約が必要です。
11/15~12/5の秋の特別拝観は、現在は新型コロナ感染拡大のため、
拝観予約の受付は見合されています。
そのため、建物のみの撮影となります。
客殿の襖絵は原在中により、「四季花卉(かき)図」「西湖図」などが描かれています。
客殿の南庭は「かしきりもみじ」と呼ばれ、秋期特別拝観の公開場所となります。
客殿の奥に書院があり、書院の東側に池泉鑑賞式庭園が築かれています。
半僧坊大権現
客殿から参道を挟んだ西側に鎮守社があります。
大正7年(1918)に奥山・方広寺から
「半僧坊大権現(はんそうぼうだいごんげん)」の分身が勧請されました。
方広寺の開祖・無文元選禅師が唐からの帰途、嵐に遭遇した際に半僧坊が現れ、
船頭を指揮して無事に船を日本へ帰航させ、姿を消しました。
その後、禅師が方広寺を開かれた際に、再び半僧坊が現れ、禅師に仕え、
修行に励みましたが、禅師の入寂後に山内の護持を誓い、姿を消したと伝わります。
以後、方広寺では半僧坊を鎮守社として祀られるようになりました。
明治14年(1881)に山火事で方広寺が焼失した際、禅師の墓と鎮守社が
類焼を免れたことから、半僧坊の威徳によるものと信仰を集め、
明治時代には全国に広まりました。
眞如寺では毎年5月に「半僧坊御開帳大祭」が催されています。
大雄殿
参道を北へ進んだ正面に法堂(仏殿)があり、「大雄殿(だいおうでん)」の
扁額が掲げられています。
堂内中央の須弥壇には、本尊の宝冠釈迦如来像、脇侍として摩訶迦葉(まかかしょう)

と阿難陀(あなんだ)像が安置されています。
かって、仙洞御所で安置されていたものが遷されたと伝わります。

堂内奥に開山塔があり、勧請開山・仏光国師、勧請開基・無着如大尼、事実上の開山・

夢窓国師、再興を援助した高師直の像が安置されています。

等持院へ向かいます。
続く

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鳥居
妙心寺の北総門から京福北野線の踏切を超えた北東方向に
六請神社(ろくしょうじんじゃ)があります。
六請神社は標高201mの衣笠山の麓にあって、かって衣笠山は葬送地でした。
風葬が行われ、この地を開拓した人々が、その祖神とされる天照御魂神
(あまてるみたまのかみ)や大国魂神(おおくにたまのかみ)を祀り、霊の鎮魂と
この地の発展を祈願したのが六請神社の始まりとされています。
太秦の木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)も
天照御魂神を祀ることから、木嶋を開いた人々がこの地に進出、
或いはその逆かもしれません。
拝殿
拝殿
仁和4年(888)に仁和寺を開いた第59代・宇多天皇は、真夏に雪景色が見たいと
衣笠山に白絹を掛けたことから「きぬかけ山」と呼ばれ、
それが「衣笠山」へと転化して山名やこの地の地名となったと伝わります。
また、風葬の際、遺体に絹の衣を着せ、頭に笠を置いたことで
「衣笠山」になったとの説もあります。
平安時代に御霊信仰が起こり、自然災害や疫病が頻発すると怨霊の祟りと畏れ、
それを鎮めるため御霊会が度々行われるようになりました。
寛弘2年(1005)、藤原道長は衣笠山で御霊会を催しました。
道長は、衣笠岳御霊社を建立し、伊勢・石清水・賀茂・松尾・稲荷・春日の
六柱を勧請して祀ったとされています。
本殿
本殿
興国4年/康永2年(1343)、足利尊氏により北区等持院町に等持院が創建されると、
その鎮守社となり、「六所明神」と呼ばれるようになりました。
その後、周辺の松原村・等持院門前村の産土神として「六請神社」、「六所明神」、
「春日明神」とも呼ばれるようになりました。
明治の神仏分離令により、現在地に遷座されました。
力石神社-1
拝殿右側の末社・力石神社は、古来から祈願して石を持ち上げることができれば、
あらゆる力が授けられると伝えられ、大石が祀られています。
力石神社-2
現在では社務所で小石を授かり、それに願い事を記して奉納すれば
成就すると信仰を集めています。
社務所
境内の西側に社務所がありますが、残念ながら当日は不在のようでした。

