2020年11月

鳥居
大将軍八神社は、立本寺前の七本松通を北上し、一条通を左折した先の
北側にあります。
延暦13年(794)、第50代・桓武天皇は平安京遷都にあたり、王城鎮護のため
陰陽道を重視して都の四方に大将軍堂を建立しました。
大内裏の北西に当たるこの地は、天門守護として、陰陽道の暦神・八将神の一柱であり
金曜星(太白)の神格である方位神・大将軍を奈良の春日山麓から勧請し、
大将軍堂が造営されました。

大将軍堂は暦応3年(1340)から約100年の間は祇園社(現、八坂神社)の
管理下にありました。
祭神の大将軍が祇園社の祭神・素戔嗚尊(牛頭天王)と習合し、
八将神は素戔嗚尊の御子神八柱もしくは牛頭天王の眷属である八王子と
習合して祀られるようになりました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した後には神社として復興されました。

江戸時代には方除厄除12社参りが流行し、その時期に建立された
天保11年(1840)の標石が現在も門前に残されています。
明治時代に入ると神仏分離の流れの中で、陰陽道等の外来神は廃され、
正式な祭神は素戔嗚尊とその御子神八柱に変更され、
社名は大将軍八神社に改められました。
三社殿
鳥居をくぐった先の左側に命婦神社・厳島神社猿田彦神社の三社殿があります。
命婦神社は、稲荷大神の神使いである白狐の霊が祀られています。
五社殿
その先には恵比寿神社稲荷神社天満宮・長者神社・金毘羅神社
五社殿があります。
長者神社は、青森県八戸市の長者山にある長者山新羅神社の祭神が
大将軍八神社の祭神と同じであることから勧請されたと推察されます。
神輿庫
北側には神輿庫があります。
10月第3日曜日の天門祭で神輿巡幸が行われています。
本殿-2
現在の本殿は昭和4年(1929)11月に八棟権現造(やつむねごんげんづくり)で
再建されました。
楽の間
拝殿と本殿が石の間で接続され、拝殿の両側には楽の間があります。
本殿-3
本殿
祭神は大将軍(素戔嗚尊)と八将軍です。
八将軍とは、太歳神(天忍穂耳命)、大陰神(市杵嶋姫命)、歳刑神(田心媛命)、
歳破神(湍津姫命)、歳殺神(天穂日神)、黄幡神(活津彦根神)、
豹尾神(熊野櫲樟日命)になります。

太歳神(たいさいしん)は、木星(歳星)の精とされ、1年の四季において
万物の生成を司るとされ、樹木や草に関する性格を持ち、太歳神の位置する方位に
向かって、樹木や草木等を植えつけることなどは吉、樹木の伐採や草刈りなどは
凶とされています。
また、君主的な立場にあり、八方に影響力を持つとされ、争いごとや葬儀・解体などは
疫災にあうとされる、一方で貯蓄や家屋の建築や増改築、移転、商取引、結婚、
就職などは大吉とされています。
太歳神の在位する方角は、その歳の十二支の方位と同じ方角となります。

太陰神(たいおんじん)は、太歳神の后で土星(鎮星)の精とされています。
太歳神が在位する方角の3つ後(太歳神に向かってまっすぐ右)の方角に在位する
とされ、その方角に向かって女性に関すること(嫁取り、出産など)をすることは
凶であり、学問・芸術に関することは吉とされています。

歳刑神(さいぎょうしん)は、水星(辰星)の精とされ、殺罰、刑殺を司る神とされ、
この神の在位する方角に向かって事業を始めたり、移転することは凶とされています。
一方で、この神は武力・武器を好むことから武器や刃物などの製造や購入・訴訟や
争いごとなどは吉とされています。

歳破神(さいはしん)も土星(鎮星)の精とされ、太歳神の方位の反対側に在位
しますが、太歳神に攻められ破られることがほとんどであり、凶神とされています。
この神は、土の性格を有しており、この神が在位する方角に向かって動土
(土地の造成や庭造りなど土を動かすこと)や建築、移転、婚姻、旅行
(特に船舶による旅行)は避けたほうがよいとされています。
また、ペットや家畜を求めることも凶とされています。

