舟廊下
都久夫須麻神社と宝厳寺の観音堂を結ぶ渡り廊下は「宝厳寺渡廊」と称され、
国の重要文化財に指定されています。
慶長8年(1603)に豊臣秀吉の御座船「日本丸」の用材を用いて建てたという
伝承から「舟廊下」とも呼ばれています。
観音堂
観音堂は現在、工事中で国宝の唐門や重要文化財の観音堂など、
全容を見ることはできませんでした。
戦国時代の永禄元年(1558)の大火で、都久夫須麻神社の本殿や観音堂が被災し、
現在の観音堂は慶長7年~8年(1602~1603)に、豊臣秀頼の命を受けた
片桐且元によって再建されました。
観音堂は傾城地に建てられた懸造(かけづくり)で、京都から移築された痕跡が残されています。
平面構造は、桁行五間、梁間四間でその外回りに縁が巡っています。
琵琶湖側の正面一間通りが外陣、奥四間通りが内陣で、
内陣の右手奥に本尊が安置されています。
折上格子天井には牡丹、菊、桐が描かれています。
賓頭盧尊者
賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)像は「なで仏」とも呼ばれ、まず像をなで、
その手で自身の患部を撫でると治癒するとの伝承があります。
宝厳寺の像は古いので、優しく撫でるようにと注意書きがしてあります。
極楽橋
唐門は豊国廟の唐門が移築され、土地の条件から観音堂に接して建てられています。
平成18年(2006)、オーストリアのエッゲンベルク城で豊臣期大坂図屏風が発見されました。
大坂城の本丸北側に極楽橋が描かれています。
唐門が付いたこの橋は慶長元年(1596)に建設されましたが、
唐門は慶長5年(1600)に豊国廟へ、慶長7年(1602)に現在地に移築されました。
本尊
書写山圓教寺の参道に祀られている宝厳寺の札所本尊
参拝する仏間は2階にあたり、西国三十三所観音霊場の本尊である鎌倉時代の
千手千眼観世音菩薩像が安置されていますが、秘仏とされ原則として
60年に一度開扉されます。(次回の御開扉は2037年)
像高約1.8mで等身大とされています。
千手にはそれぞれ一眼を持ち、全てを見渡し、どのような衆生をも漏らさず
救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しています。
修行大師像
唐門を出た左側には修行大師像が祀られています。
観音像
観音堂前の石段を上った左側にぼけ封じ、諸病封じの
「薬寿・観世音菩薩」像が祀られています。
三十三所堂
更に石段を上って進むと西国三十三所観世音奉安殿があります。
三十三所堂-堂内
堂内には霊場の各本尊が祀られています。
天狗堂
奉安殿の先、左側に行尋坊天狗堂があります。
行尋坊とは天狗の名前だったのでしょうか?
何か謂れがありそうですが、詳細は不明です。
妙音天堂
また、妙音天堂の小さな祠もあります。
妙音天女は、天界に住んで空中を飛翔し、妙なる楽器を奏て仏の功徳を讃える
菩薩形の天女だそうで、中国では弁才天、或いは同一視されているようです。
手水舎
奉安殿から進んだ先の右側に手水舎があります。
五重石塔
手水舎の左側に高さ247cmで鎌倉時代作の五重石塔があり、
国の重要文化財に指定されています。
全国で重文指定を受けている五重石塔は七基しか無く、その内の一基となります。
石材は比叡山中から採掘される小松石が使用され、
初重塔身の四方には四仏が配されています。
相輪は、豪雨による土砂崩れで埋没し、発見できなかったために
相輪の下部のみが後補となっています。
本堂
古来、都久夫須麻神社(竹生島神社)の本殿が、宝厳寺の本堂とされてきました。
しかし、明治の神仏分離令の際、弁財天社は平安時代の『延喜式』に見える
「都久夫須麻神社」という社名に変更することなりました。
宝厳寺は廃寺の危機を迎えましたが、寺側の「弁才天は仏教の仏である」との主張が通り、
寺と神社が分離することになりました。
本堂の建物のみが神社側に引き渡されたため、昭和17年(1974)に
平安時代様式で本堂が新築されました。
邪鬼
軒の四隅は邪鬼によって支えられています。

寺伝では、神亀元年(724)、聖武天皇の勅命を受け、僧・行基によって創建され、
弁才天を祀ったとされています。
第45代・聖武天皇は夢枕に立った天照大神より「江州の湖中に小島がある。
その島は弁才天の聖地であるから、寺院を建立せよ。すれば、国家泰平、五穀豊穣、
万民豊楽となるであろう」というお告げを受け、僧行基を勅使としてつかわし、
堂塔を開基させたと伝わります。
一方、承平元年(931)成立の『竹生島縁起』によれば、行基の来島は天平10年(738)で、
小堂を建て四天王を祀ったのが始まりとされています。
天平勝宝5年(753)、近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、
千手観音を造立して安置したとの記録が残されています。
当初は本業寺(ほんごうじ)、後に竹生島大神宮寺と称し、東大寺の支配下にありました。
平安時代前期に延暦寺の傘下に入り、天台寺院となりました。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となり、また、平安時代末期頃からは
観音と弁才天信仰の島として栄えたと記されています。

元亀2年9月12日(1571年9月30日)、織田信長は比叡山を焼き討ちし、ルイス・フロイスの
書簡には約1500人、『信長公記』には数千人の僧侶や僧兵、
坂本周辺に住んでいた住民たちまで殺害されました。
信長は宝厳寺には手を下さずに竹生島を安堵し、『信長公記』には
竹生島に参詣した記録が残されています。
現在は真言宗豊山派の寺院で、山号を巌金山(がんこんさん)と称します。

