2021年02月

一の鳥居
圓通寺から東へ進むと「幡枝中通り」に突き当たり、左折して北上した
3つ目の四つ角を右折した先に幡枝八幡宮への石段があります。
石段脇の石碑
石段の脇に石碑のようなものがありますが、詳細は不明です。
山桜
石段は2段に分かれ、最初の石段を登った所は横に広い広場となっており、
左側には山桜の老木が御神木として祀られています。
井戸
次の石段の右側脇に井戸が残されています。
社伝によれば、寛平6年(894)に当地で地鳴りが起こり、
都の中心にまで及んだと伝わります。
当時、新羅国が日本に攻め入ろうとしているという噂が流れ、
里人に「皇都および人民守護のため、この地に鎮座する」との神託が下りました。
里人が地鳴りの中心地に行くと、清水が湧き出しているのが見つかりました。
時の第59代・宇多天皇は、その山の頂上に新宮を造営し、
男山から石清水八幡宮が勧請されて祀られるようになりました。
安永2年
「八幡の枝別れ」としてこの地は「幡枝」と称されましたが、
安永2年(1773)では「王子山八幡社」であったようです。

また、安土桃山時代の刀工・堀川国広(1531~1614)は、幡枝八幡宮に
刀鍛冶の道に秀でることを祈願し、慶長4年(1599)にこの清泉を用いて、
神前で一振りの太刀を鍛え、奉納しました。
後に第108代・後水尾天皇の希望でしばらく宮中に留め置かれ、
黄金作の鞘(さや)を御造りになり、唐子模様の御太刀袋に納めて
八幡宮へ戻されました。
現在は東京国立博物館に委託保存されています。

この湧水は「石清水」と呼ばれ、凡そ千年間は湧き続けていましたが、
近年の宅地開発等の影響を受け、現在は枯れてしまっています。
二の鳥居
石段を登ると二の鳥居が建っています。
針神社-鳥居
鳥居をくぐると正面は石段で、左側に針神社の鳥居が建っています。
磐座
正面の石段を登ると右側に社務所があり、その前に岩上社があります。
八幡宮が鎮座するこの山は、神奈備とされ、以前から磐座が祀られていました。
岩上社はこの磐座を御神体とし、周辺の産土神(うぶすなかみ)として
信仰を集めていました。
拝殿-1
左側に拝殿があります。
拝殿
拝殿の扁額は、石清水八幡宮の一の鳥居に掲げられているものが
写し取られています。
明治39年の絵馬
拝殿には明治39年(1906)に奉納された絵馬などが掲げられています。
太政官布告-1
慶応4年(1868)の太政官布告が残されています。
太政官布告-2
その2
太政官布告-3
その3
本殿と貴船神社
本殿
祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと) と
息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)です。
誉田別命は第15代・応神天皇で、息長帯姫命(神功皇后)は応神天皇の母親です。
幡枝八幡宮は、皇室の勅願所として歴代の天皇からの寄進を受けました。
特に後水尾上皇は付近に幡枝離宮を造営されたことから、
約7反歩(たんぶ/1反=300坪)の御神田を寄進されました。
また、第116代・桃園天皇や第117代・後桜町天皇からは、現在も例祭で用いられる
菊の御紋入りの御輿・吹散(ふきちり)・御鉾などが寄進されました。

左側に摂社の貴船神社があります。
上賀茂神社の新宮神社深泥池貴船神社など、
この地周辺の根強い貴船信仰がうかがえます。
末社-東
本殿の右側に手前から、若宮八幡社・天照皇大神・春日大神・厄神社・野々宮社・
愛宕社・上高良社・下高良社・琴比羅社・多賀社を祀る社殿があります。
末社-西
境内の西側に、左から稲荷社・天満宮・宇賀大神・白山社を祀る社殿があります。
神輿庫
北側に神輿庫があります。
神輿の写真
毎年10月23日に近い日曜日に神輿巡幸が行われ、
当日の写真が境内に掲示されています。
針神社
左側に針神社があります。
創建については諸説あり、定かではありませんが、明治12年(1879)に現在地に
遷座し、昭和46年(1971)に改築されて現在の社殿となりました。
毎年12月8日に針供養が行われています。

