2021年04月

哲学の道
霊鑑寺から西へ、哲学の道まで進み、桜が満開の哲学の道を南へ進みます。
御旅所
霊鑑寺から5分程歩いた右側(西側)に大豊神社の御旅所があります。
一の鳥居
その先の四つ角を西へ進んだ所には大豊神社の一の鳥居が建っています。
参道
一の鳥居から東へ進み、先ほどの四つ角から、疎水に架かる橋を渡って更に東へ進むと
参道の両側に狛犬が神域を守護しています。
二の鳥居
参道の先に二の鳥居が建っています。
かって、この地には藤原淑子(ふじわら の しゅくし/よしこ:838~906)が
寛平元年(889)に創建した円成寺がありました。
淑子は天安2年(858)に藤原氏宗(ふじわら の うじむね:810~872)の後室と
なりましたが、貞観14年(872)に氏宗が薨去されたため、その菩提を弔うために
円成寺が創建されました。
大豊神社はその鎮守社として、背後の東山三十六峰・15番目の椿ヶ峰(標高132m)の
山中に鎮座していました。
宇多天皇碑
また、鳥居前に「宇多天皇御惱(のう=思いわずらう)平癒願所」の
碑が建っています。
第59代・宇多天皇(867~931)は、藤原淑子の猶子(ゆうし=養子)となり、
淑子の貢献もあって仁和3年(887)に即位しました。
社伝では、宇多天皇の健康祈願のために淑子が大豊神社を創建し、医薬の神である
少彦名命(すくなひこなのみこと)を祭神としたとされています。
手水舎
手水舎には「椿ヶ峰の御神水」と記されています。
拝殿
拝殿
社伝では、寛仁年間(1017~1021)に現在地に遷座したとされています。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失し、その後、円成寺は廃寺となっていますので、
大豊神社のみが現在地で再興されたのかもしれません。
桜
本殿下は狛犬が守護しています。
枝垂桜は円山公園の三代目で、現在二代目の円山公園と同様に初代の桜から
種子を取り植栽されていたものと思われます。
本殿
本殿前は白と黒の狛巳が守護しています。
本殿-2
現在の祭神は少彦名命と、現在地に遷座されてから第15代・応神天皇と
菅原道真が合祀されています。
応神天皇は八幡神であり、勝運の神とされ、菅原道真は学問の神とされています。
良縁の石
本殿前には良縁・招福の石があります。
愛宕社と日吉社
本殿の左側には愛宕社日吉社があり、火防せの神の愛宕社には狛鳶(とび)、
方除・厄除の神である日吉社には、その神使いである狛猿が守護しています。
愛宕社
愛宕社の神使いは猪とされていますが、空を飛ぶ太郎坊天狗に因み、
鳶になったのかもしれません。
日吉社
日吉大社で何故猿が象徴されるようになったのかは不明ですが、
いつ頃か魔除けとされ「神猿(まさる)」と称されるようになりました。
稲荷社
本殿の左側には稲荷社があり、狛狐により守護されています。
稲荷神の使者となった狐には以下のような伝承が残されています。
「昔、船岡山の辺りに老いたキツネの夫婦がいた。
牡は銀の針を立てたような白毛で、尾は五鈷を巻きはさんだようであった。
牝は首は鹿で身体はキツネで、五匹の子狐をつれていた。
弘仁年中(810~824)、両狐が五匹の子狐をつれて稲荷山に参り、神前にぬかずいて、
我らは畜生の身だが、生まれたときから霊智を供え、
世を守り諸人を助けようとの願いをもっている。
しかし、狐である我らの身では、この願いを遂げるのは難しい。
願わくば、今日から当社の眷属となり、神威をかりてこの願いを遂げたい」と
申しでた。
これを聞いた稲荷神はよろこんで、「汝等の願いは殊勝である。
よって、今から長く当社に仕えるものとなり、参詣の人・信仰の輩を助けよ。
男狐は名を「小薄(コススキ)」と名乗って上之宮に仕えよ。
女狐は「阿古町(アコマチ)」と名乗って、下之宮に仕えよ」と告げられた。
大国社-1
右側の大国社は昭和44年(1969)に創建されました。
狛鼠が守護しています。
縁結びの神である大国主命は、素戔嗚命の娘・須勢理毘売命(すせりびめのみこと)と
出逢い、二人は恋に落ちました。
しかし、素戔嗚命は反対し、大国主命に難題を課します。
まず、毒蛇やムカデと蜂の洞窟で寝かせますが、須勢理毘売命がそれらを寄せ付けない
呪力のある布を大国主命渡していたので無事でした。
次に素戔嗚命は大国主命を野原に連れ出し、鏑矢(かぶらや)を射て、
それを取ってくるように命じました。
大国主命が野原に入ると火を放ち、焼き殺そうとしたのですが、
鼠が現れ洞窟へ案内しました。
洞窟で火が収まるのを待っていると、鼠が鏑矢を拾ってきて大国主命に渡しました。
素戔嗚命は仕方なく二人の結婚を許し、鼠は大国主命の神使いとなりました。
大国社-2
向かって右側、阿形の鼠は巻物を持ち、左側、
吽形の鼠は水瓶(水玉、酒器)を抱えています。
巻物は学問を、水瓶は子授けや安産が象徴されています。

