2021年05月

山門
東大路通に出て南へ進むと東側に聞名寺(もんみょうじ)があります。
時宗遊行派の寺院で、洛陽二十四地蔵霊場の第17番札所です。
地蔵堂
門を入ると右側に地蔵堂があり、「明眼地蔵尊(あけめじぞうそん)」が
祀られています。
時康親王(後の第58代・光孝天皇)は眼病を患い、
加茂の明神で病気平癒の祈願を行いました。
17日目の満願の夜の夢中に老翁が現れ、
「地蔵菩薩を彫って、守護仏とせよ」と告げられました。
慈覚大師円仁(794~864)が地蔵菩薩を刻み、「小松殿」に安置したところ
眼病は平癒し、後に第58代天皇として即位しました。
「小松殿」は大内裏の東、大炊御門大路(おおいみかどおおじ)の北にあった
天皇の皇宮で、天皇が仁和3年8月26日(887年9月17日)に58歳で崩御されたのに伴い、
天皇の遺志により「小松寺」へと改められ、天台宗の寺院となりました。

その後荒廃し、弘安2年(1279)に一遍が時宗の道場として再興し、
「小松院聞名寺」と改めました。
天正19年(1591)には豊臣秀吉の都市改造政策により寺町夷川に移転を命じられ、
宝永5年(1708)の宝永の大火で焼失後、現在地に移転しました。
救世観世音菩薩像
地蔵堂の左前にはぐ救世観世音菩薩像が祀られています。
大日如来
地蔵堂の右側には大日如来の石像が祀られています。
身代り地蔵尊
奥には中央に身代り地蔵尊が祀られ、周囲には多数の地蔵菩薩像が奉納されています。
本堂
本堂の厨子内には本尊で像高83cmの阿弥陀如来像、脇侍に像高59cmの観音菩薩像と
像高58.2㎝の勢至菩薩像が安置されています。
鎌倉時代の嘉禄3年(1227)以降に仏師・快慶の弟子・行快(生没年不詳)によって
造立され、観音・勢至菩薩立像の足ほぞに墨書銘があります。
「巧匠/法眼行快」と記され、嘉禄3年(1227)に行快が、
城陽市にある極楽寺の阿弥陀如来立像を造立し、
同年法印に次ぐ法眼(ほうげん)に昇進しました。
七重石塔
本堂前に建つ高さ3.5mの七重石塔は、室町時代の作で
「光孝天皇塔」と称されています。
金剛稲荷大明神
その右側には安楽地蔵尊と金剛稲荷大明神が祀られています。
庫裡
庫裡

大蓮寺へ向かいます。
続く
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日蓮上人像
京都会館から西へ進むと左側(南側)に妙傳寺(みょうでんじ)があります。
駐車場への入口がありますが、通り過ぎると日蓮上人の像がみえます。
山門
左折した東大路通に面して山門があります。
妙傳寺は山号を「法鏡山」、院号を「正法華院」と号する日蓮宗の本山で、
京都日蓮宗八本山の一つです。
分骨之道場の碑
山門前には「日蓮上人御分骨之道場」の碑が建てられています。
妙傳寺は文明9年(1477)に円教院日意上人(1444~1519)により、
一条尻切屋町で創建されました。
日意聖人は天台宗の僧でしたが、日蓮宗総本山久遠寺第十一世・行学院日朝上人の
弟子となり、師の命により上京して妙傳寺を創建しました。
宗祖・日蓮上人の御真骨を奉安し、同時に身延七面山に勧請されている
七面天女と同木同体の霊体を安置しました。
「西身延」と称され、関西以西の日蓮宗信者の信仰を集めたと伝わります。
片岡碑
門をくぐると左側に「片岡碑」が建ち、上に片岡家の定紋・七つ割丸に二引が
載せられています。
両側の石灯籠には「片岡我童」と刻まれ、十三代目・片岡我童(かたおか がどう:
1910~1993)により建立されたのかもしれません。
十三代目・片岡我童は、十三代目・片岡仁左衛門(1903~1994)とともに
不振の上方歌舞伎の復興につとめ、また女形としても活躍し、
没後に十四代目・片岡仁左衛門を追贈されました。
妙傳寺には初代・片岡仁左衛門(1656~1715)の墓があり、
片岡家の菩提寺となっています。
本堂
現在の本堂は明和元年(1764)に35世・了遠院日勤上人により再建されました。
