2021年06月

南口鳥居
南口鳥居です。
さざれ石
南口鳥居をくぐった左側(西側)に「さざれ石」が祀られています。
相生社
その北側に相生社(あいおいのやしろ)があり、縁結びの神とされている
神皇産霊神(かみむすびのかみ)が祀られています。
相生社-夫婦像
北側には夫婦らしき石像が祀られています。
連理の賢木
南側には神木の「連理の賢木(れんりのさかき)」と呼ばれる
2本の木が立っています。
鴨の七不思議の一つとされ、2本の木が途中から1本に結ばれています。
相生社-参拝法-1
相生社で縁結びの祈願を行うには特別の作法があるようで、
社殿前にその方法が記されています。
その1
相生社-参拝法-2
その2
楼門
楼門は高さ13mで、東西の回廊とともに江戸時代の寛永5年(1628)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
楼門は三間一戸の入母屋造で檜皮葺(ひわだぶき)です。
入母屋造は切妻造と寄棟造を組み合わせた屋根の形式で、寄棟造の屋根の上に
切妻造の屋根を載せた形で、切妻造の四方に庇(ひさし)がついています。
日本では古くから切妻造は寄棟造よりも格式が上とも言われ、
それらの組み合わせた入母屋造は最も格式が高いとされています。
以前は21年ごとの式年遷宮で造り替えられてきましたが、
寛永の遷宮以降は解体修理を行い、保存されています。
式年遷宮は、平安時代の長元9年(1036)に第1回が行われました。
この頃、京都では天候不順による農作物の不作や鴨川の氾濫、
飢饉や疫病が蔓延し、政情不安に陥っていました。
朝廷が下鴨神社で祈願したところ沈静したことから、
成就した報恩として式年遷宮が行われました。
剣の間
西回廊の床張りの一間は「剣の間」と呼ばれ、賀茂祭(葵祭)の時、
勅使がここで剣を解かれます。
葵祭の起源は、欽明天皇28年(567)に天候不順で五穀が実らず、
疫病が流行したのは賀茂大神の祟りとされ、祟りを鎮めるため、
勅命により4月の吉日に祭礼を行ったのが始まりとされています。
馬には鈴をかけ、人は猪頭(ししがしら)をかぶって駆競(かけくらべ)を
したところ、風雨はおさまり、五穀は豊かに実って国民も安泰になったと伝わります。
弘仁10年(819)には、朝廷の律令制度として、最も重要な
恒例祭祀(中紀)に準じて行うという国家的行事になりました。
勅使が通る楼門は楼門の屋根を越えるように鏑矢(かぶらや)を放つ
歩射神事(ぶしゃしんじ)屋越式(やごししき)によって邪気が祓われます。
歩射神事は葵祭・路頭の儀に先立って、
葵祭の沿道を弓矢を使って祓い清める魔よけの神事です。
舞殿
正面の舞殿(まいどの)は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立された
入母屋造、檜皮葺の建物で、国の重要文化財に指定されています。
葵祭の時、勅使が御祭文(ごさいもん)を奏上され
舞曲・東遊(あずまあそび)が奉納されます。
御祭文の用紙は『延喜式』に記されており、伊勢神宮が縹(はなだ)色、
賀茂社は紅(くれない)色、石清水八幡宮などは黄色と定められています。
また、御所が被災したとき、臨時の内待所と定められていました。
橋殿-1
東側の橋殿は、江戸時代の寛永5年(1628)に建立され、
国の重要文化財に指定されています。
橋殿-2
御手洗川の上に建立されており、御陰祭では御神宝が奉安される御殿です。
古くは御戸代会神事(みとしろえしんじ)、奏楽、里神楽、
倭舞(やまとまい)が行われていました。
御戸代会神事は秋の収穫を前に五穀豊穣、天下泰平を祈願した平安時代に
行われていた神事で、現在では名月管弦祭として引き継がれています。
また、正月神事など年中祭事の際に神事芸能が奉納されます。
細殿
橋殿の奥に寛永5年(1628)に建立され、国の重要文化財に指定されている
細殿があります。
歴代天皇の行幸、法皇、上皇、院の御幸の行在所(あんざいしょ)で、
行幸の際は歌会・茶会などが行われました。
第112代・霊元天皇が行幸した際に内侍所(ないしどころ)の
奉安所(たいあんしょ)になり、第121代・孝明天皇の行幸に際には
江戸幕府14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)の
侍所(さむらいどころ)にもなりました。
揺拝所
南側に伊勢神宮の揺拝所が隣接しています。
細殿-解除所
細殿の北側に解除所(げじょのところ)があります。
解除所では、天皇の行幸や官祭などの際に解除(祓い)が行われました。
鴨社直会殿泉始聲-1
奥へ進むと鴨社直会殿泉始聲(かもしゃなおらいでんせんせい)がありますが、
通常は非公開です。
鴨社直会殿泉始聲-2
平安時代より、天皇が即位されて初めて行なう新嘗祭(にいなめさい)は、
「大嘗祭(だいじょうさい)」と称され、その際建立された
饗応殿(きょうおうでん)が下賜され、当地で直会殿として移築されてきました。
直会とは、神事の最後に神饌や神酒を参加者一同で分かち、飲食する行事です。​
老朽化により昭和23年(1948)に破却された後、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として再興されました。
平成5年(1993)に行われた伊勢神宮の第61回式年遷宮で五丈殿の撤下を受け、
再興されました。
庭園には紫式部という、マツヅラ科の落葉低木が植栽され、
「紫式部の庭」として復元されているそうです。
井上社
北側に御手洗池があり、奥に瀬織津姫(せおりつひめ)を祀る
井上社(御手洗社)があります。
瀬織津姫は、水神や祓神であり、人の穢れを早川の瀬で浄めるとされ、
賀茂斎院の御禊や解斎(げさい)、関白賀茂詣の解除(げじょ)の際に
参拝されました。
元は唐崎社と呼ばれ、高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座していましたが、
応仁・文明の乱(1467~1477)により文明2年(1470)に焼失したため、
文明年間(1592~1596)に現在地に再建されました。
井戸の井筒の上に祀られたことから井上社と呼ばれるようになり、
寛永年度(1692)に行われた式年遷宮より官営神社となりました。

御手洗池では、賀茂祭に先立つ斎王の御禊の儀が行われ、
土用の丑の日には、御手洗池に足を浸し、疫病や病封じを祈願する
「足つけ神事」が行われています。
土用になると御手洗池から清水が湧き出ると伝わり、
鴨の七不思議の一つに数えられています。
池底から自然に湧き上がる水泡をかたどったのが「みたらし団子」の発祥と
伝えられています。
輪橋-1
下流側に「輪橋(そりはし)」が架かっています。
鳥居の背後に見えるのが橋殿です。
輪橋-2
輪橋-その2
光琳の梅
輪橋の西側に植栽されている梅は、「光琳の梅」と呼ばれています。
尾形光琳(1658~1716)が描いた国宝の「紅白梅図屏風」がこの辺りとされることから
呼ばれるようになりました。
中門
境内の北側に中門、その左右に雅楽を奏した楽屋(がくのや)があります。
ともに寛永5年(1628)に建立され、国の重要文化財に指定されています。
十二支の社
門を入った本殿前の前庭は「えと詣」と称され、えと(十二支)の社が祀られています。
いずれも大国主命の別名で、言霊の働きによって呼び名が変わります。
一言社
門の正面に当たる所の背中合わせの社殿は「一言社」と称せられています。
左側(西側)には顕国玉神(うつしくにたまのかみ)が祀られ、
午(うま)年生まれの守護神とされています。
右側(東側)には大国魂神(おおくにたまのかみ)が祀られ、
巳・未年生まれの守護神とされています。
二言社
境内の右側(東側)の社殿は「二言社(ふたことしゃ)」と称せられ、
むかって右側(南側)には大国主神が祀られ、子年生まれの守護神とされています。
左側(北側)には大物主神が祀られ、丑・亥年生まれの守護神とされています。
三言社
境内の左側(西側)の社殿は「三言社(みことしゃ)」と称せられています。
向かって右側(北側)には志固男神(しこおのかみ)が祀られ、
卯・酉年生まれの守護神とされています。
中央には大己貴神(おおなむちのかみ)が祀られ、
虎・犬年生まれの守護神とされています。
左側(南側)には八千矛神(やちほこのかみ)が祀られ、
辰・猿年生まれの守護神とされています。
本殿
本殿拝所
東本殿には玉依姫命(たまよりひめのみこと)、
西本殿には賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が祀られています。
賀茂建角身命は、神産巣日神(かみむすびのかみ)の孫で、神武東征の際に
高御産巣日神(たかみむすびのかみ)と天照大御神の命を受け、
日向の曾(そ)の峰に天降り、八咫烏(やたがらす)に化身して神武天皇を
大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。