熊野若王子神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

冷泉天皇陵-1
霊鑑寺から俊寛僧都旧跡まで歩くと往復で約1時間を要するようなので、
後日、バイクを利用して向かいました。
白川通りを北上し、馬場橋手前の信号を右折して東へ進んだ突き当りに冷泉天皇
櫻本陵があり、第68代・後一条天皇の皇后・藤原威子
(ふじわら の いし/たけこ:1000~1036)の火葬場でもあります。
冷泉天皇陵-2
藤原威子は摂政・藤原道長の娘で、長和2年(1018)に甥の後一条天皇に
入内しましたが、長元9年(1036)4月に天皇が崩御されました。
同年9月に出家しましたが、その2日後に38歳で崩御されました。
冷泉天皇陵-3
冷泉天皇は、第62代・村上天皇の第二皇子で、母は藤原師輔
(ふじわら の もろすけ:909~960)の娘・安子(あんし/やすこ:927~964)で、
諱(いみな)を「憲平(のりひら)」と称しました。
藤原師輔は右大臣、師輔の兄・実頼(さねより:900~970)は左大臣に任ぜられ
村上天皇を補佐していたことから、異母兄の広平親王を押しのけ、生後間もなく
憲平親王が立太子されました。
康保4年(967)に村上天皇が崩御され、18歳で即位しました。
しかし、天皇には奇行を行うなどの病があり、通常は大極殿で百官を集めて
行なわれている即位礼は、天皇の病気が案じられ、初めて紫宸殿で行われました。
天皇を補佐するために村上天皇が廃した関白が復活され、実頼が就きました。
皇太子には同母弟で第4皇子の為平親王か第七皇子の守平親王を擁立するかで対立し、
安和の変へと発展しました。
為平親王を推した左大臣・源高明(みなもと の たかあきら:914~983)が左遷され、
案和2年(969)に冷泉天皇から譲位されて守平親王が即位し、
第64代・円融天皇となりました。
実頼は関白から摂政となりましたが、以降は藤原氏の摂関職設置が常態化しました。
冷泉天皇は僅か2年で譲位し、太上天皇となって62歳で崩御されました。
和中庵
櫻本陵から南へ進むと丁字路となり、左折して東へ進むと霊鑑寺の横を通過します。
その先右側に和中庵があります。
和中庵は非公開ですが、現在はノートルダム女学院中高に移管され、
平成26年(2014)から平成27年(2015)にかけて改修工事が行われました。
和中庵は滋賀県五箇荘(ごかしょう)出身の藤井彦四郎(1876~1956)が、
大正15年(1926)~昭和3年(1928)にかけて造営された邸宅で、その敷地は
一万数千坪に及びました。
庭園や大小の茶室、客殿などが造営され、皇族の来訪もありました。
藤井彦四郎は、大正15年(1926)に製造、販売を開始した「スキー毛糸」が
ヒット商品となり、一代で財を築きました。
しかし、戦後は空き家となり、昭和23年(1948)にノートルダム教育修道女会へ
売却されました。
和中庵は修道院となり、平成20年(2008)にノートルダム女学院中高に移管されました。
瑞光院-門柱
更に東へ進むと波切不動尊を祀る瑞光院があり、ここで車道は途絶えます。
瑞光院は、昭和29年(1954)に川合壽明和尚が、高野山別格本山南院に安置されている
秘仏・浪切不動明王の分霊が勧請されて創建されました。
浪切不動明王の詳細に関しても南院の記事に記しています。
門柱の脇に修行大師像が祀られています。
瑞光院-護摩壇
正面に柴燈護摩修行場があり、10月の最終日曜日頃に大祭が行われ、
火渡り修行が厳修されています。
瑞光院-役行者
護摩壇横の石窟内に役行者像が祀られています。
瑞光院-大日如来
左上方には大日如来が祀られています。
瑞光院-信徒会館
参道を下ると信徒会館があります。
瑞光院-本堂
その先には橋が架かり、橋を渡ったた右上方に本堂があります。
瑞光院-龍神
本堂奥に白雲龍神と弁財天が祀られています。
瑞光院-滝行場
更に奥へ進むと滝行場があり、不動明王と末高弁財天が祀られています。
瑞光院-谷の合流
滝行場の手前で二つの谷が合流しています。
平成25年(2015)の台風18号、平成30年(2018)の台風21号及び24号などで、
甚大な被害を被ったようです。
道標と碑
瑞光院を出るとその先に「俊寛僧都旧跡道」と刻まれた石標と
京都一周トレイルの道標が建っています。
道標
道標に旧如意古道は、直進では無く、左折してすぐ先を右折するように
記されています。
山道で、バイクでも通行不可です。
倒木
しばらく進むと平成30年(2018)の台風21号及び24号によると思われる倒木が
まだ残されています。
整地
10分余り登ると石垣が積まれ、斜面が整地されているような場所があります。
楼門の滝
その右側には滝が見え、「楼門の滝」と称されています。
かってこの地に如意寺の楼門があったことから名付けられてと伝わります。
また、この古道を更に登ると如意寺の大慈院跡があり、如意ヶ嶽(大文字山)を経て
滋賀県に至ります。
石段
滝横の岩沿いから滝を迂回するようにして石段が造られています。
俊寛僧都忠誠之碑
石段を登った所に「俊寛僧都忠誠之碑」が建っています。
瑞光院から歩いて約20分の距離で、かってこの地に俊寛僧都の「鹿ケ谷山荘」が
あったと伝わります。
「鹿ケ谷(ししがたに)」の地名は、智証大師円珍(814~891)が一頭の鹿と遭遇し、
その鹿が道案内したことに由来するとの説があります。
復碑
横に復碑が建ち、それによれば昭和10年(1935)に西垣精之助氏が夢の中に
鹿ケ谷山荘の跡地であるとの告知を受け、碑が建てられたとの事が記されています。

俊寛僧都(1143~1179)は第62代・村上天皇の皇子を祖とする村上源氏の出身で、
仁安年間(1166~1169)に法勝寺の執行となりました。
後白河法皇の近習僧として仕え、法皇と平氏との関係が悪化したことから
安元3年(1177)に首謀して藤原成親(ふじわら の なりちか:1138~1177)や
藤原師光(ふじわら の もろみつ=西光:生年不詳~1177)らとこの山荘で、
平氏打倒の陰謀を企てたとされています。(鹿ケ谷事件
しかし、多田行綱(ただ ゆきつな:生・没年不詳)の密告により参加者が
一網打尽にされ、藤原師光は斬首、藤原成親は配流先の備前国で殺害されました。
俊寛僧都は薩摩国の鬼界ヶ島へ配流され、食を断って自害したとされています。