妙満寺へ向かいます。
続く

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寺号標
馬頭観音峠を超えると、北区上賀茂から左京区岩倉となります。
峠から下った右側に圓通寺があります。
街道に面して寺号標が建っていますが、こちらから入ることは出来ません。
横には「切通石碑」が建ち、馬頭観音峠の開削工事に関する
事柄が記されているようですが、判読は困難です。
門柱
街道を進み、その先で右折した所に圓通寺の門柱が建ち、
左側には「幡枝離宮(はたえだりきゅう)」と刻まれています。

圓通寺は、正式には「大悲山勅願所御幸御殿圓通寺」と号する
臨済宗妙心寺派の寺院です。
霊泉庵
門柱から入ると右側に駐車場があり、突き当りには霊泉庵の門がありますが、
閉じられており、公開はされていません。
五輪塔
その石垣には五輪塔が祀られていますが、詳細は不明です。
山門
駐車場から東へ進んだ左側に山門があります。
拝観受付
その先に拝観受付があり、拝観料は500円です。
弁財天社
受付から入った左側に弁財天社があります。
玄関への石段
右側は庫裡で、石段を登った先に玄関があります。
高浜虚子句碑
玄関の手前から山門の方へ進むと高浜虚子の句碑があります。
「柿落ち葉 踏みてたづねぬ 圓通寺」
圓通寺は借景の庭、柿、ツツジの寺として親しまれています。
鐘楼
その参道の北側に鐘楼があります。
第112代・霊元天皇(在位:1663~1687)は勅願寺と定め、
梵鐘を寄進して度々行幸されました。
潮音堂
更に北側に潮音堂があり、西国三十三所観音霊場の各本尊が祀られています。

玄関から入り、方丈へと向かいます。
建物内の撮影は禁止され、画像はありませんが、北側に仏間があり、
本尊の聖観世音菩薩像が安置されていますが、秘仏とされ
正月三が日のみ開帳されるそうです。
清涼寺式釈迦如来立像は、かっては秘仏だったそうですが、
現在は常時開帳されています。

圓通寺は後水尾上皇が造営された幡枝離宮の跡です。
第108代・後水尾天皇は慶長16年(1611)に即位しましたが、
江戸幕府は慶長20年(1615)に「禁中並公家諸法度」を公布し、
朝廷の行動全般が幕府の管理下に置かれました。
徳川家康は、天皇家を押さえつけようとする一方で、天皇の外戚となることを計り、
孫娘の和子を入内させました。
しかし、天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかね、
寛永6年(1629)に幕府への通告なしに譲位しました。
以後、霊元天皇までの4代の天皇の後見人として院政を行いますが、
上皇と幕府との確執は続きました。
そのような最中の寛永16年(1639)に造営されたのが幡枝離宮です。
庭園
比叡山が最も美しく見える地を、12年間も探し求めていた上皇が、
ようやくこの地にたどり着き、離宮を造営しました。
杉と檜の巨木を通して、築山に比叡山を見立てた借景庭園を築き、
40数個の巨石は遠く紀州からも運び込まれました。
その石の配置には上皇自らも手を加えたと伝わります。
庭園-北東側
400坪の苔庭の北東寄りに石が配され、中には2/3が土中に
埋まっているものもあります。
庭園-亀石
立体的な石だけで無く、細長い石もあり、亀に似た石組みもあります。
現在、この庭園は国の名勝に指定されています。
また、京都市はこの景観を保護するために「眺望景観創生条例」を定め、
建物の高さだけでなく、屋根の形式なども制限しました。

しかし、この地は水に乏しく、池泉回遊式の庭園を求め、
新たに修学院の方で離宮を造営することとなりました。
幡枝離宮は近衛家に譲渡され、延宝6年(1678)に圓光院文英尼が
景川宗隆(けいせんそうりゅう)を勧請し、開山として寺に改めました。

