2020年10月

社号標
平野神社から西大路通りを北へ、約5分ほど歩いた西側に敷地神社があります。
かって、現在の鹿苑寺(金閣寺)がある山麓に天神地祇(てんしんちぎ)が降臨した
と伝わり、それを祀ったのが敷地神社の始まりとされています。
一方で、忌部氏(いんべうじ)の祖人である天日鷲神(あめのひわしのかみ)を祀った
とする説があります。
天日鷲神は、製紙業・紡績業の神であり、付近を流れる紙屋川(天神川)は、
平安時代に紙すきが行われていたことに由来しています。
天長5年(828)に第53代・淳和天皇が防災(止雨)の祈願のために勅使を遣わされ、
その際には「北山の神」と記録に残されています。
一の鳥居
天長8年(831)には、その地に氷室が設けられ、その夫役(ふやく)として
加賀国から人々が移住させられました。
加賀国から菅生石部神社(すごういそべじんじゃ:通称=敷地神社)の神である
「菅生石部神」が勧請され、「北山の神」に隣接して祀られるようになりました。
菅生石部神とは、菅生石部神社では彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、
豐玉毘賣命(とよたまひめのみこと)、鸕鶿草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)
の三柱の総称としています。
鸕鶿草葺不合尊の父は彦火火出見尊で、母は豐玉毘賣命です。
彦火火出見尊の父は邇邇藝命(ににぎのみこと)で、
母は鹿葦津姫(かしつひめ)です。
鹿葦津姫は「木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)」とも称され、
勧請された際に、木花之佐久夜毘売を祭神に定め、祀られるようになりました。

応永4年(1397)、足利義満が北山殿(後の金閣寺)を造営するに当たり、
その鎮守神として両社を祀りましたが、他の人々の参拝が不便になったとして
両社を合祀して現在地に遷座しました。
一の鳥居-扁額
西大路通りに面して鳥居が建ち、扁額には「わら天神宮」と記されています。
二の鳥居
鳥居をくぐって参道を進むと右に折れ、曲がった所に二の鳥居が建っています。
手水舎
二の鳥居をくぐった左側に手水舎があります。
踏み石は鞍馬石、手水鉢は貴船石で造られています。
拝殿
二の鳥居からは一直線上に拝殿、本殿へと続いています。
令和2年(2020)10月26日には秋季大祭が行われ、午後1時半から祭典、
午後2時からは拝殿で、茂山千五郎社中による奉納狂言や、
京都山内流刀新会による居合抜刀術の奉納演武が催されます。
本殿-拝所
敷地神社は古くから安産の神として信仰を集めています。
本殿-よだれかけ
本殿には多数の「よだれかけ」が奉納されています。
安産の護符に藁(わら)が用いられたことにより、
「わら天神」とも称されるようになりました。
護符の藁に節があれば男児、無ければ女児が授かると伝えられています。
古来、藁で編んで供物を包み、神前に捧げてその藁を持ち帰って身に着けたという
風習があったそうです。
本殿
本殿
主祭神は木花之佐久夜毘売で、配祀神として天日鷲命(あめのひわしのかみ)と
栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)が祀られています。
栲幡千千姫命は、木花之佐久夜毘売の夫神である邇邇藝命の母神で、
織物の神として信仰されています。
六勝神社
本殿の右側に摂社の六勝神社があり、伊勢・石清水・賀茂・松尾・稲荷・春日の
六柱が祀られています。
神社前の駒札には「平安京遷都の際、平野神社の地主神として勧請され、
当初は六所神社、六請明神社などと称されていました。
貞観元年(859)に初めて祭祀を行い、その後西園寺家の鎮守として
崇敬されてきました。」と記され、二十二社の上七社で
平野神社を除く六社が祀られたとされています。

一方で、等持院の近くにある六請神社は、「寛弘2年(1005)に藤原道長は衣笠山で
御霊会を催し、衣笠岳御霊社を建立して上記の六柱を勧請して祀った」と
伝えられていますが、個人的には六所神社は最初に平野神社に勧請され、
その後、六請神社に勧請されたように思います。