霊鑑寺まで戻り徒歩での続きの大豊神社へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

妙見堂
安楽寺の直ぐ南側に霊鑑寺の妙見堂があります。
霊鑑寺は洛陽十二支妙見めぐり・卯(東)の札所ですが、霊鑑寺は春と秋に
のみにしか開門されません。
妙見堂は門の外にありますので、閉門時でも参拝は出来ますが、
御朱印の授与は不明です。
寺号標
妙見堂の南に山門があります。
令和3年(2021)春は3/20~4/4まで10:00~16:30の時間帯に開門され、
拝観料は600円です。
山門
霊鑑寺は山号を「円成山」と号する臨済宗南禅寺派の尼門跡(あまもんぜき)寺院です。
慶長7年(1602)に持明院基子(?~1644)は、第107代・後陽成天皇の第六皇子・
堯然法親王(ぎょうねん ほっしんのう:1602~1661)を出産しました。
慶長17年(1612)、後に堯然法親王が門跡となる東山にある妙法院の領地であった
鹿ケ谷(ししがたに)の渓流沿いに屋敷を構え、寛永21年(1644)に薨去されました。
屋敷は第108代・後水尾天皇の皇女・谷宮(1639~1678=宗澄女王)に譲られ、
基子が薨去される前年の寛永20年(1643)に基子の希望により寺院が建立されました。
谷宮を開基として後水尾上皇により創建され、「谷御所」とも
「鹿ケ谷比丘尼御所」とも呼ばれました。
承応3年(1654)に東方山中にあった荒廃していた如意寺の本尊・如意輪観音と
霊鏡が遷され、「霊鑑寺」と改められました。
延宝6年(1678)に谷宮が薨去され、第111代・後西天皇の第3皇女・宗栄女王
(1658~1721)が霊鑑寺に入り2世となりました。
貞享4年(1687)、後西天皇の旧殿が下賜され、現在地へ移築されて、宗栄女王により
寺観が整えられました。
その後、代々皇女、皇孫女が住職となり、明治23年(1890)までは伏見宮の尼僧が
門跡として在院しました。
玄関
門を入ると左側に大玄関があり、椿で飾られています。
その手前、左奥に納経所があります。
玄関-衝立
大玄関は延宝3年(1675)に建立された後西天皇の御番所でした。
水瓶
大玄関前の水瓶
中門
大玄関の先に中門があります。
書院前庭園
門くぐった正面には池泉鑑賞式庭園が作庭され、かっては東から谷水が
引かれていましたが、現在は枯れてしまっています。
書院
北側の書院は延宝3年(1675)に建立された後西天皇の御休息所で、
貞享2年(1685)に天皇が崩御された後、貞享4年(1687)に下賜され移築されました。
書院・居間には狩野永徳(1543~1590)、狩野元信(1476?~1559)、
円山応挙(1733~1795)により描かれた襖絵がありますが、
今年は書院の公開はありませんでした。
本堂
書院前を通り過ぎると本堂への石段があり、それを登った所に本堂があります。
現在の本堂は、享和3年(1803)に第11代将軍・徳川家斉(いえなり)から
寄進されました。
本尊は如意寺から遷された像高7寸(約21.2cm)で、手に霊鏡を持つ如意輪観音像で、
恵心僧都(942~1017)の作と伝わります。
2尺8寸(84.8cm)の厨子内に納められ、厨子は黒塗りで内側には金箔が張られています。
台座に立つ像高1尺6寸(50cm)の地蔵菩薩像も恵心僧都伝の作と伝わります。
不動明王像は智証大師円珍(814~891)の作とされ、以上が智証大師円珍が創建した
とされる如意寺から遷されました。
現在は臨済宗ですが、創建当初の霊鑑寺は天台宗でした。

弁財天は宗栄女王が夢に見た仏を、厳島神社の大鳥居の朽木で
仏師に刻ませたと伝わります。
普賢菩薩は第119代・光格天皇の皇后・欣子内親王
(よしこないしんのう:1779~1846)の念持仏でした。
天保11年(1840)に光格天皇が崩御され、翌年に出家して女院号宣下を受け、
「新清和院」と号しました。
釈迦如来は第117代・後桜町天皇(1740~1813)の念持仏であったとされています。
阿弥陀如来は第11代将軍・徳川家斉の正室・広大院(篤姫:1773~1844)の
自作とされています。
その他、源頼朝(1147~1199)が兜に入れていたと伝わる念持仏などが
安置されています。
本堂前庭園
本堂前の苔庭
本堂前庭園-椿
境内には30種以上の椿の名木、原木があり、多くは寛政年間(1789~1800)に
植栽されました。
経蔵
本堂から石段を登ると右側に経蔵があります。
布袋硯
その前にあった布袋の硯
天満宮
横に鎮守社として天満宮があります。
稲荷社
その横は稲荷社と思われます。
白い椿
北へ進む参道の白い椿
本堂の屋根
本堂の屋根が見えます。
白い花
よく見るけど名前を知らない花
石段
石段を下ります。
椿‐開花
「秋の山」と記されています。
椿の品種名かは不明です。
椿‐未開花
完全な開花前
花が大きく色が鮮やかで、よく見る椿より美しく思いました。
洗い亭
石灯籠の竿には「洗い亭?」と刻まれています。
崩し字なので正しく読めているかは自信がありません。
渡り廊下
そして、書院から本堂への渡り廊下の下をくぐって拝観コースを終えます。
俊寛山荘
霊鑑寺を出た南側の四つ角に「この奥 俊寛山荘地」の碑が建っています。
俊寛僧都旧跡へ向かいますが、往復で徒歩だと約1時間を要すると思われますので、
後日バイクを利用しました。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