文英尼(ぶんえいに:1609~1680)は、後水尾天皇の生母・
近衛前子(このえ さきこ:1575~1630)に仕え、
寛永14年(1637)に出家して文英尼と号しました。
姉の園光子(その みつこ:1602~1656)は、後水尾天皇の後宮となり、
素鵞宮(すがのみや=後の第110代・後光明天皇)を出産しました。
また、光子の兄の娘・園国子(その くにこ:1624~1677)も
後水尾天皇の後宮となり、第112代・霊元天皇を出産し、
文英尼は霊元天皇の乳母となりました。

景川宗隆(1425~1500)は、雪江宗深(せっこうそうしん)禅師の後を継ぎ、
妙心寺の再興に尽力した一人です。
土蔵
境内の北側に土蔵があり、その手前の土塀は台風で被災し、
下側が剥がれ落ちています。
基金が募られ、一刻も早い修復が望まれます。

幡枝八幡宮へ向かいます。
続く

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深泥池
大田神社から東へ進んだ所に深泥池(みどろがいけ)があります。
太古、京都盆地は巨大な湖でした。
徐々に水が引き、三方を山で囲まれたこの地で、唯一水が流れ出る所に
約1万年に賀茂川からの堆積物により塞がれて池になったと考えられています。
従って池に流入する河川は無く、昭和2年(1927)に松ケ崎浄水場が建設されてからは
その配水池より若干の漏水が流入しています。
南側にできた自然堤防は、飛鳥時代(592~710)半ばに人の手が加えられ、
自然堤防に人工堤防が増築されました。

深泥池が形成されたのは最終氷期(7万年前~1万年前)の末期と考えられ、
その時代からの生き残りとされる生物と、温暖地に生息する生物が共存しています。
窒素やリンなどの無機塩類がほとんど含まれない貧栄養性の湿原のため、
有機物の分解が進まず、枯死した植物が堆積していくために、
コケ類を始め多様な植物が生育する絶好の場となっています。
「深泥池生物群集」として国の天然記念物に指定されています。
深泥池-浮島
周囲1.5km、面積9haの池の中央部分には池全体の1/3を占める浮島がありますが、
冬になると沈んで冠水します。
やや高い部分は冠水しないので、アカマツ・ネジキ等の樹木が成育しています。

歴史的には菅原道真の編纂により、寛平4年(892)に完成した
類聚国史(るいじゅこくし、るいじゅうこくし)』に第53代・淳和天皇が
天長6年(829)の冬10月10日に「泥濘池」なる所に行幸して
鳥網(とりあみ、とあみ)を使って水鳥の猟を行ったという記述があり、
これが文献での初見とされています。
泥濘(ぬかるみ)とあるように、現在でも水深は深い所でも2m余りで、
池底には土砂や枯死した植物が厚く堆積しています。

