2021年08月

寺号標
相国寺から東へ進んだ寺町通に面して本満寺があります。
山号を「広宣流布山(こうせんるふざん)」と号する日蓮宗の本山で、
京都十六本山の札所です。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼き討ちされる以前から存在した法華宗の
本山・洛中法華二十一ヶ寺の一つで、その後帰洛が許され、
単立または合併によって再建された十五ヶ寺に一ヶ寺が追加され、
一部は入れ替えされて現在の京都十六本山となりました。
妙見宮-1
寺町通から参道を進むと総門があり、国の重要文化財に指定されていますが、
その手前の北側に妙見宮があります。
洛陽十二支妙見・丑の札所となっています。
妙見宮-2
本満寺・第13世に就任した日乾(にっけん:1560~1635)は、自ら妙見菩薩像を
二躯刻み、一躯をこの妙見宮に、もう一躯を能勢妙見宮に安置しました。
能勢妙見宮は本満寺の旧末寺・真如寺の境外仏堂で、
真如寺は身延山久遠寺・第21世に就いた日乾に帰依した
能勢頼次(1562~1626)により、創建されました。
七面堂
総門をくぐった先に七面堂があります。
第14世・日遠(にちおん:1572~1642)が七面山で千日修行を行った際に
感得したとされる七面天女が祀られています。
洗い浄行菩薩像-1
七面堂から参道を右側に曲がり、その先を左に曲がった先に
「洗い浄行菩薩像」が祀られています。
洗い浄行菩薩像-2
浄行菩薩は法華経に出現する菩薩で、穢れを清める水徳を持つ菩薩とされています。
また、自身の悪いところ、病気、怪我などで痛む所と同じこの菩薩像の箇所に
水をかけ、磨くことによって治癒するとの信仰があります。
鐘楼
その前に鐘楼があります。
本堂
現在の本堂は明治44年(1911)2月8日に焼失した後、
昭和2年(1927)に再建されました。
本満寺は応永17年(1410)に関白・近衛道嗣の子である日秀(1264~1334)が、
本圀寺(ほんこくじ)から分立し、道嗣の別荘であった現在の
上京区元本満寺(新町通今出川上る西入付近)に創建しました。
天文5年(1536)の天文法華の乱で焼失し、堺へ避難しましたが、
天文11年(1542)に下された第105代・後奈良天皇の法華宗帰洛の綸旨により、
帰洛したとする説と、天文8年(1539)に関白・近衛尚道(1472~1544)の外護により
現在地で再建されたとする説があり、その後は後奈良天皇の勅願寺となりました。
寛文元年(1661)と宝永5年(1708)及び天明8年(1788)にも
大火で焼失しましたが、その都度再建されました。
万治4年(1751)には8代将軍・徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となりました。
蓮乗院霊屋
本堂の左側に蓮乗院霊屋があります。
蓮乗院(れんじょういん:?~1621)は徳川家康の次男・松平秀康の正室で、
蓮乗院霊屋は元和7年(1621)に没後間もなく建立されたと考えられています。
鶴姫(蓮乗院)は常陸国(茨城県)の水戸城主・江戸重通の娘として生まれました。
天正18年(1590)、水戸城は佐竹義重の攻撃を受け落城し、
重通は妻の兄である結城晴朝の許へと逃れました。
晴朝は鶴姫を養女とし、豊臣秀吉との結びつきを求めて養子の紹介を願い出たところ、
当時、秀吉の養子となって「羽柴秀康」と名乗っていた松平秀康が婿養子として
鶴姫と婚姻し、結城家の家督を継ぐことになりました。
秀吉没後の慶長5年(1600)、秀康は徳川家康による会津征伐に参戦しましたが、
その間隙をぬって石田三成らが挙兵し、関ケ原の戦いが起こりました。
関ヶ原の戦いの後、秀康は家康より下総結城10万1,000石から
越前北庄68万石に加増移封されました。
慶長9年(1604)には松平氏に復されましたが、慶長12年(1607)に34歳で病死しました。
その後、鶴姫は公卿・烏丸光広(からすまる みつひろ)と再婚しました。
寛永15年(1638)、烏丸光広が60歳で亡くなると、鶴姫は福井に移り
結城家を継いだ子の直基と暮らし、福井で亡くなりました。
直基は秀康の五男で実母は鶴姫の侍女でした。
鶴姫が没後は烏丸家に縁がある本満寺に葬られました。
蓮乗院霊屋は越前産・笏谷(しゃくだに)石を用いた石造建築で、
内部に元和7年(1621)の陰刻をもつ宝篋印塔が据えられています。
五輪塔
その左側の五輪塔は本満寺12世の日重上人(1549~1623)のものと思われます。
若狭小浜で生まれ、千葉の本国寺で出家し、日珖(にちこう:1532~1598)に
師事して日蓮教学を学びました。
本国寺学道求法講院に招かれ開祖となり、門下の養成に努めた後、
久遠寺二十世に就任しました。
慰霊塔
五輪塔の左側に慰霊塔があります。
六地蔵
本堂の右側にある参道を北へ進むと六地蔵が祀られています。
観音像
墓地の入口には観音像が祀られ、墓地には安土・桃山時代の
武将・山中幸盛(1545~1578)の墓があります。
山中幸盛は戦国時代から安土桃山時代にかけての山陰地方の武将で、
尼子氏の家臣でした。
通称で鹿介(しかのすけ)と呼ばれ、優れた武勇の持ち主で
「山陰の麒麟児」の異名もありました。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったと伝わります。
永禄9年(1566)、尼子氏は最後の砦としていた月山富田城(がっさんとだじょう)に
毛利軍の総攻撃を受け、滅ぼされました。
その後、山中幸盛が尼子家の再興に尽力したのですが、
天正6年(1578)の上月城(こうづきじょう)の戦いで敗れ、
尼子家は滅亡し、山中幸盛は捕虜となり、後に備後国鞆に送られる途上、
備中国成羽で殺害されました。

