2020年09月

常盤井
建勲神社の大鳥居前を東へ進み、智恵光院通りを北へ進んだ一筋目の東側に
常盤井があります。
京都の名水の一つで、碑文には霊泉の功徳が記されています。
しかし、現在、水は枯れています。
かって、この辺りに源義朝の邸宅があり、その側室で源義経の母である
常盤御前(ときわごぜん)に因み名付けられたと、
江戸時代の地誌類で記すものがあります。
また、西園寺公経(きんつね)の子・西園寺實氏(さねうじ)が
「常盤井相國」と号したことに因むとの説もあります。
常盤井-猫
猫が座る細い路地を入った所に衣懸塚(きぬかけづか)があります。
衣懸塚
常盤御前が着物を掛け、常盤井に姿を映して化粧をしたとの伝承から
「鏡塚」とも呼ばれています。
しかし、江戸時代の文化年間(1804~1817)の天皇陵調査で、第69代・後朱雀天皇・
第73代・堀河天皇・第78代・二条天皇の三人の天皇陵の候補地とされ、
『文化山陵図』にも塚は描かれています。
当時は田畑の中にあって、盛り上がった墳丘の周りには水をたたえた溝があり、
塚上には、大きな樹木がありました。
しかし、その後の天皇陵調査では陵墓参考地にも成らず、
現在のような状況となりました。
このまま保存されるのかも不安に思えます。
今宮神社御旅所
一方通行の関係で智恵光院通りを南進し、鞍馬口通りへ左折して東へ進み、
更に大宮通りへ左折して北上した東側に今宮神社の御旅所があります。
毎年5月5日の今宮祭神幸祭(いまみやまつりしんこうさい)では、
この御旅所まで三基の神輿を中心に約800名の行列が巡幸します。
玄武神社-鳥居
御旅所の東側に玄武神社がありますが、一方通行の関係で一旦北上して東へ進み、
南へ戻らなければなりません。
玄武神社は王城の北に位置し、北方を護る玄武を社号としています。
玄武は亀と蛇の合わさった姿で表されたことから、かって玄武神社には
小池があり、多くの亀が飼育され、「亀宮」とも呼ばれていました。
また、惟喬親王(これたかしんのう)を祭神として祀ることから「惟喬社」とも
呼ばれていました。
惟喬親王(844~897)は第55代・文徳天皇の第一皇子で「小野宮」と号しました。
母は、政治的には力を持っていない紀一族の更衣・紀静子(き の しずこ)でした。
一方で藤原良房の娘・明子(あきらけいこ)が天皇の女御となり、
第四皇子の惟仁親王を出産しました。
天皇は惟喬親王に期待し、立太子を望みましたが、良房の圧力に屈し、
惟仁親王が皇太子となりました。
天安2年(858)、天皇は病に倒れ、幼い皇太子の中継ぎとして
惟喬親王に皇位の継承を願ったのですが、これも実現せずに崩御されました。

僅か9歳の惟仁親王が第56代・清和天皇として即位すると、良房は摂政に任じられ
良房が外戚として政治の実権を握りました。
惟喬親王は、天安2年(858)に大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)に
任じられ、貞観14年(872)に病のため出家しました。
初めは小野(近江と大原の説がある)に隠棲し、
後に北区雲ケ畑の岩屋山金峯寺(志明院)に宮を建て、移り住んだとされています。
寛平9年(897)に54歳で薨去され、三千院近くの大原の里に葬られました。
玄武神社-本殿
玄武神社は元慶年間(877~884)に、惟喬親王の母方の末裔・星野市正紀茂光
(ほしの いちのかみ き の しげみつ)により創建され、
現在の社殿は昭和38年(1963)に再建されました。
社伝では、親王の慰霊と王城北面の鎮護とこの地守護神として創建されたと
記されていますが、親王の薨去の年と符合していません。
親王の外祖父・紀名虎(き の なのとら)が所有し、親王が寵愛したと伝わる剣を
この地に祀り、御霊代(みたましろ)としたとされています。

