2021年07月

石橋
扇町公園から堀川通を南下すると本法寺の門がありますが、
東の方に仁王門がありますので、境内を横断して東へ向かいます。
本法寺東の南北の通りは「小川通」と呼ばれ、
かっては通りの西側に小川が流れ、石橋はその名残として残されています。
小川通は平安京には無く、豊臣秀吉が天正18年(1590)に行った天正の地割で新設された
通で、北は紫明通から南は錦小路通までの南北の通りです。
小川は昭和40年(1965)に埋め立てられました。
仁王門
仁王門
本法寺は山号を「叡昌山」と号する日蓮宗の本山で、日蓮宗京都十六本山の札所です。
寺伝では永享8年(1436)に日親上人(1470~1488)により、
東洞院綾小路で創建されたと伝えています。
日親上人は永享11年(1439)に室町幕府第3代将軍・足利義教(あしかが よしのり=
在職:1429~1441)に諌暁(かんぎょう=権力者に対して日蓮宗への改宗を求めること)
を行いました。
幕府は諌暁を禁止しましたが、日親上人はそれでも諌暁書「立正治国論」を
著したため怒りに触れ、寺を焼かれ投獄されました。
灼熱の鍋を被せられる拷問を受け、それでも説法を続けたとの伝説から
「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれました。
嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱により足利義教が暗殺されたことにより、
日親上人は赦免されました。
獄中で知り合った本阿弥清信(ほんあみ きよのぶ:1435~1534)の帰依を受け、
康正年間(1455~1457)に四条高倉で再建されました。

寛正元年(1460)にも日親上人の他宗派批判が原因で投獄され、
寺は二度目の破却となりました。
その後、日親上人は赦免され、寺は三条万里小路(さんじょうまでのこうじ=
現在の中京区三条柳馬場)で再建されました。
一門の中心地と定められ、寺は栄えましたが、天文5年(1536)の天文法華の乱
伽藍を焼失し、堺へ避難しました。
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
後に一条戻り橋付近で再建されました。
しかし、天正15年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備で、
現在地への移転を命じられました。
更に、天明8年(1788)の大火で伽藍が焼失し、その後再建された現在の本堂、開山堂、
多宝塔、仁王門、石橋、鐘楼、経蔵、庫裡などは、府の有形文化財に指定されています。
執金剛神
仁王門に安置されている執金剛夯神(しゅこんごうこうしん)
仏教の護法善神(守護神)であり、「金剛杵(こんごうしょ」と呼ばれる武器を持ち、
仏敵を山内に入れず、退散させるために守護しています。
密迹金剛神
密迹金剛夯神(みっしゃくこんごうこうしん)
「密迹」とは仏の大法を聞くという意味があり、常に仏に親しく近づいて、
仏の秘密の教えを聞こうとの本誓を持つとされています。
摩利支天堂-鳥居
門をくぐった右側(北側)に摩利支天堂があります。
摩利支天堂-狛猪-阿形
狛犬では無く、狛猪が境内を守護しています。
阿形
摩利支天堂-狛猪-吽形
吽形
摩利支天堂-1
堂内には大摩利支天尊が祀られています。
大摩利支天尊は仏教の守護神であり、陽炎(かげろう)を
神格化したものとされています。
陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない隠形の身で、
常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされています。
摩利支天堂-2
摩利支天は武士の守り本尊として信仰され、武士が戦場に臨むにあたり、
「摩利支天の法(まりしてんのほう)」を修したと伝わり、
その手法が忍者が結ぶ印の基となりました。
北辰殿
右側に北辰殿があり、妙見大菩薩、鬼子母神、七面大天女、大黒天が祀られています。
多宝塔
摩利支天堂西側の多宝塔は寛政年間(1789~1801)の再建で、
府の有形文化財に指定されています。
釈迦如来、多宝如来などが祀られています。
経蔵と鐘楼
参道の左側(南側)には経蔵と鐘楼が並んでいます。
経蔵は天正16年(1588)に建立され、天明8年(1788)の大火でも宝蔵と共に焼失を免れた
本法寺最古の建物で、府の有形文化財に指定されています。
経蔵-扁額
経蔵に掲げられた扁額は、享保2年(1717)に本覚院宮の御宸筆によるものですが、
文字はほとんど読めません。
本覚院宮は第111代・後西天皇の第十一皇女の理豊女王(りほうじょおう:1672~1745)
で、天和3年(1683)に宝鏡寺にて得度し、元禄2年(1689)には宝鏡寺22世門跡となって
寺勢の興隆につとめ中興の祖とされ、「本覚院」と追号されました。
能書家であり、狩野周信(かのう ちかのぶ:1660~1728)からは絵も学びました。
本堂
北側に本堂があります。
寛政9年(1979)に再建された単層の入母屋造り、本瓦葺の建物で、
府の有形文化財に指定されています。
本尊は木造の一塔両尊四士像で、日親上人坐像などが安置されています。