玉依姫命は賀茂建角身命の御子神で、鴨川で禊をしていた時、
上流より流れ来た丹塗の矢を拾われて床に置いていました。
丹塗矢は、火雷神(ほのいかづちのかみ)の化身であり、後に
賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと=上賀茂神社の祭神)を出産しました。
下鴨神社が賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)と称されるのは、
上賀茂神社の祖父と母を祀ることによるものです。
三井社-1
本殿との並びの左側に三井神社があります。
三井神社も本宮と同じように周囲を玉垣で囲われ、正面に棟門があり、
門を挟んで東西の廊下があります。
三井社-配置図
寛永6年(1629)に造営され、全ての建物が国の重要文化財に指定されています。
『風土記』山城国賀茂社の条に「蓼倉里三身社(たてくらのさとみつみのやしろ)」、
『延喜式』には「三井ノ神社」と記されています。
奈良時代から平安時代にかけて、下鴨神社が位置する辺り一帯は
蓼倉郷と呼ばれていました。
三井社-2
正面に拝殿があり、その奥に向かって右の東社に伊可古夜日売命
(いかこやひめのみこと)、中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
左の西社に玉依媛命(たまよりひめのみこと)の三神が祀られていることから
「三身社」とも称されました。
賀茂建角身命と伊可古夜日売命は夫婦で、玉依媛命はその御子神です。

西側の末社は奥(北)から諏訪社【祭神:建御名方神 (たけみなかたのかみ)】
小社社【祭神:水分神(みくまりのかみ)】
手前(南)が白髭社【祭神:猿田彦神】です。
平安時代の『鴨社絵図』に描かれており、現在の配置もその絵図と変わりはありません。
三井社-白玉椿の木
三井神社の前に白玉椿の木が植栽されています。
江戸時代の寛政5年(1753)に第119代・光格天皇が参拝された際に奉納されたもので、
雪の白さに匹敵する花を付けることから「擬雪(ぎせつ)」と名付けられました。
同椿は三井家にも保存されていて、平成27年(2015)の第34回式年遷宮で三井社の
修理が行われた際に、枯れ死した先代に代り新たに三井グループによって
奉納されました。
神福殿
三井神社の前方(南側)に、寛永5年(1628)度の式年遷宮で造り替えられ、
国の重要文化財に指定されている神福殿(しんぷくでん)があります。
かって、夏・冬の御神福を奉製する御殿であったことが
その名の由来になっています。
近世以降は勅使殿または、着到殿となり、
古来殿内の一室が行幸の際は玉座となりました。
北西にある一室が「開かずの間」として伝えられ、御所が被災の際は
臨時の御座所と定められています。
江戸時代の安政元年(1854)に発生した南海トラフの大地震では
第121代・孝明天皇が移ったとの記録が残されています。
媛小松
神福殿の左側に媛小松(ひめこまつ)が植栽されています。
寛平元年(889)11月から賀茂祭で東遊(あずまあそび)が奏されたとあり、
その二段目「求め子」で詠われる藤原敏行の歌、
「ちはやぶる 鴨の社の姫小松 よろず世ふとも色はかはらじ」に因むものです。
「媛」の字が使われているのは、祭神の玉依媛命によるものです。
媛小松-解除所
媛小松の前にも解除所(げじょのところ)があります。
供御所
神福殿の裏側(西側)に寛永5年(1628)度の式年遷宮で造り替えられ、
国の重要文化財に指定されている供御所があります。
御所内は東、中、西の三間に分かれています。
東の間は、供御所で神饌を調理する所、中の間は贄殿(にえどの)で
魚介鳥類を調理する所、西の間は侍所(さぶらいどころ)で神官などが参集し、
直会(なおらい)、勧盃(かんぱい)の儀などが行われます。
直会とは、祭りの終了後に、神前に供えた御饌御酒(みけみき)を
神職をはじめ参列者の方々で戴くことをいいます。
古くから、お供えして神々の恩頼(みたまのふゆ)を戴くことができると
考えられてきました。
この共食により神と人とが一体となることが、直会の根本的意義である
ということができます。
出雲井於神社-1
供御所の南側に出雲井於神社(いずもいのへのじんじゃ)があり、
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
『日本書紀』に「葛野主殿県主部(かどのとのもりあがたぬしべ)
とある人々が祖神として祀った神社」とされています。
その後、文武4年(700)にほぼ完成した大宝令(たいほうりょう)以降、
山代国葛野郡は四つに分割され、鴨川と高野川の合流点より東山・北山までの
地域が愛宕郡(おたぎぐん)となり、賀茂川の東岸が蓼倉郷(たでくらごう)、
西岸が出雲郷となりました。
「井於(いのへ)」とは、賀茂川の畔のことで、出雲郷の鴨川の畔の神社
との意味になります。
厄年に神社の周りに献木すると、ことごとく「柊(ひいらぎ)」となって
願い事が叶うことから「何でも柊」と呼ばれ、
「鴨の七不思議」の一つに数えられていました。
そのことから柊神社、比良木神社(ひらきじんじゃ)とも呼ばれました。
出雲井於神社-2
現在の社殿は、寛永6年(1629)の式年遷宮の時、天正9年(1561)に造営された
賀茂御祖神社本殿が移築されたもので、下鴨神社の中では
最も古い社殿になり、国の重要文化財に指定されています。

境内末社は、北社が岩本社で住吉神が祀られ、南社の橋本社には
玉津島神(たまつしまのかみ)が祀られています。
社殿はともに重要文化財に指定されています。
御車舎
三井神社の方へ戻り、西へ進むと大炊殿(おおいどの)があり、
神饌のための御料を煮炊き、調理する場所でした。
文明2年(1470)、応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失する以前には、
魚介鳥類を調理する贄殿(にえどの)もありましたが、
現在は大炊殿のみが再建されています。
井戸の「御井(みい)」があり、神饌の御水や若水神事などの際に用いられ、
国の重要文化財に指定されています。

西側に御車舎があり、葵祭の牛車が置かれています。
敷地内には「葵の庭」が再興されています。
かって庭には、下鴨神社の社紋である双葉葵が自生していました。
徳川家の家紋三つ葉葵は、この双葉葵に一葉加えて回転させたものです。
場内へは秀穂舎(しゅうすいしゃ)と鴨長明資料館との共通拝観券(500円)で
拝観できるそうですが、秀穂舎が閉まっていたため、拝観は後日とします。
大炊殿氷室
西側には大炊殿氷室がありますが、門は閉じられ、
大炊殿と一緒に拝観できるかは不明です。
下鴨神社では旧暦六月一日を「氷の朔日」と呼び、氷室を開いて氷を宮中に献上し、
無病息災を祈願してお祓いをする「氷室神事」が行なわれていました。
かっては二カ所あったそうで、戦時中は改造して防空壕として使用されていました。
終戦後、長らく放置されていましたが、糺の森整備事業の一環として
一カ所が再現されました。
印納社
更に西へ進むと末社の印納社(いんのうのやしろ)があり、
印璽大神(おしでのおおかみ)と倉稲魂神(くらのいなたまのかみ)が
祀られています。
御本宮の御垣内に古くから祀られてある印璽社(おしでのやしろ)の
祭神が祀られ、古印が納められています。
かって、この地一帯は平安時代初期より室町時代まで賀茂斎院御所があった
由緒地でした。
応仁・文明の乱(1467~1477)により賀茂斎院御所は焼失し、賀茂斎院も
第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(れいし/いやこないしんのう:1200~1273)が
第35代・斎院を退下したのを最後に承久の乱の混乱と皇室の資金不足で廃絶したため、
御所が再建されることはありませんでした。
愛宕社
その西側に末社の愛宕社(おたぎしゃ=東社)と稲荷社(西社)があります。
愛宕社は古くは賀茂斎院御所の守護神として御所内に祀られていました。
祭神は火伏せの神とされる火産霊神(ほむすびのかみ)ですが、
かっては贄殿神(にえどののかみ)、酒殿神(さかどののかみ)、
奈良殿神(ならどののかみ)が祀られていました。

稲荷社は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が祀られ、
古くは「専女社(とうめのやしろ)」と呼ばれていました。
賀茂斎院御所内の忌子女庁屋(いんこのめちょうや)の守護神として
庁屋の池庭の中島に祀られていました。
忌子女とは御蔭神社の御生神事(みあれしんじ)で奉仕する巫女のような存在と
思われますが、詳細は不明です。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失後、
愛宕社と相殿として旧地に祀られるようになりました。

