2021年01月

社号標
由岐神社(ゆきじんじゃ)は鞍馬寺の九十九折れ参道の途中にあり、
鞍馬寺の鎮守社で、通称「靫明神(ゆきみょうじん)」と呼ばれています。
「靫明神」という社名は、天皇の病や国難時に神前に靫(ゆき)を献じて
平穏を祈ったことによります。
靫とは、「矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと」で、平安時代以後は
壺胡簶(つぼやなぐい)と呼ばれ、儀仗(ぎじよう)用となりました。
鹿子木
由岐神社脇に立つ鹿子木(かごのき)は、クスノキ科で樹皮の禿げたあとが
白く鹿の子模様になるのが特徴とされ、樹高が17mあり
京都市の天然記念物に指定されています。
本殿
由岐神社は、大己貴命(おほなむちのみこと)と少彦名命(すくなひこのみこと)
を主祭神として「由岐大明神」と総称し、八所大明神を相殿に祀っています。
「由岐大明神」は、元は宮中に祀られていました。
天慶元年(938)に発生した大地震や、翌年の天慶の乱と世情不安が続いた
ことにより、当時の第61代・朱雀天皇の勅により、天慶3年(940)に北方鎮護のため
鞍馬の地に遷宮されました。
毎年10月22日に行われる例祭の鞍馬の火祭は、そのときに里人がかがり火を
持って神霊を迎えたことに由来しています。
八所大明神は、かって鞍馬山の山上に祀られていたのですが、
江戸時代の文化11年(1814)に焼失しました。
その後、再建されなかったため、由岐神社に合祀されました。
現在は、鞍馬寺の本殿金堂裏側にある鐘楼の脇に、
八所大明神を祀った小さな祠があります。
狛犬-左-阿形
阿形
狛犬-右-吽形
吽形
本殿脇に置かれている一対の狛犬は、それぞれ仔狛犬を胸に抱いた珍しいもので、
国の重要文化財に指定されています。
但し、現在安置されているのは原型を拡大したレプリカで、
本物は京都国立博物館に寄託されています。
子授けや安産、子孫繁栄にご利益があるとされています。
また、由岐神社が戌の日に腹帯を巻く習わしの起源になったとも云われています。
三宝荒神社-1
本殿の左側に三宝荒神社があります。
三宝荒神社-2
三宝荒神大神を祭神とし、不浄や災難を除去する神とされることから、
火の神、竈の神として、古くからこの地に祀られています。
大杉社
本殿前の石段を下った途中に、御神木の大杉を祀る大杉社があります。
この御神木には、「一心に願えば願い事が叶う」と信仰されていて、
大杉の樹皮で造られたお守りが授与されています。
三本杉
境内には三本の大杉が聳えていて、樹齢約800年、樹高は最長のものが約50m、
幹回り約6.5mあり、京都市の天然記念物に指定されています。
白長弁財天社
大杉社の向かい側には白長弁財天社があり、白長弁財天が祀られ、
商売繁盛や健康長寿に御利益があるとされています。
冠者社
白長弁財天社から下った所に冠者社があり、
主祭神・大己貴命の父神である素戔嗚命(すさのおのみこと)が祀られています。
岩上社
冠者社の向かいに岩上社があり、事代主命大山祇命が祀られています。
かって、鞍馬山の「岩上の森」に祀られていました。
山岳登山の安全を信仰されています。
拝殿-上
石段を下った所に拝殿があります。
拝殿の両側は舞台で、中央に通路がある割拝殿ですが、
その通路は石段になっています。
拝殿-下
石段を下って振り返ってみると、斜面に懸造(がけづくり)で建てられ、
唐破風(からはふ)の屋根になっています。
拝殿は、慶長15年(1610)に豊臣秀頼により再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
鳥居
鞍馬山から下ってきたから逆になりましたが、本来はここから参拝するのが
順序だと思います。