本堂-扁額
本堂に掲げられた扁額は本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ:1558~1637)の
揮毫によるものです。
日親上人が獄中で本阿弥清信と知り合った以後、
本法寺は本阿弥家の菩提寺となりました。
天明8年(1788)の大火後の再建では、光悦の父・光二からの多大な寄進がありました。
光悦手植えの松
本堂前には本阿弥光悦手植えの松が残されています。
長谷川等伯像
その横には長谷川等伯の像が建立されています。
長谷川等伯(1539~1610)は能登国の戦国大名・畠山氏に仕える下級家臣の子として
生まれましたが、幼い頃に染物業を営む長谷川家の養子となりました。
養家が熱心な日蓮宗信者だったことから、法華関係の仏画や肖像画などを描き始め、
元亀2年(1571)に養父母が相次いで亡くなったのを機に、郷里の菩提寺・本延寺の
本山・本法寺を頼って家族と共に上洛しました。
塔頭の教行院に寄宿し、狩野派の様式を学ぶも、独自の画風を確立していきました。
天正17年(1589)に大徳寺山門の天井画と柱絵を描き、有名絵師となりますが、
山門の上層に草鞋を履いた千利休の像が安置されたため、
豊臣秀吉の怒りにふれ、天正19年(1591)に秀吉は利休に切腹を命じました。
慶長10年(1605)には本法寺客殿や仁王門などを建立して寄進しましたが、
慶長15年(1610)に徳川家康の要請により、江戸への下向途上で発病し、
江戸到着の2日後に病死しました。
遺骨は京都に移され、本法寺に葬られました。
開山堂
本堂前を北へ進むと、東側に開山堂があり、その北側は十(つなし)の庭まで
続いています。
寛政8年(1796)に建立され、府の有形文化財に指定されています。
説法石-1
開山堂の左横に説法石があります。
説法石-2
かって、一条戻橋付近にあり、応永34年(1427)に上洛した日親上人が、
この石に座り、最初に辻説法を行ったと伝えられています。
安倍晴明の邸宅内にあったことから「晴明石」と呼ばれたとも伝わり、
元禄15年(1702)に夢告により、当地へ移されました。
唐門
北側に唐門があります。
建立年は不詳ですが、府の有形文化財に指定されています。
唐門からの宝物殿
唐門をくぐると宝物館(講堂)がありますが、唐門は賓客を迎える門なので
普段は閉じられています。
庫裡
唐門から本堂への渡り廊下の下をくぐり、
西へ進むと庫裏があり拝観の受付が行われています。
十の庭
宝物館前の庭は「十(つなし)の庭」と称されています。
数字の1から9を数える時、「ひとつ」「ふたつ}と「つ」が付きますが、
10には「つ」が付かないことから「つなし」と称されているそうです。
しかし、庭に据えられている石は「九つ」しかありません。
もう一つの石は、見る人の心(意思)にあると説いています。

宝物館に展示されている長谷川等伯筆の大涅槃図は、国の重要文化財に
指定されているため、原寸大の複製が展示されています。
縦約10m、幅約6mの大作で、一階からは全体を見上げ、二階からは間近で鑑賞できます。
釈迦の入滅を悲しむ弟子や民衆、動物などの中に、長谷川等伯自身も加わっているように
描かれています。
開山堂への渡り廊下
宝物館の前から開山堂への渡り廊下が続いています。
三つ巴の庭-1
宝物館の裏側を西へ進んだ北側に、国の名勝に指定されている
「三つ巴の庭」があります。
「三つ巴の庭」は、本阿弥光悦により、書院の東から南側に作庭され、三か所の築山で
(ともえ)紋を表していたことから「三つ巴の庭」と呼ばれていましたが、
経年により巴の形は解りづらくなっています。
三つ巴の庭-滝組
南東側の築山に二段の滝石組が設けられています。
上部は右の不動岩と左の観音岩との間に斜めに水落石が配されています。
二段目の縦縞模様が入った水落石の先に石橋が架かり、大海へと注がれています。
日の石
庭の中央には半円を組合せた円形石があります。
蓮池
左側には切り石を組み合わせた十角形の蓮池が配され、円形石とで
「日蓮」と読みます。
蓮池の奥に、木立の間に白壁が見えますが、これが宝蔵で、
天明8年(1788)の大火で経蔵と共に焼失を免れた本法寺最古の建物です。
書院
書院は紀州徳川家の寄進により、文政11年(1828)に再建されました。
書院-上段の間
こちらが書院上段の間で、これを含め18畳の三間があります。
蹲踞の庭
書院の南西側、廻廊に囲まれた中に光悦作の蹲踞が配され、
「蹲踞の庭」と称されています。

報恩寺へ向かいます。
続く
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後花園天皇火葬塚
妙覚寺から北上して紫明通を左折し、堀川通を南下した東側に
第102代・後花園天皇(在位:1428~1464)の火葬塚があります。
応永26年(1419)に伏見宮貞成親王(ふしみのみや さだふさ しんのう:1372~1456)の
第一皇子として誕生し、8親等以上離れた続柄で、
本来は皇統を継ぐ立場ではありませんでした。
第101代・称光天皇が嗣子(しし)を残さず崩御したため皇位を継ぎ、
現在の天皇まで後花園天皇の皇統が引き継がれています。