妙傳寺は創建後、天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失し、堺に避難しました。
天文11年(1542)に第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
四条西洞院で伽藍が再建されました。(第二の妙傳寺)
妙傳寺第六世・慈眼院日恵上人の代の天正19年(1591)には豊臣秀吉の
都市改造政策により寺町夷川に移転を命じられました。(第三の妙傳寺)
この時に一条家・四条家の菩提寺となり、日恵上人は中興の祖とされています。
宝永5年(1708)に宝永の大火が起こり、全山灰燼に帰し同年現在地で再建されました。
(第四の妙傳寺)
御真骨堂
本堂の左側に御真骨堂があり、日蓮上人の御真骨が奉安され、
一条家・四条家の位牌などが祀られています。
本堂の左
本堂と御真骨堂の間

聞名寺へ向かいます。
続く
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美術館別館-北
平安神宮から西へ進むと京都市美術館の別館があります。
美術館別館-南
南側に入口がありますが、現在は新型コロナの影響で臨時休館となっています。
昭和5年(1930)に建立された京都市公会堂東館で、
昭和35年(1960)からは京都会館別館として使用されてきました。
その後、平成12年(2000)に内部が全面改修され、京都市美術館別館となりました。
美術館-1
神宮道へ戻り、南へ進むと東側に京都市美術館があります。
昭和8年(1933)に開館した、公立美術館としては東京都美術館に次ぎ
日本で二番目に古く、昭和3年(1928)に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して
計画が始まったため、当初は「大礼記念京都美術館」と呼ばれていました。
敗戦後に駐留軍により接収され、昭和27年(1952)の接収解除時に
「京都市美術館」と改称されました。
美術館-ザ・トライアングル
平成29年(2017)4月10日から施設リニューアルのため休館し、令和元年(2019)10月に
竣工して令和2年(2020)3月21日に開館を予定されていましたが、新型コロナの影響で
5月26日まで延期されました。
また、京都市はリニューアルの費用捻出のため命名権の募集を実施し、
これに応募した伏見区に本社を置く京セラに売却されました。
再オープン時から50年契約の総額は50億円で、
その間は「京都市京セラ美術館」の名称が用いられます。
北西のガラス張りのエントランスは「ザ・トライアングル」と称されています。
空にかける階段
南西隅には山形県鶴岡市の出身で、京都市立美術大学彫刻科
(現・京都市立芸術大学)で学んだ彫刻家・富樫実(1931~2019)の作品
「空にかける階段'88-Ⅱ」が展示されています。
大鳥居
その西側に平安神宮の大鳥居が建っています。
昭和3年(1928)に京都で行われた昭和天皇即位の礼を記念して
昭和4年(1929)に建立されました。
高さは24.4mで、建立当時は日本一の高さを誇りました。
慶流橋
南側の疎水に架かる「慶流橋」は、明治28年(1895)3月15日に平安遷都1100年を
記念して開催された第四回・内国勧業博覧会会場の正門の橋として
同年4月1日に架橋されました。
近代美術館
橋の北詰めの西側に京都国立近代美術館があります。
昭和38年(1963)に 京都市勧業館別館を改装し、
東京の「国立近代美術館京都分館」として開館しました。
昭和42年(1967)に東京国立近代美術館から独立して「京都国立近代美術館」となり、
昭和61年(1986)に現在の建物が竣工しました。
府立図書館
北側に京都府立図書館があります。
明治42年(1909)に武田五一の設計によりレンガ造り3階建てで建設されました。
平成7年(1995)の阪神・淡路大震災で建物に深刻な被害が生じ、平成12年(2000)に
