2021年03月

ケーブル八瀬駅
高野川に架かる西塔橋を渡ると叡山ケーブル八瀬駅があります。

ケーブルカー
令和3年(2021)1月4日から3月19日まで運休され、3月20日に車体のデザインが
リニューアルされて運行が再開されました。
大正14年(1925)に京都電燈により開業され、昭和17年(1972)に京福電気鉄道へ
譲渡されました。
路線距離は1.3kmで、ケーブルカーとして日本最大の高低差561mを誇ります。

瑠璃光院-山門
ケーブル八瀬駅から高野川沿いに下流方向へ進むと、瑠璃光院があります。
通常非公開で、春と秋に特別公開され、春は例年3月下旬頃から
公開されていましたが、本年は新型コロナの影響か、4月頃からとなります。

瑠璃光院は、岐阜市に本坊を置く「浄土真宗・無量寿山光明寺」の支院で、
本尊は阿弥陀如来です。
かって、この地は京福電鉄の前身である京都電燈などの創業者・田中源太郎
(1853~1922)が所有し、庵を営んでいました。
その庵に明治政府の太政大臣・三条実美(さんじょう さねとみ:1837~1891)が
「喜鶴亭」と名付け、直筆の命名額を下しました。
その額は現在も瑠璃光院に保存されています。
田中の死後は京都電燈重役の個人別荘となり、大正末期から昭和にかけて
現在のような建物と庭園が造営されました。
1万2000坪の敷地に、中村外二(なかむら そとじ)が数寄屋造りの建物を建て、
自然を借景とした庭園は佐野藤右衛門一統によるものとされています。

昭和17年(1942)に戦時の配電統制令により、京都電燈が解散され、
同社の鉄軌道事業を引き継ぐため京福電気鉄道が設立されました。
別荘も同社の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として
営業されていました。
その後、料理旅館は廃業され、光明寺が買収して本堂が置かれて
平成17年(2005)に寺院に改められました。
春と秋に特別公開されていますが、特に秋は紅葉の名所として、
過去には拝観迄、数時間の待ち時間を要したこともあったようです。

社号標-北
瑠璃光院の先で車道が南西方向に向きを変えた先に、御蔭神社の社号標が
建っていますが、その先の道は細くてちょっとした段差もあり、
スクータータイプのバイクでは、少し底をこすりました。
その先を左へ入りますが、この間は自動車は入れませんので、
バイクはどこに停めても差し支えありません。

鳥居
しばらく進むと鳥居が建っています。

史跡
左折して鳥居をくぐって進むと御蔭神社があり、
境内地は国の史跡に指定されています。
図の現在地は社号標が建っていた所です。

拝殿
太古、賀茂の大神が降臨された山と伝わり、「御生山(みあれやま)」と
呼ばれ、東山三十六峰の第二番目の山です。
また、太陽のただ射す所として「御蔭山」と呼ばれ、
それに因んで社名ともなりました。
神魂命(かみむすびのみこと)の孫とされる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)
は、神武東征の際、高御産巣日神(たかみむすびのかみ=高木神)・
天照大神の命を受けて八咫烏(やたがらす)に化身し、熊野から橿原宮への
案内をして神武天皇元年(BC660)に初代・神武天皇が即位しました。

その後、この地に降臨され、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)に御蔭祭の起源となる御生神事が始まったとされています。
この地は山背北部豪族の祭祀の中心地であり、近隣には数々の遺蹟が残されています。
第40代・天武天皇6年(677)に山背国司により社殿が造営されたと伝わり、
賀茂神宮であったとする説があります。
現在地より北東の麓に造営されていたのですが、地震等で被災したため
現在地へ遷座されました。

本殿
現在の社殿は元禄6年(1693)の式年遷宮の際に造替されました。
また、一説では文政13年7月2日(1830年8月19日)に発生した亀岡市付近を震源とする
M6.5前後の文政の大地震により、比叡山西峰が崩落して旧社殿が埋没し、
現在地へ遷して天保6年(1835)の第27回式年遷宮に合わせ、
現在の社殿が造営されたとする説もあります。
昭和39年(1964)の第32回式年遷宮に合わせて本殿及び拝殿の檜皮葺が
柿葺きに替えられ、平成15年(2003)の第33回式年遷宮に合わせて
本殿の解体修理が行われました。

