高室院から国道460号線を少し東へ進んだ先で右折して、南へ進んだ
小田原谷の最南部の山腹に金剛三昧院があります。
寺院が建ち並ぶ国道からは少し離れているため、山内で度々起こった大火でも類焼を免れ、
創建当時の多宝塔や経蔵等、山内でも数少ない鎌倉時代の遺構が現存しています。
表門には「毘張尊(びちょうそん)」と記された大きな扁額が掲げられています。
門内にある梵鐘には、承元元年~4年(1207~1210)の銘から、
現存する16番目に古いもので、国の重要文化財に指定されています。
また、門の両側にはドラが吊るされています。
六本杉は樹齢約400年とされ、根元の方は3本に見えますが、
上の方では6本に分かれていることから「六本杉」と呼ばれています。
また、「毘張杉」とも呼ばれています。
織田信長による高野攻めでは、信長が本能寺の変で倒れたため、難を逃れましたが、
豊臣秀吉による紀州攻めでは根来寺や粉河寺が炎上しました。
高野山では秀吉軍の攻撃に供え、僧兵が守備を固めていましたが、
この杉の上に天狗が降り立ち、「高野山の僧侶は、戦うのではなく、
仏教を広めることが大切だ」と諭しました。
武士出身の僧・木食応其(もくじきおうご)が仲介者となって秀吉に服従を誓うと、
秀吉は高野山の存続を保証しました。
信長の高野攻め以前の寺領は17万石に達していましたが、太閤検地終了後の
天正19年(1591)に1万石の所領を安堵されました。
後に秀吉は木食応其に帰依するようになり、
応其に千石と寺領1万石を寄進し、青巌寺を建立しました。
これにより、高野山の寺領は2万1千石となり、江戸時代まで存続しました。
金剛三昧院では高野山を戦禍から防いだ天狗を「毘張尊」と称え、
毎年10月10日前後に祈念法会を行っています。
六本杉の奥にある校倉造りの経蔵は、貞応2年(1223)頃に建立されたもので、
国の重要文化財に指定されています。
経蔵内には「高野版」と呼ばれる経典が書かれた版木が、500枚以上収められています。
その内、486枚は国の重要文化財に指定されています。
多宝塔は、貞応2年(1223)に建立されたもので、石山寺に次ぐ2番目に古い塔であり、
国宝に指定されています。
高さ約15mで、塔内の須弥壇には五智如来像が安置されています。
この像は仏師・運慶作と伝わり、重要文化財に指定されていますが、秘仏とされています。
金剛三昧院は仏塔古寺十八尊霊場の第11番札所となっています。
本堂。
金剛三昧院は建暦元年(1211)に源頼朝の正室・北条政子の発願により
禅定院として創建されました。
落慶法会には、臨済宗の開祖・栄西禅師も招かれ、開山第一世となりました。
第3代将軍・源 実朝(みなもと の さねとも)が没後の承久元年(1219)にその遺骨を納め、
禅定院を改築して金剛三昧院と改称し、以後将軍家の菩提寺となりました。
幕府の重臣・安達景盛が建立奉行となって堂塔の増建を進め、
大日堂・観音堂・東西二基の多宝塔・護摩堂二宇・経蔵・僧堂など、一大伽藍を造営し、
数多くの子院を建立しました。
安達景盛は出家して「高野入道」と称され、出家後も高野山に居ながら幕政に参与しました。
天福2年(1234)、初代の長老に、栄西禅師の高弟で鎌倉将軍家の優れた僧であった、
退耕行勇(たいこうぎょうゆう)上人が任ぜられ、密教・禅・律の三宗兼学の道場となりました。
そして後には浄土教も兼学し、一山において特殊とも言える教学を宣揚しました。
以後十二代住職である實融上人までは、禅宗系の住持が長老を務めてきました。
葛山景倫(かずらやま かげとも)は、幕府の命を受け宋に渡ろうとしていていたのですが、
源 実朝が鶴岡八幡宮で源 頼家の子・公暁(くぎょう)に暗殺された報せを受け、
高野山の登りました。
安達景盛と共に金剛三昧院の増建奉行を務め、退耕行勇に従い出家して
願性(がんしょう)と称し、後に金剛三昧院の別当となりました。
安貞元年(1227)、和歌山県由良町に臨済宗妙心寺派の西方寺(後の興国寺)を創建し、
金剛三昧院から禅宗の機能を移しました。
以降、金剛三昧院は高野山真言宗の寺院として続いています。
嘉禎4年(1238)、足利義氏が北条政子の十三回忌にあたり、金剛三昧院に
大仏殿を建立し、丈六の大日如来像を奉安して政子の遺骨を納めました。
弘安4年(1281)、北条時宗が安達泰盛を奉行に任じて勧学院と勧修院の
二院を造営、僧侶の学道研鑽の道場となり、高野版の摺本を用いた
南山教学の中心地として栄えました。
安達泰盛は景盛の孫で、木版による仏教書である高野本の刊行を行い、
町石道には泰盛が建立した町石が現在も残されています。
また、後嵯峨上皇との親交が厚く、上皇が文永5年(1268)10月に出家して法皇となった後、
文永9年(1272)に崩御された翌年に高野山奥之院に法皇を追悼する石碑を建立しました。
勧学院は文保2年(1318)に後宇多法皇の院宣によって壇上伽藍に移建されました。
客殿及び庫裏は江戸時代に建立されたもので、国の重要文化財に指定されています。
次回は舞鶴の松尾寺から宮津の成相寺、そして加悦SL広場を巡ります。
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