図書館が新築されましたが、前面部分は文化財的価値を考えて保存されました。
二宮尊徳
図書館の北東側には二宮尊徳の像が建立されています。
京都書籍雑誌商組合により、昭和15年(1940)11月に
紀元2600年奉祝記念事業として建立されました。
京都市電
その北側に旧京都市電の車両が保存されています。
明治28年(1895)に京都電気鉄道が、日本初となる一般営業用電車での路線を
伏見から京都駅前付近まで開業しました。
その後、同年開催の第四回・内国勧業博覧会の交通手段として
岡崎まで延伸されました。
明治45年(1912)から京都市も独自に路線建設がなされ、大正7年(1918)に
京都電気鉄道は京都市に買収されました。
「岡崎公園前」の電停があった東山線も明治45年(1912)に開業し、
昭和53年(1978)10月1日に廃止されました。
保存されている車両は昭和43年(1968)から同53年(1978)にかけて70両製造された
1800形の1860号です。
ワグネルの碑
西へ進むとドクトル・ゴットフリード・ワグネルの碑が建っています。
ドイツの数学物理学博士で、アメリカの企業が長崎で
石鹸工場を設立する際に来日しました。
しかし、工場は軌道に乗らずに廃止され、その後は佐賀藩に雇われて
明治2年(1870)年4月より8月にかけて有田町で窯業の技術指導にあたりました。
科学的手法による伊万里焼(有田焼)の近代化に影響を与えましたが、
同年11月頃には大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師として東京に移りました。
明治6年(1873)に開催されたウィーン万国博覧会では事務局御用掛となり、
博覧会への出品物、特に陶磁器などの選定や技術指導、
目録・説明の作成を行いました。
明治2年(1870)から明治14年まで続いた舎密局(せいみきょく)では京都陶磁器、
七宝、ガラスの製法などを指導し、京都の七宝に鮮明な色彩を導入しました。
この碑は、その功績を顕彰したものです。
勧業館
二条通まで戻り、西へ進むと南側に京都最大のイベント会場・
京都市勧業館があります。
京都では明治4年(1871)に日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。
これを機に京都府と民間によって京都博覧会社が創設され、翌明治5年(1872)に
西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会が開催されました。
京都博覧会社(後に京都博覧協会と改称)主催の京都博覧会は昭和3年(1928)まで
ほぼ毎年開催され、第二回~第九回まで
京都御苑内の仙洞御所などが会場となりました。
明治14年(1881)の第十回から京都御苑内の東南の一画に博覧会会場が常設されました。
明治30年(1897)に京都博覧会創設25周年記念として岡崎に博覧会会場が新設され、
明治44年(1911)に現在の京都市美術館に敷地に移築されました。
第一勧業館として使用されていましたが、
美術館建設のため昭和6年(1913)に撤去されました。
勧業館-モニュメント
大正2年(1913)に現在の敷地に第二勧業館が建設されましたが、
昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和12年(1937)に再建されました。
平成3年(1991)11月30日に閉鎖されて建て替えられ、平安建都1200年記念事業の
一環として平成8年(1996)に現在の建物が竣工し、
公募によって「みやこめっせ」が愛称に決定されました。
源氏物語
敷地には源氏物語の像が建立されています。
平成20年(2008)の「源氏物語千年紀」に、京都府石材業協同組合結成30周年記念事業の
一環として、石青会から京都市に寄贈されたそうです。
碑には『源氏物語』第十二帖「須摩の巻」で詠まれた贈答歌が記されています。