平安時代中期の歌人・和泉式部は
「名を聞けば 影だにみえじ みどろ池に すむ水鳥の あるぞあやしき」
と詠み、公卿・藤原実資(ふじわら の さねすけ:957~1046)は、
日記『小右記』に「美度呂池」と記しています。
室町時代になると、「美曽路池(みぞろいけ)」や「美曽呂池」と
表記されるようになり、江戸時代には
「御菩薩池(みぞろいけ)」と記されています。
「美曽呂池」や「御泥池」の表記も見られますが、江戸時代には「御菩薩池」が
一般的な名称であったと考えられ、明治の神仏分離令で、
当地で祀られていた地蔵菩薩が上善寺へ遷されたことにより
「深泥池」と記されるようになりました。
「深泥池」の読みは、「みどろ(が)いけ」「みぞろ(が)いけ」の
二通りが存在し、統一はされていません。
市道
池の西側の市道「岩倉上賀茂線」を進みます。
かっては、この車道も池の一部であったと思われます。
この付近で、雨が降る深夜にタクシーが、雨に濡れた女性客を乗せたところ、
その女性客が姿を消し、後部座席のシートが濡れていたという
怪事件が発生したと伝わります。
深泥池は「底なし沼」などと噂され、心霊スポットともなっているようです。
大日如来堂
市道を北上した先で左折すると旧鞍馬街道に突き当たり、
その角に大日如来を祀る祠がありますが、詳細は不明です。
深泥池貴船神社-入口
その対面、旧鞍馬街道に面した西側に深泥池貴船神社があります。
江戸時代の寛文年間(1660~1670)に、当地の農民が貴船神社から分霊を勧請し、
祀られるようになりました。
当地から貴船神社までは徒歩で2時間弱の距離ですが、貴船川及び鞍馬川の洪水や
冬季の積雪などから本宮への参拝が困難となるため、勧請されたと思われます。
池大雅の碑
一の鳥居の脇に、江戸時代の文人画家 (南画家)で書家の池大雅(いけの たいが)
「生誕地 ゆかり之地」の碑が建っています。
池大雅は 享保8年5月4日(1723年6月6日)に深泥池の農家に生まれましたが、
父は京都銀座役人の手代を務めていました。
4歳の時に父を亡くし、7歳で本格的に唐様の書を学び始め、
それを萬福寺で披露したところ、その出来栄えに僧たちから
「神童」と絶賛されました。
15歳で扇屋を開き、扇子に絵を描いて生計を立てる一方、
柳沢淇園(やなぎさわ きえん:1703~1758)から文人画を学び、
独自の画風を確立しました。
深泥池に因み、「池大雅」と名乗ったと伝わります。
深泥池貴船神社-二の鳥居
石段を登った途中の北側に二の鳥居が建ち、その先は割り拝殿となっています。
深泥池貴船神社-本殿-1
本殿
祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、水や雨を司る神ですが、
当地では農耕をはじめ、住民の安寧、除災招福の守護神として信仰されています。
深泥池貴船神社-弁財天社
本殿の背後に弁財天社があります。
深泥池貴船神社-石仏-1
山側には二躯の石像が祀られています。
深泥池貴船神社-石仏-2
どちらも役行者と思われますが、詳細は不明です。
秋葉神社
二の鳥居前まで戻り、山側への石段を登った所に秋葉神社が再建されています。
かつて、深泥池は七つ森七軒村といわれ、その一番森を「消し山」と称し、
火伏の神である秋葉神社が1200年前から祀られていました。
また、この地は上賀茂神社の社領であったため、神仏混交の社であった
秋葉神社は、明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、社家により破却されました。
その祟りか、翌年の春に大火が起こり、村民らは家財農具の一切を焼失しました。
失意した人々が焼け跡を整理していると、どの家の跡にも
漬け物桶だけが焼け残っていました。
疲労と空腹に耐えていた人々が漬け物桶をあけると、中の漬物は火が通り、
良い匂いがしたので、村の長が漬物の茎を一本試食しました。
「酸い茎や」と言ったのが、すぐき発祥の歴史とされています。
秋葉神社は「すぐきの神」として平成4年(1992)に再建されました。
地蔵堂
街道を少し南へ進むと地蔵堂があります。
安永9年(1780)に刊行された『都名所図会』には深泥池が記され、
「御菩薩池(みそろかいけ)」と記されています。
池の畔に地蔵堂も描かれ、「六地蔵廻りの其一なり」と記されています。
往古、深泥池の水面に地蔵菩薩が顕れたと伝わり、江戸時代には既にこの地で
地蔵菩薩が祀られ、六地蔵巡りの霊地として栄えていたようです。

