2021年09月

宜秋門
宜秋門
京都御所及び仙洞御所は平成28年(2016)7月26日から月曜日と年末年始を除き、
通年一般公開されていますが、現在は新型コロナによる緊急事態宣言が発令中のため
拝観は休止され、10月1日から再開されるそうです。
記事は平成30年(2018)11月1日から11月5日まで開催されていた
「京都御所 宮廷文化の紹介」で、拝観が再開され次第、記事を更新する予定です。

京都御所西側の皇后門から少し南へ進んだ所に清所門がありますが、
画像を撮り忘れました。
かっては、御台所御門と呼ばれ御所の勝手口として使用されていましたが、
現在は一般拝観の出口として使用されています。

その南側に「宜秋門(ぎしゅうもん)」があり、一般拝観の入口となっています。
門を入る前に、手荷物のチェックが行われます。
宜秋門は、平安京では内裏外郭の西正面にありました。
御車寄
門を入って南へ曲がった所に「御車寄」があります。
儀式や天皇に参内した者を迎える玄関で、公卿や殿上人(てんじょうびと)など
限られた者だけに使用が許されていました。
殿上人とは、天皇の日常生活の場である清涼殿の殿上間に昇ること(昇殿)を
許された者で、公卿を除いた四位以下の者を指します。
諸大夫の間-西側
諸大夫の間-西側
諸大夫の間-東側
諸大夫の間-東側
諸大夫の間-間と畳
諸大夫の間-畳縁の色
諸大夫の間-間図
諸大夫の間-襖の図
御車寄から南へ進んだ所に「諸大夫の間(しょだいぶのま)」があります。
参内した者の控えの間がある建物で、襖の絵にちなんで格の高い順に「虎の間」、
「鶴の間」、「桜の間」と呼ばれる三室が東から並びます。
格屋の違いは畳縁の色の違いなどにも反映されています。
「虎の間」や「鶴の間」が使用できる者は御車寄から参入しますが、
「桜の間」を使用する者は、左の沓脱石から参入しました。
諸大夫の間は本来桜の間を指しますが、
普通にはこの一棟三間の総称として用いられています。
新御車寄
諸大夫の間の南側に「新御車寄」があります。
大正4年(1915)に第123代・大正天皇の即位礼が紫宸殿で行われるのに際し、
馬車による行幸に対応する玄関として新設されました。
天皇が御所の南面から出入りされた伝統を踏まえ、南向きに建てられています。
月華門
新御車寄から東へ進んだ所に「月華門」があります。
内裏を構成する内閤門のうちの一つで、東の「日華門」と相対し、
月華門は紫宸殿南庭(なんてい/だんてい)の西側の門です。
生け花-1
生け花-2
生け花-3
月華門には生け花の展示が行われています。
高御座の写真-1
高御座の写真-2
また、天皇の御座である「高御座(たかみくら)」と皇后の御座の
「御帳台(みちょうだい)」の写真が展示されています。
高御座と御帳台の造りはほぼ同じですが、高御座と比べ
御帳台は1割程度小さく造られています。
現物は令和元年(2019)10月22日に新天皇の即位を国内外に宣言する
「即位礼正殿の儀」で使われるために、平成30年(2018)9月25日の深夜に
東京の皇居へと運び出されました。
現在の高御座と御帳台は、大正2年(1913)に制作され、大正、昭和、平成の
即位礼で使用されました。
建礼門-内側
月華門を入った南側に「建礼門」があり、その内側です。
京都御所の正門で、天皇・皇后及び外国元首級のみが通ることのできる、
最も格式の高い門です。
承明門の写真
「承明門(じょうめいもん)」は、平成30年7月4日から回廊及び春興殿の
修復工事が行われているため、門や回廊はシートで覆われています。
写真のみが掲載されていました。
春興殿
「春興殿」もシートで覆われていますが、京都御所で行われた大正天皇の即位礼に
合わせて大正4年(1915)に造営され、「賢所大前の儀」が行われました。
賢所大前の儀とは、即位礼の時、天皇が即位したことを自ら賢所(かしこどころ)に
告げる儀式のことで、賢所は天照大神 (あまてらすおおみかみ) の御霊代 (みたましろ) 
として神鏡を奉安してある所です。
大正天皇の即位礼では、皇居から神鏡が遷され奉安されました。
建春門-内側
東にある「建春門」の内側です。
日華門
「建春門」の西、やや北寄りにある「日華門」を入ります。
紫宸殿
門を入った北側に「紫宸殿」があります。
平安京の紫宸殿は鎌倉時代の安貞(あんてい)元年(1227)に焼失してからは
再建されることは無く、跡地は一時荒野して、「内野」と呼ばれました。
南北朝時代に現在地に皇居が遷されてからも、度々焼失と再建が繰り返され、
現在の建物は嘉永7年(1854)の大火後、
安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
慶応4年(1868)には「五箇条の御誓文」の舞台となり、
明治、大正、昭和の天皇の即位礼はこの建物内で行われました。
左近の桜
左近の桜
右近の橘
右近の橘
紫宸殿の前は「南庭(だんてい)」と呼ばれ、
儀式の場として重要な役割を持っています。
紫宸殿に向かって右に左近の桜、左に右近の橘が植えられています。
左近・右近は左近衛府(さこんえふ)・右近衛府の略称で、左近は紫宸殿の東方に、
右近は西方に陣を敷き、その陣頭の辺に植えられていたのでこの名があります。
紫宸殿-内部
紫宸殿の母屋(もや)と北廂(きたひさし)の間に賢聖障子(けんじょうのしょうじ)が
立てられています。

中央には獅子・狛犬と負文亀(ふぶんき)が描かれています。
賢聖障子-西
賢聖障子-西
賢聖障子-中央
賢聖障子-中央
賢聖障子-東
賢聖障子-東
賢聖障子の左右(東西)には古代中国の賢人が一間に4名ずつ、
合計32名の像が描かれています。
賢聖障子は平安時代から紫宸殿で儀式などの際に立てられていたとされ、
現在の賢聖障子は寛政元年(1789)の内裏造営の時に、
狩野典信(かのうみちのぶ)が下絵を描きました。
狩野典信は内裏完成前に亡くなったため、住吉廣行が後を引き継ぎ完成させました。
嘉永7年(1854)の大火では、賢聖障子は持ち出されて焼失は免れましたが、
破損したものもあり、廣行の息子・住吉弘貫(ひろつら)が一部を修理、制作しました。
昭和41年(1966)から45年(1970)にかけて摸写され、
現在は複製されたものが立てられています。
清涼殿
紫宸殿の西側を北へ進んだ所に清涼殿があります。
清涼殿は平安時代中期(10世紀中ごろ)からは天皇の日常生活の居所として
定着するようになり、日常の政務の他四方拝叙位除目などの行事も行われました。
皇居が現在地に遷った後、天正17年(1589)に豊臣秀吉により天皇の日常の御座所として
「御常御殿」が建立されてからは、主に儀式の際に使用されるようになりました。
現在の建物は安政2年(1855)に平安時代の復古様式で建てられました。
呉竹
呉竹
漢竹
漢竹
清涼殿の前庭には向かって右側に呉竹、左側に漢竹(かわたけ)が植えられています。
御帳台
建物内には天皇の寝室である「御帳台(みちょうだい)」が再現されています。
御帳台の前に獅子と狛犬が置かれています。
台座の裏側には「宝永5年(1708)8月調進」と記されていますが、
獅子・狛犬はそれ以前の作と伝わります。