天皇は学問に秀で、詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、
『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』に11句が入集しています。
治世においては、永享10年(1438)に永享の乱、嘉吉元年(1441)に嘉吉の乱など
各地で土一揆が起こりましたが、治罰綸旨を発給するなどの政治的役割を担い、
朝廷権威の高揚を図りました。
嘉吉3年(1443)に禁闕の変(きんけつのへん)が起こり、後南朝勢力が
後花園天皇の禁闕(皇居内裏)を夜襲して火を放ち、三種の神器のうち
天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を奪い
比叡山へ逃走しました。
しかし、比叡山は室町幕府に付くことを決めたことから乱は早急に鎮圧され、
天叢雲剣は清水寺で発見されて朝廷へ戻されました。
八尺瓊勾玉は、長禄元年(1457)に嘉吉の乱で取り潰された赤松氏の復興を願う
赤松家遺臣らが、南朝の末裔という自天王(尊秀王)・忠義王兄弟を殺害して
神璽を奪い返しました。
尊秀王(たかひでおう)の出身や生涯の詳細については不明ですが、
後亀山天皇の弟の孫とも、後亀山天皇の皇子の子とも伝わります。
南朝の再建を図った指導者で、地元民から
「自天王(じてんのう)」と呼ばれていました。
自天王は北山郷(奈良県上北山村)に、忠義王は河野谷村(神之谷)に
それぞれ御所を構えていたのですが、赤松の家臣により2つの御所が襲撃され、
二人は討ち取られました。
この惨事はいちはやく川上郷に伝えられ、郷土たちは、
自天王の首と神璽を手に逃走する赤松の郎等を迎え撃ちます。
塩谷村(北塩谷)の名うての射手・大西助五郎は、郎等の頭であった
中村貞友を見事射止めたと伝承されています。
郷士たちは皇子の首と神璽を取り返し、「御首載石」に載せられ冥福を祈り、
その後に金剛寺に葬られたと伝えられています。
しかし、翌長禄2年(1458)、赤松の残党に神璽を奪われ、これによって
赤松家はお家再興の悲願を達成しました。

寛正5年(1464)に成仁親王(第103代・後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、
左大臣・足利義政を院執事として院政を敷き、
応仁元年(1467)に起こった応仁の乱で、後花園上皇は兵火を避けて、
天皇と共に室町第(花の御所)へ移りました。
同年、上皇は出家し、文明2年(1470)に病を患い、53歳で崩御されました。
水火天満宮-西鳥居
南へ進むと扇町公園があり、その手前に水火天満宮(すいかてんまんぐう)があります。
第60代・醍醐天皇の勅願により、尊意に命じて延長元年(923)に
現在地より西の、尊意の別邸があった地に創建されました。
菅原道真が若かりし頃、第13世天台座主となった尊意(866~940)を仏教学の師と仰ぎ、
現在の八瀬天満宮社から八瀬坂を師のもとへ通ったと伝わります。
尊意が下山していた時はこの別邸で道真と会見した縁故深き土地でした。

醍醐天皇(在位:897~930)は、都の水害・火災を鎮めるため、
『水火の社天満自在天神宮』の神号を勅許し、尊意に命じて初めて
道真公の神霊を勧請した事により、「日本最初の天満宮」とされています。
文明4年(1472)9月10日には第103代・後土御門天皇(在位:1464~1500)の御幸があり、
神殿にて天神名号御震筆を賜りました。
この御幸により、水火天満宮の例祭は10月10日(旧暦:9月9日)に
行われるようになりました。
天明8年(1788)の大火で焼失し、古文書などが失われ、
昭和25年(1950)の堀川通の拡幅工事により現在地へ遷座されました。
水火天満宮-孝学堂跡の碑
堀川通に面した西鳥居の右脇に「孝学堂跡」の碑が建っています。
孝学堂は江戸時代に水火天満宮境内に開設された社会教育施設で、
民衆に孝道・孝行を説いたとされ、
明治時代まで続いていたと伝わりますが、資料が焼失し、詳細は不明です。
水火天満宮-龍王の池
鳥居をくぐった右側(南側)に龍王の池があります。
金玉龍王(きんぎょくりゅうおう)が、この池の水を飲み水にしたと伝えられています。
水火天満宮-社務所
左側(北側)に社務所があり、社務所前には手水舎、出世石、登天石が並んでいます。
水火天満宮-手水舎
手水舎
水火天満宮-出世石
出世石は近世に出世した信者から寄進されたもので、
立身出世や大願成就の信仰を集めています。
水火天満宮-登天石
登天石(とうてんせき)には、下記のような逸話が残されています。
延喜3年(903)に菅原道真が左遷された大宰府で没すると、
延暦寺の尊意のもとへ道真の霊が顕れました。
尊意は霊をザクロの実でもてなすと「復讐にあたって、梵天と帝釈天の許可を得た。
例え天皇からの命令であっても、私を阻止するような事はしないで欲しい」と
霊から頼まれました。
尊意がこれを断ると、激怒した道真は、とっさにザクロをつかみ、
口に含んだかと思うと、種ごと吹き出しました。
種は炎となって燃え上がり、傍らの戸に引火したのですが、
尊意は印を結び、水を放って消し止めました。
道真の霊が鴨川へ去ると、川の水位が突然上昇し、町中にあふれ出ました。