本尊の弁天像は江ノ島・宮島と並ぶ「日本三弁才天」の一尊で、
その中でも最も古い弁才天とされ、宝厳寺では「大弁才天」と称しています。
宝厳寺の創建時に行基が開眼したと伝わりますが、60年に一回開帳される秘仏で、
次回の開帳は西暦2037年になります。
内陣の厨子前には御前立の弁財天像が安置されています。
内陣には荒井寛方画伯により、正面には「諸天神の図」、
側面には「飛天の図」と呼ばれる壁画が描かれています。
弁才天像-右
弁才天像-左
また、堂内外陣の左右にも慶長10年(1605)作の夫婦の弁才天像が安置されています。
現在は毎年8月15日に、「蓮華会(れんげえ)」と呼ばれる
竹生島最大の行事が行われています。
昔は籤(くじ)で選ばれた二人の頭役(とうやく)が弁才天像を新造して、
それぞれの自宅で夫婦で祀り、8月15日に竹生島に奉納していました。
この夫婦の像はそのようにして奉納されたものと思われます。
現在は新造ではなく、宝厳寺から像を預かる方式に変更されているようです。

弁財天は、ヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティーが、仏教に取り込まれた呼び名で、
七福神で唯一の女神です。
女神にも拘らず、竹生島は明治までは女人禁制でした。
原語の「サラスヴァティー」はインドの聖なる河の名であったのですが、
河の守護神とされるようになりました。
水を神格化し、言語や音楽の神とされています。
経典に準拠した漢字表記は本来「弁才天」ですが、「才」が「財」の音に通じることから
「弁財天」と表記し、金運・財運の神としての性格が付与されました。
お願いだるま
奉納されている多数の達磨像は「お願いだるま」と呼ばれ、願い事を書いた紙を
達磨の中に封入して祀られています。

本殿の左手前に納経所があります。
宝厳寺は西国三十三所観音霊場・第30番及び神仏霊場・第138番他札所となっています。
三龍善神
納経所の奥、本殿の左側の奥に三龍善神が祀られた社殿があります。
「潤徳護法善神」、「福壽白如善神」、「徳澤惟馨善神」の三神が祀られていますが、
詳細は不明です。
不動三尊像
本殿の右前に不動明王と矜羯羅童子(こんがらどうじ)と制吒迦童子(せいたかどうじ)を
両脇に従えた三尊像が祀られています。
その右横には「竹生島棒術発祥の地」が建っています。
平安時代末期、大坂の難波平治光閑(なんば へいじみつのり)は、源平合戦に出陣しましたが、
戦いの最中に長刀の刃が折れ、棒の部分のみで戦いました。
光閑は更に創意工夫を重ね棒術の技を編み出し、
竹生島の弁才天にあやかり「竹生島流棒術」と名付けまし た。
蔵
三尊像の右側にある石段を上った所に土蔵があります。
経蔵でしょうか?
モチの木
蔵の右側にに片桐且元(かたぎり かつもと)が手植えしたとされている「モチの木」が
大きく枝を伸ばしています。
宝厳寺は中世以降、貞永元年(1232)、享徳3年(1454)、永禄元年(1558)などに大火が
ありましたが、その都度復興されてきました。
 永禄元年の大火後、慶長7年~8年(1602~1603)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて
伽藍を復興し、その記念樹として植えられました。
三重塔
モチの木の先に建つ三重塔は6年の歳月をかけて平成12年(2000)5月に再建されました。
正中3年(1326)の『竹生島勧進帳』などからその存在が確認できますが、
江戸時代初期に焼失したそうです。
雨宝童子堂
三重塔の奥に雨宝童子(うほうどうじ)堂がありますが、工事中だったため
平成29年(2017)10月8日参拝時の画像を使用します。
雨宝童子とは、天照大神が16歳のときに日向に降臨されたときの姿とされています。
また、天照大神の本地仏とされる大日如来の化身とする説もあります。
頭上に五輪塔を頂き、右手に宝棒(ほうぼう)、左手に宝珠を持つ童子形の神像で表されています。
宝物殿
三重塔の右側に宝物殿がありますが、船を一便遅らせたため、
昼食時間を取る必要から今回も入館を控えました。
鐘楼
三重塔前の石段は手水舎の横へと下り、そこからは港までの石段が続いています。
石段を下った左側に鐘楼があります。
護摩堂
右側の石段上には護摩堂があります。
月定院
護摩堂の左側に月定院があります。
本坊
鐘楼から石段を下った右側に本坊の玄関があります。
瑞祥水
玄関の南側に地下水「瑞祥水」の井戸があります。
深さ230m(湖底130m)より汲み上げられています。
宝厳寺鳥居
「瑞祥水」から下る石段には、神仏習合時代を思わせる宝厳寺の鳥居が建ち、
山号「巌金山(がんこんさん)」の扁額が掲げられています。
竹生島神社鳥居
更に石段を下ると都久夫須麻神社への参道と分かれる所に
都久夫須麻神社の鳥居が建っています。
しかし、都久夫須麻神社へ向かうには、鳥居をくぐらず、手前を右に進みます。
直正
港に到着すると、彦根港から出航した近江マリンの「直正」が入港していました。
インターラーケン
コンビニ弁当で昼食を済ませると、12:30発今津港行が入港し、
今津港まで戻って長命寺へ向かいます。
続く

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