画像はありませんが、清涼殿の北東の隅には「荒海障子」が置かれています。
清少納言が『枕草子』で「清涼殿の丑寅の隅の、北のへだてなる御障子は、荒海のかた、
生きたる物どものおそろしげなる、手長足長などをぞかきたる。」と記し、
これに因み「荒海障子」と称されるようになりました。
図柄は中国の『山海経(さんがいきょう)』から題材としてとられ、
手足の長い人間が協力して漁をしている姿には教訓的な意味があるとも伝わります。
現在のものは安政2年(1855)に御用絵師の土佐光清が伝統的な図柄に基づき、
描かれたものの摸写ですが、襖障子の工法や素材は安政当時のものが復元されています。
表面は劣化を避け、ガラスで覆われています。
滝口
清涼殿の北側には「滝口」が復元されています。
「滝口」は清涼殿を警護する滝口武者(たきぐちのむしゃ)が詰所としていました。
内裏の御殿、塀などに沿って、その周囲の庭を流れる溝の水は
「御溝水(みかわみず)」と呼ばれ、清涼殿の東は古くは石を立て、
風流に仕立てられていました。
その水の落ち口近くにある渡り廊を詰め所にして宿直したことから、
清涼殿警護の武者を「滝口」と呼ぶ様になりました。
北の廊下
「滝口」から東側に小御所(こごしょ)及びその北側の御学問所へと続く
廊下の建物があります。
小御所
廊下の先にある小御所
承明門の扁額
清涼殿から小御所へと出た所に承明門(じょうめいもん)の扁額が展示されています。
承明門は中世に一度廃絶しましたが、寛政2年(1790)の造営時に再建され、
嘉永7年(1854)の大火後、安政2年(1855)に再建されました。
承明門は儀式では公卿が参入する重要な門となっています。
この扁額は享和3年(1803)に掲げられ、嘉永7年(1854)の大火でも焼失を免れました。
地球儀
また、地球儀の写真が展示されていました。
明治天皇の即位礼では地球儀が用いられました。
当日は前日までの雨で南庭(だんてい)がぬかるんでいたため、
地球儀は承明門の下に設置されました。
明治天皇の即位礼は、従来行われてきた唐風を廃して我が国古来の装束を用い、
古式を重んじる一方で、地球儀を取り入れて新しさの象徴とされました。
地球儀は嘉永5年(1852)に水戸藩氏の蘭学者・鱸半兵衛重時(すずきはんべえしげとき)
によって製作され、直径約109cm、高さ約150cmあり、
江戸時代に国内で製作された最大の地球儀でした。
即位礼の図
即位礼の図のように晴天の場合は、地球儀は南庭に置かれる予定でした。
小御所-正面
小御所は鎌倉時代以降に建てられた御殿で、江戸時代は武家との対面や
儀式の場として使用されました。
明治維新の際には、将軍の処置に対する「小御所」の舞台となりました。
小御所-内部
小御所の内部
践祚の図
小御所には慶応3年正月9日(1867年2月13日)に行われた践祚(せんそ)の図が
展示されています。
慶応2年12月25日(1867年1月30日)に第121代・孝明天皇が崩御され、
清涼殿は葬儀の場として使用されることになりました。
践祚の儀式は清涼殿に代わって小御所が用いられ、
内部には清涼殿の調度が移設されました。
この席で関白左大臣・二条斉敬(にじょう なりゆき)は摂政とする勅命が
下されましたが、約1年後に大政奉還と明治政府の発足により、
関白・摂政等の職制は廃止されました。
御池庭-2
小御所前に御池庭(おいけにわ)があり、池を中心とした回遊式庭園が築かれています。
平安京時代にはこのような庭園は築かれておらず、
江戸時代の元和5年(1619)に作庭され、小堀遠州が関わったと伝わります。
その後6度の火災に見舞われて改修が繰り返され、
延宝年間(1673~1681)に現在の庭が完成しました。
前面は海辺を表し小石が並べられた洲浜(すはま)で、
その中に舟着への飛び石を置いています。
欅橋
池の南側には欅橋(けやきばし)が、
「蓬莱島」と呼ばれる最も大きな中島へと架けられています。
蹴鞠の庭
小御所の北側、御学問所との間に「蹴鞠の庭」があります。
明治天皇は自身も蹴鞠をされ、蹴鞠の作法を知る人が少なくなったのを憂い
「蹴鞠を保存せよ」との勅命を下しました。
御学問所
御学問所(おがくもんじょ)は室町時代から清涼殿の一画に建てられていましたが、
慶長18年(1613)の造営の際から別棟で建てられるようになりました。
当初は学問と芸術を推奨する場として使われ、後に臣下との対面や和歌の会、
読書始(とくしょはじめ)などの学芸に関する行事でも用いられました。
御学問所-写真
御学問所-上段の間
上段の間
御学問所-中段の間
中段の間
御学問所-下段の間
下段の間
御学問所には上段の間、中段の間、下段の間があります。
御常御殿-平面図
御学問所の北側に京都御所で最大の建物である「御常御殿」があります。
建物の画像を撮り忘れ、平面図を掲載します。
天正17年(1589)に豊臣秀吉により御常御殿が建立されて以降、
天皇の日常の御座所は清涼殿から御常御殿になりました。
全15室から成り、南面に上段、中段、下段を備え、
儀式や対面の場としても使われました。
内部には神器を納める剣璽(けんじ)の間や御寝(ぎょしん)の間などがあります。
御常御殿-東の間写真
御常御殿の「東の間」の写真
御常御殿-東の間
御常御殿の「東の間」-その1
御常御殿-東の間-2
御常御殿の「東の間」-その2
御常御殿-東の間-3
御常御殿の「東の間」-その3
御常御殿-東の間-4
御常御殿の「東の間」-その4
東向きににある「一の間」が天皇の日中の御居所として使われました。
御内庭-1-1
御内庭-1
御内庭-3
御常御殿の東前には御内庭(ごないてい)があり、
遣水(やりみず)は小御所前の御池庭(おいけにわ)へと注がれています。
御内庭-茶室
御内庭の奥には茶室「錦台」があります。
御常御殿の北
御池庭から北側に迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、
御花御殿、参内殿など、いくつかの比較的小規模な建物がありますが、
一般には公開されていません。
迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせ、御涼所は京都の暑い夏を
快適に過ごすことを目的に窓を多く設けた建物で、
聴雪は安政4年(1857)に孝明天皇の好みで建てられました。
御内庭は迎春、御涼所、聴雪及び御常御殿の前庭の総称です。
御常御殿-南の間写真
御常御殿-上段の間
上段の間
御常御殿-中段の間
中段の間
御常御殿-下段の間
下段の間
御常御殿の南側には東から上段の間、中段の間、下段の間があります。
御三間
御常御殿の南西側に「御三間(おみま)」があります。
御三間-内部
御三間-内部
宝永6年(1709)に御常御殿の一部が独立したもので、
七夕などの内向きの行事に使用され、万延元年(1860)には
祐宮(さちのみや=後の明治天皇)が8歳の時に、成長を願う儀式
「深曽木(ふかそぎ)」がここで行われました。
深曽木の図
深曽木とは長く伸びた髪の裾を削ぎ揃える儀式で、当日は御三間中段の間に厚畳を敷き、
その上に吉方(東南)に向けて碁盤を置き、深曽木を行う所とされました。
盤上には下賀茂神社の御手洗川から採取された禊のための青石が置かれ、
碁盤に昇った祐宮はこれを両足で踏み、右手に末広の扇、
左手に松と橘の枝を持ちました。
松と橘は神楽岡で採取され、長寿や子孫繁栄の象徴とされています。
左大臣・一条忠香(いちじょうただか)が祐宮の髪を削ぎ、
理髪を終えると祐宮は吉方に向かって碁盤から飛び降りました。
上段の間には孝明天皇が儀式を見守られているのが描かれています。
建礼門
清所門から御所を出て、塀沿いに南から北へと進むと、
先ほど内側から見た建礼門があります。
建礼門から南へ延びる大通りは「建礼門前大通」と呼ばれ、毎年5月15日に行われる
賀茂祭(葵祭)や10月22日に行われる時代祭はここから出発します。