歳殺神(さいせつしん)は、金星(太白星)の精とされ、金星は陰気の極みであり、
この神は殺気を司り、万物を滅するとされています。
この神は土の性格を有するその年の丑・未・辰・戌の方角に在位するとされ、
その方角に向かって移転、旅行、結婚、訴訟などは避けたほうがよいとされています。
また、この神は武を好むとされ、この神の在位する方角に向かって武器や刃物を
得るのは吉とされています。

黄幡神(おうばんしん)は、別名で「万物の墓の方」とも、「兵乱の神」とも
呼ばれています。
この方角に向かって土を動かすのは凶、武芸に関することは吉とされています。

豹尾神(ひょうびしん)は、計都星の精とされ、気性が激しく、天宮神という
女神を伴うとされています。
この神は不浄なものを嫌い、また、この神の在位する方角に向かって
家畜などを求めるのは避けるべきとされています。
豹尾神は受け入れを嫌い、天宮神は出すことを嫌うことから、豹尾神の在位する方角
への嫁(婿)入りや、天宮神の在位する方角からの嫁(婿)取りは凶とされています。
方位盤
本殿前には方位盤があります。
御神木
本殿の左側には御神木の「招霊(おがたま)ノ木」が植栽されています。
地主神社
奥には地主神社があり、 大杉大明神と豆吉明神が祀られています。
大杉大明神の絵馬には白蛇が描かれていますが、詳細は不明です。
豆吉明神
豆吉明神は、一願成就の神とされています。
錨
本殿の背後には錨が...
方徳殿
本殿の右側に収蔵庫の方徳殿があります。
神社が所有する木造大将軍神像80躯が国の重要文化財に指定されたため、
昭和47年(1972)に神饌所を取壊してその跡地で着工され、
昭和50年(1975)に竣工しました。
木造大将軍神像は、平安時代中期~末期の作で、甲冑を着用した武装形の像50躯、
束帯姿の像29躯、童子形の像1躯の古神像で、
残念ながら一部に破損が見られれます。
古天文暦道資料は、陰陽師・安倍家に関わるもので、土御門家に仕えた皆川家から
昭和60年(1985)に寄贈され、府の文化財に指定されています。
天球儀は江戸時代前期の天文暦学者、囲碁棋士、神道家である渋川春海(1639~1715)
が延宝元年(1673)に製作した、日本最古の天球儀と同時期のものと推定されています。
方徳殿は毎年5月1日~5月5日と11月1日~11月5日に一般に公開されています。
方徳殿前にはその大将軍神の模像が祀られています。
大金神神社
方徳殿の南側に大金神神社と歳徳神社を祀る社殿があります。

大将軍八神社前の一条通を西へ進み、椿寺地蔵院へ向かいます。
続く

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三門
地福寺前の七本松通を北上した西側の一番町に立本寺があります。
現在の山門は明和8年(1771)に建立された大型の高麗門で、
市の文化財に指定されています。
立本寺は山号を具足山と号する日蓮宗京都八本山の一本山です。

日蓮聖人の孫弟子である日像上人は、日蓮聖人の遺命を受け
京都での布教活動を行いました。
暦応4年(1341)に初の道場として四条櫛笥(くしげ=下京区四条大宮付近)に
妙顕寺を創建しました。
日像上人により創建された妙顕寺・妙覚寺・立本寺は「三具足山」と称されました。
しかし、宗派間の対立で延暦寺の僧兵により
嘉慶元年(1387)に妙顕寺は破却されました。

明徳4年(1393)に日実上人によりその地で再建され、「本寺を立てる」という
意味を込め「立本寺」に改められました。
一方で月明は五条大宮に妙顕寺を再興しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で立本寺は、他の日蓮宗の寺院とともに焼失して
堺へ避難し、天文11年(1542)の第105代・後奈良天皇による「法華宗帰洛の綸旨」
が下され、京都に戻ることが許されました。