玄武神社では、毎年4月の第2日曜日に「玄武やすらい祭」が行われています。
鞍馬の火祭、太秦の牛祭と共に、京都の三大奇祭の一つに数えられ、
その起源は平安時代の中期頃にさかのぼります。
康保2年(965)に大水害が発生し、後に疫病が流行しました。
これを鎮めるため、勅命により大神神社(おおみわじんじゃ)の鎮花祭(薬まつり)
が玄武神社で行われました。
やすらい祭の発祥は玄武神社であり、
「玄武やすらい祭」は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
三輪明神
本殿の左側に三輪明神社があり、三輪明神が祀られています。
玄武神社-稲荷社
その左側に玄武稲荷社があります。
紫式部の墓-入口
玄武神社から南へ進み、鞍馬口通りへ左折して、その先の堀川通りへ左折して
北上した島津製作所の北側に小野篁と紫式部の墓があります。
紫式部の墓
紫式部は天禄元年(970)~天元元年(978)の間に、
現在の廬山寺(ろざんじ)の地で生まれ、幼い頃には母を亡くしたたとされています。
父・藤原為時は、師貞親王(もろさだしんのう)の読書役として漢学を教え、親王が
第65代・花山天皇として即位すると蔵人式部大丞(しきぶだいじょう)と
出世しました。
しかし、天皇が山科の元慶寺で出家すると失職し、約10年後に
第66代・一条天皇に詩を奉じたことにより、越後守となりました。
紫式部も越後で父と共に約2年過ごしたとされ、長徳4年(998)頃、
親子ほども年の差がある山城守・藤原宣孝と結婚しました。
長保元年(999)に一女・藤原賢子(ふじわら の けんし)を儲けたましたが、
長保3年4月15日(1001年5月10日)に宣孝と死別しました。
その後、石山寺で七日間の参籠を行い、その時、琵琶湖に映える名月を眺め、
『源氏物語』を起筆したとされています。
寛弘2年(1006)かその翌年、紫式部は藤原道長に召し出され、道長の長女で
一条天皇の中宮・彰子(しょうし/あきこ)に仕えるようになり、
『源氏物語』を完成させました。
また、宮中の様子を書いた『紫式部日記』も執筆しました。
この地には第53代・淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年この地で過ごし、
寛仁3年(1019)以降に亡くなったと推定されています。
小野篁の墓
小野篁(おの の たかむら:802~853)は、一説では小野小町小野道風
祖父で、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府において閻魔大王のもとで
裁判の補佐をしていたという伝説が残されています。
夜になると六道珍皇寺の井戸から冥府に往き、朝に嵯峨の福正寺の井戸から
現世に還り、役所に出勤したとされています。
『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落ちた紫式部を、篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づき、
二人の墓が並んで建立されました。

大徳寺へ向かいます。
続く

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三角点
建勲神社の西側に標高111.89mの船岡山の三等三角点があります。
山頂
背後は旧サイレン塔です。
山頂からの展望
山頂の南側が開け、京都市内が一望できます。
双ヶ岡から西山連山が近くに見えるのに対し、東山連峰は遠く、
現在の京都の中心部から平安京の中心部が離れていることが見て取れます。
磐座-2
船岡山は岩盤でできており、山頂にはその一部が露出しています。
磐座-1
古代は磐座として崇敬され、山の形が船のように見えたことから
「船岡山」と呼ばれるようになり、昭和43年(1968)に国の史跡に指定されました。

また、付近一帯は生薬や染料に使う紫草の生育地だったことから
「紫野」と呼ばれたと伝わります。
紫野の文献での初見は『類聚国史』の延暦14年(794)の条に、
「桓武天皇が紫野において狩りをされた」と記され、天皇や貴族の狩猟場とも
なっていたようです。
また、和歌にも詠まれる景勝地であり、清少納言は『枕草子』234段に
「岡は船岡。片岡。鞆岡(ともおか)...」と、一番手に船岡を挙げています。