京阪出町柳駅まで戻り、次回からは京阪丸太町駅から革堂・行願寺から
京都御苑などを巡ります。
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総門
今出川通に面した同志社大学のキャンパスの間を北へ進むと相国寺の総門があります。
山号を「萬年山」と号する臨済宗相国寺派の大本山で、神仏霊場の第99番札所です。
永徳2年(1382)、室町幕府第3代代将軍・足利義満(在職:1369~1395)は、
花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願し、
10年後の明徳3年(1392)に竣工しました。
夢窓疎石(むそう そせき:1275~1351)を開山とし、当時の義満は左大臣であり、
中国では左大臣を「相国」と称されていたことから正式な寺号を
「萬年山相國承天禅寺(まんねんざん しょうこくじょうてんぜんじ)」と
定められました。
至徳3年(1386)に義満は京都五山の制度を定め、相国寺は第二位に列せられました。

創建当時の相国寺は、南は室町一条あたりに総門があったと伝わり、
室町第の総門を兼ねていました。
寺域は約144万坪に及び、北は上御霊神社の森、東は寺町、
西は大宮通に至る広大なものでした。
事実上、相国寺の開山となった二世の春屋妙葩((しゅんおく みょうは:1312~1388)
も伽藍の完成を見ずに入寂されました。

伽藍完成してから2年後の応永元年(1394)の火災で伽藍の大半が焼失し、
応永32年(1425)にも全焼しました。
その後も、応仁・文明の乱(1467~1477)や天明8年(1788)の大火などで焼失と再建が
繰り返され、明治の神仏分離令による廃仏毀釈や上知令などにより
寺領の大半が失われました。
現在の伽藍の大部分は文化年間(1804~1818)に再建され、
総門は寛政9年(1797)の再建で、京都府の文化財に指定されています。
勅使門
総門の左側には勅使門がありますが、普段は閉じられています。
天明8年(1788)の大火を免れたと伝わり、慶長年間(1596~1614)頃の創建と考えられ、
平成16年(2004)には修復が行われました。
総門と同様に京都府の文化財に指定されています。
天界橋
総門をくぐった左側、勅使門の正面に放生池があり、「天界橋」が架かっています。
「天界」とは、当寺と禁裏御所との中間に境界線の役目を
果たしているところから名付けられました。
天文20年(1551)、細川晴元三好長慶の争いは、この橋をはさんで始まり、
伽藍は焼失しました。(相国寺の戦い
鹿苑寺(金閣寺)と慈照寺(銀閣寺)は、相国寺の山外塔頭ですが、その前哨となる
天文19年(1550)の中尾城の戦いで、慈照寺の観音殿(銀閣)と東求堂を除いて焼失し、
義政遺愛の名宝なども失われ、庭園も荒廃しました。

かって、放生池の先には至徳3年(1386)に立柱上棟が行われた三門がありました。
その後4回の焼失があり、天明8年(1788)の大火後は再建されず、現在に至っています。
弁天社-鳥居
参道の右側には玉龍院、光源院と塔頭が並び、その先に弁天社があり、
京都府の有形文化財に指定されています。
弁天社-拝殿
弁天社-拝殿
京都御苑内で祀られていましたが、明治13年(1880)に御苑内の宮家が東京へと
移転するのに伴い、久邇宮朝彦親王(くにのみや あさひこしんのう:1824~1891)から
相国寺へ寄進されました。
弁天社-本殿
弁天社-本殿
その後、明治18年(1885)に現在地へ遷座されました。
弁財天が祀られています。
鐘楼
弁天社の右側に鐘楼があり、「洪音楼(こうおんろう)」と名付けられています。
天保14年(1843)に再建されたもので、京都府の有形文化財に指定されています。
梵鐘には、「干時寛永六己已季卯月七日」とあり、1629年に鋳造された古鐘を
寛政元年(1789)に購入し、鐘楼が完成するまでは仮楼に吊るされていました。
宗旦稲荷社-1
鐘楼の右奥に宗旦稲荷社があります。
江戸時代の初め頃、相国寺境内に住み着いた狐が、千利休の孫である
千宗旦(せん の そうたん:1578~1658)に化け、相国寺の茶会で宗旦に代わって
お点前をやってのけたことから「宗旦狐」と呼ばれました。
また、ある時は僧堂で坐禅をしたり、托鉢にも行き、
時には寺の和尚と碁を打つなどしたと伝わります。
門前の豆腐屋が資金難から倒産寸前に陥った時、
宗旦狐は蓮の葉をたくさん集めて来て、
それを売って大豆を買うよう勧めました。
豆腐屋はそのお陰で店を建て直すことができ、狐の大好物である
鼠の天婦羅を作って宗旦狐にお礼をしました。
宗旦稲荷社-2
しかし宗旦狐は、それを食べると神通力が失われ、もとの狐の姿に戻り、
それを見た近所の犬たちが激しく吼え始めました。
狐は追われて藪の中に逃げ込み、誤って井戸に落ちたとも、猟師に撃たれて
命を落としてしまったとも伝えられています。
宗旦狐の死を悼み、雲水たちが祠を造って供養したのが宗旦稲荷社です。
法堂-南側
法堂(はっとう)-南側
参道に戻った左前方に法堂(はっとう)があります。
永徳2年(1382)には早くも法堂、仏殿の立柱が行われ、法堂は「法雷堂」と
称されていましたが、伽藍完成から2年後の応永元年(1394)に全焼し、
応永32年(1425)にも再度全焼しました。
法堂-西側
法堂(はっとう)-西側
応仁元年(1467)には相国寺が応仁・文明の乱(1467~1477)の
細川方の陣地となったあおり受けて焼失しました。
天文20年(1551)にも細川晴元と三好長慶の争いに巻き込まれて焼失しました。
この時焼失した仏殿は、その後再建されず、
安置されていた仏像は法堂に遷されました。
天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる
西笑承兌(さいしょう/せいしょう じょうたい)が住職となって
復興が進められました。
法堂-北西側
その後も元和6年(1620)に火災があり、天明8年(1788)の
「天明の大火」では法堂以外のほとんどの堂宇が焼失しました。
現在の法堂は天文20年(1551)に焼失後、慶長10年(1605)に
徳川家康の命により豊臣秀頼が寄進して、再建されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
法堂前にあった仏殿が再建されていないこともあり、本尊の釈迦如来坐像が
安置され、法堂は本堂としての役割も持っています。
正面28.72m、側面22.80mの大きさがあり、法堂建築としては日本最古のものです。
法堂-鳴き龍
拝観受付を済ますと堂内の参拝ができます。
法堂の天井には直径約9mの円内に狩野光信によって蟠龍図が描かれています。
本尊の横付近の特定の場所で手を打つと反響することから
「鳴き龍」とも呼ばれています。