霊を追って来た尊意の祈念により川の流れは二つに分かれ、一つの石が現れました。
石の上に立っていた道真の霊と尊意が問答を行い、道真の霊は雲の上に飛び去って、
それまで荒れ狂っていた雷雨がぴたりとやんだと伝わります。
尊意はこの石を持ち帰り、供養して「登天石」と名付けました。
背後の細長い松は、「菅公 影向松」と称され、数代目になるそうです。
水火天満宮-石標
左側の石標は上部の「是」が欠けていますが、「是より洛中 荷馬口付のもの
乗べからず」と刻字され、同様のものが都への出入り口30カ所に立てられていました。
「荷を載せた馬は、馬の口取り(馬子)が乗ったまま洛中へ入ってはならず、
交通安全のため、降りて手綱を引いて歩くように」との意味になります。
室町時代には、内裏や寺社の修繕のために京の七口に関所が設けられ、
一定の通行税が徴収されていました。
それに反発し、関所の廃止を要求して度々一揆が起こるようになり、
関所の廃止と再び設置が繰り返され、豊臣政権下で全廃されました。
この石標は、元禄8年(1695)に木造で30カ所に立てられた標識の一つで、
享保2年(1717)に石標に作り替えられました。
水火天満宮-南鳥居
南鳥居
水火天満宮-金龍水
南鳥居の東側に金龍水が湧き出ています。
都名水の一つであり、枯れることも濁ることも無い清水で、
眼病に霊験ありとされています。
水火天満宮-稲荷社
境内の南東角に稲荷社があり、六玉稲荷大明神・玉光稲荷大明神・生島稲荷大明神が
祀られています。
六玉稲荷大明神は、東本願寺の枳毅邸(きこくてい)・渉成園で祀られていましたが、
明治維新の以前に遷座され、西陣の地廻守護神となりました。
水火天満宮-拝殿
北側に拝殿があります。
水火天満宮-本殿
その奥に本殿があり、菅原道真公が祀られています。
水火天満宮-秋葉社
境内の東側には、南から秋葉神社、白太夫社、弁財天社、玉子神社が並んでいます。
秋葉神社には火難除けの神とされる秋葉大神が祀られています。
水火天満宮-白太夫社
白太夫社には渡会春彦(わたらい の はるひこ)が祀られています。
道真の父・菅原是善が安産祈願を託した豊受大神宮(外宮)の神官で、
道真誕生後は道真の守役として仕え、大宰府までお供しました。
渡会春彦は若いころから白髪でお腹が太かったことから
「白太夫」と呼ばれ、子授けの神として信仰を集めています。
水火天満宮-弁天社
弁財天社には玉姫弁才天・金玉龍王・福寿稲荷大明神が祀られています。
玉姫弁才天は芸能・婦人病、金玉龍王は雨請、
福寿稲荷大明神は商売繁盛の神とされています。
水火天満宮-玉子神社
弁財天社には玉姫弁才天・金玉龍王・福寿稲荷大明神が祀られています。
玉姫弁才天は芸能・婦人病、金玉龍王は雨請、
福寿稲荷大明神は商売繁盛の神とされています。
大応寺-山門
水火天満宮の南鳥居を出て、東へ少し進んだ扇町公園の奥に大応寺があります。
山号を「金剛山」と号する臨済宗相国寺派の寺院ですが、非公開です。
かって、この地には身寄りのない子供や老人・貧しい人を収容する福祉施設・
「悲田院」があったと伝わります。
悲田院は第52代・嵯峨天皇の后・橘嘉智子により建立されましたが、
平安時代には消滅しました。
橘嘉智子(たちばな の かちこ:786~850)は仏教に深く帰依し、承和2年(835)に
唐から禅僧・義空を招いて開山とし、尼寺の檀林寺(だんりんじ)を創建したことから
「檀林皇后」と呼ばれました。
嘉祥3年(850)に65歳で崩御されましたが、死に臨み、自らの遺体を埋葬せず
路傍に放置せよと遺言し、帷子辻(かたびらがつじ)において
遺体が腐乱して白骨化していく様子を人々に示したとされています。
自分の体を餌として与え、鳥や獣の飢を救うためだったとも、この世のあらゆるものは
移り変わり、永遠なるものは一つも無いという「諸行無常」の真理を、
自らの身をもって示し、人々の心に菩提心(覚りを求める心)を
呼び起こすためだったとも伝わります。
大応寺-庫裡
庫裡
天正14年(1586)に妙満寺の虚応円耳(きいん えんに:1559~1619)が、
悲田院の跡地に大応寺を創建しました。
虚応円耳はその後、臨済宗に転じ、慶長8年(1603)に現在の堀川通の西側に
興聖寺を創建し、移り住みました。
大応寺は天明8年(1788)の大火で焼失し、文化5年(1808)以後に再建されました。
大応寺-織部稲荷社
門を入った左側(西側)に織部稲荷社があります。
古田織部(1544~1615)が、伏見稲荷から勧請したと伝わります。
古田家は美濃国の守護大名・土岐氏に仕えていましたが、土岐氏の没落により
織田信長に仕えるようになりました。
天正10年(1582)の本能寺の変で、信長が自刃して果てると、
豊臣秀吉に仕えるようになりました。
この頃、千利休と知り合い、弟子入りしたと推定されています。
「織部流」と称される将軍・大名の茶の湯の式法を制定し、豊臣秀吉や徳川家康の
茶頭を務め、徳川秀忠の茶の湯指南役にもなりました。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、恩賞により1万石の大名となりましたが、
慶長19年~20年(1614~1615)の大坂の陣で、徳川方の軍議の秘密を大坂城内に
知らせたなどの嫌疑をかけられ、大坂落城後に切腹を命じられて果てました。