一方で、船岡山の北西から紙屋川にかけての地区は「蓮台野(れんだいの)」と
呼ばれ、化野(あだしの)、鳥辺野(とりべの)と共に京都の三大風葬地の一つでした。
現在の千本通りは、蓮台野へ死者を運ぶ道であり、
通りに沿って千本の卒塔婆が立てられていたことに由来します。
南の千本鞍馬口には「千本ゑんま堂(引接寺)」があり、ここで引導を渡され、
蓮台野へ運ばれたと思われます。
猿舎跡
左大文字
山頂の西側には猿舎跡があり、左大文字山が望めます。
船岡山東側では大文字山が望め、当日は鑑賞する人で山は混雑するようです。
堀跡
山頂から北側に下ると堀跡らしきものが残されています。
応仁・文明の乱(1467~1477)の際、山名宗全方は五辻通大宮東に本陣を敷き、
船岡山に城が築かれました。
山名宗全方が西に陣地を置いたことが、西陣の地名の由来となりました。
また、永正8年(1511)8月の船岡山合戦でも細川澄元、細川政賢(まさかた)が
城を築いています。
ラジオ塔
更に下ると旧ラジオ塔があります。
昭和10年(1935)にラジオ放送を聴くために建造されたもので、
ラジオ塔は、昭和5年から戦中にかけて、全国で300基以上が建造されました。
舞台
旧ラジオ塔から石段を登ると野外コンサート会場があります。
記念碑
野外コンサート会場から通路に出て、茂みの中に入ると記念碑が建っています。
昭和5年(1930)に西紫野の土地区割り整理事業が行われたことを
記念するものと思われます。
応仁永正戦跡
通路を下ると「応仁永正戦跡 舟岡山」の碑が建っています。
応仁・文明の乱(1467~1477)の際、西軍の大内正弘、山名教之(のりゆき)らが
船岡山を拠点とし、城を築きましたが、応仁2年(1468)に東軍の細川勝元により、
三方から攻め落とされました。
また、戦国時代の永正8年(1511)8月には、室町幕府将軍を巡り、
足利義尹(よしただ)を擁立する細川高国・大内義興(おおうち よしおき)と
前将軍・足利義澄を擁立する細川澄元との間で争いが起きました。
細川澄元、細川政賢(まさかた)が船岡山に城を築き、丹波から長坂口を経て
攻めてきた足利義尹、細川高国、大内義興らの軍を迎え撃ちましたが、
政賢は戦死し、澄元は実家の阿波に逃亡しました。
公園
更に下ると船岡山公園の入口があります。
織田信長の死後、豊臣秀吉は船岡山に信長の菩提寺の建立を計画しましたが、
計画は頓挫し、船岡山は大徳寺に寄進されました。
昭和6年(1931)、都市計画により船岡山公園となりました。

東参道まで戻り、北進すれば大徳寺ですが、東へ進み常盤井跡から
玄武神社、小野篁・紫式部の墓を経て大徳寺へ向かいます。
続く

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北参道
今宮神社から南へ進み、北大路通を横断した先に建勲神社の北参道があります。
船岡山の中腹までバイクで登れ、その先に建勲神社の駐車場があります。
大鳥居
しかし、北大路通を左折して、その先の「建勲神社前」の信号を右折して
建勲神社へ向かいます。
こちらは駐車場が無いので、建勲神社の案内所横にバイクを置かせてもらいました。
建勲神社は正式には「たけいさおじんじゃ」と読み、通称で「けんくんじんじゃ」と
呼ばれています
明治8年(1875)に別格官幣社に列せられ、戦後は神社本庁の別表神社となりましたが、
令和元年(2019)に神社本庁から離脱しました。

船岡東通に東面して建つ大鳥居は、高さ7.2m、幅5.5mで、
平成20年(2008)に国の登録有形文化財に指定されました。
大鳥居の右側に見える建物が案内所です。
稲荷社鳥居-下
案内所前の石段には、朱塗りの鳥居が建っています。
東参道
境内に入り、南を見るともう一つ石段があり、こちらが東参道です。
太平和敬神の碑-2
東参道の石段を登ると、正面に「太平和敬神」の碑が建っています。
建勲神社は明治2年(1869)に明治天皇の命により、
織田信長公を祭神として創建され、ここに本殿が建立されました。
明治13年(1880)に長男の織田信忠卿が配祀され、
新たに社殿が造営されましたが、明治43年(1910)に山腹へ遷座されました。
「太平和敬神」の碑は、高さ6mあり、
昭和45年(1970)に修養団・捧誠会から奉納され、世界平和が祈念されているそうです。
本殿跡
「太平和敬神」の碑の横に、本殿跡地を示す碑も建立されています。
稲荷社鳥居-上
参道の右側には「稲荷社」の鳥居が建ち、
その先で朱塗りの鳥居が建つ石段を登った所と合流します。
義照稲荷神社
その先には義照稲荷神社があります。
和銅2年(709)にこの地を開拓した秦氏により創祀されました。
宇迦御霊大神(うかのみたまのおおかみ)、国床立大神(くにのとこたちのかみ)、
猿田彦大神が祀られています。
「義照」の由来は不明ですが、国床立大神は国土形成の根源神、国土の守護神として、
猿田彦大神は邇邇芸命(ににぎのみこと)を道案内した国津神で、
道祖神として信仰されています。
国土が形成され、地域が守られて農業や養蚕などの産業の発展が
祈願されたと推測できます。
命婦元宮