六地蔵巡りは、小野篁(おののたかむら:802~853)が嘉祥2年(849)、48歳の時に
重病に陥り、危篤状態となって冥土の世界を彷徨うようになりました。
その時、地蔵菩薩が顕れ、人間界に戻って人々を救済するよう託され、
現世に蘇ったと伝わります。
仁寿2年(852)に篁は、木幡山から桜の大樹を切り出し、六躯の地蔵菩薩像を刻んで
大善寺に安置しました。
保元2年(1156)に都で疫病が発生したため、後白河上皇の勅命により
平清盛が西光法師に命じて京都の街道の入り口、六ヶ所に六角堂を建て一躯づつ、
地蔵菩薩像を安置しました。
最初に刻まれた一躯は、伏見街道から奈良街道の入口に当たる大善寺に残され、
都への疫病の侵入を防ぎ、街道を行き交う人々の安全が祈願されました。
その後、今から約800年前に、8月22日23日の両日にこれらの六地蔵を巡り、
1年の家内安全や無病息災、疫病退散が祈願されるようになりました。

当地は鞍馬口のの地蔵堂として、六地蔵巡りの霊地となっていましたが、
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で、上賀茂神社は地蔵菩薩像を
上京区の上善寺へ遷しました。
「御菩薩池」という地名は実を失い、換わって「深泥池」という地名が
用いられるようになったとされています。
その後、当地で疫病が流行り、現在の2代目の地蔵菩薩像が安置されました。
地蔵堂-石仏
境内には石仏が祀られ「和尚」と記されていますが、詳細は不明です。
また、地蔵堂は深泥池貴船神社の境内地なのか、地蔵堂の背後の建物は
深泥池貴船神社の社務所です。
馬頭観音峠
再び街道を北上すると馬頭観音峠があります。
移動や荷運びの手段として馬が使われるようになりましたが、
そのような馬を供養するため街道や峠などで馬頭観音が祀られるようになりました。
この峠にも馬頭観音が祀られていましたが、近年、持ち去られたそうです。