堀川通を南下して本法寺へ向かいます。
続く
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山門
善行院から北上した丁字路を西へ進んだ北側に妙覚寺があります。
山号は妙顕寺と同じ「具足山」で、妙顕寺を始まりとする立本寺(りゅうほんじ)と
共に妙顕寺の院号から「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれています。
「北龍華」の別称があり、日蓮宗京都十六本山の札所でもあります。
山門-梁上
大門は、元は天正18年(1590)に豊臣秀吉が建立した聚楽第の裏門で、
寛文3年(1663)に移築されたと伝わり、京都府の文化財に指定されています。
城門特有とされる両潜(りょうくぐり)扉があり、梁上には伏兵を潜ませるための
空間が設けられています。
「開山南無日像菩薩」の碑
参道の右側(東側)に「開山南無日像菩薩」の碑が建っています。
妙覚寺は日像上人を開山とし、日実上人を4世としていますが、
実際には天授4年/永和4年(1378)に日実上人によって創建されました。
日実上人は、元は妙顕寺の僧でしたが、教義や後継問題をめぐる寺内の意見対立のため
妙顕寺から離脱し、信徒の豪商・小野妙覚の援助を受け、
四条大宮にあった妙覚の邸宅を寺に改めました。
妙顕寺3世の没後、4世の選任の際に日実上人が妙顕寺から離れたことから、
妙覚寺では日実上人を4世としています。
鎮守社
その横にある社殿の詳細は不明ですが、鎮守社と思われます。
石仏
北側には石仏が祀られ、手前にはユリの花が咲いています。
殉教碑
更に、北側には殉教碑があります。
天文5年(1536)の天文法華の乱で犠牲となった6万人の菩提を弔うために建立されました。
祖師堂
参道正面の祖師堂は天明8年(1788)の大火後に再建されたもので、
府指定の有形文化財となっています。
妙覚寺は、天授4年/永和4年(1378)に日実上人により、四条大宮で創建され、
応永20年(1413)に2世・日成上人により9カ条の門流方式「法華宗異体同心法度」が
定められました。
不受不施(ふじゅふせ=法華経信者以外から施しを受けたり、法施などをしない)の
中心寺院となりました。
寛正7年(1466)には近隣の本覚寺と合併し、寺域を広げましたが、文明15年(1483)に
室町幕府第9代将軍・足利義尚(あしかが よしひさ:在職1474~1489)の命により
二条衣棚(現・中京区妙覚寺町)へ移転しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条衣棚で再建されました。
この頃、美濃国の戦国大名・斎藤道三(1494~1556)の四男・
日饒上人(にちじょうしょうにん)が妙覚寺19世住職となりました。
若き日に道三も妙覚寺で修行したと伝わり、天文23年(1554)に
美濃国の妙覚寺の末寺であった常在寺で出家し、「道三」と号しました。
また、斎藤道三の父・松波庄五郎(まつなみ しょうごろう:生没年不詳)は、
妙覚寺の僧でしたが、還俗して油商人となって成功し、その後武士となりました。
織田信長は、日饒上人が義理の兄にあたることから、妙覚寺を宿所としていました。
信長は、京に二十数回に及び滞在しましたが、妙覚寺を宿所としたのは18回で、
本能寺は3回でした。
天正10年(1582)に本能寺で宿泊していた早朝に、明智光秀の謀反により、
信長は自害して果てました。
当日、信長の嫡男・織田信忠は妙覚寺に宿泊していましたが、信長自害の知らせを受け、
誠仁親王(さねひとしんのう:1552~1586)の居宅であった二条新御所へ移動しました。
誠仁親王を脱出させ、二条新御所で篭城しましたが、明智勢に攻め込まれ、
自害して果てました。(本能寺の変
妙覚寺はその後、天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在地へ移転しました。
文禄4年(1595)、秀吉は方広寺大仏の千僧供養を行いましたが、
妙覚寺21世の日奥上人(にちおうしょうにん:1565~1630)は、
不受不施の立場から出仕を拒み、秀吉に「法華宗諌状(いさめじょう)」を提出して
妙覚寺を去り、丹波国小泉に隠棲しました。
日奥上人は慶長4年(1599)の徳川家康による供養会にも出席せず、
大阪対論により対馬に流罪となりました。
23年後の元和9年(1623)に赦免となり、不受不施派の弘通が許されました。

堂内には日蓮聖人坐像、日朗上人坐像、日像上人坐像が安置されています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行いました。
その功により、後光厳天皇から大覚妙実は大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
唐門
祖師堂の西側に唐門があり、奥に本堂があります。
狩野元信之墓の碑
門前には「狩野元信之墓」の碑が建っています。
狩野元信(かのう もとのぶ:1476~1559)は、室町時代の絵師で、
狩野派の祖・狩野正信の長男または次男とされ、狩野派の2代目です。
狩野派の画風の大成し、近世における狩野派繁栄の基礎を築いた人物で。