更に西へ進み、仙洞御所・大宮御所へ向かいます。
続く
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中山邸跡-1
今出川御門から南下して桂宮家跡を西へ進むと中山邸跡があります。
中山家は花山院家第2代当主・花山院忠宗の子・忠親(1131~1195)を祖とし、
現在の左京区黒谷町から岡崎周辺に別宅を構え、晩年を過ごしたことが
家名の由来となりました。
中山邸跡-2
藤原一族の男系血統を絶やさずに守り続けている家の一つで、
一条家も元を辿れば中山家に通じています。
江戸時代末期の第24代当主・中山忠能(なかやま ただやす)の
次女・慶子(よしこ:1836~1907)は、嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に
第121代・孝明天皇との間に皇子・祐宮(さちのみや=後の明治天皇)をもうけ、
4年間は中山邸で育てられました。
当時、中山家は家禄が二百石で建築費用の大半を借金して産屋を建てたとされ、
今も敷地内に残されているそうですが、立ち入りは禁止されています。
祐井
また、敷地内には「祐井(さちのい)」と名付けられた井戸が残されています。
祐宮が二歳の時、干天で井戸が枯れたため、新たに掘られたものです。
中山忠能(ただやす:1809~1888)の七男・忠光(1845~1864)は、京都を脱出して
長州藩に身を投じ、官位を返上して森俊斎(秀斎)と改名しました。
久坂玄瑞が率いる光明寺党の党首として下関における外国船砲撃に参加しました。
文久3年8月17日(1863年9月29日)に大和国で決起し、「天誅組の変」を起こしましたが
敗れ、長州へ逃れた後に暗殺されました。
中山忠能もまた、「蛤御門の変」では長州藩を支持しましたが、結果的には失敗し、
孝明天皇の怒りを買って処罰されました。
その後、岩倉具視らと協力して王政復古の大号令を実現させ、
小御所会議では司会を務めました。
石薬師御門
中山邸跡から東へ進んだ所に石薬師御門があります。
かって、この門の付近には真正極楽寺(真如堂)がありました。
平安遷都の頃、大地より光沢のある蓮華のつぼみに似た大きな石が見つかり、
第50代・桓武天皇(在位:781~806)はその石に薬師如来を刻むことを命じ、
お堂を建立して安置しました。
第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう/在位:1557~1586)は、
真如堂の僧・全海に当時寺町今出川にあった真如堂にこの像を祀らせたことから、
「石薬師通」の通り名となり、その通りに建つ門は
「石薬師御門」と称されるようになりました。
元禄6年(1693)に真如堂は左京区浄土寺真如町へ移転し、
現在も石薬師堂にこの像が安置されています。
染殿井
石薬師御門から散策路を南へ進むと京都迎賓館の裏辺りに
染殿第跡があり、染殿井が残されています。
平安京当時は北東端にあたり、「染殿」と称された
藤原良房(804~872)の邸宅跡とされています。

良房は延暦23年(804)に藤原冬嗣の二男として生まれ、弘仁5年(814)に11歳で
第52代・嵯峨天皇の皇女・潔姫(810~856)を妻に迎えました。
天長10年(833)、第54代・仁明天皇が即位すると妹の順子(のぶこ:809~871)が
女御となりました。
仁明天皇の皇太子には淳和上皇の皇子・恒貞(つねさだ)親王(母は嵯峨天皇の皇女・
正子内親王)が立てられました。
承和7年(840)に淳和上皇が崩御されるとその2年後の承和9年(842)7月には、
嵯峨上皇も重病となりました。

伴 健岑(とも の こわみね:生没年不詳)と橘 逸勢(たちばな の はやなり:
782?~842)は、皇太子の座が仁明天皇の第一皇子・道康親王(母は藤原順子)に
奪われるのではないかと危惧しました。
二人は皇太子の身の安全を考え、東国への避難を画策しましたが、計画は露見しました。
7月15日、嵯峨上皇が崩御され、その2日後の17日、仁明天皇は伴健岑と橘逸勢、
その一味とみなされるものを逮捕し、その後恒貞親王は皇太子を廃され、
道康親王(後の文徳天皇)が皇太子となりました。(承和の変

嘉祥3年(850)、仁明天皇が崩御され、道康親王が第55代・文徳天皇として即位しました。
文徳天皇が皇太子の頃に、良房の娘・明子(あきらけいこ:829~900)が入内し、
天皇即位の年の3月に第四皇子・惟仁親王(後の清和天皇)を出産しました。
良房は、仁寿4年(854)、左大臣・源 常(みなもと の ときわ:812~854)の没後は
右大臣のまま朝廷の首班の地位を占め、天安元年(857)には太政大臣、
従一位に任じられました。
これは皇子以外では初めての太政大臣(大師,太政大臣禅師を除く)となります。
天安2年(858)8月に文徳天皇が突然の病で崩御され、第56代・清和天皇が
僅か9歳で即位し、染殿第に移られ「清和院」と称されました。
現在の清和院御門はこのことに由来しています。
清和院は、文徳天皇が明子(=染殿皇后)のために、仏心院を建立し、
地蔵菩薩像を安置したことに始まります。
清和天皇は即位した後、仏心院で落飾し、仏心院は後院(御在所)となったことから
「清和院」と改称されました。
清和院はその後、鎌倉時代の徳治3年(1308)に勅令により浄土宗の僧・照空が、
上京区室町通上長者町通下る清和院町で再興し、寛文元年(1661)の御所炎上の際では
類焼し、その後に後水尾上皇と東福門院により
上京区七本松通一条上ルで再興されました。

貞観6年(864)に天皇は元服したのですが、貞観8年(866)には伴 善男(とも の よしお)
らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生しました。
伴 善男父子は流刑に処され、大伴氏は没落しました。
事件を解決した良房は、人臣として初めての摂政に任じられ、
藤原氏による摂関政治の礎を築きました。
清和院御門
染殿井から更に南下した東側に清和院御門があります。
土御門第跡
清和院御門から西へ進むと北側に、平安時代中期に摂政・太政大臣となった
藤原道長の邸宅跡である「土御門第跡(つちみかどていあと)」があります。
道長(966~1028)は、藤原北家の全盛期を築き、晩年は現在の護浄院・清荒神付近に
法成寺を創建したことから「御堂関白」と呼ばれました。
道長の33歳から56歳にかけての日記は『御堂関白記』(『法成寺摂政記』)と称され、
ユネスコの記憶遺産に登録されています。