西口を出て、更に西へ進み出雲路橋へ向かいます。
続く
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三角州
加茂大橋からの光景です。
右の高野川と左の加茂川が合流して鴨川となります。
三角州の奥に見える森は「糺の森(ただすのもり」と称される原生林で、
その中に旧三井家下鴨別邸やその奥に下鴨神社があります。
糺の森の「ただす}の由来には諸説ありますが、
かって、木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ=蚕の社)で
行われていた潔斎(けっさい)の儀に由来しているのかもしれません。
第52代・嵯峨天皇の御代(809~823)にその場が、糺の森へ遷されたことにより、
蚕の社に「元糺」の言葉が残されています。
平安京が造営された当時、糺の森は約495万㎡でしたが、応仁・文明の乱(1467~1477)の
戦乱で総面積の7割を焼失し、明治時代初期の上知令による寺社領の没収などを経て、
現在の約12万4千㎡(東京ドームの約3倍)の面積となりました。
平安時代やそれ以前の植物相をおおむね留めている原生林であり、
国の史跡に指定されています。
高野川の上流に下鴨神社の祭神・賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が
降臨したとされる御蔭山があります。
加茂川の上流には賀茂建角身命の孫神を祀る上賀茂神社があります。
社号標
京阪と叡山電鉄の出町柳駅の西、高野川に架かる河合橋を渡り、
その先で右折して北上した所に社号標が建っています。
下鴨別邸-入口
その先の鳥居の手前、左側(西側)に旧三井家・下鴨別邸への入口があります。
庭を愛でながら食事やスィーツなどが楽しめます。
下鴨別邸
三井家の始まりは近江国に土着した武士で、
六角氏に仕えるようになったとされています。
織田信長の上洛により六角氏は滅ぼされ、三井氏は逃亡して伊勢国の津付近から
松坂近くの松ヶ島へ居を移しました。
慶長年間(1596~1615)には三井高俊(みつい たかとし:?~1633)が武士を廃業して
松坂に質屋兼酒屋を開き、「越後殿の酒屋」と呼ばれました。
寛永年間(1624~1645)の初め頃、高俊の嫡男・俊次は江戸本町四丁目に
小間物店を開き、後に呉服も手掛けるようになりました。
高俊の四男・高利(たかとし)は俊次の元で手代同様に働きながら
経験を積んでいましたが、母の看病のため松坂へ帰ることとなりました。
延宝元年(1673)に俊次が病死したのを機に高利は、息子たちに指示して
江戸本町一丁目に「三井越後屋呉服店」を開業しました。
これまでの慣習を破った新商法により店は栄え、京都に仕入れの店も開きました。
天和3年(1683)に店舗を拡張して両替店を開き、貞享3年(1686)に高利は本拠を松坂から
京へ移し、京都にも両替店を開店しました。
江戸・大阪間に為替業務を開設し、幕府の御用為替方となりました。
高利は元禄7年(1694)に73歳で亡くなり、真如堂で葬られました。
以後、真如堂は三井家の菩提寺となりました。
高利没後、その遺産は嫡男・高平以下子供たちの共有とされ、各家は元禄7年(1694)に、
家政と家業の統括機関である「三井大元方」を設立しました。
その後、「三井十一家」と称される同族の11家が一体となって
三井家を盛りたてました。
下鴨別邸-玄関
高利の長男・高平(1653~1737)は宝永元年(1673)に江戸での呉服店に開業を高利に
願い出て、江戸本町一丁目で「三井越後屋呉服店」を開業しましたが、
高平の当初の役割は京都での仕入れでした。
元禄4年(1691)には家族を呼び寄せ、三井総領家の「北家」と称された油小路二条下ルに
屋敷を構えました。
その8代目の三井高福(みつい たかよし:1808~1885)は、
三井銀行と三井物産を創業し、明治13年(1880)の引退に際して木屋町三条上ルに
「木屋町別邸」を建造しました。
10代目の高棟(たかみね:1857~1948)は、明治39年(1906)に麻布区今井町
(現・東京都港区六本木)に大邸宅の「今井町邸」を建設した他、
「下鴨別邸」を建造しました。
明治31年(1896)に約2万㎡の土地を購入し、木屋町別邸の建物を
主屋として移築し、玄関棟が新たに建築されて大正14年(1925)に完成しました。
明治42年(1909)に高利の祖父・高安の300回忌に合わせて蚕の社にあった
三井家の祖霊社・顕名霊社(けんなれいしゃ)が下鴨へ遷座されたのに伴い、
その参拝の休憩所としても使用されました。

戦後、三井財閥は解体され、顕名霊社は油小路邸へ遷され、
下鴨別邸は昭和24年(1949)に国に譲渡されました。
平成19年(2007)までは隣接する京都家庭裁判所の所長宿舎として
使用されていましたが、
平成23年(2011)に国の重要文化財に指定されたのに伴い、約4年間にわたる工事を経て、
平成28年(2016)10月1日から一般公開されるようになりました。
拝観料は500円で、京都市内在住の70歳以上や
市内の小・中学校に在学する生徒は無料となります。
秀穂舎
参道を北上すると泉川に架かる橋があり、その手前の右側(東側)に
秀穂舎(しゅうすいしゃ)がありますが閉門中でした。
第三十四回式年遷宮の折に、下鴨神社の神職(学問所画工)が住んでいた社家
旧浅田家住宅を改修して開館した資料館で、
下鴨神社所蔵の資料などが展示されていますが、当日は閉門されていました。
秀穂舎-華表門
表門は「華表門(かひょうもん)」と称されています。
「華表」とは鳥居のことで、門は鳥居をかたどっており、
下鴨神社の社家に多く見られるそうです。
秀穂舎-石人文官
門の前に立つ石像は「石人文官(せきじんぶんかん)」と称されています。
下鴨神社への参道の一帯は、神職の屋敷街で、
このような石像が、その証となったそうです。
泉川
裏には泉川が流れ、流れに面にして禊場があります。
御蔭通
更に北上すると、表参道を御蔭通が横切っています。
毎年、5月15日の賀茂祭(葵祭)に先だって、
5月12日には御蔭祭(御生神事=みあれしんじ)が御陰神社で行われます。
社伝では御陰神社のある地に、下鴨神社の祭神・賀茂建角身命
(かもたけつぬみのみこと)が降臨したとされ、神霊が御陰神社から
下鴨神社へと遷されます。
その祭列が通ることから「御陰通」と名付けられました。
御蔭祭の起源は、第2代・綏靖天皇(すいぜいてんのう)の
時代(BC581~BC549)と伝わります。
世界遺産の碑
御陰通を横断すると表参道の脇に「世界文化遺産」の碑が建立されています。
下鴨神社は、平成6年(1994)に「古都京都の文化財」の構成遺産として
ユネスコの世界遺産に登録されました。
下鴨神社は正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」と称され、
山城国一宮で、旧社格は官幣大社、現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
神仏霊場の第101番札所でもあります。
表参道
表参道の少し離れた東側には泉川、西側には「瀬見の小川」が流れています。
紅葉橋
直ぐ先の左側に「紅葉橋(もみじばし)」が架けられています。
こがらし社跡
下を流れるのが「瀬見の小川」で、下流側には禊場らしきものが見られます。
無社殿地唐崎社(からさきのやしろ)紅葉橋揺拝所かと思われます。
唐崎社は高野川と賀茂川の合流地の東岸に鎮座し、
瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)が祀られ、賀茂祭の解除(げじょ=お祓い)の
社とされていましたが、応仁・文明の乱(1467~1477)で社殿が焼失しました。
元禄7年(1694)、御手洗池に井上社として再建され、
明治4年(1871)に唐崎社の旧社地は上地令の対象となりました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として紅葉橋揺拝所が再興されました。

また、紅葉橋の辺りに雨乞いを祈る「こがらし社」がありました。
願いが叶うと泉川の小石が飛び跳ねたとの伝承が残され、
鴨の七不思議の一つに数えられています。
表参道の東に泉川が流れているので
「こがらし社」は、もう少し東にあったのかもしれません。
河合神社-鳥居
橋を渡るとその先に鳥居が建っています。
河合神社の東側鳥居で、先に見えるのが西側鳥居です。
西側鳥居から北へ延びるのが旧馬場ですが、現在は舗装されています。
河合神社-三井社
鳥居をくぐると左側(南側)に三井社があります。
三井社は「三塚社」とも呼ばれ、社殿前に立つ駒札には「古い時代の下鴨神社は、
古代山代国・愛宕(おたぎ)、葛野郷(かずぬごう)を領有していた。
その里には下鴨神社の分霊社が祀られていた。
この社は、鴨社蓼倉郷(たてくらごう)の総(祖)社として祀られていた神社。
摂社・三井神社の「蓼倉里三身社」とは別の社。」と記されています。