石垣
銀閣寺の総門を出た直ぐ前を南へ5分余り歩くと法然院の石垣に突き当たります。
寺号標
石垣沿いに西から南へと進んだ先に法然院への参道があります。
金毛院
参道を登ると塔頭・金毛院の門がありますが、非公開です。
金毛院は法然院を再興した忍澂和尚(にんちょう)の住坊で、「金毛老人」と
呼ばれた忍澂和尚から名付けられたと思われます。
つながる-1
山門前に平成31年(2019)にガラス造形作家・西中千人(にしなか ゆきと:1964~)に
よって作庭されたガラスアートによる枯山水の庭があり、
「つながる」と称されています。
つながる-2
「循環する命とつながっていく宇宙」が題材とされています。
つながる-3
使用済みのガラス瓶がリサイクルされ、大小20ほどが
オブジェとして配置されています。
山門
山門は市内で唯一の茅葺・数寄屋造りで、昭和(1928~1989)の初期に倒壊し、
その後復元されました。

法然院は正式には「善気山・法然院・萬無教寺」と号し、
建永元年(1206)に法然上人が弟子たちと共に六時礼讃行を修した
草庵に由来するとされています。
法然上人は天養2年(1145)に比叡山に登り、久安3年(1147)に皇円の下で得度し、
第48世天台座主・行玄を戒師として受戒しました。
比叡山で修行を行っていた法然上人は、承安5年(1175)に浄土宗を開こうと考え、
比叡山を下って岡崎に草庵・白河禅房(現・金戒光明寺)を開きました。
建永元年(1206)に六時礼讃行を修した際、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に
院の女房たちが参加したため、後鳥羽上皇の怒りを買い、
上皇は念仏停止の断を下しました。
弟子の遵西(じゅんさい=安楽)と住蓮は女房を感化し、
出奔同然で出家させたことにより処刑されました。
法然上人は還俗して「藤井元彦」と名乗らさせられ、土佐国に流される
予定でしたが、配流途中に九条兼実の庇護により配流先は讃岐国へと変更されました。

その後、草庵は荒廃し、江戸時代になった寛永年間(1624~1643)に京極・浄教寺
住持・導念(道念)が、この地で草庵を結び、「法然院」と名付けました。
延宝8年(1680)に知恩院第38世・萬無和尚(ばんぷ/まんむ:1607~1681)により、
法然上人ゆかりのこの地に念佛道場を建立することが発願され、
弟子の忍澂和尚(にんちょう:1645~1711)によって、
現在の伽藍の基礎が築かれました。
浄土宗内の独立した一本山でしたが、昭和48年(1953)に浄土宗から独立し、
単立宗教法人となりました。
白砂壇
山門をくぐると参道の両側に白砂壇(びゃくさだん)が設けられています。
水が表され、その間を通ることにより心身を清めて浄域に入ることを意味しています。
蛇行する砂紋の中に花びらの模様が見えますが、季節によってこの模様は変化します。
鐘楼への石段
右側に鐘楼への石段がありますが、登るのは禁じられています。
鐘楼
門の外から見上げた鐘楼です。
講堂
石段の右側に講堂があります。
元は元禄7年(1694)に建立された浴室でしたが、昭和52年(1977)に内部が改装され、
現在は講堂として、講演会・個展・コンサートなどに利用されています。
放生池
参道の先に放生池があり、橋を渡ると丁字路となります。
橋を渡って山門の方を振り返りました。
丁字路
丁字路の角
十万霊塔
丁字路を右(東側)へ進むと十万霊塔が建っています。
本堂-1
塔から左に折れた左側に本堂があります。
本堂-2
延宝9年(1681)5月に客殿として建立され、
貞亨5年(1688)に佛殿と拝殿が別設されました。
本尊は阿弥陀如来坐像で、観世音菩薩と勢至菩薩を両脇侍としています。
本尊前の須弥壇上には、二十五菩薩を象徴する二十五の生花が散華されています。
地蔵菩薩像-1
本堂正面の石段上に地蔵菩薩像が安置されています。
地蔵菩薩像-2
元禄3年(1690)、忍澂和尚(にんちょう)が46歳の時に、自身と等身大の
地蔵菩薩像を鋳造させ、安置されました。
方丈への門
本堂の北側に方丈がありますが、門は閉じられ、カメムシが描かれています。
強烈な臭いを発するカメムシが、なぜ描かれているのかは不明です。
方丈は、元は延宝3年(1675)に建立された第111代・後西天皇皇女・
誠子内親王 (ともこないしんのう:1654~1686)の御殿でした。
内親王が薨去後の貞亨4年(1687)に移築されました。
上の間の襖絵「桐ニ竹図」は国の重要文化財に指定され、法然院の公式HPでは
狩野光信(1565~1608)の筆とされていますが、異説もあり狩野永徳の次男・孝信
(1571~1618)や光信と同じ「右京」と号した狩野時信(1642~1678)との説があります。
また、堂本印象(1891~1975)が昭和46年(1971)に描いた「新襖絵」があり、
抽象画による障壁画の数少ない例とされています。

