2020年11月

石標
大報恩寺は山号を瑞応山(ずいおうざん)と号する真言宗智山派の寺院で、
通称の千本釈迦堂として知られています。
特に毎年12月7~8日に催される「大根炊き」は、京都の師走の風物詩として有名です。
また、新西国霊場の第16番及び京都十三仏霊場・第8番の札所にもなっています。
山門
大報恩寺は鎌倉時代初期の承久3年(1221)に義空上人によって開創されました。
義空上人は出羽の人で藤原秀衡の孫に当り、
比叡山で澄憲(ちょうけん)から天台宗を学びました。
当初は藤原光隆の従者であった岸高なる人物から寄進された領地に、
草堂を建てた簡素なものでした。
安貞元年(1227)に摂津国尼崎の材木商の寄進を受け、
現存する本堂の上棟が行われました。
義空上人は正式な寺院として第87代・四条天皇へ寺格の申請を行い、
嘉禎元年(1235)に俱舎(くしゃ)・天台・真言と三つの宗派の認可を受け、
その道場となりました。

文永年間(1264~1274)には二世・如輪により伽藍の整備が行われました。
また、『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)
如輪上人これを始められけり」と記されています。
旧暦2月15日亥の刻(午後9時)~丑の刻(午前3時)まで念仏が唱え続けられました。
現在では3月22日の14時から催され、この日は自由に参加することができます。
三世・慈禅上人(じぜんしょうにん)は、釈迦が悟りを開いた12月8日を祝う
成道会(じょうどうえ)を創始しました。
法要の後に4本の大根を縦半分に切って8本とし、切り口に釈迦の種子(梵字)を書いて
供え、参詣者への「悪魔除け」とされました。
その後「悪魔除けの大根」は、他の大根と一緒に炊き上げて、
参詣者に振る舞われたのが「大根炊き」のはじめと言われています。
現在では毎年12月7~8日の両日に法要が行われ、「大根炊き」は信徒の尽力により
継承されています。

室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477)では西軍の中心地となり、
伽藍は焼失しましたが、本堂は奇跡的に焼失を免れました。

西軍を率いた山名宗全の計らいがあったとも伝わります。
しかし、応仁・文明の乱で寺領を失い、衰微しましたが天正19年(1591)に
豊臣秀吉から寺領の替地100石を与えられました。
江戸時代の初期から智積院能化の隠居所として護持され、
真言宗智山派に改宗されました。
享保15年(1730)に発生した「西陣焼け」とも呼ばれる大火では、
本堂だけは類焼を免れました。
明治3年(1870)に北野経王堂願成就寺が北野天満宮の境内から、
当初は観音堂として移築されました。
本堂
本堂は創建当初のもので、京都市内最古の木造建築物として国宝に指定されています。
応仁・文明の乱でも焼失は免れましたが、堂内の柱には刀や槍などによる
傷痕が残されています。
寛文9年~10年(1669~1670)の大修理では、末寺であった北野経王堂の
部材と瓦が使われ、屋根が瓦葺に改められました。
昭和26年~29年(1951~1954)に行われた解体修理工事で、旧北野経王堂願成就寺の
古材が一部、本堂の部材として使われていたことが判明しました。
昭和31年(1956)に本堂に使われた部材などで北野経王堂願成就寺が再興されました。

本堂の須弥壇内にある高御座式(たかみくらしき)の厨子内には像高89cmの
釈迦如来坐像が安置されています。
快慶の弟子・行快による鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されていますが、
秘仏とされています。
須弥壇にある奥の壁、表裏2面には鎌倉時代に図が描かれ、国宝に指定されています。
残念なことに両面とも損傷が多く、相当な部分が剥がれ落ちているため、
図の全容を知ることは出来無い状態です。

画像はありませんが霊宝殿には十大弟子立像 10躯、六観音像 6躯、銅造釈迦誕生仏、
千手観音像などが安置され、いずれも国の重要文化財に指定されています。
おかめ塚
境内の東側に「おかめ塚」があり、宝篋印塔が建立されています。
本堂造営の棟梁であった長井飛騨守高次(ながいひだのかみたかつぐ)は、
重要な柱の寸法を間違えて短く切り過ぎました。
柱の予備は無く、苦悩していた時に妻の阿亀(おかめ)が「枡組(ますぐみ)で
補えばどうか」と助言して、夫の窮地を救いました。
しかし、阿亀は専門家でもない女の提案で棟梁が大仕事を成し得たことが
知れては夫の恥と考え、上棟式を待たずに自害しました。
高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた
扇御幣を飾りました。
その後、大工の信仰を得るようになり、上棟式にはお多福の面を着けた
御幣を飾る起源になったとされています。
お亀の像
塚には「おかめの像」も建立されています。
おかめの像の前では、毎年2月の節分の日に「おかめ福節分会」が営まれています。
法要を終えると茂山狂言社中によるユニークなおかめ福節分の狂言があり、
そのあと厄除け鬼追いの儀として、豆まきが行われます。
また、法要の前には番匠保存会による木遣音頭・上七軒の舞妓により、
おどりの奉納もあります。
阿亀桜
本堂前の枝垂れ桜には「阿亀桜」と名付けられています。
ぼけ封じ観音
境内には「ぼけ封じ観音菩薩像」が祀られ、
大報恩寺は「ぼけ封じ近畿十楽観音霊場」の第2番札所でもあります。