鴨社蓼倉郷の現在地を特定するのは困難ですが、下鴨神社の北部に
「左京区下鴨蓼倉町」の地名が残されています。
また、東部の高野川を越えた所に高野蓼倉町の地名も見られます。

祭神は中社に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、
東社に伊賀古夜媛売命(いかこやひめのみこと)、
西社に玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られています。
伊賀古夜媛売命は賀茂建角身命の妻で、玉依媛売命は子ですが、
豊玉姫の妹ではなく、一般に巫女を指す名とされています。
河合神社-山門
三井社の前に下鴨神社・第一摂社である河合神社の神門があります。
創建は初代・神武天皇の御代(BC660~BC585)とされています。
河合神社-社殿
社殿の配置図
河合神社-拝殿
拝殿
正式には「鴨川合坐小社宅神社(かものかわいにいますおこやけのじんじゃ)」と
称され、平安時代の延長5年(927)に編纂された『延喜式』
「神名帳」にその名が記されています。
「小社宅(こそべ)は、『日本書紀』では「社戸(こそべ)」とも記され、
本宮・賀茂御祖神社の祭神と同じ神々との意味があります。
河合神社-本殿
本殿
天安2年(858)に名神大社に列し、元暦2年(1185)には正一位の神階に列せられ、
明治10年(1887)に賀茂御祖神社の第一摂社となりました。
現在の社殿は延宝7年(1699)に行われた式年遷宮の古社殿が修造されたものです。

祭神は玉依媛売命(たまよりひめのみこと)で、初代・神武天皇の母神で、
より美しなりたいという願望と縁結びを叶え、
更には安産や子育ての神とされています。
河合神社-鏡絵馬
右側に、多数の鏡絵馬が奉納されています。
河合神社-鏡絵馬-描き方
玉依姫命は美貌の持ち主とされ、美貌成就を祈願して奉納されています。
河合神社-貴布禰社
左側に貴布禰神社(きふねじんじゃ)があり、
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
応保元年(1161)収録の『神殿屋舎等之事』に、
河合神社の御垣内に祀られていたことが記載されています。
河合神社-任部社
その左に任部社(とうべのやしろ)「古名 専女社(とうめのやしろ)」があり、
八咫烏命(やたがらすのみこと)が祀られています。
河合神社創祀のときより祀られています。
古名の「専女」とは、稲女とも書き
食物を司る神々が祀られていたことを示しています。
鎌倉時代末期に成立した『百練抄(ひゃくれんしょう』の
安元元年(1157)十月二十六日の条にある「小烏社」と合祀され、
この時より祭神が八咫烏命に改められたと推察されています。
八咫烏は、下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされ、神武東征では神武天皇を大和・橿原の地まで先導したとされています。
その後、『山城国風土記』(逸文)によれば、大和の葛木山から山代の岡田の
賀茂(岡田鴨神社がある)に至り、葛野河(高野川)と
賀茂河(鴨川)が合流する地点に鎮まったとされています。

昭和6年(1931)、八咫烏命が日本の国土を開拓された神の象徴として
日本サッカー協会のシンボルマークとなって以来、サッカー必勝の守護神となり、
サッカーボールが多数奉納されています。
河合神社-鴨長明資料館
西端には鴨長明資料館があります。
大炊殿(おおいどの)と秀穂舎(しゅうすいしゃ)との共通拝観券(500円)で
拝観できるそうですが、秀穂舎が閉まっていたため、拝観は後日とします。
河合神社-六社
境内の左側(西側)には六社(むつのやしろ)があり、右側から
諏訪社[祭神:建御方神(たけみなかたのかみ)]、
衢社(みちしゃ)[祭神:八衢毘古神(はちまたひこのかみ)、
八衢比賣神(やちまたひめのかみ)]、
稲荷社[祭神:宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)]、
竈神(かまどのかみ)[祭神:奥津日子神(おくつひこのかみ)、
奥津比賣神(おくつひめのかみ)]、
印社(いんしゃ)[祭神:霊璽(れいじ)]、
由木社(ゆうきしゃ)[祭神:少彦名神(すくなひこなのかみ)]が祀られています。
建仁元年(1201)の第八回、新年遷宮のために描かれたとみられる
「鴨社古図」によると、河合神社の御垣内にそれぞれ別々に祀られていましたが、
江戸時代の式年遷宮のとき各社が一棟となっていました。
いずれも、衣食住の守護神です。
河合神社-鴨長明方丈
境内の右側(東側)には鴨長明の方丈が再現されています。
鴨長明は久寿2年(1155)、下鴨神社最高位の地位にある
正禰宜(しょうねぎ)惣官(そうかん)、鴨長継(かものながつぐ)の
次男として誕生しました。
元久元年(1204)、かねてより望んでいた河合社(ただすのやしろ)の禰宜の
職に欠員が生じたことから、長明は就任を望み後鳥羽院から推挙の内意も得ました。
しかし、賀茂御祖神社・禰宜の鴨祐兼(すけかね)が長男の
祐頼(すけより)を推して強硬に反対したことから、長明の希望は叶わず、
神職としての出世の道を閉ざされました。
その後、長明は出家し、東山に次いで大原、晩年は京の郊外・日野山
(京都市伏見区日野町)に方丈を結んで隠棲し、
建暦2年(1212)に『方丈記』を著しました。
『方丈記』は、長明が庵内から当時の世間を観察し、書き記した記録であり、
日本中世文学の代表的な随筆とされ、約100年後の『徒然草』、
『枕草子』とあわせ「日本三大随筆」とも呼ばれています。
馬場
河合神社の東の鳥居を出ると、北側へと馬場が伸びています。
毎年、5月3日に行われる流鏑馬神事では、勇壮に馬が駆け抜け、
馬上から的にめがけて矢が放たれます。
瀬見の小川
「瀬見の小川」は馬場に沿って流れています。
河崎社-1
馬場を北上すると左側(西側)奥に末社の河崎社(こうさきのやしろ)があります。
河崎社-2
承和11年(844)に山城国粟田郷(あわたごう)が賀茂御祖神社の社領と制定され、
現在の知恩寺付近の山城国粟田郷河崎里に創建されました。
知恩寺には現在でもその名残として加茂明神鎮守堂が残されています。
京都大学から田中神社一帯にあった、鴨長明一族の鴨氏の集落・鴨村の社でした。
その後、度重なる兵火を受け、集落は鴨社神館御所跡へ移住し、
河崎社も天明5年(1785)に御所跡へ遷座されました。
大正10年(1921)に京都市都市計画法により、河崎社境内が下鴨本通となり、
鴨社神宮寺跡の賀茂斎院歴代斎主神霊社へ合祀されました。
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜の始祖神が祭神として祀られています。
糺の池
背後には糺の池が復元されていますが、まだ整備中で立入が禁止されています。
二十二所社
北側に隣接して摂社の二十二所社があります。
創祀されたのは不詳ですが、元々この鴨社神宮寺境内に祀られていました。
正徳元年(1711)の第24回式年遷宮により造替えされ、
末社・雄太夫社と相殿となりました。
明治10年(1877)3月21日に摂社七社の内、第六社として制定され、
21年ごとの遷宮に合わせて開帳される珍しい社であることから、
明治43年(1910)4月8日に特別保護建造物に指定され、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。

賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)系譜を始祖とする氏とその祖神魂命、
更に第9代・開花天皇の皇子・彦坐命(ひこにますのみこと)の系譜と
初代・神武天皇や第10代・崇神天皇より賜った姓の氏祖の神々が祀られています。
賀茂建角身命の御子神である玉依媛売命(たまよりひめのみこと)が祀られ、
日吉大社の祭神でもあったことから、日吉大社の揺拝所として、
一時「日吉社」とも呼ばれていました。
雑太社
北側に雑太社(さわたしゃ)があり、神魂命(かんたまのみこと)と
賀茂建角身命が祀られています。
元は鴨社神舘御所内の雑太という字地に御所の鎮祭社として祀られていた神社です。
神舘御所は下鴨村の南にあり、賀茂祭の時に内親王が清服に改める所とあります。
その後、応仁・文明の乱(1467~1477)で鴨社神舘御所は焼失し、
雑太社は鴨社神宮寺域へ遷されました。
しかし、宝永5年(1708)に鴨社神宮寺も火災を受け、河合神社へと遷されました。
第二十三回・正徳元年(1711)式年遷宮では、神宮寺域内にあった
日吉神社との相殿となり、昭和34年の第三十二回式年遷宮事業により
造替のため昭和20年(1945)末に解体され、遷宮事業が遅延のため仮殿のままでしたが、
平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として社殿が再興されました。
雑太社-ボール
社殿前にはラグビーのボールが祀られています。
第一蹴の地
また、「第一蹴の地」の碑が建立されています。
明治32年(1899)、日本に伝わったラグビー(蹴球)は、
明治43年(1910)になって、京都に伝わり、糺の森でラグビーの
「第一蹴」が行われたとされています。
この「第一蹴の碑」は、昭和44年(1969)に三高(京都大学の前身)
蹴球部OBによって建立されました。
令和元年(2019)に日本で開催されるラグビーワールドカップの抽選会が、
平成29年(2017)5月に京都迎賓館で行われ、日本はプールAと決まりました。
その抽選に先立ち、各国の関係者が「第一蹴の碑」と「雑太社」の前に集まって、
蹴鞠の奉納・体験が行われました。
垂水
北側の垂水(たるみ)は、平成27年(2015)の第34回式年遷宮事業の一環として
新たに造られたと思われます。
第38代・天智天皇の志貴皇子が
「いけばしる 垂水の上の さ蕨(わらび)の 萌え出づる 春になりにけるかも」と
詠まれたことから造られたと思われます。
斎主神霊社
その北側には賀茂斎院歴代斎主神霊社(いつきのみやのみたまのおやしろ)があり、
35代にわたる斎王の神霊が祀られています。
斎院(さいいん)とは、賀茂社に奉仕した皇女のことで、
伊勢神宮の「斎宮」と併せて「斎王」と呼ばれています。
平安時代、平城上皇が都を平城京へ戻そうとした際、第52代・嵯峨天皇は
賀茂社が自分に味方するならば、皇女を神迎えの儀式に奉仕させると祈願しました。
弘仁元年(810)の薬子の変で嵯峨天皇側が勝利し、
4歳の有智子内親王(うちこないしんのう:807~847)が初代・賀茂斎院となりました。
歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、
3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入しました。
斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に
奉仕し、賀茂祭では上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行いました。
その時の行列は華麗なもので、清少納言が『枕草子』で
祭見物の様子を書き留めています。
斎院は、平安時代末期となると源平の争乱でしばしば途絶するようになり、
第82代・後鳥羽天皇の皇女・礼子内親王(れいし/いやこないしんのう:1200~1273)が
第35代・斎院を退下したのを最後に承久の乱の混乱と皇室の資金不足で廃絶しました。
切芝
馬場のその先に、右へと折れる参道があります。
「瀬見の小川」に架かる橋を渡ると表参道となり、その南東側に切芝があります。
鴨の七不思議の一つで、切芝は糺の森のへそ(真中)とされ、古代からの斎場でした。
御神木
その西側の御神木は、現在は枯れてしまっています。
御神木-枯れる前
平成29年(2017)の参拝時には樹皮が剥がれて白く枯れた幹が
見え、つっかえ棒によって支えられていましたが、青々と葉を茂らせていました。
あけ橋
馬場へ戻って北上すると、右側に「あけ橋」が架かっています。
平安時代末期の社頭を描いた『鴨社古図』に見える橋で、
古くからこの下を流れる「瀬見の小川」を渡ることがお祓いであり、禊でした。
祓い清め、身が改まることから「あけ橋」と呼ばれてきました。
あけ橋-涸れ沢
しかし、現在は「瀬見の小川」の流路が変わり、橋の下に流れは無く、
東から流れてきて、この橋の南で流路を南へ変えています。
お休み処
橋を渡って東へ進むと、表参道に面して「おやすみ処」があります。
手水舎
参道の東側に手水舎があります。
覆屋は第10代・崇神天皇7年(BC91)に糺の森神地で瑞垣の造替を賜った
記録をもとに再現した透塀です。
手水舎-鉢
御手洗は、祭神の神話伝承に因む舟形磐座石で、御神水をそそぐ樋は、
「糺の森の主」と呼ばれていた樹齢600年のケヤキです。
古代から糺の森は、清水の湧く所、鴨川の水源の神地として信仰されてきました。
「糺」は「直澄(ただす)」とも記され、語源の一説ともなっています。
奈良の小川
その南側には「奈良の小川」が流れています。
この流れが下り、南北の流れとなると「瀬見の小川」と呼ばれます。
奈良殿橋
表参道の「奈良の小川」に架かる石橋は「奈良殿橋」と呼ばれ、
正面に見える鳥居は「南口鳥居」です。
奈良の小川-復元
その南側に平安時代の流路が復元されています。
烏の縄手
新旧の「奈良の小川」の間にある参道は、鴨の七不思議の一つで
「烏(からす)の縄手」と呼ばれています。
縄手とは「狭い、または細い、長い道」という意味で、
八咫烏は下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)の
化身とされていることから、八咫烏の神様へお参りする長い参道を意味しています。
かっては、幾筋もこのような参道がありましたが、その一部が復元されました。
奈良の小川-復元-水源
「烏の縄手」へ入って行くと、南側に復元された「奈良の小川」の水源があります。
祭祀遺構
その南側に平安時代後期の、糺の森の祭祀遺構が復元されています。
祭祀遺構-図面
平成13年(2001)から実施された発掘調査で検出された祭祀遺構の内、
石敷遺構1と石敷遺構2が復元されています。
奈良殿神地への参道
「烏の縄手」へ戻り、北へ進むと「奈良殿神地/直会殿・楼門」の立札があります。
奈良殿神地への分岐
その先で参道が分岐し、右は直会殿・楼門、左は奈良殿神地への参道となり、
奈良殿神地の方へ進みます。
奈良殿神地
奈良殿神地(ならどののかみのにわ)は古代祭祀遺構の一つです。
周囲東西18m、南北25m、高さ1.6mの小島で、島の東西を流れるのは、
みたらし池からの湧水、南側は泉川からの支流です。
二つの流れが合流する清浄な地とされ、本宮の祭神・賀茂建角身命が
天鳥舩(あまのとりふね)に乗り降臨されたとの神話伝承や、
島の形が舩に似ていることから「舩島(ふなしま)」とも呼ばれています。
舩島の中央が磐座で、磐座の地中に井戸のような遺跡があります。
古代、中州は全く新しい、生まれたばかりの神聖な清らかな土地と考えられ、
神々が鎮まるに相応しい土地として清浄視されてきました。
『日本外史』では賀茂斎王が楢刀自神(ならとじのかみ)の祭祀を
行っていたことが記され、「奈良殿」の由来となっています。
刀自とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、
古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、
神饌を司る神として祀られたと考えられています。
島の周辺に卯の花が群生していたことから、神事は「卯の花神事」とも呼ばれ、
賀茂祭を前にして解除(げじょ=お祓い)の神事が行われていました。
また、祈雨や止雨の祭祀も行われていた記録も残されています。

南口鳥居まで戻り、本宮を参拝します。
続く

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竜沢池
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)から下り、鳥居をくぐった左側に
竜沢池(たつさわのいけ)があります。
猿沢池を模したとされていますが、大きさは猿沢池には遠く及びません。
日照りでも水が枯れず、大正時代(1912~1926)の末まで
雨乞い神事が行われていました。
神龍社への石段
池の東側にある石段を登ると末社の神龍社があります。
右側の建物は境内の監守詰所です。
神鹿像
神鹿像
平城京遷都の和銅3年(710)、藤原不比等(659~720)は鹿島の武甕槌命を勧請し、
御蓋山の麓に祀って春日神と称しました。
武甕槌命は白い鹿に乗り、山頂の浮雲峰に降り立ったとの伝承が残され、
鹿は春日神の神使いとされています。

貞観元年(859)に藤原山蔭が奈良の春日神を勧請した時も、
白鹿に召されて吉田山西麓に鎮座したと伝わります。
さだれ石
さだれ石は、岐阜県春日村から奉納されました。
若宮社-石段
その横の石段を登ると摂社の若宮社があります。
当初は本宮の第二殿と第三殿の間に無社殿で祀られていましたが、
慶安元年(1648)に現在地で社殿が造営され、遷座されました。
若宮社-拝殿
石段を登った所に拝殿があります。
若宮社
本殿
祭神は天忍雲根命(あめのおしくもねのみこと)で、第三殿の
天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第四殿の比売神(ひめのかみ)の
御子神とされています。
高天原より天津水を持って降臨し、この水を皇孫に奉(たてまつ)ったとされています。
神楽岡社
左側には摂社の神楽岡社があります。
吉田神社本宮創建の頃には既に鎮座していたと伝わり、
神楽岡社の創建に関する詳細は不明です。