方丈前には貞享4年(1687)頃に作庭されたと推定されている浄土庭園があり、
中央に阿弥陀三尊を象徴する三尊石が配置されています。
心字池があり、池中の「善気水」と呼ばれる湧水が水源になっています。
善気水は忍澂和尚が錫杖(しゃくじょう)で突いたことにより湧き出たと伝わり、
茶の湯にも用いられ、名水の一つに数えられています。
玄関
丁字路まで戻り、左(西側)へ進むと玄関があります。
法然院は毎年4/1~4/7と11/1~11/7に特別公開が行われています。
参拝したのは3/23で、方丈庭園などの画像を収めることが出来ませんでした。
庫裡
左側には庫裡があります。
経蔵
庫裡から南へ進むと経蔵があります。
元文2年(1737)に建立され、中央に釈迦如来像、両脇に毘沙門天像と韋駄天像が
安置され、多数の経典の版木が所蔵されています。
多重石塔
経蔵の南西側に多重石塔が建っています。
十三重石塔と二重石塔が組み合わされ、大正10年(1921)に建立されました
墓地への石段
山門を出て南へ進み墓地へ向かいます。
墓地の入口には江戸時代に建立された阿育王(アショーカオウ)の塔があります。
滋賀県東近江市にある石塔寺(いしどうじ)に伝わる阿育王塔を、
江戸時代に模造したものとされています。
阿育王塔
石塔寺の伝承では、「インドのアショーカ王が仏教隆盛を願って三千世界に建立した
8万4千基の仏舎利塔のうち2基が日本に飛来し、1基は琵琶湖の湖中に沈み、
1基は近江国渡来山(わたらいやま)の山中に埋もれ、それを掘り出したもの」と
されています。
実際には奈良時代(710~794)前期頃に朝鮮半島系の渡来人によって建立されたと
みられています。
石造層塔としては日本最古であり、石造三重塔としては日本最大で高さは7.6mあり、
国の重要文化財に指定されています。
河上肇の墓
阿育王塔の北側に河上肇夫妻の墓があります。
河上肇(1879~1946)は京都帝国大学でマルクス経済学の研究を行い、
後に共産党員となって獄中生活を送りました。
有名な『貧乏物語』の他に多数の著作があり、学生時代に副読本として使用した
記憶もあります。
経塚
背後には経塚があります。
金毛塔
墓地を南へ進むと「金毛塔」と称される忍澂和尚(にんちょう)の墓があります。
忍澂は正保2年(1645)に武蔵国で生まれ、早くに両親を亡くし、9歳で出家を志して
増上寺の直伝(じきでん)のもとで修学しました。
後に萬無を師とし、師命により増上寺の林冏(りんげい)のもとで修学しました。
江ノ島の弁才天、近江浄信寺の地蔵尊、竹生島の弁才天等に参籠するなどして
修行を重ね、延宝8年(1680)に萬無の命を受けて法然院の再建を始めました。
宝永3年(1706)に建仁寺蔵『高麗版大蔵経』と『黄檗版大蔵経』との対校を
始めましたが、病を発症し正徳元年(1711)11月10日に入寂されました。
福田平八郎の墓
その手前に福田家の墓があり、左側に福田平八郎夫妻の墓があります。
福田平八郎(1892~1974)は日本画家で、大正7年(1918)に京都市立絵画専門学校
(現:京都市立芸術大学)を卒業し、後に同校の教授となりました。
谷崎潤一郎の墓‐空
その手前に谷崎潤一郎の墓があり、潤一郎の筆による
「空」と「寂」が刻まれています。
谷崎潤一郎の墓‐寂
「寂」の方にだけ塔婆が立てられていますので、こちらが潤一郎の墓かもしれません。
青春時代に好きな作家の一人でした。
今、改めて読み直すと新たな発見があるのかもしれません。

法然院には哲学者・九鬼周造(1888~1941)や昭和56年(1981)にアジアで初めて
ノーベル化学賞を受賞した福井謙一(1918~1998)などの著名人の墓があります。
総門
墓地から下ると総門があります。
圓光大師
圓光大師(法然上人)御舊(旧)跡の碑
安楽寺-山門
法然院の総門を出て南へ数分の東側に安楽寺があります。
山号を「住蓮山」と号する浄土宗の単立寺院で鎌倉時代に現在地より
東へ約1kmの山中に創建されました。
法然上人の弟子・住蓮と安楽が当地辺りを散策していた際に白鹿が現れ、
鹿に導かれて山に分け入り、
その鹿が消えた所に霊告を感じて草庵を結んだとされています。
安楽寺-浄土礼讃根元地の碑
門前には「浄土礼讃根元地」の碑が建っています。
住蓮と安楽は唐の善導大師(ぜんどうだいし)の『往生礼讃』に大原魚山
礼讃声明(らうさんしょうみょう)を転用して浄土礼讃を完成されました。
二人は音楽的才能に恵まれ、指導する浄土礼讃は大衆の多くの支持を得ました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に上皇の女官・松虫と鈴虫が
夜中秘かに小御所を抜け出し、住蓮と安楽のもとで剃髪・出家しました。
この事は上皇の逆鱗に触れ、住蓮と安楽は斬首刑、法然上人は流罪となり、
以後草庵は荒廃しました。(承元の法難
承元元年(1207)に法然上人は赦免され、箕面の勝尾寺に滞在した後、
建暦元年(1211)に京都へ戻り、二人の菩提を弔うため草庵の復興を命じられ、
「住蓮山安楽寺」と名付けられました。
法然上人はその翌年の1月25日に78歳で入寂されました。
その後、天文年間(1532~1555)に現在地で本堂が再建され、復興されました。
安楽寺-拝観謝絶
山門には「拝観謝絶」と記されています。
春は4月上旬の土日(さくら)、5月上旬の土日・祝日(つつじ)、
5月下旬~6月上旬の土日(さつき)と開花に合わせて公開されています。
秋は11月全土日・祝日及び12月上旬の土日に紅葉に合わせて公開されています。
また、7月25日に「鹿ケ谷カボチャ供養」が修せられ、この日も公開されます。
江戸時代の末期、当時の住職・真空益隋(しんくう やくずい)が、
人々を病苦から救済するため、本堂で100日間の修行を行いました。
すると本尊の阿弥陀如来から「夏の土用のころに、鹿ケ谷カボチャを食べれば中風に
ならない」との霊告を受け、カボチャをふるまったのが
「鹿ケ谷カボチャ供養」始まりとされています。
江戸時代に粟田村の百姓が津軽への旅の途中で種を譲り受け、
栽培が始められて昭和30年(1955)までは盛んに収穫されていました。
その後、新品種の登場で栽培農家が減少しましたが、栄養価の高さから
見直されているようです。