道長の長女・藤原彰子(ふじわら の しょうし/あきこ:988~1074)は
第66代・一条天皇の皇后となり、女房には紫式部とその娘、和泉式部赤染衛門
出羽弁(でわのべん)などを従え、華麗な文芸サロンを形成していました。
藤原彰子はここで敦成親王(あつひらしんのう=後の第68代・後一条天皇)と
敦良親王(あつながしんのう=後の第69代・後朱雀天皇)を出産し、
その様子は『紫式部日記』に詳しく、後に『紫式部日記絵巻』に絵画化されています。
彰子の妹・嬉子(きし/ よしこ:1007~1025)もここで第70代・後冷泉天皇を出産し、
後一条、後朱雀、後冷泉ら三代の天皇の里内裏ともなり、
道長家の栄華を象徴する邸宅でした。
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」、
この道長の歌は、この邸で催された宴席で詠まれたと伝わります。
建春門
土御門第跡の向かい(南側)に仙洞御所・大宮御所がありますが、拝観は後として
土御門第跡前を西へ進むと南北の散策路と交差します。
北西側に京都御所があり、その塀沿いの少し北には建春門があります。
京都御所は塀で囲まれ、6つの門を出入り口とし、建春門はその一つです。
向唐破風の屋根を持つ四脚門で、織田信長による御所の修理が行われた際に
資材運搬用に設けられました。
江戸時代までは勅使の出入りに使われていましたが、
明治以後は皇太子や皇后の出入りに使われるようになりました。
桜松
建春門の向かい側(東側)に、「桜松」と呼ばれている山桜が生育しています。
平成8年(1996)4月17日にクロマツが枯れ、倒れてしまったのですが、
桜は松の空洞を通り抜けて地上に根を下し、生育しています。

北へ進むと学習院発祥の地がありますが、画像は撮り忘れました。
公家の教育振興に尽力した第119代・光格天皇(在位:1780~1817)ですが、
次の仁孝天皇の在位中の弘化2年(1845)に幕府から学習所の設置が認められ、
更に次の孝明天皇在位中の弘化4年(1847)になって学習所が開講されました。
嘉永2年(1849)に第121代・孝明天皇から「学習院」の勅額が下賜され
校名が定まりました。
公家や御所に勤める役人たちとその子弟に、漢学や和学などを教える場と
なっていましたが、大政奉還後には政治の混乱から一時閉鎖されました。
半年後の慶応4年3月12日(1868年4月4日)に再開されたましたが、
4月15日(5月26日)に学習院は大学寮代と改称されました。
更に9月13日(10月28日)に国学中心の皇学所と大学寮代を改組した
漢学中心の漢学所の2校体制へ移行しました。
しかし、東京奠都が決定されると、明治2年9月2日(1869年10月6日)には皇学所と
漢学所の廃止命令が出され、8日後に廃止されました。
明治10年(1877)に華族学校学則が制定され、神田錦町にて華族学校が開校されて
改めて第122代・明治天皇から「学習院」の勅額が下賜されました。
明治17年(1884)には宮内省所轄の官立学校となりましたが、昭和22年(1947)に
学校教育法と教育基本法が施行され、学習院は私立学校となりました。
橋本家跡
その北側には橋本家跡があります。
橋本家は西園寺公相(さいおんじ きんすけ)の四男・実俊(さねとし:1260~1341)を
祖とし、孫の橋本実澄(さねずみ)の代から橋本の家名を使うようになりました。
16代目当主・橋本実久(さねひさ)の娘・経子(つねこ:1826~1865)は、
第120代・仁孝天皇(にんこうてんのう/在位:1817~1846)の后妃の一人となり、
和宮親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう:1846~1877)を出産しました。
和宮親子内親王は孝明天皇の異母妹で、明治天皇の叔母にあたり、仁孝天皇が
和宮の誕生に先立つ弘化3年(1846)1月26日に崩御されたため、
勅命により和宮は14年間を橋本家で養育されました。
嘉永4年(1851)7月12日、孝明天皇の命により有栖川宮熾仁親王
(ありすがわのみや たるひとしんのう:1835~1895)と婚約しましたが、
公武合体政策を進めるため、有栖川宮熾仁親王との婚約は破棄され、
14代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち/在任:1858~1866)へ嫁ぐこととなりました。
猿ヶ辻
再び御所の塀沿いへ戻ると、御所の北東角の塀が切り欠かれています。
陰陽道(おんみょうどう)で、艮(うしとら=北東)の方角は鬼が出入りする門が
あるとして、忌むべき方角とされ、鬼門封じのためにこのようになっています。
猿の像
「猿ヶ辻」と呼ばれ、日吉山王神社(ひえさんのうじんじゃ)の使者である
木彫りの猿が鬼門を守護しています。
烏帽子をかぶり、御幣をかついだ猿像ですが、夜になると付近をうろつき、
いたずらをしたために、金網が張られて閉じ込められています。
幕末の文久3年(1863)5月20日の夜半、攘夷派の急先鋒であった
姉小路公和(きんとも:1840~1863)がこの付近で3人の刺客に襲われて重傷を負い、
帰邸した翌日21日未明に23歳で亡くなりました。
朔平門
塀沿いに西へ進むと朔平門(さくへいもん/さへいもん)があります。
「朔」には北の意味があり、門内には飛香舎(ひぎょうしゃ)・若宮御殿・姫宮御殿
そして、皇后宮常御殿(こうごうぐうつねごてん)があります。
飛香舎は平安時代の内裏の後宮十二殿舎のひとつで、別名で「藤壺(ふじつぼ)」と
呼ばれ、『源氏物語』などにも登場する名高い宮殿です。
しかし、中世以後は造営されなくなり、寛政6年(1794)に第119代・光格天皇の中宮・
欣子内親王(よしこないしんのう=新清和院:1779~1846)が入内する際に、
儀式を行なう部分を中心に復古調で再興されました。
現在の建物は安政年間(1855~1860)に造営されました。
若宮御殿と姫宮御殿は皇子・皇女の御殿で、
第122代・明治天皇(在位:1867~1912)が一時期住まわれていたそうです。
皇后宮常御殿は皇后あるいは女御の日常の住まいとして造営された御殿です。

