2020年12月

寺号標
平安時代、第3代天台座主・慈覚大師円仁はこの地に天台声明の道場を開きました。
その後、勝林院が建立され、付近一帯は
「魚山大原寺」と総称されるようになりました。
以来、この地には多くの念仏修行者が住みつくようになり、
貴人が都の喧騒を離れて隠棲する所ともなりました。
大原の三千院は、大原寺の管理と念仏行者を取り締まりを行う、
梶井門跡の政所(まんどころ)が起源です。

そもそも、三千院の始まりは延暦年間(782~806)で、延暦寺を開いた伝教大師最澄
が、東塔南谷の梨の大木の下に創建した「円融房」とされています。
貞観2年(860)に承雲和尚はその地に最澄自刻の薬師如来像を安置した伽藍を建て、
「円融院」と称し、東坂本の梶井に里坊を建立しました。
元永元年(1118)に第73代・堀河天皇の皇子である最雲法親王が、
円融院に皇室子弟として初めて入り、梶井門跡となりました。
保元元年(1156)、最雲法親王は第49代天台座主に就任し、
大原の地に現在の三千院となる政所を建立しました。

貞永元年(1232)に坂本の梶井門跡が焼失し、京都市内に移転されました。
その後も市内で移転を繰り返し、元弘元年/元徳3年(1331)に
船岡山の東麓で定着しました。
かって、その地には第53代・淳和天皇の離宮があり、第54代・仁明天皇の
第七皇子・常康親王(つねやすしんのう)に引き継がれ、
承和11年(844)には「雲林院」と称されていました。
貞観11年(869)に親王は遍昭に雲林院を譲渡し、遍昭は雲林院の別当を兼ね、
雲林院を天台宗の修行場としましたが、鎌倉時代になると次第に衰微しました。
その跡地に梶井門跡が移転しました。
しかし、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、梶井門跡を継いだ
第93代・後伏見天皇の第4皇子・尊胤法親王(そんいんほうしんのう)は、
梶井門跡の本坊を大原の政所に移しました。

江戸時代になり、第3代将軍・徳川綱吉は、時の梶井門跡であった
慈胤法親王(じいんほっしんのう)が三度にわたり天台座主を務めたこと称え、
元禄11年(1698)に現在の京都府立医大がある辺りの公家町に寺地を与えました。
明治維新の際、当時の門跡であった昌仁法親王は還俗して梨本宮家を起こし、
公家町の寺院内にあった仏像、仏具類は大原の政所に遷されました。
明治4年(1871)に大原の政所が本坊と定められ、梶井門跡の持仏堂の名称
「一念三千院」から「三千院」と改称されました。
「一念三千」とは、一念の心に三千の諸法を具えることを観(かん)ずることで、
中国天台宗の開祖である天台大師・智顗(ちぎ)が創案したとされ、
天台宗の観法であり、また根本教理となっています。