本尊は像高85cmの阿弥陀如来坐像で、脇侍として左に勢至菩薩立像、
右に観音菩薩立像が安置されています。
右端に地蔵菩薩立像、左端には龍樹菩薩立像が安置されています。
龍樹(りゅうじゅ)は2世紀頃にインドに実在した僧で、サンスクリットの
「ナーガールジュナ」の漢訳名です。
大乗仏教を体系化した人物で、『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』を
著し、その巻第五「易行品第九」で浄土往生の思想が強調されて
浄土教の祖ともされています。

本堂西側に安置されている「法然上人張り子像」は、上人の74歳の姿と伝わり、
上人の書簡、名号などの反古紙(ほごし)が張り合わせられています。
その左側の「親鸞聖人旅姿像」は、承元の法難で越後国国府(現、新潟県上越市)
への流罪となり、その旅での35歳の姿とされています。
住蓮坐像は合掌し、安楽坐像は右手に剃刀、左手に宝珠を載せ、
その下に松虫坐像と鈴虫坐像が安置されています。

地蔵堂に安置されている「くさの地蔵」は、平成3年(1991)の解体修理で墨蹟が
発見され、正嘉2年(1258)に慶派仏師により造立されたことが判明しました。
皮膚病の瘡(くさ=湿疹)の平癒に御利益があるとされています。

また、境内の南東側に松虫・鈴虫の、南側に住蓮と安楽の供養塔があります。

霊鑑寺へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

寺号標
銀閣寺は山号を「東山(とうざん)」、寺号を「慈照寺(じしょうじ)」と号する
相国寺の境外塔頭で、通称の「銀閣寺」で知られています。
古都京都の文化財」の構成資産としてユネスコの世界遺産に登録され、
庭園は国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
また、神仏霊場の第109番札所でもあります。
総門
現在の総門は寛政12年(1800)に建立されました。
総門手前の碑
総門の手前、右側に「銀閣寺開祖 将軍義正公近習頭(中尾城矢倉殿采配)
世継左衛門丞宗竹入道(殉死)拝領所」と刻まれた碑が建っています。

室町幕府第8代将軍・足利義政は、文明5年(1473)に子の足利義尚(よしひさ)に
将軍職を譲り、文明14年(1482)から応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した
浄土寺の跡地に山荘(東山殿)の造営を開始しました。
義政は寛正6年(1465)に現在地から南約1kmの所で山荘の造営を計画していた
とされています。
その地には戦国時代に廃寺となった南禅寺塔頭の恵雲院がありました。
しかし、応仁・文明の乱で広大な境内地の浄土寺が焼失したため、
場所を変更し、造営を始めました。
しかし、8年後の延徳2年(1490)1月に完成を待たずして
義政は他界しました。
翌2月に義政の菩提を弔うため山荘を禅寺に改め、義政の法号である慈照院に因み、
「慈照院」としましたが、翌年「慈照寺」と改められました。
開山には義政が尊敬していた故人の夢窓疎石(1275~1351)が勧請され、
相国寺の末寺となりました。

天文19年(1550)に第13代将軍・足利義輝と父で第12代将軍であった足利義晴は、
慈照寺裏山の地蔵山に中尾城の築城を開始しました。
天文18年(1549)の江口の戦いで三好長慶と三好政長が戦い、政長は戦死しました。
細川晴元は政長を支援していたため、長慶の追撃を恐れ、足利義晴・義輝父子を伴い、
近江坂本に逃れました。
足利義晴・義輝父子は京都を奪回するため中尾城を築城していたのですが、
天文19年(1550)5月に義晴は病死し、義輝は同年11月に三好軍と交戦しました。
三好軍は鹿ヶ谷から北白川の一帯に火を放ち、義輝は近江堅田へ逃れました。
この兵火で慈照寺は観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。
総門前の碑からこの頃、銀閣寺は宗竹入道が住職となっていたと思われます。

その後、天正15年(1587)に近衛前久は、住職無しの状況であった慈照寺東求堂を
別荘として隠棲しました。
近衛前久(このえ さきひさ:1536~1612)は織田信長と親交を深め、天正8年(1580)には
信長と本願寺の調停に乗り出し、顕如は石山本願寺を退去しました。
織田信長は庭園の名石を持ち去ったと伝わり、この頃かもしれません。
信長からは高い評価を得ましたが、天正10年(1582)に本能寺の変で信長が自刃して
果てると前久は剃髪して「龍山」と号しました。
銀閣寺垣
総門をくぐると参道は直ぐ右に折れ、南へ進みます。
竹垣は「銀閣寺垣」と称され、参道の左右には生垣に優れるとして、
椿が植栽されています。
中門
更に参道は突き当たり、左に折れた先に中門があります。
寛永年間(1624~1644)に建立された杮葺き(こけらぶき)の薬医門で、
平成16年(2004)に改築されています。
門をくぐった左側に参拝受付があります。
拝観料は500円で、右側に御朱印の授与も行われていますが、
新型コロナの影響で、書置きでの対応となります。
庫裡
中門を入った左側に庫裡があります。
現在の庫裡は天保8年(1837)に再建されました。
慶長17年(1612)に近衛前久が没すると
相国寺末寺へ戻され、慶長20年(1615)には宮城丹波守豊盛による
大改修がなされました。
宮城豊盛(1555~1620)は豊臣秀吉に仕え、慶長元年(1596)に丹波守に任ぜられました。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは西軍として大坂城の警護を行っていましたが、
東軍に内通していたとされ、慶長14年(1609)からは
徳川家康に仕えるようになりました。
慶長20年(1615)に宮城豊盛が普請奉行を務めて建物と庭園の大改修が行われ、
ほぼ現在の寺観に整えられました。
また、孫の豊嗣は寛永16年(1639)の父・頼久の33回忌に客殿、玄関、庫裡などの新造や
修復を行っています。
宝処関
先には寛永年間(1624~1644)に建立された「宝処関(ほうしょかん)」と
称される唐門がありますが、貴賓客用なので閉じられ、右側の通用門を使用します。
向月台
門を入ると「向月台」と称される白砂の砂盛があります。
義政の時代には無く、宮城豊盛の大改修、或いはそれ以降に造られるようになり、
それ以前は東求堂がこの辺りにあったと推定されています。
向月台と銀閣
向月台は当初、お椀を伏せたような形で、現在のように高くはなかったと伝わります。
その後、富士山のような形に仕上げられるようになり、
次第に高くなって現在では180cmだそうです。
「この上に座って月が昇るのを待っていた」というのは俗説で、
造られた正確な目的は明らかではありません。
銀閣-北前
その南西側に銀閣があります。
観音殿であり、室町期の楼閣庭園建築として現存する唯一の建造物であることから
国宝に指定されています。
長享3年(1489)3月に上棟されたのですが、その年の10月に義政は病に倒れ、
翌年1月7日の完成を見ることなく義政は他界しました。
鹿苑寺の舎利殿に金箔が張られ、「金閣」と称されたのに対し、観音殿には
銀箔は張られておらず、張られた痕跡もありません。
当初、上層は内外とも黒漆塗であったことから、月光が反射して銀色に輝いて
見えたことから「銀閣」と呼ばれたなど諸説あります。
慈照寺が「銀閣寺」と称されるようになったのは江戸時代以降とされ、
拝観料を徴収する観光寺院になったことと関係しているように思われます。