撮影は禁止されていますが、中央に本尊の釈迦如来、向かって左に
阿難尊者(あなんそんじゃ)、右に迦葉尊者(かしょうそんじゃ)の像が安置されています。
本尊と両脇侍は運慶(生没年不詳)の作と伝わります。
西の壇には達磨、臨済、百丈、開山・夢窓国師、東の壇には、
大権修利菩薩、足利義満の像が安置されています。
庫裡
拝観受付で800円を納めて先に進むと、正面に庫裏があります。
文化4年(1807)の再建と伝わり、「香積院」と称され、
京都府の有形文化財に指定されています。
正面向かって左の大玄関は、二世・普明国師(春屋妙葩)の五百年遠忌を記念して
明治16年(1883)に設けられました。
以前は韋駄天を祀る室であったと考えられています。
方丈-勅使門
庫裡から更に西に進むと方丈の勅使門があります。
唐破風の一間一戸の四脚門で、京都府の有形文化財に指定されています。
方丈
庫裡の左側に方丈があり、天明の大火で焼失後、
文化4年(1807)に再建されたもので京都府の有形文化財に指定されています。
北と南にそれぞれ三室あり、原在中などにより襖絵が描かれています。
前庭には、太陽の反射を利用して室内を明るくするために、
白砂が敷き詰められています。
方丈-勅使門-内側
内側から見た方丈勅使門です。
背後に見えるのが法堂で、方丈から渡り廊下で結ばれています。
坪庭
坪庭は石が3個配置されたシンプルな作りとなっています。
裏方丈庭園-1
裏方丈庭園-2
裏方丈庭園-3
裏方丈庭園は、手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸には築山を設け、
深山幽谷の雰囲気を感じさせ、悟りの内容の豊かさを表現しているとされています。
裏方丈庭園は、京都市の名勝に指定されています。
方丈西側庭園
方丈西側庭園

開山堂は法堂の東側にあり、法堂から渡り廊下で結ばれています。
開山堂は応仁元年(1467)の応仁の乱の兵火で焼失し、寛文6年(1666)に
第108代・後水尾天皇により再建されました。
しかし、天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、現在の建物は江戸時代末期に
第116代・桃園天皇の皇后、恭礼門院(きょうらい もんいん:1743~1796)の
黒御殿が下賜され、文化4年(1807)に移築、増改築されました。
前方の礼堂と、その奥に続く中央の祠堂とから成り、
正面奥には夢窓国師像が安置されています。
西の壇には仏光国師像、仏国国師像、普明国師像、足利義満像が安置されています。
開山堂庭園-1
開山堂庭園-2
開山堂庭園-3
開山堂庭園は手前が白砂敷きの平枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山と
なっていて、その間を幅五尺(約151.5cm)ほどの小川が流れていましたが、
昭和十年(1935)頃に水源が途絶えてしまいました。
この流れは上賀茂から南流する御用水『賀茂川~上御霊神社~相国寺境内~
開山堂~功徳院~御所庭園と流れていた水流』を取り入れたもので、寺ではこれを
『龍淵水(りゅうえんすい)』と称し、開山堂をでてからの水路を
『碧玉構(へきぎょくこう)』と称していました。
浴室
開山堂を出て左側の参道を進んだ角に浴室があります。
相国寺の浴室は「宣明(せんみょう)」と呼ばれますが、「宣明」を称せられるのは、
皇室、及び将軍家に限られます。
宣明とは、宋の禅宗建築に示される浴室の別名です。
浴室は室町時代の応永7年(1400)頃に創建されました。
現在の建物は慶長元年(1596)に再建されたもので、
平成14年(2002)に復元修復され、京都府の文化財に指定されました。
浴室は春季に特別公開されます。
禁門変長州藩殉難者墓所-1
浴室の北側を西に進むと「禁門変長州藩殉難者墓所」の碑が建っています。
禁門変長州藩殉難者墓所-2
奥へ進むと墓所があり、元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変
戦死した約200名の長州藩士の内、湯川庄蔵ら20数名がこの地に葬られました。
藤原定家らの墓
右側には藤原定家・足利義政・伊藤若冲の墓が並んでいます。
伊藤若冲の墓は石峰寺(せきほうじ)にもあり、藤原定家の墓は
厭離庵(えんりあん)にもあります。
厭離庵は、藤原定家が小倉百人一首を編纂した小倉山荘跡にある寺で、
定家塚や定家の嗣子である為家塚が残されています。