大報恩寺から南へ進み、七本松通りに面した東側の清和院へ向かいます。
続く

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上七軒歌舞練場
北野天満宮の東側にある御前通を北上した所に「上七軒歌舞練場」があります。
上七軒(かみひちけん)は、室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って
7軒の茶店を建てたことが始まりで、「上七軒」の由来にもなっています。
天正15年10月1日(1587年11月1日)に豊臣秀吉が北野大茶会(きたのだいさのえ)を
催した際に、茶店側は団子を献上したとされています。
また、西陣の隆盛と共に花街としての上七軒も繁栄しました。
しかし、第二次大戦後はお茶屋の大半が転廃業し、西陣織産業の衰退もあり、
お茶屋や芸妓、舞妓が減少しました。
上七軒歌舞練場は明治30年代に建築、その後増築され昭和26年(1951)に
現在の形となりました。
毎年3月25日から4月7日にかけて「北野をどり」が上演され、
夏季にはビアガーデンの営業もあり、本物の芸妓・舞妓が
浴衣姿でもてなしているそうです。
桜井屋
上七軒歌舞練場の北側に湯豆腐・湯葉料理の「桜井屋」があります。
江戸時代の後期より天満宮参道で営業していましたが、
明治時代に現在地に移転しました。
北野経王堂願成就寺
北野天満宮の東門前の五辻通を東へ進んだ所に北野経王堂願成就寺があります。
南北朝時代の元中8年/明徳2年(1391)に山名氏清、山名満幸ら
山名氏が室町幕府に対して反乱を起こしました。(明徳の乱
その前年には山名氏の内紛の際に、第3代将軍・足利義満の命を受け、
氏清と満幸は山名時熙(やまな ときひろ)と山名氏之(やまな うじゆき)を
討伐しました。
その結果、氏清と満幸の勢力が強まり、それを恐れた義満の挑発に乗って
氏清と満幸は挙兵することになりました。
氏清と満幸は討ち取られ、幕府軍の勝利となりましたが、義満は氏清と満幸や
その一族のかっての功労や武勲を重んじて、その供養のために大施餓鬼を修しました。
これには近畿、中国、四国、中部の僧や庶民が宋版一切経を手本として写経し、
その後に「万部経会」「北野経会」の起源となりました。
応永8年(1401)には北野社の境内に東山三十三間堂の倍半の大堂を建立し、
「北野経王堂願成就寺」と名付けました。
毎年10月には10日間に亘って万部経会や仏典書写などの仏事を行い、供養しました。
この行事は「北野経会」と呼ばれ、京洛最大の行事となり、
代々の幕府に引き継がれていました。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失したかは不明ですが、
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に
北野経王堂願成就寺も再建されています。
正面57.57m、奥行き48.48mの大規模なものでしたが、その後衰退し、
寛文11年(1671)に解体縮小されて小堂となり、仏像及び一切経五千余巻などが
本寺である大報恩寺(千本釈迦堂)へ運ばれました。
明治の神仏分離令により、北野天満宮の仏教建築の破壊が行われ、
北野経王堂願成就寺は明治3年(1870)に大報恩寺境内に移築されました。
昭和27年(1952)に大報恩寺の本堂が解体修理され、寛文11年(1671)に解体縮小された
北野経王堂願成就寺の古材が本堂の部材として一部使われていたことが判明しました。
現在の北野経王堂願成就寺は昭和31年(1956)に
その部材を使用して再建されたものです。
山名氏供養碑
堂前には山名氏清の武勲を讃え、山名矩豊(やまな のりとよ)により
「山名陸奥太守氏清之碑」が建立されています。
不動明王堂
不動明王堂には山名氏清山名宗全の念持仏であった不動明王像が安置されています。
稲荷社-1
稲荷社は鎌倉時代の建長2年(1250)に大報恩寺二世・如輪上人により、
賀茂春日石清水日吉今宮の五社と共に勧請されました。
稲荷社-2
荼枳尼天(だきにてん)、天上多田稲荷大明神が祀られています。

大報恩寺の本堂へ向かいます。
続く

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山門
東向観音寺は山号を朝日山と号する真言宗泉涌寺派の準別格本山で、
洛陽三十三所観音霊場の第31番札所です。
寺伝では平安時代初期の延暦25年(806)に桓武天皇の勅願により、
大納言・藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)と
法相宗の僧・賢憬(けんけい)が朝日寺として創建しました。
天暦元年6月9日(947)、朝日寺の僧・最鎮らは朝廷の命を受け、
菅原道真を祀る社殿(北野天満宮)を造営し、朝日寺は神宮寺となりました。
応和元年(961)に筑紫の観世音寺より菅原道真自作の十一面観音を招来し、
新たに本尊として安置されました。
応長元年(1311)には無人如導宗師によって中興され、寺名は観世音寺
または観音寺と改められました。
本堂の観音堂は東向きと、一夜松の観世音菩薩を祀る西向観音堂も建立されていましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、以後西向観音堂は再建されませんでした。
東向観音堂のみが再建され、「東向観音寺」と称されるようになりました。
慶長12年(1607) 、豊臣秀頼により北野天満宮の再建がなされた際に、
東向観音寺の本堂も再建されました。
江戸時代に入ると一条家の祈願所となり、一条家出身で明治天皇の皇后となった
昭憲皇太后は結婚する以前に当寺で勉学に励まれたと伝わります。
また、江戸時代の後期頃より寺名は、「観音寺」となりました。
本堂
現在の本堂は、豊臣秀頼により再建された後、元禄7年(1694)に本堂の前に
礼堂と本堂と礼堂をつなぐ造合が増築され、権現造りのようになっています。
平成13年(2001)4月1日に京都市の有形文化財に指定されています。
本尊は道真自作の十一面観音像ですが、秘仏とされ25年に一度しか開帳されません。
次回の予定は2027年になります。
本堂には他に大聖歓喜天、束帯天神、無人如導宗師像などが安置されています。
また、礼堂には不動明王、弘法大師、地蔵菩薩、愛染明王、毘沙門天、
吉祥天、妙見菩薩、韋駄天、伽藍神像などが安置されています。
賓頭盧尊者像
賓頭盧尊者像
岩雲弁財天
岩雲弁財天は豊臣秀頼が本堂を再建された時に、鎮守社として寄進されました。
行者堂
行者堂の前には神変大菩薩の石標が建ち、役行者が祀られています。
役小角(えん の おづの:634?~701?)は、元興寺孔雀明王の呪法を学び、
葛城山で山岳修行を行ったとされています。
その後、熊野大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を
感得し、修験道の基礎を築いたことから「役行者」と呼ばれるようになり、
寛政11年(1799)には第119代・光格天皇から神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の
諡(おくりな)を賜りました。
土蜘蛛塚
土蜘蛛塚には、手前の覆屋の中に土蜘蛛灯篭が祀られています。
この灯篭は、元は七本松通一条あって、土蜘蛛が住んでいた所と伝わります。
明治になってこの塚の発掘調査が行われ、この灯篭が発見されました。
この灯篭はある人が貰い受け、庭に飾っていましたが、家運が傾き、
土蜘蛛の祟りだとして東向観音寺に奉納されました。
土蜘蛛とは、上古の日本で朝廷・天皇に恭順しなかった土豪たちを指し、
背が低く、山野に石窟(いわむろ)・土窟・堡塁を築いて住んでいたことから、
妖怪のようにみなされ、「土蜘蛛」と呼ばれていました。
また、土蜘蛛には伝説が残されています。
大江山の酒呑童子を討ち取った源頼光は病にかかり高熱に苦しんでいました。
枕元に蜘蛛のように地を這い、口から糸を吐き出す妖怪が現れ、頼光を襲いました。
頼光は「膝丸(ひさまる)」と呼ばれる名刀で立ち向かうと妖怪は逃げ出し、
以後、その名刀は「蛛斬(くもきり)」と称されるようになりました。
妖怪が残した血痕をたどると北野の塚穴に辿り着き、
穴から大蜘蛛が這い出してきました。
頼光は大蜘蛛を鉄串で串刺しにして退治しました。