本殿には大雷神(おおいかづちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)
高龗神(たかおかみのかみ)が祀られています。
大山祇神には、「大いなる山の神」という意味があり、高龗神は貴船神社の祭神であり、
水を司る神とされ、雷除の神とされる大雷神とともに神楽岡の地主神とされています。
神楽岡社前の石段
神楽岡社前の石段を下ります。
火炉
境内中央の火炉は、毎年2月2日~4日に行われる節分祭で、節分当時の2月3日の
午後11時から行われる火炉祭(かろさい)で使用されます。
火炉祭では参拝者が持参した古い神札に宿る神霊が、
元の御座にお還りになられる様、浄火を点じ焼き納めます。
三の鳥居-扁額
三の鳥居には「吉田社 本宮」の扁額が掲げられています。
着倒殿
鳥居の手前、右側に着倒殿があります。
舞殿
鳥居をくぐった先に舞殿があります。
吉田神社は、貞観元年(859)に藤原山蔭が一門の氏神として、
奈良の春日大社四座の神を勧請したのが始まりです。
当初は平安京での藤原一族の氏神でしたが、永延元年(987)から
朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991)には二十二社の前身である
十九社奉幣に加列されました。
鎌倉時代以降は、卜部氏(うらべし=後の吉田家)が神職を相伝するようになり、
文明年間(1469~1487)に吉田兼倶(よしだかねとも)が吉田神道(唯一神道)を
創始すると、寛永5年(1665)には江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、
吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、
明治になるまで神道界に大きな権威を持っていました。
現在は神社本庁の別表神社に列せられ、神仏霊場の第110番札所です。
直会殿
その右側には直会殿があります。
本殿-1
本宮には春日大社と同様に四社の社殿が横一列に並んでいます。
第一殿に健御賀豆知命(たけみかづちのみこと=武甕槌命)
第二殿に伊波比主命(いはいぬしのみこと=経津主命/ふつぬし の みこと)
第三殿に天之子八根命(あめのこやねのみこと=天児屋根命)
第四殿に比売神(ひめのかみ)が祀られています。
本殿-2
武甕槌命と経津主命は葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)の際に、
天下って大己貴命(おおあなむち の みこと=大国主)を説得し、
国譲りを平和裡に成功させた神です。
天児屋根命は天孫降臨の際、邇邇芸命(ににぎ の みこと)に随伴し、
後に中臣連(なかとみうじ)の祖となりました。
比売神は天児屋根命の妻です。
ついなの矢受付所
本宮の左の建物は「追儺(ついな)の矢」の受付所ですが、
大晦日や節分の日に開所されるようです。
社務所
境内の西側に社務所があります。
二の鳥居
社務所の南側に参集殿があり、その南側から石段を下ると二の鳥居が建っています。
今宮社-鳥居
鳥居の手前、北側に末社の今宮社があります。
今宮社-拝殿
拝殿
創建に関する詳細は不明ですが、古くから「木瓜(こうり)大明神」ともよばれ、
吉田村の産土神(うぶすながみ)として信仰されていました。
建保3年(1215)の吉田小社の註進状(ちゅうしんじょう)の中に社名があり、
それよりも以前に創建されていたことが判明しました。
文化13年(1816)に旧地から移転して現在地で社殿が造営されました。
今宮社-本殿
本殿
大己貴神(おおなむちのかみ)・大山祇神(おおやまづみのかみ)・
健速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)が祀られています。
大己貴神は、健速須佐之男命の御子神であり、別名で「大国主神」と称され、
出雲大社の祭神でもあります。
また、旧地も吉田神社の境内にあったことから山の守護神である
大山祇神が祀られていると思われます。
青龍石
本殿の周囲には四神石が祀られています。
四神(ししん/しじん)とは、古代中国で信じられていた天の四方の方角を司る
空想的霊獣で、東は青竜、西は白虎、南は朱雀(すざく)、
北は玄武が守護するとされています。
本殿の東南角に「青龍石」が配されています。
青龍は「蒼竜(そうりゅう)」とも称され、本来は青では無く緑色とされています。
白虎石
西南の角に「白虎石」が配されています。
白虎は四神の中では最も高齢の存在とされ、細長くて白い虎の姿で表されています。
玄武石
西北の角には「玄武石」が配されています。
玄武は脚の長い亀に蛇が巻き付いた姿とされていますが、
石は普通の亀のように見えます。

東北の朱雀石は内陣に納められているため、見ることができません。
朱雀は翼を広げた鳳凰様の鳥形で表されています。
祖霊社
鳥居から下った北側に祖霊社があります。
明治16年(1883)に現在地で創建され、吉田神社太元講社員の御霊が祀られています。
一の鳥居
一の鳥居まで長い参道が続きます。
2月の節分祭には、この参道に約800店の露店が立ち並びます。
京大
一の鳥居を通り過ぎると、京都大学の時計台があります。
京都大学の起源は、文久元年8月16日(1861年9月20日)に長崎に設立された長崎養生所で、
後に「長崎精得館」と改称され、その理化学部門は、当初は江戸にあった
開成所(現在の東京大学)へ「理化学校」として移設することになっていました。
しかし、明治維新の混乱で、明治政府は慶応4年(1868)に
舎密局(せいみきょく=後の理学校)として大阪に開設することを決定しました。
明治2年(1869)に開校し、明治3年(1870)には洋学校と合併して
「開成所」と改称されました。
その後、明治19年(1886)に公布された中学校令によって「第三高等中学校」と改称され、
明治22年(1889)に現在地へ移転しました。
明治27年(1894)に公布された高等学校令により旧制の「第三高等学校」となり、
明治19年(1886)に交付された帝国大学令に基づき、明治30年(1897)に
京都帝国大学設置に関する勅令が制定され、
日本で2番目の帝国大学として発足しました。
創立五十周年に当たる昭和22年(1947)には大学名から「帝国」が削られて
「京都大学」と改称され、昭和24年(1949)には第三高等学校を統合して、
新制大学となり、同年に理学部の湯川秀樹教授が日本人初のノーベル賞を
受賞しました。