石垣
参道沿いの石垣は、築城で名高い坂本の穴太衆(あのうしゅう)によるものです。
御殿門
御殿門は薬医門形式で、両側に石垣と白壁をめぐらし、法親王の御殿である
政所の入口にふさわしい城郭を思わせる重厚な門構えになっています。
勅使玄関
門をくぐった正面には客殿の勅使玄関がありますが、現在は生垣で隠されています。
生垣沿いに左へ進むと参拝入口があり、その前から玄関を見ることが出来ます。
庫裡
庫裡に拝観受付があり700円を納め、参拝入口から入ると、
順路は廊下を玄関の方へ向かいます。
坪庭
廊下の脇に坪庭があります。
聚碧園-傾斜地-1
客殿は平安時代には龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所でした。
安土・桃山時代の天正年間(1573~1592)に、豊臣秀吉による宮中修復の際、
紫宸殿の余材が利用されて修復され、その後大正元年(1912)にも
補修が施されています。
明治39年(1906)の客殿各室には、当時の京都画壇を代表する画家たちの
襖絵が奉納されていました。
当時若い世代であった竹内栖鳳菊池芳文や重鎮であった望月玉泉今尾景年
鈴木松年によって描かれましたが、現在は宝物館である円融蔵に所蔵されています。
聚碧園-傾斜地
客殿の庭園は「聚碧園(しゅうへきえん)」と称される池泉観賞式庭園で、
江戸時代の茶人・金森宗和(かなもりそうわ・1584~1656)による修築と伝わり、
京都市の名勝に指定されています。
東部は自然の傾斜地を利用して作庭されています。
聚碧園-池
西部は円形とひょうたん形の池泉が結ばれ石橋が架けられています。
背後の渡り廊下は円融房へと結ばれています。
宸殿
客殿から東の廊下の階段を登ると、門跡寺院にしか見られない宸殿があります。
宸殿は三千院の最も重要な法要である御懴法講(おせんぼうこう)を
執り行うために、御所の紫宸殿を模して、大正15年(1926)に建立されました。
御懴法講は平安時代の保元2年(1157)、後白河法皇が宮中の仁寿殿に於いて
始められた宮中伝統の法要で、江戸末期までは宮中で行われていたため、
「宮中御懴法講」と呼ばれていました。
懺法とは知らず知らずのうちにつくった悪い行いを懺悔して、心の中にある
「むさぼり・怒り・愚痴」の三毒をとり除き、心を静め清らかにするもので、
天台宗のなかでも最も大切な法要儀式とされています。
明治新政府が宮中での仏事を禁じたため、この行事は一旦絶え、その後
明治31年(1898)に明治天皇の母・英照皇太后の一周忌に際し復興されました。
昭和54年(1979)に明治天皇70回忌法要が営まれてからは、
毎年5月30日に行われています。
宸殿の東の間には玉座があり、下村観山の大きな虹が描かれた
襖絵があることから「虹の間」とも呼ばれています。
宸殿の本尊は伝教大師作と伝わる薬師瑠璃光如来ですが秘仏とされています。
持仏堂に掲げられていた霊元天皇御宸筆の勅額「三千院」は
宸殿に掲げられていますが、撮影は禁止されています。
有清園
宸殿から往生極楽院を望む庭園は「有清園(ゆうせいえん)」と呼ばれ、
京都市の名勝に指定されています。
江戸時代に作庭されとされ、中国の六朝時代を代表する
詩人・謝霊運(しゃれいうん・385~433)の
「山水清音有(山水に清音有り」より命名されました。
瑠璃光庭園-地蔵像
庭園内には地蔵菩薩の石像が祀られています。
往生極楽院
往生極楽院は、平安時代末期から大原の地にあった阿弥陀堂であり、
通称で「極楽院」と呼ばれていました。
寺伝では恵心僧都源信が父母の菩提を弔うため、姉の安養尼と共に建立したと
伝えられていましたが、吉田経房の日記「吉記」の記述から、久安4年(1148)に
建立されたことが明らかとなりました。
吉記には、高松中納言・藤原実衡(さねひら)の妻である
真如房尼(しんにょぼうに)が、
亡き夫の菩提を弔うために建立したと記されています。
江戸時代の元和2年(1616)と寛文8年(1668)に大幅な修理が施されるとともに
向拝が付けられ、現在の姿となりました。
明治4年(1871)、三千院が大原の地に移転されてから境内に取り入れられ、
明治18年(1885)に「往生極楽院」と改称されました。
現在の建物は、国の重要文化財に指定されています。

堂内には平安時代作で国宝に指定されている阿弥陀三尊像が安置されています。
中尊の阿弥陀如来坐像は像高2.3mあり、
堂内の天井を舟底形にくりぬかれて安置されています。
天井には現在は肉眼では判り難いですが、
極楽浄土に舞う天女や諸菩薩の姿が極彩色で描かれています。
再現したものが円融蔵で展示されています。