晩年の伊藤若冲は、石峰寺の門前に自宅を構え、若冲が下絵を描き、
当寺の住職と協力して寺の境内裏山に五百羅漢の石像群を造立しました。
また、観音堂の格天井には天井画を描きました。
寛政12年(1800)9月10日、85歳の生涯を閉じ、石峰寺に葬られました。

足利義政は、室町幕府第8代将軍で、幕府の財政難と土一揆に苦しんで政治を疎み、
幕政を正室の日野富子細川勝元山名宗全らの有力守護大名に委ねて、
自らは東山文化を築いた文化人でした。
義政には富子との間に男子がありましたが、長禄3年(1459)に早世(そうせい)し、
その後、嫡子が恵まれなかったため、実弟の義尋(ぎじん)を還俗させて
足利義視(あしかが よしみ)と名乗らせ、養子として次期将軍に決定しました。
しかし、寛正6年(1465)に富子に男児(後の足利義尚)が誕生したため、
義政はどちらにも将軍職を譲りませんでした。
応仁元年(1467)正月、義政は御霊合戦で敗北した畠山政長の家督復帰を許し、
これに反発した畠山義就(はたけやま よしひろ/よしなり)が政長と
合戦に及んで応仁・文明の乱(1467~1477)が起こりました。
義政は東軍の細川勝元に将軍旗を与え、義視が逃げ込んだ
西軍・山名宗全追討の命令を下しました。
文明5年(1473)、西軍の山名宗全、東軍の細川勝元の両名が死んだことを契機に、
義政は12月19日に将軍職を子で9歳の義尚へ譲りました。
しかし、実権を握り続けたため、義尚・富子と対立するようになり、
それから逃れるように東山山荘の建築を本格化させますが、応仁の乱で疲弊した
庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して行われたものでした。
天響楼
浴室から南へと戻った所に「天響楼(てんきょうろう)」があります。
平成22年(2011)に建立し落慶法要が行われた新しい鐘楼です。
この鐘は、中国の河南省、開封市にある大相国寺により二つ鋳造され、
その一つが日中佛法興隆・両寺友好の記念として寄進されたもので、
「友好紀念鐘」の銘や「般若心経」の経文が刻されています。
友好記念碑
傍らには、インド産の黒御影石で造られた友好記念碑が建立されています。
平成6年(1994)に日中両相国寺が友好条約を締結した記念に
両相国寺の境内に建立されました。
八幡宮-1
天響楼の南側に鎮守社の八幡宮があります。
八幡宮-2
義満が石清水八幡宮から勧請し、創建当初は今出川通の北で祀られていました。
「御所八幡町」の地名が残され、御神体を奉迎した時は石清水八幡宮から
当寺までの沿道ことごとくに白布を敷きつめたと伝わります。
後水尾帝歯髪塚
八幡宮の南側に後水尾帝歯髪塚があります。
かってこの地には七重大塔がありました。
応永6年(1399)に足利義満によって建立された大塔は、
全高(尖塔高)109.1mを誇り、史上最も高かった日本様式の仏塔でした。
しかし、応永10年(1403)に落雷により焼失し、承応2年(1653)に
後水尾上皇が大塔を再建されました。
その時、出家落髪の時の髪と歯を上層柱心に納められましたが、
天明8年(1788)の天明の大火で焼失し、その跡地に歯髪塚が建立されました。
経蔵
その南側に京都府の有形文化財に指定されている経蔵があります。
現在の建物は、天明の大火で焼失した宝塔の跡地に、万延元年(1860)に建立されました。
仏舎利が納められ、宝塔としての機能も兼ねていましたが、
その後、仏舎利は他の堂宇に遷されました。

塔頭の大光明寺へ向かいます。
続く
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山門
烏丸今出川から烏丸通を北へ進んだ二筋目の北西角に大聖寺があります。
山号を「岳松山」と号し、花の御所の跡地の一部にあって「御寺御所」とも称する、
天皇家ゆかりの尼門跡寺院で、臨済宗系の単立です。
神仏霊場・第98番札所ですが、普段は非公開で、御朱印の授与のみ可能です。

第3代将軍・足利義満の正室・日野業子(ひの なりこ)の叔母であり、
北朝初代・光厳天皇(1313~1364)の妃であった日野宣子(のぶこ:1326~1382)は、
貞治7年(1368)に光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、
春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を導師として落飾(出家)しました。
出家後「無相定円」と称し、義満に招かれ花の御所内の岡松殿に住しました。
永徳2年(1382)、無相定円が亡くなった後、西園寺実衡(さいおんじ さねひら)の
孫である玉厳悟心尼(ぎょくがんごしんに:生没年不詳)を開基として、
岡松殿を寺にしたのが大聖寺です。
寺号は無相定円の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」に因み、
山号の岳松山は岡松殿に由来します。