九十九折れ参道へ戻ります。
続く

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寝殿
本殿から下って来た右側に寝殿があります。
寝殿は、大正13年(1924)に建立され、木曽の御料林の檜材が使用されました。
八月に開催される如法写経会の道場となりますが、普段は非公開です。
転法輪堂
寝殿の向かいに転法輪堂があり、1Fの洗心亭は無料休憩所と
ギャラリーが併設されています。
転法輪堂は昭和44年(1969)に建立されたものですが、1丈6尺の江戸時代作の
阿弥陀如来像も安置され、先祖に感謝の祈りを捧げる道場とされています。
転法輪堂-転法輪
入口に石造りの転法輪が設置されていて、「南無阿弥陀仏」と唱えてこの転法輪を
一転すれば念仏六万遍の功徳があると伝えられています
850年前の平安時代に、重怡上人(じゅういしょうにん)が13年間堂内に籠もり、
毎日十二万遍の弥陀宝号を唱え続け、六万遍の弥陀宝号を書いて法輪に納めた
ことに因み、「一転の南無阿弥陀仏、その功徳六万遍の称名に等し」と伝わります。
その現物は本殿内に安置されています。
巽の弁財天社
寝殿から下った所に「巽の弁財天社」があります。
本殿の東南(巽)の方角にあるので「巽の弁天さま」と呼ばれ、福徳・智恵・
財宝・伎芸を授けてくれる福神、弁財天が祀られています。
社殿には水琴窟が付設されていて、
自然に落下して奏でられる音を楽しむことができます。
新参道との合流
巽の弁財天社から下った所で、ケーブル多宝塔駅からの新参道と合流します。
福寿星神
鞍馬山七福神の福寿星神(福禄寿・寿老人)を祀る祠があります。
福禄寿は、もともと福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した、
三体一組の神でしたが、日本には寿星(南極老人)の化身として
単独で伝わったようです。
福禄寿と寿老人は、共に寿星(南極老人)の化身で、
同体・異名の神とされています。
貞明皇后行啓御休息跡
福寿星神の祠の先に、「貞明皇后行啓御休息跡」の石碑が立っています。
大正13年(1924)に皇后が行啓された際に休息された場所です。
中門
中門は、元々は山麓の仁王門の横に建てられた勅使門でしたが、
現在地に移築されました。
双福苑
門をくぐって下って行くと、朱色の橋が架かり、橋の袂には玉杉大黒天が祀られ、
背後には杉の巨木が聳えています。
橋を渡った所には玉杉恵比寿尊が祀られていて、この辺り一帯は
「双福苑」と呼ばれています。
愛と光と力の像
愛と光と力の像「いのち」は、鞍馬寺顧問である
澤村洋二氏によって制作されました。
この像は、鞍馬山の本尊である尊天(宇宙生命・宇宙エネルギー・宇宙の真理)を
具象化したものです。
像の下部に広がる大海原は一切を平等に潤す慈愛の心であり、
光輝く金属の環は曇りなき真智の光明、そして中央に屹立する山はすべてを
摂取する大地の力強い活力を表現しています。
この愛と光と力こそは、宇宙生命ー尊天のお働きそのものであり、
先端の三角形はその象徴です。
朽ちた楓
朽ちた楓の古木
稚児之桜の碑
筝曲「稚児之桜」の碑
大阪の菊武祥庭(1884-1954)により明治44年(1911)に作曲されました。
氏は、京都の五条まで行き、牛若丸と弁慶の気分を味わい、作曲されたそうです。
義経供養塔
義経供養塔は、牛若丸が住した「東光坊」跡に建てられています。
牛若丸は、平治の乱で父・源義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ、
稚児名を遮那王と称しました。
自分の出生を知ると、僧になることを拒否し、昼は東光坊で学問を行い、
夜になると僧正ガ谷まで通い、天狗から剣術の手解きを受けたと伝わります。
川上地蔵堂
川上地蔵堂は、牛若丸の守り本尊である地蔵尊が祀られています。

由岐神社へ向かいます。
続く

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奥之院への入口
本殿へと下ると、山の中腹でありながら、広い空間が広がっています。
本坊
境内の西端に本坊(金剛寿命院)があります。
鞍馬寺寺務所と鞍馬弘教宗本庁が置かれています。
白砂盛り
本坊の前庭「瑞風庭」は、奥の院に護法魔王尊が降臨する様子を表現しています。
向かって右側の白砂盛りは、魔王尊の乗る天車を表しています。
磐座
左側の石組は、奥の院の磐座を表していて、刈り込まれた木は
鞍馬山を表しているそうです。
光明心殿
本殿の左側に光明心殿があります。
光明心殿-堂内
護法魔王尊像が安置されています。
本殿
本殿(金堂)は、昭和20年(1945)に焼失したため、
昭和46年(1971)に再建されました。
鞍馬寺は山号を鞍馬山と号する鞍馬弘教の総本山で、
神仏霊場の第103番及び新西国霊場の第19番札所です。