向かって右側に像高131.8cmの観世音菩薩、左側に像高130.9cmの勢至菩薩坐像が
安置され、共に「大和座り」と呼ばれる前かがみの座り方をしています。
寺伝では恵心僧都源信の作とされていましたが、勢至菩薩の胎内から
墨書銘が発見され、久安4年(1148)に造立されたことが判明しました。
足のつま先を立て、衆生救済のためにいつでもすぐに立ち上がる
姿勢を表しています。
わらべ地蔵
庭園に祀られている「わらべ地蔵」は、石彫刻家の杉村孝氏の作によるものです。
弁天池
往生極楽院の東側に弁天池があります。
弁天池-滝
「細波(さざなみ)の滝」と呼ばれる三段式の滝からの流れが注いでいます。
弁天池-島
池には鶴島、亀島があります。
延命水
この水は「延命水」と呼ばれています。
朱雀門-内側
往生極楽院の正面には「朱雀門」があります。
常時閉じられていますが、本来は正門です。
江戸時代に再建された鎌倉様式の四脚門で、
東福寺の月華門を模したとされています。
弁天像-鳥居への石段
有清園から石段を登ります。
弁天像-鳥居
鳥居を挟んで右の石段を登れば金色不動堂、左は紫陽花苑へ至ります。
弁天像
妙音福寿大弁財天像と宇賀神が祀られています。

左の紫陽花苑へと進みますが、手入れ中だったため画像はありません。
数千株の紫陽花が植えられ、6月中旬~下旬が見頃となります。
売炭翁石仏への橋
紫陽花苑に沿って北へ進むと朱塗りの橋があります。
律川
この川は「律川(りつせん)」と呼ばれ、三千院の境内は境内南を流れる
「呂川(りょせん)」との2つの川に挟まれ、
呂川・律川の名は声明の音律の「呂」と「律」に由来しています。
売炭翁石仏
橋を渡った所に鎌倉時代作で像高2.25mの阿弥陀如来石仏が祀られています。
売炭翁石仏-2
また、この場所は、昔、炭を焼き始めた老翁が住んでいた
「売炭翁(ばいたんおきな)旧跡」と伝えられることから、
「売炭翁石仏」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-1猫
川の上流沿いに「おさな六地蔵」が祀られています。
六地蔵の全ての画像はありませんが、表情が豊かと感じたものを掲載します。
猫を抱いていることから「猫地蔵」とも呼ばれています。
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-2
おさな六地蔵-3鳥
おさな六地蔵-3
鳥を頭に乗せた「鳥地蔵」と勝手に命名しますが、鳥が乗っていることさえ
感じずに精神統一された境地に入っている姿が表されているのかもしれません。
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-4
おさな六地蔵-二躯
おさな六地蔵ではありませんが、その並びに祀られていた二体の地蔵尊。
金色不動堂
橋から戻り石段を登ると金色不動堂の裏側に出ます。
護摩祈祷を行う祈願道場として、平成元年(1989)4月に建立されました。
本尊は智証大師・円珍作と伝わる像高97cmの金色不動明王立像で、
重要文化財に指定されていますが秘仏です。
毎年4月に行われる不動大祭期間中の約1ヶ月間に開扉されます。
金色不動堂-納経所
また、近畿三十六不動尊霊場・第16番札所の本尊でもあり、納経所もあります。
その横には無料休憩所があり、お茶の接待を受けられます。
起き上がり小法師
納経所では起き上がり小法師が多数奉納されています。
宝篋印塔-写経塚
金色不動堂から観音堂への石段の脇に宝篋印塔があり、
「写経塔」と刻まれています。
草木供養塔
その右側には草木供養塔があります。
観音堂への石段
観音堂への石段
観音堂
観音堂は平成10年(1998)に建立されました。
観音堂-堂内
堂内には像高3mの金色に輝く観音像が安置されています。
小観音堂
右側に小観音堂があります。
小観音像
小観音堂には小さな観音像が多数奉納されています。
茶室
境内には茶室もあります。
慈眼の庭-1
北側には平成10年(1998)に作庭された二十五菩薩慈眼の庭があります。
慈眼の庭-2
補陀洛浄土を模して二十五の石が菩薩に見立てて配されています。
観音菩薩
補陀落は観音菩薩が降臨する霊場とされています。
帰り口の門
弁天像の鳥居へ下り、朱雀門の前を通り、西側の門を出ます。
円融房
門を出て下ると円融房の横に出ます。
現在の円融房は、最澄の創建時のものと異なり、コンクリート造りの建物です。
現在では修行道場や写経場として使われているようです。
円融蔵
円融房の向かいに宝物館の円融蔵があります。
往生極楽院の舟底形天井が原寸大に復元され、、
天井画が創建当時の顔料で極彩色で描かれています。
鎌倉時代の寛元4年(1246)作の救世観音半跏像は、四天王寺の当初の
本尊像を模したものとされ、かって、三千院門主が四天王寺の別当を
兼ねていたことから、三千院に伝えられていると考えられています。
鎌倉時代作の不動明王立像も安置されており、救世観音半跏像と共に
国の重要文化財に指定されています。
納経所
円融蔵に併設して納経所があります。
三千院は、神仏霊場巡礼の道・第106番、
西国薬師四十九霊場・第45番、近畿三十六不動尊霊場・第16番、
京の七福神めぐり(弁財天)の各札所となっています。
呂川
御殿門を出て、三千院の南側を流れる呂川(りょせん)に沿って登ります。
円融房前の門
円融房前の門があります。
朱雀門
その先には「朱雀門」があります。
勝手神社-鳥居
更に登ると左側に勝手神社への参道があります。
勝手神社-橋
参道を進むと律川(りつせん)に架かる勝手大橋があります。
勝手神社
橋を渡った先に勝手神社があり、勝手明神が祀られています。
勝手神社は、来迎院、三千院、勝林院などで行われる声明の鎮守社として
吉野の勝手神社を勧請して創建されました。