京阪出町柳駅まで戻り、次回は同駅から下鴨神社、出雲路橋を経て御陵神社、妙顕寺を
巡って堀川通りへ至り、晴明神社から一条戻り橋を経て今出川通りを戻り、
相国寺などを参拝して京阪出町柳駅まで戻るルートを計画しています。
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竹中稲荷神社-鳥居
宗忠神社の「勅使門」と呼ばれる鳥居を出ると、
北側に竹中稲荷神社の鳥居が並んでいます。
現在は宗忠神社を出た所に東西の車道が通り、竹中稲荷神社参道の東側には
民家が並んでいます。
竹中稲荷神社-社務所
参道を進むと東側に社務所があります。
竹中稲荷神社-拝殿
その先に拝殿があります。
竹中稲荷神社-本殿-1
本殿
竹中稲荷神社の創建に関する詳細は不明ですが、「竹中」とあることから、
当時は竹林の中にあったのかもしれません。
在原業平(ありわら の なりひら:825~880)が、「神楽岡稲荷神杜の付近に
住していた」と記してあることから天長年間(824~834)には
既に社殿があったと推察されています。
吉田神社の創建は貞観元年(859)とされていますので、
それよりも古くから祀られていたことになります。
その後の変遷も不詳ですが、江戸時代末期には多くの参詣者で賑わい、
明治5年(1872)に吉田神社の末社となり、
現在の社殿は天保11年(1840)の造営とされています。
竹中稲荷神社-本殿-2
宇賀御魂神・猿田彦神・天鈿女神(あめのうずめのかみ)の三柱が祀られていますが、
伏見稲荷大社では宇賀御魂神・猿田彦神・大宮売神(おおみやのめのかみ)の三柱を
稲荷三神としています。
平安京遷都に秦氏の影響力があり、それまで秦氏が私的に祀っていた稲荷神が
天長4年(827)に従五位下の神階が下賜された事により、京の人々から
崇敬されるようになったと伝わります。
五穀豊穣を願い、東山三十六峰の最南端である稲荷山より都に近い十二峰の吉田山に
勧請されたのかもしれません。
天満宮
左には天満宮があります。
かっては地福院で奉祀されていましたが、嘉永5年(1852)に現在地へ遷座され、
明治5年(1872)に吉田神社の末社となりました。
地福院は現在の宗忠神社付近にあったと伝わりますが、明治の神仏分離令による
廃仏毀釈で廃寺となりました。
天満宮-臥牛像
菅原道真が祀られ、社殿前に臥牛像が奉納されています。
天満宮-鳥居
独立した神社であったことから鳥居が建立されています。
竹丸神社
竹中稲荷神社の本殿前に、まだ新しそうな二つの社殿が並んでいます。
その間の石灯籠には「竹丸神社」と記されていますが、詳細は不明です。
若竹大神
その手前にも鳥居が建ち、同様の社殿がありますが、石灯籠に記されているのを
見落としました。
その右側の石碑には「若竹大神」と刻まれています。
お塚
二つ並んだ社殿の横を奥へ進むと伏見稲荷大社のお塚のような光景が広がります。
お塚とは稲荷大神に別名を付けて個人またはグループで信仰する人々が奉納したもので、
中には後継する人が無く、寂れているものもあります。
「竹」の字が付く名が多く見られ、この地と竹の関係が表されているように思えます。
竹釼稲荷神社-1
その参道の一番奥まった所に奥之院・竹釼稲荷神社があります。
竹釼稲荷神社-2
伏見稲荷大社に御剱の滝(みつるぎのたき)があり、釼も「つるぎ」ですが、
正しい読み方は不明です。
「けん」とも読めることから「ちくけんいなりじんじゃ」でしょうか?
薬力社
少し戻って竹中稲荷神社の裏側付近を西へ入ると薬力社があります。
薬力社も伏見稲荷大社にあります。
業平塚
薬力社の奥に業平塚があります。
詳細は不明ですが、竹中稲荷神社付近に業平の居宅があったことに
関係しているのかもしれません。
在原業平は、晩年を十輪寺で過ごし、神楽岡で葬られることを望んだそうですが、
墓は十輪寺にあります。
神龍社
公園まで戻り、南端の方から西側へ下る石段があります。
直ぐに丁字路となり、吉田神社の方へ下ると、
途中で西側へ下る細い抜け道のようなものがあります。
それを下った所に末社の神龍社があり、従二位・卜部兼倶(うらべかねとも)朝臣が
祀られています。
卜部兼倶(1435~1511)は、吉田姓を名乗り、吉田神道(唯一宗源神道)を大成しました。
文明12年(1480)に第103代・後土御門天皇のために『日本書紀』を講書初めの儀で
講じたことにより、朝廷や公家、更には室町幕府内にも取り入って勢力を拡大し、
全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得しました。
永正8年(1511)に77歳で薨去され、永正10年(1513)に鎮祭されました。
神龍社-鳥居
神龍社の鳥居
菓祖神社-1
神龍社へ入った方から南へ進むと元の参道へ戻り、
それを下った右側に菓祖神社があります。
昭和32年(1957)に創建され、田道間守命(たぢまもりのみこと)と
林浄因命(りんじょういんのみこと)が祀られています。
『日本書紀』第11代・垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年(61)2月1日に
田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのみ=橘)」を求め、
常世の国(海の彼方にある不老不死の国)に派遣され、
それを持ち帰ったとされています。
その橘が果物の祖とされ、兵庫県豊岡市の中嶋神社では田道間守命が
菓子神として祀られており、分霊が勧請されました。
菓祖神社-2
林浄因命は、南北朝時代(1337~1392)に中国から渡来し、日本初の饅頭である
「薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)」の製法を伝えました。
奈良市の漢國神社(かんごうじんじゃ)の境内社である林神社で菓祖神(かそじん)
として祀られ、その分霊が勧請されました。
菓祖神社-鳥居
菓祖神社から下ってくると、鳥居が建っています。
大元宮の鳥居
その南側にも鳥居が建っていますので、鳥居をくぐって進みます。
山蔭神社-1
右側に山影神社があります。
昭和32年(1957)の吉田神社御鎮座1100年大祭を機に、全国料理関係者が創建に協賛して、
昭和34年(1959)5月に鎮祭されました。
主祭神は藤原山蔭卿(ふじわら の やまかげ きょう)で、
相殿に恵比須神が祀られています。
山蔭神社-2
吉田神社は、貞観元年(859)に藤原山蔭が一門の氏神として、
奈良の春日大社四座の神を勧請したのが始まりで、
後に平安京での藤原氏一族の氏神となりました。
また、藤原山蔭は第58代・光孝天皇(こうこうてんのう:在位884~887)の命により、
庖丁式を執り行いましたが、それまで方法とは異なり、新たな庖丁式で行いました。
「四条流庖丁式」と称され、それにより庖丁の神、料理・飲食の祖神として
祀られるようになりました。
斎場所大元宮
山影神社から更に緩やかな坂道を登って行くと左側に
斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)があります。
斎場所大元宮-2
卜部兼倶(うらべかねとも=吉田兼倶)は、文明年間(1469~1487)に
森羅万象の起源であり、また宇宙の根元神である
虚無大元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る吉田神道(唯一神道)を起草し、
室町にあった自邸に大元宮を創建して虚無太元尊神を祀りました。
更に文明16年(1484)に現在地で斎場所大元宮を創建し、同年11月24日に
自邸から虚無大元尊神を遷座しました。
虚無大元尊神を中心に、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、
全国の神々を祀る吉田神道の根元殿堂とされました。
大元宮-扁額-八角形
「日本最上日高日宮」と記された八角形の扁額。
天正18年(1590)には第107代・後陽成天皇(在位:1586~1611)の勅命により、
宮中で祀られていた天皇の守護神・八柱が、大元宮の後方に建てられた
八神殿へ遷座されて祀られるようになりました。
しかし、明治5年(1872)に八神殿は皇居へ遷され、伊勢神宮こそが日本で最上位の神社
であるという国家神道が勢いを増す中で吉田神道の勢いは衰えを見せ、
現在では大元宮は吉田神社一末社となってしまいました。
大元宮-扁額
「日本国中三千余座 天神地祇八百万神」の扁額。
境内奥の東に東神明社(内宮)、西に西神明社(外宮)、境内の周囲には
式内神3132座が祀られ、正月3日間と節分祭、並びに毎月1日に限り、
大元宮の本殿や東西諸神社など特別参拝が行われています。
幽斎枝垂桜
大元宮前の枝垂桜は「幽斎枝垂桜」と称されています。
公卿で歌人の中院通勝(なかのいん みちかつ:1556~1610)は、天正8年(1580)に
第106代・正親町天皇の勅勘を蒙り丹後国舞鶴に配流されました。
通勝の和歌や和学の師であった細川幽斎(1534~1610)は、
吉田山の桜を丹後へ移植して慰めました。
その桜は今も舞鶴市の瑠璃寺にあり、舞鶴市の天然記念物に指定されています。
平成16年(2004)の吉田氏子講社設立50周年記念に、桜の苗木が贈られ
400年ぶりに里帰りが実現しました。
その桜が枯れてしまい、接木された桜が再び植えられました。
三社社-鳥居
大元宮前の車道の東側に、末社の三社社があります。
当初は吉田家の邸内で祀られていましたが、弘化元年(1844)に
現在地へ遷座されました。
三社社
多紀理毘売命(たぎりひめのみこと)、狭依毘売命(さよりひめのみこと)、
多岐津毘売命(たきつひめのみこと)、金山毘古命(かなやまひこのみこと)、
金山毘売命(かなやまひめのみこと)、菅原神(すがわらのかみ)が祀られています。
狭依毘売命の別名は『日本書紀』では「市杵嶋姫命いちきしまひめのみこと)」と
表記され、多紀理毘売命と多岐津毘売命とともに「宗像三女神」と称されています。
宗像三女神は、天照大御神と建速須佐之男命が誓約を行った際に
生まれた神とされています。
宗像三女神は、天照大御神から「九州から半島、大陸へつながる海の道
(海北道中=玄界灘)へ降臨するよう」に命じられました。
多紀理毘売命は、現在の宗像大社・沖津宮へ、多岐都比売命は中津宮へ、
市寸島比売命は辺津宮へそれぞれ降臨し、
海上交通の守護神として祀られるようになりました。

金山毘古命と金山毘売命は夫婦神で、鉱山の神とされています。
伊耶那美命が火の神・迦具土神を生んで火傷を負い、苦しんでいる時に、
その嘔吐物(たぐり)から生まれた神とされています。
鉱石を火で溶かし、金属が生まれることが表されています。