六所神社は古くから、必勝、成功、開運及び商売繁盛の守護神として信仰を集め、
江戸時代には、浄瑠璃及び歌舞伎の作者・近松門左衛門が、『女殺油地獄』に
「勝負師、博打打(ばくちうち)は六社大明神に祈願する」と記しています。
明治6年(1873)に平野神社から敷地神社境内に遷座された際に、
社号を「六勝神社」に改め、「必勝祈願」の社としての神格を打ち出しています。
また、「六つかしい(難しい)ことに勝」との語呂から、難関試験の合格祈願として、
付近の学問の神・北野天満宮と共に参拝すれば、
なお心強いものになると思われます。
八幡神社
六勝神社の右側にある末社・八幡神社は、かって、衣笠氷室町で祀られていたものが
明治40年(1907)に敷地神社境内に遷座されました。
神具格納庫
八幡神社右の参道の右側に、神具格納庫があります。
神具庫
本殿前の左側にコンクリート造りの神具庫があります。
神具庫-2
秋季大祭の準備が行われているようです。
綾杉明神
本殿の左側に東向きに、樹齢千数百年の杉の切り株が「綾杉明神」として
その霊が祀られています。
平安時代には既に清少納言の父・清原元輔(きよはら の もとすけ)に
和歌に詠まれています。
『生ひ繁れ 平野の原の 綾杉よ 濃き紫に 立ちかさぬべく』
度重なる兵火も免れ、巨木へと成長しましたが、明治29年(1896)8月の台風で
倒壊したため、地上2mの幹を残し、御神木として祀られるようになりました。
大山祇神社
綾杉明神の奥に末社の大山祇神社があり、敷地神社の祭神・木花之佐久夜毘売の
父神である大山祇神(おおやまつみのかみ)が祀られています。
筑紫の日向の高千穂峰に天下った邇邇藝命は、木花之佐久夜毘売と出逢い、
一目ぼれしました。
結婚の許しを得るため父の大山祇神を訪ねると大変喜び、
姉の石長比売(いわながひめ)とともに差し出しました。
大山祇神は、石長比売を妻にすれば、邇邇藝命の命は岩のように永遠のものとなり、
木花之佐久夜毘売を妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと
誓約(うけひ)を行いました。
しかし、石長比売が醜かったので邇邇藝命が送り返したため、大山祇神は怒り、
そのせいで人々には寿命があるとされています。

平野神社まで戻り、そこから東に進んで北野天満宮へ向かいます。
続く

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東鳥居
花山天皇陵から西へ進み、丁字路を左折して南へ進んだ所に
平野神社の駐車場があります。
平野神社は西大路通りに面しても鳥居が建っていますが、
こちらの方が鳥居から神門、拝殿、本殿が一直線上に並ぶ表参道となります。
かって、現在地には鳥居の代わりに門がありましたが、
その門は境内の南側に移されました。