眞如寺へ向かいます。
続く

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小方丈
大心院を出て北の方を見ると、東海庵の先から白壁が続いています。

白壁の間に妙心寺の小方丈の門がありますが、小方丈は非公開です。
慶長8年(1603)に玉鳳院御殿として建立されましたが、明暦2年(1656)に
現在地に移築・改築されました。
桁行15.9m、梁間10.0m、一重、入母屋造、こけら葺の建物で、
国の重要文化財に指定されています。
微妙殿
小方丈の先にある微妙殿(みみょうでん)は昭和56年(1981)3月に竣工した
新しい建物で、法要などが行われています。
桂春院境内図
微妙殿から北東方向に塔頭の桂春院があります。
数ある妙心寺境内の塔頭で、退蔵院・大心院と共に通年公開されています。
桂春院は、慶長3年(1598)に織田信忠の次男・織田秀則によって創建された
見性院(けんしょういん)が前身です。
秀則は豊臣秀吉を頼り、大坂城下に移り住んでいましたが、慶長3年(1598)に
秀吉が亡くなり、剃髪して妙心寺に入ったと思われます。
寛永2年(1625)に秀則は45歳で亡くなり、見性院は無住となりました。
寛永8年(1631)、石川貞政は父の50年忌の追善供養のために
桂南守仙(けいなんしゅせん)を請じて本堂を再建し、
両親の法名から「桂春院」に改めました。
石川貞政は、豊臣秀吉に馬廻衆として仕え、秀吉没後は豊臣秀頼に仕えて
大坂城に詰めていましたが、慶長19年(1614)に内通を疑われて城を追われ、
京都へ移り住みました。
そこを徳川家康によって召し出され、大坂の陣で徳川秀忠のもとで戦い、
武功により旗本の身分が与えられました。
寛永年間(1624~1645)には、姓を石川から石河(いしこ)に改名しています。
庫裏
表門を入った左前方の庫裏に拝観受付があり、400円を納めて方丈へと向かいます。
御朱印の受付も行われていて、色彩豊かな御朱印が授与されます。
清浄の庭-1
方丈と庫裏の間の坪庭は「清浄(しょうじょう)の庭」と称されています。
西側に井筒があり、その背後の巨石が枯滝を表しています。
清浄の庭-2
渓流は渡廊の下へと流れています。
侘の庭
渡廊の東側は穏やかな苔の庭で「侘(わび)の庭」と呼ばれ、
国の名勝・史跡に指定されています。
左側の建物が方丈です。
抹茶席
書院は抹茶席となり、予約をすれば抹茶が頂け、抹茶を頂かず、
予約なしでも入室は可能です。
書院の北側には茶室・既白庵(きはくあん)がありますが非公開です。
書院と茶室は寛永8年(1631)に、石川貞政が城主を務めていた
長浜城から移築しました。
かって、妙心寺では詩歌・香道・能楽・茶道などは修行の妨げになるとして
厳禁でしたが、建物の隅に隠れるように茶室を建て、密かに茶を楽しんだと伝わります。
床の間の左側に襖があり、その襖の奥に茶室があるようです。
思惟の庭
「侘の庭」の南側に「梅軒門」があり、門を境にして方丈側は
「思惟の庭」と呼ばれています。
門からの踏み石が三角形に分岐し、右側頂点に木に隠れるように座禅石が見られます。
方丈-1
方丈は、単層入母屋造・桟瓦葺の建物で、中央に仏間と室中の間があり、
正面に本尊の薬師如来像が安置されています。
方丈内は狩野山雪による水墨画の襖絵が描かれていますが、
建物内の撮影は禁止されています。
金碧松三日月
東の間には「芦原に落雁」「雪竹に茅屋の図」、室中の間には「山水、
枯れ木に鴉(からす)」「芦に泊まり船」「仏宇(寺院)人物雪の図」、
西の間には「老松に滝根笹」「金碧松三日月」が描かれています。
「老松に滝根笹」は現在修理中で、「金碧松三日月」は、
元は仏壇背後の壁の貼付け画でしたが、襖に改装されました。
また、東の間の床の間には釈迦如来と多宝如来の二仏併坐像が安置されています。
真如の庭-刈込
方丈南側の庭は「真如の庭」と呼ばれ、崖がつつじの刈込で覆われています。
方丈
刈込の西側の「クロガネモチ」の古木が、庭に趣を与えています。
真如の庭-刈込の間
スリッパに履き替え苑路を散策することができます。
つつじの刈込を横から見ると、刈込と植え込みとの間に空間があり、この空間により
方丈からの眺めが、刈込と植え込みを一体化させています。
真如の庭-苑路
生垣の南側に苑路が続いています。
真如の庭-巨石
南西角には巨石が配されています。
真如の庭-三尊石
中間辺りに三尊石が組まれています。
龍仙天空御霊神
先には龍仙天空御霊神を祀る祠があります。
龍仙天空御霊神横の石組み
龍仙天空御霊神の左側の石組み。
奥に配管パイプが見え、滝として水が流されていたのかもしれません。
地蔵尊
向かい側には地蔵尊が祀られています。
北総門
桂春院から北へ進み、一条通りへ左折して西へ進んだ先に妙心寺の北総門があります。
慶長15年(1610)に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。