鞍馬寺の創建は、鑑真の高弟・鑑禎が宝亀元年(770)に草庵を結び、
毘沙門天を安置したのが始まりとされています。
鑑禎(がんてい/がんちょう:722~809)は鑑真に師事し、鑑真と共に来日した
8名の高弟の内で最年少でした。
鑑禎は「山城国の北方に霊山がある」との夢告を受けて訪れると、
山の上方に宝の鞍を乗せた白馬の姿を見つけました。
その山に向かって分け入ると、女形の鬼に襲われ殺されそうになりましたが、
枯れ木が倒れてきて鬼はその下敷きとなり、難を逃れました。
翌朝、その地には毘沙門天の像があり、
鑑禎は一宇を建立してこの像を安置したのが鞍馬寺の始まりとされています。

神峯山寺秘密縁起』によると、その毘沙門天像は金毘羅童子に化身した
山の守護神が刻んだ4躯の内の一躯とされています。
最初に造られた1躯は神峯山寺に留まり、残りの二躯は信貴山本山寺
飛び去ったと伝わります。

第50代・桓武天皇が平安京に遷都して2年後の延暦15年(796)、
東寺を造営する責任者に就いた藤原伊勢人(ふじわらのいせんど:759~827)は、
観世音を奉安する一宇の建立を念願していました。
ある日、藤原伊勢人は夢の中に貴布禰明神が立ち
「平安京のさらに北に深山があり、山は二つに分かれ、谷より水が流れ下り、
この地には霊験がある。」と告げられました。
夢から覚めた伊勢人は、白馬の導きで鞍馬山に登り、
鑑禎の草庵にたどり着きました。
その草庵には毘沙門天が安置されていて、「毘沙門天も観世音も根本は
一体のものである」という夢告が再びあり、伽藍を整え、
毘沙門天を奉安しました。
これを鞍馬寺の始まりとする説もあります。

寛平年間(889~97)に東寺の僧・峯延(ぶえん:841~920)が別当の任に就き、
鞍馬寺は東寺真言宗に改宗されました。
その後、保延年間(1135~1141)に青蓮院の支配下となり、天台宗に改宗されました。
平安時代から室町時代と鞍馬寺は栄え、
度々の焼失にもその都度復興されてきました。

江戸時代の享保15年(1730)には青蓮院の他、日光輪王寺の末寺ともなり、
この頃、鞍馬寺には塔頭が十院、更に九坊を擁していました。
しかし、文化11年(1814)に一山悉く焼失し、以後衰退しました。
安政2年(1855)には日光輪王寺のみの末寺となりましたが、明治元年(1868)に
再び青蓮院の末寺となりました。
神仏分離令による廃仏毀釈で十院・九坊は廃され、
上知令により多くの寺領が失われました。
更に昭和20年(1945)にも本堂などが焼失しました。
昭和22年(1947)、当時の鞍馬寺住職・信楽香雲(しがらきこううん:1895~1972)は
鞍馬弘教を開き、昭和24年(1949)には天台宗から独立して
鞍馬弘教総本山となりました。

鞍馬寺のかっての本尊は、北方を守護する毘沙門天でしたが、
現在は「すべての生命を生み出し、存在させる宇宙エネルギー」である
「尊天」を本尊としています。
「尊天」は毘沙門天王・千手観世音菩薩・護法魔王尊の姿で表され、
この三身を一体として「尊天」と称されています。
毘沙門天王は「光」の象徴にして「太陽の精霊」、千手観世音菩薩は
「愛」の象徴にして「月輪の精霊」、護法魔王尊を「力」の象徴にして
「大地(地球)の霊王」とされています。
「尊天」は秘仏とされ、60年に一度丙寅(ひのえとら)の年に開帳されます。
金剛床
本殿前の金剛床は、「宇宙のエネルギーである尊天の波動が果てしなく
広がる曼荼羅を模したものです。
宇宙の力を内奥に蔵する人間が、宇宙そのものである尊天と一体化する
修行の場となっている」と説明されています。
金剛床-三角
中央の三角は尊天の働きそのものが象徴され、そこから宇宙のエネルギーが
波動となって広がっていくことが表されています。
狛虎
本殿は狛犬ならぬ狛虎が睨みを利かしています。
毘沙門天の出現が寅の月、寅の日、寅の刻とされていることから、
虎は毘沙門天の使いであり神獣とされています。
閼伽井護法善神社
本殿の右側に閼伽井護法善神社(あかいごほうぜんじんじゃ)があります。
ある日、修行中の峯延上人を二匹の大蛇が襲い、雄蛇は討たれたのですが、
雌蛇は尊天に捧げるお香水を永遠に絶やさぬと誓い、ここに祀られたと伝わります。
上人のこの大蛇退治伝説により「竹切り会式(蓮華会)」が
行われるようになりました。
毎年、6月20日に近江・丹波の両座に分かれた僧兵姿の鞍馬法師が、
大蛇に見立てた青竹を山刀で伐り、その速さを競って、豊作を占います。
お香水
雌蛇との約束が守られているのでしょうか...?
今も閼伽井護法善神社ではお香水が流れ出ています。
龍の彫刻
社殿の天井には龍の彫刻が施されています。
翔雲臺
本殿前の「翔雲臺」で、板石は本殿金堂の後方より出土した経塚の蓋石だそうです。
背後に青く映っているのが比叡山です。