本殿は東殿と西殿があり、玉依姫命(たまよりひめのみこと)と
賀茂建角身命の荒魂が祀られています。

明治17年(1884)には御生神事が名称を「御蔭祭」へ改められました。
御蔭祭は、御蔭神社で祀られている玉依姫命と賀茂建角身命の荒魂を
賀茂御祖神社(下鴨神社)へ遷し、本社の神威を込めるための重要な儀式です。
荒魂は御生となり、賀茂御祖神社の和魂(にぎたま)と合体し、
再生するとされています。
御蔭祭はかっては旧暦4月の午の日に行われていましたが、
現在では5月15日の葵祭に先立ち、5月12日に行われています。

社号標-南
御蔭神社から叡電・三宅八幡駅の方へ抜けると、参道や社号標も整備されています。
御蔭祭の当日はこちらから御蔭神社へ参拝されます。
荒魂が御生木に宿り、神霊櫃に納められて御蔭神社を発ちます。

叡電
横には叡山電鉄の線路が通っています。
ここから峠を越えると赤山禅院への近道ですが、
三宅八幡駅の方へ向かい川端通りから松ヶ崎大黒天へ向かいます。
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一の鳥居
八瀬かまぶろ温泉「ふるさと」から約100m北上した右側に
八瀬天満宮社の鳥居が建っています。
八瀬天満宮社から比叡山へは「八瀬坂」と称される登山道があり、
菅原道真が若かりし頃、第13世天台座主となった尊意(866~940)を仏教学の師と仰ぎ、
この道を師のもとへ通ったと伝わります。

復租紀恩碑
鳥居をくぐった左側に復租紀恩碑が建っています。
延元元年/建武3年(1336)、足利尊氏との対立した第96代/南朝初代・後醍醐天皇は、
足利軍が入京すると京を脱出し、比叡山へ逃れました。
その際、八瀬童子が天皇を乗せた輿を担ぎ、護衛して比叡山へ送った功により、
地租課役の永代免除の綸旨を受けました。
明治以降、通常の租税が八瀬にも課せられることになりましたが、
岩倉具視などの奔走で,実質的に租税免除が継続されました。
この碑はその経緯を記すもので、「復租」の「復」には免除するという
意味があります。

その右側には、歌碑が建っています。
「大君の 御幸(みゆき)祝ふと 八瀬童子 踊りくれたり 月若き夜に」
平成16年(2004)8月21日に平成天皇と皇后が京都行幸の際、
京都御所の前庭で「赦免地踊」を観覧されました。
三日月の光の下で観覧され、皇后がこの歌を詠まれました。

弁慶の背くらべ石
参道を進むと右側に弁慶の背くらべ石があります。
原寸は六尺三寸二分(約2.4m)で、現在の背くらべ石は礎石を含めても180cm前後です。
実際の弁慶の身長は不明ですが、2mの大男であったとも伝わります。

地蔵
左側には地蔵尊の石仏が祀られています。

石段脇の切り株
参道の石段の脇に杉の巨木の切り株が残されています。

手水鉢横の切り株
手水鉢の左側にも切り株が残されています。

手水鉢
新型コロナ対策のためか手水は、鉢の外へ落とされています。

二の鳥居
更に石段を登り、鳥居をくぐります。

臥牛像
石段を登った右側に臥牛像が祀られています。
菅原道真は承和12年(845)の乙丑(きのとうし)年の生まれで、
延喜3年(903)に大宰府で亡くなられた際には遺骸は
「人にひかせず牛の行くところにとどめよ」と遺言されました。
遺骸が載せられた牛車を引いていた牛は安楽寺の付近で動かなくなり、
道真は安楽寺に葬られました。
後に安楽寺の廟は朝廷により安楽寺天満宮(大宰府天満宮)に改修されました。
これらの故事から牛は天満宮の「神使い」とされています。

本殿
正面の石段を登った所に本殿があります。
寛政7年(1795)の大火で焼失後、天保15年(1844)に再建されました。
背面には、菅原道真の本地仏である十一面観世音菩薩の絵図が納められています。

