鳥居
京阪「神宮丸太町駅」を下車して西へ進み、寺町通を南下した東側に
下御霊神社があります。
下御霊神社は第54代・任明天皇(にんみょうてんのう/在位:833~850)により、
愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の鎮守社として創建されたと伝わりますが、
その詳細は不明です。
御霊神社(上御霊神社)の南に位置したことから「下御霊神社」と呼ばれました。
表門の菊花紋
表門は京都御所の旧建礼門を移築したもので、門には菊花紋があります。
拝殿
拝殿は寛政10年(1798)に建立され、京都市の有形文化財に指定されています。
貞観5年(863)5月20日、平安京の神泉苑御霊会が催され、
平安京に災害や疫病などをもたらす怨霊を鎮めようとしました。
その怨霊とは崇道天皇、伊予親王、藤原大夫人、藤大夫、橘大夫、文大夫の霊で、
いずれも冤罪を着せられ、非業の死を遂げました。
本殿
本殿、
下御霊神社は鎌倉時代の正中元年(1324)に正一位の神階が授けられ、
室町時代の正長元年(1428)には第4代将軍・足利義持(在職:1395~1423)から
新町出水西に社殿が寄進され、遷座されました。
応仁・文明の乱(1467~1477)で焼失した後、天正18年(1590)に豊臣秀吉による
都市計画のため、現在地へ遷座されました。
江戸時代の享保13年(1728)、霊元法皇が参詣して願文を納め、
京都御所の産土神とされました。
享保17年(1732)に霊元法皇が崩御され、「崩御の後は下御霊神社に併祭せよ」との
遺言により、相殿に「天中柱皇神」として奉祀されました。
天明8年(1788)の大火で焼失した後、寛政2年(1791)に第119代・光格天皇より
仮皇居の内侍所(ないしどころ)旧殿が下賜され、現在の本殿とされました。
寛政5年(1793)には、本殿前に幣殿と唐破風造りの拝所が増築され、
現在は京都市の有形文化財に指定されています。
随身像-左
拝所には随身像が安置されています。
阿形
本殿中央には八所御霊、相殿に天中柱皇神として霊元天皇が祀られています。
八所御霊とは、上記の怨霊六座と吉備聖霊と火雷天神の二座を加えたものです。
吉備聖霊は吉備真備とされることもありますが、吉備真備は憤死した人ではないので、
神社側は六座の神霊の和魂と解釈しています。
火雷天神は菅原道真とされることもありますが、神社の創建は道真が天神として
神格化されるよりも以前なので、神社側は六座の神霊の荒魂と解釈しています。
随身像-右
吽形
怨霊六座の詳細です。

早良親王は長岡京造営の責任者だった藤原種継の暗殺に関与したとされ、
淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で
憤死し、延暦19年(800)に崇道天皇と追称されました。
貞観年間(859~877)には天皇の霊を鎮めるため、唯一天皇のみを祭神とする
崇道神社が創建されました。

伊予親王は大同2年(807)に謀反の嫌疑をかけられ、母親の藤原吉子と共に川原寺
幽閉され、同年11月12日に母子は服毒自殺しました。
藤原吉子は上御霊神社や下御霊神社などに祀られる際に、藤原大夫人と尊称されました。

藤大夫とは藤原広嗣のことで、反藤原氏勢力により大宰府へ左遷され、天平12年(740)に
反乱を起こしたのですが、捕えられ処刑されました(藤原広嗣の乱)。

橘大夫とは橘逸勢(たちばな の はやなり)のことで、延暦23年(804)に
最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡ったのですが、
中国語が苦手で、語学の負担の少ない琴と書を学びました。
承和9年(842)に嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への
移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、捕われ、伊豆国への流罪が決まり、
護送途中に遠江国板築(浜松市三ヶ日本坂)で病没しました。

文大夫とは文室宮田麻呂(ふんや の みやたまろ)のことで、国際交易にまで
活動範囲を広げていた宮田麻呂を脅威に感じていた者達により、
謀反の嫌疑をかけられ伊豆国へ配流されました。
但し、この謀反に問われた事情は必ずしも明らかではありません。
垂加社
少し戻って、門を入った北側に猿田彦社と垂加社(すいがしゃ)の相殿があります。
垂加社には山崎闇齋(やまざきあんさい)が祀られています。
山崎闇齋は元和4年(1619)に京都で生まれ、幼くして比叡山に登り、
次いで妙心寺に移って僧となりました。
寛永19年(1642)に25歳で畜髪・還俗して儒学者となり、寛文5年(1665)には江戸に出て、

吉川神道の創始者である吉川惟足(よしかわ これたり)に学んで、
神道研究にも本格的に取り組むようになりました。
従来の神道と儒教を統合して(神儒融合)垂加神道を開き、
幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えました。
門弟は6,000人に及び、当時の下御霊神社の神主・出雲路信直も
高弟の一人だったことにより祭祀されることになりました。
稲荷社
垂加社の東側に隣接して稲荷社があります。
三社
本殿に向かって左側(北側)に右から八幡社、神明社、春日社が祀られ
「三社(さんじゃ)」と称されています。
江戸時代の文化4年(1807)に建立されたもので、中世から近世にかけて三社を併せて
信仰することが流行したそうです。
八幡は清浄、伊勢は正直、春日は慈悲の心を諭すものとされています。
神物宝庫-1
本殿の右側には神物宝庫があります。
宝永5(1708)年3月8日の大火後に建立されたとみられ、天明8年(1788)の大火で
唯一焼失を免れましたが、大火後現在地に移築されたと考えられています。
平成30年(2018)9月4日に近畿地方を横断した台風21号による被害を受けたようです。
神物宝庫-2
庫内には宝永の大火後の宝永6年(1709)に第113代・東山天皇から下賜された
大宮神輿などが保管されています。
神輿は天保年間(1831~1845)に修理され、5月の神幸還幸祭で巡行されます。
四社殿
境内の南側に右から大将軍社高知穂社愛宕社日吉社の四社殿があります。

四社殿の西側に隣接して大国主命・事代主命社があります。
事代主命は大国主命の御子神であり、初代・神武天皇の皇后となる
媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)の父親とされています。
天満宮
大国主命・事代主命社の西側に下御霊天満宮があります。

京都御所へ向かいます。
続く
にほんブログ村 歴史ブログ 史跡・神社仏閣へ
にほんブログ村