圓通寺へ向かいます。
続く

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社家町
一の鳥居を出て東へ進むと、明神川沿いに上賀茂神社の神官が住した
社家が並び、「社家町」と称され、京都市の「上賀茂伝統的建造物群保存地区」、
及び国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
室町時代に形成され、往時は200軒を数えたと伝わります。
現在では30数軒が残されていますが、上賀茂神社の神官は住んではいないようです。
藤木社
明神川が南へ流路を変える所に末社の藤木社(ふじのきのやしろ)があり、
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が祀られています。
瀬織津姫神は、人の穢れを早川の瀬で浄める神であり、
川神や滝神として治水の神でもあります。
藤木社は明神川の守護神として崇められています。
背後のクスノキは樹齢500年と推定され、京都市の保存樹に指定されています。
信号
更に東へ進むと「大田神社前」の信号があります。
社号標
信号を左折して直進した正面に大田神社があります。
福徳神社
その手前の左側に末社の福徳神社があり、福徳神が祀られています。
天慶8年(945)に、摂津国河辺郡(現尼崎~伊丹・川西市域付近)の民衆が
「志多羅神」と称される正体不明の神を石清水八幡宮に祀りました。
「シダラ」とは手拍子の意味で、志多羅神から「石清水八幡宮に祀れ」との
託宣を受け、民衆が志多羅神を祀る御輿をかつぎ出し、
歌い舞いながら西国街道を石清水八幡宮へ向かったとされています。
その神輿は6基を数え、民衆は1万人に及んだと伝わります。
京都でもその信仰が広まり、応徳2年(1085)には福徳神として流行し、
京の辻ごとに小祠が建てられました。
魯山人の碑
福徳神社があるこの辺りは「北大路町」で、神社の裏側に「北大路魯山人生誕地」
の碑が建っています。
魯山人は明治16年(1833)3月23日に上賀茂神社の社家・
北大路清操(きよあや/せいそう)の次男として生まれ、房次郎と名付けられました。
明治維新により、社家としての生活基盤は失われ、清操は房次郎が生まれる
4ヶ月前に自殺しました。
その後、母も失踪し、服部家の養子となり、明治22年(1889)には
福田家の養子となりました。
10歳で尋常小学校を卒業して、その春には住み込みで
丁稚奉公するようになりました。
その時出会ったのが竹内栖鳳により描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字で、
明治29年(1896)に奉公を辞め、養父の木版の手伝い始めました。
15歳の時には当時流行した「一字書き」書道コンクールで次々と受賞し、
その賞金で絵筆を買い、我流で絵を描き始めました。
20歳の時、母が東京で生存していることが判明し、東京へ行きましたが
母には会えなかったものの、東京へ転居しました。
明治37年(1904)の21歳の時に、日本美術展覧会に隷書「千文字」を出品し、
一等賞を受賞しました。
その後、書や篆刻(てんこく)、刻字看板を制作し、
併せて古美術と料理にも興味を持つようになりました。
大正5年(1916)に房次郎の兄が他界し、北大路姓を継ぎ
北大路魯卿(ろけい)と名乗り、そして北大路魯山人の号を使い始めました。
食器と美食に対する見識を深め、大正10年(1921)に会員制食堂「美食倶楽部」を
共同経営するようになり、自ら厨房に立ち料理を振舞いました。
大正14年(1925)、42歳の時に東京で会員制高級料亭「星岡茶寮」の顧問となり、
昭和2年(1927)には鎌倉で星岡窯(せいこうよう)を設立して
本格的な作陶活動を開始して星岡茶寮に納入しました。
しかし、魯山人の横暴さや出費の多さが問題となり、
昭和11年(1936)に魯山人は解雇されました。
昭和21年(1946)に銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を
開店し、在日欧米人からも好評を博しました。
昭和29年(1954)にはロックフェラー財団の招聘で欧米各地で
展覧会と講演会が開催されました。
昭和30年(1955)に織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されましたが
辞退し、昭和34年(1959)に76歳で横浜で亡くなりました。
墓地は西賀茂の小谷墓地にあります。
大田の沢
大田神社の方へ戻ります。
鳥居の手前、東側の沢池は「大田の沢」と呼ばれ、野生のカキツバタが群生し、
国の天然記念物に指定されています。
その歴史は古く、平安時代には藤原俊成からは
「神山や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ」
と詠まれ、既に名勝となっていたように考えられています。
大田の沢は約2,000㎡で、約25,000株のカキツバタが自生し、
5月上旬から中旬が見頃となります。
蛇の枕
鳥居前に架かる石橋の右側下にある水面から上部をのぞかせた石は、
「蛇の枕」とも「雨石」とも呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝わります。
蛇は雨を降らせる生き物とされ、枕石を叩くと蛇が怒って雨を降らせるとの
伝承が残されています。
かっては農機具で叩いて雨乞いの神事が行われていたようですが、
現在では廃されています。
また、雨乞いの時、大田の池(大田の沢の別名)の水を入れ替えれば雨が降り、 
神供寺の池(かつて上賀茂神社の神宮寺にあった池)の水を入れ替えれば
雨が止むと伝えられていました。
参道
参道を進みます。
社務所
右側に社務所があります。
百大夫社
その先の左側に、手前の百大夫社と奥に鎮守社があります。
百大夫社には、海の民が航海の安全を願う神とされる
船玉神(ふなたまのかみ)が祀られています。

鎮守社には大国主神と少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られています。
大国主神は素戔嗚命の御子神であり、少彦名神と協力して国造りを完成させました。
白髭神社
右側には白髭神社があり、猿田彦命が祀られています。
大田神社-拝殿
参道正面の石段を登った所に拝殿があり、割り拝殿となっています。
毎月10日に奉納される里神楽の舞台にもなります。
里神楽は「大田神社巫女神楽」として京都市登録無形民俗文化財に指定され、
その音色により「チャンポン神楽」とも称されています。
大田神社が寿命長久の社であることから、高齢者によって囃し舞われ、
動きが少ないことが特徴とされる日本最古の形を残した神楽です。
大田神社-本殿
本殿及び拝殿は寛永5年(1628)に造り替えられました。
大田神社は現在では上賀茂神社の境外摂社ですが、創祀されたのは上賀茂神社よりも
古く、賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から
先住民によって祀られた考えられています。
五穀豊穣や長寿福徳が祈願され、
「恩多社(おんたしゃ)」とも呼ばれていたと伝わります。
その後、賀茂族の影響が及ぶようになり、賀茂社に含まれるようになりました。