土蜘蛛塚の背後にある五輪塔は金売吉次(かねうりきちじ)の墓とされています。
北野天満宮の東、馬喰町にあった高林寺が明治5年(1872)に廃寺となり、
高林寺にあった五輪塔が遷されました。
金売吉次は奥州で産出される金を京で商う事を生業としたとされ、
源義経が奥州藤原氏を頼って奥州平泉に下るのを手助けしたとされています。
伴氏廟
伴氏廟(ともうじびょう)は菅原道真の母の墓とされています。
明治の神仏分離令により北野天満宮の境内から遷され、
天満宮にはその跡地に伴氏社が建立されました。
また、高さ4.5mの五輪塔は「忌明塔(きあけのとう)」とも呼ばれ、
古来から忌明の日にこの塔に参拝する習わしがありました。
百衣観音堂
百衣観音堂は元禄7年(1694)に建立され、堂内には明暦元年(1655)に
明国(中国)の陳元贇禅師(ちんけんびんぜんし)から寄進された
高王白衣観世音菩薩像が安置されています。
中国・漢の高王がこの観音像に祈願して子を授かったとされています。
また、堂内には一條家大政所殿が元禄年間(1688~1704)に寄進された
西国三十三所観音像三十三体を祀られています。
御厨子は徳川3代将軍・家光の長女の千代姫により寄進されました。

新西国三十三所観音霊場の第16番及び京都十三仏・第8番霊場の
千本釈迦堂(大報恩寺)へ向かいます。
続く

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白壁の土蔵
春の梅が開花する季節と秋の紅葉の季節には、南側にある梅花苑と西側にある
御土居が有料で公開されます。
令和2年(2020)の秋は11月1日~12月6日まで公開され、11月14日~12月6日の
日没~午後8時まではライトアップが行われます。
入苑の初穂料は千円でお菓子とお茶のサービス付きです。
絵馬所の先に白壁の土蔵があり、直進すると御土居で、
左折した南側に梅花苑があります。
御土居図
御土居は豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として、
外敵の来襲に備える防塁として、天正19年(1591)に築きました。
東は鴨川、北西部は紙屋川沿いで、氾濫から市街を守る堤防としても築かれ、
川は堀を兼ねていました。
土塁の内側は「洛中」、外側は「洛外」で、御土居が諸国との街道を横切る場所は
「口」と呼ばれ、「京の七口」として知られていますが、御土居の築造当時には
10箇所だったそうです。
北野天満宮境内の御土居は延長250mが残された最長遺跡で、昭和40年(1965)に
国の史跡に指定されました。
しかし、他に残された御土居は昭和5年(1930)に史跡に指定され、
また一部は指定されずに残されている箇所もあります。
梅紅軒
少し北へ進むと茶室・梅紅軒があり、その西側には舞台が建立されています。
もう少しすれば、舞台から素晴らしい紅葉が鑑賞できるようで、
「御土居の紅葉」として称賛されています。
道真の歌碑
菅原道真の歌碑
「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山 紅葉(もみじ)の錦 神のまにまに」
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、詠まれた歌で、
「突然の参拝に供物の用意ができず、美しく織りなされた錦のような境内の紅葉を
神前に捧げましょう」との意味になります。
本殿の屋根
御土居の一部から本殿の屋根などが見渡せます。
本殿の屋根-2
手前に張り出しているのが西側の楽の間で、その右側に廻廊の西門があり、
開門されています。
西門の背後に三光門の屋根が見えます。
欅
樹齢600年とされる欅(けやき)の大樹が御土居上に聳えています。
背後に天狗山があり、その高台が御土居として利用されているようです。
「天狗山」の名の由来は、昔は天狗が住んでいたという伝説から、
室町時代の『北野天満宮社頭絵図』に烏天狗が描かれていたことによるもので、
天狗山へ登ることは禁じられています。
ここから紙屋川の方へ下ります。
紙屋川沿いの苑路
紙屋川沿いの苑路
紅葉するのはまだ先です。
悪水抜き
「悪水抜き」と呼ばれる排水口の遺構が残されています。
悪水抜き-説明
御土居を貫通する全長19.3mの切石組暗渠(あんきょ)で、雨水などが神域を
浸さないような配慮がなされています。
紙屋川と鶯橋
紙屋川には鶯橋が架かり、苑路は対岸へと渡ります。
橋の名は、この辺りで鶯(うぐいす)のさえずりが聞かれることに由来しています。
鶯橋
昭和8年(1933)4月に現在地より少し上流に架けられていましたが、昭和10年(1935)の
豪雨で流失し、親柱のみが現在の場所辺りに流れ着いていました。
現在の橋は、平成19年(2007)11月に史跡・御土居の紅葉苑開苑に際し、
木製太鼓橋として再建されました。
枝垂れ梅
懸崖造りの茶室・梅紅軒の舞台が見えます。
手前に植栽されているのは枝垂れ梅のように思えます。
三又の楓
三又の楓は樹齢400年以上で、御土居の築造以前から自生していた
紅葉苑最大の樹木です。
度々の紙屋川の氾濫にも耐え、楓科としては極めて珍しい大木です。
紅葉
僅かに色づき始めた木も見られます。
竹林
御土居が築造された当時は竹が植えられ、江戸時代になって街道を分断していた部分や
一部が寺社や公家に払い下げられて御土居が取り壊されましたが、多くは残され、
幕府により竹林として管理されていました。
梅園-1
梅花苑の方へ戻ります。
梅園-2
梅花苑は現在は工事中で、苑路の散策はできませんでした。