皇后門
京都御所の北西角から少し南に下った所に皇后門があります。
朔平門が皇后宮常御殿の正門であるのに対し、皇后門はその通用門となります。

京都御所の一般公開へ向かいます。
続く
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下立売御門
下立売御門(しもだちうりごもん)は、禁門の変では桑名藩が護衛していました。
下立売御門先の梅
この記事及び画像は平成31年(2019)4月当時のもので、下立売御門を入った北側には
梅が満開となっていました。
蛤御門までは梅林になっています。
出水の枝垂れ桜-1
出水の枝垂れ桜-2
出水口からは「出水の小川」が流れ、その付近には「出水の枝垂れ桜」が
既に花を咲かせていました。
凝華洞跡
散策路を北上すると西側に出水口があり、出水口からの東西の散策路と交差します。
その東西の散策路を東へ進むと南北の建礼門前大通りと交差します。
建礼門前大通りを少し北上した東側に凝華洞跡(ぎょうかどうあと)があります。
第111代・後西天皇(在位:1655~1663)が退位後、仙洞御所として使用した屋敷が
あった場所で、元治元年(1864)に京都守護職の会津藩主・
松平容保(まつだいら かたもり:1836~1893)が仮の宿舎としました。
同年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、
容保はここで指揮を執ったとされています。
白雲神社
出水口からの東西の散策路まで戻り、少し西へ進んだ北側の参道を進むと
白雲神社があります。
かって、この地には西園寺邸があり、西園寺家の鎮守社として
妙音弁財天が祀られていました。
鎌倉時代の元仁元年(1224)、藤原公経(ふじわら の きんつね)は
鹿苑寺(金閣寺)の辺りに北山殿を造営し、西園寺妙音堂を建立して
家名を西園寺と称しました。
後に一時赤八幡京極寺に遷座され、明和6年(1769)に西園寺邸が御苑内に移るのに伴い、
邸内に妙音堂が再建されました。
明治以降、西園寺家は東京に移り、屋敷は取り壊されましたが妙音堂は残されました。
明治11年(1878)、妙音堂は廃仏毀釈により廃祀の危機にありましたが、
地元有志の尽力により神仏混淆の作法を神式に改め、社号を白雲神社と称しました。
また、明治2年(1869)に西園寺公望(さいおんじ きんもち:1849~1940)はこの地に
私塾立命館を創設しました。
塾はそのあり方に不穏な空気を感じた京都府庁(太政官留守官)の差留命令により
1年弱で閉鎖されましたが、塾生だった中川小十郎は明治33年(1900)に
京都法政学校(後の立命館大学)を創設しました。
薬師石
社殿の裏側には「薬師石」が祀られています。
「御所のへそ石」とも呼ばれ、この石を撫でた手で患部をさすると、
病気や怪我に効験があるとされています。
また、人の顔のようにも見えることから信仰の対象にもなったと伝わります。
福寿稲荷神社
末社の福寿稲荷神社は西園寺家の屋敷神として祀られていたとされています。
西園寺邸跡
白雲神社の北側には西園寺邸跡の石碑が建っています。
梅林-1
梅林-2
西園寺邸跡西側の梅林です。
蛤御門
梅林先の西側に蛤御門があります。
正式には「新在家御門(しんざいけごもん)」と呼ばれ、普段は閉じられていました。
江戸時代の大火で、閉ざされていた門が初めて開けられました。
「焼けて口開く蛤」になぞらえ、「蛤御門」の俗称で呼ばれるようになりました。
幕末の元治元年(1864)、この門の付近で長州藩と御所を護衛していた
会津・薩摩・桑名藩との間で激戦が繰り広げられ、「蛤御門の変」とも
「禁門の変」とも称されるようになりました。
蛤御門-弾痕
門には当時の弾痕らしき物も残されています。
かっての門は現在地よりも30mほど東の位置に建てられていましたが、
明治10年~16年(1877~1883)にかけて行われた大内保存及び京都御苑整備事業によって
現在地に移設されました。
中立売御門
蛤御門からその北の中立売御門(なかだちうりごもん)までの間には駐車場があり、
その脇にある通路を進みます。
中立売御門です。
元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変で、筑前藩(福岡藩)が
守護していた中立売御門は、長州藩の国司親相(くにし ちかすけ:1842~1864)が
率いる部隊により突破されました。
更に来島又兵衛(1817~1864)隊と合流して蛤御門の辺りで激戦となりました。
来島又兵衛は薩摩藩兵に銃撃されて負傷し、自刃して果てましたが、
国司親相は帰藩しました。
しかし、幕府が禁門の変に対する処分で第一次長州征伐を計画したため、
親相は責任を取る形で自刃して果てました。
宮内庁京都事務所
中立売御門の北側には休憩所があり、更に北へ進むと宮内庁京都事務所があります。
縣井
事務所の西を北へ進んだ所に「縣井(あがたい)」があり、「染井」、
「祐井(さちのい)」と共に、御所三名水の一つに数えられていました。
かってはこの井戸のそばには「縣宮」という社があって、地方官吏に任命されたい
と願う人々がこの井戸で身を清めてから社に祈願し、
宮中に参内したといわれています。
承久年中(1219~1222)、洛中洛外に悪疫が流行した際、橘公平(たちばなのきむひら)は
「縣井」の水を飲んで縣宮に病気平癒の祈願を行いました。
10日程すると病は回復し、10日目の夜に井戸の水を汲みに行くと、
井戸の中から黄金の如意輪観音が現れ、
「この井戸の水を汲む者、必ず病が癒えるであろう」とお告げになりました。
これを聞いた順徳天皇は、この像を宮中に祀られましたが、
後に法伝寺を建立して安置されました。
その後、度々焼失し、当時、寺町今出川下るにあった真如堂の境内で再建されました。
元禄6年(1693)に真如堂が現在地へ移転されるのに伴い、真如堂で新たに縣井観音堂が
建立され、如意輪観音像が安置されるようになりました。

また、この付近は江戸時代までは一条家の屋敷内であったことから、
第122代・明治天皇の皇后となられた一条美子(いちじょう はるこ:1849~1913)の
産湯に、この井戸水が用いられたとも伝わります。
一条家は九条道家の三男・実経(さねつね:1223~1284)を祖とし、父から溺愛されて
仁治3年(1242)に一条室町にあった屋敷を父から譲られたことが家名の由来となりました。
乾御門
井戸から北上した先の西側にある門は、御所の北西に当たることから
「乾御門」と称されています。
元治元年7月19日(1864年8月20日)に起こった禁門の変では薩摩藩が守護し、
戦闘が激化した蛤御門を護衛していた会津藩へ援軍を送りました。
近衛邸跡-池
乾御門からの東西の散策路の北側は児童公園で、散策路を東へ進むと
今出川御門への南北の散策路が分岐しています。
その散策路を北へ入り、その先は池を迂回して西から北へと続きます。
池と言っても現在、水は涸れていますが、池の畔は糸桜(枝垂れ桜)の名所です。
近衛邸跡の碑
池の西側に近衛邸跡の碑が建ち、明治までは近衛家の広大な屋敷があり、
池はその庭園の遺構です。
近衛家は藤原忠通の四男・近衛基実(このえ もとざね:1143~1166)を家祖とし、
六男・九条兼実(1149~1207)は、九条家の祖となりました。
基実は長寛2年(1164)2月に父・忠通が急死した2か月後に平清盛の娘・盛子
結婚しましたが、基実は永万2年(1166)7月26日に僅か24歳で病死しました。
基実の子・基通(もとみち)が父を亡くしたのは6歳の時で、
継母・盛子の後見を受け摂関家を継承しました。
基通は平安京の近衛大路(現在の出水通)室町付近に邸宅を築き
「近衛殿」と称したことが家名の由来となりました。
近衛殿は現在の護王神社付近で、今でも「近衛町」の町名が残されています。
鎌倉時代中期には近衛家実の四男・兼平により鷹司家が創設されました。
第17代当主・近衛前久(1536~1612)は、天正3年(1575)に織田信長と対立し、
薩摩国へ逃れて島津氏の庇護を受けました。
天正6年(1578)に帰京し、現在地に屋敷を構えました。
その子・近衛信尹(このえ のぶただ:1565~1614)もまた、奔放な行動により
薩摩国の坊津に3年間配流となり、島津氏からは厚遇されました。
慶長元年(1596)に勅許が下って帰京し、慶長5年(1600)に島津義弘(1535~1619)の
美濃・関ヶ原出陣に伴い従軍しますが敗退しました。
その後、島津家と徳川家との交渉を仲介し、家康からは所領が安堵され、
慶長6年(1601)には左大臣に復職しました。
また、継嗣を欠いたため、妹の前子(さきこ)が第107代・後陽成天皇との間に儲けた
四之宮を後継に選び、近衞信尋(このえ のぶひろ:1599~1649)と称し、
近衞家19代当主としました。
以後、近衛家は皇別摂家となり、五摂家の中でも特別扱いされるようになりました。
桂宮邸跡
近衛邸跡の東側に桂宮邸跡がありますが、門は閉じられ見学はできません。
桂宮家は誠仁親王(さねひとしんのう)の第六皇子・智仁親王(1579~1629)を祖とし、
主な所領が桂周辺にあったことから家名とされました。
誠仁親王(1552~1586)は、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう)の
第一皇子でしたが、朝廷の譲位に伴う儀式の経済的な問題から先送りされ、
天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺の変で織田信長が自害して果てた後、
豊臣秀吉が譲位に積極的に取り組む姿勢を見せました。
しかし、誠仁親王はそれを待たず、天正14年(1586)に薨去されました。