呂川沿いの参道まで戻り、更に登って来迎院へ向かいます。
続く

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山門
国道367号線を途中越えから下り、新伊香立橋の手前で右折して旧街道を進んだ
右側に古知谷阿弥陀寺の駐車場があります。
山門は下層を白漆喰塗り込めとした中国風の楼門で、
門前の石柱には「弾誓仏一流本山」と刻まれています。
阿弥陀寺は山号を「光明山」と号する浄土宗の寺院で、
通称で「古知谷阿弥陀寺」と称されています。
参道
山門から本堂までは標高差約320mを15分程かけて登らなければなりません。
滝
谷川沿いに登り、上部には小さな滝があります。
カエデ-1
参道沿いに聳えるカエデは樹齢800年以上とされ、
京都市の天然記念物に指定されています。
日本では、本州以南の平地から標高1000m程度にかけての低山で多く見られる
イロハモミジで、「高雄楓」とも称され、紅葉の名所とされる阿弥陀寺周辺の
古知谷で、数あるカエデの中でも最大のものとなります。
カエデ-2
幹には多数の支根が絡みつく特異な形状となっています。
不明な建物
正面に懸崖造りの建物がありますが、詳細は不明です。
書院
正面の書院には宝物館があり、皇族との関係が深く、皇室から寄進された貴重品や
弾誓上人ゆかりの仏具などが展示されています。
廊下左の庭
書院からの渡り廊下の左側です。
石廟
渡り廊下の先に巌窟があり、巌窟内の石廟には弾誓上人
(たんぜいしょうにん:1552~1613)の即身仏が安置されています。
弾誓上人は尾張国で生まれ、9歳で出家して木食僧(もくじきそう)として
諸国を行脚し、修行を重ねました。
天正18年(1590)に39歳になった弾誓上人は佐渡島へ渡り、浄土宗の常念寺で
得度しました。
その後6年間、檀特山(だんとくさん:標高807m)で修行し、篭っていた洞窟に
阿弥陀如来が顕れ、 「十方西清王法国光明正弾誓阿弥陀仏」の
尊号と他力念仏の深義を授かったと伝わります。