等持院の鎮守社であった六請神社(ろくしょうじんじゃ)へ向かいます。
続く

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東海庵-表門
玉鳳院の西側を北へ進んだ左側に東海派の東海庵があります。
文明16年(1484)に妙心寺11世・悟渓宗頓(ごけいそうとん:1416~1500)により、
二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)の塔所として創建されました。
悟渓宗頓は六祖・雪江宗深(せっこうそうしん:1408~1486)の4人の
法嗣(はっす=師から仏法の奥義を受け継いだ者)の一人で、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した妙心寺の再興に尽力し、
東海派の開祖となりました。

美濃国加納城主・斎藤妙純(さいとう みょうじゅん)の妻は、
妙純が明応5年(1497)に戦死したため、悟渓宗頓に帰依し、
出家して利貞尼(りていに)と称しました。
利貞尼は、永正6年(1509)に仁和寺領の土地を購入して妙心寺に寄進し、
境内を3倍の広さに拡大しました。
東海派の格式は高まり、東海・関東を中心に勢力を伸ばし、
現在では妙心寺派末寺3500余りの約半数が東海派に属しています。

天正年間(1573~1592)、羽柴秀吉に仕えた武将・石川一光が
東海庵を現在の規模に拡張しました。
しかし、一光は天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦い
一番槍として突入し、戦死しました。
末弟の頼明(一宗)には、兄の代わりに一番槍の感状と1,000石が与えられました。
慶長4年(1599)に頼明は、兄・一光の17回忌を営み、東海庵を中興しました。
東海庵-方丈門
南側に方丈の玄関があり、「名勝・史跡 東海庵書院庭園」の碑が建っています。
方丈は江戸時代に再建され、悟渓宗頓の木像が安置されています。
また、悟渓宗頓に「仏徳広通国師」の諡号(しごう)を贈った
第121代・孝明天皇の木像も安置されています。
方丈南庭の枯山水庭園は「白露地の庭」と呼ばれ、ただ白砂のみが敷かれ、
東西方向に直線の砂紋が引かれています。

方丈の北側に江戸時代に再建された書院があり、
方丈と書院の間に方丈坪庭があります。
白砂が敷かれた枯山水庭園で、東西に七個の石がほぼ一直線上に配され、
中心となる石から同心円の砂紋が引かれています。

書院西側の庭園は座観式枯山水庭園で、「東海一連の庭」と呼ばれ、
国の名勝・史跡に指定されています。
庭の中央に三尊石(不動石・日天石・月天石)が立てられ、
その左には枯滝が組まれて龍門石が配されています。
北側には三神山とされる築山が築かれ、それぞれの島に松が植えられています。
三神山とは「三島」とも呼ばれ、渤海(ぼつかい)中にあって仙人が住むという
蓬萊山(ほうらいさん)・方丈山・瀛州山(えいしゆうさん)という伝説上の山です。
大心院-表門
東海庵の向かい側(東側)に塔頭の大心院があります。
大心院は宿坊でもあり、通年公開されています。
大心院は、文明11年(1479)に、景堂和尚に帰依した室町幕府の
管領 ・ 細川政元(1466~1507)により、上京区大心院町に創建されました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、天正年間(1573~1593)に
細川幽斎(藤孝)により現在地で中興されました。
妙心寺の塔頭となり、幽斎の子・忠興からも外護を受けました。
大心院は龍泉派に属し、現在の表門は寛永年間(1624~1645)に
建立された龍泉庵の門が移築されました。
僧像
山門をくぐった右側に僧の石像が立っていますが、詳細は不明です。
大心院-方丈門
方丈玄関の右側に、四方仏が祀られています。
四方仏
四方仏
大心院-方丈
方丈(本堂)は、大心院七世・嶺南崇六(れいなんすうろく)に帰依した
伊予国松山藩主・蒲生忠知により建立されました。
蒲生忠知は寛永11年(1634)に、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死しました。
享年31で、嗣子がなかったため、蒲生家は断絶しました。
切石の庭-2
方丈南庭は「切石の庭」と呼ばれ、庭の中央に長方形の花壇が設けられています。
切石の庭-1
東側にあるのは祖堂でしょうか?
祖堂は寛文6年(1666)に建立されましたが、その後本山・妙心寺に売却され、
平成15年(2003)に返却されました。
阿吽庭
方丈東庭は「阿吽庭(あうんてい)」と呼ばれ、方丈の東、書院の南にあります。
東西に長く、南北にやや狭い地割で、東南隅に苔地の築山が築かれ、
三尊石が組まれています。