平野神社は、平安京遷都に伴い、平城京からこの地へ遷され、平安時代中期には
伊勢(内宮外宮)、賀茂(上賀茂下鴨)、石清水松尾に次ぐ名社に
数えられていました。
延長5年(927)成立の『延喜式』神名帳には名神大社に列せられ、
月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されています。
明治4年(1871)5月に官幣大社に列せられ、
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
また、神仏霊場の第94番札所となっています。
東鳥居-扁額
鳥居には「平野皇大神(ひらのすめらのおおかみ)」の扁額が掲げられています。
「平野皇大神」とは現在の平野神社の
主祭神「今木皇大神(いまきのすめおおかみ)」の古称です。
第50代・桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいがさ)の祖神として、
今木神が平城京で祀られていましたが、古くは平野神と呼ばれていました。
高野新笠は百済系渡来氏族出身で、「今木」は「今来(新来)」の意味があり、
大和の高市(たけち)郡に住みついた渡来系の人々により祀られていました。
扁額は西洞院文昭(にしのとういんよしあき)氏の揮毫(きごう)によるもので、
第26代当主・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)は親王家、摂家、寺社、武家
などの奏請を天皇に伝え奏する「伝奏」の職に就き、平野神社の本殿を建立しました。
桜池
鳥居をくぐった右側(北側)に桜池がありますが、水は張られていません。
稲荷社
桜池に架かる石橋を渡った先に出世稲荷神社があります。
西洞院時慶が、第107代・後陽成天皇の勅許をもって平野本社の復興大工事を
完成させたところ、神徳を拝受以来、「出世導引」の霊験ありとされています。
猿田彦神社
出世稲荷神社の右側に猿田彦神社があります。
桜苑
参道の西側に桜苑への入口があります。
寛和元年(985)4月10日に花山天皇が桜を手植えされたのをはじめ、
各公家伝来の桜が奉納されたことから、境内には約50種、約400本の桜が
植えられており、桜の名所となり、毎年4月10日には桜花祭が行われています。
桜花祭では花山天皇陵へ参拝し、午後からは時代行列が氏子地域を巡行します。
また、江戸時代には「平野の夜桜」として知られるようになり、現在も続いています。
桜苑は、桜の季節には有料となります。
神門
参道を西へ進むと神門があります。
拝殿-工事中
神門をくぐった正面に拝殿がありますが、平成30年(2018)9月4日神戸市に上陸し、
近畿地方を横断した台風21号で倒壊し、現在は復興工事が行われています。
拝殿は慶安3年(1650)に東福門院の寄進により建立され、
京都府の文化財に指定されていました。
「接木(つぎき)の拝殿」と呼ばれ、接木によって組み立てられ、
釘は使用されていません。
内部には公卿・平松時量(ひらまつ ときかず)により寄進された
「三十六歌仙絵」が掲げられていました。
この「三十六歌仙絵」は寛文年間(1661~1672)に海北友雪(かいほう ゆうせつ)に
よって描かれ、書は公卿・近衛基前(このえ もとひさき)の筆によるものです。
仮拝殿
工事中の拝殿の左側に仮の拝殿が建てられています。
楠木
拝殿の左側に、御神木の楠の大樹が聳えています。
すえひろがね
楠の大樹の下には「すえひろがね」と呼ばれる
餅鉄(べいてつ)の石が祀られています。
高さ約80cm、重量約200㎏の日本最大級の餅鉄で、成分は60%以上が酸化鉄で、
砂鉄より不純物が少なく鉄にしやすいとされています。
かつては、たたら製鉄などの古代製鉄で使用され、砂鉄と並ぶ重要な原料として
盛んに採集、利用され、日本刀の材料にもなります。
磁鉄鉱なので磁石につき、授与される「授かる守」の中には磁石が入っており、
「すえひろがね」の霊石に引っ付けて霊力を得るとされています。
拝所
本殿拝所
幣殿
拝所の先に幣殿があり、その奥に二殿一体となった南北二棟の本殿が並んでいます。
平安京に遷された際は、主祭神の今木皇大神(いまきのすめおおかみ)の他、
久度大神(くどのおおかみ)、古開大神(ふるあきのおおかみ)が祀られていました。
承和3年(836)から承和10年(843)の間に比売大神(ひめのおおかみ)が合祀され、
4柱が祀られるようになりました。

久度神は、国史の延暦2年(783)に「平群郡久度神」との初見があり、
平群郡(へぐりぐん)の久度神社で祀られていた竈の神とするなど諸説あります。
古開神は古関神との記載も見られ、国史での初見は承和3年(836)で、
文献では「久度・古開」と一対として扱われています。
平野社関係記事にしか見えない神であり、渡来神であり久度神と共に久度神社に
祀られたとする説や、久度神と元は同一であったとする説などがあります。
比売神は高野新笠の母方の祖神を祀ったとする説や、
高野新笠を指すとする説があります。
これらの神々は「皇大御神」「皇御神」とも称され、天元4年(981)に
第64代・円融天皇の行幸があってからは、以後も天皇の行幸が度々行われ、
皇室の守護神として崇敬されるようになりました。
また、今木神は源氏、久度神は平家、古開神は高階氏(たかなしうじ)、
比売神は大江氏、縣社は中原清原菅原秋篠氏の氏族から氏神として
崇敬されるようになりました。