佐渡から離れて京都に来た時、五条大橋で北の空に紫雲たなびき、
光明を発するの見てこの地へ訪れ、念仏三昧の修行を行いました。
その4年後の慶長18年(1613)に弾誓上人は、松の実と皮のみを食し、
体質を樹脂化して石棺に入り、即身仏となったと伝わります。
全国の即身仏では最南端に位置します。
中庭
渡り廊下と本堂との間の庭園
本堂
現在の本堂は享和元年(1801)に再建されました。
阿弥陀寺は慶長14年(1609)に弾誓上人により開創された念仏道場です。
享保年間(1716~1736)には弾誓上人を慕い、近江国の念仏行者・澄禅が参禅した
「禅公窟」が本堂から約300mの山上に残されていますが、非公開です。
澄禅は、享保6年(1721)に即身入定を果たしているとされていますが、
その即身仏は現在では残されていません。

本尊は像高74.2cmの弾誓上人像で、本堂内陣の中央にある宮殿内に安置されています。
「植髪(うえがみ)の木像」と呼ばれ、弾誓上人が自ら刻み、
自身の頭髪を植え込んだとされています。
一般的には阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院で、阿弥陀如来と共に
弾誓上人像を本尊として安置することから「弾誓仏一流本山」と称されています。

向かって右側に安置されている像高70.6cmの木造阿弥陀如来坐像は、
鎌倉時代の作とされ、国の重要文化財に指定されています。

向かって左側には平安~室町時代の作とされる像高72.3cmの
阿弥陀如来立像が安置されています。
本堂前の庭園
本堂前には白砂が敷かれた枯山水の庭園が築かれています。
茶室
庭園の奥には茶室・瑞雲閣があります。
茶室-2
瑞雲閣も懸崖造りです。
地蔵像
本堂の右側は墓地で、地蔵菩薩が祀られています。
弾誓上人には70人余りの弟子が師事していたと伝わり、その墓と思われます。
鐘楼
鐘楼
六体地蔵
六体地蔵の奥は一般の墓地のようです。

旧街道を南下し、国道367号線に合流して三千院へ向かいます。
続く

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勝華寺
還来神社から国道477号線を北上すると京都からの国道367号線と合流し、
その先は国道367号線となります。
国道477号線が国道367号線の下からカーブして国道367号線と交差して合流した所を
直進して坂を下った所に勝華寺があります。

この地は比叡山から葛川息障明王院の途中にあり、千日回峰行を創始した
延暦寺の僧・相応和尚(そうおうかしょう)が、「龍花村(りゅうげむら)」を
「途中村」と命名したことから「途中越」と呼ばれるようになったと伝わり、
京都から出発して最初の難所でした。
現在はお堂が一つ残されているだけですが、葛川へ向かう修験行者は
勤行するため、必ずこのお堂に立ち寄りました。
勝華寺-木札
お堂には行者の名が記された幾つもの木札が掲げられています。
勝華寺-不明な塔
詳細は不明ですが、何か気になります。
勝華寺-地蔵
石垣の中に地蔵尊が祀られています。
旧峠
国道367号線は「鯖街道」と呼ばれ、この先は現在は整備された
道路になっていますが、かっては離合するのも困難な峠道でした。
現在の国道から旧峠道が残されています。
「花折峠」と呼ばれ、かって葛川明王院への参拝者が、仏前へ供えるシキミを
峠付近で摘んだことが由来となったと伝わります。
旧峠から小女郎峠、蓬莱山(1,173m)、打見山(1,108m)を経て白滝谷を下り、
坊村へと至る登山ルートがあります。
このルートも修験者によって開かれたのかもしれません。
花折トンネル
現在の国道は峠まで登らず、トンネルが貫通しています。
その先も旧国道からは直線的で信号も殆ど無く、バイクで快適に走れます。
地主神社-鳥居
坊村の里に入って右折した所に地主神社があります。
地主神社-手水舎
鳥居をくぐり石段を登ると手水舎があります。
その付近には勝華寺で見たのと同じような石塔がありました。
地主神社-拝殿
拝殿、幣殿、本殿が一直線上に並んでいます。
地主神社は明王院の鎮守社として、明王院が創建された同年、
平安時代の貞観元年(859)に相応和尚によって創建されました。
祭神は国常立命(くにとこたちのみこと)ですが、この地の地主神である
思古淵明神(しこぶちみょうじん)も祀られています。
思古淵明神は安曇川(あどがわ)流域に多く祀られる神で、この地域の開拓の
祖神であり水の神として、崇められています。