義照稲荷神社の左横に稲荷命婦(みょうぶ)元宮があります。
稲荷信仰では白狐のことを命婦とも呼び、次のような伝説からキツネは、
稲荷神の使者となりました。
「昔、船岡山の辺りに老いたキツネの夫婦がいた。
牡は銀の針を立てたような白毛で、尾は五鈷を巻きはさんだようであった。
牝は首は鹿で身体はキツネで、五匹の子狐をつれていた。
弘仁年中(810~824)、両狐が五匹の子狐をつれて稲荷山に参り、神前にぬかずいて、
我らは畜生の身だが、生まれたときから霊智を供え、
世を守り諸人を助けようとの願いをもっている。
しかし、狐である我らの身では、この願いを遂げるのは難しい。
願わくば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを遂げたい」と
申しでた。
これを聞いた稲荷神はよろこんで、「汝等の願いは殊勝である。
よって、今から長く当社に仕えるものとなり、参詣の人・信仰の輩を助けよ。
男狐は名を「小薄(コススキ)」と名乗って上之宮に仕えよ。
女狐は「阿古町(アコマチ)」と名乗って、下之宮に仕えよ」と告げられた。
以上の伝説から、当地は伏見稲荷大社・白狐社(命婦社)の
元宮として祀られています。
船岡稲荷他
義照稲荷神社の背後にも船岡稲荷大神など、様々な神が祀られています。
石段-1
参道に戻ると更に石段が続きます。
石段-2
右に折れてようやく上が見えてきます。
石段は約100段だそうです。
社号標
駐車場からの参道と合流し、西に向くと社号標が建っています。
「敦盛」の一節
参道を進むと有名な「敦盛」の一節
桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、
まず『敦盛』のこの一節を謡い舞い、陣貝(ほらがい)を吹かせた上で
具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したとされています。
貴賓館
北側に貴賓館があり、平成20年(2008)に国の登録有形文化財に指定されています。
手水舎
参道を進むと左側に手水舎があります。
船岡妙見社
手水舎の手前を少し下ると船岡妙見社がありますが、柵で閉ざされ、
正面からの参拝はできません。
船岡山は平安京の中軸線である朱雀大路の真北に位置しているところから、
都の造営に際し、船岡山は南北軸の測量基準点となったとの説があります。
第50代・桓武天皇は、都の四方に妙見大菩薩を、四隅に法華経を納め、
建都されたと伝わり、四神相応(しじんそうおう)の思想から、
北を護る玄武を船岡山に定めたとする説があります。
しかし、当時、船岡山は埋葬地で、
船岡山が神域であったとする説は疑わしく思えます。
船岡妙見社は、船岡山の地の神として、
建勲神社の創建時頃に祀られるようになったと考えています。
宝永4年(1707)発行の『霊符縁起集説』に「玄武神は亀なり。
北方に鎮り諸厄を祓い給う。玄武神は今の妙見菩薩にして童形なり。
玄武の大元は国常立尊なり。水の神にして宅神なり。病魔退散の神なり。」と
記されています。
社務所
手水舎の北側に社務所があります。
拝殿
手水舎から石段を登った上に、国の登録有形文化財に指定された拝殿があります。
貴賓館と大文字山
石段を登った拝殿前からは、貴賓館の背後に大文字山が望めます。
本殿
神門(祝詞舎)は、昭和(1926~1989)の初期に建て替えられ、
国の登録有形文化財に指定されています。

本殿は国の登録有形文化財に指定され、主祭神として織田信長公、
配祀神として織田信忠卿が祀られています。

天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝の本能寺の変で、家臣・明智光秀の謀反により、
寺を包囲された織田信長は、寺に火を放ち自害して果てました。
妙覚寺に滞在していた長男・信忠も二条城へ入り抗戦しましたが、
まもなく火を放って自刃して果てました。
信長の遺体は発見されないまま、約4か月後に豊臣秀吉は信長の葬儀を
船岡山の北向かいにある大徳寺で行いました。
信長の後継を巡って次男・信雄(のぶかつ)と三男・信孝が争い、
秀吉は二人の妨害を避けるため、葬儀の警備に3万人の兵を配しました。
その後、秀吉は信長の菩提寺となる「天正寺」の建立を、
船岡山の東山麓に計画しました。
天正11年(1583)、大徳寺に総見院を開いた古渓宗陳(こけいそうちん:1532~1597)は
秀吉から天正寺の建立事業を任されましたが、天正16年(1588)に石田三成との衝突を
きっかけとして事業は中断し、古渓宗陳は博多に配流され、
事業が再開されることはありませんでした。
このような経緯からこの地で建勲神社が創建されたと思われます。
神饌所
本殿の左側に神饌所があります。
比叡山
駐車場の方へ向かうと比叡山への展望が開け、五山送り火の「妙」「法」が
望めます。
石仏
建勲神社から船岡山の山頂へ向かうと、建勲神社の境内の北西隅に
宝篋印塔を中心としてその周囲に数体の石仏が祀られています。
応仁・文明の乱(1467~1477)や船岡山合戦で、船岡山は合戦の地となり、
その戦死者を供養する石仏が集められたのかもしれません。