室町時代になると応仁・文明の乱(1467~1478)の兵火により焼失し、
天文5年(1536)には延暦寺が京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山を焼き払い、
大火となって下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失した際に
平野神社も焼失しました。
その後荒廃し、江戸時代の寛永年間(1624~1644)に第107代・後陽成天皇の勅許により
公卿・西洞院時慶(にしのとういん ときよし)が本殿を造営するなど
社殿の修造を行いました。
慶安2年(1649、またはその翌年とも...)に第108代・後水尾天皇の中宮・東福門院に
より拝殿や玉垣などが建立されました。

本殿は「比翼春日造(ひよくかすがづくり)」、または社名から
「平野造(ひらのづくり)」と称され、国の重要文化財に指定されています。
縣社
本殿の左側に縣神社があり、天穂日命(あめのほひのみこと)が祀られています。
天穂日命は天照大御神の第二子とされ、葦原中国平定のために出雲の大国主命の元に
遣わされましたが、大国主命に心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻りませんでした。
現在の社殿は寛永8年(1631)に造営された後、昭和12年(1937)に大修理が施され、
京都府の文化財に指定されています。
右近の橘
社殿前の右近の橘
左近の桜
平野神社の左近桜は、「衣笠」と呼ばれる平野神社原木の桜です。
平野妹背櫻
拝殿の左側に植栽されている「平野妹背櫻(ひらのいもせさくら)」は、
平野神社の代表的な桜で、原木は三世です。
突羽根櫻
「突羽根櫻(つくばねさくら)」は、境内に古くから伝わる菊桜で、
原木は二世です。
御衣黄櫻
「御衣黄櫻(ぎょいこうさくら)」は、花弁に濃緑のせんがあり、
満開時に紅色の縦線が入り、弁は外に反れる珍しい品種です。
枝垂れ桜
拝殿の左側には八重紅枝垂桜が植栽されています。
四社
境内の北側に、右から鈿女(うずめ)社、蛭子(ひるこ)社、住吉社春日社
祀られています。
鈿女社は天鈿女命(あまのうずめのみこと)が祀られ、岩戸隠れで天照大神が
天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時に、ストリップを踊った神で、
芸能の守護神とされています。
八幡社
その右方向に八幡社が祀られています。
魁桜
神門を出た南側、手水舎の西側に植栽されている「魁桜」は、
平野神社発祥の枝垂桜で、他の品種が4月初旬から下旬にかけて開花するのに対し、
いち早く3月下旬頃に花を咲かせます。
南門
桜苑に沿って南へ進むと南門があります。
南門は慶安4年(1651)に御所の門が下賜され移築されました。
かっては東の表参道にありましたが、昭和17年(1942)に南門として
現在地に移されました。
西の鳥居
境内を西へ進むと西大路通りに面して鳥居が建っています。
桜
鳥居の手前には秋なのに桜が咲いていました。
四季を問わずに花を咲かせる「不断桜」のように見えます。
参道-2
西大路通りからの参道です。
突き当たりが桜苑で、右へ進めば南門、左は神門へと続きます。

西大路通りを北へ5分ほど歩いた所にある敷地神社(わら天神宮)へ向かいます。
続く

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参道
上品蓮台寺から北大路通まで北進し、北大路通を西へ進んで西大路通の一つ手前を
左折して南へ進み突き当りを右へ曲がった先に花山天皇陵の駐車場があります。
立札
「花山天皇 紙屋川上陵(かみやがわのほとりのみささぎ)」と記されています。
花山天皇は安和元年10月26日(968年11月29日)に
第63代・冷泉天皇の第一皇子として誕生しました。
母は摂政太政大臣・藤原伊尹(ふじわら の これただ)の娘で
女御の懐子(かいし/ちかこ)です。
安和2年(969)に冷泉天皇は、天皇の同母弟である守平親王に譲位され、
親王が第64代・円融天皇として即位すると生後10ヶ月足らずで皇太子となりました。
永観2年8月27日(984年9月24日)、円融天皇から譲位され、
17歳で第65代・花山天皇として即位しました。
石碑
花山天皇に仕えていた藤原惟成(ふじわら の これなり)が従五位上に昇進し、
伊尹の五男・藤原義懐(ふじわら の よしちか)と共に天皇を補佐し、
荘園整理令の発布、貨幣流通の活性化など革新的な政治を行いました。
寛和元年(985)7月18日に寵愛していた女御の藤原忯子(ふじわら の しし)が、
懐妊していたのですが、17歳で亡くなりました。
翌寛和2年(986)6月22日、天皇は藤原忯子の死を悲しみ、
19歳で宮中を出て元慶寺で出家したとされています。