室町時代、北朝最後の第6代・後小松天皇の内親王が入寺して以降、
皇女が入寺するようになりました。
寺はその後、永享2年(1430)に長谷(現・左京区岩倉長谷町)に移転し、
さらに文明11年(1479)には毘沙門町(現・上京区上立売通寺町西入る)に
移転しましたが、延宝元年(1673)に焼失しました。
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/在位:1557~1586)の皇女が入寺した際、
天皇から尼寺第一位の綸旨を得、尼門跡寺院となっています。
江戸時代の元禄10年(1697)に現在地で大聖寺が再興されました。
現在地には聖護院がありましたが、延宝3年(1675)に焼失し、
翌年に現在地へ移転して跡地が残されていました。
その後、天巌永皎(てんがん えいこう:1733~1808)が住持職の時に
「御寺御所」の称号を授かり、天巌永皎は大聖寺中興の祖とされました。

山門は江戸時代後期(1751~1830)に建立されたものを、大正11年(1922)に
移築したもので、国の登録有形文化財に指定されています。
花山院慈薫の歌碑
門を入った左側に第27世・花山院慈薫(かさのいん じくん:1910~2006)の
歌碑が建立されています。
「九品仏 慈悲の眼の変らねば いづれの御手に 吾はすがらむ」
背後の高塀は国の登録有形文化財に指定されています。
表門から玄関への通路と境内前庭を区切り、玄関東南隅から南へ36m延び、
南面築地塀へと続いています。
玄関
宮御殿の東側にある玄関は大正12年(1923)に建立されたもので、
国の登録有形文化財に指定されています。
桁行15m、梁間5,3m、入母屋造桟瓦葺で、東面に唐破風造銅板葺の
大きな車寄せがあります。
南から応接室、玄関、内玄関、納戸を並べ、背面に廊下で本堂と繋がれています。
本堂は第123代・大正天皇の妃・貞明皇后の御殿であったものを、
昭和18年(1943)に東京の青山御所から移築されました。
本尊の釈迦如来像や地蔵菩薩、観音像が安置されています。
書院は「宮御殿」とも呼ばれ、第119代・光格天皇の皇女・普明浄院宮(1820~1830)が
入寺の際、宮中から移築されました。
普明浄院宮は幕末に門主を務めた24代の内親王の最後となりました。

本堂前庭の枯山水式庭園は、江戸時代中期の元禄10年(1697)に
第109代・明正天皇の「河原の御殿」から形見として樹木や石が
下賜されて作庭されました。
大聖寺庭園は京都市の名勝に指定されています。
冷泉家住宅
今出川通まで戻り、東へ進むと通りに面して同志社大学の一画に
冷泉家住宅が残されています。
大正6年(1917)に今出川通が拡張され、敷地は縮小されましたが、現在の建物は
寛政2年(1790)に再建されたもので、国の重要文化財に指定されています。

冷泉家(れいぜいけ)は、冷泉為相(れいぜい ためすけ:1263~1328)を祖とし、
平安京の冷泉小路が家名の由来となりました。
為相の祖父は藤原定家(ふじわら の さだいえ/ていか:1162~1241)で、定家は
父・俊成(としなり:1114~1204)と共に和歌の家としての地位を確立しました。
第3代当主・冷泉為尹(れいぜい ためまさ:1361~1417)子の代から
上冷泉家と下冷泉家に分かれ、戦国時代には上冷泉家は地方に下向していました。
豊臣秀吉が現在の京都御苑周辺に公家町を形成しましたが、その成立後に
上冷泉家が都へ戻ることを許されたため、公家町内に屋敷を構える事が出来ず、
現在地に徳川家康から敷地を贈られ、屋敷を構えました。
明治維新で多くの公家が東京へ移住し、京都御苑内にあった下冷泉家や
他の公家屋敷は取り壊されましたが、上冷泉家は京都で住み続けたため、残されました。
上冷泉家第24代当主・冷泉為任(れいぜい ためとう:1914~1986)により
昭和56年(1981)に冷泉家時雨亭文庫が設立され、冷泉家住宅や昔ながらの
年中行事などの保持が行われています。
通常は非公開ですが、「非公開文化財特別拝観」の一環として、
毎年秋に4日間に限って公開されています。

相国寺へ向かいます。
続く
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鳥居
今出川通を堀川通から約50m東へ進んだ北側に、今出川通に面して
白峯神宮の木製鳥居が建っています。
神門
鳥居をくぐると神門があります。
拝殿
神門を入った正面に拝殿があり、その手前には左近の桜と
右近の橘が植栽されています。
社務所
境内の南西側に社務所があり、その前には家内安全・夫婦和楽の
三葉の松が植栽されています。
蹴鞠の庭
北側に蹴鞠の庭があり、毎年4月14日の春季例大祭・淳仁天皇祭と
7月7日の精大明神例祭「七夕祭」では蹴鞠が奉納されています。
かって、この地には蹴鞠の宗家であった飛鳥井家の屋敷がありました。
飛鳥井家は難波頼経(生誕不詳~1217)の子・雅経(1170~1221)を祖とします。
難波頼経は、源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかったために配流され、
雅経も連座して鎌倉に護送されました。
雅経は、頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、
建久8年(1197)には赦免されて帰京しました。
その後は後鳥羽上皇の近臣として重んじられ、勅撰和歌集『新古今和歌集』の
撰者の一人となりました。
また、蹴鞠の優れた才能から、上皇からは「蹴鞠長者」の称号を与えられ、
後に飛鳥井流蹴鞠の祖となりました。
明治維新に伴って邸宅は東京に移転し、その跡地が白峯神宮となりました。
本殿
現在の本殿には第75代・崇徳天皇(すとくてんのう:1119~1164)と
第47代・淳仁天皇(じゅんにんてんのう:733~765)が祀られています。
崇徳天皇は、永治元年(1141)に鳥羽上皇から退位を迫られ、近衛天皇(在位:1142~1155)
へ譲位して上皇となりましたが、実権は鳥羽法皇に握られたままでした。
保元元年(1156)に鳥羽法皇が崩御されると保元の乱が起こり、崇徳上皇は敗れて
讃岐国へ配流され、8年後の長寛2年(1164)に46歳で崩御されました。
遺詔により白峯寺で荼毘に付され陵墓が造られました。
白峯寺は空海が弘仁6年(815)にこの地を訪れ、標高357mの白峯山頂に如意宝珠を埋めて、
仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした所に貞観2年(860)、
智証大師円珍が訪れ、千手観世音菩薩を刻んで本尊とし、
安置する仏堂を建立したのが始まりとされています。