延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
延暦寺の尊意のもとへ道真の霊が顕れました。
尊意は霊をザクロの実でもてなすと「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。
例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」と
霊から頼まれました。
尊意がこれを断ると、激怒した道真は、とっさにザクロをつかみ、
口に含んだかと思うと、種ごと吹き出しました。
種は炎となって燃え上がり、傍らの戸に引火したのですが、
尊意は印を結び、水を放って消し止めました。
道真の霊が鴨川へ去ると、川の水位が突然上昇し、町中にあふれ出ました。
霊を追って来た尊意の祈念により川の流れは二つに分かれ、一つの石が現れました。
石の上に立っていた道真の霊と尊意が問答を行い、道真の霊は雲の上に飛び去って、
それまで荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだと伝わります。

そのような事があってかどうかは不明ですが、尊意はこの地に天満宮を勧請しました。
この地は、尊意のもとへ通っていた道真が休息した場所でもありました。

秋山神社
本殿の右側に秋元神社があります。
伝説では最澄が使役した鬼の子孫がこの地に住み着き、延暦寺の雑役や
天台座主の輿を担いだとされています。
寺役に従事する者は結髪せず、履物も草履をはいた子供のような姿であったことから
八瀬童子」と呼ばれました。

また、延暦寺の寺領に入会権を持ち洛中での薪炭、木工品の販売に特権を認められ、
慶長8年(1603)に江戸幕府が成立後も特権は認められていました。
しかし、第111代・後西天皇の第6皇子・公弁法親王(1669~1716)が第188代天台座主に
就任すると、その政治力を背景に幕府へ八瀬郷の入会権の廃止を認めさせました。
宝永4年(1707)に老中・秋元喬知(あきもと たかとも:1649~1714)が裁定を下し、
八瀬郷の入会権を復しました。
この恩に報いるために創建されたのが秋元神社で、
秋元喬知が祭神として祀られています。
秋元喬知の徳を讃える祭礼は「赦免地踊」と呼ばれ、
現在でも毎年10月の第2日曜日に行われています。

秋山神社前の社殿
秋元神社の手前、右側に幸の神、左側に八幡大神が祀られています。

山王神社
秋元神社の右側に山王神社・八王子社があります。

十禅師大権現
左奥に十禅師大権現が祀られています。

後醍醐天皇御旧跡
十禅師大権現の背後に「後醍醐天皇御旧跡」の碑が建っています。

神輿庫
十禅師大権現社からの石段を下った南側に神輿庫と思われる建物があります。
毎年5月5日の八瀬祭では、朝から神輿飾りが行われ、巫女舞奉納などの儀式が
執り行われた後、2基の神輿が八瀬の里を巡幸します。

揺拝所
建物の右端に「揺拝所」と記されています。

揺拝所の札
その右側に「愛宕神社」「太宰府天満宮」「伊勢神宮」と記されていますので、
若干方角は異なるようですが、これらの揺拝所となっているように思われます。

揺拝所からの石段
そこから下る石段があります。

御所谷の橋
下ると山へ登る登山道があり、先へ進むと谷に橋が架かっています。

御所谷
この谷が「御所谷」のようです。

御所谷碑への登山道
橋を渡ってしばらくはそれほど急坂ではありませんが、東へ向きを変えた所から
登りが急になります。

御所谷碑
5分ほど登った所に第96代・後醍醐天皇の御所谷碑が建っています。
元弘元年(1331)の元弘の乱で隠岐島へ配流となった後醍醐天皇は、
元弘3年/正慶2年(1333)に隠岐を脱出し、挙兵しました。
足利尊氏は幕府に反旗を翻して六波羅探題を攻略し、
東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させました。
後醍醐天皇は元弘3年6月5日(1333年7月17日)に帰京し、建武の新政を開始しました。

建武2年(1335)、後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、尊氏は敗退して
九州へ逃れましたが、翌年に軍を立て直し、京都へ進軍しました。
延元元年/建武3年5月25日(1336年7月4日)の湊川の戦いで、
楠木正成と新田義貞の軍を破り京都へ迫ると、後醍醐天皇は比叡山へ逃れました。
その時、天皇の輿を担ぎ、弓矢を取って天皇を守護したのが八瀬童子で、
吉野へ逃れ、吉野朝廷(南朝)を開いた天皇から
地租課役の永代免除の綸旨を受けました。
また、特に選ばれた者が輿丁(よちょう)として朝廷に出仕し、
天皇や上皇の行幸、葬送の際に輿を担ぐ任に就きました。