一方で、『大鏡』には藤原兼家が、外孫の懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を
即位させるために陰謀を巡らしたと記されています。
藤原兼家の娘・詮子(せんし/あきこ)は円融天皇の女御となり、
懐仁親王を出産しました。
花山天皇が即位すると懐仁親王(やすひとしんのう)は東宮に立てられ、
花山天皇が退位すると次期天皇となる地位を得ました。
そこで兼家は三男の道兼に、藤原忯子の死を悲しんでいた花山天皇に、
出家を勧めるように命じました。
兼家は家来の武士に警護させ、花山天皇と共に宮中を出て元慶寺へ向かい、
まず天皇が剃髪し出家したのを見届けてから、
道兼は「出家する前の姿を最後に父に見せたい」と言い残して去ってしまいました。
陵
出家後の花山法皇は比叡山で修行した後、書写山性空上人
河内石川寺(叡福寺)仏眼上人中山寺の弁光上人を伴って那智山に入り、
那智の滝壺で千日の滝籠りを行ったと伝わります。
また、中山寺で徳道上人が石棺に納めた三十三ヶ所の観音霊場の宝印を探し出し、
270年間途絶えていた観音霊場の巡礼を復興させました。
法皇が各霊場で詠まれた御製の和歌が御詠歌となっています。
晩年の十数年間を花山院で過ごした後、京都に戻り京都御苑の
敷地内にあった花山院で、寛弘5年(1008)2月に崩御されました。
京都の花山院は、花山院家の所有となり、東京奠都まで存続したそうですが
現在は廃され、その跡地には宗像神社が残されています。

神仏霊場・第94番札所である平野神社へ向かいます。
続く

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寺号標
船岡山の西側に千本通りに面して上品蓮台寺があります。
山号を蓮華金宝山、院号を九品三昧院(くぼんさんまいいん)と号する
真言宗智山派の寺院です。
寺伝によれば、飛鳥時代に聖徳太子が母の菩提寺として創建され、
平安時代に宇多法皇により中興されたと伝わります。
一方で、『日本紀略』の天徳4年(960)9月9日の条に「寛空が北山に一堂を建立し、
亡き父母の供養をした」とあり、
これが実質的な上品蓮台寺の創建と推測されています。
かって、平野神社の西付近に第62代・村上天皇の御願により創建された
香隆寺(こうりゅうじ)があり、寛空が兼帯していたため、
上品蓮台寺は一時「香隆寺」と呼ばれていました。
香隆寺はその後荒廃し、上品蓮台寺に併合されました。

その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、文禄年間(1592~1596)に
豊臣秀吉の援助を受けた根来寺の性盛(しょうせい)による復興され、
真言宗智山派に改宗されました。
住所
千本通りを挟んだ東西に12の塔頭が建立されて「十二坊」と呼ばれるようになり、
町名として残されていますが、現在は「北区紫野十二坊町」です。
江戸時代には洛陽四十八願所霊場の一ヵ所となりましたが、江戸幕府或いは明治政府の
上知令(じょうちれい/あげちれい)により、多くの寺領が失われ、
塔頭も3院を残すのみとなりました。
通用門-1
北側に通用の門があります。
かって、京都には五つの葬送地があり、
「五三昧(ごさんまい)」と呼ばれていました。
鳥辺野(とりべの)、化野(あだしの)、蓮台野(れんだいの)の三大風葬地の他に
東寺の西側に狐塚(きつねづか)、現在は「さいいん」と呼ばれる
西院(さいん)です。
上品蓮台寺は、蓮台野への葬送菩提の寺として栄えました。
通用門-2
院号の「九品(くほん)」は、浄土教で極楽往生の際の九つの階位を表し、
人の往生には上品・中品・下品があるとしています。
更にそれぞれの下位に上生・中生・下生とがあり、
上品上生(じょうぼんじょうしょう)では、来迎に導かれ、
阿弥陀如来の浄土に往生できるとされています。
また、下品下生は、五逆罪・十悪を所作し、不善を行って地獄に堕すべき者
とされています。
札
門には歓喜天の修法である「浴油供(よくゆく)」が修されたことなどが
記されています。
一般の寺院では、ほとんど見かけることはありませんが、
かっては、普通にこのように掲げられていたのでしょうか?
書院
上品蓮台寺は、観光寺院ではありませんので、建物の説明を記した駒札などが
ほとんど立っていませんので詳細は不明です。