約1500本の梅が植えられ、2月初旬から3月末にかけて、白梅、紅梅、一重、八重と
様々な梅が開花します。
梅園-茶店
秋でも茶屋が開かれ、団子などの販売が行われています。
梅園内の文堂会館
東側の文堂会館では各種イベント、コンサートなどに使用されるようです。
楼門
梅花苑を出て楼門の方へ向かいます。
楼門が建立された年代は不明ですが、本殿と同じ頃と思われます。
随身-右

随身-左

楼門では随身が門番をしています。
楼門-扁額
門には「文道大祖 風月本主(ぶんどうの たいそ ふうげつの ほんしゅ)」と
記された扁額が掲げられています。
大江匡衡(おおえの まさひら)の筆で、菅原道真を称えたものです。
文堂会館-玄関
楼門を出た西側に文堂会館の玄関があります。
太閤井戸
玄関前を東に進み、その先で南へ曲がった所に太閤井戸があります。
天正15年10月1日(1587年11月1日)、この年の7月に九州平定を終えた豊臣秀吉は、
聚楽第の造営を行うと共に、北野大茶会(きたのだいさのえ)を催しました。
その際使われた井戸です。
北野大茶湯の碑
その東側には「北野大茶湯之址」の碑が建っています。
北野天満宮の拝殿を3つに区切り、その中央に黄金の茶室を持ち込み、
茶頭として千利休・津田宗及・今井宗久が招かれました。
当日は京都だけではなく大坂・堺・奈良からも身分の差無く大勢の参加者が駆けつけ、
総勢1,000人にも達したと伝わります。
しかし、当初10日間開催される予定が、初日のみで中止されました。
秀吉が大勢の人に茶をたてるのに疲れてしまったためとも、当日の夕方に
肥後国人一揆が発生したという知らせが入ったため中止されたなど諸説あります。
筆塚
西側の参道へ戻り、南へ進むと西側に筆塚があります。
菅原道真は、文才に長けていたことから、手習い(習字)の神として信仰され、
各地の天満宮に使い古した筆を埋めて供養する筆塚が建てられています。
北野天満宮の筆塚は天保5年(1834)に商人の小野英棟により建立されました。
三の鳥居
参道を南へ進むと三の鳥居が建っています。
伴氏社-鳥居
三の鳥居の南側に伴氏社(ともうじ しゃ)があります。
神社前の石鳥居は鎌倉時代のもので、国の重要美術品に指定されています。
伴氏社
伴氏社には菅原道真の母が祀られています。
大伴氏は天忍日命(あめのおしひのみこと)の子孫とされ、「大伴」は、
宮廷を警護する皇宮警察や近衛兵のような役割を負っていたことに因んでいます。
平安時代の弘仁14年(823)に大伴親王が第53代・淳和天皇として即位すると、
その諱(いみな)を避けて、一族は「伴(とも)」と氏を改めました。
道真の母は伴真成(とものまさしげ)の娘とされ、
貞観14年(872)正月14日に亡くなりました。
伴氏社にはかって、石造りの五輪塔がありましたが、
明治の神仏分離令後に東向観音寺に遷されました。
親子牛の像
伴氏社の南側の牛の像には子牛が寄り添っています。
境内には多数の臥牛の像が奉納されています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は
「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。
二の鳥居
更に参道を南へ進むと、二の鳥居が建っています。
二の鳥居から南側の参道は、左へと緩やかに曲がり、
西側に東向観音寺がありますが、後で参拝します。
萩狛犬
鳥居前の狛犬は長州藩の寄進によるもので「萩狛犬」と称されています。
松向軒
東向観音寺の先に茶室・松向軒(しょうこうけん)がありますが、
通常非公開で門は閉ざされています。
天正15年(1587)に豊臣秀吉が開催した北野大茶会の際に建立されましたが、
その後、大徳寺の塔頭・高桐院(こうとういん)に移築されたため、
復元されて、毎月15日にお茶会が催されるようになりました。
松向軒は、利休の茶を忠実に継承したといわれる細川忠興(三斎)により、
「影向の松」に向かい合うように建立され、「松向軒」と名付けられました。
敷地内には当時の井戸が残され、「三斎井戸」と称されています。
影向の松
影向の松(ようごうのまつ)には、三冬(初冬~節分)間の初雪の時に、
祭神・菅原道真が降臨して雪見の歌を詠んだとの伝承が残されています。
露の五郎兵衛顕彰碑
影向の松の北側に露の五郎兵衛(ごろべえ)顕彰碑があります。
初代・露の五郎兵衛(1643~1703)は、京都出身で、元は日蓮宗の談義僧でしたが、
還俗して辻咄(つじばなし)を創始し、京都の北野、四条河原、真葛が原や
その他開帳場などで笑い咄、歌舞伎の物真似、判物を演じました。
上方落語の祖とされていますが、晩年に再び剃髪し、露休を号しました。
この碑は二代目・露の五郎が、落語生活50年を記念して、
平成11年(1999)3月に建立しました。
一の鳥居
一の鳥居の前の狛犬は高さが約5mあり、府内最大の大きさです。
新門辰五郎の石灯籠
一の鳥居の西に「新門辰五郎(しんもん たつごろう)の石灯籠」があります。
新門辰五郎(1800?~1875)は、江戸時代後期の町火消の頭で、寛永寺の座主だった
舜仁法親王(しゅんにんほっしんのう)が、浅草新門あたりに隠棲した際、
幕府より周辺の警護を命じられ、以降「新門」を名乗るようになりました。
元治元年(1864)に禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任じられた
徳川慶喜が上洛した際に呼び寄せられ、子分250名と息子の松五郎と共に
慶喜の元で、二条城の警備などを行いました。
この石灯籠は辰五郎の寄進によるもので、「江戸 消防方」と刻まれ、
新門辰五郎の名が見えます。

洛陽三十三所観音霊場・第31番札所である東向観音寺へ向かいます。
 続く

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地主神社
本殿の後方東側に地主神社があり、天神地祇(てんじんちぎ)と相殿に
敦実親王・斎世親王(ときよ しんのう)・
源英明朝臣(みなもと の ふさあきら/つねよし あそん)が祀られています。
『続(しょく)日本後紀』に「承和3年(836)2月1日に遣唐使のために天神地祇を祀る」
と記され、北野天満宮の創建以前からこの地に祀られており、
社殿は新しく見えますが境内最古の社となります。
その後、北野天満宮が創建されたため、北野天満宮の本殿は地主神社に配慮して、
楼門からの参道の西側へ外して建立されました。