この碑はその史実を記念して明治26年(1893)に建立され、天皇の命日である
9月16日にはこの碑に参拝し、神事が行われているようです。

区民誇りの木
神輿庫と思われる建物まで戻ります。
建物の前方には「区民誇りの木」に選定されていた杉の切り株が残されています。
平成30年(2018)9月4日の台風21号及び9月30日には台風24号が相次いで近畿地方を
襲い、甚大な被害をもたらしました。
この巨木も、その被害に遭ったと思われます。

三基の石碑
その手前に三基の石碑がありますが、先の揺拝所を示す石碑かもしれません。

舞楽殿
境内の北側には舞楽殿と思われる建物があります。

三社殿
再び本殿への石段を登ると、本殿の左側に手前から若宮大明神、六所大権現、
白井大明神を祀る社殿が並んでいます。

官公腰掛石
奥の白井大明神の左、上方に「官公腰掛石」があります。
延暦寺の尊意のもとへ通っていた道真がこの石に腰を掛け休息したと伝わります。

社務所
舞楽殿から下った北側に社務所があります。

岩上神社
社務所の右側に白髭大明神・岩上神社・貴布祢大明神を祀る社殿があります。

西塔橋まで戻り、御蔭神社へ向かいます。
続く
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社号標
𥒎観音寺(かけかんのんじ)から約300m北上した左側に九頭龍大社があります。
車道から入ると左側に駐車場、右側に儀式殿が建ち、その下も駐車場となっています。

子安地蔵尊
正面に鳥居が建ち、鳥居をくぐった石段の脇に子安地蔵尊が祀られています。

延命地蔵尊
その上部には延命地蔵尊が祀られています。

大日如来
更にその上部には大日如来が祀られています。

身代り地蔵尊
石段を登り切った所には身代り地蔵尊が祀られています。

御霊水
その奥には御霊水が湧き出ています。
飲めるようですが、新型コロナの影響のため、コップは置かれていません。

儀式殿
御霊水の左側に儀式殿があります。

社務所
石段の正面に社務所があり、ここでローソクと線香を求めます。

ローソク立て
ローソクには白い紙が巻かれ、そこに氏名と数え歳、願い事を記し、
社務所の左側にあるローソク台に供えます。

線香台
線香台は社務所の右側にあります。

本殿
本殿
九頭龍大社には独特の参拝方法があり、「9回まわるお千度」として知られています。
先ず本殿で二拝、四拍手、手を合わせ静かに心の中で
「南無九頭竜弁財天大神様(なむくずりゅうべんざいてんおおがみさま)」と三回、
「おんそらそあてい(えい)そわか」と七回唱え、願い事をします。
その後、四拍手、二拝を行い、本殿の右側にあるお千度棒納所へ向かいます。

お千度棒納所
お千度棒納所は儀式殿の前にあります。

巡拝順路
ここで竹のお千度棒を9本取り、図のように拝礼しながら、本殿の周囲を時計回りに
巡拝し、一周毎にお千度棒をお千度棒納所へ納めていきます。

岩
図には記されていませんが、線香台の奥にある岩にも拝礼されている方が
見受けられます。

初代御神木
図に記されている②番の初代御神木です。

名石
右側には、弁財天の神使いであり、金運・福徳・人望を授ける巳(白蛇)の
姿が出た名石が祀られています。

雅楽殿
向かいには雅楽殿があり、白龍の衝立が置かれています。

発祥の石碑
③番の発祥の石碑です。
石碑を通し、龍が降り立つとされる滝を拝む形にもなります。

新御神木
④番の現在の御神木は、この方向から拝礼するようです。

現在の御神木
こちらが現在の御神木です。

初代御神木の切り株
こちらが初代御神木の切り株と思われます。
④番の拝礼所からはこの切り株と、現在の御神木が一直線に並ぶようです。

⑤番は本殿の真裏で画像を撮り損ねました。
そして、お千度棒納所へ戻ります。
9回まわるという意味には、九頭龍に因んだとも、「9」が一桁の最大の数字で
祭神の大きな加護を受けられるとも伝えられています。