門をくぐった正面は書院だと思われます。
庫裡
北側には庫裡があります。
井戸
南側に井戸があります。
手水鉢
現在では使用されていませんが、手水鉢が併設されています。
本堂
更に南へ進むと本堂があります。
本尊は延命地蔵菩薩です。
清凉寺の釈迦如来像は、一時期、上品蓮台寺に安置されていました。
清凉寺の釈迦如来像は、インド・コーシャンビー国の国王・優填王(うでんおう)が
栴檀(せんだん)の木で等身大の釈尊の立像を造らせたものです。
その像が中国に伝わり、開元寺に安置されていました。
永観元年(983)に宋に渡った奝然(ちょうねん:932~1016)は、
開元寺に安置されていた像を、現地の仏師に依頼してその像を模刻させ、
日本に持ち帰りました。
永延元年(987)に帰国した奝然は、愛宕山を中国の五台山に見立て、
この地にその像を安置する寺の建立を意図したのですが、延暦寺に反対され、
実現できず、上品蓮台寺に安置されるようになりました。
長和5年(1016)に奝然が入滅し、奝然に随持して入宋した弟子の盛算
(じょうさん)が、奝然の遺志を継ぎ、清涼寺を創建し、
像は清涼寺へ遷されました。
定朝の墓
本堂の裏側に墓地があり、その入口に仏師・定朝の墓があります。
定朝は、平安時代後期に活躍した仏師で、寄木造技法の完成者とされています。
治安2年(1022)に藤原道長が創建した法成寺金堂・五大堂の造仏の功績により、
仏師として初めて法橋(ほっきょう)の僧位が与えられました。
「定朝様」と呼ばれる柔和で優美な造形を確立し、
平安貴族からは「仏の本様」と讃えられました。
後に、息子の覚助からは院派慶派、弟子の長勢からは円派が生まれました。
寶泉院
本堂から南へ下った所に塔頭の寶泉院(ほうせんいん)があります。
鐘楼
寶泉院から戻ると、上品蓮台寺の境内の南東角に鐘楼があります。
大師堂
鐘楼の北側に大師堂があります。
大師堂-扁額
大師堂の扁額。
修行大師像
大師堂の北側には修行大師像が祀られています。
聖天堂-鳥居
庫裡の北側に聖天堂の鳥居が建っています。
聖天堂
鳥居をくぐった正面には聖天堂があり、歓喜天が祀られています。
歓喜天の浴油供は秘法の中でも最上の祈祷法とされています。
歓喜天はヒンドゥー教のガネーシャ(=群集の長)に起源を持ち、
ガネーシャの父はヒンズー教最高神の一柱・シヴァとされています。
ガネーシャは、難羅山に陣取って魔神として暴れ回り、他の神々から憎まれ、
毒物を喰らわされ苦しんでいました。
それを見た十一面観音ががこれを哀れみ、ガネーシャに仏法に帰依する事を
誓わせ、その山中にある油の池に連れて行きました。
十一面観音は、油を加持してガネーシャの頭より灌がれたところ、
ガネーシャの悪い毒物が除かれ、善神となりました。
十一面観音と力を合わせて世の中の苦しんでいる人々を救う誓願を立てられ、
その二人の姿が「歓喜双身天」になったとされています。
このことから、浴油供が最上の祈祷方法となりました。
また、歓喜天が象の頭を持つ理由には、「シヴァが帰還した際、ガネーシャが
シヴァだと知らずに入室を拒んだのでシヴァが激怒して
ガネーシャの首を切り落とし、投げ捨てました。
シヴァはガネーシャが自分の子と知り、首を探しに出かけたのですが見つからず、
象の首を切り落としてガネーシャの頭として取り付け
復活させた」との説があります。
大聖歓喜天使咒法経(だいしょうかんぎてんししゅほうきょう)では、
除病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護の現世利益が説かれています。
祠
聖天堂の手前には小さな祠が並んでいますが詳細は不明です。
参道
参道を北へ進むと門があります。
真言院-門
門には塔頭の真言院と記されていますが、境内に建物は見当たりません。
阿刀氏塔
墓地があります。
五輪塔は「阿刀氏(あとし)塔」と呼ばれています。
空海の母は、阿刀宿禰(あとのすくね)の娘で、その兄か弟に
阿刀大足(あとのおおたり)がいました。
延暦7年(788)に空海は阿刀大足を頼って平城京が置かれた奈良に行き、
大足から論語・孝経・史伝・文章などの個人指導を受けました。
空海は延暦11年(792)に大学寮に入り、延暦23年(804)には大足の援助を得て
第18次遣唐使の学問僧として唐に渡りました。
大足は平安京遷都に伴って京都に移り住み、伊予親王に学問を教授していたとされ、
大同2年(807)に起こった伊予親王の変に連座して失脚したとみられています。
この塔は阿刀氏供養のため建立されたと推察されます。
頼光塚
墓地の北西隅に源頼光朝臣(みなもと の らいこう あそん)塚があります。
『平家物語』「剣巻(つるぎのまき)」を要約すると
以下のようなことが記されています。
『平安時代の中頃、頼光の父・源満仲は、筑紫国三笠郡土山に住んでいる
鍛冶職人の男を呼び寄せ、名刀を造るように命じました。
鍛冶職人は、石清水八幡宮に参籠して一心に祈り、二振りの刀を鍛え上げました。
満仲が刀の切れ味を罪人を使って試したところ、罪人の髭まで切れてしまい、
その刀を「髭切(ひげきり)」と命名しました。
また、もう一方の刀も罪人の膝までも切れてしまい、
「膝丸(ひさまる)」と命名しました。
二振りの刀は頼光に与えられ、「膝丸」を頼光が持ち、
「髭切」は頼光に仕えていた四天王の随一・渡辺綱に与えられました。
渡辺綱が馬に乗り、一条堀川の戻り橋を渡ったときに若い美女から自宅まで
送ってほしいと頼まれて馬に乗せましたが、その美女は鬼に姿を変え渡辺綱に
襲い掛かりました。
渡辺綱は鬼の手を「髭切」で切り落として命を長らえ、
以後、「髭切」は「鬼丸」に改名されました。