『葛川縁起』では、「修行に適した静寂の地を求めていた相応和尚が、
思古淵明神から修行の場として当地を与えられ、地主神の眷属である
浄喜・浄満(常喜・常満とも)という2人の童子の導きで比良山中の三の滝に至り、
7日間飲食を断つ厳しい修行を行った。
満願の日、相応は三の滝で不動明王を感得し、滝壺に飛び込み、拾い上げた
桂の古木で不動明王を刻み、祀った」のが明王院の始まりとされています。
その後、修行僧の坊舎が建ち並んだことが、「坊村」の由来となっています。
地主神社-本殿
現在の本殿及び幣殿は、室町時代の文亀2年(1502)に再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
本殿は春日造と呼ばれる左右が反り上がるもので、大津には珍しい建物だそうです。
地主神社-本殿の彫刻
蟇股(かえるまた)には、牡丹・唐草・笹竜胆(ささりんどう)・蓮など
12種類ものデザインの彫刻がなされ、しかも左右対象という
非常に凝ったものに仕上げられています。
地主神社-境内社
本殿の背後には大行事社、山上社、志古淵明神の境内社があります。
三宝橋-1
神社の北側にある明王滝川に架かる三宝橋を渡ります。
三宝橋-2
橋を渡った先の石段を上った右側に、参籠の行者が寝泊りするための建物である
「行者庵室」があります。
行者庵室
現在の建物は天保5年(1834)に再建されました。
相応が開いた葛川での参籠修行(葛川参籠)は、かつて旧暦6月の
蓮華会(れんげえ、水無月会とも)と旧暦10月の法華会(霜月会とも)の
年2回・各7日間にわたって行われていましたが、現在はこのうちの蓮華会のみが
夏安居(げあんご)」と称して7月16日から20日までの
5日間にわたって行われています。
夏安居には百日回峰と千日回峰の行者がともに参加し、相応和尚の
足跡を偲んでの断食修行、滝修行などが古来の作法どおりに行われています。
夏安居は山林徒渉とともに回峰行の重要な修行に位置づけられ、
百日回峰は葛川での夏安居に参加しなければ満行とは認められません。
夏安居の中日の7月18日深夜には「太鼓回し」という勇壮な行事が行われます。
相応が滝壺に飛び込んだ故事に因み、行者らが次々と大太鼓から飛び降り、
滝壺に飛び込むさまを表しています。

中世から近世にかけて、葛川参籠を行った者は参籠札という卒塔婆形の
木札を奉納することが習わしで、元久元年(1204)銘のものを最古として、
約500枚の参籠札が残されています。
それらの中には足利義満足利義尚日野富子のような歴史上の
著名人のものも含まれ、国の重要文化財に指定されています。
護摩堂
行者庵室の奥に護摩堂があります。
護摩堂は江戸時代の宝暦5年(1755)に建立され、平成の修理
(平成17年11月1 日~平成23年3月31日)で塗り替えられたと思われます。
本堂への石段
境内の中央に本堂への石段があります。
弁財天-1
弁財天-2
石段の左側に弁財天が祀られています。
本堂
現在の本堂は正徳5年(1715)に再建されたものですが、滋賀県教育委員会が
平成17年(2005)から実施した保存修理工事の結果、平安時代の部材が
再利用されていることが判明しました。
堂内には、重要文化財に指定されている、いずれも平安時代作の千手観音立像、
不動明王立像、毘沙門天像が安置されていますが、厨子内に納められ、
扉が閉じられています。
御前立に不動明王立像が安置されています。
絵馬-1
絵馬-2
堂内には多くの絵馬が掲げられています。
太鼓
堂内西側には「太鼓回し」で使われると思われる太鼓が保管されています。
政所門
三宝橋を渡った参道の左側に政所門があり、門くぐった先に納経所があります。
葛川息障明王院は近畿三十六不動尊霊場・第二十七番札所です。
明王院は境内の様子、各建物の配置などは中世の絵図に描かれたものから
ほとんど変化していません。
建物を含めた境内地全体が、回峰行の行場としての景観を良く留めており、
本堂・護摩堂・庵室・政所門の主要建物4棟に加え、
境内の石垣・石塀・石段などを含む境内地及び隣接する地主神社の境内地も
併せて重要文化財に指定されています。
二の滝
明王院から三の滝を目指します。
かって登山で何回か登り、また下山路として行き来した林道ですが、
すぐ先で車の通行が止められ、荒れているように感じました。
しばらく登ると二の滝・護摩堂があります。
駒札には「回峰行者がお滝参籠の途中に、煩悩を焼き尽くすため、
護摩を修す道場である」と記されています。
但し、この場所から二の滝を望むことはできません。
三の滝-下り口
更に進むと三の滝への入口があり、そこから少し下ります。
三の滝-2
三の滝-1
滝の上部は「く」の字形に曲がっています。
かって、林道から見たことはありますが、このように対面して見るのは初めてです。
三の滝-滝壺
更に下って行くと滝壺が見えてきました。
三の滝-お堂
お堂があります。
三の滝-崖
お堂との間には鎖が渡され、その下は垂直に崖が切り立っています。
三の滝-木の根
お堂の横に立つ杉の木は、その根が岩盤のために下へ伸ばせず、
横へと張り出しています。