天文13年(1544)に新町三条で再建されましたが、文禄3年(1594)に
豊臣秀吉の命により、寺町今出川(上京区立本寺前町)に移転しました。
広大な寺域を得ましたが、宝永5年(1708)の宝永の大火で焼失し、
その直後に現在地で再建されました。
鐘楼
山門をくぐると鐘楼がありますが、梵鐘は吊るされていません。
おそらく戦時供出され、その後再鋳されなかったのでは?と思われます。
鐘楼は寛永年間(1661~1673)に建立され、宝永の大火でも焼失を免れて
現在地に移築されたもので、市の文化財に指定されています。
妙見堂
妙見堂には妙見菩薩が祀られています。
妙見菩薩は、軍神として崇敬され、また、薬師如来の化身とみなされました。
中世には、日蓮宗の檀越であった千葉氏が一族の守り神として妙見菩薩を
祀るようになったことから、多くの日蓮宗の寺院でも祀られるようになりました。
1月、5月、9月の鬼子母神祭の際に妙見堂も開帳されます。
刹堂
刹堂(鬼子母神堂)は享保4年(1719)に再建されましたが、天明3年(1778)に焼失し、
文化8年(1811)に再建され、市の文化財に指定されています。
堂内に安置されている「子安鬼子母神像」は平安時代の作ですが秘仏とされています。
鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、
これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
その後、釈迦に諭され仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
立本寺では毎月8日に鬼子母神祭が行われ、子安鬼子母神像が開帳されます。
祖師堂
祖師堂は元禄年間(1688~1703)に建立され、宝永の大火でも焼失を免れて
現在地に移築されたもので、市の文化財に指定されています。
堂内に安置されていた日蓮上人坐像は、「冑(かぶと)の御影」と呼ばれ、
戦国時代の武将・松永久秀の家臣・佐々木広次が信仰したとされています。
佐々木広次は出陣の際、「生還すれば一寺を建立する」と祈願し、
像に冑を被せて地中に埋めたと伝わります。
広次は無事に凱旋し、祖師堂を建立しましたが、
現在は「宿坊 四神閣」として運営され、冑の御影は本堂で安置されています。
本堂
本堂は寛保3年(1743)に再建されたもので、市の文化財に指定されています。
画像はありませんが、扁額「立本寺」は寛永の三筆の一人と称される
本阿弥光悦の筆によるものです。
本尊は「十界曼荼羅」で、日像上人が鎌倉由比ヶ浜で修行中に
感得したものとされています。
中央の須弥壇には釈迦如来像、多宝如来像、両脇に普賢菩薩像、弥勒菩薩像、
その周囲に四天王像が安置されています。
黒門
黒門を入ると客殿、その奥に方丈がありますが、通常は非公開です。
客殿は享保13年(1728)の建立とされていますが、第108代・後水尾天皇から
御所にあった桂宮の書院を下賜されたとの説もあります。
玄関
大玄関
庫裡
庫裏

立本寺前の七本松通を北上し、一条通を左折した先にある大将軍八神社へ向かいます。
続く

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山門
福勝寺南の出水通を西へ進み、丁字路となった七本松通を南下した東側に
地福寺があります。
地福寺は山号を宝珠山と号する真言宗醍醐派の寺院で、
京都十二薬師霊場の第5番札所です。

平安時代の弘仁年間(810~823)に嵯峨天皇の勅許により、
真済上人を開山として太秦安井の地に創建されました。
真済上人は空海の十大弟子の一人で、真言宗で初めて僧官最高位の
僧正に任ぜられました。

江戸時代の享保年間(1716~35)に道空和上が、時の関白・鷹司公の
北政所の病気を治したことにより現在地に移転しました。
鷹司家は藤原兼平を祖とし、江戸後期から幕末にかけて鷹司家の当主が
関白を務めることが多くありました。

地福寺は以後、道空和上の念持仏であった薬師如来が本尊となり、
京都薬師霊場の第5番札所本尊ともなりました。
薬師如来は「日限薬師(ひぎりやくし)」とも呼ばれ、穴の開いた石に
5色の紐を通して奉納し、後日、日を決めて祈願すると
耳の不自由が治ると伝えられています。