妙心寺の小方丈と微妙殿、その先の桂春院へ向かいます。
続く

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天授院-門
塔頭・退蔵院の北側に塔頭・天授院があります。
天授院-建物
天授院は康暦2年/延元4年(1340)に妙心寺二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)
により、現在の東海庵の北側に創建されました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
妙心寺六祖・雪江宗深(せっこうそうしん)により再建されました。
承応2年(1653)の増改築に伴い、現在地に移築されました。
明治元年(1868)に越渓守謙(えっけいしゅけん)により専用道場が設けられました。
聖澤院-門
塔頭・天授院の北側に聖澤派の本庵である塔頭・聖澤院
(しょうたくいん)があります。
聖澤院
大永3年(1523)に妙心寺18世・天蔭徳樹(てんいとくじゅ)により、
土岐政房や細川氏の援助を受け、師の東陽英朝(とうようえいちょう)を
勧請開山として創建されました。
その後衰微し、文禄3年(1594)に庸山景庸(ようざんけいよう)が、
早川長政の援助を得て再興しました。
早川長政は、寺領20石を寄進し、表門、方丈、玄関、庫裡を造営しました。
霊雲院-門
聖澤院の北側に霊雲派の本庵である塔頭・霊雲院があります。
霊雲院
大永6年(1526)に妙心寺25世・大休宗休(だいきゅうそうきゅう)が、
特芳禅傑(どくほうぜんけつ)を勧請開山として創建しました。
狩野元信筆の障壁画「琴棋書画図(きんきしょがず)」があることから
「元信寺」とも呼ばれています。
琴棋書画とは、文人、士大夫(中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の
三者を兼ね備えた者)がたしなむべきとされた芸で、琴を奏(かな)でること、
棋(日本の囲碁)を打つこと、書することを意味します。
天文12年(1543)に建立されたと伝わる書院は、
国の重要文化財に指定されています。
また、枯山水庭園「霊雲院庭園」は、国の名勝・史跡に指定されています。
西田幾多郎墓の碑
霊雲院には京都大学の哲学者・西田幾多郎(にしだ きたろう)の墓があります。
西田幾多郎は、明治3年4月19日(1870年5月19日)に加賀国河北郡森村
(現在の石川県かほく市森)で生まれました。
西田家は江戸時代、十村(とむら)と呼称される加賀藩の大庄屋を務めた豪家でしたが、
父が米相場に失敗して破産し、母と姉の支援を受けて東京帝国大学の選科
(聴講生に近い立場)に入学しました。
卒業後は故郷に戻り中学の教師となりましたが、学校内での内紛で失職するなど、
在職校を点々としました。
20代後半の時から高校の同級生である鈴木大拙(すずき だいせつ)の影響で
禅に打ち込むようになり、十数年間徹底的に修学・修行しました。
明治43年(1910)に京都帝国大学文科大学助教授となり、翌年『善の研究』を著しました。
西田幾多郎の哲学的思考は仏教の禅の研究から始まり、東洋的な基盤に立った
東西哲学との融合が作りあげられ、日本における哲学の祖ともされています。
晩年は鎌倉に居を移して研究に専念し、昭和15年(1940)に文化勲章を受章しました。
昭和20年(1945)6月7日に病で他界し、神奈川県鎌倉市の東慶寺に葬られ、
霊雲院へ分骨されました。
玉鳳院
霊雲院から、法堂と大方丈へと渡る廊下の下をくぐり、東へ進むと
玉鳳院(ぎょくほういん)があります。
かって、この地には第95代・花園天皇が営む離宮・萩原殿がありました。
文保2年(1318)に後醍醐天皇に譲位し、萩原殿を仙洞御所として移り住み、
禅宗の信仰に傾倒しました。
上皇は建武2年(1335)に出家して法皇となり、宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)