「身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の かけは離れじ」
(私の身はたとえ都を離れ、はるかな地をさまよったとしても、
この鏡に映った私の影はあなたのそばを離れることは決してありません)
との光源氏の歌に対し、紫の上は下記のように詠みました。
「別れても 影だに止まる ものならば 鏡を見ても 慰めてまし」
(たとえお別れしても、あなたの影がとどまっているのでしたら、
その鏡を見てお会いできない寂しさを慰めていることにいたします)
延勝寺跡
北西側には六勝寺の一つ、延勝寺跡の碑が建っています。
北西側には六勝寺の一つ、延勝寺跡の碑が建っています。
延勝寺は第76代・近衛天皇(在位:1142~1155)の勅願寺で、
久安5年(1149)に落慶供養が行われました。
当地からの東大路通の西端付近まで、東西二町、南北一町の広大な寺域を
有していましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後に廃絶しました。
京都会館
北側には京都会館があります。
京都府内で唯一2,000席の座席を越えるコンサートホールで、
昭和35年(1960)に開館しました。
施設の老朽化に伴い、平成24年(2012)3月に閉鎖され、
約110億円を投じて改修(一部は改築)されました。
平成28年(2016)1月10日にリニューアルオープンし、ロームに命名権が売却されて
「ロームシアター京都」と称されるようになりました。
平和の女神
西南の駐車場への入口の脇に建つ「平和の女神」の像。
昭和60年(1985)に京都会館の正面に建てられましたが、
改修後に現在地へ移されました。

妙傳寺へ向かいます。
続く
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応天門
満願寺から北に進んだ先の四つ角を左折して西へ進むと、
平安神宮の応天門前に出ます。
平安神宮の旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社に列せられ、
神仏霊場の第113番札所となっています。
毎年10月22日に行われる時代祭は、創建を記念して
平安京遷都の日に行われるようになりました。

平安神宮は明治28年(1895)3月15日に平安遷都1100年を記念して創建されました。
当時の京都は幕末の戦乱で市街地は荒廃し、更に東京奠都(てんと)で沈みきった
京都に活力を取り戻すため、同年4月1日から7月31日まで岡崎を会場として
第四回・内国勧業博覧会が開催され、
それに先立って平安神宮が創建されました。
社殿は平安京の大内裏の正庁である朝堂院を模し、
実物の8分の5の規模で復元されました。
但し、本来の朝堂院では長岡京のように、応天門の前の前の両側には
翔鸞楼(しょうらんろう)と栖鳳楼(せいほうろう)がありました。
平安京や長岡京では、大極殿・朝堂・朝集殿をまとめて朝堂院と呼ばれ、
本来は応天門を入ると左右に朝集殿がありました。
更にその前には会昌門があり、その門を入ると朝堂12堂が左右に並び、
龍尾壇へ至る構成となっていました。
平安京の造営が開始された翌年の延暦14年(795)に、現在の千本丸太町付近で
朝堂院が造営され、貞観18年(876)、康平元年(1058)に焼失し、延久4年(1072)に
再建されて『年中行事絵巻』に描かれていた朝堂院を再現したとされています。
その後、安元3年(1177)に焼失し、戦が頻発して平安京が荒廃したこともあり、
朝堂院の再建は成されませんでした。

応天門は5間3戸、二層の楼門で、創建当初のものであり、
国の重要文化財に指定されています。
応天門の左右の翼廊は昭和15年(1940)に建立され、
国の登録有形文化財となっています。
応天門-扁額
扁額
揮毫は、空海の書法を究めたとされる書家・宮小路康文(1800~1899)によるものです。