天文14年(1545)頃に僧の位の一つである「法眼」を与えられました。
渡り廊下
北側には渡り廊下が祖師堂へとつながっています。
大玄関
唐門の南側に大玄関があります。
庫裡
庫裡
妙覚寺は春と秋に特別公開が行われているようですが、
当日は拝観休止となっていました。
本堂や庭園、華芳塔堂などの拝観ができます。
華芳塔堂は山内で最も古い安土桃山時代の建物で、日蓮聖人が比叡山華芳谷・定光院で
修行中に写経した法華経が、堂内安置の石造りの塔に納められていました。
この石塔は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)の織田信長による比叡山焼き討ち後に
発見されて妙覚寺へ納められました。
後に石塔を納めるための木像多宝塔が造られ、江戸時代の書家・
亀田窮楽(かめだきゅうらく:1690~1758)による扁額が掲げられています。
境内図
庫裡の前の境内図です。
妙覚寺道場
南へ進むと妙覚寺道場があり、剣道の道場のようです。

後花園天皇火葬塚から水火天満宮(すいかてんまんぐう)、大応寺へ向かいます。
続く
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尾形光琳の顕彰碑-門
妙顕寺の寿福院塔の東を北へ進んだ東側に尾形光琳の顕彰碑の門があります。
尾形光琳の顕彰碑
以前に尾形光琳の墓碑があった場所で、平成27年(2015)の琳派400年と
尾形光琳300回忌の際に、この顕彰碑が建立されました。
山門と本堂
その北側に善行院(ぜんぎょういん)があります。
室町時代の文正元年(1466)、恵眼院日冨上人によって創建されたと伝わります。
天明8年(1788)の大火で妙顕寺本山と共に善行院も類焼し、焼失以前から
ほぼ現在の位置にあったと推定されています。
現在の本堂や庫裡などは平成15年(2003)の宗祖立教開宗七五〇年記念事業として
現代風な建物に建て替えられました。
日蓮聖人像
本堂前には日蓮聖人像が祀られています。
妙見堂-鳥居
北側の二階に、平成15年(2003)に建て替えられた妙見宮があり、
洛陽十二支妙見・子(北)の札所で、「西陣の妙見宮」と呼ばれています。
妙見堂
妙見宮に安置されている妙見菩薩像は、第111代・後西天皇(在位:1655~1663)から
厚く信仰され、皇居・清涼殿にて祀られていました。
ある時、天皇が「法華経によってこの妙見大菩薩を祭祀せよ」との夢告を受け、
妙見菩薩像が妙顕寺へと遷されました。
「天拝の妙見菩薩」と呼ばれ、近隣の人々の信仰を集めました。
天保年間(1831~1845)に善行院二十七世・日謙上人により妙見堂が建立され、
安置されるようになりました。
文久年間(1861~1864)には洛陽二十八宿妙見の12番札所として栄えました。
「二十八宿」とは、太陽の通り道に当たる黄道が通る星座のことで、
古代中国では28の星座がそれに充てられていました。
明治の神仏分離令による廃仏毀釈で衰退し、昭和61年(1986)になって京都市内の
日蓮宗寺院を中心とした「洛陽十二支妙見会」により復活されました。
善行院は1番「子(北)」の札所となりました。

妙覚寺へ向かいます。
続く
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泉妙院
寺之内通を西へ進むと妙顕寺塔頭・泉妙院(せんみょういん)があります。
かって、この地には尾形家の菩提寺・興善院があり、寺の住職は代々、
尾形家より出されていました。
宝永5年(1708)に尾形光琳は嫡子を小西家へ養嗣子(ようしし)としたため、
享保元年(1716)に光琳没後には後継が途絶え、興善院は無住となりました。
その後は本行院の管理下となりましたが、天明8年(1788)の大火で焼失しました。
それに加え小西家も困窮し、文化2年(1805)に尾形家の墓は
妙顕寺の総墓所へ移されました。
尾形光琳没後100年の文化12年(1815)に酒井抱一が光琳の墓石を探しましたが
見出せず、本行院の跡にこの碑を建てました。
文政3年(1820)に本行院は泉妙院と合併し、興善院跡に再建されました。
小西家は縁談として尾形家を守り、明治41年(1908)6月に三越呉服本店は
小西得太郎と共に施主となり、昭和22年(1947)頃に小西家が絶えた後も
毎年6月2日に光琳忌法要が営まれています。
泉妙院-尾形家菩提所

また、碑には「乾山」の名が追加されています。
酒井抱一が文政6年(1823)に乾山の墓を発見したことにより、
追加して記されたと思われます。
尾形乾山(おがた けんざん:1663~1743)は光琳の6歳下の弟で、父の遺言により、
室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、
光琳と折半で譲り受けました。
遊び人で派手好きで遺産を湯水のように使い果たした光琳とは対照的に
質素な生活を送りました。
元禄2年(1689)に、仁和寺の南に茶室・如庵(じょあん)を模した習静堂を構え、
参禅や学問に励むとともに、付近に住む野々村仁清から陶芸を学びました。
37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平から