禅師に参禅し、印可(いんか=弟子が悟りを得たことを師匠が認可すること)
されています。
法皇は、花園御所を禅寺に改めることを発願しましたが、建武4年(1337)に
宗峰妙超が病で重態となり、宗峰は後継に高弟の
関山慧玄(かんざんえげん)を推挙しました。
暦応元年/延元3年(1338)、法皇は自身が起居する禅宮御殿として、
山内最古の塔頭・玉鳳院を建立しました。
暦応5年/康永元年(1342)に関山慧玄を開山として妙心寺が創建されましたが、
妙心寺では宗峰妙超が入寂された建武4年(1337)を開創の年としています。
貞和4年/正平3年(1348)に花園法皇が崩御され、玉鳳院はその塔所となりました。
延文5年/正平15年(1360)には関山慧玄が入寂され、境内の北東隅に葬られました。
塔所として微笑庵が建立され、後に開山堂となりました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
天文7年(1538)に開山堂が再建されました。
天正19年(1591)、病弱であった豊臣秀吉の嫡男・鶴松が3歳で亡くなり、
妙心寺で葬儀が行われ、その廟である祥雲院殿霊屋(おたまや)が建立されました。
玉鳳院-鐘楼
西側に鐘楼があり、梵鐘は慶長15年(1610)に鋳造されました。
玉鳳院-庫裏
鐘楼の東側に庫裏があります。
扁額「玉鳳院」が掲げられていますが、文字が消え判読することはできません。
玉鳳院-牛石
庫裏の左前に「牛石」があります。
関山慧玄は、花園法皇に都へ呼び戻される前には美濃国(岐阜県)の
伊深(美濃加茂市伊深町)で修行に明け暮れていました。
田畑を耕す際に牛の力を借り、その牛と慣れ親しんだと伝わります。
昭和34年(1959)に滋賀県安土町で見つかった石が、
その逸話の基に奉納されました。
玉鳳院-門
庫裏の東側には寛文年間(1661~1673)に建立され、
京都府の文化財に指定されている玉鳳院唐門があります。
玉鳳院-扁額
門内には明暦2年(1656)に再建された方丈があります。
門の格子から僅かに扁額「玉鳳禅宮」が見え、扁額は花園法皇の宸筆です。
方丈は桁行18.7m、梁行10.8mの寝殿風の建物で、建物内中央奥の昭堂に
花園法皇の法体姿の木像が安置されています。
前方、下段の東側に徳川家康及び徳川家の位牌、西側に豊臣秀吉・織田信長・
織田信忠・武田信玄などの位牌が祀られています。
方丈の襖絵の金地着色「秋草図」12面は、狩野益信(かのう ますのぶ)の
筆と伝わり、「麒麟図」12面、「花鳥図」18面、「龍虎図」16面、「山水図」18面、
「牡丹図」9面は狩野安信の筆と伝わります。
開山堂-門
玉鳳院唐門の東側に、国の重要文化財に指定されている開山堂唐門があります。
応永16年(1409)に第100代・後小松天皇から御所の南門が下賜され、
移築されて当初は勅使門として使われていました。
門内の開山堂は「微笑塔」とも呼ばれ、山内で最も神聖な場所であり、
非公開です。
「微笑塔」は「拈華微笑(ねんげみしょう)」の故事に由来しています。
「拈」は、ひねる・つまむ、「華」は花を意味しています。
釈迦が弟子に説法をしている時に、一本の花をひねって見せたましたが、
弟子たちはその意味を理解できず沈黙していました。
ただ一人、摩訶迦葉(まかかしょう)だけがその意味を理解し、微笑しました。
釈迦は、摩訶迦葉が言葉で表せない仏教の奥義を理解できる者として、
彼に仏法の奥義を授けたとされています。
「正法眼蔵・涅槃妙心、微妙(みみょう)法門あり、文字を立てず教外に別伝して