九十九折れ参道を下ります。
続く

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新しい木
西門からは登り坂が続きます。
途中には、不思議な木の芸術が点在しています。
例えば、朽ちた木の幹から新しい木が育っていたりしています。
(記事及び画像は平成28年(2016)11月のものです)
絡み合った木
木の幹に別の木が巻き付き複雑に絡み合っています。
鞍馬寺では山全体が尊天の御神体とし、
森羅万象の全てが尊天の顕現と考えられています。
動植物が網のように相互に絡み合って森林生態系が形成され、
その響きあいは「羅網」と表されています。
「共に生かされている命」を共感し、様々な命が支え合い響きあい、
生かし合っていることに気づき、その命は光り輝く宝珠であることを
自覚すべきと教えています。
尊天の祠
「尊天」と書かれた小さな祠もあります。
鞍馬山の掟です。
「鞍馬山は尊天の浄域なり 常に清浄を保つべし」
「山川草木 自然の実相に羅網の世界を学ぶべし」
「すべてのいのち輝く世界のために尊天加護を念じ精進すべし」
石灰岩
祠の近くにあるのは石灰岩で、約2億5千年前のサンゴ礁が隆起し、
その後浸食により溝や窪みができています。
この辺りの地質は、太平洋の海底だったものが動いて隆起したと考えられています。
魔王殿
更に坂道を登った先に奥の院魔王殿があります。
魔王殿-拝殿内部
魔王殿の中に拝所があり、その奥に魔王堂があります。
魔王殿-本殿
魔王殿は太古、護法魔王尊が降臨した磐座(いわくら)・磐境(いわさか)
として信仰されてきた鞍馬山の聖地です。
魔王殿-岩
瑞垣で囲まれた内側には多くの岩があり、
その中には刀で傷つけられたような痕が残っています。
牛若丸が剣道の修行をしていた時に付いたものとされ、「兵法石」と伝わります。
この岩も石灰岩で、傷とされているものも、実は浸食によるものと
現在の科学は分析しています。

鞍馬寺は、昭和22年(1947)に天台宗から独立して、
新たに鞍馬弘教(くらまこうきょう)を説いた天台宗系の新宗教教団の総本山です。
千手観音、毘沙門天、護法魔王尊の三尊を「尊天」とし、本尊としています。
「尊天」とは「すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギー」で
あるとしています。