船岡山へ向かいます。
続く

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狛犬
鷹峯から下って北大路通を左折して東へ進み、「今宮門前」の信号を左折した
先に今宮神社があります。
時短するなら鷹峯から下ってきた変則的な四差路を、右折して北大路通りの方へ
向かわず、東へ進めば今宮神社の楼門間に出ます。
北大路通から左折すると、本来は大鳥居が建っていましたが、
平成29年(2017)10月の台風で南に傾き、更に平成30年(2018)夏の大阪北部地震や
相次ぐ巨大台風の接近などで危険を感じた神社は、
計画を前倒しして鳥居を撤去しました。
いずれ再建されると思われますが、狛犬だけが残されています。
楼門
北大路通からの参道の正面にある楼門は大正15年(1926)に建立されました。
古地図には北大路通からの参道は描かれていないので、明治年末から大正初年に
かけての沿道整備計画により北大路通が完成し、
その後、参道が整備され、楼門が建立されたと思われます。
手水舎
手水舎は「お玉の井」と称され、元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により造られました。
手水鉢
手水盤は、京都西町奉行の小出淡路守 守里から寄進されました。
水盤は以前からの出入り口であった東向きに据えられていましたが、
楼門の建立に伴い現在のように変えられました。
東門前
東門の前にはかっての門前町の名残を留めています。
一和
北側の「一和」は、長保3年(1002)に一文字屋和輔 (いちもんじやわすけ)によって
創業された日本最古の茶店で、名物の「あぶり餅」が販売されています。
長保3年(1001)に疫病が流行したことから、朝廷は疫神を祀った社に神殿・玉垣・
神輿を造らせて今宮社と名付けました。
疫病退散の祈願には竹が使われ、餅が供えられました。
和輔がそれらを参拝者にふるまったのが「一和」の始まりで、
「あぶり餅」は疫病除けの餅とされています。
また、広隆寺の名物だった「勝餅(おかちん)」を、
和輔が今宮神社に奉納したのが始まりとの説もあります。
店内には井形を組まない直径3mの井戸があり、市内で最古とされ、
今も水が湧き出ています。
但し、現在はその井戸の水は使われていません。
かざりや
南側の「かざりや」は江戸時代初期の創業と伝わります。
時間が早かったため、どちらの店も営業前でした。
東門
東門はかっての正門ですが、江戸時代の再建と思われます。
神橋
門をくぐった先に「神橋」が架かっています。
神馬舎
橋を渡った左側に神馬舎があります。
宗像社
神馬舎の西側にある宗像社には、宗像三女神の多紀理姫命(たきりひめのみこと)、
湍津姫命(たぎつひめのみこと)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)が
祀られています。
社殿は元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により造営されましたが、
古い様式が残され、以前から祀られていたようです。
ナマズ
市杵島姫命は弁財天と同一視され、台座には弁財天の神使いとして
約60cmのナマズが描かれています。
神輿庫
神輿庫には「あぐい神輿」、「鷹神輿」、「大宮神輿」の三基が納められています。
大宮神輿は文禄3年(1593)に豊臣秀吉の奇進によって造営されたと伝わり、
元禄7年(1694)に桂昌院の寄進により修復されました。
八角形八面の御屋根には菊の御紋四面と豊臣家の家紋、五三の桐四面となっています。
神輿の大きさと重量及び芸の技を集め尽くした豪奢(ごうしゃ)さは
京都一とされています。
毎年5月5日の「今宮祭」で神輿の巡行が行われます。
今宮祭」は平安時代の「紫野御霊会」を起源とし、官祭として営まれてきました。
4月に「今宮祭」に先んじて行われる「夜須礼(やすらい)祭」の行装が
華美に過ぎため、久寿元年(1154)に勅命によって禁止されました。
それに伴い「今宮祭」も衰え、鎌倉時代の末期に一時復興したものの、
応仁の乱、戦国の兵乱後は神社の荒廃とともに「今宮祭」も再び衰退しました。
江戸時代になって、桂昌院の寄進や経済的に発展した西陣の氏子衆により
「今宮祭」が復興され、現在に至っています。
授与所
神輿庫の先に参集殿があり、その奥に授与所があります。
今宮神社は神仏霊場の第96番札所です。
授与所前
授与所前の庭園
旧本殿地
参集殿の前方、円形に玉垣で囲われた場所に、かって本殿がありました。
明治29年(1896)に及び拝殿が焼失し、明治35年(1902)に