鳴滝泉谷の山荘を与えられ、ここで窯を開きました。
その場所が京の北西(乾)方角にあったことから「乾山」と号し、
多くの作品を手がけました。
作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、
乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多く残されています。
正徳2年(1712)の50歳の時に、二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、
享保16年(1731)の69歳で江戸・入谷へ移り住み、
寛保3年6月2日(1743年7月22日)に江戸で亡くなりました。
大門
更に寺之内通を西へ進むと、北側に妙顕寺(みょうけんじ)の総門があります。
山号を「具足山」、院号を「龍華院」と号する日蓮宗の大本山で、
日蓮宗京都十六本山の札所です。

日蓮聖人の遺命を受け、京都で布教していた日像上人が、元亨元年(1321)に
第96代・後醍醐天皇より寺領を賜り、現在の上京区大宮通上長者町で
創建しました。
建武元年(1334)に後醍醐天皇より綸旨を賜り、勅願寺となって、
暦応4年/興国2年(1341)には北朝の光厳上皇の院宣により、
四条櫛笥(くしげ=現・京都市下京区と中京区の境)に移転しました。
嘉慶元年(1378)には比叡山衆徒による焼き討ちにより、若狭小浜へ避難し、
明徳4年(1393)に室町幕府第3代将軍・足利義満(在職:1369~1395)の斡旋により、
三条坊門堀川(現中京区堀川御池)で再建され、寺号を「妙本寺」に改められました。
応永18年(1411)に第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)の祈願寺となりましたが、
応永20年(1413)には再び比叡山衆徒により寺が破却されました。
永正18年(1521)に第10代将軍・足利義稙(あしかが よしたね/在職:1490~1495/
1508~1522)の命により、二条西洞院(現・中京区)で再建され、
永正~大永年間(1504~1528)の頃に寺号を「妙顕寺」へ戻しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で伽藍を焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
天文17年(1548)に二条西洞院で再建されました。
天正12年(1584)には豊臣秀吉の命により、現在地へ移転させられ、
跡地には二条第妙顕寺城が築かれました。
小門
総門の西側に小門があり、その脇に「尾形光琳墓在此寺」の碑が建っています。
四海唱導之霊
総門へ戻り参道を進むと、左側(西側)に「勅賜宗号四海唱導之霊蹟」の
碑が建っています。
延文3年/正平13年(1358)に北朝第4代・後光厳天皇の詔により、
二世・大覚妙実(1297~1364)が祈雨修法を行い、その霊験があったとして
天皇から賜った綸旨から「四海唱導」が引用され、妙顕寺の称号となりました。
「四海」とは「世の中」の意味があり、法華経の教えに導き、
その功徳により人々を救うとの意味が込められています。
鐘楼
奥に鐘楼があります。
かって、この地には五重塔がありましたが、昭和40年(1965)に総門の東にあった
鐘楼が移されました。
梵鐘
梵鐘は正徳3年(1713)に鋳造されたもので、市の文化財に指定されています。
妙見宮
北側に妙見堂があります。
観音像
その北側には観音菩薩の石像が祀られています。
釈迦堂
西側の車道を北へ進むと西側に墓地があり、その奥に釈迦堂があります。
釈迦堂-堂内
堂内には釈迦如来坐像と千体仏が安置されています。
三菩薩堂
総門付近の参道まで戻ると、右側(東側)に三菩薩堂があります。
堂内には日蓮聖人、日朗上人、日像上人像が安置されています。
大覚妙実は、祈雨の功により、後光厳天皇から大僧正に任じられ、
日蓮聖人に大菩薩、大覚大僧正の師である日朗上人と
日像上人に菩薩の号を賜わりました。
御真骨堂
三菩薩堂の裏側に御真骨堂があり、三菩薩の舎利が納められています。
納骨堂
更にその裏側に納骨堂があります。
慶中大菩薩-1
左側(北側)に慶中大菩薩が祀られています。
慶中大菩薩-2
かって、京都御所で祀られ、御所鎮護の守護神であったとされています。
宮中に仕える女官たちから「願い事が必ず叶う」と崇敬されていました。
鬼子母神堂
三菩薩堂の北側に鬼子母神堂があり、鬼子母神が祀られています。
庫裡で拝観受付を済ますと、渡り廊下を経て、
鬼子母神堂と本堂の堂内参拝が出来ます。
鬼子母神は500人の子(一説では千人、1万人とも)の母であり、
これらの子を育てる栄養をとるため、人間の子を捕えて食べていたとされています。
それを見かねた釈迦は、彼女が最も愛していた末子を
乞食(こつじき)に用いる鉢に隠しました。
鬼子母神は半狂乱となって子を探し、7日間世界中を駆け巡ったのですが見つからず、
釈迦に助けを求めました。
釈迦は、「多くの子を持ちながら一人を失っただけでお前はそれだけ嘆き悲しんでいる。
それなら、ただ一人の子を失う親の苦しみはいかほどであろうか。」と諭しました。