相殿祭神の敦実親王(893~967)は、第59代・宇多天皇の第八皇子で、
第60代・醍醐天皇の同母弟です。
和歌・管弦・蹴鞠など諸芸に通じた才人であり、特に音曲に優れ
源家音曲の祖とされています。
天暦4年(950)に出家して法名を「覚真」と称し、仁和寺に住して
康保4年(967)に75歳で薨去されました。

斎世親王(886~927)は、第59代・宇多天皇の第三皇子です。
菅原道真が醍醐天皇から斎世親王に譲位させようとしたという嫌疑で
太宰府に左遷されました。
斎世親王は連座して出家し、仁和寺に入って「真寂」と称し、修行の道を歩みました。

源英明朝臣(?~940)は斎世親王の子で、幼年時代は上記の理由から不遇でした。
醍醐天皇の信任を受け、延喜23年(923)に右近衛中将、延長5年(927)に
蔵人頭と要職を歴任しました。
延長8年(930)に醍醐天皇から第61代・朱雀天皇への譲位に伴って蔵人頭を辞し、
承平元年(931)に宇多上皇が崩御されてからは再び不遇となりました。
老松社
地主神社の西側に老松社があり、天満大自在天神の眷属第一の神である
老松大明神が祀られています。
老松大明神は菅原道真の家臣(牛飼)だった島田忠興(しまだ の ただおき)を
神格化した神で、生前に、天拝山に登る道真の笏(しゃく)を持ち
お供したとされています。
雲龍梅
老松社の左前に植栽されている梅の木は「雲龍梅」と称され、
平成14年(2002)1月22日の菅原道真没後1100年を記念した「菅公千百年大祭」で、
全国天満宮梅風会により記念植樹されました。
枝がねじれ、龍が天に舞昇るように見えることからこの名が付き、
盆梅や庭木などで親しまれています。
十二社-1
老松社の西側に末社十二社を祀る社殿があります。
手前から寛算社(祭神:寛算入寺)、大門社(祭神:大門内供奉)、
橘逸勢社(祭神:橘逸勢)、藤太夫社(祭神:藤太夫吉子)、
文太夫社(祭神:文屋宮田麿)、淳仁天皇社(祭神:淳仁天皇)、
太宰少貳社(祭神:藤原広嗣)、老松社(祭神:島田忠臣翁)、
白太夫社(祭神:度会春彦翁)、
櫻葉社(祭神:伊予親王)、吉備大臣社(祭神:吉備真備公)、
崇道天皇社(祭神:崇道天皇)と並んでいます。

寛算入寺(かんざんにゅうじ)は筑紫安楽寺の住僧で道真を慕っていた僧だそうで、
歯痛平癒の神として祀られています。

大門内供奉(だいもんないぐぶ)は、天拝山の麓にある武蔵寺の住僧で、
身に覚えのないことを詰問され、非業の死を遂げました。
怨霊となりましたが、菅原道真が天拝山に登られた時に味方となったとされています。
災難除け、難問解決の神として祀られています。

橘逸勢(たちばな の はやなり)は、延暦23年(804)に最澄・空海らと共に
遣唐使として唐に渡り、琴と書を学んで大同元年(806)に帰国し、
それらの第一人者となりました。
しかし、承和9年(842)に起こった承和の変で伊豆への流罪が下され、
護送中に病死しました。
死後、赦免はされましたが、無実の罪で亡くなった逸勢は
怨霊になったとされています。
また、死因が病死であったことから病気平癒の神として祀られています。

藤太夫吉子(とうだゆう きっし)は、櫻葉社の祭神・伊予親王の母で、
親王と共に川原寺の一室に幽閉され、服毒自殺されましたが、
大願成就の神とされています。

文太夫社の祭神・文屋宮田麿(ぶんや の みやたまろ)は、承和7年(840)に
筑前守に任ぜられましたが、翌年までには官職を解かれています。
この間、新羅から朝廷への献上品が届けられましたが、
朝廷からは返却するように命じられました。
しかし、文屋宮田麿がこれを没収したことが朝廷に発覚し、大宰府官人により改めて
新羅に返却されました。
このような経緯が解任の原因になったと思われますが、承和10年(843)には
謀反を図っているとの告発があり、左衛門府に禁獄された後、
伊豆国へ配流されました。
その後の詳細は不明ですが、後に文屋宮田麿は無実であったとされています。
延命長寿の神として祀られています。

第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう:在位758~764年)は、
幼名を「大炊王(おおいおう)」と称し、藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の
強い推挙により立太子しました。
天平宝字2年(758)に孝謙天皇から譲位を受け践祚(せんそ)し、
孝謙天皇は太上天皇となりました。
その後、天皇は孝謙上皇と対立するようになり、
政治の実権は上皇が握るようになりました。
天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂は政権を取り戻すために挙兵しましたが密告され、
上皇の軍による追撃を受けて戦死しました。(藤原仲麻呂の乱
淳仁天皇は廃位されて淡路国への流罪となり、代わって孝謙上皇が称徳天皇として
重祚(ちょうそ)しました。
やがて、淳仁天皇は33歳で崩御され、その後に干ばつや大風が起こり、
世間は騒然となりました。
淳仁天皇社は心願成就の神とされています。
十二社殿
太宰少貳社(だざいのしょうにしゃ)の祭神・藤原広嗣(ぶじわらのひろつぐ)は、
朝廷内で反藤原氏勢力が台頭し、天平10年(738)に太宰少貳に左遷されました。
天平12年(740)に広嗣は、天地による災厄の元凶は反藤原勢力の要である
右衛士督・吉備真備(きび の まきび)と僧正・玄昉(げんぼう)に起因するとして
反乱を起こしましたが捕えられ、処刑されました。
唐津に広嗣の怨霊を鎮めるために鏡神社に二ノ宮が創建され、大同6年(806)には
奈良の新薬師寺の鎮守社として鏡神社が勧請されて南都鏡神社が創建されました。

老松社と白太夫社は北野天満宮-その1に既述の通りです。

櫻葉社は、右近の馬場の千本桜の女神とされる桜葉大明神が祀られています。
また、伊予親王と同体とされ、親王は異母兄の第51代・平城天皇への
謀反の疑いをかけられ、川原寺の一室に幽閉されて飲食を止められましたが
その後、母と主に毒を仰いで自害しました。(伊予親王の変
親王の薨去後に凶事が相次ぎ、親王は無実とされ、弘仁14年(823)に母と共に
復号・復位され、承和6年(839)には一品が追贈されました。
親王は管絃に長じていたことから音楽・声楽・謡曲上達の守護神とされ、
喉の病気平癒にも御利益があるとされています。