現在地で本殿が再建されました。
対の石灯籠
絵馬舎前に正遷宮を紀念する対の石灯籠が建立されています。
力石-2
旧本殿地の北側に「力石」があります。
力石-3
持ち上げるのは無理だそうで、試してはいません。
桂昌院レリーフ
「力石」から西へ進むと桂昌院のレリーフが建立されています。
今宮神社は鎌倉時代の弘安7年(1284)に正一位の神階が授けられ、
室町時代には第11代将軍・足利義高により社殿の造営がなされ、
第12代将軍・足利義春は神輿を新造するなど、朝廷・民衆・武家からの
厚い崇敬を受けていました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
その後の戦乱で荒廃しました。
文禄2年(1593)に豊臣秀吉により今宮社の御旅所が再興され、
神輿一基が寄進されました。
元禄7年(1694)には桂昌院により社殿が造営され、神領が寄進されました。
また、途絶えていた「やすらい祭」を復活され、「今宮祭」には、
御牛車・鉾などを寄進され、御幸道を改修し、氏子地域を拡げるなど、
中興の祖となりました。
桂昌院は寛永5年(1628)に西陣の八百屋の次女に生まれ、「玉」と名付けられました。
その後、関白・二条光平の家政を掌る本庄宗利の養女となり、
関白家の鷹司孝子に仕えました。
やがて孝子が将軍家光に入嫁するのに伴われて江戸城に入り大奥で仕えているうち、
春日の局に認められて家光の側室となり、
後に5代将軍となる綱吉の生母となりました。
慶安4年(1651)に家光が亡くなると落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入り、
4代将軍・家綱が逝去され延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、
江戸城三の丸へ入りました。
元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位を賜っています。
宝永2年(1705)6月に79歳で逝去され、東京都港区の増上寺に埋葬されました。
善峰寺金蔵寺の復興にも尽力され、善峰寺には遺髪塚、
金蔵寺には遺髪を納めた桂昌院廟があります。
拝殿
参道に戻ると、正面に拝殿があります。
元禄7年(1694)に造営され、弘化3年(1846)に改修されました。
毎年5月1日に今宮祭に出御する神輿3基が倉から拝殿に上げられる
「神輿出し」が行われます。
三十六歌仙
拝殿の上部には平成17年(2005)に奉納された、
西陣織の「三十六歌仙」が掲げられています。
本殿及び幣殿-1
拝殿の正面に幣殿及び本殿があります。
現在の社殿は明治29年(1896)の火災で焼失した後、明治35年(1902)に再建されました。
東御座に事代主命(ことしろぬしのみこと)、
中御座に大己貴命(おおなむちのみこと)、
西御座に奇稲田姫命(くしなだひめのみこと)が祀られています。
高天原を追放され、出雲に降り立った素盞嗚尊は、八岐大蛇(やまたのおろち)の
生贄にされそうになっていた奇稲田姫命と出会いました。
美しい奇稲田姫命が愛しくなった素盞嗚尊は、
奇稲田姫命との結婚を条件に八岐大蛇の退治することにしました。
素盞嗚尊の神通力によって奇稲田姫命は湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に姿を変えられ、
その櫛を髪に挿した素盞嗚尊は、「天十握剣(あめのとつかのつるぎ)」を
用いて八岐大蛇を退治しました。
その後、現在の須我神社(すがじんじゃ)の地に宮殿を建て、移り住みました。
二神は八島士奴美神(やしまじぬみのかみ)を産み、
その子孫が大己貴命(大国主命)です。
事代主命は大国主命の御子神で、国譲りの際、大国主命から託されて了承しました。
疫神社
本殿の左側に疫神を祀る摂社の疫(えやみ)神社があり、素盞嗚尊が祀られています。
今宮神社が創建される以前からこの地で祀られていたとされています。
古来疫病除けの神として崇められ、諸国に悪疫が流行すると
風流の装いを凝らして詣で、鎮静安穏を祈願する習わしがあり、
「夜須礼(やすらい)」と呼ばれていました。
平安京に都が遷され、都市として栄える一方で、
疫病や洪水が発生するなどの災厄に悩まされていました。
これを鎮めるため神泉苑御霊社祇園社、今宮社など
各地で盛んに御霊会が営まれました。
当時、今宮神社は「紫野社」と呼ばれ、久寿元年(1154)には紫野社へ詣でる
「夜須礼」は、その行装が華美になりすぎたため勅命によって禁止されました。
現在は京の三奇祭の一つとされ、4月の第2日曜日に行われています。