帝釈天社への参道
社務所の左側に帝釈天社への参道があります。

おつなぎ所
石段を登ると右側に「おつなぎ所」があります。
昭和32年(1957)に建立され、九頭龍大社の開祖・大西正治朗(1913~1988)が生前、
「おつなぎ」と称される信者との対談が行われました。
大西正治朗は大変霊感の鋭い人物であり、多くの信者を救い、導いたとされています。

客殿
向かいには客殿である「晴昌殿」があります。

使われていない建物
更に石段を登ると、現在は使われていない建物があります。

旧本殿
その建物から向きを変えた石段を登った右側に旧本殿があります。
九頭龍大社は、昭和29年(1954)11月24日に大西正治朗により創建されました。
大西正治朗の夢枕に九頭龍弁財天大神がが立ち、
「汝の身を社にする。無限に人を救う。奇蹟を以て即座に守護を与える。
神は人を救って神界に上る。」との託宣を受けました。
また、九頭龍弁財天大神がこの地に降臨したと伝わり、社殿が造営され、
祀られるようになると参拝者が自然と本殿を9回まわるお千度を始めたと
伝えられています。

旧本殿横の祠
左側の詳細は不明です。

帝釈天社
更に向きを変えた上部に帝釈天社があります。

猫猫寺-看板
九頭龍大社から旧道を北上した約200mの所に
招喜猫宗の総本山・猫猫寺(にゃんにゃんじ)があります。
山号は特に無いようで、創建に関する詳細は不明です。

猫猫寺-本堂
本堂は手作り雑貨のギャラリーとなり、販売も行われているようです。

ふるさと
更に街道を横断して旧道を進むと高野川の対岸にかまぶろ温泉の
「ふるさと」があります。

かまぶろ-1
旧跡かまぶろの展示が行われ、自由に見学することが出来ます。
天武天皇元年6月24日(672年7月24日)に発生した壬申の乱により、
大海人皇子(おおあまとのおうじ=後の第40代・天武天皇)が背中に矢を受けて
負傷し、窯風呂を作り傷を癒したとの伝承が残されています。
しかし、主戦場となったのは瀬田の唐橋や大和なので異論もあるようです。
一説ではこの伝承で「矢背」または「癒背」と呼ばれ、転じて
「八瀬」となったと伝わり、伝承に因んで多くの窯風呂が作られ、
中世以降は主に公家の湯治場となりました。

かまぶろ-2
かまぶろの仕組みは、青木や青松葉等を焚き、頃合いを見て火を引き、
塩水を撒いて菰(こも)を敷き、その上に座るというものです。
すべては正面の狭い口から行われ、小さくかがまないと
出入りが困難なように思えます。
外傷や胃腸病、神経痛、リウマチなどの内臓的疾患に効能があるそうです。

約100m北上すると八瀬天満宮社への参道がありますので、そちらへ向かいます。
続く
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西塔橋から下流方向

西塔橋からの下流方向。
高野川沿いの大原街道を川の上流方向へ進むと町名は上高野から八瀬に変わります。
高野川に西塔橋が架かる辺りは、川を挟んで両側から山が迫り、
現在は右側の山の麓が削られて街道が通されていますが、
平安時代は難所であったと思われます。
現在は市内から大原への最短ルートですが、文治年(1186)4月下旬、
後白河法皇は忍びの御幸で建礼門院の閑居を訪ねた際は、
鞍馬街道から江文峠を越えて大原へ向かっています。
若狭へも鞍馬街道が使われていました。
川は急流となって八つの瀬があったことから川は
「八瀬川」と呼ばれ、町の名の由来となった説があります。
子供の頃、西塔橋の下は、橋から飛び込めるほど深かったのですが、
現在は少し浅くなったように見えます。

養福寺会館
西塔橋の先を斜め左へ登った所に研修施設である養福寺会館があります。
大・小会議室の他、宿泊施設もあるようです。

養福寺-南山亭
手前には休憩所の南山亭があります。

養福寺-山門
石段を登ると養福寺の山門があります。
養福寺は山号を「告験山」と号する浄土宗西山禅林寺派の寺院で、
知恵の寺めぐり(京都文殊霊場)の第4番札所です。
かっては三条縄手にあり、四軒寺(他に西願寺三縁寺・高樹院)の一寺でした。
昭和49年(1974)に京阪電車の三条駅周辺が再開発されることになり、
昭和51年(1976)に現在地に移転しました。
他の三寺は岩倉へ移転しましたが、養福寺のみこの地へ移りました。