石灯籠
門の手前、右側には明治28年(1895)に建立された石灯籠が建ち、
その前には見かけることが少なくなった郵便ポストも残されています。
大極殿-1
門をくぐると正面に龍尾壇の石積があり、国の重要文化財に指定されています。
その奥に大極殿(外拝殿)があり、手前の右側(東側)に蒼龍楼、
左側に白虎楼があります。
神楽殿
龍尾壇の手前、右側には昭和15年(1940)に建立された神楽殿があり、
結婚式場として使用されています。
朝堂院の朝集殿を模したものとされ、国の登録有形文化財となっています。
平安時代の朝集殿は応天門を入った左右にあり、
参集した朝廷の臣下が開門の時刻まで待機した場所でした。
当時はこの先に会昌門があり、その門が開かれるまで
身づくろいなどしながら待機していました。
蒼龍の石像
手前には明治28年(1895)に奉納された龍の石像があります。
本来は水が湧き出し、手水として使われますが、
新型コロナの影響で水は止められています。
楽殿
龍尾壇の手前、左側には西の朝集殿を模した額殿があります。
昭和15年(1940)に建立され、国の登録有形文化財で、
現在は参集殿として使用されています。
白虎の石像
手前には白虎の石像があります。
龍尾壇
大極殿の手前には「龍尾壇( りゅうびだん )」と称される段差があります。
現在は龍尾壇の東西に石段が設置されていますが、
朝堂院では中央の一ヵ所にしかなく、その石段を登れるのは高い位階を任じられた
一部の貴族のみでした。 
蒼龍楼
龍尾壇を登ると右側に創建時の蒼龍楼があり、東歩廊と共に
国の重要文化財に指定されています。
高さ10mで、屋根の中央に二層の楼閣を載せ、四方に一層の楼閣が配されています。
白虎楼
左側には蒼龍楼と対を成す白虎楼があり、
同じく国の重要文化財に指定されています。
釣燈籠
釣燈籠は明治38年(1905)の日露戦争の戦勝を記念して奉納されました。
大極殿から応天門に至る各回廊と神楽殿・楽殿に145基が吊り下げられ、
火袋の窓に蒼龍・朱雀・白虎・ 玄武の四神があしらわれています。
大極殿-2
大極殿(外拝殿)は創建当時のもので、国の重要文化財に指定されています。
朱塗りの52本の円柱により支えられています。
内拝殿
この奥に内拝殿と更にその奥に本殿がありますが、昭和51年(1976)に放火によって
焼失し、全国からの募金により、昭和54年(1979)に再建されました。
祭神は、平城京から都を平安京へ遷した第50代・桓武天皇が祀られていましたが、
昭和15年(1940)に京都での最後の天皇である
第121代・孝明天皇も祀られるようになりました。
その際に本殿・祝詞殿・内拝殿・翼舎・神楽殿(儀式殿)・額殿・
内外歩廊斎館(祭典の為参篭する館)・社務所などが増改築され、
本殿は東西に2棟並ぶ形となりました。
昭和51年(1976)1月6日の放火によって本殿や内拝殿、翼舎など9棟が焼失しましたが、
東西の両本殿から御神体は運び出されて難を逃れました。
昭和54年(1979)に再建されましたが、本殿は1棟となりました。
大極殿-鴟尾
大極殿の大棟には両側に鴟尾(しび)が載せられていますが、平城京の大極殿に
見られた中央の宝珠に似せた飾りはありません。
左近の桜
左近の桜
大極殿前には向かって右に左近の桜、左に右近の橘が植栽されていますが、
平安京時代に植えられていたかは不明です。
右近の橘
右近の橘
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、
内裏の内郭を警護した役職です。
左近は紫宸殿の東方に、右近は西方に陣を敷き、その陣頭の辺に
植えられていたのでこの名があります。
八重紅枝垂桜
大極殿に神苑拝観の受付があります。
拝観料は600円で、神苑の入口は大極殿西の南北の回廊の中間辺りにあり、
大極殿から回廊を通って入口へ向かいます。
門を入った所に八重紅枝垂桜が植栽されています。
平安神宮が創建された明治28年(1895)に