吉備大臣社(きびのおおかみしゃ)の祭神・吉備真備が家内安全の神として
敵対した藤原広嗣と同じように祀られています。
吉備真備は、霊亀2年(716)に第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に
阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐し、18年間唐にて経書と史書のほか、天文学・音楽・
兵学などの諸学問を幅広く学びました。
遣唐留学生の中で唐で名を上げたのは真備と阿倍仲麻呂のただ二人のみと
言われるほどの知識人でした。
帰国後はその実績が高く評価されて昇進し、天平10年(738)に
橘諸兄(たちばな の もろえ)が右大臣に任ぜられて政権を握ると、
真備と同時に帰国した玄昉と共に重用されました。
しかし、これが藤原広嗣の乱を引き起こすことになりました。
天平勝宝元年(749)に第46代・孝謙天皇が即位すると、藤原仲麻呂が権勢を強め、
真備は翌年に格下の地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷されました。
天平勝宝4年(752)に再び遣唐使に任命されて渡海し、翌年に鑑真を乗船させて
帰国の途に就き、屋久島に漂着するも、無事に帰朝することができました。
帰朝後も中央政界での活躍は許されず、天平勝宝6年(754)に
大宰大弐(だざいのだいに)に任ぜられました。
この頃、日本と対等の立場を求める新羅との緊張関係が増していたことから、
近い将来の新羅との交戦の可能性も予見し、その防備のために真備を大宰府に
赴任させたと見られています。
真備は大宰府の実質的な責任者として天平勝宝8年(756)に筑前国に
怡土城(いとじょう / いとのき)を築き、新羅からの攻撃に備えました。
更に天平宝字3年(759)には新羅征討計画が立案されましたが、孝謙上皇と仲麻呂との
不和により実行されずに終わりました。
天平宝字8年(764)に造東大寺長官に任ぜられ帰京しましたが、同年に起こった
藤原仲麻呂の乱で優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げました。
その功により昇進しましたが、宝亀6年(775)に81歳で薨去されました。

崇道天皇(すどうてんのう)社には、五穀豊穣の神として崇道天皇が祀られています。
早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の実弟で、皇太子でしたが、
長岡京遷都の翌延暦4年(785)、建都の長官・藤原種継が暗殺され、
それに関与したとみなされました。
暗殺団と見られた一味と交流のあった早良親王は乙訓寺に監禁されたのですが、
流罪処分となり淡路島に護送途中、現・大阪府守口市の高瀬神社付近で
亡くなりました。
その後、桓武天皇の第一皇子・安殿親王(あてのみこ=後の第51代・平城天皇
(へいぜいてんのう))が皇太子に立てられましたが発病し、
更に桓武天皇の后も病死しました。
その後も桓武天皇と早良親王の生母・高野新笠(たかの の にいがさ)の病死など
疫病が流行し、洪水の発生などの災難が続きました。
これは早良親王の祟りだとして桓武天皇は、延暦13年(794)に平安京へ都を遷し、
延暦19年(800)には親王に崇道天皇の追称を贈り霊を鎮めようとしました。
牛舎-鳥居
十二社から西へ進むと「牛舎」があります。
牛舎-牛像
撫でると一つだけ願いが叶うという「一願成就のお牛さん」が祀られています。
絵馬
牛舎の奥に絵馬掛所があります。
天狗山の鳥居
更にその奥、境内の北西角に昔、天狗が住んでいたとの伝承がある天狗山があり、
その前には鳥居が建っています。
絵馬掛け所の石
鳥居前には石が祀られていますが、詳細は不明です。
八社
牛社の南側に末社八社を祀る社殿があります。
右から福部社(祭神:十川能福)、高千穂社(祭神:瓊瓊杵命・天児屋根命)、
安麻神社(祭神:菅原道真公のご息女)、御霊社(祭神:菅公の眷属神の御霊)、
早取社(祭神:日本武尊)、今雄社(祭神:小槻宿祢今雄)、
貴布禰社(祭神:高龗神)、荒神社(祭神:火産神・興津彦神・興津媛神)と
並んでいます。

福部社は北野天満宮-その1に記述の通りです。

高千穂社の祭神・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は、天照大御神の
神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、
高天原から日向の高千穂峰へ天降りました。
天児屋根命(あめのこやねのみこと)は瓊瓊杵尊に随伴し、
中臣連の祖となったとされています。

早取社の祭神・日本武尊(やまとたけるのみこと)は、
大津市にある建部大社の祭神です。

今雄社の祭神・小槻宿祢今雄(おつきのすくね の いまお)は、当初「小槻山君」と
名乗っていましたが、後に阿保姓を賜り「阿保今雄」と改名しました。
小槻宿祢を名乗るようになったのは、今雄の子以降とされています。
小槻山氏は近江国栗太郡(現滋賀県草津市・栗東市一帯)を拠点とする豪族で、
仁寿元年(851)に今雄は雄琴・苗鹿(のうか)の地を拝領し、所領としました。
雄琴の地名は、今雄の邸宅から琴の音がよく聞こえたためと伝わります。
算道を習得し、太政官の史の官職を得て、平安京左京四条三坊へ移住しました。
雄琴神社では祭神として祀られています。

荒神社の祭神・火産神(ほむすびのかみ)は火を司る神で、興津彦神と興津媛神は
竈(かまど)の神です。
井戸
八社の南側に井戸があります。
「御神用水」と称され、現在でも神事にはここで汲み上げられた
水が用いられるそうです。
手向山の楓樹
井戸の付近に「手向山の楓樹」が植栽されています。
昌泰元年(898)に菅原道真が宇多法皇の巡幸に供奉(ぐぶ)された際に、
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)へ参拝され、その史実により
正徳6年(1716)に手向山八幡宮から楓の苗木が奉納されました。
四社-2
井戸の南側の末社四社には、夷社(祭神:事代主命)、松童社(祭神:神太郎丸)、
八幡社(祭神:誉田別尊)、若松社(祭神:若松章基)が祀られています。