養福寺-鐘楼
山門をくぐった右側に鐘楼があります。

養福寺-水子地蔵
正面に本堂への石段があり、その脇に水子地蔵尊が祀られています。

養福寺-本堂
本堂
本尊として阿弥陀如来像が安置されています。
養福寺は慶長16年(1611)に、現在の京阪電車三条駅付近の大国町で創建されました。
江戸時代の明和2年(1765)には有栖川家の祈願所となり、
職仁親王(よりひとしんのう:1713~1769)から山号・寺号を賜りました。
文久年間(1861~1864)には長州の清末藩(きよすえはん)主・毛利氏の
本陣となりました。
天明8年1月30日(1788年3月7日)に発生した天明の大火では、
当時の京都市街の8割以上が焼失しましたが、養福寺は焼失を免れました。
養福寺には池大雅筆の「火の用心」の額があり、これが功を奏したとして
現在も残されています。

養福寺-薬師堂
本堂前の右側に薬師堂があります。

養福寺-石薬師
堂内には石薬師が祀られています。

養福寺-慈光
左側には阿弥陀如来に子供が寄り添う像が祀られ、「慈光」と記されています。

かけ観音寺への石段

養福寺から更に街道を北上し、街道と旧道とが分れる角に
𥒎観音寺(かけかんのんじ)への参道があります。

かけ観音寺-寺号標
歩道から石段を登った所に、山門はありませんが寺号標が建っています。
𥒎観音寺は、山号を「真山」と号する真言宗泉涌寺派の寺院で、
源頼朝が本尊の観音菩薩に源氏再興の祈願を行ったと伝わります。

かけ観音寺-本堂
寺号標から進んだ正面に本堂がありますが、現在地に寺が再建されたのは
昭和8年(1933)で、かっては背後の山の崖に寺があったそうです。
平治元年(1159)の平治の乱で平清盛軍に敗れた源頼朝は、
東国への逃亡を図ったのですが、当地で延暦寺の僧兵から襲撃されました。
頼朝は馬ごと高野川へ転落しましたが命に別状は無く、
これは観音菩薩の加護があったとして崖の大きな岩に矢じりで
観音菩薩を刻んだのが𥒎観音寺の始まりとされています。
現在でもその観音像を刻んだ岩が残されているそうですが、
そこへ行くのは困難なため、それを揺拝する現在地に本堂が建立されました。

かけ観音寺-かけ大龍王
本堂前には鎮守社として𥒎大龍王が祀られています。

かけ観音寺-弁財天
その左側に弁財天女が祀られています。

北上して九頭龍大社へ向かいます。
続く
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寺号標
崇道神社の参道から少し東へ進むと、水路に橋が架かり、
栖賢寺(せいけんじ)の寺号標が建っています。
水路
この辺りは水車町で、三宅八幡宮の記事で紹介したように、
かって、水路には多数の水車が稼働していたと思われます。
枝折戸門
橋を渡ると直ぐ民家ですが、民家に沿って細い路地を東から北へ進むと
枝折戸(しおりど)の門があります。
石畳

右側に石畳の参道があります。
山門
参道を進んだ先に山門があります。
「拝観寺院では無い」と記されています。
本堂-表
本堂
栖賢寺は山号を「朝崇山」と号する臨済宗大徳寺派の寺院で、
本尊は弥勒菩薩です。

栖賢寺は康永年間(1342~1345)に赤松範資(あかまつ のりすけ:?~1351)が、
現在の尼崎市大物の地に大徳寺74世・竺堂円瞿(じくどうえんく)禅師を
開山に迎えて創建されました。
赤松範資は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将・守護大名で、
父・則村から摂津国・播磨国守護を相続しました。
大徳寺は則村の帰依を受けた宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう)が、
正和4年(1315)ないし元応元年(1319)に小堂を建立したのが
起源とされています。