初代仙台市長・遠藤庸治(えんどう ようじ:1849~1918)から寄進されました。
元は近衛家に伝承した「糸桜」を津軽藩主が持ち帰り、育てられたものが
京都へ戻ったことから「里帰りの桜」とも呼ばれています。
谷崎潤一郎は小説『細雪』で、姉妹が桜見物に訪れ、この神苑の桜が
京都で最も見事で美しいと記しています。

平安神宮の神苑は、総面積約33,000㎡(約10,000坪)の広大な池泉回遊式庭園で、
7代目・小川治兵衛らにより20年以上かけて作庭されました。
社殿を取り囲むように東・中・西・南の四つの庭からなり、
国の名勝に指定されています。
南神苑-遣水
最初に拝観するのが南神苑で、昭和44年(1969)の孝明天皇百年祭の記念事業として
平安時代の特色である野筋(のすじ=平安時代からの庭園用語で、
低い盛土でゆるやかな起伏をつけた小丘)と遣水(やりみず)が設けられました。
南神苑-草木
昭和56年(1981)には平安時代の代表的な文学書、竹取物語・伊勢物語・古今和歌集・
枕草子・源氏物語に登場する草木・約180種が植栽され、
「平安の苑(その)」と称されるようになりました。
南神苑-東屋
遣水は池へと注がれ、その池の畔には東屋があります。
電車
庭園の南側に日本最古の電車が保存されています。
明治28年(1895)1月31日に京都電気鉄道が、日本初となる一般営業用電車での路線を
伏見から京都駅前付近まで開業し、同年開催の第四回・内国勧業博覧会の
交通手段として鴨東線(おうとうせん)が敷設され、岡崎まで延伸されました。
狭軌1形の2号車で、路面電車として初の重要文化財に指定されました。
昭和36年(1961)7月に最後まで狭軌のまま残されていた北野線が廃され、
その当時の姿で保存されています。
電車-運転台
車体は梅鉢鉄工所、電動機はアメリカのゼネラルエレクトリック社製で、
昭和31年(1956)頃に神戸製鋼で修理が施されました。
電車-台車
2軸で開業当初の最高速度は12.9km/hとされ、市街地などの危険な区間では
電車の前を先行して人が走り、電車の接近を知らせました。
また、開業当初は停留所の概念がなく、電車は任意の場所で
乗降扱いを行っていたそうです。
南神苑-池
電車の前からの池です。
南神苑-内拝殿の屋根
西神苑へ入る手前を東へ登ると、内拝殿と思われる屋根の一部が見えます。
南神苑-校倉
その延長上に、詳細は不明ですが、校倉造りの建物があります。
西神苑-白虎池
下って順路を進むと白虎池があります。
池の西側に出島があり、睡蓮の花が咲いています。
西神苑-澄心亭
その手前左側の奥に茶室・澄心亭(ちょうしんてい)がありますが、
立ち入ることは出来ません。
西神苑-出島-1
白虎池へ戻って池の左側を進んだ出島には松が植えられています。
西神苑-出島-2
その2
西神苑-花菖蒲
北側の池の畔には、約200種類、約2,000株の花菖蒲が植栽されています。
6月には見頃となると思われます。
西神苑-花菖蒲-2
その2
西神苑-滝
池の北東側に滝があります。
中神苑への通路
滝上部の流れに沿って、本殿の裏側を中神苑へ向かいます。
中神苑-蒼龍池
中神苑の中央には蒼龍池があります。
中神苑-東屋
蒼龍池の南西側に東屋があります。
中神苑-池に張り出す松
北側の池へ張り出した松。
中神苑-臥龍橋
その松の先に珊瑚島へ渡るための臥龍橋があります。
7代目・小川治兵衛が、天正17年(1589)に豊臣秀吉が架けた三条と五条大橋の橋脚
(白川石)を使用して、龍が臥す姿を象って造り、「臥龍橋」と名付けられました。
中神苑-珊瑚島
珊瑚島
中神苑-地主神社-1
池の東側には地主神社があります。
中神苑-地主神社-2
大地主神(おおとこぬしのかみ)が祀られ、
創建時から東北鬼門の守護神とされてきました。
中神苑-カキツバタ
池の北西側に植栽されているカキツバタは、第119代・光格天皇の御遺愛で、
「折鶴」と命名されています。
中神苑-蒼龍池へのせせらぎ
