扇町公園から堀川通を南下すると本法寺の門がありますが、
東の方に仁王門がありますので、境内を横断して東へ向かいます。
本法寺東の南北の通りは「小川通」と呼ばれ、
かっては通りの西側に小川が流れ、石橋はその名残として残されています。
小川通は平安京には無く、豊臣秀吉が天正18年(1590)に行った天正の地割で新設された
通で、北は紫明通から南は錦小路通までの南北の通りです。
小川は昭和40年(1965)に埋め立てられました。
仁王門
本法寺は山号を「叡昌山」と号する日蓮宗の本山で、日蓮宗京都十六本山の札所です。
寺伝では永享8年(1436)に日親上人(1470~1488)により、
東洞院綾小路で創建されたと伝えています。
日親上人は永享11年(1439)に室町幕府第3代将軍・足利義教(あしかが よしのり=
在職:1429~1441)に諌暁(かんぎょう=権力者に対して日蓮宗への改宗を求めること)
を行いました。
幕府は諌暁を禁止しましたが、日親上人はそれでも諌暁書「立正治国論」を
著したため怒りに触れ、寺を焼かれ投獄されました。
灼熱の鍋を被せられる拷問を受け、それでも説法を続けたとの伝説から
「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれました。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱により足利義教が暗殺されたことにより、
日親上人は赦免されました。
獄中で知り合った本阿弥清信(ほんあみ きよのぶ:1435~1534)の帰依を受け、
康正年間(1455~1457)に四条高倉で再建されました。
寛正元年(1460)にも日親上人の他宗派批判が原因で投獄され、
寺は二度目の破却となりました。
その後、日親上人は赦免され、寺は三条万里小路(さんじょうまでのこうじ=
現在の中京区三条柳馬場)で再建されました。
一門の中心地と定められ、寺は栄えましたが、天文5年(1536)の天文法華の乱で
伽藍を焼失し、堺へ避難しました。
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
後に一条戻り橋付近で再建されました。
しかし、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備で、
現在地への移転を命じられました。
更に、天明8年(1788)の大火で伽藍が焼失し、その後再建された現在の本堂、開山堂、
多宝塔、仁王門、石橋、鐘楼、経蔵、庫裡などは、府の有形文化財に指定されています。
仁王門に安置されている執金剛夯神(しゅこんごうこうしん)
仏教の護法善神(守護神)であり、「金剛杵(こんごうしょ」と呼ばれる武器を持ち、
仏敵を山内に入れず、退散させるために守護しています。
密迹金剛夯神(みっしゃくこんごうこうしん)
「密迹」とは仏の大法を聞くという意味があり、常に仏に親しく近づいて、
仏の秘密の教えを聞こうとの本誓を持つとされています。
堂内には大摩利支天尊が祀られています。
大摩利支天尊は仏教の守護神であり、陽炎(かげろう)を
神格化したものとされています。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない隠形の身で、
常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされています。
摩利支天堂西側の多宝塔は寛政年間(1789~1801)の再建で、
府の有形文化財に指定されています。
釈迦如来、多宝如来などが祀られています。
経蔵に掲げられた扁額は、享保2年(1717)に本覚院宮の御宸筆によるものですが、
文字はほとんど読めません。
本覚院宮は第111代・後西天皇の第十一皇女の理豊女王(りほうじょおう:1672~1745)
で、天和3年(1683)に宝鏡寺にて得度し、元禄2年(1689)には宝鏡寺22世門跡となって
寺勢の興隆につとめ中興の祖とされ、「本覚院」と追号されました。
能書家であり、狩野周信(かのう ちかのぶ:1660~1728)からは絵も学びました。
本堂に掲げられた扁額は本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ:1558~1637)の
揮毫によるものです。
日親上人が獄中で本阿弥清信と知り合った以後、
本法寺は本阿弥家の菩提寺となりました。
天明8年(1788)の大火後の再建では、光悦の父・光二からの多大な寄進がありました。
その横には長谷川等伯の像が建立されています。
長谷川等伯(1539~1610)は能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級家臣の子として
生まれましたが、幼い頃に染物業を営む長谷川家の養子となりました。
養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始め、
元亀2年(1571)に養父母が相次いで亡くなったのを機に、郷里の菩提寺・本延寺の
本山・本法寺を頼って家族と共に上洛しました。
塔頭の教行院に寄宿し、狩野派の様式を学ぶも、独自の画風を確立していきました。
天正17年(1589)に大徳寺山門の天井画と柱絵を描き、有名絵師となりますが、
山門の上層に草鞋を履いた千利休の像が安置されたため、
豊臣秀吉の怒りにふれ、天正19年(1591)に秀吉は利休に切腹を命じました。
慶長10年(1605)には本法寺客殿や仁王門などを建立して寄進しましたが、
慶長15年(1610)に徳川家康の要請により、江戸への下向途上で発病し、
江戸到着の2日後に病死しました。
遺骨は京都に移され、本法寺に葬られました。
かって、一条戻橋付近にあり、応永34年(1427)に上洛した日親上人が、
この石に座り、最初に辻説法を行ったと伝えられています。
安倍晴明の邸宅内にあったことから「晴明石」と呼ばれたとも伝わり、
元禄15年(1702)に夢告により、当地へ移されました。
宝物館前の庭は「十(つなし)の庭」と称されています。
数字の1から9を数える時、「ひとつ」「ふたつ}と「つ」が付きますが、
10には「つ」が付かないことから「つなし」と称されているそうです。
しかし、庭に据えられている石は「九つ」しかありません。
もう一つの石は、見る人の心(意思)にあると説いています。
宝物館に展示されている長谷川等伯筆の大涅槃図は、国の重要文化財に
指定されているため、原寸大の複製が展示されています。
縦約10m、幅約6mの大作で、一階からは全体を見上げ、二階からは間近で鑑賞できます。
釈迦の入滅を悲しむ弟子や民衆、動物などの中に、長谷川等伯自身も加わっているように
描かれています。
宝物館の裏側を西へ進んだ北側に、国の名勝に指定されている
「三つ巴の庭」があります。
「三つ巴の庭」は、本阿弥光悦により、書院の東から南側に作庭され、三か所の築山で
巴(ともえ)紋を表していたことから「三つ巴の庭」と呼ばれていましたが、
経年により巴の形は解りづらくなっています。
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