上皇の崩御後、天変地異が相次いだことから上皇の祟りとされ、上皇が葬られた
白峯陵(香川県坂出市)の隣に、上皇の菩提を弔う為に府中の木丸殿が移築され
法華堂(現:白峯寺の頓証寺殿)が建立されました。
以後、朝廷の命により白峯寺による供養会が営まれるようになりました。
第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)は、慶応2年(1866)に幕府に命じて
白峯宮の建設を始めましたが間もなく崩御されました。
第122代・明治天皇(在位:1867~1912)はその遺志を継ぎ、慶応4年(1868)の
旧暦8月18日に白峯宮の創建を宣命し、勅使を白峯陵に送り、上皇の命日の
旧暦8月26日に宣旨を読みあげさせ、その翌日に即位しました。
その勅使により、同年旧暦9月6日上皇の御霊が讃岐国から京都へ遷されました。
頓証寺殿(旧:法華堂)の本尊であった崇徳上皇僧形座像図が白峯神宮で安置され、
その翌日に明治天皇が参拝され、その翌日の旧暦9月8日には明治に改元されました。

第47代・淳仁天皇の神霊は、明治6年(1873)に合祀されました。
淳仁天皇(在位:758~764)は、天平宝字2年(758)に即位しましたが、
政治の実権はほとんど藤原仲麻呂(706~764/後に恵美押勝に改名)に握られていました。
弓削道鏡(ゆげ の どうきょう:700~772)を弓削道鏡を寵愛するようになった
孝謙上皇を、仲麻呂の進言により天皇がこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、
天皇は上皇と対立するようになりました。
上皇が「天皇は恒例の祭祀などの小事を行え。国家の大事と賞罰は自分が行う」と
宣言したため、天平宝字8年(764)に藤原仲麻呂が政権を奪取しようと
兵力を集めましたが密告され、捕らえられて斬首されました。(藤原仲麻呂の乱)
淳仁天皇は乱には加担していなかったのですが、「仲麻呂と関係が深かったこと」を
理由に廃位を宣告され、天平宝字8年10月14日(764年11月11日)に親王の待遇をもって
淡路国に配流されました。
孝謙上皇は重祚して第48代・称徳天皇(在位:764~770)となり、淳仁天皇は
称徳天皇の意向により、長らく天皇の一人と認められず、
「廃帝」または「淡路廃帝」と呼ばれていました。
廃帝は天平神護元年(765)10月に逃亡を図りましたが失敗し、
翌日に亡くなって淡路国三原郡に葬られました。
明治3年7月24日(1870年8月20日)に、明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られ、
白峯神宮へ合祀されると神宮は官幣中社となり、昭和15年(1940)8月1日には
官幣大社に昇格し、神宮の号を許され「白峯宮」から「白峯神宮」と改称されました。
現在は神社本庁の別表神社に列せられています。
本殿前の鈴
本殿前には重い鈴と軽い鈴が祀られ、鈴を持ち上げ、願い事を込めながら1~2回振り、
ガラガラと音を出すと新たな願いが成就するとされています。
潜龍社
本殿の右奥に潜龍社(せんりゅうしゃ)があり、白峯龍王命・紅峯姫王命・
紫峯大龍王命が祀られています。
昭和30年(1955)に本殿にて御火焚祭の斎行中、炎の中に出現した
三柱の龍神とされています。
社殿前に龍の口から湧き出ている潜龍井の水は、飲むと諸々の悪縁を断ち、
災難除・病気平癒・事業隆昌などに霊験ありとされています。
伴緒社
南側に伴緒社(とものおしゃ)があり、 源為義・源為朝父子が祀られ、
武道の神と信仰されています。
源為義(みなもと の ためよし:1096~1156)は、保元元年(1156)の保元の乱で
崇徳上皇方につき、敗れて為義の長男・義朝(1123~1160)により斬首されました。
為義の父・源義家(1039~1106)の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を
凋落させていましたが、都から東国へ下向した義朝は、
在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられました。
義朝は鳥羽法皇に接近し、為義は摂関家と結んで競合・対立していくことになり、
保元の乱では敵対して争いました。
源為朝(1139~1170)は為義の八男で、保元の乱では父と共に崇徳上皇方に参加したため、
敗れて伊豆大島へ配流されました。
為朝は剛弓の使い手で、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、伊豆大島でも
国司に従わず、大暴れして伊豆諸島を事実上支配したことから、
追討を受け自害して果てました。
崇徳天皇歌碑
南側には崇徳天皇欽仰(きんぎょう=尊敬し慕うこと)之碑が建立されています
「瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われても末に あはむとぞ思ふ」
現代語訳:浅瀬の流れが速く、岩にせき止められた滝川が2つに分かれても
その後には合流するように、愛しいあの人と今は分かれても、
いつかはきっと再会しようと思っている。
地主神社-1
地主社の右御前には柊大明神(ひいらぎだいみょうじん)と
糸元大明神が祀られています。
糸元大明神は織物繁栄・和装の神で、柊大明神は魔除・厄除の神とされ、
毎年2月3日に行われる節分祭では、その時期に限り厄落しには絶大なる
「柊護符」が授与されます。
地主神社-2
中御前には精大明神(せいだいみょうじん)が祀られています。
「まり精大明神」とも呼ばれ、飛鳥井家の邸内社として祀られていたものを
地主社として引き継がれています。
球技・スポーツ芸能上達の神とされることから球技のボールが多数奉納されています。
また、毎年7月7日に例祭が行われることから「七夕の神」とも呼ばれています。