智仁親王は、天正14年(1586)に豊臣秀吉の猶子となりましたが、
天正17年(1589)に側室・淀殿との間に鶴松(1589~1591)が誕生したため豊臣家を離れ、
八条宮家を創設しました。
八条通の沿線上にあったことから「八条宮(はちじょうのみや)」と呼ばれ、
元和6年(1620)から桂御別業(現在の桂離宮)を造営したことから後に
「桂宮」と称されるようになりました。
しかし、桂宮家は明治14年(1881)に断絶しました。
邸宅跡には智仁親王が造営した庭園および池が完全に残され、
幕末には第121代・孝明天皇(在位:1846~1867)が仮皇居としたため、
孝明天皇の異母妹である皇女・和宮親子内親王はここから江戸の
第14代将軍・家茂(いえもち/在職:1858~1866)へ嫁ぎました。
本来あった建物は二条城の本丸として移築され、現在は宮内庁職員の宿舎として、
複数の平屋の公営住宅が建っているようです。
今出川御門
桂宮家前の散策路を北へ進むと今出川御門があります。
門を出た正面の通りの両側は同志社大学で、北上した先には相国寺があります。
二条邸跡の碑
門前の今出川通を東へ進んだ同志社女子中・高校の校門前には
二条家邸跡の碑が建っていますが、江戸時代に現在地へ移転しました。
二条家は九条道家の二男・良実(よしざね:1216~1271)を祖とし、屋敷が二条富小路に
あって「二条殿」と呼ばれたことが家名の由来となりました。
第96代・後醍醐天皇の治世で関白に就任していた二条道平(1287~1335)は、
元弘元年/元徳3年(1331)に起こった元弘の乱で、後醍醐天皇の倒幕計画に関与した
として、鎌倉幕府から父・兼基に預けられ、二条家の廃絶を通告されました。
元弘3年/正慶2年(1333)に隠岐島から反撃に転じた天皇により通告は無効とされ、
左大臣及び藤氏長者に任じられました。
しかし、建武2年(1335)に道平は逝去し、その子・良基(よしもと:1320~1388)が
家督を継ぎました。
建武3年(1336)に後醍醐天皇は足利尊氏によって政権を追われ、
吉野で南朝を立てますが、良基は京都に留まり、北朝第2代・光明天皇
(在位:1336~1348)に仕えました。
二条家の邸宅で光明天皇の元服・践祚の儀式が行われ、以後明治まで新天皇の即位式で
灌頂を授ける即位灌頂の儀を掌る役目は二条家が独占していました。

中山邸跡から石薬師御門、清和院御門へ向かいます。
続く
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堺町御門
京都御苑は東を寺町通、南は丸太町通、西は烏丸通、北は今出川通に囲まれた
東西約700m、南北約1300mの敷地の内、宮内庁が管理する京都御所、京都大宮御所及び
仙洞御所以外は環境省の管轄で、「京都御苑」と呼ばれる国民公園となります。
しかし、京都市民の多くはこれらを総称して「御所」と呼んでいます。
延暦13年(794)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)は長岡京から平安京へと遷都し、
南北は現在の二条通から一条通、東西は大宮通から御前通にわたって
内裏が造営されました。
現在の京都御所は、内裏が火災で焼失した場合などに設けられた臨時の内裏である
「里内裏」の一つ、土御門東洞院殿の地でした。
土御門東洞院殿は、南北朝時代に北朝の光厳上皇の意向によって、
ここが皇居として定められ、以後定制とされました。
江戸時代には京都御苑内に140以上の宮家や公家の邸宅が建ち並んでいましたが、
明治で都が東京へ遷されると、これら邸宅が取り除かれ、公園として整備ました。
周囲には「外郭九門」と呼ばれる門が築かれ、現在も残されています。
その一つ、堺町御門は行願寺から北上し、丸太町通を西へ進んだ所にあります。

江戸時代末期は長州藩が護衛していましたが、文久3年8月18日(1863年9月30日)に
起こった八月十八日の政変でその任を解かれ、
長州藩に近い三条実美(さねとみ:1837~1891)ら
公卿7人とともに京を追放されました。
その翌年の元治元年7月19日(1864年8月20日)に長州藩勢力が挙兵して
禁門の変が起こりました。
真木和泉(1813~1864)・久坂玄瑞(1840~1864)隊は開戦に遅れ、到着した時には
既に壊滅状態にありましたが、越前藩兵が護衛する堺町御門を攻撃しました。
久坂玄瑞と寺島忠三郎(1843~1864)らは朝廷への嘆願を要請するため、
鷹司邸へ侵入し、互いに刺し違え、自害して果てました。
遺命を託された入江九一(1837~1864)も鷹司邸を脱出した時に越前藩士に発見され、
槍で突かれて死亡しました。
長州勢は長州藩屋敷に火を放って逃走し、真木和泉は敗残兵と共に天王山
辿り着きましたが、他の勢力との合流に失敗しました。
真木和泉は敗残兵を逃がし、宮部春蔵(1839~1864)ら17名で天王山に立て籠もりました。
21日に会津藩と新撰組に攻め込まれると、小屋に立て籠り火薬に火を放って自爆し、
宝積寺に葬られました。
現在は天王山の中腹に十七烈士の墓があります。