また、頼光は瘧(おこり=熱病)で苦しんでいた時に怪しい法師が現れ
膝丸で斬りつけました。
しかし、法師は逃げて、頼光が四天王と共に後を追いました。
北野の裏に大きな塚があり、その塚の中に大きな土蜘蛛が逃げ込んでいました。
頼光と四天王は土蜘蛛を捕え、鉄の串に刺して河原に立てて曝しました。
頼光の病は癒え、以後「膝丸」は「蜘蛛切」に改められました。
一説ではその土蜘蛛を埋めた「蜘蛛塚」とも伝わります。

花山天皇陵へ向かいます。
続く

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本堂
千本通りを北上して、「千本寺之内」の信号の次にある信号の左側に、
引接寺(いんじょうじ)があります。
引接寺は、山号を「光明山」、正式な寺号を「歓喜院引接寺」と号する
高野山真言宗の寺院です。
かって、引接寺の北、船岡山の北西から紙屋川にかけての地区は
「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、化野(あだしの)、
鳥辺野(とりべの)と共に京都の三大風葬地の一つでした。
現在の千本通りは、蓮台野へ死者を運ぶ道であり、
通りに沿って千本の卒塔婆が立てられていたことに由来します。
「引接」とは、仏が衆生を浄土に往生させるとの意味があり、
引接寺で引導を渡され、蓮台野へ運ばれたと思われます。