左御前には学業成就の神とされる白峯天神と無病息災の神とされる
今宮大神が祀られています。
白峯神宮の創建時に中御前へ左右御前の神々を合祀して地主社とされました。
蹴鞠の碑
右側には蹴鞠保存会の創立百周年を記念する「蹴鞠の碑」が建てられ、
球技上達の「撫で鞠」が埋め込まれています。
蹴鞠保存会は明治36年(1903)に創立され、蹴鞠の技術・作法・有職故実等の伝統継承が
行われています。
オガタマの木
境内の南東側に聳える「オガタマの木」は、飛鳥井家の邸宅であった時代に
植えられたものと推定され、市内最大で京都市の天然記念物に指定されています。
西村尚歌碑
その左側には西村尚(ひさし:1935~2014)の歌碑が建立されています。
「小賀玉の しじ葉がもとの 飛鳥井の 井筒むかしの 物語せよ」
手水舎
手前にある手水舎は、清少納言が『枕草子』第百六十八段で
「飛鳥井は、ほりかねの井」と他にも八つの名水をあげていますが、
明確に現存するのは飛鳥井のみです。
室町第の碑
白峯神宮を後にして今出川通を東へ進むと、室町通との角に
「従是東北足利幕府室町第址」の碑が建っています。
室町第は足利第3代将軍・義満(在職:1369~1395)が永和4年(1378)に造営した邸宅で、
室町通に面して正門が設けられたことから「室町殿」、「室町第」と呼ばれました。
元の室町家の花亭と今出川家の菊亭を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地を
有する邸宅で、現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある
同志社大学・寒梅館以南に位置していました。
鴨川から水が引かれ、花がたくさん植えられた庭園の美しさから「花の御所」とも
呼ばれましたが、度重なる戦乱により消失と再興が繰り返されたため
当時の建物は残されていません。

今出川通から烏丸通を北上し、同志社大学・寒梅館の南に隣接する
大聖寺へ向かいます。
続く
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一の鳥居
堀川通を今出川通から南下した西側に晴明神社の一の鳥居が建立されています。
一の鳥居-扁額
鳥居に掛る扁額には神紋の晴明桔梗印が掲げられています。
神紋の五芒星(ごぼうせい)は、桔梗の花を図案化したもので、
陰陽道では魔除けの呪符として伝えられています。
しかし、意味するものは難解で、詳細は割愛します。

かって、この地には安倍晴明の屋敷があり、晴明は平安京・内裏の鬼門を
封じるために屋敷を設けたと伝わります。
創建当時の晴明神社は、東は堀川通、西は黒門通、北は元誓願寺通、
南は中立売通に至る広大なものでした。
一条戻橋の欄干
鳥居をくぐった左側に一条戻橋の欄干の親柱が境内に移され、
橋が再現されています。
この親柱は大正11年(1922)から平成7年(1995)まで
実際に使用されていたものです。

橋の脇には式神の石像が置かれていますが、式神は本来は人の眼には見えないそうです。
安倍晴明は式神十二体を自由に操り、
日常は一条戻橋の下に封じ込めていたと伝わります。
二の鳥居
参道を進み葭屋町通(よしやまちどおり)を横断した所に、
二の鳥居が建立されています。
鳥居に掛る社号額は、安政元年(1854)に土御門晴雄(1827~1869)により奉納されたものを
忠実に再現し、平成29年(2017)に新調されました。
晴明の14代目の子孫で陰陽師の安倍有世(あべ の ありよ:1327~1405)から、
本姓ではなく家名を名乗るようになり、土御門家の初代とされています。
土御門晴雄は、明治新政府で編暦・頒暦といった暦の権限のみならず、
測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握する事に成功しました。
しかし、新政府に天文や測量は科学の礎でありまた陸海軍の円滑な運営にも欠かせない
という正確な認識が広まり、明治3年(1870)に陰陽寮は解体されました。
土御門晴雄は、陰陽道としての土御門家の最後の当主となりました。
晴明井
二の鳥居をくぐった右側に晴明井があり、
安倍晴明の念力により湧き出たとされています。

画像は撮り忘れましたが、かってこの地に千利休の屋敷があったとされ、
晴明神社の一角に千利休屋敷跡の碑が建立されています。
千利休は晴明井の水を茶の湯に使用していたとされ、
豊臣秀吉もその茶を服したと伝わります。