門を入った正面に鷹司邸跡があります。
藤原北家嫡流の近衛家実の四男・兼平(1228~1294)を祖とし、兼平の邸宅が平安京の
鷹司室町にあったことが家名の由来となりました。
鷹司家第23代当主・輔煕(すけひろ:1807~1878)は、安政5年(1858)の
日米修好通商条約締結への勅許に不同意、将軍継嗣問題では
一橋派の意見に同意したため、大老・井伊直弼(1815~1860)による安政の大獄により、
右大臣を辞任し、出家しました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)の桜田門外の変で井伊直弼が暗殺後に赦免され、
謹慎を解かれて還俗しました。
文久3年(1863)に関白職に就きましたが、八月十八日の政変ではこれに関与せず、
逆に三条実美らの帰京を運動したため、関白を罷免されました。
禁門の変では久坂玄瑞らが邸内に立て篭もったために邸宅は焼失し、
輔煕は謹慎処分となりました。
黒木の梅
少し西へ進むと北へ延びる建礼門前大通があり、その北東側の角に
「黒木の梅」が植栽されています。
原株は第121代・孝明天皇の英照皇后(えいしょうこうごう:1835~1897)が
幼少のころに愛でられていたものとされ、九条家跡にあったものを
大正天皇即位大礼の時に現在地に移植されました。
その後枯れてしまい、現在は接ぎ木により植継ぎされています。
高倉橋
建礼門前大通の南側には九条池があります。
かって、この地には九条家の屋敷があり、九条池はその屋敷内に設けられた
庭園の遺構で、安永7年(1778)頃に造られました。
九条家は藤原北家嫡流の藤原忠通の六男・九条兼実(1149~1207)を祖とし、
藤原基経(836~891)が創建したとされる京都九条にあった九条殿に
住んだことが家名の由来となりました。
兼実の孫・道家の子である教実(のりざね:1211~1235)・良実(1216~1271)・
実経(1223~1284)が摂関となり、それぞれが九条家二条家一条家の祖となりました。
この三家に近衛家鷹司家を加えた五家は「五摂家」と呼ばれ、
藤原氏嫡流(ちゃくりゅう)で公家の家格(かかく)の頂点に立ち、
大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できました。
江戸時代の九条家は広大な屋敷を構えていましたが、明治時代初期の
東京移住命令に伴い、母屋などの主要な建物は東京の九条邸に移築されました。
近年になってこれが東京国立博物館に寄贈され、「九条館」と命名されました。

九条池に架かる橋は「高倉橋」と名付けられ、明治15年(1882)に
建礼門から丸太町通へと出る御幸道の計画に基づき橋が架けられましたが、
その後計画は中止となりました。
橋には旧三条大橋と五条大橋の橋脚を再利用し、
かつては三条小橋の擬宝珠を載せていました。
現在の擬宝珠は新調されたものです。
九条池-東側
橋から池の東側を覗くと、石の上に乗っていた亀があわてて池の中に飛び込みました。
それに驚いた二匹の鯉により、波紋が生まれ、水面がざわつきました。
しかし、それに動じない亀や水鳥もいて、小さな池の中にも面白い光景が見られます。
九条池-西側
池の西側には九條家の別邸として使用されていた
「拾翠亭(しゅうすいてい)」があり、現在は茶室として使われています。
間ノ町口から入った所に拝観入口があり、木・金・土に営業されていて、
拝観料は100円です。
厳島神社-鳥居
池の北西側には島があり、島には厳島神社が祀られています。
安芸の国にある厳島大神を崇敬した平清盛が、摂津の国・兵庫築島(大輪田泊)に、
厳島大神を勧請し社殿を建立しました。
宗像三女神が祀られ、後に清盛の母・祇園女御が合祀され、
後世当地に遷座されて九条家の鎮守社となりました。
鳥居は清盛が建立したとされる唐破風鳥居で、重要美術品に指定されています。
閑院宮邸跡-門
更に西へ進んだ京都御苑の南西角に閑院宮邸跡(かんいんのみやていあと)があります。
閑院宮は江戸時代中期の宝永7年(1710)に第113代・東山天皇の皇子・直仁親王
創設した宮家で、昭和22年(1947)に皇籍離脱し、昭和63年(1988)に断絶しました。
旧閑院宮邸は、近年整備され、場所を変えずに江戸時代の遺構を残す
唯一の宮家屋敷です。
かっての敷地は広大で、東は九条池のすぐ隣まであったとされています。
旧閑院宮邸は、無料で見学することができます。
閑院宮邸跡-建物
門を入るとL字形に配された建物があり、内部は展示室となっています。
閑院宮邸跡-書院
南の庭園に面して書院のような建物があります。
閑院宮邸跡-池-1
現在の池は平成15~17年(2003~2005)に行われた閑院宮邸跡の
全面的な整備で復元されたものです。
発掘された作庭当時の遺構は保存のために埋戻し、その上に京都御所の
御池庭で見られるような小石を並べた州浜(すはま)を設け、
当時の池の意匠を再現したものが新たに造られました。
宗像神社-鳥居
閑院宮邸跡を出て少し東へ進み、その先を北上した所に宗像神社の鳥居が建っています。
花山邸跡石碑
鳥居をくぐると「花山院邸跡」の碑が建っています。
かって、この地には藤原冬嗣(775~826)の邸宅「小一条殿(こいちじょうでん)」
がありました。
平安京遷都の翌年の延暦4年(795)に第50代・桓武天皇(在位:781~806)の命により、
冬嗣が筑紫(現在の福岡県)から勧請して自らの邸内に祀ったのが
宗像神社の始まりとされています。
冬嗣の孫である藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)は、第54代・仁明天皇の
第一皇子・道康親王に入内して東宮御息所となり、嘉祥3年(850)3月19日に道康親王が
第55代・文徳天皇(在位:850~858)として即位した直後の3月25日に
第四皇子・惟仁親王(これひとしんのう=後の第56代・清和天皇)を出産しました。
藤原伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)の娘・藤原懐子
(ふじわら の かいし/ちかこ:945~975)は、応和3年(963)頃、皇太子・憲平親王に
入内し、康保4年(967)に親王が第63代・冷泉天皇(在位:967~969)として即位した
翌年の安和元年(968年)に第一皇子・師貞(もろさだ)親王(後の第65代・花山天皇)を
出産しました。
花山法皇はこの地を御所とし、以来「花山院」と呼ばれるようになりました。
藤原家忠(1062~1136)は天承元年(1131)に従一位左大臣に任ぜられ、
「花山院左大臣」と呼ばれ、花山院家の祖となりました。
以降、明治維新まで花山院家の邸宅がありました。
花山稲荷神社
東側には花山稲荷大明神が祀られています。
社伝によれば関白・藤原忠平(880~949)の時代に伏見稲荷を勧請したとされています。
社殿は宝永5年(1708)や天明8年(1788)の大火でも類焼を免れ、
火伏の神としても信仰を集めました。
佐賀県の祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)は、花山院萬子媛(まんこひめ)が
寛文2年(1662)に大名・鍋島家へ嫁いだ際に祀った花山院邸内の分霊で、
「祐徳」は姫君の諡(おくりな)です。
祐徳稲荷神社は「西の日光」とも呼ばれ、日本三大稲荷の一つとされていますが、
三大稲荷には伏見稲荷大社と愛知県の豊川稲荷の他に茨城県の笠間稲荷神社
岡山市の最上稲荷なども候補に挙がり、諸説あって定かではありません。
花山稲荷神社-楠木
社殿の右側にに聳える楠は樹齢600年ともいわれ、
御苑内では最長老の楠とされています。
京都観光神社
参道の左側(西側)に京都観光神社があります。
昭和44年(1969)11月1日に観光業者の発案で観光客の安全息災と業界の発展を祈念して、
道案内の神として猿田彦大神を勧請し創祀されました。
豊栄の庭-1
豊栄の庭-2
豊栄の庭-3
参道を進んだ右側の「豊栄(とよさか)の庭」は、
平成28年(2016)9月11日に築庭されました。
花山邸跡-釣殿
「豊栄の庭」の背後にあるのは旧花山院邸の釣殿でしょうか?
宗像神社-拝殿
参道の正面に宗像神社があります。
宗像神社は応仁の乱で焼失した後、再建されました。 
現在の本殿は江戸時代の安政年間(1855~1860)に再建されたもので、
宗像三女神(多紀理比売命、多岐都比売命、市寸島比売命)を主祭神としています。
宗像三女神は天照大神の「歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを
受けられよ」との神勅を受け、宗像より朝鮮半島に向かう古代海路であった
海北道中の島々に降臨したとされています。
配祀神の倉稲魂命(うかのみたまのみこと)は藤原時平(871~909)が合祀し、
天石戸開神(あまのいわとわけのかみ)は藤原家忠によって合祀されました。
少将井神社
宗像神社の左前にある少将井神社は、かつて中京区の少将井・少将井御旅両町の
間にあった八坂神社の御旅所を遷祀したものとされています。
現在も祇園祭の後祭である7月24日には八坂神社から神職が参向し、神饌を供進、
祇園祭斎行の報告が行われます。
繁栄稲荷社
その左側にある繁栄稲荷社には命婦(みょうぶ)稲荷神が祀られています。
藤原基経(836~891)の身分がまだ低かった時、数人の童に捕まり杖で打たれている
狐を見かけました。
基経がそれを乞い受けて解放すると、夢中にその狐が現れて、
「住む場所を賜れば火難などの災害を除く力になる」と誓ったので、
現鎮座地をあてがって宗像神の眷属としたとされています。