鬼子母神が教えを請うと、「戒を受け、人々をおびやかすのをやめなさい、
そうすればすぐに子に会えるだろう」と答えました。
釈迦は三宝に帰依して五戒を守り、施食によって飢えを満たすこと等を教え、
子を戻された鬼子母神は仏法の守護神となり、また、子供と安産の守り神となりました。
本堂
参道の正面には本堂があります。
妙顕寺は天明8年(1788)の大火で焼失し、その後に現在の諸堂が再建されました。
現在の本堂は天保元年(1830)に上棟され、天保10年(1839)頃に完成しました。
本堂-扁額
京都でも屈指の大きさを誇る十五間四面(27m四方)の大堂で、
「四海唱導」の扁額が掲げられています。
中央の須弥壇には「一塔両尊四士」と称される日蓮宗の基本的な祀り方による
諸仏が安置されています。
中央にお題目を大書した宝塔を建て、その左に釈迦牟尼仏、右に多宝如来を奉安し、
下段左に普賢菩薩、右に騎獅文殊菩薩像が安置されています。
宝塔下に宗祖・日蓮大菩薩、左に日像菩薩、右に日朗菩薩、日蓮大菩薩の下段に
大覚大僧正の像が安置されています。
本堂-格天井
天井には元々、狩野派による2体の龍図「二大龍王図」が描かれていましたが、
昭和50年(1975)に老朽化により天井が崩れました。
その後、修復されて格天井(ごうてんじょう)となり、
寄進された方々の家紋が描かれています。
本堂-でかまる
おりんは日蓮宗では「金丸」と呼ばれ、妙顕寺のは特別大きくて「でかまる」と
呼ばれています。
それを鳴らすための「ばい」と呼ばれる棒も大きくて重く、小さいのを用いて
脚立に登らずそっと鳴らしてみました。
梵鐘とは違う柔らかな余韻を感じることが出来ます。
イブキ
本堂前に立つ「イブキ」は区民の誇りの木に指定されています。
渡り廊下
鬼子母神堂の前から本堂への渡り廊下の下をくぐると、龍神池があります。
龍神池
延文3年/正平13年(1358)の京都大旱魃の時、大覚上人が祈雨の祈祷を行った際、
顕れた、八本の角と尾を持っていたとされる八房大龍神が祀られています。
石塔
北へ進むと寿福院塔があります。
寿福院(1570~1631)は、金沢城主となった前田利家の側室で、
加賀藩第3代藩主となる前田利常を出産しました。
寿福院は熱心な日蓮宗徒で、慶長6年(1601)に金沢にて経王寺を創建し、
同8年(1903)には妙成寺を菩提寺と定め、伽藍を建立しました。
身延山久遠寺の五重塔などを寄進し、この十一重石塔も寿福院により建立されました。
勅使門
西側に勅使門があります。
建武元年(1334)に第96代・後醍醐天皇により、宗門最初の勅願寺となった際に
建立され、天明8年(1788)の大火後に再建されました。
現在では皇室の方々の参拝時以外は開門されません。
庫裡
更に西へ進むと北側に方丈があります。
拝観や朱印の受付が行われています。
拝観料は500円で、朱印の授与も500円です。
大玄関
方丈の手前、東側に大玄関がありますが、普段は使用されていません。
客殿
拝観受付の東側に客殿があります。
客殿の南西側の間には三十六歌仙の額が掲げられています。
南側、中央の間の奥に仏殿があります。
南東側の間は写経場で、正面には持国天の図が掲げられています。
四海唱導の庭-1
客殿の南庭は「四海唱導の庭」と称されています。
四海唱導の庭-2
勅使門に面し、朝廷や皇室などの貴人を迎えるための庭となっています。
左奥の三つの石組みは滝を表し、滝から流れ落ちた水が、
白砂で表した大海へと広がっている様子が表されています。
孟宗竹の坪庭
客殿から廊下を北へ進むと、四方を廊下で囲まれた中に
「孟宗竹の坪庭」が作庭されています。
妙顕寺所蔵の尾形光琳作「寿老松竹梅図」に因んで作庭されたと伝わり、
毎年、新しい竹が生えるので形が変化します。
以前、ネスカフェのCMで背景に使われました。
書院
坪庭の北にある建物が書院です。
書院の東側の庭は「光琳曲水の庭」と称されています。
光琳曲水の庭-蹲踞
妙顕寺にはかって、尾形光琳が設計した庭があったと文献には記されていますが、
天明8年(1788)の大火で焼失しました。
光琳曲水の庭
現在の庭は尾形光琳作「寿老松竹梅図」を元に作庭されました。
白砂で川の流れる様子が「曲水」として表されています。
手前の黒松は樹齢約200年、奥の赤松は約400年とされています。
光琳曲水の庭-赤松
左の赤松と右の黒松。
奥に見える建物は宿坊です。
光琳曲水の庭-丸窓
庭園の南側の廊下にある丸窓からの光景です。
宝物殿
書院の北から東へ進むと宝物殿がありますが、春と秋のみの公開となります。
抱一曲水の庭
書院の西側の庭は「抱一曲水(ほういっきょくすい)の庭」と称されています。
妙顕寺所蔵の酒井抱一作「観世音図」に因んで作庭されました。
僧侶が寒中修行する井戸と修行石が設置されています。
抱一曲水の庭-井戸
井戸を源流とする川の流れで構成され、その流れの中に水琴窟が設けられています。
紫陽花やアヤメなどの草花から楓や赤松などが植栽され、春から秋まで花が咲き、
晩秋には紅葉が楽しめます。

妙顕寺の塔頭で洛陽十二支妙見の札所である善行院(ぜんぎょういん)へ向かいます。
続く
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