菅原神は学問の神とされていますので、菅原道真と思われます。

三社社から東へ進むと宗忠神社ですが、登ってきた道を戻り、
吉田神社・本宮へ向かいます。
続く
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神楽岡東陵
真如堂の総門から西へ進むと右側(北側)に第57代・陽成天皇(在位:876~884)の
神楽岡東陵(かぐらがおかのひがしのみささぎ)があります。
陽成天皇は、生後3ヶ月足らずで立太子し、貞観18年(876)11月に
9歳で父・清和天皇から譲位されました。
母方の伯父・藤原基経が摂政に就きましたが、「狂気の天皇」と称され、
政治には無関心で、天皇が元服してから基経は、摂政返上を願い出て
宮中にも出仕しませんでした。
宮中で殺人事件が発生したことから、基経に迫られ、元慶8年(884)2月4日、
17歳で退位しました。
宗忠神社ー正参道
更に西へ進むと宗忠神社(むねただじんじゃ)への正参道の石段があります。
逆立ち狛犬-右
石段の両側の狛犬は岡山県の備前焼で「逆立ち狛犬」と称されています。
備前焼の狛犬は江戸時代の文化(1804~1818)・文政年間(1818~1831)の頃より
造られ始めたようで、岡山県では多く見られますが、京都市内では当社を含め、
二カ所しか存在しないようです。
逆立ち狛犬-左
二躯とも逆立ちしている狛犬は全国的にも珍しく、
歓迎の意味を表しているとする説があります。
石段を登れば神社の境内ですが、ここからバイクを使用して大きく迂回します。
菩提樹院陵-1
北へ進むと第68代・後一条天皇(在位:1016~1036)と
章子内親王(しょうし/あきこないしんのう:1027~1105)の
菩提樹院陵があります。
後一条天皇は第66代・一条天皇の第二皇子で、数え8歳で即位しました。
外戚の藤原道長が摂政となり、権勢を振るいました。
藤原道長の長女・藤原威子(ふじわら の いし/たけこ:1000~1036)を中宮とし、
他の妃は持ちませんでした。
内親王二人が誕生しましたが世継ぎの皇子には恵まれぬまま、
数え29歳で突然崩御されたため、
喪を秘して弟の敦良親王(あつながしんのう=後朱雀天皇)への譲位儀を行い、
その後に上皇としての葬儀が行われました。
菩提樹院陵-2
章子内親王は後一条天皇の第一皇女で、幼くして両親が崩御され、12歳で皇太子の
親仁親王(ちかひとしんのう=第70代・後冷泉天皇)に入内しました。
しかし、治暦4年(1068)に後冷泉天皇が即位したその2日後に天皇が崩御されたため
落飾し、同6年(1074)に院号宣下を受けて「二条院」と称し、
長治2年(1105)に80歳で崩御されました。
吉田神社北参道
更に神楽岡通りを北へ進むと今出川通りへ突き当たり、今出川通りを西へ進むと
吉田神社の北参道があります。
二躯の石像
その参道の手前を少し西へ進んだ所に鎌倉時代の石像が二躯並んで祀られています。
両側には「大日如来」と刻まれた石灯籠が建っていますが、
印相から像は阿弥陀如来のように思われます。
今出川通りを挟んだ東北方向の「子安観音」は像高2mで、
この二躯は像高1.5m前後だそうです。
道標
像が祀られた建物の左側の道標は、高さ212cm、幅30cmで嘉永2年(1849)に建立され、
市の史跡に指定されています。
志賀越道の道標であり、これらの像は旅人の道中の安全を祈願して
建立されたように推察されます。
現在は今出川通りの南となり、人通りも少なくて、目立たない存在となっています。

北参道へ戻りますが、こちらから直接、吉田神社への参拝は出来ません。
標高105.12mの吉田山への登山道です。
歴史的には吉田山ではなく「神楽岡」と呼ばれ、神代の時代に八百万の神が
神楽を舞った聖地とされています。
現在は緑地保全地区に指定され、様々な散策路が存在しています。
大文字山
左の登山道を登って行くと、山頂広場に着きます。
標高472mの大文字山(如意ヶ嶽)が望め、吉田神社の社伝では、天照大御神が
天岩戸に隠れた際に、諸神が神楽を奏した場所とされています。
その後、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさのかみ)と
賀茂御祖神が神代の楽を奏し、「神楽岡」と称されるようになった伝えています。
霊元法皇御幸址
南へ進むと「霊元法皇御幸址」の碑があります。
第112代・霊元天皇(在位:1663~1687)は、僅か8歳で即位し、貞享4年(1687)に
東山天皇へ譲位して、幕府が反対する院政を父の後水尾法皇に次いで行い、
正徳3年(1713)に落飾して最後の法皇となりました。
法皇となって、享保10年(1725)と享保15年(1730)、翌享保16年(1731)に当時は吉田神社の
神苑だった当地へ訪れ、その翌年の享保17年(1732)に87歳で崩御されました。
三角点
先へ進むと明治36年(1903)に設置された吉田山の三等三角点があります。
三高寮歌の碑
その東側に旧制・第三高等学校の寮歌・『逍遥の歌(しょうようのうた)』の
碑が建っています。
「紅もゆる岡の花」で始まる歌詞は、明治38年(1905)に創作され、
昭和32年(1957)に第三高等学校創立90周年を記念して、この碑が建てられました。
宗忠神社-勅使門
公園を横切り南へ進むと文久2年(1862)に創建された宗忠神社の鳥居が建っています。
こちらが創建当初の正参道で、慶応元年(1865)に第121代・孝明天皇から
勅願所と定められ、御所よりの勅使がこの道を通っていたことから、
当時を偲び「勅使門」と呼ばれています。
宗忠神社-井戸
鳥居をくぐった右側に「ご神水(しんすい)井戸」があります。
神社が創建されて間もない頃、境内に井戸が掘られましたが、山上のことであり、
水が湧き出ることはありませんでした。
開教直後の黒住教の高弟・赤木忠春が、御神前に供えたご神水を井戸に注いで
一心に祈念すると水が湧き出たと伝わります。
宗忠神社-拝殿
西向きに拝殿があり、その奥の左に本殿、右に神明宮があります。
拝殿は昭和12年(1937)、本殿は明治45年(1912)に改築されました。
本殿には黒住教の教祖・黒住宗忠が祀られています。
黒住宗忠(1780~1850)は、安永9年(1780)11月26日の冬至の日に、備前国(岡山県)の
今村宮に仕える禰宜(ねぎ)の家に三男として生まれました。
備前藩から孝行息子として表彰されるほどの親孝行でしたが、
文化9年(1812)に流行病により両親を相次いで亡くしました。
翌年には自身も、当時は不治の病とされた肺結核に侵されました。
文化11年(1814)には重篤に陥り、11月11日の古来「一陽来復」と呼ばれる冬至の日に
昇る朝日を浴びる中で天照大御神と同魂同体となるという「天命直授」と言われる霊的体
験により天命を悟るとともに、病気も消えうせ、宗教的活動を開始したとされています。
様々な託宣や病者の救済を行うと皇室や公家の中からも帰依されるようになりました。
嘉永3年(1850)2月25日に71歳で逝去され、安政3年(1856)3月8日に
「宗忠大明神」の神号が授けられました。

神明宮は、「上社(じょうしゃ)」とも称され、二条家から遷されたと伝わり、
天照大御神が祀られています。
天照大御神は、伊弉諾尊と伊弉弥尊の御子神で、弟の月読命と建速須佐之男命と共に
伊弉弥尊が生んだ諸神の中で最も貴い「三貴子」とされています。
女神であり、太陽神と巫女の性格を併せ持つ存在とされています。
忠春社
本殿の左側に忠春社があり、赤木忠春が祀られています。
赤木忠春(1865~1816)は、美作国久米南条郡八出村(岡山県津山市)の出身で、
天保8年(1837)に両眼を失明したことを機に、黒住教へ入信しました。
嘉永4年(1851)から京都での布教活動を始め、関白・九条尚忠の娘の病気平癒を
行ったことから尚忠の帰依をうけ、後には公卿への影響を広げました。
また、尊王攘夷派の志士とも交流があり、尊王討幕運動の一拠点となりました。
文久2年(1862)に当地で宗忠神社の建立の許可を得ることに成功しましたが、
大元(岡山市の本部)から別派独立の嫌疑を受け、元治元年(1864)に破門され、
身の潔白を証明するために郷里で修行中に逝去されました。
没後に生前の功績を顕彰して祀られるようになったと思われます。
白山社
本殿の右側に白山社があり、加賀(石川県)の白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の
祭神が祀られています。
古来からこの神楽岡の地で祀られていたそうです。

吉田神社へ向かいます。
続く
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