永禄年間(1558~1570)に大徳寺107世・笑嶺宗訢(しょうれいそうきん:
1505?~1584)により、隣接した廣徳寺と共に中興されました。
荒木村重(1535~1586)が帰依し、寺領を寄進しましたが、天正6年(1578)に
村重が主君の織田信長に反旗を翻し、天正7年(1579)には大物にあった尼崎城へ
移りました。
村重は落ち延びましたが、村重一族と重臣の家族の36人が斬首され、
栖賢寺は兵火で焼失しました。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、本能寺の変で織田信長が自害して果てると、
中国攻めを行っていた羽柴秀吉は、毛利輝元と講和し、
備中から京都に軍を返しました。(中国大返し
『絵本太閤記』にはこの時、明智光秀勢の待ち伏せにあった秀吉が、
剃髪し僧形になって栖賢寺に身を隠し難を逃れた逸話が記されています。
また、秀吉は山崎合戦を前に諸侯を栖賢寺に招き、
松に腰を掛けて軍令を定めたと伝わります。

江戸時代(1603~1868)初期、尼崎城が旧地から移されて築城されるのに伴い、
元和年間(1615~1624)に栖賢寺は現在の尼崎市寺町へ移転しましたが、
その後荒廃しました。
昭和7年(1932)、実業家・山口玄洞(やまぐち げんどう:1863~1937)の寄進により
京都市左京区上高野の現在地で再建されました。
山口玄洞は「大正・昭和の寄付金王」とまで称され、
多くの公共事業や慈善事業に寄付しました。
また、由緒正しい寺である事、景勝の地にある事、住職の人品が優れている事を条件に
寺の再建にも尽力しました。
志納金
枝折戸の門まで戻ると、門に志納金を納める筒が設置され、
入山参拝はできるようです。
本堂-裏
門をくぐった右側に本堂の裏側が見えますが、ガラス障子がはめられています。
十三重石塔
境内には北東方向から南東方向へ流れる小川があり、
対岸には十三重石塔が建立されています。
小川の石
その上流
茶室
更にその先には茶室・残照亭があります。
観音像
参道の右側は広い苔庭で、その奥に観音像が祀られています。
滝組
観音像の左側に滝組があります。
飛び石
滝から流れ落ちた小川を、茶室前の飛び石で渡り、その先の石段を登ります。
石塔
滝上部の左側の石塔
金鳳閣と鎮守社
参道の上部には金鳳閣があり、開山堂のようです。
その手前には鎮守社があります。
鳳凰
金鳳閣の屋根には鳳凰が冠せられ、その名の由来となっています。
金鳳閣
観音堂の前から、美しい姿の全容を見ることが出来ます。
鐘楼
右側奥に鐘楼があります。
梵鐘
梵鐘は昭和6年(1931)に、1164名の寄進により鋳造されたので
「千人鐘」と名付けられました。
観音堂
東側には観音堂があります。

渡り廊下
観音堂への渡り廊下の右側に数本の木が倒れた跡が見えます。
平成30年(2018)9月4日の台風21号で、栖賢寺も倒木により被災しました。
檀家を持たない栖賢寺では修復費等の捻出が大変だったそうで、
現在でも募金が行われています。
観音堂-堂内
堂内には如意輪観音像が安置されています。
如意輪観音は、片膝を立てて座る六臂の像で、右第1手は頬に当てて思惟相を示し、
右第2手は胸前で如意宝珠、右第3手は外方に垂らして数珠を持っています。
左第1手は掌を広げて地に触れ、左第2手は未開敷蓮華(ハスのつぼみ)、
左第3手は指先で法輪を支え、如意輪は如意宝珠と
法輪を指しています。
如意宝珠は、意のままに智慧や財宝、福徳もたらし、
法輪は煩悩を打ち砕くとされています。
如意輪観音は、人々を苦悩から救い、あらゆる願いを叶える観音菩薩とされています。

また、観音堂は禅堂でもあり、水曜を除く毎朝6時から朝座禅会が行われています。

池
観音堂の左裏側に池があります。
池に流れ込む沢は無く、湧水で満たされているようです。
雨が降ると池の水が溢れ出し、先ほどの滝を下って境内の小川となります。

大原街道を八瀬へと進み、養福寺へ向かいます。
続く
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