宗像神社を出て下立売(しもだちうり)御門へ向かいます。
続く
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山門
下御霊神社から更に南下すると行願寺があります。
山号を「霊麀山(れいゆうざん)」と号する天台宗の尼寺で、
神仏霊場・第114番の札所となっています。
寛弘元年(1004)、行円により一条小川の一条北辺堂跡に創建されました。
京都御苑の西方には、付近に革堂町、革堂仲之町、革堂西町の町名が残されています。 
行円は仏門に入る前は猟師で、ある時、山で身ごもった雌鹿を射たところ、その腹から
子鹿の誕生するのを見、殺生の非を悟って仏門に入ったと伝わります。
行円はその鹿の皮を常に身につけていたことから、「皮聖」、「皮聖人」などと呼ばれ、
寺の名も「革堂(こうどう)」と呼ばれました。
行願寺はその後、度々の火災で焼失、再建を繰り返し、天正18年(1590)に豊臣秀吉による都市計画のため、寺町荒神口へ移転しました。
宝永5年(1708)の大火の後に現在地で再建されましたが、
天明8年(1788)の大火でも焼失しました。
山門は元治元年7月19日(1864年8月20日)の禁門の変(蛤御門の変)で焼失し、
その後再建されました。
行願寺は戦後荒廃していましたが、昭和44年(1969年)から中島湛海尼が住職となって
寺を再興し、名誉住職となりました。
湛海尼は昭和63年(1988)に尼僧で初めて天台宗最高位の大僧正になりましたが、
平成18年(2006)10月28日に91歳で亡くなりました。
手水舎
山門を入った左側に手水舎があります。
本堂-1
門を入った正面に本堂があります。
現在の本堂は文化12年(1815)に再建されたもので、
京都市の有形文化財に指定されています。
本堂-2
本尊は像高2.5mの千手観世音菩薩像で、行円が上賀茂神社のご神木を得て
3年をかけて自ら刻んだと伝わります。
本尊は秘仏とされ、毎年1月の17と18日のみ開帳されます。
加茂明神塔
境内の西北隅にある五輪塔は「加茂明神石塔」と称され、行円が上賀茂神社のご神木を
得た報恩として、加茂明神を勧請したと伝わります。
かっては、石塔前に鳥居が建っていたそうです。
百体地蔵堂
その東側に百体地蔵堂があり、多くの地蔵尊や石仏、石塔が祀られています。
鐘楼
更にその東側には文化元年(1804)に再建された鐘楼があり、
京都市の有形文化財に指定されています。
梵鐘
鐘は許可なく撞くことはできませんので、勝手に撞かないよう、
時々猫が見張りをしています。
鎮宅霊符神堂
鐘楼の東側に鎮宅霊符神堂があります。
鎮宅とは、家宅の災禍を祓い消し鎮めるとの義で、下記のような由来があります。
『風水・宅相に精通していた漢の孝文帝が、あるとき孔農県に行幸されました。
滅茶苦茶凶相の地に、立派な邸宅のあるのを怪しみ、その主人をよんで尋ねたところ、
「その昔、災禍打ち続きど貧民となり不幸のどん底にありました。
ある時、いずこともなく書生二人が現れ、七十二霊符を伝授され、
十年にして大富豪となり、二十年にして子孫栄え、三十年にして天子までが訪ねて
来るであろうと預言し、忽然と消えた」と答えました。
孝文帝はこの霊符の法を深く信仰し、天下に伝えた』と伝わります。
但し、単に霊符を書いて壁に貼っておくだけでは駄目で、
この霊符を用いるには修法を実践する必要があるそうです。
日本に伝わってからは、鎮宅霊符そのものを神として祀られているようです。
お守りやお札の元祖の神で、節分や七夕など星祭りは、この神の家内安全、
商売繁盛のお祭りです。
庫裡
鎮宅霊符神堂前の東側に庫裏があります。
七福神
庫裏の向かいの参道を挟んだ西側に七福神の像が祀られています。
寿老神堂
その南側に安土・桃山時代に建立された寿老神堂があります。
本尊の寿老人は「都七福神めぐり」の札所本尊でもあります。
愛染堂
更にその南側には愛染堂があります。
大日如来
本堂の南側に天道大日如来と延命地蔵菩薩を祀った社があり、
画像はありませんがその東側に宝物館があります。
宝物館には行円が身につけていたとされる鹿皮の衣が保存され、
毎年1月に2日間だけ公開されます。
また、お盆の期間のみ公開される「幽霊絵馬」には以下のような伝説が残されています。
『江戸時代の文化8年(1811)、行願寺の近くにあった質屋で子守として奉公していた
「おふみ」という少女が、よく境内で子守をしていました。
革堂から聞こえてくる御詠歌を子守歌代わりに、唄い聞かせていたのですが、
質屋の主人は熱心な法華信者でした。
ある時、おふみが唄う御詠歌が主人の耳に入り、
それに怒った主人に虐待され殺されてしまいました。
主人はおふみの遺体を親に返さず、蔵に隠しました。
行願寺での通夜に訪れていた両親の前におふみが幽霊となって現れ、
両親に真相を告げたました。
両親はおふみを葬った後に幽霊を絵馬に描き、
手鏡をはめて寺に奉納した』と伝わります。

寺町通を北上して京都御苑へ向かいますが、丸太町通を境に北は上京区、
南は中京区に分かれ、京都御苑は上京区となります。
続く
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