現在の祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)で、
天照大御神が天岩戸に隠れて世界が暗闇になった時に、
踊りを舞った神とされています。
日本最古の踊り子として「芸能の女神」と信仰を集めています。
天鈿女命はその後、邇邇芸命に随伴して天降りましたが、その際に猿田彦命が
先導し、一行は無事に日向の高千穂峰へ天降ることが出来ました。
邇邇芸命の命を受け、天鈿女命は猿田彦命を故郷の伊勢国の五十鈴川の川上へ
送り届け、猿田彦命に仕えて
「猿女君(さるめのきみ)」と呼ばれるようになりました。
大田の小径
神社の左側に「大田の小径」への案内板が立っています。
幼かった北大路魯山人が、この小径を散策し、咲き競うツツジを見て
「美の究極」を感じ、自分は美とともに生きようと決心したと伝えられています。

深泥池(みどろがいけ)へ向かいます。
続く

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賀茂山口神社
岩本神社から東へ進むと摂社の賀茂山口神社があり、
御歳神(みとしのかみ)が祀られています。
御歳神は、大歳神の御子神で、素戔嗚尊の孫神であり、
穀物の豊作をもたらす神とされています。
御歳神の「歳」は、「穀物の実り」の意味がありましたが、
収穫には一年を要することから「年」の意味が生ずるようになりました。
賀茂山口神社は「沢田神社」とも呼ばれ、
本宮御田、神領地の田畑守護の神とされています。
二葉姫稲荷神社-鳥居
更に東へ進むと二葉姫稲荷神社の鳥居が並んでいます。
八嶋龍神社-1
参道を登った所に八嶋龍神社があります。
八嶋龍神社-2
平安時代の弘仁11年(820)、第52代・嵯峨天皇の勅命により
賀茂山口神社の東、現在地から南約150mの所に神宮寺が創建されました。
神宮寺には1,500坪に及ぶ池があり、中央の島は「弁天島」と名付けられ、
八嶋龍神が祀られていました。
明治の神仏分離令により神宮寺は廃絶となり、跡地は民家に払い下げられました。
池は埋め立てられ、八嶋龍神社も取り払われて耕作地と化しました。
池の龍神が村人の夢の中に現れたとして、信者が集まり、跡地を境内に復し、
昭和31年(1956)に弁天島にあった主岩石が現在地で祀られるようになりました。
御蔭龍神
八嶋龍神社の右側に御蔭龍神が祀られています。
天之斑駒神社
御蔭龍神の右側に天之斑駒神社(あめのふちこまじんじゃ)があります。
金毘羅神社
天之斑駒神社の右側に金毘羅宮があり、
その左側に三月豊不動明王が祀られています。
二葉姫稲荷神社
境内の奥に二葉姫稲荷神社があります。
神宮寺の鎮守社として、神宮寺山(片岡山)に祀られたのが二葉姫稲荷神社で、
神宮寺の廃絶後も二葉姫稲荷神社だけは残されました。
渉渓園-入口
参道を下り、庭園「渉渓園」の周囲に沿って南から西へ進むと
「渉渓園」の入口があります。
「渉渓園」の広さは約500坪で、神宮寺の池の一部を平安時代後期の庭園として、
作庭されています。
昭和35年(1960)、浩宮徳仁親王(ひろのみやなるひとしんのう=現在の天皇陛下)
生誕の奉祝事業として曲水の宴を復活するための庭園として造園されました。
睦の木
園内の中央に樹齢300年以上とされるスダジイの木が、御神木として祀られています。
一つの根から複数の大樹が聳えていることから、
一つに結ばれた仲睦まじい家族を象徴し、「睦の木」と称されています。
陰陽石
その後方にある「陰陽石(おんみょうせき)」は池の底から出土したもので、
陰と陽が融合した姿を表し、両手で同時に石に触れてから賀茂山口神社に
参拝すると御利益があるようで「願い石」とも呼ばれています。
賀茂山口神社-拝殿
その左側に賀茂山口神社の拝殿があります。
曲水