「護法魔王尊」は、650万年前金星から地球にここに降り立ち、
その体は通常の人間とは異なる元素から成り、その年齢は16歳のまま、
年をとることのない永遠の存在であるとされています。
魔王尊は「力」の象徴にして「大地(地球)の霊王」とし、その姿は、
背中に羽根をもち、長いひげをたくわえ、高い鼻が特徴です。
またの名を鞍馬山魔王大僧正(大天狗)で、鞍馬山僧正坊(鞍馬天狗)を
配下に置いています。
義経堂
参道を進み、不動堂の右斜め前方、少し石段を上がった上に義経堂があります。
遮那王尊(しゃなおうそん=義経の御霊)が祀られています。
牛若丸は、平治の乱で父・源義朝が敗死したことにより鞍馬寺に預けられ、
稚児名を遮那王と称しました。
自分の出生を知ると、僧になることを拒否し、ここ僧正ガ谷まで通い、
天狗から剣術の手解きを受けたと伝わります。
しかし、兄・頼朝と対立し、遠く奥州の衣川館(ころもがわのたち)で
自刃し果てました。
不動堂
僧正ガ谷は、かって真言宗の僧・壱演が住したことから僧正ガ谷と
呼ばれるようになりました。
不動堂には、最澄が天台宗立教の悲願を込めて刻んだと伝わる
不動明王像が安置されています。
不動堂前の手水舎
不動堂前の手水は、谷の湧水が引かれています。
不動堂前の池
不動堂の左前方には、谷からの水をためた小さな池があり、
その横に眷属(けんぞく)社があります。
眷属社
眷属社
大杉権現社
大杉権現社の付近は、大杉苑瞑想道場と呼ばれ、護法魔王尊のエネルギーの
高い場所とされています。
大杉権現社-拝所
拝所
大杉権現社-杉
かって樹齢千年と云われる三本の幹の巨木が聳えていました。
この杉は、護法魔王尊影向(ようごう)の杉として信仰されていましたが、
昭和25年(1950)の台風で折れてしまいました。
大杉権現社の境内
大杉権現社の境内。
枯れた幹が芸術作品のようです。
背比べ石
奥の院参道に戻った先に「背比べ石」があります。
牛若丸が鞍馬寺に預けられて10年余り、16歳になり奥州の藤原秀衡を
頼って鞍馬寺を出奔する際、名残を惜しみ背比べをした石と伝わります。
高さ1.2mで、現在の七歳児の平均身長くらいしかありません。
源義経が着用した鎧から身長は147cmと推定されています。

承安4年(1174)3月3日桃の節句、僧になることを嫌った遮那王は
鞍馬寺を抜け出しました。
鏡の宿に泊まり、迫りくる追手から逃れるため、
自ら元服して姿を変えたとされています。
元服の地とされているのが、滋賀県竜王町鏡にある鏡神社付近の鏡池です。

治承4年(1180)に兄・源頼朝が伊豆国で挙兵すると、兄のもとに馳せ参じ、
頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で涙の対面を果たしました。
しかし、平氏を滅ぼした後、義経は「許可なく官位を受けた」などの理由で
頼朝と対立し、頼朝から追われることとなりました。
再び藤原秀衡を頼って奥州へと逃れたのですが、
文治3年(1187)に秀衡が病死しました。
後を継いだ藤原泰衡(ふじわら の やすひら)は鎌倉の圧力に屈して
衣川館を襲撃しました。
義経の軍は応戦しましたが破れ、義経は自刃し果てました。
享年31歳でした。
背比べ石-祠
「背比べ石」の横には祠があります。
木の根道
背比べ石は石英閃緑岩で、この付近の地層は、砂岩に石英閃緑岩が
マグマの貫入により硬化したため、根が地下へと伸ばせません。
そのため、根が露出していて「木の根道」と呼ばれています。
木の根道-石塔
木の根道の傍らに石塔があったのですが、その由緒については解りませんでした。
革堂地蔵尊
参道を下っていくと、地蔵堂があります。
この地蔵堂が建つ地は、「屏風坂」と呼ばれ、かって一枚岩の屏風を立てたような
急坂であったことから名付けられました。
革堂地蔵尊-扁額
扁額には「革堂地蔵尊」と記されています。
その所以は不明ですが、「革堂(こうどう)」とは京都市中京区にある
天台宗の寺院・行願寺の通称で、
鞍馬寺も元は天台宗であったことから関わりがあったのかもしれません。
息継ぎの水
地蔵堂を下った所に「息継ぎの水」が湧き出ています。
牛若丸が天狗から剣術の手解きを受けるために、僧正ガ谷へと通ったのですが、
ここの湧水で喉を潤したと伝わります。
上に見えるブルーの建物の土台が地蔵堂です。
奥之院への門
「息継ぎの水」からさらに下った所に門があり、奥の院への出入口となります。
冬柏亭
門への石段の脇に与謝野晶子の書斎であった冬柏亭(とうはくてい)が
移築されています。
冬柏亭は、昭和4年(1929)12月、与謝野晶子50歳の時、弟子から贈られ、
当時の東京市外荻窪村(現・杉並区荻窪)の居宅内に建てられました。
晶子没後、昭和18年(1943)10月に、冬柏亭は、門下生の岩野喜久代氏によって、
大磯にある氏の住居へ移されました。
更に、昭和51年(1976)4月、同じ門下生であった信楽香雲先代管長とのご縁で
この地に移築されました。
関係資料も寄贈され、それらは向かいの霊宝殿に収納展示されています。
与謝野寛・晶子の歌碑
また、霊宝殿の右横には与謝野寛・晶子の歌碑が建てられています。
左・与謝野寛(鉄幹)「遮那王(しゃなおう)が 背比べ石を山に見て 
わがこころなほ明日を待つかな」
右・与謝野晶子「何となく 君にまたるるここちして いでし花野の夕月夜かな」
霊宝殿
霊宝殿は、一階が自然科学博物苑展示室、二階が寺宝展観室と与謝野寛・晶子の
記念室、三階が仏像奉安室になっています。
仏像奉安室の正面に、国宝の毘沙門天立像(平安時代・大治2年(1127)作)が
安置され、吉祥天と善膩師童子(ぜんにしどうじ・国宝)を脇侍としています。
毘沙門天の右側に重文の聖観音立像(鎌倉時代・嘉禄2年(1226)2月の銘)が
安置されています。
左コーナーには、倒れてしまった大杉権現社の杉の木の一部が展示されています。
左壁側には、重文の兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん・平安時代後期)、
鎌倉時代の毘沙門天像三体が安置されています。
八所明神-鐘楼への石段
霊宝殿から参道を下っていくと、新しく整備されたように見える山手への
石段があります。
八所明神-鐘楼
それを登っていくと石塔とその奥に鐘楼があります。
八所明神-鐘楼の甕
鐘楼には、共鳴のためか床に甕(かめ)が埋められています。
八所明神
鐘楼の横に八所明神が祀られています。
八所明神は、宮中賢所(かしこどころ)の祭神である八神
(神産日神、高御産日神、玉積産日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、
御食津神、事代主神)を迎えて祀ったと云われています。
鞍馬の火祭り(10月22日)には、由岐明神と八所明神の二基の神輿が渡御します。
八所明神-経塚
八所明神の奥に経塚の石塔と石仏があります。
鞍馬寺の経塚から、平安時代~鎌倉時代の遺物約200点が発見され
国宝に指定されました。
その一部は霊宝殿に展示されています。