地福寺前の七本松通を北上して立本寺(りゅうほんじ)へ向かいます。
続く

地福寺前の七本松通を北上して立本寺(りゅうほんじ)へ向かいます。 続く にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
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清和院前の七本松通を南下し、西行一方通行でバイクでは進入できない仁和寺街道を
東へ進み、千本通の一筋手前を南下した所に成人映画を上映する映画館があります。
この辺りが「五番町」で、昭和33年(1958)に売春防止法が施行されるまで
遊郭がありました。
現在は住宅街に変貌し、その面影は残されていませんが、学生時代には僅かに
それらしき建物があり、友人が下宿していました。
付近に居酒屋があり、そこの御主人の機嫌が良い時はカラオケの無い時代なので、
「カスバの女」などをアカペラで歌われることがありました。
心に染み入り、その歌を目当てに通われる常連さんもいたほどです。

かって、この地は野原で、豊臣秀吉が聚楽第を築城する際に武家地として
開発・整備し、一番町から七番町辺りまで名付けられました。
しかし、秀吉が居城を伏見へ移すと及び荒廃し、江戸時代初期に再開発されて
ここに移住してきた住民が北野天満宮愛宕山への参拝客を相手に
茶屋を営んだのが花街として発展していくことになりました。
作家・水上勉は、この遊郭を舞台に学生僧の金閣寺放火事件を題材として
五番町夕霧楼』を著しました。
通用門
映画館の西の六軒通を南下した東側の七番町に福勝寺があります。
福勝寺は山号を竹林山と号する真言宗善通寺派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場・第29番及び京都十二薬師霊場の第六番札所です。
山門
通に面した山門は、かっては九条家の屋敷の門と伝わります。
毎年2月3日の節分会の日に開門されます。
節分会には瓢箪のお守りが授与されます。
正式には「宝珠尊融通御守(ほうしゅそんゆうづうおんまもり)」と称され、
弘法大師が唐で学んだ「如意宝珠の修法」に由来します。
「如意宝珠」とは「意のままに願いを叶えてくれる」という宝珠で、
瓢箪が宝珠をふたつ重ねた姿に似ているとして、鎌倉時代ごろから
お守りとして用いられるようになったと伝わります。
この瓢箪のお守りから「ひょうたん寺」と呼ばれるようになりました。
細い通路
通路を右側に進んだ左側に本堂があります。
福勝寺は弘法大師により河内国古市郡中村(現在の大阪府羽曳野市)
に創建されたと伝わります。
しかし、その後衰微し、正嘉年間(1257~59)に醍醐寺覚済(かくぜい)に
よって、京都油小路五条坊門に再建されました。

その後も2回移転し、安土・桃山時代には豊臣秀吉の京都改造により
福勝寺を寺町通丸太町下ルに移転させたと推定されています。
秀吉は武運長久を祈願して奉納した瓢箪で「千成瓢箪」の旗印を作ったと
伝わります。
天下統一後に自作の木像を福勝寺に納め、寺領を寄進しました。
第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅願寺となりましたが、
宝永の大火(1708)で焼失しました。
その後、現在地で再建され、第111代・後西天皇(在位:1654~63)の
勅願寺となりました。
本堂
本堂
本尊は薬師如来で「峰の薬師」と呼ばれ、京都十二薬師霊場・第六番の
札所本尊ですが、60年に1度開帳される秘仏とされています。
かって、京都市西京区御陵峰ケ堂の法華山寺の峯堂に安置されていましたが、
南北朝の争乱の際に遷されたと伝わります。
法華山寺は鎌倉時代に延朗(えんろう)上人により西山の峰ヶ堂に
創建されましたが、正慶元年(1332)に兵火で焼失し、その後廃寺となりました。
寺の跡地には、峰ヶ堂城が築かれました。

本堂の脇壇に安置されている聖観世音菩薩像は聖徳太子の作と伝わり、
後西天皇が祈願し、それが成就されたことから「観世音菩薩」の名号と
紫宸殿の左近の桜の分木を下賜され、「桜寺」と呼ばれるようになりました。
聖観世音菩薩は洛陽三十三所観音霊場・第29番の札所本尊でもあります。