松童社の祭神・神太郎丸(みわ の たろうまる)は、近江国の比良宮の
神主・神良種(みわのよしたね)の子で、天慶5年(942)に多治比文子が
「われを右近の馬場に祀れ」との菅原道真の託宣を受けると、その5年後に
太郎丸も同様の託宣を受けました。

若松社の祭神は若松章基(わかまつ の あきもと)とされていますが、詳細は不明で、
老松社の祭神と同様に天満大自在天神の眷属の一人かもしれません。
七社殿
末社四社の南側に七社を祀る社殿があります。
手前から 那伊鎌社(祭神:建御名方命)、一拳社(祭神:一言主神)、
周枳社(祭神:天稲倉宇気持命・豊宇気能媛)、宰相殿社(祭神:菅原輔正卿)、
和泉殿社(祭神:菅原定義卿)、三位殿社(祭神:菅原在良卿)、
大判事社(祭神:秋篠安人卿)が祀られています。

那伊鎌社(ないかましゃ)の祭神・建御名方命(たけみなかたのみこと)は、
大国主神の御子神で、諏訪大社の祭神です。
天照大御神から派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)と経津主神
(ふつぬしのかみ)は大国主神に国譲りを迫った際、大国主神は事代主神と
建御名方命の二人の御子神が答えると告げました。
事代主神は承諾しましたが、建御名方命は武甕槌神に力競べを申し出ました。
武甕槌神の力に恐れをなした建御名方命は逃亡しましたが、諏訪で追い詰められ
国譲りと諏訪の地から離れない事を約束して命を助けられました。

一拳社(ひとこぶししゃ)の祭神・一言主神は、奈良県御所市にある葛城一言主神社
祭神で、一言の願いであれば何でも聞き届ける神とされています。

周枳社(すきしゃ)の祭神は、天稲倉宇気持命(あめのいなくらうけもちのみこと)と
豊宇気能媛(とようけのひめのみこと)ですが、天稲倉宇気持命は穀物の神と
思われますが詳細は不明です。
京丹後市大宮町周枳に大宮売神社(おおみやめじんじゃ)があり、古くは「周枳社」
とも「周枳宮」とも呼ばれていました。
しかし、大宮売神社の祭神は大宮賣神(おおみやめのかみ)と若宮賣神です。
豊宇気能媛は、『丹後國風土記』によれば、現在の峰山町の比治山
(ひじさん=磯砂山:いさなごさん)の山頂にある池に舞い降りた八人の天女の
一人とされています。
八人の天女は池で水浴をしていたのですが、その内の一人の羽衣が老夫婦に隠され、
天へ帰れなくなってしまい、老夫婦の娘にされて一緒に暮らすようになりました。
天女は一杯飲めば万病に効く酒を造り、また機織りも教え、
老夫婦はたちまち裕福になりました。
10年後、なぜか老夫婦は天女を追い出しました。
天女は比治の里を彷徨った末、船木(現在の京丹後市弥栄町船木)の里に至り、
そこに鎮まりました。
以来、この地は「奈具」と呼ばれ、村人たちによって天女は
豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)として奈具神社に祀られたと伝わります。
また、宮津市江尻にある籠神社(このじんじゃ)奥宮の真名井神社
彦火明命(ひこほあかりのみこと)が創祀し、その御子神である天香具山命
(あめのかぐやまのみこと)が磐境(いわさか)を起こし、
「匏宮(よさのみや)」を創建し、磐座の豊受大神を主祭神として
神祀りを行っていたとされています。
その後、第21代・雄略天皇21年(477)に豊受大神は伊勢へと遷されました。

宰相殿社の祭神・菅原輔正(すがわら の すけまさ:925~1010)は、
道真の五男・菅原淳茂(すがわら の あつしげ:878~926)の孫で、
菅原氏としては道真以来約100年ぶりに議政官の座に就きました。
寛弘6年(1010)に85歳で薨去され、寿永3年(1184)には正二位を追贈されました。

和泉殿社の祭神・菅原定義(1002~1065)の父は道真の曾孫にあたる
菅原資忠(すがわら の すけただ:936~989)の子・
菅原孝標(すがわら の たかすえ:972~?)で、道真から6代目に当たります。
『更級日記』の作者・菅原孝標女(すがわら の たかすえ の むすめ:1008~1059)は
同母姉妹ですが、本名は伝わってはいません。
定義は、式部少輔、民部少輔、弾正少弼(しょうすけ)、少内記、大内記、
大学頭、文章博士(もんじょうはかせ)を歴任し、
康平7年(1065)に64歳で亡くなりました。
死後、寿永3年(1184)に従三位、乾元元年(1302)に正二位、元徳2年(1330)に
従一位を贈られています。

三位殿社の祭神・菅原在良(1041~1121)は菅原定義の子で、式部少輔・大内記を
兼任した後、文章博士、式部大輔を歴任し、天永2年(1111)に侍読に任ぜられ
第74代・鳥羽天皇に仕えました。
死後、元徳2年(1330)に従三位を贈られました。

大判事社の祭神・秋篠安人(あきしの の やすひと:752~821)は、菅原道真の
祖祖父である菅原古人(すがわら の ふるひと:?~785?)の兄弟で、
古人が本拠地(大和国添下郡菅原)の地名から菅原姓へ、安人の一族はその居住地
(大和国添下郡秋篠)から「秋篠」姓を賜りました。
安人は延暦24年(805)に道真に続いて参議に任ぜられ公卿に列し、右大弁・近衛少将を
兼ね、翌年には左大弁・左衛士督に昇進しましたが、大同2年(807)に起こった
伊予親王の変に関与したとして失脚しました。
大同5年(810)に発生した薬子の変後に復権、参議に還任されて、
左大弁・左兵衛督を兼任し、弘仁12年(821)に70歳で亡くなりました。
源平咲き分け梅
七社殿前の源平咲き分け梅は、平成20年(2008)の全国天満宮梅風会第50回記念植樹で
植えられました。
一本の木に白と薄紅色の二色の花が咲き、源氏の旗が白、平氏の旗が赤だったことから
「源平咲き分け梅」と呼ばれています。
神明社と文子社
参道を南へ進むと、左側に廻廊の西門があり、
西門前の参道の正面には神明社と文子社が北向きに建っています。
左側の文子社は、北野天満宮-その1「文子天満宮」で既述した通りで、
右側の神明社には伊勢神宮・内宮の祭神・天照大御神と
外宮の祭神・豊受大神が祀られています。
かっては御池通寺之内下る神明町で祀られていましたが、文化11年(1814)に
現在地に遷されました。
御土居碑
文子社から西へ進むと「史跡 御土居の紅葉」の碑が建っています。
その先に御土居への入口の門がありますが、施錠されています。
神庫
碑から南側に神庫と紅梅殿に挟まれたやや細い参道があります。
豊国神社
その参道を南へ進むと豊国神社(とよくにじんじゃ)・一夜松神社・
野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)の相殿社があります。