引接寺は寺伝では、小野 篁(おの の たかむら:802~853)が、閻魔大王から
現世浄化のため、亡くなった先祖を再びこの世へ迎えて供養する「精霊迎え」の
法儀を授かり、自ら閻魔大王の像を刻んで祠に安置したのが始まりとされています。
寛仁元年(1017)に恵心僧都・源信の門弟・定覚上人が、
「光明山歓喜院引接寺」として開山し、「諸人化導引接仏道」の道場としました。
毎年、春のゴールデンウィーク中に公演される「大念仏狂言」は、定覚上人が
布教のために始めた「大念仏法会」が起源とされています。
応永13年(1406)に第100代(北朝第6代)・後小松天皇が、北山山荘への行幸の際に
立ち寄られ、普賢象桜を分け与えたと伝わり、
引接寺は花見で賑わうようになりました。
3代将軍・足利義満は桜の開花に合わせて狂言を行うようにと
米50石を寄進しています。
大念仏狂言は昭和39年(1964)に後継者不足から中断し、昭和49年(1974)には
不審火により狂言堂が全焼しましたが、狂言面は庫裡で保管され、被害を免れました。
翌年、千本ゑんま堂大念仏狂言保存会が結成されて稽古を再開し、
その翌年には大念仏狂言の公演が再開されて今日に至っています。

本尊の閻魔大王は、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、
長享2年(1488)に仏師・定勢によって造像されました。
像高・横幅ともに2.4mで、脇侍として右に判決文を記録する司録(しろく)と
左に罪状を読み上げる司命(しみょう)像が安置されています。
昭和52年(1977)の火災で一部が損傷し、平成18年(2006)に仏師・今村宗圓が
境内のイチョウの木で修復しています。

閻魔大王の湯呑茶碗「萬倍碗(まんばいわん)」に賽銭を投げ入れると、
1万日参拝したのと同じ功徳があるとされています。

堂内の壁画は「閻魔王庁の図」は狩野元信の筆によるもので、現存する地獄壁画の
板絵では日本最大ですが、剥落が激しく残念に思えます。
地蔵池
本堂の右側を進むと地蔵池があります。
多数の石仏が祀られ、今の千本通りから発掘された
数十体の地蔵像も安置されています。
精霊迎えでは、この池で「お塔婆流し」が行われ、「お迎え鐘」を撞いて
先祖の霊を我が家に迎えます。
紫式部供養塔
高さ6mの紫式部供養塔は、元中3年/至徳3年(1386)に円阿上人の勧進により
建立されたとの刻銘があり、国の重要文化財に指定されています。
紫式部は『源氏物語』に狂言綺語(きょうげんきぎょ)を記して好色を説いた罪で
地獄に落とされたと伝わり、成仏を願って建立されました。
紫式部供養塔-基礎石
一重目の円形基礎石に14体の地蔵小像が刻まれ、その上の軸部東面には薬師如来、
南面に弥勒菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来像の四仏坐像が表されています。
紫式部供養塔-二重目
その上には四隅に柱を立て、その中に鳥居を刻んだ円柱の軸部が置かれています。
更に9枚の笠石を重ね、十重の塔としていますが、二重の宝塔と十三重石塔の残欠を
組み合わせたものです。
紫式部像
塔の手前には紫式部と大黒天、布袋尊の像が祀られています。
普賢象桜
また、普賢象桜が植栽されています。
鎌倉の材木座にあった普賢堂の横に咲いていたことから名付けられた、
八重桜の日本最古の品種で、遅咲きの桜です。
茶釜塚
茶釜塚
小杉大明神
小杉大明神
童観音
童観音は平成17年(2005)に造立された、高さ2mのブロンズ坐像で、
「わらべちゃん」と呼ばれています。
鐘楼
童観音から東へ進むと精霊迎え、送りの鐘撞き堂があります。
梵鐘
梵鐘には天授5年/康暦元年(1379)の銘があり、市の文化財に指定されています。
観音堂
観音堂には本尊の本地仏である地蔵菩薩像、右に開基・小野篁像、
左に灑水観音(しゃすいかんのん)が安置されています。
灑水とは香水を注いで清めることで、 悪病が流行した時に、
観音様を祀り、楊枝と灑水を供えると病が鎮まったと伝わります。
茶室
本堂の左側には茶室がありますが、非公開です。

千本通りを北上して上品蓮台寺(じょうぼんれんだいじ)へ向かいます。

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