聖歓喜天像は唐に渡った空海が、長安の青龍寺の恵果(けいか)和尚より
伝授されたものと伝わります。
恵果和尚は延暦24年(805)に60歳で入寂され、臨終間際に空海に伝授され、
翌年空海は日本に帰国しました。

不動明王像は空海の作と伝わり、「牛皮不動」とも呼ばれ、
名不動の一つに数えられています。
十三重石塔
本堂前に建つ十三重石塔の横に下賜されたと思われる桜の木があります。

福勝寺南の出水通を西へ進み、地福寺へ向かいます。
続く

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山門
今出川通りの「上七軒」の信号から七本松通りを南下した東側に清和院があります。
清和院は、山号を川崎山と号する真言宗智山派の寺院で、
洛陽三十三所観音霊場の第33番札所(結願寺)です。

清和院は仁寿年間(851~854)に、現在の京都迎賓館の地に、
第55代・文徳天皇が后の染殿(藤原明子=ふじわら の あきらけいこ)のために、
仏心院を建立し、地蔵菩薩像を安置したことに始まります。
平安時代の初期、その地には藤原良房の邸宅があり、良房の一人娘・明子が入内すると
良房邸の南に地蔵菩薩像を本尊とする内祈祷所が建てられ、仏心院と称しました。
嘉祥3年(850)3月19日、仁明天皇から譲位されて文徳天皇が即位し、
直後の3月25日に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)が誕生しました。

惟仁親王には既に3人の異母兄がおり、天皇は第一皇子の
惟喬親王(これたかしんのう)に皇位の継承を願ったのですが、
良房の圧力に屈し、惟仁親王は同年11月に生後8か月で立太子しました。
天安2年(858)に文徳天皇が崩御されると、惟仁親王はわずか9歳で第56代・清和天皇
として即位しましたが、政治の実権は良房に握られることになりました。
貞観6年(864)に天皇は元服しましたが、貞観8年(866)に起こった応天門の変で、
事件を解決した良房を摂政に任命しました。

貞観18年(876)に第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位し、
仏心院は後院(御在所)となり、「清和院」と改称されました。
清和院には代々皇子や親王が住し、また在原業平らの歌会の場ともなりました。
鎌倉時代の徳治3年(1308)、勅令により浄土宗の僧・照空が、清和院を
上京区室町通上長者町通下る清和院町で再興し、今に伝わる清和天皇を模して
造られたとされる「玉体地蔵」を奉安しました。
洛陽石標
室町時代は清和天皇が清和源氏の祖であったことから、将軍家の足利氏から深く
帰依され、その保護を受け栄えました。
享禄4年(1531)、鴨川西岸の一条河原崎にあった河崎観音堂が焼失し、
本尊であった「河崎観音」が清和院へ遷されました。
「河崎観音」は弘法大師作と伝わり、霊仏として崇敬され、
洛陽三十三所観音霊場・結願所の札所本尊となりましたが、
現在は九州国立博物館の所有となっています。
寛文元年(1661)の御所炎上の際に類焼し、その後、後水尾上皇と東福門院により
現在地で再興されました。
また、東向観音寺の土蜘蛛塚に祀られている石灯籠の火袋は、
この門前から掘り出されました。
本堂
山門を入った左側(北側)にコンクリート造りの本堂があります。
本尊
堂内中央の厨子内には本尊の像高165cmで鎌倉時代作の地蔵菩薩像が
安置されています。
「玉体地蔵」や「清和地蔵」とも呼ばれ、清和天皇の身の丈に等しく、
眼には仏舎利、胎内に宸筆の法華経が納められています。
重要文化財に指定されていますが秘仏とされ、
厨子の前に御前立の像が安置されています。
「河崎観音」は写真のみが祀られています。
阿弥陀如来像他
堂内の右側には十一面観音像や阿弥陀如来立像などが安置されています。
大黒天他
左側には大黒天、八臂辨財天、不動三尊像が安置されています。
爪形天満宮
本堂の左側に白梅殿古跡 爪形天満宮があります。
爪形天満宮-石標
白梅殿は菅原道真の旧邸のことで、下京区仏光寺にある
菅大臣神社がその所在地とされていますが、詳細は不明です。

五番町から福勝寺へ向かいます。
続く

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