豊国神社の祭神は豊臣秀吉で、秀吉は北野天満宮を厚く崇敬し、
境内地で北野大茶湯を催され、一時衰退していた天満宮を復興しました。
そして、天満宮本殿の造営を遺命とされ、その遺志を継いだ秀頼により
現在の社殿が建立されました。

一夜松神社には一夜千松の霊が祀られています。
一夜千松の霊とは、北野天満宮創建に先立ち、「私の魂を祀るべき地には
一夜にして千本の松を生じさせる」という道真のお告げにより、
この一帯に生えた松に宿る神霊とされています。

野見宿祢神社はかっては一之保神社(いちのほ じんじゃ)で祀られていましたが、
明治元年(1868)に遷座されました。
野見宿祢は菅原氏の遠祖であり、第11代・垂仁天皇に仕えていました。
天皇の命により当麻蹴速(たいまのけはや)と角力(相撲)をとり、
これに勝利して蹴速が持っていた大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を
与えられました。
垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、
それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を案出し、
土師臣(はじのおみ)の姓を与えられました。
以後、土師氏は代々天皇の葬儀を司ることとなりました。
石材を加工する際に使われる道具の「ノミ」と野見は関連があると
考えられています。
第50代・桓武天皇は道真の祖父である菅原古人の一族15名に、
居住地である大和国添下郡菅原邑に因んで菅原姓(菅原宿祢)への
改姓を認めました。
桓武天皇の母方の祖母は土師氏の出身で、その娘で天皇の生母である
高野新笠(たかの の にいがさ)は土師氏の里で幼少期の桓武天皇を
養育したと見られています。
一之保神社-1
南側の一之保神社(いちのほ じんじゃ)と奇御魂神社(くしみたま じんじゃ)には
菅原道真と道真の奇御魂が祀られています。
一之保神社-2
大宰府に残された道真手作りの木造を西ノ京神人(じにん)が持ち帰り、
西の京(京都市中京区南西部天満宮の氏子区域)北町に建てた
小さな社に納め、これを「安楽寺(あんらくじ)天満宮」と称して
祀られていましたが、 明治6年(1873)7月21日に現在地に遷されました。
尚、西ノ京神人とは俗体をもって北野に奉仕する団体です。

「奇御魂」とは、駒札には「さまざまな不思議や奇跡をよびおこす
特別な力を持った神霊のことで、鎌倉時代の中頃、菅公のご神霊が、
東福寺の開祖・圓爾国師(えんにこくし)の前に現れ『私はこのたび宋に飛び、
一日にして禅の奥義(おうぎ)を修得した』と告げられました。
その時 菅公は唐衣(からころも)をまとい手に一輪の梅の花を
持たれていたため、以来このお姿を『渡唐(ととう)(宋)天神』と
称え祭るようになった。」と記されています。
稲荷社
南側の稲荷神社には、伏見稲荷大社の主祭神と同様に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
・佐田彦大神・大宮能売神(おおみやのめのかみ)が祀られていますが、
佐田彦大神は猿田彦神の別名とされ、こちらでは猿田彦神で表記されています。
かって、この付近での大火の際、この神社の手前で火の手が止まったと伝わり、
以来「火除け稲荷」と呼ばれ、信仰を集めています。
猿田彦社
稲荷神社に併設されるように猿田彦社があり、猿田彦神と大宮能売神が
祀られています。
大宮能売神は、天宇受賣命(あめのうづめのみこと)の別名で、
邇邇芸命(ににぎのみこと)に随伴して天降りしました。
邇邇芸命の一行が天降りする際に、天の八衢(やちまた=道がいくつもに
分かれている所)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいて、
天宇受賣命はその神の名を聞きました。
その神の先導により邇邇芸命達は無事に葦原中国に着き、邇邇芸命は
天宇受賣命にその神の故郷である伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届けるように命じました。
その神の名は猿田彦神で、天宇受賣命は猿田彦神に仕え、
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
連歌所の井戸-1
猿田彦社からUターンして北へ戻った東側に連歌所の井戸があり、明治6年(1873)まで
井戸の西側に連歌所が建っていました。
連歌所の井戸-2
北野天満宮では、室町時代から江戸時代にかけては盛んに連歌会が行われ、
毎月18日には月次会が行われました。
連歌を献じて神の御意を慰めることを法楽といい、北野天満宮では
「聖廟法楽」と称され毎月25日に催されていました。
「聖廟法楽」の連歌の席には天神像がかけられ、
朝廷をはじめ広く庶民にも親しまれていました。
連歌所は明治時代に廃されましたが、
現在は「京都連歌の会」として復興されています。
紅梅殿-2
井戸の北側に紅梅殿があります。
道真の邸宅・紅梅殿に因み、大正6年(1917)に調理所として本殿の西側に
建立されましたが、平成26年(2014)夏に現在地に移築されました。
紅梅殿-庭園-1
紅梅殿の庭
紅梅殿-庭園
庭の南側の広場では、2月25日の梅花祭で上七軒の芸舞妓による野点が行われます。
菅原道真の誕生日が6月25にで、命日が2月25日であることから
毎月25日は縁日とされています。
縁日には境内に多くの市が立って賑わいます。
御手洗川-1
広場の東側に御手洗川があり、祭事の際には水が流されるようです。
御手洗川-2
御手洗川に沿って南の下流側へ進みます。
宗像社
南の絵馬所前から西へ進んだ左側に宗像社があり、宗像三女神が祀られています。
かって、この社殿の西に池があり、その水底に祀られていた御神体が
現在地に遷座されました。
大杉社
宗像社の南側に大杉社があり、樹齢千年を超えると伝わる
杉の切り株が祀られています。
室町時代に作成された『社頭古絵図』には、二又の杉の巨木が描かれ、
聖歓喜天が宿る諸願成就の御神木として信仰されていました。

紅葉苑と梅花苑から一の鳥居へ向かいます。
続く

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