迦葉に付属す」と記され、「妙心寺」の寺号と「微笑塔」の由来となりました。
開山堂は天文6年(1537)に東福寺から移築された、山内で最も古い建物で、
国の重要文化財に指定されています。
堂内には開山・関山慧玄(かんざんえげん)の尊像が安置され、
常夜灯と常香盤によって灯明とお香が絶えることはありません。

玉鳳院内には「南庭」、「風水泉の庭」、「鶏足嶺(けいそくれい)の庭」と
称される3つの庭があり、国の名勝・史跡に指定されています。
「南庭」は、方丈と開山堂の南に広がる白砂敷の枯山水庭園です。
「風水泉の庭」は、方丈と開山堂を結ぶ渡り廊下の北側にあり、
四方を建物で囲われた苔地の中庭となっています。
安土・桃山時代初期の石組み・滝組・蓬莱石が見られます。
「鶏足嶺の庭」の「鶏足嶺」とは、古代インド のマガダ国の山の名
「鶏足山」に由来し、摩訶迦葉が入定した地とされています。
摩訶迦葉は釈迦から預かった衣と言葉を、56億7千年後に弥勒菩薩が
鶏足山に姿を現した時、それらを授けると言い残したと伝わります。
鶏頭山は3つの険しい峰からなり頂上には、仏足石や仏塔が納められています。
「鶏足嶺の庭」は、江戸時代に開山堂の東に作庭され、
苔地に植栽された庭で長い築山が築かれています。
蓮池
玉鳳院の前に蓮池がありますが、現在は池に蓮が見られません。
玉鳳院-宝蔵
池には玉鳳院の宝蔵があります。
衡梅院-門
蓮池の西側に塔頭の衡梅院(こうばいいん)があります。
衡梅院-庫裏
妙心寺中興六祖の一人・雪江宗深(せっこうそうしん)により創建されました。
創建されたのは文明元年(1469)または、文明12年(1480)とする説があり、
文明18年(1486)に雪江宗深が入寂された後は塔所となりました。
その後、無住となって衰微し、慶長9年(1604)に
天秀得全(てんしゅうとくぜん)により中興されました。
妙心寺では開山・関山慧玄(かんざんえげん)以降、
二祖・授翁宗弼(じゅおうそうひつ)、三祖・無因宗因(むいんそういん)、
四祖・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)、五祖・義天玄承(ぎてんげんしょう)、
六祖・雪江宗深までを「六祖」と呼び、尊崇しています。
但し、住持としては日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深は、
それぞれ七世、八世、九世にあたります。
養源院-門
蓮池の東側に塔頭の養源院があります。
妙心寺中興四祖・日峰宗舜(にっぽうそうしゅん)が、文安5年(1448)に
細川持之の援助により創建しました。
日峰宗舜が生前に建てた寿塔であったとも伝わります。
永禄2年(1559)に剛宗宗紀(ごうそう そうき)が、堺の豪商であった
父・半井元成(なからい もとなり)の援助を受けて中興し、中興の祖となりました。
客殿が再建され、棟札が残されており、建立年が確定している建物としては
山内で最古とされています。
明治元年(1868)には北総門前にあった雄心院(ゆうしんいん)を合併しました。
養源院-庫裏
向かって右側の建物が府の文化財に指定されている本堂と思われます。
東林院
玉鳳院前を東へ進んだ所に塔頭の東林院があります。
享禄4年(1531)に室町幕府の最後の管領 ・ 細川氏綱(1514~1564)が、
養父・細川高国の菩提を弔うために創建されました。
当初は「三友院」と称し、上京清蔵口の細川家邸宅
(現在の京都市上京区)内にありました。
弘治2年(1556)に細川高国の孫である山名豊国を開基、妙心寺第51世・
直指宗諤(じきしそうがく)を開山として、寺基を妙心寺山内に移して再興されました。
寺号は「東林院」に改められ、山名氏の菩提寺となりました。
天保3年(1832)に諸堂宇が大破しましたが、山名家により再建されました。

樹齢300年の沙羅双樹の銘木があることから「沙羅双樹の寺」と呼ばれ、
6月の「沙羅の花を愛でる会」では特別拝観が可能となります。
また、1月の「小豆粥で新春を祝う会」及び10月の「梵燈のあかりに親しむ会」でも

特別拝観が行われています。
宿坊があり、予約をすれば宿泊も可能で、現住職の西川玄房は精進料理研究家
として著名であり、現在は毎週火曜日に精進料理教室(要予約)が開かれています。

塔頭の東海庵から大心院へ向かいます。
続く

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