鞍馬寺の本殿へ向かいます。
続く

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中空の木-1
本宮から車道を遡って行くと、中が空洞になった木を見つけました。
中空の木-2
雷にでも打たれたのでしょうか?
それでも元気に葉を繁らせています。
中宮-社号標
しばらく歩いた先に中宮である結社(ゆいのやしろ)の入口に着きましたが、
参拝順は本宮→奥宮→中宮とされていますので奥宮へ向かいます。
本宮から歩いて約5分の距離で、本宮と奥宮との中間辺りになります。
相生の杉
奥宮の手前に御神木である相生(あいおい)の杉が聳えています。
樹齢約千年とされ、同じ根から二本の杉が生えています。
相生は、相老に通じることから、夫婦共に長生きを意味します。
二ッ社
相生の杉の脇を登っていくと、二ッ社があります。
右側が私市(きさいち)社で、祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、
左側は林田社で少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られています。
大国主命は、素戔嗚命の六世、または七世の孫とされ、少彦名命と協力して
禁厭(まじない)、医薬などの道を教えて日本国の国造りを行いました。
その後、少彦名命は海の彼方にある理想郷とされる常世の国(とこよのくに)へと
去ってしまい、困っていた大国主命の前に現れたのが
大物主神(おおものぬしかみ)です。
大国主命が大物主神の神託を受けて三輪山に祀ったところ、
国造りが完成したとされています。
奥宮-鳥居
「思ひ川」の手前に鳥居が建ち、その先が奥宮への参道になります。
思ひ川
「思ひ川」は、奥宮が本社であった頃、参拝者はこの谷川で身を清めた
禊(みそぎ)の川、物忌(ものいみ)の川でした。
「おものいみ川」がいつしか「思ひ川」と呼ばれるようになりました。
「思ひ川 渡れば またも花の雨」高浜虚子の句です。
つつみヶ岩
橋を渡った先に「つつみヶ岩」があります。
高さ4.5m、胴回り9mもある貴船石の巨石です。
古代はこのような巨石は信仰の対象となっていたのでしょうが、
現在の地質学では、これは枕状溶岩で、水中で溶岩が噴出した時に
急に固まったものだと解明されてしまいました。
奥宮-参道
参道には杉の巨木が立ち並んでいます。
奥宮-手水
現在は神門の手前に山水が引かれ、清水で身を清めることができます。
奥宮-神門
神門です。
本宮から歩いて10分程の距離ですが、雪が多く残っています。
連理の木
門をくぐった左側上部に御神木の連理の木が聳えています。
ウィキペディアでは、「連理木(れんりぼく、れんりぎ)とは、2本の樹木の枝、
あるいは1本の樹木の一旦分かれた枝が癒着結合したもの。
自然界においては少なからず見られるが、一つの枝が他の枝と連なって
理(木目)が通じた様が吉兆とされ、「縁結び」「夫婦和合」などの象徴として
信仰の対象ともなっている。」と解説されています。
この御神木は、杉と楓が和合した珍しいものだそうで、第123代・大正天皇の
貞明皇后も大正13年(1924)に参拝された時、この木を賞賛されたそうです。
日吉社
連理の木の袂に日吉社が祀られています。
祭神は大物主命(おおものぬしのみこと=三輪明神)ですが、かっては
大山咋神(おおやまくいのかみ)が祀られ、山の神であり、
貴船山を守護する神でした。
奥宮-拝殿
拝殿
奥宮-本殿
本殿
奥宮の祭神は、闇龗神(くらおかみのかみ)で、
本宮の祭神・高龗神(たかおかみのかみ)と同じ、もしくは一対の神様とも
言われており、両方共「龍神様」で水を司っています。