観音殿は上下二層から成り、初層は「心空殿」と称され、
書院風の造りとなっています。
東側のみに縁が設けられ、軒も二軒(ふたのき)と広く取られています。
手前、北側は6畳の畳敷きで、障子窓があり、その奥の白壁の部分は3畳大の板敷の
小室が南北に並び、手前に上層への階段と勝手口があります。
南側の小室には押入れがあります。

上層は「潮音閣」と称される禅宗様の仏堂風の造りで、内部は仕切りの無い
板敷きの1室です。
板壁に花頭窓(かとうまど)をしつらえ、南面と北面には
桟唐戸(からさんと)が設けられています。
創建当初は黒漆塗りで軒下には帯状模様、花柄の極彩色などが施されていました。

潮音閣の須弥壇に金色に輝く観音菩薩坐像が安置されています。
光背の背後に後補で木像洞窟(岩屋)が付けられ、
「洞中観音(どうちゅうかんのん)」とも称されています。
銀閣-南
初層の南東側に4畳大の吹き放しの広縁があり、西側は8畳大の仏間で
須弥壇の厨子内に室町時代初期作の「千種地蔵菩薩像」が安置され、
その上下左右を千体地蔵菩薩像が囲んでいます。
銀閣-鳳凰
観音殿の屋根は宝形造、杮葺で屋頂に東を向いた銅製鳳凰が置かれていますが、
古記録や名所図会によれば、18世紀後半頃までは鳳凰ではなく宝珠でした。
八幡社-鳥居
観音殿の北側奥には鳥居が建っています。
八幡社
鳥居をくぐると鎮守社の八幡社がありますが、
明治の神仏分離令以前は八神社が銀閣寺の鎮守社となっていたようです。
仙草壇
参道へ戻ると「仙草壇」があります。
仙草は中国原産の一年草で、亜熱帯の、日当たり、水はけの良い、低い海抜地で、
気温20~25℃以上の場所が栽培の適地です。
中国では暑気あたり防止、解熱の民間薬、飲料として利用され、糖尿病、高血圧、
風邪、関節炎、筋肉痛に対する治療効果があるとされています。
また、「仙草ゼリー」などとして食されているようで、織姫が地上に降りてきた時に
持参して、近くの鳳凰山に植えた草だとする伝説が残されています。
仙草壇には現在、福島県にある国指定名勝の須賀川牡丹園で育てた牡丹の苗木が
植栽されています。
「弄清亭(ろうせいてい)」の襖絵の一つに日本画家の
奥田元宋(おくだ げんそう:1912~2003)が、須賀川牡丹園の牡丹を題材に
描いた作品「薫園清韻(くんえんせいいん)」が縁だそうです。
方丈
方丈(本堂)は寛永元年(1624)に建立され、京都市の文化財に指定されています。
像高60cmで南北朝時代作とされる本尊の宝冠釈迦如来坐像が安置されています。
脇に安置されている像高55.8cmで江戸時代作の達磨大師坐像の
口には歯が見えています。
その下前に彩色の開山・夢窓疎石像が安置されています。
襖絵は与謝蕪村池大雅により描かれましたが、現在は複製が使用されています。
板戸絵
板戸の絵
方丈-扁額
正面には「東山水上行(とうざんすいじょうこう)」と記された
扁額が掲げられています。
銀沙灘
方丈前の砂盛は「銀沙灘(ぎんしゃだん)」と称され、「向月台」と同じく
江戸時代以降に造られたと推定されています。
高さが35~40cmあり、砂紋は『白蛇伝』の伝説が残る中国・西湖の波紋を
表しているとされています。
方丈は月待山を見る絶好の位置にあり、銀沙灘が造られた目的は、
月待山から昇る月の光に反射にする銀沙灘の鑑賞や、
反射した光を方丈へ取り入れるためなど諸説あります。
左側に見える白壁の建物が宝処関です。
坪庭
方丈と東の東求堂(とうぐどう)とを繋ぐ廊下の前に壺庭があり、
銀閣寺形手水鉢が置かれています。
銀閣寺形手水鉢
銀閣寺形手水鉢は、側面の線状の模様から、袈裟型の手水鉢の変形と言われています。
全体は四角型ですが底部は丸い座がつけられており、
焼物の高台のようになっています。
格子市松模様で、菱形と四角模様とが交替で側面にデザインされ、
4面がそれぞれ異なります。
東求堂
東求堂は文明18年(1486)に建立され、国宝に指定されています。
「東方の人、念じて西方に生ずるを求む」から名付けられました。
足利義政が持仏堂として建立し、手前(南側)のほぼ中央に仏間を設け、
須弥壇の厨子内に室町時代作で像高65cmの阿弥陀如来立像が安置されています。
また、仏間の西に室町時代作で等身大とされる
像高118㎝の義政坐像が安置されています。
文明17年(1485)頃の出家した法衣姿で、没後間もなく造立されたと推定されています。