中神苑の南側に東神苑があり、せせらぎで結ばれています。
栖鳳池
東神苑は明治末期から大正初期にかけて造られ、四神苑の中で最大の
栖鳳池(せいほういけ)があり、京都御所から移築された
橋殿・泰平閣が架けられています。
尚美館
池の西側の尚美館(しょうびかん)は、京都御苑内で開催された京都博覧会の中堂が
大正2年(1913)に移築されたものです。
京都では明治4年(1871)に日本最初の博覧会が西本願寺で行われました。
これを機に京都府と民間によって京都博覧会社が創設され、翌明治5年(1872)に
西本願寺・建仁寺・知恩院を会場として第一回京都博覧会が開催されました。
京都博覧会社(後に京都博覧協会と改称)主催の京都博覧会は昭和3年(1928)まで
ほぼ毎年開催され、第二回~第九回まで
京都御苑内の仙洞御所などが会場となりました。
明治14年(1881)の第十回から京都御苑内の東南の一画に博覧会会場が常設されました。
しかし、明治30年(1897)に岡崎で博覧会会場が建設されたため、
大正元年(1912)に修理し、翌年移築されました。
鶴島
池には鶴島と亀島があるとされ、こちらの島の松が鶴の首のように見え、
鶴島かもしれません。
その背後に重なって見えますが、亀島があります。
亀島
こちらが亀島と思われます。
取水口
池には琵琶湖疎水から水が引かれています。
そのため、池にはイチモンジタナゴなど琵琶湖固有の
淡水魚類や貝類などが棲息しています。
また、日本では非常に珍しいミナミイシガメなどの棲息も確認されています。
取水口からのせせらぎ
底から流れ出たせせらぎには、捩じれた松が見られます。
泰平閣
泰平閣の正面です。
泰平閣-鳳凰
近くで屋根の鳳凰を撮影しているとカラスが止まりました。
鯉に与えた餌を横取りした憎きカラスです。
平安会館
泰平閣の南側にも島が見え、背後に披露宴会場となる平安会館が見えますが、
関係者以外は南へ進むことが出来ません。
尚美館-正面
尚美館の正面です。
社務所
西側には社務所等がありますが、屋根には先ほどのカラスが後をつけてきました。
時代祭館への門
神苑を出て境内の南西側に門へ向かいます。
時代祭館
門を出ると土産物などの売店がある時代祭館十二十二(とにとに)がありますが、
新型コロナの影響で閉鎖されていました。

岡崎周辺を巡ります。
続く
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不明な建物
白河院から二条通を西へ進み、次の路地を北へ入るとクランク状に進み、
曲がった所に、付近の景観とは似合わない工場のようなレンガ造りの建物があります。
不明な建物-門
門構えからすると別荘の建物ようにも思え、調べてみようと考えています。
山門
そこから北上した先、東側に満願寺があります。
山号を「示現山(じげんざん)」と号する日蓮宗の寺院で、
京都御所から辰(東南東)の方角に当たる、洛陽十二支妙見の5番の札所です。
現在の山門は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
山門には山号の扁額「示現山」が掲げられています。
題目石塔
門の左側(北側)に「南無妙法蓮華経」と刻まれた題目石塔が建っています。
文子天満宮-鳥居
門を入った左側に文子(あやこ)天満宮があり、拝殿及び本殿は
京都市の文化財に指定されていますが、拝殿は倒壊しています。
菅原道真の乳母であった多治比文子(たじひのあやこ)は、延喜3年(903)に
道真が左遷された大宰府で亡くなった後に、「われを右近の馬場に祀れ」との
道真の託宣を受けました。
しかし、貧しくて社殿を建立することができなかった文子は、右京七条二坊の自宅に
小さな祠を建てて道真を祀り、これが北野天満宮の始まりであり、
天神信仰の発祥とされています。
文子の住居跡であった京都市下京区に道真と文子を祀る文子天満宮神社が創建され、
現在も残されています。
明治6年(1873)に文子天満宮は、右近の馬場があった