貴船神社の創建に関する一つの説が
初代・神武天皇の母・玉依姫によるものです。
社伝では第18代・反正天皇(はんぜいてんのう)の時代(406~410)に
浪速(なにわ)の津に黄色い船に乗った神が現れ
「我は玉依姫(たまよりひめ)なり。
この船の止まる所に祠を造れば、国土を潤し、庶民に福運を与えん」
と言われ、淀川を遡ってこの地にいたり、清水が湧き出る“龍穴”の上に
社殿を建て、水神を祀り、黄色い船から「黄船の宮」と称され、
かってはここが貴船神社の本宮でした。
永承元年(1046)、洪水により社殿が流損したため、天喜3年(1055)に
本宮が遷され、現在地は奥宮として祀られるようになりました。

またもう一つの貴船神社の創祀説である貴船明神が、太古の
丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨したと伝わることから、
その時に参拝すると祈願が成就されると伝えられてきました。
しかし、いつしかそれは呪詛する「丑の刻参り」へと変貌しました。
草木も眠る丑の刻(午前1時~3時)、白装束を身にまとい、
頭に五徳(鉄輪)をかぶってそこに三本のロウソクを立て、神社の御神木に
憎い相手に見立てた藁人形を毎夜、五寸釘で打ち込むという行為が
七日間続けられ、かっては社殿にも釘の跡があったと伝わります。

その原型とされる一つが橋姫伝説です。
離縁された橋姫が元夫の現在の妻を、鬼となって殺したいと
貴船明神に祈願し、その神託を受けて
宇治川の水神に百夜の願をかけたとされています。
奥宮-権地
権地(ごんち)
現在の本殿は、江戸時代の文久3年(1863)に造り替えられ、旧本殿は京阪
「東福寺駅」近くの瀧尾(たきお)神社に移築されたとの記録が残されています。
本殿造り替えの際に、大工が誤ってノミを龍穴に落とすと
「晴天俄かに墨の如くなり、たちまち竜巻のような突風が吹きすさみ、
ノミは空中に吹き上げられ屋根に戻された」と伝わります。
更に、程なくして大工は命を落としてしまったとも...。