園内の左側には「ならの小川」が水が引かれ、毎年4月の第2日曜日に
「曲水宴」が行われます。
当日は、前年の葵祭の斎王代が歌題を披露し、平安時代さながらの衣装の歌人らが
即興で和歌を詠み、短冊にしたためます。
詩歌の吟詠や管弦の演奏も行われ、野点の席もあります。
奈良神社
「渉渓園」の南側に北神饌所があり、西側に隣接して摂社・奈良神社があります。
拝殿は北神饌所の中に組み込まれています。
奈良刀自神(ならとじのかみ)が祀られ、
学業成就や料理技術向上の神とされています。
刀自とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、
古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、
楢が奈良となり神饌を司る神として祀られたと考えられています。
また、賀茂祭(葵祭)では、「散飯(さば)」と呼ばれる神饌が本殿より前、
早朝に奈良神社へ供えられ、神饌を清める役割を果たしていたと考えられています。
なら橋
奈良神社の南西方向に「なら鳥居」が建ち、その先の「ならの小川」には
「神事橋(なら橋)」が架けられています。
天正18年(1590)に架け替えられた際に、現在の御影石製の反り橋となりました。
北神饌所
北神饌所(庁屋=ちょうのや)は、寛永5年(1628)に造替えられ、
国の重要文化財に指定されています。
往古は神饌の調進所でしたが、その後には政所として活用されることがあり、
「庁屋」とも呼ばれました。
競馬会神事(くらべうまえじんじ)では、競馬(くらべうま)の騎手である
乗尻(のりじり)の勧杯の儀が行われます。
また、能舞台としても使用されています。
校倉
南側の校倉には三手(みて)文庫が保管されています。
三手とは同社社家である東手、中手、西手あわせて百数十家の総称で、
その寄合(よりあい)の中心である三手若衆(わかしゅ)が経営していました。
元禄15(1702)に組織が整えられ文庫が発足して、
明治初年(1868)に神社に移管されました。
また、江戸時代中期の国学者・今井似閑(いまいじかん)の
大量の蔵書が奉納されています。
井戸舎
校倉から東へ進むと井戸舎があります。
境内の東端にあり、何故ここにあり、どのように使われていたかは不明です。
山森神社
「ならの小川」の方まで戻り、下流側へ進むと末社の山森神社があり、
素戔嗚命・稲田姫命・田心姫命が祀られています。
素戔嗚命は、伊弉諾命と伊弉冉命から天照大御神、月読命に次いで産れたとされ、
出雲へ旅立つ前に天照大御神と別れの挨拶をしようと高天原へ上りました。
しかし、天照大御神は素戔嗚命が攻め入って来たと思い、武装して応対しました。
素戔嗚命は疑いを解くために誓約(うけひ)を行い、
その時産れたのが宗像三女神で、田心姫命はその一柱です。

高天原での素戔嗚命の行動は粗暴であったため、
天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまいました。
そのため、素戔嗚命は高天原を追放され、
出雲の鳥髪山(現在の船通山=せんつうざん)へ降り下りました。
その地を荒らしていた八俣遠呂智への生贄にされそうになっていた美しい娘・
稲田姫命を櫛に変えて髪に挿し、八俣遠呂智を退治しました。
素戔嗚命は稲田姫命をもとの姿に戻して妻とし、
出雲の須賀(すが)の地で暮らしたとされています。
この故事から稲田姫命は「櫛名田比売(くしなだひめ)」とも呼ばれています。
梶田神社
山森神社の下流側に末社の梶田神社があり、
瀬織津姫神(せおりつひめのかみ)が祀られています。
人の穢れを早川の瀬で浄める神とされています。

一の鳥居を出て摂社の大田神社へ向かいます。
続く

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