現在の北野天満宮の地に遷されました。
文子天満宮
また、文子天満宮は北野天満宮に遷される以前の天慶3年(940)に西ノ京に遷され、
北野朝日寺の僧・最珍を開基とし、道真の自作と伝わる天満自在天像を
安置する真言宗の寺院が満願寺の始まりとされています。
道真の託宣が多治比文子によって成就され、
道真の霊が示現したことから山号を「示現山」と称したと伝わります。
京都市上京区には文子天満宮舊址(きゅうせき)が残されています。
倒壊前の拝殿
こちらは平成29年(2017)8月参拝時の倒壊前の拝殿です。
鎮守社-鳥居
右側には鎮守社と思われる小さな祠があります。
鎮守社
詳細は不明ですが、祠の前にとぐろを巻く蛇の石像、
覆屋にも蛇の彫刻が施されています。
本堂
本堂は、江戸時代の元禄15年(1702)から宝永元年(1704)にかけて造営され、
京都市の文化財に指定されています。
満願寺は、元禄10年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、
妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、
元禄14年(元禄15年とも...)に現在の地に移りました。
元禄13年(1700)には第113代・東山天皇の勅願寺となっています。
本堂には、本尊である釈迦如来像及び多宝如来像が安置されています。
また、妙見菩薩像は当初、法勝寺塔頭の本光寺に安置されていたのですが、
安永3年(1774)に本光寺が焼失したために、満願寺に遷されました。
本堂のかご
本堂の軒下にはかごが吊るされています。
本堂のウサギ
本堂の屋根にはうさぎが...
妙経万部之塔
本堂の右前に見える石碑は、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を
記念する「妙経万部之塔」です。
経塔
境内の北東側には「経塔」と刻まれた石碑が建っています。
手水舎
本堂の右側、庫裡への参道脇に手水舎があり、現在地に移転した直後に
建立されたもので、京都市の文化財に指定されています。
庫裡
庫裡
俊寛僧都故居碑
庫裡の手前には「俊寛僧都故居碑」が建立されています。
俊寛僧都(しゅんかん そうず)は、後白河上皇の側近で、
法勝寺執行の地位にありました。
安元3年(1177)、平家の横暴に抗し、自らの鹿ケ谷の山荘
藤原成親西光らと平氏打倒の密議を行いました。
しかし、密告により陰謀は露見し薩摩国の鬼界島に流され、
その後、俊寛は死を決意して、食を断ち自害したと伝わります。
鐘楼
向かいには元禄16年(1703)に建立された鐘楼があり、
京都市の文化財に指定されています。
閼伽井天
右側に「閼伽井天」が祀られ、その脇に法勝寺で使われていたと
伝わる井戸が残されています。
俊寛の荒行井戸
この井戸は、「俊寛の荒行井戸」とも呼ばれていました。
祖師堂
庫裡の左側に祖師堂があり、本妙寺分身の日蓮像が安置されています。
溝口健二之碑
祖師堂前の参道脇に映画監督「溝口健二之碑」が建立されています。
当時の大映社長の永田雅一氏が満願寺を菩提寺としていた縁から、
境内に建てられたそうです。
溝口健二は、昭和9年(1934)、永田雅一が設立した第一映画社に参加し、
その後の変遷を経て、昭和30年(1955)に当時、永田雅一が社長だった
大映の取締役に就任、重役監督となりました。
同年11月3日には映画監督として初の紫綬褒章を受章しましたが、
翌年、次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩し亡くなりました。
大阪物語の碑
「溝口健二之碑」の横に「大阪物語」の碑が建てられています。
こちらは平成11年(1999)の市川準監督「大阪物語」のあらすじです。

平安神宮へ向かいます。
続く
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