正暦5年(994)に都で起こった大規模な疫病のために朝廷は神輿2基を造って
船岡山に安置し、音楽奉納などを行った後、
疫災を幣帛に依り移らせて難波江に流しました。
民衆の主導で営まれたこの御霊会は「紫野御霊会」と呼ばれ、
今宮祭の起源とされています。
長保3年(1001)に疫病が流行した際、朝廷は疫神を船岡山から遷し、
疫神を祀った社に神殿・玉垣・神輿を造らせて今宮社と名付けられました。
既に祇園社で疫神が祀られていたため、祇園今宮の意味で「今宮」と称しました。
社殿には大己貴命、事代主命)、奇稲田姫命の三柱の神が創祀されました。
疫病が流行する度に「紫野御霊会」が営まれ、やがて「今宮祭」として
定着するようになり、平安時代から鎌倉時代は官祭として執り行われていました。
織姫社
疫神社前の西側に織姫社があります。
江戸時代に氏子である西陣織の機織り家によって創建されました。
祭神は栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)で、
七夕伝説の織女に機織を教えたとされ、織物の祖神とされています。
高皇産霊神(たかみむすびのみこと)の御子神で、天照大神の御子神である
天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)の妃となり、天火明命
(あめのほあかりのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の母となりました。
阿呆賢-1
疫神社の前方に古くから神占石として信仰されている
「阿呆賢(あほかし)さん」と呼ばれる奇石が祀られています。
阿呆賢-2
「病弱な人はこの石に病気平癒を祈って石を撫で、その手で身体の悪い所を
摩れば健康の回復を早める」と記されています。
また、「重軽石」とも云われ、先ず掌で三度かるく石を打って持ち上げる、
次に願い事を込めて三度の掌で撫でて持ち上げます。
先より軽く感じれば願い事が成就すると伝えられています。
八社
境内の西側に大国社・蛭子社・八幡社・熱田社・住吉社・香取社・鏡作社・
諏訪社を祀る「八社」があります。
八幡社
八社の左側に八幡社があり、石清水八幡宮と同じく応神天皇、
比咩大神(ひめおおかみ)、神功皇后が祀られています。
大将軍社
八幡社の左側に大将軍社があり、牛頭天王(ごずてんのう)と
八大王子が祀られています。
牛頭天王は素盞嗚尊と同一神とされ、素盞嗚尊の五男三女が八大王子とされています。
都を鎮護するため、平安京の四方に大将軍社が建立され、
その一つの大徳寺門前に祀られた社が遷されました。
日吉社
大将軍社の左側に日吉社があり、日吉大社の祭神が祀られています。
明治元年に今宮神社の産土(うぶすな)の地「上野村」に祀られていた
上ノ御前、下ノ御前の両社が合祀されました。
若宮社-拝殿
若宮社の拝殿
若宮社
日吉社の左にある若宮社は三社が祀られています。
中央はかって、鷹峯に鎮座していた愛宕社を現在の愛宕山に遷した際、
分霊として祀られたと伝えられています。
右の加茂斎院は、元々は賀茂大神に奉仕する歴代天皇の未婚の皇女
(斎王)の館のことで、かっては今宮神社の近くにあったと伝わります。
建暦2年(1212)に加茂斎院が廃止され、その後、総鎮守の今宮社に
歴代斎王の御霊を祀るため遷されました。
左の若宮社は「薬子の変」に処罰された御霊を鎮めるため祀ったと伝わります。
紫野稲荷社
若宮社の向かいに、島のように造成された所に紫野稲荷社が祀られています。
伏見稲荷大社と同じく素盞嗚尊の御子神である
宇迦御魂命(うがのみたまのみこと)が祀られています。
織田稲荷社
紫野稲荷社の右側に織田稲荷社があり、織田信長とその家臣が祀られています。
天正10年(1582)に本能寺の変で倒れた信長とその家臣は、
上京区元伊佐町にあった阿弥陀寺に葬られました。
その後、豊臣秀吉の都市改造により現在の上京区鶴山町に移され、
その跡地に織田稲荷社が創建されましたが、昭和62年(1987)に現在地に遷されました。
月読社-一の鳥居
若宮社の南側に鳥居が建っています。
月読社-二の鳥居
鳥居をくぐり石段を登ると、二の鳥居が建っています。
地主稲荷社の鳥居
鳥居の手前、右側には地主稲荷社の朱塗りの鳥居が建っています。
地主稲荷社
地主稲荷社には、倉稲魂大神(うがのみたまのおおかみ)・
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が祀られ、
今宮の地の守護神とされています。
月読社
参道に戻り、更に石段を上った正面に月読社があります。
絵馬舎
石段を下った南側の絵馬舎は寛政12年(1800)に建立されました。
神馬
内部には奉納された多数の絵馬が掲げられ、神馬の像が祀られています。
寛政10年の絵馬
寛政10年(1798)作の絵馬には海北友徳(1763~1847)の名が見えます。
明和9年の絵馬
明和9年(1772)の絵馬
寛政9年の絵馬
寛政9年(1797)の絵馬
弘化3年の絵馬
弘化3年(1846)の絵馬にも海北友徳の名が見えます。