途中町まで戻って京都方面へ進み、古知谷阿弥陀寺へ向かいます。
続く

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大イチョウ
融神社から県道47号線を北上すると国道477号線に合流し、更に国道を北上すると
和邇川(わにがわ)に架かる橋があります。
その橋を渡った所に還来神社があります。
神社前の大イチョウは幹回り約4.7mあり、鳥居が小さく見えます。
鳥居
鳥居は両部鳥居で、密教の金剛・胎蔵の両部を表し、神仏習合の名残を示しています。
梛の木
鳥居をくぐると「梛の木(なぎのき)」が御神木として祀られています。
と言っても、祀られているのは切り株です。
還来神社は藤原旅子(ふじわら の たびこ:759~788)が祀られています。
当時この辺り一帯は藤原氏の荘園で、それを治めていた
旅子の父・藤原百川(ふじわら の ももかわ:732~779)の邸宅があり
旅子はそこで生まれました。
藤原百川は第50代・桓武天皇擁立の功労者であり、
延暦4年(785)に旅子は「宮人(きゅうじん/くにん)」として宮中に入りました。
翌延暦5年(788)に夫人に叙され、大伴親王(後の第53代・淳和天皇)を
出産しましたが、2年後の延暦7年(788)に30歳で薨去されました。
病が重くなられた時に「出生の地・比良の南麓に梛の大木があり、
その下に葬ってほしい」と遺言されたので、神として祀られるようになりました。
拝殿
拝殿
雪対策でしょうか?
本殿への石段
本殿への石段
大杉の切り株
石段の脇に大杉の切り株が残されています。
樹齢850年とされ、高さ35.3m、幹回り5.4mの大木でしたが、
強風ごとに枝が落下するなど、危険と判断されて平成30年(2018)に伐採されました。
本殿
本殿
平治元年(1160)に第77代・後白河天皇から抜擢された藤原信頼は、同じく天皇の
近臣であった信西と対立し、源義朝と平治の乱を起こし信西を斬首しました。
朝廷の最大の実力者となりましたが、二条天皇親政派と組んだ平清盛に敗北し、
信頼は斬首されました。
源義朝は一族を率いて東国へと逃れましたが、追討軍との戦闘で勢力が削がれ、
ついには年来の家人の裏切りにより殺害されました。
義朝の三男・源頼朝(1147~1199)は一行からはぐれ、還来神社にたどり着いて
源氏の再興を祈願したとされています。
その後、近江国で捕えられ、清盛の継母である池禅尼の嘆願などにより
助命され、伊豆国への流罪となりました。
治承・寿永の乱(1180~1185)で源頼朝は挙兵し、平家は滅亡しました。