平成24年(2012)に解体修理が行われました。
一度すべて解体し、使える古材は出来るだけ保存し、古い形態のままを将来に
伝えてゆくのが大切な目的でもありました。
ただし屋根に関しては、軒付は従来通りの「こけら葺き」とし、
あとは全面銅板葺きとなりました。
解体修理にあたり「附曳神事(ふびきしんじ)」が執り行われました。
「まず本殿の西に手広い菰(こも)を結び付け、氏子一同烏帽子浄衣の白装束で、
本殿を東の権地(ごんち)に曳き遷す。
そこで龍穴は自然に菰で覆われる。
龍穴は人目を忌むから、しめ縄にて菰をくくり、竣工の時、まずそれを解き、
本殿を旧位置(龍穴の上)に復し、正遷宮の儀に及ぶ」
神事が行われている間、境内にいる全ての人間は「一切言葉を発してはならない」
とされています。
神事の間は皆が榊の葉を口に咥える習わしで、言葉を発するのが困難な状況で
執り行われます。
今回、附曳神事が150年ぶりに行われたそうですが、現在でも大きな建物を引いて
移される工事が、実は古くから受け継がれてきたものだと改めて関心しました。
船形石
本殿の左横に長さ10m、幅3m、高さ1.5mの「船形石(ふながたいわ)」が
あります。
玉依姫が乗ってきた黄色の船を、人目に触れぬよう
石で包み囲んだと伝えられています。
鈴市社
拝殿の左横に御神木の桂の木が植栽され、その左側に鈴市社があります。
祭神は、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、
神武天皇の皇后です。
吸葛社
船形石の前に吸葛社(すいかずらのやしろ)があります。
祭神は、味耜高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)です。
味耜高彦根命は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と田霧姫命(たぎりひめのみこと)
の子で、農業の神、雷の神、不動産業の神として信仰されています。
古くは傀儡師(傀儡子・くぐつし)や遊女が信仰する神、
百太夫(ももだゆう・ひゃくだゆう)が祀られていたと伝わります。
中宮-への石段
中宮へ下ります。
中宮は、結社(ゆいのやしろ)とも称され、磐長姫命(いわながひめのみこと)を
祭神とし、縁結びの神として信仰されています。
中宮-鳥居
石段を上って行くと鳥居が建っていて、正面に本殿があります。
中宮-本殿-1
磐長姫命は、大山祇神(おおやまつみ)の娘で、
木花開耶姫(このはなさくやひめ)の姉です。
天界から天降(あまくだ)った邇邇藝命(ににぎのみこと)は、木花開耶姫を
見初めたのですが、大山祇神は二人の娘を邇邇藝命に嫁がせました。
磐長姫命は、木花開耶姫のように美しくなかったので、邇邇藝命から愛されず、
父の元へと送り返されました。
大山祇神は怒り、「磐長姫命を差し上げたのは天孫(まめみや=邇邇藝命)が
岩のように永遠のものとなるように、
木花開耶姫を差し上げたのは天孫が花のように繁栄するようにと
誓約(うけい)を立てたからである」と教えました。
磐長姫命を送り返したことで天孫の寿命が短くなるだろうと告げました。
また、磐長姫命が恨んで「顯見蒼生(うつしきあおひとくさ=地上の人間)は
木の花のように移ろいやすく、衰えてしまうでしょう」と言ったとも伝わり、
これが世の中の人の命が短い所以とされています。
中宮-本殿-2
磐長姫命は、「我長くここにありて、縁結びの神として世のため人のため
良縁を得させん」とこの地に鎮まったと伝わります。
天乃磐船
境内には、平成8年(1996)に貴船の山奥より出土した重さ6tの自然石
「天乃磐船」が祀られています。
貴船神社創建にまつわる「黄色の船」の伝承から相応しいものとして
奉納されたと思われます。
和泉式部歌碑
和泉式部の句碑
「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る」
参道の「蛍岩」付近で詠まれた歌です。
和泉式部は夫との不仲を解消するため貴船神社に参拝した際に、
貴船川に飛ぶ蛍を見て切ない心情を歌に託して祈願し、
夫婦円満になったと伝わります。
松尾巌の句碑
高浜虚子に師事したという松尾巌(いはほ・1882-1963)の句碑
 「貴船より 奥に人住む 葛の花」
元は、本宮の石段上り口にありましたが、昭和10年(1935)の洪水で破損して
上部が流失し、欠けたままになっています。
中宮-御神木
御神木の樹齢約400年の桂の木です。
貴船神社では本宮、奥宮、そして中宮でも桂の木が御神木とされています。
鞍馬寺西口
鞍馬寺西口まで下ります。
第50代・桓武天皇が平安京に遷都して2年後の延暦15年(796)、
東寺を造営する責任者に就いた藤原伊勢人(ふじわらのいせんど)は、
観世音を奉安する一宇の建立を念願していました。
ある日、藤原伊勢人は夢の中に貴布禰明神が立ち
「平安京のさらに北に深山があり、山は二つに分かれ、谷より水が流れ下り、
この地には霊験がある。」と告げられました。
夢から覚めた伊勢人は、白馬の導きで鞍馬山に登り、
鑑真の高弟・鑑禎上人(がんていしょうにん)の草庵にたどり着きました。
その草庵には毘沙門天が安置されていて、「毘沙門天も観世音も根本は
一体のものである」という夢告が再びあり、伽藍を整え、毘沙門天を奉安したのが
鞍馬寺の始まりとされています。

鞍馬寺へ向かいます。
続く

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