足利義政は、第6代将軍・足利義教(あしかが よしのり:1394~1441)の五男で、
後継者の地位からは外されていました。
嘉吉元年(1441)6月24日に起こった嘉吉の乱で、父・義教が
赤松満祐(あかまつ みつすけ:1381~1441)に殺害されました。
兄の義勝(1434~1443)が9歳で第7代将軍となりましたが、在任7か月後の
嘉吉3年(1443)7月21日に病死(諸説あり)しました。
そのため次期将軍候補として選ばれたのが8歳の義政で、文安6年(1449)4月16日に
第8代将軍として就任しました。

康正元年(1455)に16歳の日野富子(1440~1496)を正室としましたが、男子が生まれず、
義政は寛正5年(1464)に浄土寺に住して浄土寺殿と呼ばれていた弟の義尋(ぎじん)を
還俗させ、義視(よしみ:1439~1491)と名乗らせ、細川勝元(1430~1473)を後見に
将軍の後継者としました。
しかし、翌寛正6年(1465)に富子は義尚(よしひさ:1465~1489)を出産し、
義尚を後継者とするようにと目論みました。
義尚の後見である山名宗全(1404~1473)や実家である日野家が義視と対立し、
これに幕府の実力者である勝元と宗全の対立や斯波氏(しばし)、
畠山氏の家督相続問題などが複雑に絡み合い、応仁の乱が勃発しました。

応仁の乱は文明9年(1477)までの約11年間にわたって継続し、戦場は畿内から西は
中国と四国及び九州の一部、東は東海・北陸地方にまで広がり、
京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失しました。
最終的に山名氏などの西軍は解体され、西軍に組していた義視は、
美濃の土岐成頼(とき しげより:1442~1497)のもとへ逃亡しました。
義政は文明5年(1474)に9歳の義尚に将軍職を譲りましたが、実権を握り続けたため、
義尚と富子と対立するようになりました。
義政は富子から逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。

また、仏間には狩野正信により十僧図が描かれていましたが、
現在は失われ、白紙が張られています。

東求堂の北東の4畳半は「同仁斎」と呼ばれる書斎で、「聖人は一視して同仁」から
その名が取られています。
解体修理時に同仁斎の部材から「いろりの間」の墨書が見つかり、当初は室内に
炉が切られ、茶を点てていたとみられ、四畳半茶室の始まりとされています。
華道や能、連歌など多様な文化が花開いた東山文化の中心となりました。

東求堂から北に「弄清亭(ろうせいてい)」が渡り廊下で繋がれています。
弄清亭は明治28年(1895)に香席として再建されました。
かって、「泉殿」と呼ばれ、義政が聞香(もんこう)の間として使用していました。
白鶴島
東求堂の前から観音殿の前にかけて錦鏡池(きんきょうち)が広がり、
西芳寺の庭園を参考にして作庭されたと伝わります。
東求堂の前にある島は「白鶴島(はっかくとう)」と名付けられ、
島の両側に渡された石橋で、羽を広げた鶴が表されています。
大内石
大内石は大内政弘(1446~1495)の寄進によるものです。
応仁・文明の乱(1467~1477)では大内政弘は、西軍の足利義視から
左京大夫に任ぜられていました。
文明5年(1473)に山名宗全・細川勝元が相次いで病死してからも足利義視を
京都の自邸に迎え入れて戦いを継続していました。
文明8年(1476)9月に足利義政による東西和睦の要請を受諾しました。
文明9年(1477)10月に新将軍となった足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の
4か国の守護職を安堵され、後年山口県が西の京都と呼ばれる基礎を築きました。
仙人州
観音殿前の島は「仙人州」と呼ばれています。
北斗石
仙人州へは「迎仙橋」と称される石橋が架けられ、
その手前には名石「北斗石」が配されています。
流水路
池の南側から池の水が流出し、その水路には「濯錦橋(たっきんきょう)」と
称される石橋が架けられています。
洗月泉-0
池の南東方向に洗月泉があり、そこから流れ落ちた清水が錦鏡池へ引かれています。
洗月泉-2
洗月泉-その2
洗月泉-1
洗月泉の左横に展望所への参道があります。
弄清亭
参道からは木立の中に弄清亭が望めます。
弁天社
その先に弁財天が祀られています。
展望所への参道
弁財天社から向きを変え、苔に覆われた斜面を登って行きます。
漱蘚亭跡
漱蘚亭跡(そうせんていあと)があります。
江戸時代末期に山崩れにより埋没し、昭和6年(1931)に発掘されました。
相阿弥により作庭された自然の露石を利用した枯山水庭園で、西芳寺の竜淵石組を
模範に造られたとされ、室町時代の面影を残しています。
銀閣寺庭園はこの上段の庭と錦鏡池を中心とする下段の庭から成り、
国の特別史跡及び特別名勝に指定されています。
お茶の井
その左側に「お茶の井」があり、義政が茶の湯で使用したとされ、
現在でも茶会に使用されています。
泉辺の石組みは当時の遺構そのままであり、茶庭の蹲踞(つくばい)の源流と
されています。
展望所
展望所からの眺望です。
かって、この付近に西芳寺の縮遠亭に倣い、超然亭が建てられていました。
手前に吉田山、その遥か奥に愛宕山が望めます。
売店
出口には土産物の売店があります。

法然院へ向かいます。
続く

にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村

↑このページのトップヘ