祭神の藤原旅子が故郷へ還り来たとの由緒から、明治時代になると
日清や日露の戦地に赴く際に、無事の帰還が祈願されるようになりました。
太平洋線戦争に至ると江若鉄道(現在のJR湖西線)和邇駅から神社までの
約6kmを歩いて参拝する人々が絶えなかったと伝わります。
現在では旅の安全や健康回復の祈願が行われているようです。
地蔵尊
地蔵尊
平成30年(2018)に杉の大木が伐採されたのに伴い、境内の危険と見做される場所の
伐採も行われました。
その作業で地蔵尊が地中より発見され、祀られるようになりました。

葛川息障明王院(かつらがわそくしょうみょうおういん)へ向かいます。
続く

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鎮守の森
小椋神社から県道47号線を北上した先で、左へと大きくカーブした所で、
橋の手前を左に直進した、鎮守の森の中に融神社があります。
参道入口
参道
源融(みなもと の とおる:822~895)を祀る全国で唯一の神社です。
源融は第52代・嵯峨天皇の皇子で、『源氏物語』で光源氏のモデルとされています。
当地はかって、源融の荘園で、寛平年間(889~898)に源融がこの地で閑居したことに
因み、天慶8年(945)に祠を建て、祀ったのが始まりとされています。
寛和2年(986)、花山法皇の近江御巡幸の際、社殿が造営され、
「正一位融大明神」の神号を賜りました。
また、第66代・一条天皇からは水田百町歩を神領として賜り、
以後歴代天皇の奉幣にあずかりました。
しかし、鎌倉時代以後衰微して奉幣は廃絶し、
地元の氏神として祀られるようになりました。
元亀2年(1571)の織田信長による焼き討ちで焼失しましたが、
神璽(しんじ)は時の神主により守られ、天正7年(1579)に社殿が再建されました。
寛政8年(1796)の火災で再び焼失し、勅書や神宝等を失いましたが、
社殿は翌年に再建され、現在に至っています。
鳥居
参道を進むと、石造りと木製の鳥居が並んで建っています。
歌碑
文正元年(1466)の当社への勅使参向の際、時の式部卿が詠まれた歌碑です。
「ちかひてし 公葉の末の 世々かけて すべらのこの処 まもれこの神」
「公に誓い合ったように、天皇の血を引く方と関係のある
この地と神を守り続けなさい」
拝殿
拝殿
融の命日である8月25日に「源氏舞」が奉納されているようです。
拝殿の瓦
葺き替えられた拝殿の屋根の旧瓦が残されています。
本殿
本殿には源融が祀られています。
源融は第52代・嵯峨天皇の皇子で、元服すると順調に昇進し、貞観14年(872)には
太政官の首班に立って左大臣に任ぜられました。
皇太子であった貞明親王(さだあきらしんのう)に仕え、
親王が貞観18年(876)に第57代・陽成天皇として即位すると、
母方の伯父・藤原基経が摂政に就きました。
藤原基経は、源融よりも約15歳年下で太政官の席次も下位の右大臣であったことから、
源融は上表を出して自宅に引籠もりました。
元慶8年(884)に第58代・光孝天皇(こうこうてんのう)が即位すると、
融は政務に復帰し、寛平3年(891)に関白太政大臣・藤原基経が没すると、
再び太政官の首班に立ちました。
神社の由緒書には寛平年間(889~898)にこの地で閑居されたと記されていましたが、
源融は寛平7年(895)に74歳で薨去されました。
本殿の左
本殿の左側には融の母・大原全子(おおはらの ぜんし)と
大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られています。
大原全子は「宮人(きゅうじん/くにん)」と呼ばれる宮中に奉仕する職員で、
身分的にはそれ程高くなく、嵯峨天皇の多くの宮人の一人でした。
嵯峨天皇には多数の皇子・皇女が生まれたため、その生活費が財政圧迫の原因となり、
姓を下賜して、臣籍降下させました。
源融もその一人で、「源氏姓」を賜り、嵯峨源氏融流初代となりました。

大山咋神は山の神で、日吉大社・東本宮の祭神です。
境内社
境内には19の摂・末社が祀られていますが、詳細は不明です。

還来神社(もどろきじんじゃ)へ向かいます。
続く

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