今宮神社から南へ進み、北大路通を横断して建勲神社の北参道へ向かいます。

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山門
光悦寺の北向かいに圓成寺があります。
圓成寺は山号を清雲山と号する日蓮宗の寺院で、
洛陽十二支妙見めぐり・亥(北北西)の札所です。

延暦13年(794)に平安京に遷都された第50代・桓武天皇は、都の四方に妙見大菩薩を、
四隅に法華経を納め、建都されたと伝わります。
天皇は正月元旦の四方拝で、妙見尊星に一年の安穏を祈られました。
北方を守護する妙見大菩薩として、かってこの地に北山霊巌寺(れいがんじ)が
あり、毎年3月3日と9月9日に御燈会が執り行われ、勅使の奉幣がありました。

霊巌寺は、入唐八家の一人・円行が承和6年(839)に帰国してから後、
勅命を受けて創建しました。
円行(799~852)は、元興寺で華厳宗の僧として得度・受戒しました。
弘仁14年(823)からは空海に師事するようになり、承和5年(838)に
入唐請益僧(にっとうしょうやくそう)となって唐に渡りました。
帰国後に四天王寺の初代別当に任ぜられています。

平安時代末期に成立したと見られる『今昔物語集』第31の第20話に
「霊巌寺の別当、巌(いわお)を砕く」の題で、
「この寺は妙見菩薩が顕現(けんげん)される所である」と記されています。
「寺の前に三町ばかり離れて巌角(いわかど)があって、
人がかがんでやっと通れるだけの穴になっていた。霊験あらたかなので、
人々はこぞって参詣し、僧房を重なるように建て並べ、繁盛このうえもなかった。」
しかし、別当は自分の利益のために巌角を壊してしまい、以後寺は荒廃したと
記されています。

日任(にっとう)上人は、霊夢を受けて寛永7年(1630)に改めて
この由緒ある妙見霊場を開き、圓成寺を開山しました。

山内の撮影が禁止されていますので、画像はありません。
諸堂配置図-図
諸堂配置図-文
諸堂配置図の円の中に妙見宮があり、
札所本尊でもある妙見大菩薩像が安置されています。
「岩戸妙見大菩薩」と呼ばれ、像高2mの石像で大きな亀の上に乗り、
右手に破邪の剣、左手に白蛇を握り、光背に北斗七星を戴く姿で、
古墳状の石室の中に鎮座されています。

妙見宮の向かって右側に白雲弁財天社、左側に七面社があります。
白雲弁財天は御所にある白雲神社から勧請されたと伝わり、
代々の住職の守護神とされています。

七面社には七面大明神(しちめんだいみょうじん)が祀られています。
山梨県の七面山山頂に住み、法華経を守護する女神とされています。

諸堂配置図の円の上、③の常富殿には常富大菩薩が祀られていると思われます。
圓成寺では当地一帯の山神であり、北山霊巌寺の地主神であったとされています。
一方、常照寺では学僧に化けた白狐が正体を見破られ、
能勢・妙見山に登って修行を重ね、常富大菩薩となったと伝わります。

諸堂配置図の常富殿の上、④の巌門の滝は「常富光出の滝」とも呼ばれています。
巌門の滝-1
圓成寺の北方に霊巌寺の巌角の一部とされる岩が残されています。
府道31号線開通のために岩が削られたと推定されます。
巌門の滝-2
府道の下にも岩が続き、岩と岩の間は現在は水が乏しですが滝があり、
その滝に常富大菩薩が出現したと伝わります。
圓成寺を開いた日任上人がその滝の水を導いたとされています。

鷹峯から下り、今宮神社へ向かいます。

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