井戸の上部には五芒星が刻まれた石が設置され、
星型の頂点の一つには取水口があります。
取水口の方向はその歳の恵方を向いており、恵方は毎年変わるため、
立春の日に上部の石を回転させ、その年の恵方に合わせます。
本殿-1
正面に本殿があり、現在の本殿は、明治38年に建てられました。
晴明神社は平安時代の寛弘4年(1007)に創建されました。
寛弘2年(1005)、安倍晴明が亡くなると第66代・一条天皇(在位:986~1011)は、
晴明の遺業を賛え、その屋敷跡に晴明を祀る神社を創建しました。
本殿-2
室町時代、応仁・文明の乱(1467~1477)で社殿は焼失し、更に安土・桃山時代には
豊臣秀吉による都市改造により社地は縮小され、古書、宝物なども散逸し、
社殿も荒れたままの時代が続きました。
幕末の嘉永6年(1853)以降、氏子らが中心となって社殿・境内の整備が行われ、
昭和25年(1950)には堀川通に面するように境内地が拡張されました。
齋稲荷社-1
本殿の右側には末社・齋稲荷社(いつきいなりしゃ)、天満社、地主社があります。
齋稲荷社-2
齋稲荷社の齋とは、賀茂神社に仕える齋王が籠る場所である
齋院(さいいん)にあったことに由来します。
また、晴明は稲荷神の生まれ変わりとする説もあります。
晴明像
本殿の前に安倍晴明の像が建立されています。
晴明神社に保存されている肖像画を元に作成され、衣の下で印を結び、
夜空の星を見て天体を観測している姿を表しています。

安倍晴明は延喜21年(921)に摂津国阿倍野(現・大阪市阿倍野区)に生まれた
とされていますが、安倍文殊院では当地が生誕の地としています。
幼くして京都に移り、陰陽師・賀茂忠行保憲父子に陰陽道を学び、
天文道を伝授されたと伝わります。
第61代・朱雀天皇の信を得て仕えると、第62代・村上天皇の時代には、
天徳4年(960)に40歳で陰陽寮に所属し、天文博士から天文道を
学ぶ学生の職である天文得業生となり、50歳の頃天文博士となりました。
天元2年(979)、59歳の晴明は当時の皇太子・師貞親王
(もろさだしんのう=後の第65代・花山天皇)の命で那智山の天狗を
封ずる儀式を行いました。
熊野古道・大門坂の上部には、花山天皇にお供した安倍晴明が庵を結び、
その庵の近くにあった「晴明橋」の石材が残されています。

小右記』によると、正暦4年(993)、第66代・一条天皇が急な病に伏せった折、
晴明が禊(みそぎ)を奉仕したところ、たちまち病は回復したため
正五位上に叙されたと記されています。
また、『御堂関白記』によると、寛弘元年(1004)には深刻な干魃が続いたため、
晴明に雨乞いの五龍祭を行わせたところ、雨が降り、一条天皇は
晴明の力によるものと認め被物(かずけもの)を与えたことなどが記されています。

晴明の2人の息子・安倍吉昌(955?~1019)と安倍吉平(954?~1027)が
天文博士や陰陽助に任ぜられるなど、安倍氏は晴明の師家である賀茂氏と
並ぶ陰陽道の家としての地位を確立しました。
晴明の死後、早くも神格化され、歴史物語の『大鏡』『十訓抄』や説話集の
今昔物語集』『宇治拾遺物語』はいくつかの晴明に関する
神秘的な逸話が掲載されています。
厄除桃
社殿前の右側には「厄除桃」の像があり、桃を撫でることによって
身を清めるとされています。

古くから桃には邪気を祓う力があると考えられ、『古事記』では、
伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、
黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させた。
伊弉諸尊はその功を称え、桃に「大神実命(おおかむづみのみこと)」の名を
与えたと記されています。
御神木
「厄除桃」の前に、樹齢約300年とされる御神木の楠が葉を繁らせています。
一条戻橋
晴明神社前の堀川通を神社から約100m南に進んだ所に一条戻橋が架かっています。
現在の橋は平成7年(1995)に架け替えられたもので、
橋の長さも幅も拡げられました。
一条戻橋の下-上流
橋の上流の方には、かっての橋の面影が残されているような気がします。

「戻橋」と呼ばれるようになった伝承が残されています。
延喜18年(918)に漢学者・三善清行(みよしきよつら)が亡くなった際、
熊野で修行中の子・浄蔵は父の死を聞いて急ぎ帰り、
この橋の上で葬列に追い付きました。
棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、
父子が抱き合ったとの伝説から「戻橋」と名付けられました。

『平家物語』剣巻では、源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が、
夜中に戻橋の東詰を通りかかると、美しい女性から、
「夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしい」と頼まれました。
綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、
それを引き受け馬に乗せました。
すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へと
飛び立ちました。
綱は鬼の腕を太刀で切り落とし、北野社の回廊に落ちて屋根は破れましたが
命は救われました。
切り落とした腕は摂津国渡辺(大阪市中央区)の渡辺綱の屋敷に置かれていたのですが、
綱の義母に化けた鬼が取り戻したとされています。
また、北野天満宮には渡辺綱が寄進したと伝わる石灯籠が、
現在でも残されています。
一条戻橋の下-2
戻橋の下には安倍晴明によって封じ込められた12名の式神が住みつき、
その式神が橋占を行う名所でもありました。
源平盛衰記』巻十によれば、高倉天皇の中宮・建礼門院の出産の際、
その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行いました。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子
(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったとされ、その予言が正しければ、
僅か8歳で壇ノ浦に入水した悲惨なものだったと思われます。

戻橋には嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は嫁が実家に戻って来ては
いけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があり、
逆に太平洋戦争中、応召兵とその家族は無事に戻ってくるよう願って
この橋に渡りに来ることがありました。
御成橋
一条戻橋の下流には中立売通に、明治6年(1873)に架け替えられた
堀川第一橋が架かっています。
江戸時代には「御成橋」と呼ばれ、天皇の行幸路になっていました。

一条通を東へ進み、その先の油小路通を北上して、今出川通との角にある
白峯神宮へ向かいます。
続く
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